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征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その2)

2020-12-07 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 7日(月)11時31分22秒

護良親王についての最新の研究というと、やはり亀田俊和氏の『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)となりますが、護良親王に関しては信頼できる史料が本当に少なく、結局は『太平記』に頼らないと評伝が成立しないような印象を受けます。

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親王を倒幕へと駆り立てたものとは? 生死をかけたゲリラ戦――。 悲願成就ののち、新たに現れたライバル〝足利尊氏〟 父後醍醐との確執、尊氏への嫉妬の果てに 護良を待ち受ける、悲しい運命。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/325/

亀田氏の場合、『太平記』の利用は最小限にとどめたいという抑制的姿勢は伺われますが、佐藤進一氏の古典的業績『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1965)あたりを見ると、『太平記』べったりどころか、『太平記』の上に更に史料的根拠のない想像(妄想?)を付け加えているような感じもします。
ま、あまり先走らないで、まずは『太平記』の記述を確認しておきたいと思います。
亀田氏は流布本の後藤丹治・釜田喜三郎校注『日本古典文学大系34 太平記(一)』(岩波書店、1960)を利用され(p98)、佐藤氏も出典の明記はないものの、明らかに同書に依拠されていますが、ここでは西源院本を見ておきます。
第十二巻第九節「兵部卿親王流刑の事」の冒頭から少し引用します。(兵藤校注『太平記(二)』、p271)

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 兵部卿親王、天下の乱に向かふ程は、力なく御身の難を遁れんために御法体を替へらるるとも、四海すでに静謐せば、元の如く三千の貫長の位に還つて、仏法王法の紹隆を致させ給はんずるこそ仏意にも叶ひ、叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、「征夷将軍の位に備はつて、天下の武道を守るべし」とて、剛〔し〕ひて勅許を申されしかば、聖慮穏やかならざりしかども、御望みに任せて、ついに征夷将軍の宣旨を下されき。
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ということで、護良親王が後醍醐に強く征夷大将軍任官を望み、後醍醐は護良に押し切られて、やむなく任官の宣旨を下したというのが『太平記』のストーリーです。

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 かかりしかば、四海の倚頼〔いらい〕として、身を慎み、位を重くせらるべき御事なるに、心のままに侈〔おご〕りをきはめ、世の譏〔そし〕りを忘れて、淫楽をのみ事とし給ひしかば、天下の人、皆二度〔ふたたび〕(世の)危ふからん事を思へり。大乱の後は、弓矢を裹〔つつ〕み、干戈を袋にとこそ申すに、何の御用ともなきに、強弓射る者、大太刀仕ふ者とだに申せば、忠なきに厚恩を下されて、左右前後に仕承〔しじょう〕す。剰〔あまつさ〕へかやうの空がらくる者ども、夜ごとに京、白河を回りて辻切りをしける程に、路次に行き合ふ尼、法師、女、童部、ここかしこに切り倒されて、横死に合ふ者止む時なし。これもただ、足利治部大輔を討たんと思し召しけるゆゑに、兵を集め、武を習はされける御振る舞ひなり。
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ということで、『太平記』では護良は本当にろくでもない人間で、犯罪者集団の首領のように描かれています。

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 そもそも高氏卿、今までは随分忠ある仁にて、過分の僻事〔ひがごと〕ありとも聞こえざるに、何事によつて、兵部卿親王はこれ程に御憤りは深かりけるぞと、事の根元を尋ぬれば、去年の五月に、官軍六波羅を攻め落としたりし刻〔きざみ〕に、殿法印の手の者ども、京中の土倉どもを打ち破つて、財宝を運び取りける間、狼藉を静めんために、足利殿の方より、これを召し取つて、二十余人六条河原にて切つてぞ懸けられける。その高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者、在々所々に於て強盗を致す間、これを誅する所なり」とぞ書きたりける。殿法印、この事を聞いて、安からず心に思はれければ、様々に讒を構へ、方便〔てだて〕を廻らして、兵部卿親王にぞ訴へ申されける。かやうの事ども重畳して、上聞に達しければ、宮も憤り思し召して、信貴に御座ありし時より、高氏卿を討たばやと、連々に思し召し立ちけれども、勅許なかりしかば、かくて黙〔もだ〕し給ひけるが、なほも讒口〔ざんこう〕止まざりけん、内々隠密も儀を以て諸国へ令旨をなして、兵どもをぞ召されける。
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『太平記』の記述の特徴のひとつとして、時間の観念が適当であることが挙げられますが、このあたりも本当にいい加減ですね。
そもそも第十二巻の第七節「広有怪鳥を射る事」は冒頭に「元弘四年七月に、改元あつて建武に遷さる」とあって、いきなり改元の時期を半年ほど間違えています。
たまたま前回投稿で「元弘四年二月五日」付足利直義御教書に関連して述べたように、建武改元は正月二十九日ですね。
そして、この記述の後、年度が改まらないまま護良が征夷大将軍を望んだという話に移るので、『太平記』作者は護良の征夷大将軍任官が建武元年(1334)の出来事だとしているように見えますが、ここで「去年の五月に、官軍六波羅を攻め落としたりし刻に」とか、「信貴に御座ありし時より、高氏卿を討たばやと、連々に思し召し立ちけれども、勅許なかりしかば」といった話が出て来て、これらと征夷大将軍任官時期の関係もはっきりしません。
そして、史実では元弘三年(1333)九月ごろとされている征夷大将軍解任のことなど一切登場しないまま、逮捕・監禁の話に移って行きます。
従って、『太平記』を読んでいると護良は逮捕・監禁されるまでずっと征夷大将軍の地位を維持していたかのように思ってしまいますが、ただ、『太平記』では護良親王の肩書は終始一貫「兵部卿親王」であって、「将軍宮」といった表現はないですね。
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