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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その4)

2021-11-17 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月17日(水)11時32分0秒

中澤達哉氏の論文など全然読んだことはありませんでしたが、近時の業績を確認しようと思って歴史学研究会編『第4次 現代歴史学の成果と課題 第2巻 世界史像の再構成』(績文堂出版、2017)を見たら、中澤氏の「国民国家論以後の国家史/社会史研究─構築主義の動態化/歴史化にむけて」という論文は「ネイション・ナショナリズム研究の今後」の焼き直しですね。

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 1980年代以来の認識論的な問いの現在と新自由主義という時代状況の現出を踏まえ、歴史学の方法、歴史像、歴史実践を中心軸に、歴史学の現在とその課題を照射する第4次『現代歴史学の成果と課題』。
3巻構成により、それぞれの歴史学をとりまく状況と方法、時間と空間の再編成による歴史像のあり方、歴史家の実践的行為全般に光をあて、歴史学の存在意義を問う。

 第2巻 世界史像の再構成

構築主義をめぐる議論の地平を超え
新たな能動的歴史像を目指して
秩序形成/解体の過程を再考する
歴史研究の多様な試みに光をあてる

http://www.sekibundo.net/new/new36.html

歴史学研究会の人たちって、昔から「地平を超え」るのが大好きで、この種のタイトルの本が多いですね。
ま、それはともかく、「ネイション・ナショナリズム研究の今後」(『現代史研究』59号、2013)よりは、この焼き直し論文、中澤氏自身の表現では「同じ趣旨のもとに執筆したフォーラム向けの研究動向〔中澤二〇一三〕に、大幅な加筆・修正を施した別論文」の方が分かりやすいですね。
些末な例を挙げれば、前回投稿で指摘した、

「しかし日欧間の大きな相違は二点ある。第一にアナール派以前のヨーロッパには日本的な戦後歴史学が存在しなかったこと」

は、

「しかし、日欧間の相違は二点ある。第一にアナール派前後のヨーロッパには日本型の戦後歴史学は存在しなかった」

と修正されていて、「以前」から「前後」へ、「日本的な」から「日本型の」となっています。
日本語としては多少まともになりましたが、当たり前といえば当たり前で、わざわざ書くのはやはり奇妙な感じですね。
さて、今さら「大幅な加筆・修正を施した別論文」に切り替えるのも面倒なので、とりあえずは「ネイション・ナショナリズム研究の今後」の検討を続け、その後で、必要があれば補足的に「別論文」も少し検討することにしたいと思います。
ということで、続きです。(p40以下)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

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 さて,ここからは「複合国家」「複合王政」論そのものの検証に入ろう。「複合国家」とは,イギリスの歴史家ケーニヒスバーガが 1975 年に提唱した国家概念である。彼によれば,近世の国家は中央集権的で画一的な国家ではなく,①複合的な国家形態,②代議制機関(身分制議会)などの中世以来の国家・政治形態を保存した国家であった。つまり君主は国家全体を絶対主義的に統治できないのであり,支配下のさまざまな地域との「交渉」「妥協」「調停」を通じて緩やかに統治していたと論じた(17)。この状態を表す概念として,ケーニヒスバーガが多用した史料用語が dominium politicum et regale(諸身分と王の統治)であった(18)。ケーニヒスバーガの見解は二宮が 1979 年に「フランス絶対王政の統治構造」で提示した国家構造・統治構造の論点と驚くほど類似することが分かるだろう。
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私は「ケーニヒスバーガ」の名前も知りませんでしたが、ウィキペディアで Helmut Koenigsberger の経歴を見たら、なかなか波瀾万丈の人生ですね。

Helmut Koenigsberger(1918-2014)
https://en.wikipedia.org/wiki/Helmut_Koenigsberger

出身はベルリンで、父は有名な建築家、母はノーベル物理学賞を受賞したマックス・ボルン(1882-1970)の姉妹だそうですから、経済的にも知的な面でも恵まれた環境の中で育ったのでしょうね。
ただ、ルター派キリスト教徒の家庭だったにもかかわらず、ナチスによってユダヤ人に分類されてしまったため、ドイツからイギリスに逃れることになります。
そしてケンブリッジのゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで歴史を学び、学士号を得て卒業するも、 1940年5月2日、英国政府によって敵性外国人と認定され、ホワイト島、ついでカナダの収容所に送られてしまいます。
カナダにいる間、「もし彼がユダヤ教徒だったら、彼を助けるのはもっと簡単だろう」との説明を受け、ユダヤ人団体は「ユダヤ教に改宗する」場合にのみ彼に援助すると申し出たとのことなので、普通のユダヤ人にも増して不条理な世界を生きた訳ですね。
八か月の抑留後、英国に戻ることを許されますが、 ケンブリッジ大学は、彼が抑留されていなければ得られたであろう「double first class honours degree」ではなく「war degree」を与えたとのことなので、細かい事情は分かりませんが、不条理は続きます。
そして帰化の申請が早く認められるように1944年7月に英国海軍に入りますが、その際にドイツ風の名前の改名を求められ、「ヒラリー・ジョージ・キングズレー」となります。
海軍では暗号解読などの仕事をし、戦争が終わると連合国の軍政機関に勤めるためドイツに戻ることを希望しますが、結局、イギリスに復員し、昔の名前に戻ってケンブリッジ大学に復学します。
ま、さすがにこの後は学者としての平穏な生活だったのでしょうね。
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