学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その3)

2023-05-23 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

私は今まで流布本を何回か通読していますが、三浦泰村の乳母子だという小河太郎については特に注目したことがありませんでした。
流布本の宇治川合戦は、鎌倉方の行動が描かれた後、

(1)京方の「右衛門佐朝俊」エピソード
(2)京方の「金黒」武者と小河太郎・平間太郎エピソード
(3)京方の「佐々木太郎左衛門尉氏綱」エピソード
(4)京方の「萩野次郎」と「中条次郎左衛門尉」エピソード
(5)京方の「奈良法師覚心」エピソード
(6)京方の「熊野法師田部法印」と「子息千王禅師」の父子エピソード

と京方公家・武士・僧兵の六つのエピソードが連続した後、「去程に京方の軍破ければ、皆々落行所を……」と京方の総崩れの様子が描かれます。
ついで北条泰時が深草河原に陣を取り、藤原秀康・三浦胤義・山田重忠が後鳥羽院に敗北を報告に行ったら「武士共は是より何方へも落行」けと言われたという展開となり、以後は敗戦後の混乱と戦後処理の話となってしまいます。
小河太郎が関わる(1)・(2)もこうした六連続京方エピソードの一部であり、これら全体の前後により重要な場面が多々ありますから、それほど目立ちもせず、今まで注目した研究者もあまりいないように思います。
しかし、(1)・(2)は、『平家物語』の「忠教(忠度)最期」と照らし合わせてみると、様々な要素がそっくりで、何とも不思議な話ですね。
(1)で「是は駿河殿の手者」と言った者について、私はまさか藤原朝俊が駿河殿(三浦義村)の「手者」のはずはないから、これは謎の第三者が言ったのだろうと解釈しましたが、文章を素直に読めば、唐突に第三者が登場するより、藤原朝俊がそう言ったと解釈する方が遥かに自然です。
とすると、(1)は「駿河次郎手の者、小河太郎」程度の雑兵を相手にしたくないと思った朝俊が、その場しのぎに適当についた嘘を、小河があっさり信じて逃がしてしまった、という話となり、小河の愚かさを笑っているようです。
そう考えると、(2)の名前も分からない「金黒」武士が「打笑」って登場した点も、あるいは藤原朝俊と小河太郎のやり取りを見ていて、小河は馬鹿だなあと笑っていたのではなかろうか、などとも思えてきます。
また、(2)では、小河太郎が甲を打たれてボーっとしている間に「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎」が「金黒」武士の首を取ったものの、小河が「駿河次郎の手の者」であることを知って返してくれたのにもかかわらず、小河は首の受け取りを拒否します。
小河は誰が首を取ったのかも分からないような体たらくだったのですから、客観的には「金黒」武士を討ち取ったのは平間太郎の功績ですが、首の受け取りを拒否した小河が潔よく平間の功績を認めたのかと思いきや、小河は後日の論功行賞の場でネチネチと文句をつけ、結局は「平間太郎が僻事也、小河が高名にぞ成りける」という結果を得ます。
しかし、はたして流布本の作者は小河の行為を高く評価しているのか。
私には、屁理屈を並べたてて何とか「高名」を勝ち取った小河を、流布本作者は小賢しくて卑怯な人間だなと薄く笑っているように思われます。
このように考えると、宇治橋の場面や渡河の場面を含め、小河は流布本作者に、一貫して莫迦だなと笑われている存在のように思われてきますが、果たして何故に小河はこのような人物として描かれているのか。
流布本作者は小河と直接の面識があり、小河の愚行を記録に残しておきたいと思ったのか。
それとも、流布本作者は小河程度の下っ端には特に興味がなく、小河のような愚かな側近を持っていた三浦泰村を批判し、笑いたかったけれども、泰村自身を直接の対象とするのは色々と差支えがあったので、小河を笑うことによって泰村、ひいては三浦一族への軽蔑を表現したかったのか。
小河に比べれば、小河を「駿河次郎の手の者」と知って「金黒」武者の首を返そうとした「武蔵太郎殿の手者」平間太郎は、政治的配慮のできる優秀な人物であり、小河は平間太郎の引き立て役になっています。
また、宇治川渡河の場面では、小河の愚かなアドバイスに従って直ちに渡河を決断しなかった三浦泰村は北条時氏の引き立て役です。

流布本も読んでみる。(その40)─「殿は日本一の不覚仁や」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c3c0d630affce86087ce36c3fd193bba
そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d2ca32711f396cb77748e3d132da7be8

更に遡れば、同母弟・胤義からの手紙を直ちに北条義時に提出し、義時から「さては御辺の手にこそ懸り進らせ候はんずらめ」との際どい冗談を言われて、平伏して義時への忠誠を誓った三浦義村も、偉大な指導者である北条義時の引き立て役のようです。

流布本も読んでみる。(その11)─「さては御辺の手に社〔こそ〕懸り進らせ候はんずらめ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb8174293efd36308a8538be3489afe3

このように、小河太郎エピソードを手掛かりに流布本における三浦一族の位置づけを再考してみると、流布本作者は一貫して三浦義村一族を北条義時一族の引き立て役として描いているようです。
そして、流布本作者は内心では三浦義村一族を深く軽蔑しつつも、その軽蔑をあまりあからさまに表現しないように工夫しているように思われるのですが、この点は流布本を最後まで読んだ後、改めて検討することとします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« そこはかとなく奇妙な「小河... | トップ | 流布本も読んでみる。(その4... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事