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櫻井彦氏『信濃国の南北朝内乱』について

2021-12-14 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年12月14日(火)11時48分56秒

私も中世史は掲示板でひと休みすることにしただけで、来年に備えてストレッチ程度の勉強は続けるつもりです。
そして、その手始めに先日購入した櫻井彦氏(宮内庁書陵部図書課主任研究官)の『信濃国の南北朝内乱 悪党と八〇年のカオス』(吉川弘文館、2021)を読み始めたところですが、この本はちょっと問題がありますね。

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一般に約60年続いたといわれる南北朝内乱だが、西国と東国の境界である信濃国は終息までさらに20年を費やした。自らの権益を主張するため幕府や領主へ武力行使し、地域社会のなかでも軋轢を生じさせた悪党たちが全国各地に展開した時代。しかし、信濃国では様相をやや異にしていた。当地の地域集団の行動に光をあて、内乱長期化の要因に迫る。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590523.html

「歴史文化ライブラリー」シリーズは何故かきちんとした章立てをしないので全体の構成を把握するのに不便ですが、最初にびっくりしたのは実質的な第二章「悪党たちの胎動」の実質的な第一節「鎌倉幕府の成長と北条氏」に出て来た次の文章です。(p58以下)

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乱後の変化
 承久の乱に勝利した幕府は、東国御家人の全国的な展開によって生じた諸問題など、新たに抱えることになった多くの課題に対応する必要があった。そのため京都の治安維持を名目として朝廷の動きを警戒するために設置した六波羅探題には、合わせて西国の訴訟も処理させた。また頼朝以来の慣習法や判例に則った成文法「御成敗式目(貞永式目)」を貞永元年(一二三二)に整備し、御家人に関係する裁判などの基準としている。
 一方で、朝廷がこのときの敗北で蒙ったもっとも大きな代償は、皇位継承に関して幕府の意向が働くようになったことであろう。幕府は挙兵前に即位していた仲恭天皇を廃し、比較的穏健な態度を示していた土御門上皇の皇子から、邦仁親王を皇位に即けた(後嵯峨天皇)。これ以後、皇位継承に幕府が関与していくことになり、のちに南北朝内乱がはじまる一因ともなったのである。
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うーむ。
承久の乱後に「挙兵前に即位していた仲恭天皇」に代わって幕府が皇位に就けたのは後堀河天皇ですね。

後堀河天皇(1212-34)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A0%80%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

「皇位継承に関して幕府の意向が働くようになった」のは承久三年(1221)の後堀河践祚が初例ですが、その二十一年後の仁治三年(1242)、後堀河を継いだ四条天皇(1231-42)が僅か十二歳で急死してしまいます。
この年の正月五日、四条天皇は近習や女房を転倒させて笑おうと思って弘御所の板敷に蝋石の粉を巻いたところ、自分が転んでしまって頭を打ち、そのまま寝込んで四日後の九日に死んでしまったとのことで、歴代天皇の中でもこれほど情けない死に方をした人は珍しいですね。

「巻四 三神山」(その3)─四条天皇崩御
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ca597edec3cd8bc67c6d4495b5080308

そして、誰が皇位を継ぐかが問題となり、九条道家らを中心とする朝廷側の大勢は順徳院皇子の忠成王を即位させるべく準備していたところ、幕府が強引に「比較的穏健な態度を示していた土御門上皇の皇子から、邦仁親王を皇位に即けた」訳です。

「巻四 三神山」(その4)─安達義景と土御門定通
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c9b7d4f4b0df1e7801da6e5240cea61

まあ、この件は壮大なうっかりミスで済みますが、楠木正成の出自については洒落にならないですね。
実質的な第三章「建武政権の成立と崩壊」の実質的な第一節「討幕運動のなかの悪党たち」に次のような記述があります。(p95以下)

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楠木氏の活動
 そして河内国を拠点とする楠木氏の活動の痕跡が確認できる事件として、正成と後醍醐の出会いから四〇年近くさかのぼった永仁二年(一二九四)に、播磨国大部荘(兵庫県小野市)で発生した悪党事件がある。翌年荘内の百姓たちが提出した申状(上申書)によれば、荘園管理を請け負っていた垂水繁昌は、荘園領主東大寺との契約を違えて職務を解かれると、武装して数百人の悪党たちを引き連れて荘内に乱入したという。
【中略】
 正成の父は、猿楽能を確立したとされる観阿弥とも関係を有していたらしい。観阿弥は、伊賀国服部郷(三重県伊賀市)を本拠とする御家人服部氏の一族とされている。そして、その出自にかかわる伝承を比較的正確に反映させた系図とされる上嶋家本「観世系図」によれば、観阿弥の母は「河内国玉櫛庄橘入道正遠女」という。正遠は正成の父と伝えられ、正成の父は河内国玉櫛荘(東大阪市)を拠点として、伊賀国の人物とも交流していたことになる。摂関家領であった玉櫛荘は水陸交通の要衝とされており、そこを拠点とした正遠自身も、流通にかかわる人物として、垂水繁昌の「夫駄」挑発に協力した可能性があるだろう。
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うーむ。
現在では上島家の「伊賀観世系譜」は楠木氏の「出自にかかわる伝承を比較的正確に反映させた系図」ではなくて、偽系図であることがはっきりしていますね。
この偽系図は多くの小説家や評論家、著名な経済人(鹿島守之助)のみならず、あの平泉澄まで騙しているのですが、最近では梅原猛氏が引っかかって、『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』(角川学芸出版、2009)という本を書いています。
この本は「梅原古代学」の駄目な部分を圧縮したような本ですが、従来の「伊賀観世系譜」肯定説のエッセンスを分かりやすく纏めていることは確かで、随想に止めていればそれほど問題はなかったはずです。
しかし、梅原氏は能楽研究の第一人者である表章(おもて・あきら)氏を無駄に挑発してしまって、表氏が『昭和の創作「伊賀観世系譜」 梅原猛の挑発に応えて』(ぺりかん社、2010)という本で猛烈に反撃し、梅原説を完膚なきまでに叩き潰して、結局、梅原氏は一言も反論できないまま、この「論争」は終息しました。
まあ、「伊賀観世系譜」はあまりに出来過ぎだったので、国文学系の能楽研究者のみならず、多くの歴史研究者も疑いの目で見ていたのですが、表章氏が偽造の経緯や偽造者まで特定してしまった結果、既に学問的には決着のついた問題となっています。
私としては、まさか2021年になって「伊賀観世系譜」を信頼する歴史研究者に出会うとは思ってもいませんでした。
しかも、櫻井氏の書きぶりでは櫻井氏は梅原・表「論争」の存在すら御存知ないようで、何ともはや、という感じです。

「伊賀観世系譜」の「創作」者は何者だったのか。(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cdbad3f93fa3f5722cf1eae1bfe8658b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c288301182464126539ff91d96e50b
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6d8f4d0a022bbfe9f7ab5f350b79b1fe
六月半ばのプチ整理(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c367f7c2594448830631d8939c361cd
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