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護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その2)

2020-12-14 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月14日(月)10時52分3秒

前回投稿で引用した部分ですが、護良は、

(1)足利高氏が「わづかに一戦の功を以て、その志を万人の上に立てんと」しているので、高氏の勢力が微弱なうちにこれを討伐しておかなければ北条高時以上の悪しき存在となってしまうから、自分は兵を集めているのだ。
(2)天下無事になったように見えるけれども、逆徒の味方は隠れて新たな機会を狙っているに違いない。上に威厳がなければ、下は必ず暴慢の心を起こす。従って、今は文武両道を、ともに用いて治めなければならない時代である。こうした時代に、もし自分が再び僧侶に戻り、武備を捨てたならば、いったい誰が武力で朝廷を守ることができるのか。自分が比叡山に戻って一門跡を守るのと、「幕府の上将に居して」遠く天下を静めるのと、「国家の用」としてはどちらが良いであろうか。答えは明らかで、自分は僧侶に戻るつもりはない。
(3)高氏討伐と、自分を「幕府の上将」、即ち征夷大将軍に任ずることの二つについて、速やかに勅許を下されるよう奏聞してくれ。

と返事をして坊門清忠を帰したということですね。
「幕府の上将」という表現が出てきますが、ここでの「幕府」は将軍の陣営、「柳営」と同じ意味であり、統治機構としての「幕府」ではありません。
ただ、この後の後醍醐の対応を見れば、「幕府の上将」が征夷大将軍を意味していることは明らかです。
ということで、続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p216以下)

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 清忠帰参して、この由を奏聞しければ、主上、具〔つぶさ〕聞こし召して、「大樹の位に居して、武備の守りを全くせん事は、げにも朝家のために、人の嘲りを忘れたるに似たり。高氏誅罰の事は、かれが不忠それ何事ぞや。天下の士卒、太平の後〔のち〕なほ恐懼の心を抱けり。もし罪なきに罰を行ひなば、諸卒豈〔あ〕に安堵の思ひをなさんや。しかれば、大樹の任に於ては子細あるべからず。高氏追罰の事に至つては、堅くその企てを留むべし」と聖断あつて、征夷将軍の宣旨をぞなされける。
 これによつて、宮の御憤りも散じけるにや、六月六日、信貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じ一三日、御入洛あり。
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「大樹」は征夷大将軍のことですね。
護良の二つの要求に対し、後醍醐は「高氏追罰」は峻拒したものの、征夷大将軍任官は認めます。
「大樹の位に居して、武備の守りを全くせん事は、げにも朝家のために、人の嘲りを忘れたるに似たり」ですから、ここに描かれた後醍醐も決して征夷大将軍を単なる名誉職、ないし鎌倉時代の親王将軍のような形式的存在ではなく、現実に武力を掌握した存在と考えていることは明らかです。
ただ、それが史実かどうかは別問題ですね。
さて、征夷大将軍になったので、護良の憤りも和らいで入洛したという展開ですが、ここで極めて奇妙なのは帰洛が十三日となっていることです。
少し前に「同じき十三日、御入洛あるべしと定められたりしが、その事となく延引あつて、諸国の兵を召され、楯をはがせ、鏃を砥いで、合戦の御用意ありと聞こえしかば」と書いてあったのですから、坊門清忠を介しての交渉で何日か経過して、十三日から「延引」して入洛するのかと思いきや、「六月六日、信貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じ一三日、御入洛あり」とはどういうことなのか。
『太平記』における時間の流れが無茶苦茶であることは既に何度も指摘していますが、それは年表と照らし合わせてみれば変だということで、『太平記』を普通に読んでいれば、物語の中での時間の流れは自然です。
しかし、ここでは普通に読んでいたのに時間の流れが後戻りしてしまっていて、何が何だか分かりません。
実は『太平記』の他の諸本では、護良の帰洛を六月十三日以外としているものもあります。
佐藤進一氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で護良の帰洛を六月二十三日としていますが(p15)、これは佐藤氏が参照したと思われる後藤丹治・釜田喜三郎校注『日本古典文学大系34 太平記(一)』(岩波書店、1960)にそう書いてあるからですね。
同書には「依之宮ノ御憤モ散ジケルニヤ、六月十七日志貴ヲ御立有テ、八幡ニ七日御逗留有テ、同二十三日御入洛アリ」とあって(p394)、確かに日程としてはこちらの方が合理的です。
しかし、史実はどうだったのか。
この点は『大日本史料 第六編之一』で既に考証がなされていて、田中義成は六月十三日が正しいという立場です。
同書の元弘三年六月十三日条には、冒頭に、

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是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、
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とあって、この後に『増鏡』を引用しています。
『増鏡』は十三日帰洛説ですね。

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 十三日大塔の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂といふもの奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士どもうち囲みて、御門の御供なりしにも、ほとばと劣るまじかめり。速やかに将軍の宣旨をかうぶり給ひぬ。


そして次に『太平記』を引用していますが、その中で護良が「志貴」の毘沙門堂に御座した日については、

「六月三日、〇参考太平記ニ、北条家、金勝院、南都本、作十三日非也」

とあり、いったん入洛と定められた日については、

「同十三日ニ、〇天正本、十一日ニ作ル」

とあり、志貴を出立した日については、

「六月十七日〇参考太平記ニ、今出川家、北条家、南都本、作七月三日、今川家、金勝院、西源院本、作六月三日トアリ、天正本ニモ亦六月三日ニ作ル」

とあり、入洛の日については、

「同二十三日〇参考太平記ニ、毛利家本作二十二日、今出川家、北条家、金勝院、南都本、作十三日、按、大塔宮発志貴、及入洛日、諸説不同、且有与之上在志貴之日相齟齬者可合見トアリ、天正本モ亦、十三日ニツクル」

とあって、『太平記』諸本が護良帰洛という単純な事実の日程について大混乱の様相を呈していることが分かります。
おそらく古本系が入洛は十三日としていたのに、書写の過程でそれでは不合理だと思った人が「十三」は「二十三」の誤りだろうと想定して、それに合わせて他の日程も調整したのだろうと思われます。
さて、では『増鏡』と『太平記』はどちらが信頼できるのか。

>キラーカーンさん
>光厳天皇の即位は当時の共通認識だったのでしょうか

私は『太平記』は複数の人が書いているものと思っていますが、この部分は武家社会の人が書いていそうですね。
後醍醐は「重祚」ではないのだと強く主張していますが、それは公家社会の人はともかく、武家社会の人間にとってはけっこう理解が難しい話であり、いったん流されて政務を離れていた後醍醐が再び政務を取ったのだから、それは「重祚」だろうと思った人も多いんでしょうね。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2020/12/13(日) 22:29:38
>>先帝重祚
光厳天皇の即位は当時の共通認識だったのでしょうか
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