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護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その3)

2020-12-15 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月15日(火)11時59分44秒

花田卓司氏の「建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?」(呉座勇一編『南朝研究の最前線』、洋泉社、2016)に「従来、尊氏は主要ポストを与えられず、政権内で疎外されたといわれてきたが、最近では、後醍醐天皇の下で、軍事を管掌する立場にいたとの指摘もある」(p190)という一文があったので、誰の学説か気になって花田氏の挙げる参考文献をいくつか見たところ、これは吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』111編7号、2002)ですね。
この論文を読んだら、最後まで残っていたいくつかの疑問も殆ど解消し、やはり成良親王に着目した方針は良かったなと改めて感じました。
吉原論文は後で紹介しますが、あまり先走らず、『太平記』の続きをもう少し見た上で、護良帰洛に関する『増鏡』と『太平記』の記事のどちらが信頼できるのか検討しておきたいと思います。
ということで、『太平記』の続きです。(兵藤校注『太平記(二)』、p217以下)

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 その行列の行装、天下の壮観を尽くせり。先づ一番には赤松入道円心千余騎にて前陣を仕る。二番には、殿法印良忠七百余騎にて打たる。三番には、四条少将隆資五百余騎、四番には、中院中将定平八百余騎にて打たる。その次に、花やかに冑〔よろ〕うたる兵五百人を勝〔すぐ〕つて、帯刀〔たてわき〕にて二行に歩ませらる。
 その次に、宮は、赤地の金襴の鎧直垂に、火威〔ひおどし〕の鎧の裾金物に、獅子の牡丹の陰に戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長〔くさずりなが〕に召され、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘懸けたるを、(太刀懸かけの)半ばに結うて下げ、白篦〔しらの〕に節陰ばかり少し染めて、鵠〔くぐい〕の羽を以て矧〔は〕ぎたる征矢〔そや〕の二十六差したるを、筈高〔はずだか〕に負ひなし、二所藤〔ふたところどう〕の弓の銀のつく打つたるを十文字に拳〔にぎ〕つて、白瓦毛〔しろかわらげ〕なる馬の尾頭〔おがしら〕あくまで太くして逞しきに、沃懸地〔いかけじ〕の鞍を置いて、厚総〔あつぶさ〕の鞦〔しりがい〕のただ今染め出だしたるを芝打長〔しばうちなが〕に懸けなし、侍十二人に諸口〔もろぐち〕を押させ、千鳥足を踏ませて、小路を狭〔せば〕しと歩ませける。
 後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて供奉せらる。なほも御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎、閑かに小路を打たせらる。その後陣には湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢、打ちこみに二十万七千余騎にて、一日支へてぞ打つたりける。
 時移り事去つて、万〔よろ〕づ昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を給はつて、甲冑を帯し、随兵を召し具して御入洛ありし有様は、珍らしかりし壮観なり。
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壮麗な行列を順番通りに整理すると、

 赤松円心 千余騎
 殿法印良忠 七百余騎
 四条少将隆資 五百余騎
 中院中将定平 八百余騎
 「花やかに冑うたる兵」 五百人
 護良親王 侍十二人
 千種頭中将忠顕朝臣 千余騎
 「国々の兵をば、ひた物具にて」 三千余騎
 「湯浅、山本、伊達三郎、加藤太、畿内、近国の勢」 二十万七千余騎

となります。
まあ、『太平記』なので数字には明らかに誇張がありますが、相当な軍勢であったことは間違いないですね。
ただ、この中で千種忠顕は隠岐でも後醍醐に仕えていた側近中の側近であり、護良の配下ではありません。
また、殿法印良忠は摂関家出身とされており、四条隆資は院政期以降に隆盛を誇った四条家の人、中院定平・千種忠顕も村上源氏の有力な公家の一族であって、少なくとも指導者クラスは新井孝重氏が強調されるような「ならず者」集団とは違いますね。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606

なお、四条隆資は『増鏡』の最後に、

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 四条中納言隆資といふも頭おろしたりし、また髪おほしぬ。もとより塵を出づるにはあらず、敵のために身を隠さんとてかりそめに剃りしばかりなれば、いまはた更に眉をひらく時になりて、男になれらん、何の憚りかあらん、とぞ同じ心なるどちいひあはせける。天台座主にていませし法親王だにかくおはしませば、まいてとぞ。誰にかありけん、そのころ聞きし。

  すみぞめの色をもかへつ月草のうつればかはる花の衣に

http://web.archive.org/web/20150918011331/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-ketumatu.htm

という具合いに登場しています。
鎌倉時代を公家の立場から華麗な文体で描いた『増鏡』は、最後の最後に四条隆資を登場させて全十七巻を閉じるのですが、なぜに四条隆資がこのような華々しい扱いを受けるのかについては、『増鏡』研究史上、誰も合理的な説明をして来ませんでした。
唯一、中村直勝氏が四条隆資は『増鏡』の作者ではなかろうかという説を唱えたものの、南朝の中心として軍事活動に忙しかった隆資が『増鏡』のような優雅な歴史物語を書いている暇はなかったろう、ということで、誰も賛成する人がいませんでした。
この点、『増鏡』の作者が『とはずがたり』の作者と同じではなかろうかと考えている私は、四条隆資は『とはずがたり』に小太りのひょうきん者として登場する四条隆顕の孫なので、『増鏡』作者は隆資とも親しく、自分の親戚に舞台映えをする良い役を与えてあげたのではないかな、と思っています。

中村直勝「増鏡の史実性について」(『国語と国文学』昭和36年6月号)
http://web.archive.org/web/20150918011505/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/nakamura-naokatu.htm

さて、上記引用部分に続いて万里小路藤房や法勝寺円観上人・文観僧正・忠円僧正の帰洛を記した後、次のような展開となります。

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 すべてこの君笠置へ落させ給ひし刻〔きざみ〕に、解官停任せらるる人々、死罪流刑に逢ひしその子孫、ここかしこより召されて、一時に蟄懐〔ちっかい〕を開けり。されば、日来〔ひごろ〕武威を誇つて、本所を蔑如〔ないがしろ〕にせし権門高家の武士ども、いつしか諸庭の奉公人となつて、或いは軽軒香車の後〔しりへ〕に走り、或いは青侍恪勤〔せいしかくご〕の前に跪く。世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭、御家人は、皆奴婢雑人の如くなるべし。あはれ、いかなる不思議も出で来て、武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと、思はぬ人はなかりけり。
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私は『太平記』は複数の作者が関与していると思いますが、この部分は明らかに武家出身の人が書いていますね。
ただ、建武の新政はまだ始まったばかりですから、奇跡としか言いようがない短期間での倒幕を果たした後醍醐のカリスマ的なオーラは暫くは輝いていたはずで、いきなり「公家一統の天下ならば、諸国の地頭、御家人は、皆奴婢雑人の如くなるべし」と予想して「武家四海の権を執る世の中にまたなれかしと」望んだ人は、武家社会にもそれほど多くはなかったのではと思います。
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