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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その1)

2021-11-16 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月16日(火)09時05分25秒

丸島和洋氏は「礫岩のような国家」論に「提示されている問題意識は、日本の戦国大名研究の有する問題点を的確に突いている」とされますが、丸島氏が「複合国家」でも「複合王政」でもなく、「礫岩国家」に特に関心を持たれているのは、「礫岩国家」が「国家の「解体」を視野に入れた考察を行い、動態的な国家論を提示」(中澤)していることが理由みたいですね。
『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017)の「第七章 武田氏の滅亡─戦国大名の本質」は、武田勝頼が国衆に見放されて戦国大名「国家」が「解体」された典型例ですから、「礫岩国家」論から示唆を得た点があったのかもしれません。
ただ、国家の「解体」を視野に入れると、「礫岩」という譬喩の不自然さが一層際立って来るようにも見えます。
いったん形成された「礫岩」は非常に固く、簡単に「解体」できるようなものではないですからね。
ところで、中澤達哉氏の「礫岩国家」論は『現代史研究』59号(現代史研究会、 2013)所収の「ネイション・ナショナリズム研究の今後」にもう少し詳しく展開されており、これはネットで読めます。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

冒頭から少し引用すると、

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問題設定―ネイション・ナショナリズム研究と歴史学

 1980 年代以降のネイション・ナショナリズム研究は,近代論(Modernization theory)と原初論(Primordialism theory)ないしはエスノ象徴主義(Ethnosymbolism)という図式のもとで論争が繰り広げられ,文化人類学・社会人類学・民族学・政治学・社会学・歴史学の領域を超えて世界レベルで深化するに至った(1)。近代論系構築主義の文化研究には,カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズも加わり,国民史研究の論壇はいっそう活況を呈した(2)。しかし現在では,こうした盛況もいささか昔日のものとなった。グローバル化の時代には帝国論や越境的な地域論こそ論じられるべき喫緊の課題であって,国民国家やナショナリズムに関してはもはやそうした要請はないというような言論も現れはじめている。この論争自体 1980-90 年代に特有の現象であったと認識されるようにもなっている。しかし,なによりも注視しなければならないのは,原初論・近代論ともに理論的な限界が指摘されはじめていることである。実のところ,歴史的文脈にかかわりなく前近代に近代国民のエスニックな起源を措定してしまう原初論の非歴史性は批判されて久しい。とりわけ歴史学では,原初論系本質主義に対する批判は,近代論系構築主義に立脚しながら国民史批判として展開されてきた。1990 年代にはこの文脈に立つ国民史批判は内外で一種の流行とまでなったが,今日ではむしろ当の近代論もまた,原初論と同様,方法論上深刻な岐路に立たされているといっても過言ではない。
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とのことですが、カルスタやポスコロの流行も、本当に昔話になってしまいましたね。

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 さて,近代論系構築主義が批判を余儀なくされる背景には,近年の歴史学における巨大な地殻変動がある。一つには(論理的には原初論と近代論のいずれをも批判の俎上に載せることになるが)1960 年代後半からの後期産業社会に対応して現れたポストモダニズムによる変動が挙げられる。ポストモダニズムはあらゆる価値判断を拒否し,歴史記述の不可能性さえ主張するに至った(3)。この現象は広くは,近代国家のみならず,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などに対する近代的諸価値への信仰が幻想へと変わり,完全に衰退したことと軌を一にしていた。近代国民国家の正統化のために体制化された近代歴史学も,必然的に変容を迫られ,批判の対象となったわけである。こうして歴史学が認識論的な基盤からその存在意義を疑われはじめた結果,一切の歴史構想力は主観的なものとみなされ,その当然の帰結として価値相対主義を招来する事態となった。確かに,近代国民概念やナショナリズムの構築性を解明する際に,ポストモダニズムから派生したカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズは有効な手立てとなる。しかし,ポストモダニズムでは,それを論究する研究者自身の言説を有意味的に位置づけられない。このようにして,国民史も国民史批判もともに認識のうえで客観性のない言説と化すわけである。この点に無自覚で無邪気な国民史批判は今も多いが,逆にこれに自覚的となった場合,効果的な国民史批判は論理的にはいっさい不可能となってしまう。それゆえに現在では,価値相対主義をアプリオリに歴史学と分離する認識の仕方も提示されている(4)。本稿もその提言を受け入れることとし,認識論上の客観性を担保することにしたい。
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「近年の歴史学における巨大な地殻変動」とありますが、中澤氏がずいぶん地学が好きなようですね。
「ポストモダニズムはあらゆる価値判断を拒否し,歴史記述の不可能性さえ主張するに至った」、「この現象は広くは,近代国家のみならず,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などに対する近代的諸価値への信仰が幻想へと変わり,完全に衰退したことと軌を一にしていた」といった表現も、古い流行歌を聞くような懐かしさを覚えます。
さて、「それゆえに現在では,価値相対主義をアプリオリに歴史学と分離する認識の仕方も提示されている(4)」とあったので、これはどんなにすごい論文かと思ったら、

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(4) 成田龍一・小沢弘明・戸邉秀明「戦後日本の歴史学の流れ―史学史の語り直しのために」『思想』第 1048号(2011 年8月号),39-40 頁
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とのことです。
うーむ。
注(3)までは洋風の名前がずらずら並んでいるので、ここももう少し洋風の名前が出てもよさそうな感じですが、何故か純和風ですね。
この論文は未読ですが、私は昔から成田龍一氏にあまり良い印象を持っていないので、正直、さほど期待できないように感じます。
ただ、読まずに決めつけることもできないので、ヒマが出来たら一応読んでみようかなとは思います。

成田龍一氏に学ぶ司会術
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58dbe02102c2e2d1d6f38558148e2eb3
"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective"
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/004380f8b55273c44fda54f1ed010caf
謎の発言者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/49abeef872d2d1ab33e564049d792de3
日米の盆栽愛好者たち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/103a07f60ba8bf777792886be7d72d70
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