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四条隆親と隆顕・二条との関係(その5)

2022-12-21 | 唯善と後深草院二条

京都では四条天皇の皇位を継ぐのは順徳院皇子だと考える人が大半で、親幕府派筆頭の西園寺公経すらそう予想していたにもかかわらず、何故か四条隆親は、鎌倉からの使者・安達義景が京都に到着する以前に、既に土御門院皇子に決定済みであることを知っていて、自邸「冷泉万里小路殿」を新帝の里内裏とすべく準備万端整えていた訳ですが、まあ、隆親の情報源は北条重時なんでしょうね。
寛喜二年(1230)以来、六波羅探題北方に在任していた重時は京都情勢を熟知しており、同母姉妹の竹殿の夫、土御門定通と相談の上、次の天皇は土御門院皇子にすべきだと判断し、鎌倉の泰時も間違いなく自分の判断を承認するだろうとの予測の下、新帝即位の準備の一環として隆親に里内裏の件を伝えていた、ということだろうと思います。

北条重時(1198-1261)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82
竹殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%AE%BF

隆親と足利能子の結婚時期ははっきりしませんが、「准北条一門」で鎌倉在住の能子と、富裕な四条家当主の隆親の結婚を仲介できる人は実際上相当限定され、それは重時と竹殿だろうと私は想像します。
そうであれば、足利能子が寛元元年(1243)に隆顕を生んで間もなく死去したにもかかわらず、隆親が坊門信家女が生んだ房名(1229-88)に替えて隆顕を嫡子とした理由も説明しやすくなります。
結婚に際しては、当然に能子が産むであろう男児を嫡子とすることが関係者間で了解されていたでしょうし、能子が死んだからといって隆顕を粗略に扱えば、結婚の仲介者である重時・竹殿の機嫌を損ねることになってしまいますからね。
とにかくこの結婚で、隆親は「准北条一門」と強い縁を結ぶことができた訳であり、それは後嵯峨親政・院政下での隆親の政治的立場を強固にすることに相当役だったものと私は考えます。
なお、足利義氏の娘の名前が何故に「能子」なのかという問題について、私はあれこれ考えてみたことがあります。
足利家の系図を見ても祖先や周囲に「能」の字の人がいないのですが、「義」と「能」は「よし」という読み方は共通です。
角田文衛氏が女性名の訓読みに執拗にこだわった点については、女性名は正式な書類に名前を記す必要が生じたときに父親の名前等から一字を取ってつけたものであって、実際にその名で呼ばれることなどないのだから読み方など気にする必要はない、という批判が有力であり、私もそれは正しいと思います。
しかし、実際に名前をつける必要が生じた場合、父の二字だけでは選択肢が限られ、娘が何人もいるような場合には不便ですから、読み方が同じの他の字をつける、ということも考えられるように思います。
久保田淳氏の研究によれば、後深草院二条の母の名前は「近子」らしいのですが、これも父・隆親の「親」と「近」が「ちか」と読む点で共通だからではないかと思います。
二条の母の場合、一番シンプルなのは「親子」ですが、後嵯峨天皇の周辺には、源通親の娘で「大納言二位」と呼ばれていた「親子」という女性もいたので、この人と名前が重なることを憚ったのかもしれません。

四条家歴代、そして隆親室「能子」と隆親女「近子」について
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b00ceaddfb29cda1d297e2865a68055a
「偏諱型」と「雅名型」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d68c12fe57fdb5c8b3cdd20e347f5cac
二人の「近子」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cab06b8079de0a02dcc067ca30d4c4bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/59c49697176f8ff9a16a3917041217e6

また、久保田氏は二条の「母方の祖母権大納言」が足利能子であり、二条の母「近子」と隆顕が同腹とされています。
『尊卑分脈』に「女子 従三位」とある女性が『天祚礼祀職掌録』に出てくる「近子」と思われますが、「近子」は寛元四年(1246)の後深草天皇即位式に褰帳なので、少なくともこの時点で十代後半にはなっているはずです。
とすると、「近子」は房名と同腹と考えるのが自然です。
房名と同腹であれば、「近子」の父はパッとしない経歴であっても、祖父(実は曽祖父)の忠信は権大納言ですから、「近子」の女房名が「権大納言」というのは極めて自然ですね。
他方、足利義氏の周辺には「権大納言」の官職を得た人がいるはずもありません。
ということで、久保田氏の見解とは異なり、隆親娘の「大納言典侍」=「近子」は坊門信家の娘と考えるべきです。

二人の「近子」(その3)(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f2a26745f54da5d6e93f44843e49ad
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/482deb8d7d6f9bb02e583f66a0804c6b

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