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「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その6)

2018-03-16 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月16日(金)13時31分13秒

ここ暫く金沢貞顕の周辺を見て来ましたが、これは小川剛生氏が『兼好法師』において、ある古文書に登場する「小林の女房」が兼好の母ではなかろうかと推定されているのを見て、この「小林」が『とはずがたり』に登場する後深草院二条の乳母の母、「宣陽門院の伊予殿」が住む「伏見の小林」と結びつくのではないか、と思ったのが発端です。
今までの検討で、金沢北条家が早歌という芸能の草創・発展に極めて重要な貢献をしたこと、「源氏」「源氏恋」という早歌を作詞作曲した「或女房」=「白拍子三条」は後深草院二条の隠れ名の可能性が高いこと、後深草院二条は早歌「袖余波」「明王徳」の作詞者でもある若き日の金沢貞顕(1278-1333)と面識があった可能性が高いことは、ある程度説得的に論証できたのではないかと思います。
そして、金沢貞顕に親しく仕えていた兼好は、後深草院二条の存在を知っていたと推定されます。
ただ、それ以上に兼好と後深草院二条の間に人的つながりがあったかについては、今のところ「伏見の小林」以外の手掛りはないのですが、『日本歴史地名大系27 京都市の地名』(平凡社)や『角川日本地名大辞典26 京都府』、『平安時代史事典』(角川書店)等を見ても、「伏見の小林」についての記述はありません。
また、後深草院二条の傅(めのと、乳母の夫)は小野宮実頼の子孫の藤原仲綱という人物なのですが、『尊卑分脈』を見ても仲綱の息子の仲光・仲兼・仲秀・仲頼には母親の記載がなく、今のところ乳母の出自は不明です。
そこで、この関係の検討は暫く休んで、再び『増鏡』の原文を読み進めて行こうと思います。
『とはずがたり』の諸問題の検討を先行させることも考えましたが、『とはずがたり』は『増鏡』に膨大な分量で引用されているので、『増鏡』の検討に際して随時『とはずがたり』も参照することにします。

「小林の女房」と「宣陽門院の伊予殿」(その1)~( その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1f10322cc7ebe53e562e3ab38c0d6a5d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2232c8d85546a8eedeb2b26d79a0d1e7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/812300a147aea9cb5f760c2d0b02c991
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a3e5fd3f9025de85df9bca99a9db52bb
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a6dd5400cf3558146b3121ae16bb3953

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