五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

掛け軸の取り合わせ

2012年09月30日 | 第2章 五感と体感
☆今日は久しぶりに表装のお話です☆

私の所属している表導会では、指導員に月一度ボスである師匠の綴る文章が届きます。

深く哲学的なものもあれば、身辺に起こったことや技術に関することが綴られ、毎回拝読するのを楽しみにしています。

今回は、掛け軸の取り合わせ。つまり、本紙(作品)と着せる裂等の取り合わせのことが書かれてありました。
表装する側が、何を目的とするのか。。。ということを考えさせられる内容でした。

本紙を見せるために着せながらも、本紙を引き立たせつつ着せる裂の主張も大事です。でも、本紙よりも引き出てしまうと、それは、ちょっと違います。
私は本紙の意味と共にあるのが軸装の役目であると解釈しています。

淡い色合いの裂ばかりを使い、一見品良く仕立てることは簡単なことですが、裂の織りの種類、糸の種類、そして色、柄の内容を本紙と付き合わせ、突き詰めていこうとすると、たった一日で取り合わせを決められるものではありません。

とはいえ、表装する側の感性はそれぞれで、着せるものの好みや傾向もあるので、この表装は誰が仕立てたか。。。という観点で見ると、勿論仕立てた人の個性が見えてきます。

掛け軸の取り合わせは、建築と同じだなぁ・・・と、思っています。

施主のライフスタイル、性格、趣味、諸々の傾向を話し合いながら掴んでいくと、どんな家にしようか、どんな照明にしようか、家具にしようか、段々とイメージを掴んでいきます。建築家の傾向については、施主がもともと選んで設計事務所に来ているので、建築家の総体的なアイデンティティは掴んでいるはずです。そこで、敢えて建築家に委ねることで、住まう人は、住まう事で自分の個性をより生かしていくのです。

相互関係の趣味の傾向が合う事はとても大事なことでありますし、かといって作る側が自己主張するばかりでは許されることではありません。どこまで自己の個性を相手にそり合わせて行くかということが、課題になるわけです。それが、プロの仕事なのですから。

そんなことをツラツラ考えながら、昨日も取り合わせに腕組みすること2時間。。。実際に裂を裏打ちしたものの、それでもまだ、悩みつつ、本紙の書を眺める時間が過ぎていきました。

取り合わせが決まれば、あとは仕立てていくだけです。でも、そこまで行き着くまでが生みの苦しみなのです。

そこまで考える必要はないのかもしれませんが、そこが私の個性なわけです。

出すぎず、品良く、融和しつつ、象徴的な意味合いを解釈しながら成るべくそれに見合う取り合わせをし、下手なデザインはせず基本形に忠実に。。。が、私のアイデンティティといえるかもしれません。

昨晩遅くに、表装のお仲間から軸装の相談の電話が入りました。これもまた、以心伝心と、嬉しく思いました。

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奈良豆比古神社の楠

2012年09月29日 | 第2章 五感と体感
樹齢千年はあるであろう奈良坂を上がりきったところにある奈良豆比古神社の御神木である楠は圧巻です。

人が踏み込みにくい、森の奥深くにある巨木とは違い、長い歴史を見守り続けてきた木に宿る意志のようなものが長い時を経て凝縮されたように宿り、強く逞しく、根を張り、枝を張り、生き続けているのです。

境界を見守り続ける木といえば、あの楠を想い描きます。

奈良豆比古神社の翁舞を拝見してから一年。また、この時期がやってきました。

秋風吹く奈良の都を歩く旅をしたくてうずうずしてくるのは、身体が無意識に魂の故郷への回帰を欲している証拠かもしれません。

私にしては珍しく、丸一年奈良を歩いていません。年内中は、別の場所を旅することを予定しているので、少々お預けになりそうです。
12月に入ると春日大社の御祭りがあり、神様をお迎えし、神様がお帰りになると、一気に東大寺二月堂の修二会の気分が盛り上がってきます。

暦と歳時は、私が生きていく上での大切な尺度です。

般若寺のコスモスもきっと美しく咲き誇っていることでしょう。

般若寺に行かれたら、ほんの数分足を伸ばして、奈良豆比古神社の楠に会いにいってみてくださいませ。

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自分を一本の木に例えるなら?

2012年09月27日 | 第1章 意識と知覚
日本人のアイデンティティと自己のアイデンティティを意識化することが昨日の勉強会のメインのテーマでした。

キリスト教文化で生まれた心理学の学問を学ぶことは、理論を学ぶだけなら問題ないのですが、やはり私は日本人です。なので、臨床心理学を学び続けていくには、このテーマで向き合っていくととしっくりするのです。

昨日はアマテラスと持統天皇の関係を学びつつ、自己のアイデンティティについて、それぞれの思いを語り合いました。

そこで、問われたことを一つ、ここで私も問いかけてみます。

前後のセッションは長くなるのでここでは書きません。

「あなたが木であるとしたら、何の木ですか?」

この問いに、「菩提樹…」と、ふと思いました。

根っこも幹も枝もどこもかしこも安定感がある菩提樹。葉っぱの緑は黒々しています。

ある方に、どこの菩提樹を思ったの?と聞かれ、気付いたことがあります。

それは若い頃旅した印度の旅で、ルンビニに立ち寄ったことを私は思い出していたようです。釈迦が生まれたルンビニの生誕地だという場所で見た菩提樹の木です。
私が初めて菩提樹という木を意識した場所であり、以降、この映像が自分の中に象徴化されていることに気付きました。

数十年、ルンビニに行ったことを忘れていました。

記憶とイメージ、というのは、いつどこでどういうふうに引き出されてくるかわからないな、と、またまた面白さを感じた一日でした。

天の岩戸を開けたアマテラスのお顔(面)が、光に当たっていなかったので真っ白だったことが「面白し」の語源だと、どこかで学んだような気がしているのですが、ガセでしたらごめんなさい(笑)

余談ですが、日曜日の日本経済新聞の本の紹介に目が留まりました。フランスでベストセラーになった本です。「フレデリック・ルノワール著の哲学者キリスト」原点に帰りたく、自己のアイデンティティを見直す意味で、フランス人がキリスト教から紐解いていくことは当然のことです。キリストを哲学者とみなし、中世の悪行以前の原点を見つめる作業をしたくなる情動は、人類の普遍的欲求なのだと、しみじみ思います。

日本人はというと、古事記・日本書紀のアイデンティティを含みながらも、それ以前の古層を学ぶことの情動が湧くのは、やはり当然のことであると思うのです。

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現象をありのままに

2012年09月26日 | 第2章 五感と体感
「現象をありのままに受容する」ことについて自己点検することは、普段の生活でできていないことのほうが当たり前のことかもしれません。

自分の感情は、今、どんな感情が湧きあがっていて、そこからどんな考え方が意識化できるか。それによって自分はどんな行動をとっているか。

この「思考と感情と行動」の関係を自分自身が自分自身で的確に捉えられていると確信しているとしたら、きっとその人はよほど修練を積んでいるか、思い違いがはなはだしい人か、とても傲慢な人か、な。。。と、いう思いが湧いてきます。もしかしたら、ものすごく思い込みが激しく、おっちょこちょいな人であるかもしれません。あわてんぼうさんも居るかもしれません。

思いもよらないことが、身辺で起きた時、自分はどんな「思考と感情と行動」で自分を動かしているでしょうか?

私自身の傾向としては、冷静にならねばならないという意識が物凄く強く働き、自分を瞬間的に抑制する傾向があるようです。小学生の頃大人の事情を直に説明を受けられないことを数回経験した事で、両親の動きやそれに纏わる社会の動きをじぃっ~と垣間見ていた生育史があるせいか、回りの様子をじぃーっと観察しながら把握していく傾向が強いのが、私の傾向です。

つまり、抑制が強く、他者を見ることはできても、自分の感情を抑え込み外に表現できないので、幼稚園や小学生の頃は夜中無意識に起き出し夢遊病のように歩いていたこともあれば、不眠など度々でした。他には帯状疱疹、度々起こる中耳炎等、身体に起こる現象は、今から思うと、抑制による影響が身体に出ていたことはな違いなさそうです。
自分自身を抑制していた分、身体に症状が表れて、心と身体のバランスを取っていたのでしょう。

最近のことの例でしたら、東日本大震災です。揺れているビルで自分の身のことで精いっぱいのはずなのに、その場に一緒に居た複数の人の様子をじぃーっと観察している自分がいました。
つまり、瞬間的に自分を抑制するスイッチが働いたというわけです。
その三日後、私自身、自分で把握している傾向通り抑制していた自分の限界が身体に表れ、風邪をひき身体が動かなくなりました。何をすればよいのか、何を見据えればよいのか、テレビの画面をじぃーっと見据えている自分が居ました。

幼い頃は、自分でありながら自分であらずの自分にヘンだとは思う事はありませんでしたが、大人になり心理療法の勉強を続けているうちに、自分の傾向が見えてきたのです。

家庭や職場、社会で起こる事を、自分がどのくらい「現象を現象としてありのままに受け容れているか、できていないか」を時々立ち止まって自己点検することは、自分の健康のバロメーターにもなるかもしれません。

私自身、自然体になるには修業が足りず、生きているうちに自然体になることは難しいかな、とも思いますが、自然体になろう。。。という言葉だけは、常に意識していたいものです。

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面白い出会い

2012年09月25日 | 第2章 五感と体感
昨日は、表装の作業をした後、人生初めての乳がん検査「マンモグラフィー」を受けてから、友達のイタリア食品輸入会社「BIO ITALIA」が出店していた(昨日で終了)横浜高島屋イタリアンフェアーに行ってきました。

スタッフには親しい友達もおり、ひときわ美人揃いのブースだったので、遠くから見ても解るくらい御光?が射していました(笑)
普段は都内で展開していて、横浜での販売は初めてということで、BIO ITALIAの自然食品をあれこれ試食させていただき、肩から下げる布袋を三つ下げて帰路に。

オリーブオイルやパスタやトマトソース等は当然ですが重たいわけで、ふうふういいながら駅から自宅に向かって歩いていると、別の路地から、全く同じ布袋を肩から掛けているマダムと鉢合わせ。

互いに「あら!」

マダム「昨日、ここのお店で買って頂いたら、美味しいので、今日も行っちゃったのよ」

私「嬉しです。お友達のお店なんです」

マダム「あら~~、嬉しいわ~、」等々…

女性は初対面の人でも人生を5分で語ることができる(私の格言ですが^^;)わけで、互いに親しみが籠った会話で息投合。

結局、我が家から100メートルくらい先に住んでいる方と解り、しかも私と親しくしている方と親しいことも解り、互いに手を振りながらお別れしました。

食は、人を幸福にしますが、お店の袋が取り持つ縁で、一層幸福感が増しました。

昨晩の夕食は、早速パスタをバジルオイルとバジルソースであえ、鶏もも肉を塩コショウし、オリーブオイルで焼き、ドライトマトのオリーブ漬けをさっとあえ、バルサミコを少々かけたサラダを作りました。

たった20分でしっかりとしたイタリア料理が完成し、満足な夕餉となりました。

それにしてもスタッフのAちゃんは、長きにわたるお友達ですが、やっぱり素敵だな~と思います。彼女が取り持つ縁が、それだけでは無いことも、きっと何か意味があるのかもしれません。

BIO ITALIAの輸入食品、美味しいです。さすが、BIOです。美味しいものを頂き、元気に秋を過ごしたいものです。
でも、美味しすぎてレディーガガさんのようにならないよう、気をつけなくては、ね^^//

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私とあなたを分ける

2012年09月24日 | 第2章 五感と体感
この連休は、私が関わる学校の文化祭があり、私が訪れた昨日の日曜日は、雨にも関わらず大盛況でした。保護者の皆様との触れ合いもでき、卒業生との再会も果たせたりと、私自身も大いに楽しませていただきました。
ありがとうございます。

さて、今日は「私」と「あなた」という関係における、「私」について、考えてみます。

特に女性の場合、自分と比べて何かの違いを感じた時、「〇〇さんのようにはなれないわ~」と、ふと口に出ることがあります。

「〇〇さんのようにはなれないわ~」

この言葉は、案外、言われた相手やその言葉を聞いた第三者にとっては刃になりかねないかな、と思います。


つまり、

単に賞賛しているのか?

それとも、自分と比べて、自分よりで秀いでていると感じた時に感じる嫉妬の裏返しの表現なのか?

もしくは、自分と比べて、自分よりも劣っていると感じた時に感じる侮蔑の表現なのか?

ついつい、人の発する言葉を聴くという仕事をしていると、その言葉の裏側にあるその人の感情に焦点を当てたくなります。

はてさて、
「他者と自分を比べる」ことを、どの程度まで口に出すか…、ということも、この学びの修業のひとつであるかもしれません。

「他者の話を聴く」、つまり「傾聴する立場」になった時、
という行為の状況下において、「既に自分以外の意外な世界に足を突っ込んでいる」ということを忘れてはならないことを意識化しておく必要がありそうです。

〇〇さんのようになれないことは、当たり前のことなのですから…。

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そろそろ奈良に

2012年09月22日 | 第2章 五感と体感
今年に入り、京都や名古屋、東北への旅が重なり、私にしては珍しいことに昨年の奈良豆比古神社の翁舞と山の辺の道11キロを歩いて以来、奈良を訪れていません。奈良の旅から11カ月。とはいえ、ツイッターやFBで毎日奈良や京都方面から発信されるつぶやきや情報のお陰で、奈良病(これは私の造語です)にかからずに済んでいます。SNSの私の使い方は、随分お得かな、と思っています(笑)

先日、ふと思い出し、日本国内で、行きたい場所をざっくりと書いてみました。すると、軽く12か所ありました。でも、これはあくまでもざっくりであり、細かく書くと、一か所一回の旅で巡り切ることはできません。

辻邦生氏の西行花伝の中で、西行法師が40年ぶりの陸奥の旅で、自分が山道を歩き、その山道の根っこを越す足の感覚、そしてその時の空気がまざまざと蘇ってくる場面の描写がありました。心に沁み入る美しい場面でした。

旅とは、このような感覚の繰り返しであるかもしれない思い、その思い出す体感を感じたい為の旅であるような気がし、同じ場所を定点観測のように歩くことは、その蘇る体感によって、自己の変化を意識化することに直結するようにも思いました。

蘇る体感は、私も時々起こります。

五感を大切にするほど、その蘇る体感に出合う事ができるように思います。

自分が行って、見て、感じることの体感は、画面から通して感じることはできるものではありません。

そのような意味で、東大寺の裏手、二月堂への小路で感じた自分の体感は、ひょっとしたら本当に私の生涯持ち続ける宝物かもしれません。

巻子持ち、草履を履いた小僧がパタパタと講堂に向かって走っている感覚。。。これは、千年前の私の眠っていた魂が、小路を歩く私に、蘇らせてくれたのだと信じています。
奈良病発症はまだですが(笑)この体感を蘇らせたく、奈良の旅をしたいなぁ…と、思う秋の始まりの週末です。

結局は、奈良や高野山や近江や京都や神戸、大阪から発信してくださる皆様のお陰で、なんとか持ちこたえているのかもしれません。
皆様に、感謝しております。

ああ、、、、旅したい、、、

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一日の始まりの体感

2012年09月21日 | 第2章 五感と体感
朝起きた時の自分の感情とか体感は、その日一日の過ごし方に大きく影響します。

暗めの感情が目覚めた時の感情だったりすると、一日の出来事に、悲観的だったり、投げやりだったり、否定的だったり、、、ずるずるとその感情に呑みこまれていったりします。

明るめの感情が目覚めの時の感情だったりすると、一日の出来事に、楽観的だったり、受容的だったり、、、つまり、出来事の解釈が明るく、ストレスの無い状態にもっていくことができるようです。

私の今朝は、久しぶりに涼しく寝やすい夜を爆睡し、起きてみると何となく頭が重たい朝です。

「ああ、、、寝起きが悪かったから、やっぱりねぇ~」ということにならないよう、血の巡りを良くして仕事に出かけたいな、と思います。

暑い気候に対応していた身体が、急に冷たい空気に晒され、身体の中も混乱しているはずです。
こんな時の体調の変化に、できれば無理せず、馴染ませていくことができるといいですね。。。

朝、起きた時の、自分の感情と体感を意識しておくと、一日の自分の過ごし方も決められそうです。

過ごしやすい気候だからといっても、身体の変化を無視しないよう気を付けたいものです。

本日は東急セミナーBE雪谷教室の日です。「傾聴」について、じっくりと勉強していく予定です。体験の方もいらっしゃるようで嬉しいです。

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嬉しい事・心配な事

2012年09月20日 | 第2章 五感と体感
例年なら台風一過毎に秋に衣替えしていくのですが、今年の秋もなんだかいつもと違います。

とはいえ、「暑さ寒さも彼岸まで」は、地球の気候環境が変わっても、何故だか24節季通りのように感じます。

ちょっとだけ、湿度の下がった今朝の空気に安堵感を持つと、仕事もはかどるように思います。

明日は、二カ月ぶりに東急セミナーBE「雪谷」での生き甲斐の心理学講座です。
来週の金曜日はたまプラーザの講座です。
10月と11月には、「パパとママのための生き甲斐の心理学講座」を行います。
出会う人が増えてくることで、この学びが広がっていきます。

小さな活動ですが、子供から大人まで、その時その時に見合った身の丈の自分の生き方を、ちょっと立ち止まって見つめることをお手伝いできる機会は、私にとっての生き甲斐でもあるのです。

暑い夏の衣替えと共に、勉強会も一気に始まりました。

夏の疲れを癒しながら、関わる学校の週末の文化祭を楽しみに、秋のイベントも大切にしていきたいと思います。

二、三日前から、親しい表具屋さんが私の掛け軸をショーウィンドーに飾ってくださっています。

そんなこんなで嬉しいことも続いています。
心配なこと、不安なことも、色々とあるわけですが、
嬉しい事と心配な事を秤で量ってみると、嬉しいことのほうが重そうです。

嬉しい事、平安感、幸福感、統御感が自分の中にどのくらいあるかな・・・、と自分に問いてみると、不安なこと心配なことが、わらわらと湧いてきます。
その湧いてくる感情を打ち消すことなく自分で受け容れてみると、不安なこと、心配なことが、もう少し具体的な形となって表れてくるのです。

その時に、平安感と不安感をきちっと分けることができたら、心の整理がかなりできている証拠かもしれません。

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感情の処理をどうしてる?

2012年09月19日 | 第2章 五感と体感
湧き出す感情には必ず意味があります。

そして、湧き出す感情は、無から有が生まれないのと同じで、生まれてから今日までの自分自身の「遺伝・環境・老化・分泌・自律神経・免疫」を含んだ生育史から育まれた考え方から自然と湧き出してくるのが感情と云われています。勿論、怖い、怖くない、という「原初感情」に基づいて構築されている考え方と言えると私は解釈しています。

怖い

怖くない

この感情は生まれた時から備わっていて、お腹が空いたら命の危険性を感じ、空腹感を鳴いて訴える赤ちゃんは、一番解りやすい例だと教えられました。

この原初感情に、生まれてから今日までの環境と経験によって、自分の傾向が個性として定着していきます。

何かの現象が起こり、それによって湧き出してくる感情が、各々違うのは、それぞれの人の「遺伝・環境・老化・分泌・自律神経・免疫」が違うからです。

昨日の四ツ谷勉強会では、「湧き出してくる感情の処理に悩む自分の傾向について」のお題が掲げられ、それぞれの参加者の自分の傾向の言語化に面白さを感じさせていただきました。

勉強したての方々は、どうしても自分のありのままの感情を言語化しにくく、理想ばかりに囚われ励ます自分や理想の自分を語りがちになったりするのですが、この勉強会では、学びを続けて十数年経ちつつも勉強会に定期的に参加している人の割合が多く、改めてこの方々の誘因力が参加者の自然体をイイ感じで相乗し合っているように思いました。

各々の自分の身体と心にピタッとした言葉が紡がれると、腹の底からひっくり返したような清浄感を感じます。

嘘じゃない。。。つまり「怖くない」という、私自身の原初感情が安心なものとして身体に響いてくるのです。

これらの湧き出す感情の処理を自分自身がどのように取り扱っているかを意識化することで、自分の生き抜く方法も見えてくるようです。

他者の方法は自分の方法ではありません。自分の内にある生き延び方は、ちゃんと自分の内に備わっているはずです。

自己の生育史を見つめながら、見えてくるものをそっと受け容れていくことも、今後生きてゆく上での大切な作業であると思うのです。
自分を見つめる機会を与えられている状態は、自分が生き抜くための分岐点に立っている自分であり、宿り木にとまっている鳥のような自分かもしれません。

湧き出す感情の処理の仕方は、自分の内にある答えと向き合うしか術はなさそうです。

昨日の勉強会で、長い勉強仲間の底力を見せていただいたようで、ほんとうに気持のよいものでした。

来月も仲間が集い、朗らかに過ごす時間を楽しみにしています。

植村先生の世話人ぶりは、やはり素晴らしいと、改めて師匠に感謝しています。

自分の学びを止める時は、この仕事を止める時ですし、多分私が命を終える時でありたいなぁとしみじみ思いました。

昨晩、tvニュースを見ていたら「楽観は意志である」というフランスの哲学者の言葉を引用している語りが耳に飛び込んできました。なるほど、、、昨日の勉強会で私自身が語った、楽観と冷酷のバランスについての腑に落ちる答えを感じ、ちょっとびっくりしました。叶う時とは、腑に落ちる時と同じかもしれないな、と、生きていることの面白さを改めて味わったような気分になっています。

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今年も萩が咲きだしました

2012年09月18日 | 第2章 五感と体感
我が家の名物萩は、狂言の「萩大名」でも登場する宮城野萩です。

長い枝が優雅にしなり、大きく広がった様子を観ることのできる私の年に一度の楽しみな期間です。

夏は夏椿(沙羅双樹)、秋は萩。その脇に添うように秋明菊が咲き、蒸し暑い残暑厳しいこの頃なれど、秋の風情はしっかりと感ずることができています。

今年は5月に嵐があり、せっかく伸びた枝が折れてしまい切らざるを得ず、その後出てきた三番枝が返って塩梅良い高さとなり、庭から鑑賞するにはとても良い形となりました。

今朝も涼やかな風に遊ぶ萩。

満開にはまだ早いので、たぶん一カ月近くは楽しむことができそうです。

花が終わり、秋が深まるにつれ黄色く色付く葉も風情良し。
黄色く色付いた葉が徐々に落ちる風情も嬉し。

今日も珈琲を頂きながら萩から平安感を頂き、張り切りつつも穏やかに過ごすことができそうです。

街を歩きながら秋を見つけつつ。

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ほんのいっとき

2012年09月17日 | 第2章 五感と体感
昨日の午後は、我が家での勉強会でした。
高校時代の友人、先輩、同じ趣味の仲間が集まり勉強会行っているのですが、自分の道を自信を持って歩んでいく姿が、段々と眩しく映るようになってきました。

必死になって生き抜いている過程において、自分の事を考えようとする時間を持つことを大事にすることができるという事は、想像力の豊かな証拠かもしれません。

家庭の事、仕事の事、自分の事、良い事、悪い事…
生きていると色々なことがあります。
色々なことがあって当然だし、生きているからこそ、色々な体験をするのです。
でも、辛い状況の時、一人で抱え込んで閉塞的になるよりも、自分の呟きを否定も肯定もせず、互いに聴き合う場所があると、心と身体の重荷が、ほんの少し、一時でも、軽くなるのです。

ほんの少し。ほんのいっとき。

ほんの少しでも、一時でも軽くなる開放感の時間を少しずつ、薄紙を重ねるように積み上げていくと、自分の幸福感が徐々に意識化されていくように思います。

幸福感の薄紙が重なり、ふと不安感から平安感へ反転していることに気付くとどんな感情が湧いてくるかは、体験してみて初めて体感できるお恵みかもしれません。

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夕顔を廻る思い

2012年09月16日 | 第2章 五感と体感
昨日は師匠の能を鑑賞してきました。
(パソコンだと「しとみ」という漢字が出てこず、私の技術が未熟で「はしとみ」と平仮名で書かざる得ません)

源氏物語に登場する夕顔の霊を描いた「はしとみ」です。「半」と「しとみ」←しとみは。昔の窓の形式のことです。板戸をつっかえ棒で支えて開ける形の戸。

「雨夜の品定め」の章で、若い公達達が、雨降る夜に女子について語り、あれこれと自分の経験や噂話に花を咲かします。
その中にも登場する夕顔は、何となく男子達の間ではミステリアスで気になる存在としても登場します。

ある日、光源氏が自分の乳母の見舞いを訪れた際、ふと隣の侘びた家に目が留まります。側近の惟光をパシリ(笑)に使い、夕顔と歌を交わすことから交際が始まります。

昨日の能は、狂言が「萩大名」。歌を詠むのが大の苦手の大名が萩の歌を廻って大騒ぎとなるお話ですが、夕顔と萩大名の素敵な組み合わせに大満足。。。その上、お腹を抱えて大笑いしました。

夕顔は、今でいうイケメン男子にモテモテで、光源氏と縁の深い頭の中将との間にはすでに女の子が生まれており、光源氏と逢瀬を交わす中、六条の御息所の怨霊に苦しめられ、儚くも命を落としてしまいます。
そのような不幸が、後の玉葛(夕顔の娘)のシンデレラストーリーを生んでいくのです。

夕顔が亡くなるシーン。そして、その後の光源氏の感情と行動の描写は絶妙な面白さがあり、夕顔という女性を巡って表れる現象のほうが私に強く印象を与えているところが、返って「夕顔」という儚い花のイメージと重なるように思っています。

儚き夢の跡。
自信満々の若き光源氏にあれだけのストレスを与えた夕顔という女性は、光源氏の将来に大きな影響を与えたと言っても言い過ぎではなさそうです。

源氏物語を人の感情と思考と行動の曼荼羅図であると解釈して読むと源氏物語を一層深く、読み解くことができるのです。

年齢を重ねる毎に読書を繰り返していくことで、解釈に深みが出てくるこの本は平家物語と同じく、我が人生を歩む友として携えている本であると、しみじみ思うのでした。

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森から森を論ず

2012年09月15日 | 第2章 五感と体感
西洋美術館で行われているベルリン国立美術館展と三井記念美術館で行われている近江の神と仏展を見てきました。

大規模な展覧会に行くといつも思う事があります。

「ほんとうに日本人は学習欲旺盛だなぁ…」

多くの人が「私は宗教を持たない」と意識化しているのですが、聖母子像や聖人、そしてギリシャ神話に登場する神々の肖像画や彫刻を熱心に見ている光景を目にします。「ああ、これが日本人の信仰のありかたなのかな」と、勿論自分自身も神様仏様、キリスト、マリア、古層の神々…なわけですが、このような光景の中に居る自分が、宗教を妄信しているのでは無く、信仰している自分なのだ、ということを改めて意識化する良い機会と言えるかもしれません。

昨日の二つの展覧会に共通していたことは、つまり、これらのことなのです。

光を観る

「観光」は、人が普遍的に持ち備えている生き抜くためのエネルギーの媒体であり、その媒体をどのように自分が解釈し生き延びていこうとするか・・・、そのノウハウが日本人のアイデンティティとして確立しているというわけです。

一つの考え方だけを妄信する生き方を選ばなかった日本人は、森の豊かさゆえであったかもしれません。深い森、深い山、四方に囲まれた大海…、そして四季の移り変わりによる気候の変化。それに加え、太古から日本にやってきた渡来人との融合と隔離が人々の好奇心と排他を生み出ししてきたことも歴史の中で行われてきたことなのです。

森というファジーな境界線を海にも求めようとするならば、その思想をもう少し主張しても良いのではなかろうか。。。と、思うのは、文化的見地からしかモノを観ることができていない私の勝手な考えかもしれません。
昨日は、ドイツの森の木々から作られた木彫に心を奪われました。そして近江の神仏像も同じです。朽ちた木彫から醸し出される互いの国の信仰事情は、象徴的には違えども、普遍性としての本質は何ら変わるものは無いのです。

森が生み出す神話は私の心を動かします。

ケルトも然り。
山人も然り。

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9月の憂鬱

2012年09月14日 | 第2章 五感と体感
残暑とはいえ、夏の暑さからくらべると随分過ごしやすくなりました。

9月に入り暫くすると、夏の疲れが出始めるそうです。

季節の変わり目に身体も変化しつつありますが、それが自分に憂鬱な気分を引き起こしたりします。
理由もわからず、憂鬱な気分に埋没すると、益々憂鬱になります。

季節の変わり目の体調は、なんとなく不安定になりがちです。

そんな時は自分の身体を酷使せず、リラックスすることを心がけてみると良いかもしれません。

暇な時間を暇に過ごすことを自分に課することも、現代に生きる私達にとって大事なことのように思います。

憂鬱な気分の時は、体調を点検しつつ、身体の問題なのか、心の問題なのか吟味してみては如何でしょう?

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