学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

流布本も読んでみる。(その40)─「殿は日本一の不覚仁や」

2023-05-19 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『吾妻鏡』との比較は後でまとめて行うこととし、まずは流布本の宇治川合戦を読み進めて行きます。
北条泰時と「春日刑部三郎」の場面の後、「駿河次郎」(三浦泰村)と「武蔵太郎」(北条時氏)のエピソードが続きます。(『新訂承久記』、p116以下)

-------
 駿河次郎同渡んとす。武蔵守、「如何に、泰時と一所にてこそと契〔ちぎり〕給しに、渡さんとは仕〔し〕給ふぞ」と宣ける上、乳母子〔めのとご〕の小河太郎、「守殿〔かうのとの〕の御供申んとて、父の供をもせさせ給はぬに、兎も角も成せ御座〔ましま〕さん様にこそ随ひ候はめ」と申ければ、理に伏し、扣〔ひかへ〕て不被渡。旗差〔はたさし〕・手者共、少々打入て渡けるが、流るゝ者も多かり。
 武蔵太郎殿は其も渡さんとて、河端へ被進けるを、「如何に泰時を捨んとはせらるゝ哉覧〔やらん〕。一所にてこそ兎も角も成給はめ」と宣ひければ力不及して留りけり。去共〔されども〕猶渡さんとて、河端へ被進けるを、小熊太郎取付て、「殿は日本一の不覚仁や。大将軍の身として、如何なる謀をも運〔めぐら〕し、兵に軍をさせ、打勝むとこそ可被為〔せらるべき〕に、是程人毎〔ごと〕に流死る河水に向て、御命を失せ給ては、何の高名か可候」とて、馬の七付〔みづつき〕に取付けるに、「只放せ」とて、策〔むち〕にて臂〔ひぢ〕を健〔したた〕かに被打ければ、「左有〔さら〕ば」とて放しける。其時、武蔵太郎颯と落す。関判官代実忠、同渡しけり。小熊太郎も渡す。三騎無煩〔わづらひなく〕向の岸に著にけり。茲に万年九郎秀幸は、真先に渡したるぞと覚敷〔おぼしく〕て、向様にぞ出来たる。武蔵太郎、是を御覧じて、「汝が只今参たるこそ、日比〔ひごろ〕の千騎万騎が心地すれ」と宣ける。
-------

【私訳】「駿河次郎」(三浦泰村)が渡河しようとすると、「武蔵守」泰時は「泰時と一緒にいると約束されたのに、何故渡ろうとされるのか」とおっしゃり、乳母子の「小河太郎」も、「武蔵守殿のお供をすると言って、父のお供をしなかったのですから、ここは武蔵守殿のご判断に従うべきではありませんか」と言うので、その道理に屈して、渡るのを控えた。
旗差(大将の旗を馬に乗りながら持つ侍)その他の者、若干名が渡河を試みたが、流される者も多かった。
「武蔵太郎殿」(北条時氏、泰時息)も渡河しようとして、川岸に進んだところ、泰時が「どうして父を捨てようとされるのか。一緒にいてくれ」とおっしゃったので、(一旦は)力及ばずに留まった。
しかし、やはり渡河しようとして、(再び)川岸に進んだところ、「小熊太郎」がすがりついて、「殿は日本一の馬鹿者だ。大将軍なのだから、謀をめぐらして配下を戦わせ、勝利を導くようにされるべきなのに、これほど流れ死ぬ者が多い場所で、お命を失われることになっては、いったい何の名誉と言えますか」といって、馬の「七寸」(みづつき)に取りついた。
時氏が「放せ」と言って鞭で「小熊太郎」の肘を強く打つと、「それでは」と言って「小熊太郎」が手を離したので、その瞬間、時氏はサッと川に入った。
「関判官代実忠」も同じく川に入り、「小熊太郎」もこれに続いた。
三騎は無事に対岸に着いた。
そこに「万年九郎秀幸」が、真っ先に渡河したらしく、向こうからやってきた。
時氏は万年を御覧になって、「お前が唯今参ったことは、千騎万騎が来たように頼もしく思うぞ」とおっしゃった。

ということで、北条泰時と「春日刑部三郎」の話に続いて、何だか同じようなエピソードが合計三つ連続します。
「小河太郎」の「守殿の御供申んとて、父の供をもせさせ給はぬに」云々は、三浦泰村と父・義村とのやり取りを受けてのものです。

(その33)─「如何に親の供をせじと云ふぞ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4a24d6b60603e0b9524e3ca7ed53ebe0

「小熊太郎」の「武蔵太郎殿」(北条時氏)に対する発言は「殿は日本一の不覚仁や」で始まるのでちょっと吃驚しますが、「大将軍の身として、如何なる謀をも運し、兵に軍をさせ、打勝むとこそ可被為に」との主張はまっとうなもので、時氏が「理に伏」してもおかしくはありません。
しかし、泰時と三浦泰村が渡河しなかったのに、いったんは泰時の命令に従って渡河を中止していた時氏は、「小熊太郎」の制止を拒否して渡河を断行します。
このあたり、いささか奇妙なのは、泰時は最初は自殺志願のように描かれ、その後も二十一歳下の三浦泰村に、自分と一緒にいると約束したではないか、と言い、息子の時氏には、どうして父を捨てるのか、などと言って、ずいぶんと女々しい、情けない人物に造型されている点です。
他方、渡河を断行した時氏は、この後も「樫尾三郎景高」の窮地を救うなど、男らしい立派な武者として描かれますが、この泰時・時氏の対比は、『吾妻鏡』に親しんでいる読者にはかなり意外な印象を与えるのではないかと思われます。
何故なら、『吾妻鏡』六月十四日条に記された泰時は、

-------
【前略】武州招太郎時氏云。吾衆擬敗北。於今者。大将軍可死之時也。汝速渡河入軍陣。可捨命者。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と、時氏を呼んで、「鎌倉方が敗北しようとしている今、大将軍が死ぬべき時だ。お前は速やかに川を渡り、敵の陣中に入って命を捨てよ」と命ずる冷酷非情な総大将だからです。
果たして流布本の泰時と『吾妻鏡』の泰時のいずれが史実に近いのか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 流布本も読んでみる。(その3... | トップ | 流布本も読んでみる。(その4... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

長村祥知『中世公武関係と承久の乱』」カテゴリの最新記事