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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)

2022-05-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月13日(金)12時16分1秒

投稿を一日休んでしまいましたが、昨日は今谷明氏の『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』(ミネルヴァ書房、2003)を読んでいました。

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両統迭立という政争に深入りしたため佐渡配流に遭ったと考えられてきた京極為兼。本書では、その失脚の経緯を新たな視点から解明するとともに、歌人としてはもちろん、政治家としても優れていた為兼の人物像に迫る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b48497.html

同書は確か「ミネルヴァ日本評伝選」の最初の一冊だったと思いますが、その刊行直後に小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)が発表され、今谷新説の根幹部分があっさり撃破されてしまいました。
そのため、同書は全体的に学問的価値に乏しいエッセイ風の読み物と思われてしまったようで、きちんとした書評も出なかったようです。
というか、かく言う私自身もそう思っていて、小川論文が出た後、書店で同書を手に取って、一応の内容をざっと確認しただけで、購入もしませんでした。
今回、初めて同書をきちんと読み、小川論文と比較してみた結果、小川氏も今谷新説を完全に論破した訳ではなく、今谷氏の見解にはなお参考にすべき点が多々あるように感じました。
そこで、「京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係」シリーズをいったん中断して、今谷著の検討を行いたいと思います。
まず、今谷氏の問題意識を確認するため、「はしがき」から少し引用します。
「はしがき」の冒頭には、

  沈み果つる入り日のきはに現れぬ
     霞める山のなほ奥の峰

という為兼の歌が掲げられ、「私と為兼の出会いについて追憶を辿ることをお許し願いたい」として中学生の今谷氏がこの歌に「電気を受けたような衝撃をおぼえ」て以降の青春の思い出が書かれていますが、省略します。

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 その後、四十余年という長い歳月が経った。私は歴史学を専攻することになり、それも日本中世史が分野であったから、為兼に再接近する機会はいくらでもあったのだが、縁がなかった。元来、室町の政治史を専攻とする私が為兼伝を執筆する必然性は全く無いのである。どうしてそうなったのか。その事情を以下に記してみる。私は十年程前から、義満の宮廷改革のことを調べたのを機縁に、天皇制や王権の問題に興味を持ち続けてきた。数年前、小学館の幹部のお声掛かりで、同社発行の教育誌『創造の世界』(季刊)に「王権の日本史」と題する天皇制度史を連載する仕儀となり、その十何回目かで、鎌倉後期の皇統の分裂事情を概説する「両統の迭立」なる原稿を執筆した。そこで、何十年ぶりかで京極為兼に再会することになったのである。
 拙稿「両統の迭立」でとり上げた為兼は、歌人としての彼ではなく、伏見天皇の権臣としての、政治家為兼であった。
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いったん、ここで切ります。
私は旧サイトの「参考文献」に『創造の世界』第105号(1998)から「正応の『大逆』事件 (3)変後の処分と後深草法皇」を入れておきましたが、

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 次に注目すべきは、後深草の思惑をはるかに超える強硬な大覚寺統弾圧を主張した西園寺公衡の存在である。次項でとりあげる京極為兼もそうであるが、当時は公卿界も両派に分れ、天皇家以上に深刻な対立をくりひろげていた。これは相手方の統派を打倒することによって、大きな権益がころがり込んでくる公卿界の構造を象徴するものである。こうして、各公卿が幕府と結託して相手方を出し抜こうと虎視眈々の争いが続くことになる。

http://web.archive.org/web/20090101153751/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-hengonoshobun.htm

ということで、引用したのは京極為兼が登場する直前までです。
なお、「参考文献」には「両統の迭立」の「1 分裂の発端」も入れておきました。

http://web.archive.org/web/20061006194606/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imatani-ryotonoteturitu-01.htm

また、第106号で今谷氏は『増鏡』の作者について論じておられます。

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 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢-作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢27・29輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去(こうきょ)記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
 さらに元亨四年(1324)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(1344)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
 このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm

ただ、今谷氏の応援にもかかわらず、「若き国文学者田中隆裕氏」の洞院公賢説は学界で全く支持を得られないまま四十年近い歳月が流れました。
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