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征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード

2020-12-16 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月16日(水)10時56分8秒

護良帰洛に関する『増鏡』と『太平記』の記事のどちらが信頼できるか、という問題ですが、答えは明らかですね。
私自身は『増鏡』の作者について独自の考え方をしていて、それは以前からこの掲示板を見ておられた方には聞き飽きたであろう話です。
ただ、『増鏡』の作者が誰であろうと、護良帰洛は『増鏡』全十七巻の大団円という重要な場面ですから、その日付をうっかり間違えることは考えにくく、意図的に改変する理由も考えにくいですね。
他方、『太平記』は諸本の間で護良帰洛の日付自体が大混乱の様相を呈しています。
そして古態を残す写本が六月十三日としているのに、比較的新しい写本が六月二十三日とする傾向がありますが、その理由も容易に想像できて、十三日では時間の流れが極めて不自然だから、後続の写本の筆者はこれは二十三日の誤記であろうと推定し、その推定に沿って他の日程も調整したのだろうと思われます。
以上の思考過程はおそらく『大日本史料 第六編之一』の編者である田中義成と同じであって、田中は元弘三年六月十三日条の冒頭に、

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是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a

と記し、根拠となる史料は最初に『増鏡』を引用して、その後に『太平記』とその諸本間の混乱を紹介しています。
佐藤進一氏が特に根拠も示さずに二十三日としていることは以前紹介しましたが、亀田俊和氏は、

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 清忠から護良の返答を聞いた後醍醐は困り果てた。倒幕の最大の功労者である尊氏を討つなど、狂気の沙汰としか言いようがない。結局、後醍醐は尊氏討伐を中止するよう息子を諭し、征夷大将軍に任命することでなだめた。
 これでようやく護良も信貴山を下山し、帰京した。その時期は諸説あるが、六月中であったことは確実である。『大日本史料』は、一三日の出来事としている。このときの護良の軍勢は非常に華美で豪勢だったようで(『増鏡』)、幕府打倒直後の彼の権勢を物語っている。
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とされていて(『征夷大将軍・護良親王』、p59)、非常に慎重な書き方ではあるものの、『大日本史料』の田中義成説が一番良さそうだと判断されているのではないかと思います。
さて、護良帰洛の日程が六月十三日で間違いないとすると、何故に『太平記』に護良が尊氏討伐と征夷大将軍任官を要求し、後醍醐が征夷大将軍任官のみを認めたというエピソードが入ったのか、という点が問題となります。
しかも、十三日帰洛とする西源院本等では、後続の諸本のように帰洛の日をずらせば直前の記述と自然につながるのに、敢えて変更していないように見えます。
時間の流れが変なのは西源院本等の筆者にとっても分かり切ったことなのに、何故にその部分を修正しなかったのか。
私はその理由を、当該エピソードの書き入れの要求(ないし命令)が、『太平記』作者圏の外部からあったからではないか、と考えます。
建武新政時には征夷大将軍という存在がけっこう軽いものだったのではないか、と想定する私の立場からすれば、それは征夷大将軍という存在が非常に重いものだと強調したい人物からの書き入れ要求(ないし命令)ということになります。
また、『太平記』において、二つの選択肢から後醍醐が一つを選ぶという「二者択一パターン」は護良親王バージョンだけではありません。
『太平記』第十三巻第七節「足利殿関東下向の事」では、建武二年(1335)八月、中先代の乱に対処するため尊氏が東国に下向するに際し、征夷大将軍への任官と「東八ヶ国の管領」を要求したのに後醍醐は後者のみを認め、征夷大将軍任官の代わりに「尊」の字を与えた、という「二者択一パターン」の足利尊氏バージョンがあります。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

この明らかに関連性を有する二つの「二者択一パターン」エピソードが強調したいのは、征夷大将軍という存在が極めて重いのだ、という認識です。
私は「二者択一パターン」エピソードは両方とも創作だと考えますが、では、誰がこの二つの創作エピソードを書き入れるように『太平記』作者圏の外部から要求(ないし命令)したのか。
ここで思い浮かぶのは、『難太平記』に記された足利直義による『太平記』への介入ですね。
法勝寺の恵鎮上人が『太平記』三十余巻を足利直義のもとに持参したので直義がこれを玄恵法印に読ませたところ、間違いが極めて多かったので大幅な書き入れと削除が必要だと判断し、それがなされるまでは公開を禁止した、という『太平記』研究者にとっては極めて有名な話です。

『難太平記』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/nantaiheiki/nantaiheiki07.html

従来、この話は、清く正しく美しい直義が荒唐無稽な『太平記』の記述に怒って、それを正しい記述に直そうとしたのだ、という具合いに受け取られてきたと思いますが、しかし、恵鎮上人は鎌倉幕府呪詛の祈祷をしたとして幕府から流罪に処せられたという経歴を持つ人物であり、政治権力との関係には慎重な配慮ができるはずの人ですから、明らかに変な書物を直義に見せて怒られた、というのもずいぶん妙な話です。
そこで、この話は、恵鎮上人にとって穏当な物語に思えた「原太平記」に対し、足利家の権力の正統性を確立しようと考えていた直義が、それにふさわしいエピソードを追加しろ、要するに歴史を偽造しろ、と要求した話と読めるのではないか、と私は考えます。
この点については、山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義 動乱のなかの権威確立』(山川日本史リブレット、2018)を参照しつつ、後で検討したいと思います。

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(「東京大学教員の著作を著者自らが語る広場」より)

共同統治の課題として、政権担当者としての正当性の確立という点に注目した。足利氏は、由緒正しい血筋とはいえ、鎌倉幕府のもとでは、御家人の一員に過ぎなかった。武家の棟梁、将軍としての地位を確立し、武家政権を担うべき存在と認知されるために、尊氏、直義、そして二人を支える人々は苦心したに違いない。
正当性を主張する根拠として、源氏の嫡流であること、すなわち頼朝の後継者であること、そして鎌倉時代の実権者である北条氏、さらには建武政権を担った後醍醐天皇の後継者であること、などが挙げられる。そこで、尊氏らが頼朝・北条氏・後醍醐天皇の追善 (死後仏事) を担い、後継者としての示威を行ったこと、尊氏は頼朝の後継者であるという主張が多様な場面でなされたこと、足利氏は源氏の嫡流であるという主張が、先祖からの伝承に仮託され、あるいは神仏の付託というかたちで、さまざまな言説として登場していたこと、などを分析している。

https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00246.html
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