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そこはかとなく奇妙な「小河太郎」エピソード(その2)

2023-05-22 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

薩摩守忠教(忠度)は平清盛(1118-81)の弟ですが、年齢は二十六歳も違い、清盛の子の世代の人ですね。

平忠度(1144-84)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%BA%A6

『平家物語』巻九の「忠教(忠度)最期」について拙訳を試みると、

(1)薩摩守忠教は、一の谷の西手の大将軍であり、紺地の錦の直垂に黒糸縅の鎧をまとい、逞しい黒い馬に、沃懸地の鞍を置いて乗っておられた。
(2)一の谷の敗北後、忠教は百騎ほどの中に混じって、大人しく、目立たぬようにして落ちて行ったが、猪俣党の「岡辺の六野太忠純」が、これは大将軍だろうと「目をかけ」、追いつき、「貴殿は何者か。名乗り給え」 と言うと、振り返って「是はみかたぞ」と答えたが、その兜の中の顔を見れば「かねぐろ也」。
(3)六野太は、「なんと、「みかた」には「かねぐろ」をしている者などいない、平家の公達でいらっしゃるのだな」と思って、馬を押し並べて組み合った。
(4)これを見ていた百騎ばかりの勢は諸国からかり集められた武者なので、薩摩守とともに留まる者は一騎もなく、我先にと落ちて行った。
(5)薩摩守は、「憎い奴だな。自分が味方だと言っているのだから、そのまま言わせておけばよかろうに」と思い、熊野育ちの大力で、早業の武者であったから、一瞬で太刀を抜き、六野太を馬の上で二刀、馬から落ちたところで一刀、合計三刀まで斬り付けた。
(6)しかし、二刀は鎧の上であるので通らず、一刀は兜の内側の顔面に突き入れたけれども、傷は浅くて死ななかったので、薩摩守は六野太を取って押さえて頸を切ろうとしたところ、「六野太の童」(若い従者)が遅ればせながら飛んできて、打ち刀を抜き、忠教の右腕を、肘の上から「ふつと」と切り落とした。
(7)薩摩守は、もはやこれまで、と思われたのか、「暫くどいておれ、十念を唱えん」と言って、六野太を掴んで弓の長さほど放り投げた。
(8)その後、西に向かい、高声に十念を唱え、「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と言おうとしたが、言いも終わらうちに六野太が後ろから近づいて、忠教の首を切った。
(9)六野太は、良い大将軍を討ったものだ、と思ったけれども、名前を知らなかったので、箙に結びつけられた文を解いて見たところ、「旅宿花」という題で一首の歌が詠まれており、「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし 忠度」とあったので、薩摩守と知ることができた。
(10)六野太は薩摩守の首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を上げて、「日頃から平家の御方にその人ありと聞こえた薩摩守殿を、 岡部の六野太忠純が討ち奉ったぞ」と名乗りを上げると、敵も味方もこれを聞いて、「なんと気の毒な。武芸にも歌道にも達者であった方を。惜しむべき大将軍を」と言って、涙を流し、袖を濡らさぬ人はいなかった。

となりますが、このエピソードは流布本で「小河太郎」が関わった二つのエピソード、即ち藤原朝俊エピソードと、もう一人の名前も分からない貴人武者(と「平馬太郎」)のエピソードと良く似ています。
即ち、まず、藤原朝俊エピソードは、

(ⅰ)京方に立派な鎧を身にまとい、素晴らしい馬に乗った「上﨟」で、いかにも「宗徒の人」のように見える武者が登場。
(ⅱ)その武者は、「自分は右衛門佐朝俊で、御方が敗色濃いので討死しようと思っている。我と思わん人々、朝俊を討ち取れ」と叫んで駆け出てきた。
(ⅲ)「駿河次郎の手の者、小河太郎」は、良い敵だと「目を懸けて」朝俊に近づいたところ、第三者が「是は駿河殿(三浦義村)の手の者」と言って、小河を押しのけて(朝俊との間を)通ったので、小河は「三浦勢にはそんな人は見た覚えがない」と思ったけれども、「御方」と名乗られた以上は仕方ないと思って通してしまい、朝俊も見逃してしまった。
(ⅳ)その後、朝俊は、良い敵と組みたいものだと思って大勢の敵の中に懸け入り、切り廻ったけれども、大将と思われるような者もいなかったので、移動しようとしたところ、大勢は逃がすものかと取り囲み、遂に組み落とされて討ち取られた。

と展開し、ついで名前も分からない貴人武者のエピソードでは、

(ⅴ)京方から立派な鎧を身にまとい、素晴らしい馬に乗り、「長覆輪の太刀」を帯いた者が登場。
(ⅵ)笑みを浮かべたその口元を見ると、「金黒也」。
(ⅶ)小河太郎が馬を寄せ、その男と並んだ瞬間、男は「抜打」で、小河の「甲の真甲」に打ちかかり、小河は目が眩んだけれども、何とか取り付いて、二人の乗っていた馬の間に落ちた。
(ⅷ)そこに「武蔵太郎殿手の者、伊豆国住人平馬太郎」が男の上にのしかかって首を取った。
(ⅸ)小河が正気に戻ってから見ると、自分が組み合った敵の首が無い。
(ⅹ)小河が「如何なる者が人の組み合った敵の首を取ったのだ」と叫ぶと、「武蔵太郎殿の手者、伊豆国住人、平馬太郎という者です。あなたはどなたですか」と答える。
(ⅺ)小河が「駿河次郎の手の者、小河太郎経村」と名乗ると、平馬太郎は「それならば」と言って首を返した。しかし、小河はこれを受け取らなかった。

となります。
流布本の藤原朝俊エピソードでは朝俊は自分の名前を最初から名乗り(ⅱ)、謎の第三者が登場しますが(ⅲ)、この人物の「是は駿河殿(三浦義村)の手の者」という発言は、『平家物語』「忠教最後」の忠教の「是はみかたぞ」(3)と同じです。
そして、『平家物語』では忠教は「かねくろ也」(2)、流布本の謎の第三者は「金黒也」(ⅵ)とされていて、当該人物の一番の特徴が一致しています。
更に忠教と謎の第三者は、その貴族的な風貌にもかかわらず武芸の達人で、「岡辺の六野太忠純」は忠教に一方的に攻められて、頸を取られる寸前、「六野太の童」の助太刀で何とか命拾いします(6)。
また、「小河太郎」は謎の第三者に「抜打」で「甲の真甲」を打たれ、目が眩んでしまい(ⅶ)、正気に戻ったら謎の第三者の首を誰か(「平馬太郎」)に取られてしまったことにやっと気づくような体たらくで(ⅸ)、「平馬太郎」が登場しなかったら謎の第三者に殺されていた可能性が高そうです。
このように考えると、仮に流布本の朝俊が最初から名乗らず、朝俊自身が「是は駿河殿(三浦義村)の手の者」と言ったのならば、流布本の二つのエピソードと『平家物語』の「忠教最期」は殆ど同じストーリーになりますね。
両者は明らかに何らかの関係を持っているように思われますが、では、どちらのストーリーが先行し、後続のストーリーに影響を与えたのか。
杉山次子氏のように、流布本の成立を(一般に十四世紀初頭の成立と考えられている)『吾妻鏡』より更に後と考える立場の研究者は、『平家物語』の「忠教最期」を知った流布本作者が朝俊と謎の貴人武者エピソードを創作したと考えるのかもしれません。
しかし、『平家物語』が極めて洗練された一貫したストーリーになっているのに対し、流布本の方は二つのエピソードに分れ、謎の第三者が登場して極めて分かりにくく、特に関連性のない別々のエピソードのようにも見えます。
まあ、私としては流布本のあまり洗練されていないエピソードを素材に、『平家物語』の「忠教最期」が創作されたのではないかと考えます。

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