学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

網野善彦を探して(その10)─「細胞解散で時間的余裕がうまれ」(by 犬丸義一)

2019-01-21 | 「五〇年問題」と網野善彦・犬丸義一
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 1月21日(月)11時49分54秒

1950年1月にコミンフォルムの野坂参三批判があり、共産党はその批判に反論した徳田球一・野坂参三・志田重男・伊藤律らの「所感派」(主流派)と、その批判を受け入れた志賀義雄・宮本顕治らの「国際派」に分裂します。
同年6月にレッドパージが始まり、「所感派」の徳田・野坂らは中国に密航して「北京機関」を作り、志田らは国内の「地下指導部」となります。
学生運動はどうかというと、東大の場合、学生の間では圧倒的に「国際派」が多く、犬丸もその一人ですが、50年3月に卒業した網野は「所感派」ですね。
東大の影響を受けた関東の大学は「国際派」が多かったものの、早稲田大学は「所感派」「国際派」の対立のみならず、「国際派」の中の更なる分派も入り乱れていたそうです。
他方、京大を中心とする関西は「所感派」が圧倒的に強かったそうですね。
今西一氏らの努力で集められた回想録を見ても、地域によって事情は様々で、当時の関係者にとってもなかなか分りにくい混乱状況が続いたようですね。
しかし、国内ではスッタモンダがあったにしても、翌51年8月にコミンフォルム(=スターリン)の再度の裁定が下って、「国際派」は解散してしまいます。
つまり、「国際派」「所感派」の抗争期間は僅か一年半程度ですが、志田らの「地下指導部」は「武力闘争」路線を維持し、混乱は長引いて1955年の「六全協」まで続く訳ですね。

「六全協」(日本共産党第6回全国協議会)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A

さて、犬丸義一「私の戦後と歴史学」(『年報・日本現代史第8号 戦後日本の民衆意識と知識人』、現代史料出版、2002)に戻って、続きです。(p256以下)

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 八月にコミンフォルムの再論評があり、下旬に埼玉大学で細胞解散総会が開かれる。国際権威主義だから、誤ったものでも国際的決定には従わなくてはというものから様々であった。今は詳論しないことにする。ただ『理論戦線』第一・二号(五一年三・六月)掲載の吉川圭次郎(力石定一)論文は、当時の戦後国家権力の分析、高度資本主義の従属問題、従属国のブルジョワ権力など当時の理論的到達点を示していた。この戦後史の分析には意見を求められ討論した覚えがある。そして、講和・独立闘争は平和的大衆闘争で可能であるというのは彼の創見であった、と考えており、山田宗睦批判で援用したことがあるものだった。これは軍事路線、武装闘争路線批判の歴史的傑作であった、といえよう。後出の吉川論文の理論分析を基礎に現代史研究に史料を使って分析・叙述したものに服部幸雄(松本貞雄)「八・一五和平運動の展開─日本独占ブルジョワジーの役割を中心として」(『歴史評論』五一年九月)がある。歴史学の戦後ブルジョワジー権力説の最初の論文である。
 この細胞解散で時間的余裕がうまれ、卒業論文執筆の時間がうまれた。
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ということで、犬丸の力石定一への評価は極めて高いですね。
ちょっと分からないのは「後出の吉川論文の理論分析を基礎に」云々という表現で、この後を見ても「『理論戦線』第一・二号(五一年三・六月)掲載の吉川圭次郎(力石定一)論文」以外の「吉川論文」は出て来ないので、「前出」の誤りみたいですね。
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