五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

他人の気持ち

2009年10月16日 | 第2章 五感と体感
「私って、人の気持ちをすぐに感じ取っちゃうの~~」
と言う人、結構多いです。

でも、「ふぅ~ん、でも私の今のこの気持ちは感じてないよなぁ~」と、思う私。

ということは、どういうことでしょうか?

つまり、他人の気持ちなんて、わからないということです。

「人の気持ちを感じ取ってしまう」という思い込みに囚われて、自分を抑制してしまう現象は、私もしばしば体験します。
確かに「空気読めない」よりも「空気読める」ほうが、人間関係を円滑にしていきますが、それが過度の思い込みによる「空気読めるヒト」になってしまうと、かなり辛いものがあるはずです。

「空気読めること」にこだわることよりも、「今、この時の自分がどんな感情に居るのか」

他人の気持ちを想像することは、自分の気持の防衛機制が必ず働いているはずです。それが、自分の解釈となり、思考と感情と行動に繋がっていきます。

他人の気持ちは、わかりません。

まずは、自分の気持ちを大切にしようではありませんか
思いやりの気持ちは、それからでも遅くはありません。




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人間関係

2009年10月15日 | 第2章 五感と体感
思考と感情と行動

人の考え方とか、感じ方とか、行動に接していると、自然とその人の個性を私自身がイメージできてきます。

なんで、イメージができるかというと、その人の傾向が見えてくるからです。

自分にとって不都合なことが起きたとき、「思考と感情と行動」の表現方法は人それぞれです。

「どーしたら、こんな捉え方になっちゃうのかなぁ~」と違和感を覚えることもしばしば体験します。

そんな時に、その人に裏打ちされた「内部的照合枠」(成育史等)を少しずつでも紐解いていくことが互いのお付き合いで成されていくと、親しみの感情が湧き、いつしか相手の「どーして、こうなっちゃうの?」という疑問の解明ができるかもしれません。
同時に、当の本人も、自分の傾向に気づき、解釈を変えられる時が来るかもしれません。

相手を知ることは、自分を知ることの始まりです。

一石二鳥の人間関係を楽しみたいものです。

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誰もが体験する初体験

2009年10月14日 | 第2章 五感と体感
どんなことを始めるにしても、誰もが未体験から始めます。
家業を見続けながら育ったとしても、それを見て、解釈していくのは自分自身です。向き不向きも現実吟味を働かせながら自分で判断していきます。

教員免許取得のための現場研修期間を二週間から一年間にする、というニュースを聞きました。

誰もが最初は、初体験です。親が教員であっても、聞くのと見るのでは大違いです。自分が体験してみて初めて、知っていきます。これが経験です。
子供が大好き!という理由で選んだ職業であっても、その感情をいつも維持しながら仕事はできるとは限りません。
しかも、職場の人間関係だけではなく、今は父兄との関係も大事な事です。

子供と親と先生。

親と先生の関係も、時代とともに様変わりしてきたように思います。

どんなことでも、初体験から物事が始まります。
一年研修期間を味わったからと言って、あらゆることへの応用力が既に身に付くわけがありません。
子供とともに育つ親と同じように、先生もその環境に身を置き、いろいろな経験を踏んでいくことから成長してきます。

親の保護から離れ、社会に出た人の成長を社会全体が見守ることも忘れてはならないと思います。

自分の子供への愛情と守ることはもちろんのことですが、新米先生を温かく迎え、信じていく親の姿勢も忘れてはなりません。

人は一人だけで成長していくものではないことを常に心に留めておきたいものです。

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鎌振る弁慶

2009年10月13日 | 第2章 五感と体感
連休最後の午後、横浜能楽堂で「正尊」(しょうぞん)を観ました。

平家物語の一連でありますが、滅多に「正尊」は、やらないそうです。

能を初めて見た人には、入り易い演目だったかもしれません。
なぜなら、歌舞伎に近いものを感じたからです。しかも演者は面を着けません。

義経を討とうと西から訪れた「正尊」は、義経の館での宴席で、疑いを掛けられますが、起請文を弁慶に読ませ、身の潔白を訴えます。
無事、宴が終わりますが、「正尊」は、義経を打つべく行動を起こします。
結局、弁慶に取り押さえられられたところで、舞台は終わります。

それにしても、その日の午前中に、昨日のブログで書いた江戸時代の弁慶さんを裏打ちし、形振り構わず慌てて能楽堂に駆け込んだ私は、思わぬ繋がりにまたまたニヤニヤ。。。

シテ役が義経で、ワキがなくツレが弁慶や正尊だったので、義経が麗しく舞うのかと思いきや、弁慶の太刀振る舞いで幕が下りた(能は幕がありませんが)ので、いやはや、、、弁慶に鎌振られたのは「正尊」であったことにホッと胸をなでおろした私でありました。

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大津絵

2009年10月12日 | 第2章 五感と体感
知人に頼まれた大津絵の表装をいよいよ始めました。
大津絵とは、江戸時代、琵琶湖のほとりで広がったヘタウマで面白可笑しくデフォルメした民衆の絵です。今でいえば、イラストとか風刺画とか、そんな感じのものです。

預かったものは江戸時代のもの、だと思います。掛け軸に仕立ててあったものをばらして洗いにかけるところから始めなくてはなりません。

どんな和紙で裏打ちしているのか。。。霧吹きをかけて触ってみるまでわかりません。

古い家の納戸の匂い。カビや埃の匂いもここまで凝縮されると古き文化の尊い匂いです。
霧吹きをかけると、ふわぁっとその匂いが広がります。

こういう作業をしていると時間が経つのも忘れてしまいます。気づくとあたりは真っ暗。
一枚一枚裏打ち紙をはがすことができれば苦労はしなのですが、やってみると、三回裏打ちされていることがわかり、一枚はがすと、もう一枚が見えてきます。

汚れた本紙(作品)も、和紙をひいたり新聞紙をひいたりして、お湯で絞ったタオルで丁寧に叩いていきます。

本紙は平成21年の空気に直に触れ、ちょっと鮮やかさが蘇ってきました。

日本の文化は、裏打ちの文化です。修復するには表からだけではできません。
どこまでできるか…今回私の初挑戦の犠牲になった「ギョロ目の弁慶さん」(絵)、鎌を振らずに見逃してちょうだいね…

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自分を生きる

2009年10月11日 | 第2章 五感と体感
40年間、パリで生き抜いている画家の友人が銀座で個展を開きました。
スポンサー付きの上げ膳据え膳の展覧会ではありません。

人に惜しみなく愛を注ぐ彼女は、同じように自分自身を愛し、悔いなく生き抜いている、と私は推察しています。

自己に関わること、自分にとって必要なこと、それらに対して100パーセント以上のエネルギーを使います。興味のないことには見向きもしません。

自分を信じ、自分を生きています。

この十年の彼女の生活は、壮絶なものでした。
理不尽なことに彼女の全てを費やしている間、彼女は「愛」を貫きました。
「自分を生きることを意識する」ことは「自分を生きることができないことを意識する」ことよりも、覚悟が必要です。

「自分を生きる」
それが正しいとか、正しくないとか、そんなことはどうでもよいのです。
彼女の描いたものを観たときに、貫いてきたものに悔いがないことを知りました。
愛が深まっていることを見てとれました。

彼女の愛する人が描く絵と彼女の作品から、自然に溶かし合う互いの明度の波長に「愛し合うということはこういうことなんだなぁ」としみじみ感じたのでした。
作品から二人のたおやかな旋律が聴こえてきます。

「自分を生きる」こととは、自分に都合のよいことだけをして生きることではありません。自分が信じていること、信念に悔いのない選択をすることだと私は解釈しています。
自分が信じていることや信念に対し自分自身が不誠実であれば、そこから違和感が生じ、不安が増強します。

今日も悔いのない一日を過ごしたいものです。

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子供が挨拶する日

2009年10月10日 | 第2章 五感と体感
先日、某学校の創立125周年記念のコンサートを聴いてきました。
毎年横浜みなとみらいホールで行うのですが、今年は特に派手やかに催されました。

大ホールで催すこのコンサートは、プロの音楽家の演奏を楽しむだけではありません。演目の最後に父兄や卒業生、そして教会の合唱団に所属する方々の合唱を聴くことで、益々コンサートの深みが増すのです。

今年はモーツァルトの荘厳ミサ曲の一部に挑戦です。

去年よりも人数が増えた合唱団の顔ぶれを眺めながら、舞台に立った友人の喜び溢れた表情に私も気持ちが躍動しました。
名の知れた指揮者とプロのアンサンブルの演奏で、大舞台に立てるのですから、この醍醐味を知ったらやめられない、という気持ちもわかります。

合唱団の人数が大幅に増えた分、指導者のご苦労が偲ばれましたが、いやいや、そんなことよりも、出演者の達成感のほうが勝り、観客も拍手喝采。

そんなこんなで楽しい時間を過ごす私たちに、ばったり出会った出演者の友人のご子息が「今日は、いらしてくださりありがとうございます。」と深々と頭を下げました。「いえいえ!とっても楽しんでいますよ。こちらこそチケットをありがとうございます。お母様によろしくね、」と会話を交わし、6年間、共に育った我が子の友人の成長に、新たな喜びが湧き上がりました。

「子供が親に代わってに挨拶する」ことに出くわした私は、なんだか自分が成長したような気分になりました。

人と人との交わりは、机の上ではできません。
自然と人との交わりができる人になるには、やはり、いろんな舞台に立つことから学んでいくのでしょうね。

それと、社交は親の後ろ姿から学ぶものだと、しみじみ感じた夜でした。

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スロヴェニアの音楽から

2009年10月09日 | 第2章 五感と体感
スロヴェニアでお世話になった神父さんは、とても歌の上手な方です。しかも教会の子供たちの聖歌隊は、コンテストで優勝するほどの腕前です。

終始通訳を務めてくださった案内役の恩師も喋り出すと止まらず、陽気な音楽が大好きな方。

一週間、私たちの会話は、スロヴェニア語と日本語が交差し賑やかなものでしたか、そのうち恩師も通訳するのを忘れて、興奮すると私たちに母国語で喋り出す始末…、それでも何を言っているのかわかるようになり、互いの国の言葉で勝手に喋ってもなぜか通じ合うのが不思議です。
そうはいっても音楽は、もっと通じ合う普遍的なもの。喜怒哀楽の感情は世界共通。
スロヴェニアの伝統的な音楽は、カンツォーネ風の明るさと、オーストリアのチロルを混ぜ合わせたようなメロディーで、リズムはミュンヘンのビアガーデンにいると聞こえてきそうな感じでのものです。アコーディオンの音色に金管楽器とコントラバスのチェロの間の大きさの楽器に歌が入ります。

私たちがウィーンに経つ日は土曜日でした。村の子供たちが眠い目をこすりながら教会に集まり、天にも届く美しい歌声を聴かせてくれました。

たった350人で支えている村の小さな教会。村の中心に建つ古い教会は、皆の力で美しく整備され、花好きで几帳面な神父さんはたくさんの花を咲かせこまめに労働し、街の世話役をし、母国の明日のために忙しく働いています。民主化になりまだ10数年しか経っていませんが、長い長い我慢の期間を経験した人たちには、もともと持ち備えた陽気なアイデンティティが備わっていて、それが音楽や暮らしぶりに映し出されています。

地球は丸くて、どこかが朝であれば、どこかが夜です。世界中のいろいろなところで祈りの連鎖が永遠に続くことを願い、私たちの幸せを祈ります。

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巡り合わせの解釈

2009年10月08日 | 第2章 五感と体感
今日は、予定していた仕事が台風のためキャンセルとなり、自宅でおとなしくすることとなりました。
予定通りお仕事をされる方は、強風に注意してくださいね!

さて、本題です。

いつも何かと繋がっていると確信しながら生きている私ですが、昨日は、また深い巡り合わせに出合い、不思議な体験をしました。現実を受け容れていると、必ず補う何かに巡り合う、そんな体験です。
出合いという出来事は、私の個人的なものなので、他人が聞けば通り過ぎてしまうようなものです。でも、私にとっては、深く大きな巡り合わせなのです。

「私にとっての」五感や体感は、他者には伝わりません。
自分で知覚し意識化するものはダイレクトに伝わりますが、自分以外の意識と知覚を感じようと思っても、いったん自分という解釈に入り込んでしまえば、その人の「知覚と意識」とはかけ離れたものになります。

それを解って人と付き合うことは、決して虚しいものではありません。
思いやりや配慮、推察、という領域で付き合うことは、他者をひとつの個性として認め合うことに繋がるのですから。

自分が解釈する巡り合わせで、自分自身が幸せになる体験をひとつひとつ重ねていきたいものです。

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スメタナ、スメタノ、

2009年10月07日 | 第2章 五感と体感
スロヴェニアの飲み物といえば、白ワイン。
他には?と聞かれ、真っ先にこれだ!と云えるのは「スメタナ」。

たいそうな言葉に聞こえますよね。

でも、これはコーヒーにたっぷりの生クリームが乗せられたものです。

山盛りの生クリームをまずスプーンで頂きます。

それから、ゆっくりとコーヒーを頂きます。

イタリアが隣だというのに、スロヴェニアにはカプチーノがありません。たぶん、機械にお金がかかるからでしょうし、他にも色々理由がありそうです。カプチーノは飲めないけれど、それだったらたっぷりの生クリームを乗せていただくウィンナー式でいいじゃない!という発想ではないかしら?と勝手に推察しています。

ヨーロッパの東と西の分岐点であるような位置にある国ならではの良いとこどりの折衷が、なんとなく日本人の私に親しみを覚えさせてくれるのです。

「食」眺めると、いろんなものが観えてきますね。

いい加減、旅の終盤にはスメタノに飽きてきたので、ダブルエスプレッソ(何故かスロヴェニアでは普通のコーヒーのこと)を頼むと、周りの人たちは悲しそうな顔をします。「なんで生クリームたっぷりを頼まないの??」というような、そんな顔になります。三年分くらいの生クリームを一週間で一気に平らげたような旅でもありました。

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腰越勉強会

2009年10月06日 | 第1章 意識と知覚
今日は雨。
台風の影響で波が高く、腰越漁港の漁船は鎌倉のお隣、逗子の小坪漁港にすべて避難したそうです。

そんな天候の中、ほとんどの方が参加。お疲れ様でした♡

さて、今日のお題は「ストレス曲線と自己実現の関係」
耳慣れない人にはちょっと不思議な組み合わせの言葉に聞こえるかもしれません。

具体的には、自分の選択したもの(事)が、「不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱」というストレスに追い込んだ事例を思い起こしながらの勉強会でした。

本音の感情が言葉に出れば、しめたものですが、たいていは、その手前でグルグルと繰り返し表れる自己の傾向に取り込まれてしまいます。

でも、親しい人や家族に、ある程度の知識や理論を身に付けている人がいたらどうでしょう。否定も肯定もせず、あるがままを受け容れてくれる身近な人がいたら、その人は闇のような暗い感情や身体症状を表出することができるはずです。
時間はかかるかもしれませんが、人には自然治癒力というものが備わっています。

暗い感情を表出できる環境は、私からみると天国のような環境です。
それができない環境にいたとしたら、その人は抑圧がどんどん深くなっていきます。

「理論は虚しいが、理論がなければ学問は成り立ちません。」という師匠の言葉を胸に、学ぶことに精進しようと、改めて気持ちが奮い立った勉強会でもありました。

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キツネのしっぽを食す

2009年10月05日 | 第2章 五感と体感
スロヴェニア食の旅で、以前から楽しみにしてたのが、秋ならではのきのこの料理です。

私たちが到着する前日まで雨が降り続いていたそうです。

雨上がりの森は、キノコがにょきにょき生えてきます。
そんなわけで、私たちが宿泊した家に着くと台所には、芳しい香りのきのこの山!

村の人が私たちのためにキノコ狩りに行ってくださったとのこと。

次の日の夕食に出されたのが、キノコのクリームシチューです。
マツタケもそうですが、キノコは香りが独特です。頂いたキノコの名前は「きつねのしっぽ」。なんとなくきつねのしっぽを思わせるような形をしているそうなのですが、そうかなぁ~、、確かにマッシュルームのような形はしていませんが、風になびくようなカタチをしているから、そうつけられたのかもしれません。

この香りは、そうですねぇ、言葉で表現するのは難しいですが、マイタケの香りを品良くしたような?もっとはっきりした香りです。

森に入る、という習慣は、こちらでは当たり前のことのようですが、戦争中は生き延びるめに必要な覆いでもありました。反対に敵と味方の攻防が繰り広げられた場所でもあります。クロアチア国境付近は最近まで地雷が埋められていたところもあったようです。「ユーロに加入する国」という意味が見えてきた旅でもありました。

森は、手入れされていて、野放し状態ではありません。私たちがイメージする童話の森がそこにあります。国の徹底した管理なくては、こんなに美しい森にはならないでしょう。

ところで日本では最近、「森ガール」というファッションが流行しているそうですね。森に居そうな女の子のことを「森ガール」と言うそうですが、「森ガール」は手作り物が好きで大工仕事もするそうな…
…ほんとうの森は、ほんとうに怖いよ


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スロヴェニアのエルサレム

2009年10月04日 | 第2章 五感と体感
「美しい葡萄畑に連れて行ってあげます」そう言われクロアチアの国境付近に広がる葡萄畑に…

白ワインが中心のこの地は、聖地エルサレムと同じ「エルサレム」という地名。

低い丘に連なる葡萄畑は、日本の茶畑と同じように等間隔に道を作り、規則正しく葡萄の木が植えられてあります。
牧歌的でのどかなこの村も、戦争のことを語ると無残な過去を知ることとなります。

そのようなことがあったなどとは「今このとき」しか知らない旅人の私たちにはピンときません。

ともかく、美しいのです。

葡萄畑の丘の上にあるレストランに入りました。ムスカソボタ№のタクシーもワインを楽しみたいお客さんを乗せてきたらしく数台が待機中…

私たちは、案内役のFr.Jさんが、持病を抱えてらっしゃるので気兼ねせず混じりっ気のないワインを堪能し、そば粉のお饅頭に生クリームと豚の脂カスが乗せられた郷土料理を頂きました。戦争を体験している恩師と母は、お国が違うのに同じものを食べて忍んだことに感激しつつ、ペロッと平らげていました。
さすがの私も、飽きてしまい完食できず…

エルサレムでワインを飲みながら、食べられない時代に育った人たちの逞しさを知ることとなり、生き伸びて、ここで食事をしていることに感謝した次第です。

9・23
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ブッチーノオイル

2009年10月03日 | 第2章 五感と体感
味覚は人を幸せにします。

美味しいものを楽しく頂くと、輝くほどの喜びが湧き上がります。
今回のスロヴェニアの旅は、今まで味わったことのない美味しさを味わいました。

たぶん、レストランで頂く食事が続いたらそんな想いは湧かなかったと思います。

人との出会いは、自分の好奇心との出合いです。それが湧き出したら探究心が止まらない私の傾向が、今回も爆発

その中のひとつにブッチーノオイルがあります。

車での移動中、広大な畑に収穫した大きなオレンジ色のカボチャがたくさん転がっているのを至る所で目にしました。
何で、そのまんま放置しているのか気になり聞いてみると、「かぼちゃ(ブッチーノ)の種からオイルをつくるんだよ」とのこと。

なるほど、毎日頂いているサラダにオリーブオイルよりも濃い緑色で、何となくゴマ油の香りがするオイルがかけられており、それがブッチーノオイルだったのです。

かぼちゃから種を取り、機械ですりつぶし、圧縮機から油を抽出します。

油はサラサラしていて、コクのある香りですが、胃にもたれません。

母も私も好奇心が止まらなくなり、知り合いのブッチーノオイルの工場に案内して頂きました。日本人の来訪は初めてだということで、歓迎され一瓶お土産にいただいちゃいました。小さな工場ですが、かぼちゃの季節になると工場を稼働するそうです。まさに旬!新鮮な香りに、内臓中が健康になったような体感になりました。

スロヴェニアの東、マリボルやムスカソボタで出会った人々のお顔がツヤツヤしていたのは、きっとブッチーノオイルの効用だ。。。と納得。。。

「善き食」は心と体をくっつけます。
内臓と心がぴたりと合わさっている感覚を初めて味わいました。今のところこの感覚を意識できていますが、いったいいつまで続くかなぁ~~

9/24
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スロヴェニアの食べ物

2009年10月02日 | 第2章 五感と体感
アグリツーリズモという言葉はずいぶん前から聞いてはいました。スロヴェニアでは農家の民宿に泊まったわけではありませんが、村の教会に泊まらせていただいたので農家の奥さんが自分の畑で採れた野菜や飼育している牛や豚、鶏を料理してくださり、新鮮で美味しいものをもてなしてくださいました。

料理はバラエティに富んでいます。

いろいろな国と隣接しているせいか、地方によってメニューに個性があるようです。

秋は実りの季節ですが、私が楽しみにしていたのはきのこの料理です。

雨が降った翌日がキノコ採りに相応しく、運よくスロヴェニアに着いた日は雨が降り続いた後だったので、村人がきのことたくさん採ってくださり、香の利いたキノコスープをたんと頂きました。

ウィーン風とパリ風、というように同じ食材を二種類の料理の仕方で盛りつけたり、プレクラムスキ・ボクラチュというシチューが絶品でした。三種類の肉(牛・豚・狩猟した肉鹿とかウサギとか…)をトマトとじゃがいもを用い、季節によってはきのこを入れたりして煮込みます。家庭やお店によって味付けが違い、その違いも堪能しました。

自家製ソーセージ、サラミ・ハム・・・書き出したらキリがありません。

そうそう、豚の脂をふりかけたパン。これも焼きたては、おかずが要らないと思うくらい食が進みます。パンの種類も豊富です。

そば粉の料理も多く、生クリームをかけたそばだんごは、伝統料理だそうで幼いころおやつによく頂いたそうです。

よい食材は、体をきれいにすることを身をもって体験しました。

心と体は互いに関係し合っています
食事は、身体だけでなく心のエネルギーですね。

明日はブッチーノオイルについて書こうかな…♡




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