五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

生き甲斐

2007年04月28日 | 第3章 無意識の世界
あなたの生き甲斐は何ですか?

こんな質問を真顔でされたことはありますか?

私はNPOの活動とカウンセリング通信教育の仕事を通して出会った方々に何気なく問いかけています。

とはいいつつも
私自身、この質問に「明確な答えを」返すことはできません。

「生き甲斐」とは、自分の生きる方向の道しるべでもあるように思っています。
暮しの中でふと感じる幸福感から辿っていくと、なんとなく自分の生き甲斐が見えてくるような気もします。

人類65億の個性全てに出合うことは不可能ですが、今日初めて出会った人々との個性の出合いはあります。
互いの違いを知り、それを受け容れること。
そして、自分自身との出合いと受容。

その人にしか出合えない経験をして人は生きています。それを尊重し、愛することが本当にできて初めて、「私は人のために仕事をしている」と胸を張って云えるのかもしれません。

私自身、まだまだ「自分のため」に生きるのが精一杯のようです。

私の生き甲斐は、猪突猛進して走るおっちょこちょいの私を陰で支えてくださる多くの方々の愛をしみじみ感じ取ることでしょうか。

1週間後、また違うことを言い出すかもしれませんが、これが人の感情の成せる技だと思います。
内なる自分の見方を変えて、時々立ち止まると、新しい風が吹いてくるかもしれません。


「生き甲斐の心理学」
この言葉をはじめて耳にされた方は、私のブログの横にあるブログリストをクリックして是非読んでみてください。


人気blogランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グングン伸び伸び

2007年04月26日 | 第2章 五感と体感
先週あたりから、我が家の名物萩の芽がグングン伸び始めてきました。

昨年の晩秋に根元ぎりぎりのところで茎を切り、「今年は伸び放題にはしないぞ」と意志を固め、静かに見守り続けてきました。

今のところ、40センチくらいの高さに成長しています。

今朝見たときよりも、茎の部分が緑色から茶色くなり、頑丈になってきたように見うけられます。

一年を通して、小さな庭の草花を観察してると、それだけで世界が広がるような気分になるのです。身近な植物の成長は、明日という日に光が射し込んでくるようで、生きることへの意欲が湧いてきます。

そんな、愉しい庭を眺めながら、ふと思い出したことを書きます。

数年前に、高松の故イサムノグチ(彫刻家/デザイナー)のアトリエと住居を訪ねました。
思想と生活の狭間を感じさせない、イサムノグチという個性の完璧さに惹かれるものがあり、思い焦がれての旅でした。
でも、私は、生前のままの様子で残している住居の庭を観て、ショックを受けたのです。

植栽された木以外は、何も生やさない庭。本当に草一本も生えていないのです。
掃き清められた石ころも落ちていない、土色した土。蟻すらも寄りつかない土。
これが彼の本心の美学なのだろうか。
そう心の中で問いながら、その住居を後にしました。

彼の成育史からくる、排他的にならざるを得ない環境を「土の庭」から感じ取り、世界的に知られたアーティストの真なる孤独を見たように思いました。

さて、
にぎにぎしい、我が家の庭。
石庭に日本庭園、確かに惹かれますが(宝くじが当たったら、別宅はそうしたい)、毎日眺める庭は、雑草あり、コンクリートの狭間から出ている「ど根性秋明菊」ありで、身の丈にあっているのが一番です。
今日も明日も明後日も、にぎにぎしい小さな庭から、明日への光を頂きます。


人気blogランキングへ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再会

2007年04月22日 | 第9章 愛
この3日間で私は二人の人と再会しました。

一人は高校時代の親友でもあり、同じく美術の道を歩んだ人。
彼女は、ロンドンに住んで20年以上になります。

そしてもう一人は、ほぼ2年ぶりにブラジルから一時帰国した私にとって兄のような宣教者。

私を含めた3人の共通点は、互いに育った「横浜」という場所です。

長年じんわりと気になっていた親友のの安否。彼女からの突然の電話は、長年心の中で溜めていたわだかまりのようなものが、すーっと、抜けたような感覚になりました。
3年前に自ら命を絶った友人に、「ほら、生きていると こんな、良いことがあるよ」と空に向って呼びかけました。「生き抜くことは、生易しいものではない」、確かにそう思うのですが、毎日、毎日、「今日を生き抜いたよ。悔い無いよ。」そうやって自分自身を確かめていくと、ある日、素敵なプレゼントが自分の手元にやってくるのです。
信じる自分に与えられたかけがえの無いものです。

そして、今日、山手で再会した「兄」、言葉は殆ど交わすことはできませんでした。
言葉が出ませんした。
でも、私に差し出してきた手で、握手のコミュニケーション。
2年間の生活が手に取るようにわかりました。
生き抜いている「手」。
ちょっと冷たく、脂肪と水分の抜けたカサカサの手は、いつまでも擦っていたくなるものでした。

山手から元町に下っていくと、商店街は人が行き交い、その雑踏の中で、右手の感触を確かめながら、制服を着て歩いていたこの街を急に懐かしく感じ、「生きている」自分をほんとうに大切にしたいと思うのでした。

生きていると、こんな良いことがあるよ。

天国にいる友人に捧げます。

人気blogランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダ・ヴィンチ展

2007年04月20日 | 第2章 五感と体感
レオナルド・ダ・ヴィンチ展、混雑覚悟の上、行ってきました。

ダ・ヴィンチの生涯の仕事を垣間見ることができる展示もなかなか見ごたえがあり、「ふーん」「へぇ!」を連発しながら楽しんできました。

メインの「受胎告知」
ウフィッツィ美術館は、名画が多数あるため、一点の絵画を集中して鑑賞し記憶に留める事は至難の技です。
そして、海を越えてはるばる日本にやってきた「受胎告知」は、東京国立博物館の本館に設置され、段差やスロープを利用して、できる限り多くの人が鑑賞できるように配慮されていました。

ほの暗い展示室。照明は絵画のみに。

息を呑む透明感はどこから来るのでしょう。
イザヤ書をめくるマリアの指先は柔らかく、ページは風が吹くとめくれそう。本台に掛けられたレースの透明感は、ピンと張り詰めたマリアと天使の距離と空間に一時の呼吸を表わしているようにも思えます。

「ダ・ヴィンチの若さゆえの、画面の固さ」という人もいらっしゃいますが、私はこの張り詰めた固さが、マリアの覚悟に他ならない、と思うのです。

能舞台を観る私と演じ手の距離と空気の関係と同じだ、と。
日本画の間合と同種の感覚ともいえるかもしれません。

天使の羽も衣服も肉体も背景もあくまでも固有の質感に忠実で、勿論、遠近法と黄金分割の緻密さゆえでありましょうが、モチーフそれぞれの柔らかさと、透明感が この画面を一層奥行きのあるもにしているようです。

「柔らかさと透明感」は、写真の印刷では確認できません。
観た瞬間に感じた、この「柔らかさと透明感」に鳥肌が立ちました。

警備員の「立ち止まらないでください~」という呼びかけも、聞こえないくらいの集中力で絵の中を泳いできたようです。
絵画探訪、日出ずる国にやってきた西洋の至宝に、能楽を想う私は、前世も日本人だ、と思うのでありました。


人気blogランキングへ
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸術は爆発だ!

2007年04月16日 | 第2章 五感と体感
題名を読んで、「岡本太郎?」と思われた方!、その通りです。

先日、世田谷美術館で開催されている岡本太郎展に行ってきました。
ご存知の通り、岡本一平、岡本かの子の間に生まれた正真正銘の芸術家の血を引いた岡本太郎氏。

随分昔のことになりますが、ある美術館のオープニングパーティで、私は光る人に出会いました。群がる人の中から、光を放っている人がいて、いったい皆さんどなたと話しているのだろう、、、そう思い近づいていきましたら、その光る人は、岡本太郎氏でした。
背丈が低く、人に埋もれるように立っていらっしゃいましたが、鋭く純真な目つきと彼から醸し出される威風堂々たる自信が、きっと私に「光っている、」と思わせたのでしょう。
その日から、私は小さな興味を抱くようになり、彼の生き方を尊敬するようになりました。

彼の描きたいもの、創りたいものが、身体の奥深くから湧き出し、光と闇、凹凸が戸惑う事無く一つの画面に顕われているように感じます。感情の攻めぎ合いが、コントラストとなって、それが「爆発だぁ!」といわんばかりに、私の感情に飛びこんでくるのです。

日本の美術とデザインが元気になり出し、世界に主張し始めた今日この頃、岡本太郎氏は、少々早く生まれすぎたかもしれません。
改めて「太陽の搭」を眺め、縄文の世界に思いを巡らしながら平和を願う、そんな美術鑑賞となりました。
五月の連休、砧公園でお散歩し、公園内の美術館で「芸術は爆発だ!」を体験しませんか。

フランスのテレビ局が制作した岡本太郎のドキュメンタリーは必見です。
フランス語での表現だからこそ、岡本氏の個性がキラキラと引き出されています。
日本語で聞いたら、引いてしまうような、スゴイ迫力。

東京都 世田谷区立美術館・「岡本太郎展」5月27日まで。


人気blogランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空気で変わる五感

2007年04月12日 | 第2章 五感と体感
私は体験したがり屋です。体験主義、というのか好奇心旺盛というのか・・・。

親から貰うお小遣いの中からやりくりをして、美術館巡りをしていた中学生、高校生の頃は、海外から有名な絵画がやってくると、それを見たさに、超満員状態の美術館に頻繁に通いました。

その頃は「観る。ではなく、見る。」だったようです。
有名絵画に群がる人混みの美術館の息苦しさは、かつての日本の美術館の象徴でもあったように思います。

大人になり、行動に束縛がなくなると、私はひたすら旅をしました。
自分の目で見たもの、味わったもの、聴いたもの、匂い、触覚、これらは、体験を通してでないと、なかなか身になるものではありません。

今、フィレンツェのウイッツィー美術館に所蔵されているレオナルド・ダビンチ「受胎告知」が上野で公開されています。
私は、この「受胎告知」をどうしても観たくて、ウィッツィー美術館を訪れたことがあります。夏休みのシーズンでしたが、美術館の広さが観客を分散させ、絵画鑑賞にゆったりと浸ることができました。フィレンツェの街自体が美術館のようで、方々にある有名な彫刻もすっかり街の風景に溶け込んでいます。

まだ背丈の低いその頃小学生一年生だった息子が、さんざん歩いた末、「ぼく、彫刻のおちんちんしか見えないよ!」確かにしゃがんで息子の目線になってみると、ダビデやメディチの像など、目に飛び込んでくるのは彫刻のおちんちんばかりです。
これは、息子がリアルに体験した、五感と体感にほかなりません。

さて、この「受胎告知」、フィレンツェの空気に交わりながら堪能したことはしたのですが、有名な絵画はそればかりではないので、意気込んで行ったわりには強烈な記憶がないのです。

強烈な記憶といえば、上記の息子の一言。そしてその一言を言った場所、ウィッツィー美術館前の広場と降り注ぐ太陽の光が同時に再現されるのです。

私の「体験主義」というのは、どうも、目的を果たすために行動し、そこで体験したこと、感じ取ったことが、一番大切なことのようです。

「絵画鑑賞」、そして、「観光」は、対象物をただ見るだけではありません。
むしろ、そこから見えてくる「見えないもの」を感じ取ることに意味があるのだと思います。特別なことを感じ取るというのではなく、友と美術館巡りをしながら、交わす何気ない会話。それこそ立派な絵画鑑賞体験です。

お出かけに相応しい季節。書を捨てて街に出よう~愉しもう~。

はるばる海を越えてやってきた「受胎告知」。私が観たらどんなふうに映るのでしょう。


人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハタハタの味

2007年04月05日 | 第2章 五感と体感
魚の美味しい高知県で生まれた私は、新鮮な魚を頂いて育ったそうです。
新鮮な魚と味の記憶が鮮烈なブンタン(夏みかんよりも大きく香りが独特)を頂く生活は5歳まで続きます。
そして、父の転勤で福井へ。そのおかげで5歳から二十歳くらいまで、私は魚嫌いの子供となりました。
転勤先は、福井の山寄りの盆地、大野市。
今のように交通網が発達しておらず、新鮮な魚が届きにくい土地柄。しかも会社の借り上げ一軒家の入居待ちをしていたのが、何故かお魚屋さんの二階だったそうで、母に言わせると、それが私の魚嫌いに繋がったそうです。

高知の活きの良いピンピンした魚と比べたら、大野の魚は干物が中心。生臭さの嫌悪感が記憶に残り、本当に、匂いを嗅ぐのも嫌でした。
その中で唯一、味の記憶があるのは、ハタハタの味です。太平洋にはあり得ない、うっすらとした味で、ハタハタ特有のしょっぱい味は、私にとって決して幸せを呼ぶ味ではありませんでした。

次に転勤で住んだ茅ヶ崎では、新鮮な魚が頂けず私だけ食べそびれた思いがあります。
頂くことが出来たお寿司は、タコとイカと卵焼き。。。今考えると、本当に安上がりな子供でした。妹は、美味しそうにパクパク・・・。

本日はキリスト教の「主の晩餐」の日です。最後の晩餐といえば皆さんお分かりでしょう。

スーパーに行き、本日の夕食を考えて魚売り場に佇んでいたら、私の横で店員さんがハタハタを並べ始めました。一時は幻の魚となったハタハタ。かつての魚嫌いの生活、このハタハタを見るたびに思い出すので、干物は買っても生は買ったことはありませんでした。
今日、私がハタハタと出合ったのは、何かあるかな、と思い、初めて生のハタハタを買うことにしました。

そして40年ぶりに、しっかりとハタハタを味わいました。
最後の晩餐に、ハタハタ、というのは私の本望ではありませんが、今日頂いたハタハタは、お酒に合う、品のある味をしていました。息を止めて飲みこんだ子供の頃の思い出が蘇り、何だか可笑しい気分です。

改めて、大人になった味覚を確認できたようです。

ハタハタ頂きながら、魚類の名に詳しい息子が、「お母さん、ハタハタって、魚偏に神って書くんだよ。」と一言。広辞苑で調べたら、正解。

なるほど、なるほど・・・。

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月八日

2007年04月03日 | 第2章 五感と体感
今年のお釈迦様の誕生日(お花まつり)は、キリスト教の復活祭(イースター)と重なります。
お釈迦様の誕生日は四月八日ですが、復活祭は春分を過ぎ、初めての満月の週の日曜日となります。というわけですので、特定の日にちが復活祭ではありません。

一度四月七日に東大寺を訪れたことがあります。春の日差しが冷たい空気に刺さり、とても明るく爽やかだったことを覚えています。
本殿前にはお花が散りばめられた花台が飾られ、いつもの風格ある建物とはうってかわり、ちょっぴり色気を感じる東大寺の風景を覗くことができました。

東西の神様が同じ日に迎えられる特別な恵まれた日だと思います。

そして、良い方に、明るい方に向おうとする姿は、植物も人も同じよう。

桜も咲き、一雨毎に暖かくなる春の一日一日を、慈しみながら過ごしたいものです。


人気blogランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする