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『古典の未来学』を読んでみた。(その4)

2020-12-19 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月19日(土)11時07分43秒

山田徹氏は学部・院が京大なので、亀田俊和氏の後輩ですね。
また、フェイスブックを見ると今年四十歳とのことなので、呉座勇一と同年の生まれですから「若手」と呼ぶのも些か微妙な年代ですね。

同志社大学・研究者データベース
https://kendb.doshisha.ac.jp/profile/ja.b77e0d3b307fad4f.html

ま、それはともかく、山田氏が問題とされている「観応二年七月の直義の越前没落を桃井直常の進言とする点」を『観応の擾乱』で確認すると、

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二度目の京都脱出
 ふと気づくと、尊氏─義詮父子はもちろん、尊氏派の諸将も大半が京都を出ていた。これは京都の直義を包囲して殲滅する尊氏の謀略である。そう解釈した直義は、桃井直常の進言に従って三〇日の深夜に京都を脱出して北陸へ向かった。
 これが、従来からの不動の定説である。しかし、これも果たして事実だったのであろうか。より正確に言えば、直義がそう解釈したのは確かだろうが、尊氏が本当に直義の包囲殲滅を意図していたのかは疑問が残る。
 すでに述べたように、赤松則祐と佐々木導誉の南朝寝返りはほぼ事実であったと考えられる。包囲殲滅作戦は直義の誤解であった可能性を排除できない。尊氏にとって、直義の京都脱出は予想外の出来事であったかもしれないのである。
【中略】
 八月六日までに直義は越前国敦賀へ到着し、金ヶ崎城へ入城した。一五年前に越前へ没落した新田義貞と、行動パターンがよく似ていることが指摘される。
 若狭は山名時氏、越前は斯波高経、越中は桃井直常、越後は上杉憲顕と、北陸は直義派の守護で占められており、信濃の諏訪氏や関東の上杉氏ともつながり、あるいは山陰の山名氏を介して九州の足利直冬とも連携が可能だった。こうした地理的特性が、直義が逃亡先に越前を選んだ理由だ。だが、これは直常が述べた意見で、直義自身の主体性は感じられない。
 尊氏・直義兄弟の和平はわずか五ヶ月で破綻し、観応の擾乱第二幕がはじまった。
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とのことで(p147~149)、確かに「桃井直常の進言に従って」、「これは直常が述べた意見で」とありますが、これらも大きな流れの中のごく一部で、「従来からの不動の定説」を踏まえた叙述でもあります。
さて、ここで『太平記』を確認すると、西源院本の巻三十第五節「高倉殿京都退去の事」に、

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 観応二年七月晦日に、石塔入道、桃井右馬権守直常二人、高倉殿へ参つて申しけるは、「仁木、細川、土岐、佐々木、皆己れが国々へ逃げ下つて、謀叛を起こし候ふなる。これもいかさま、将軍の御意を請け候ふか、宰相中将殿の御教書を以て勢を催すかにてぞ候ふらん。また、赤松律師が大塔の若宮を申し下して、宮方を仕ると聞こえ候ふも、実は、事を宮方に寄せて勢を催して後、宰相中将殿へ参らんとぞ存じ候ふらん。御勢も少なく、御用意も無沙汰にて都に御座候はん事は、いかがとこそ存じ候へ。ただ今夜〔こよい〕夜にに紛れ、小竹峯越に北国の方へ御下り候ひて、木目、荒血の中山を差し塞がれ候はば、越前に修理大夫高経、加賀に富樫介、能登に吉見、信濃に諏訪下宮の祝部、皆二心なき御方にて候へば、この国々へいかなる敵か足をも踏み入れ候ふべき。甲斐国と越中とは、われらすでに分国にて相交はる敵候はねば、かたがた御心安かるべきにて候。先づ北国へ御下り候ひて、東国、西国へ御教書を成し下され候はんに、誰か応じ申さぬ者候ふべき」と、また予儀もなく申しければ、禅門、少しの思案もなく、「さらば、やがて下るべし」とて、取る物も取りあへず、御前にあり合うたる人々ばかりを召し具して、七月晦日の夜半ばかりに、小竹峯越に落ち給ふ。騒がしかりし有様なり。
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とあって(兵藤校注『太平記(五)』、p40以下)、西源院本では北陸下向は石塔義房・桃井直常の二人の進言によるとしていますね。
亀田氏の『観応の擾乱』と比較すると、確かに『観応の擾乱』は『太平記』とよく似た話の流れになっていますが、しかし、それは亀田氏が『太平記』以外の史料を見ずに『太平記』べったりで書いたからではありません。
亀田氏が、『太平記』の当該記述が大枠では他の史料と矛盾しないことを確認の上でこのように書いたであろうことは、『観応の擾乱』の他の記述から容易に想像できます。
西源院本が石塔義房・桃井直常の二人の進言によるとしている点は少し気になるので、念のため後で他の諸本を確認したいと思いますが、まあ、それにしても誰の進言で直義が北陸に下向したかはそれほどたいした問題ではないように思われます。
このテーマで大論文を書こうと思う人もいないのではないでしょうか。
山田氏も、別にこの点で亀田氏が「「太平記史観」にとらわれている」と非難している訳ではなく、「直接的には『太平記』の内容を出典とするものではないかと思われるが、『太平記』の記述とは明示されていない」ことを問題としているだけですね。
換言すれば、山田氏の言う「南北朝史に『太平記』の影響がいまだに強く残っている」とは、谷口氏の「「太平記史観」にとらわれている」と同義ではなく、「『太平記』が紡ぎ出す物語・視座(物の見方・『太平記』的な見方)」といった大袈裟な話以外に、個々の小さな事実の認定についても『太平記』の影響がみられることを含んでいる訳です。
まあ、それはある程度仕方ない話で、着到状・軍忠状・感状といった古文書には残りにくい軍事関係の動きというのは多々ある訳ですから、特に疑う理由もなければ、『太平記』のような軍記物語を参考にしても別におかしくはないですね。
この点、谷口氏が第四節で六番目に引用する市沢哲氏の「十四世紀内乱を考えるために」(悪党研究会編『南北朝の「内乱」』岩田書院、2018)の記述が参考になります。(p700)

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 『太平記』を内乱史研究の史料としてどう活用するのかという問題がある。最近、『太平記』が固有の歴史観(「太平記史観」)をもっていることを強調する傾向がある。確かに『太平記』は客観的叙述で貫かれている史料ではなく、扱いに慎重さが必要である。しかし、十四世紀内乱を考える上で、『太平記』は古文書・古記録等の文字資料にはない二つの特徴的な記述を持っている。ひとつは、合戦の道具、施設、人々の行動上の決まり事など、「あたりまえ」であるが故に一般の一次史料には残りにくい具体的な身辺雑事とでもいうべき記述である。今ひとつは、軍忠状に見られるようなある個人を通じて見える合戦とは異なる、俯瞰的に合戦全体を見る記述である。俯瞰的叙述については、一次史料の裏付けをとることが難しいものが多く、取り扱いに注意は必要であるが、合戦の展開過程がどのように理解されていたのかを考える上で他にない手がかりとなる。このように、『太平記』の記述は、内乱、合戦のダイナミズムの研究にとって貴重な史料といえる。
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「観応二年七月の直義の越前没落」が誰の進言に基づいていたのかは「「あたりまえ」であるが故に一般の一次史料には残りにくい具体的な身辺雑事」ではなく、どちらかというと「俯瞰的に合戦全体を見る記述」に近い性質の問題ですが、こういう問題を一次史料だけで論ぜよ、『太平記』は使うな、と言われたら大半の歴史研究者は困惑せざるをえないでしょうね。
谷口氏は、市沢氏の上記見解に対し、

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 市沢は南北朝期研究をリードしてきた学者の一人で、多方面の研究者と『太平記を読む 』(吉川弘文館、二〇〇八年)を編んだ先駆者であり、その意見は重く、実際、筆者も共感するところは多いのだが、他方、バイアスがかかりやすい部分とそうでない部分を慎重に腑分けすることなど可能か、換言すれば、事実と虚構を容易に弁別しうるのか、気になる。
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という感想を述べていますが(p701)、「太平記史観」の「剔抉」が自己目的化しているような感じがします。
「太平記史観」批判は歴史の真実を明らかにするための手段であって、決して歴史研究者の目的ではないですね。
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