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後深草天皇と西園寺公子の年齢差(その1)

2018-01-14 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月14日(日)17時39分28秒

「巻六 おりゐる雲」の冒頭、西園寺公子(東二条院、1232-1304)が後深草天皇(1243-1304)に女御として入内する場面は、天皇の婚姻という非常に目出度い行事であるにもかかわらず、最初に「女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかるためしは数多侍るべし」と冷ややかな指摘があります。
そして、「女御はいとはづかしく、似げなき事に思いたれば」と公子が年齢差を非常に気にしていたらしいことを紹介した上で、「上は十四になり給ふに、女御は廿五にぞおはしける」と具体的な年齢差が十一であることを示し、その後も言葉は丁寧ですが、『増鏡』作者が両者の年齢差に執拗に拘っていることを感じさせる記述が続きます。
そして『増鏡』が資料として用いていることが明らかな『五代帝王物語』を見ると、『増鏡』には反映されていない若干の情報があります。(『群書類従・第三輯』、p442以下)

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 さて主上は建長五年正月三日御元服あり。女御は大宮院の御妹まいらせ給ふ。もとは大宮院に候はせ給て御熊野詣の時も御参ありしを、円明寺殿を婿にとるべしとて、日限まで定りたりけるを、院の御計ひにて俄にまいらせ給へば、引かへ目出度事にてぞ有ける。康元元年十一月に女御にまいりて、同二年二月に立后あり。御年ははるかの御姉にてぞおはします。
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『五代帝王物語』には後嵯峨院が熊野に建長二年(1250)と建長七年(1255)の二度行ったことが書かれていて、『増鏡』には具体的な年次は欠くものの、二度目には大宮院も参加したことが書かれています。

「巻五 内野の雪」(その14)─後嵯峨院、熊野御幸
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5235d0371ca183ba79a3cba9248d51b

公子はもともと姉の大宮院の御所に伺候していて、建長七年(1255)の熊野御幸にも一緒に行った訳ですね。
そしてその後に「円明寺殿を婿にとるべしとて、日限まで定りたりける」と続きます。
「円明寺殿」とは九条道家(1193-1252)の息子の一条実経(1223-84)のことで、西園寺公子より九歳上ですが、まあ、家柄といい年齢といい、普通なら確かにお似合いの組み合わせと言えそうです。
しかし、この時期の九条家関係者はなかなか厳しい状況に置かれています。
即ち、寛元四年(1246)の宮騒動の影響で、翌寛元五年一月、一条実経は摂政辞職を強要され、以降、九条道家と幕府の関係は悪化の一途を辿り、建長三年(1251)十二月、鎌倉で了行法師らの謀叛計画が露顕し、翌年二月、五代将軍・九条頼嗣(1239-56)の更迭を知らせる使者が入京すると、その翌日に九条道家は急死してしまいます。
このような九条家の事情を考えると、仮に一条実経と西園寺公子と結婚話があったとしても、それは一条実経が摂政を辞する寛元五年(1247)一月十九日以前、一条実経が二十五歳、西園寺公子が十六歳以前の出来事だったのではなかろうかと思われます。
ただ、西園寺公子が「円明寺殿を婿にとる」とあるので、あるいは鎌倉との関係が悪化して弱体化した一条実経の立場を西園寺家が保護するような関係だったとすると、建長七年(1255)以降の可能性も皆無とは言えないのかもしれません。
いずれにせよ、「院の御計ひにて俄にまいらせ給へば」ということで、日時まで決まっていたという西園寺公子と一条実経との婚姻は後嵯峨院の意向で止めさせられ、公子は急遽、十一歳差の後深草天皇に入内することが決まった、というのが『五代帝王物語』の説明ですね。

「巻五 内野の雪」(その8)─一条実経
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6eefe42b09da7e9263e62382e0f9c056

さて、更なる問題は次の部分です。

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御姨にて入内し給事、先例多く侍るにや。神武天皇の后蹈鞴五十鈴姫は事代主神の大女、綏靖天皇の御母也。綏靖天皇の后も同く事代神の乙女五十鈴依姫即ち安寧天皇の御母也。又文武天皇の后夫人藤原の宮子は淡海公の御女、聖武天皇の御母也。聖武の后は光明皇后。これも淡海公の御女、孝謙天皇の御母也。是等を始として一条院の后上東門院は御堂関白の御女、後一条御朱雀二代の母后也。後一条后中宮威子は御堂の御女、御朱雀院の女御尚侍嬉子も同御堂の御女、後冷泉院の御母なり。かやうの例に至までためし多く侍る。代々の佳例に任て参り給ふ。
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『増鏡』に「かかるためしは数多侍るべし」とあった具体例が『五代帝王物語』に出てくるのですが、それは何と神武天皇まで遡る話なんですね。
これをどう考えるべきなのか。
長くなったので、いったんここで切ります。

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