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「細胞」国家

2021-11-21 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月21日(日)11時12分58秒

>筆綾丸さん
>ぺ・ド・ノンヌ(尼の屁)国家なども有力な候補

中澤氏の論文は研究史の整理がどうにも恣意的な感じで、特に「礫岩国家論」がジョン・エリオット卿の「複合王政論」と本当につながるのかを確かめたいのですが、『溶岩のようなヨーロッパ』を入手するまでは判断材料がないので何とも言えません。
また、二宮宏之が優秀な研究者であったことは確かですが、「その史学史上の世界的意義は極めて大きい」(「国民国家論以後の国家史/社会史研究」、p84)といった中澤氏の持ち上げ方はいくら何でも大袈裟で、二宮の真価を理解できるのは俺だけだ、俺こそが二宮の正当な後継者だ、みたいな、要するに自分の偉大さを強調するために二宮を利用しているような感じがなきにしもあらずですね。
ま、これももう少し勉強しないと結論は出せず、結果的に私が中澤氏の偉大さを理解できていなかっただけ、ということになるかもしれませんが。

二宮宏之(1932-2006)

それにしても「礫岩国家」という譬喩はあんまりですよねー。
自分をウェーバー並みの知識人と錯覚した田舎大学の偏屈教授が、近所の海岸で拾ってきた石にインスピレーションを得て思いついた趣味の悪いネーミングじゃなかろか、と想像してしまいます。
「可塑性」・「可変性」が顕著で、「組替」・「離脱」・「変形」・「解体」にふさわしい「動態的」概念であるならば、本当はマシュマロよりも更に良い譬喩があって、それは「細胞」です。
ただ、「細胞」だと国家有機体説の亡霊あたりも召喚しそうですね。
また、「戦後歴史学」の歴史を辿ると、「細胞」には極めて特殊な意味合いがあったので、歴史学研究会の若き指導者である中澤氏にはマシュマロ以上に受け入れてもらえなさそうです。

『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について
高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その2)
「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」(by 伊藤隆)
網野善彦を探して(その4)─犬丸義一「私の戦後と歴史学」
網野善彦を探して(その7)─「父は倒産し、送金はゼロとなり」(by 犬丸義一)
網野善彦を探して(その8)─『一・九会文集』
網野善彦を探して(その10)─「細胞解散で時間的余裕がうまれ」(by 犬丸義一)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ぺ・ド・ノンヌ国家」2021/11/20(土) 15:19:25

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%8C
小太郎さん
語呂はよくありませんが、ぺ・ド・ノンヌ(尼の屁)国家なども有力な候補になるかと思います。ただ、これは揚げ物なので、若干の可塑性と可変性はあるものの、組替と離脱ができないのがタマにキズです。

本郷氏の本を読み始めましたが、変幻自在、もう円熟の境地で、高級落語のような味わいもあります。僭越ながら、これほどのものを書けるのは、現在、本郷氏だけだと思います。
呉座氏の本は、頼朝と義時というタイトルなのに、なぜ、表紙には北条氏の紋しかないのか、違和感を覚えます。三つ鱗の紋だけなら、頼朝は余分だろう、と。また、この紋を知らない人は、フリーメイソンのような秘密結社の話かな、と誤解するかもしれません。
『鎌倉殿の13人』は、三谷幸喜氏のことだから、人数がひとり合わないものの、最後の晩餐(キリストと12使徒)のパロディとか、時政が比企氏を騙し討ちするのは13日の金曜日とか、いろいろな仕掛けをするのではあるまいか、などと楽しみにしています。

追記
本郷氏も、「義時は・・・比企の乱の後に彼女(姫の前)と離縁しています」(『北条氏の時代』129頁)と書いています。また、承久の乱の戦後処理の法的分析はしていません。
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