五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

宝船

2006年12月31日 | 第2章 五感と体感
お正月に毎年飾る我が家の宝船は、色鮮やかな水引きでできており、38年間大切にしているものです。
幼馴染のお友達のお母さんから頂いた大切な宝船。

5歳から7歳まで住んだ福井県大野市は、しっかりとした五感の記憶のある場所です。
高知から越してきた私にとって、全てが未知の体験でした。
「水の街」大野には水路があって、野菜を洗いながらおしゃべりしているおばさん達、機織り工場の織機の音、田んぼのあぜ道、雪に埋もれる冬の厳しさ、見るもの聞くもの、触れるもの、味わうものまでもが新鮮な興味の対象だったようです。
小学校一年生の春の遠足で、小高い山に登り、そこでついさっきまで熊の居た形跡のある
穴を先生が見つけ、皆で慌てて山を降りたことも、良い思い出です。

幼い頃、五感で感じ取ったものは、いとも簡単に鮮明に浮かび上がります。
そして、このように経験した五感の蓄積は、生きる原動力になっていきます。

高知が「太陽」だとしたら大野は「月」。

太陽と月を生まれ変わってそれぞれ経験したように思っています。
左右対象のもの、対極にあるものであってもどちらもその場所に住んでいる人々にとっては正しく、そして真実なのです。
私が日本の中にある文化や風習の差異を知ったのは、きっとこの頃だったのでしょう。

水引きの宝船は、「月」のアイデンティティを思い起こしてくれる大切な道具です。

気候・風習・文化・宗教それらの違いを知ることは、平和への第一歩。。。
知ることは受容に繋がると信じています。

太陽と月をそれぞれ体験している私は、恵まれているのかもしれません。

お正月、故郷や幼い頃を思い出しながら、五感の体験を思い起こしてみてはいかがでしょう。

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悔い無き生涯

2006年12月28日 | 第1章 意識と知覚
春に母方の親戚が亡くなりました。
叔父は、毎年仏像を木版画にしたものを年賀状にしていました。
毎年のことなので、私はあまり熟視せず、年賀状を書くために今年頂いた年賀状を再読し、昨日改めて気付いたのです。

叔父は、昨年末、大日如来を彫っていました。
仏様は柔和なお顔です。
美しい線は、叔父の修練の賜。
死を想って彫ったのでしょうか。

大日如来は、最期を迎えるまで取っておこう。そして時期がきたら彫ろう。
多分、そんな想いで毎年、仏像を彫りつづけたのだと思います。

私達は、スピリチュアル・ケア-(死を迎える方々への心と魂のケア-)を学びを通して、「自分の悔い無き死」を文章にします。
これは、一生の勉強といっても良いでしょう。
他人の信仰や思いは、その人のみにしかわかりません。同じ信仰を持っていても、解釈は驚くほど違います。同じ親から生まれた兄弟でも、決して同じ思いで生きているわけではありません。
だからこそ、聴く側が「自分の悔い無き死」を思索するのです。「聴く」立場の「柱」が揺らいでいては、話す人は混乱します。

「死を想う」

叔父は、私が幼い頃は、カトリックの信仰を持っていました。居間に祭壇があり、十字架とマリア様が飾ってありました。

それが、いつのまにか、仏様へと思いが移ったようです。
理由を聞いたことはありませんでした。
「死を想う」ことは、「どのように生きるか」と同じ事なのです。
悔い無く生きた叔父の人生は、めでたく大日如来で貫徹しました。

私の悔い無き人生。
一日を慈しみながら生きることです。
自分の体に、たくさんの喜びを与えて、日々、瞬間に「感じる」ことを大切にしていきたいものです。

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障子張り

2006年12月26日 | 第2章 五感と体感
我が家には、和室がありません。
なるべく広いリビングが欲しかったため、和室で区切らず、一階はリビングのみ。

その代わり、リビングにある二間の長さの出窓に障子を入れました。

「生き甲斐の心理学」のカウンセリング教育活動は、私の生涯続けたい「私の生き甲斐
」でありますが、もう一つ、足掛け13年続いている「表装」があります。

「表装」とは、掛け軸や屏風、障子、襖を総称して指す言葉です。

そんな儚いプライドがあるために、アイロンで簡単に張れる障子用和紙には、目もくれず、今年も従来の和紙を購入し、江戸時代から伝わる糊を使い、悦に浸ろうな~んて思って始めたのが不運の始まり・・・。

いつもなら、すんなりと張れる和紙が上手に張れず、やっ仕上がり、翌朝見ると、一部が剥がれているのです。

よくよく考えてみると、この江戸時代から伝わる糊は、今まで障子張りに使ったことが無く、しかも、乾燥した時期にしては、和紙の湿りが足りなかったようです。

仕方ありません。また、やり直し。結局、今年のクリスマスは、障子張りに時間を費やしてしまいました。もう少し、本を読んだり、書き物をしたりすれば良かったと反省しきりです。

クリスマスを満喫してから、作業すべきでした。

先を焦らず、「今やるべきこと」、「今楽しむこと」を優先したほうが良さそう。

こんなことも、あるさ。

気を持ち直し、お正月を迎えるまで落ち着いて暮らします。


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植物の奏でる音

2006年12月21日 | 第2章 五感と体感
我が家の庭は、すっかり冬ごもりです。
萩は、のこぎりで根元から枝を切り落とし、きれいさっぱり、風でなびいていた長い枝が視界から消えました。

モミジも悔い無く葉を散らし、来年の枝振りを想像しながら剪定してあげました。

今朝のラジオに、「植物が発する電波を捉え、音楽にする」そんな素敵なことを研究している先生が出演していました。
ラジオに流したのは、南米の「蘭」の音楽。
確かに、パーカッションのリズムがメロディーを明るく表現し、鮮やかな色の花が、森の中で自己をアピールしてる、そんな感じの曲に聴こえました。

植物は、朝から昼に、活発に音楽を奏で、少しお昼寝してから、また夕方に元気な音楽に
なるそうです。そして、夜はお休み。

大木は、落ち着いた音を奏で、雑草は忙しそうに奏でるそうです。

なるほど、どの世界も、生きていくには、それなりのエネルギーを表出していくことが必要なんだ、、、。

その研究の先生曰く、
「コンピューターに変換しなくても、人の持つ五感で、自然に植物の音楽が聴けるようになるとよいですね。人は、五感をもっと磨く必要があります」と。

朝から、こんな素敵な響く言葉を頂き、嬉しい気分となりました。

今日の私が奏でる音は、どんな音でしょう。。。
何かとガサガサ動いているので、決して優雅な音ではなさそう・・・

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もみじ

2006年12月17日 | 第2章 五感と体感
大らかに伸びすぎた萩の続編です。

想定外に伸びてしまった萩は、この数日で完全に葉が落ちました。
そのおかげで、植えて3年目のもみじの木は萩に圧倒され、萩に埋もれてしまい、窮屈な日々を送っていました。
その窮屈さによる忍耐からようやく解放され、今、葉っぱを赤く染めています。
今年の紅葉は、例年より遅れ気味で、それが幸いしたようです。葉陰での生活を余儀なくされていたもみじは、ようやく陽の光を浴び、葉を落とす準備を始めたように見えます。

萩の枝に、今日もめじろが虫を突っつきにやってきましたが、冬支度のため、そろそろ枝切りをしなくてはなりません。
来年の庭を愉しむために、今週はまめに庭仕事という事になりそうです。


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ロナウジーニョ

2006年12月15日 | 第1章 意識と知覚
昨晩は、横浜のスタジアムで家族でサッカー観戦を楽しみました。
日本でロナウジーニョの動きを間近で観る事ができる唯一のチャンス。

雨降る中、6万3千人の観客が、ヨーロッパで活躍する選手達の華麗な姿を凝視したわけです。

期待通り、心地良いものでした。

何が心地良いか。

ロナウジーニョの持つ高い技術と、センス、そして生まれ持って与えられた体と明るい性格が、サッカーを通して表現され、私に感動を与えてくれました。
だから、心地良かったのです。

「知覚」と「意識」。
私達は、自分が見えたもや感じたものに反応し、意識化し、
それについて解釈しながら生活しています。

人は、理想と現実のギャップがあればあるほど、悩みが深くなります。元気もなくなります。疑い深くもなります。人を攻撃したり悲観的になったりします。

昨晩、私が観たロナウジーニョは、私の理想のサッカープレーでした。現実の私は、若者に紛れて批評だけしている自称サッカー好きのただのオバさんです。
でも、昨日は、私の「知覚と意識」がロナウジーニョに焦点付けされて、「理想(目標)に向けて楽しみながら努力する元気」を頂いた、と「解釈」したのは確かです。

本当にサッカーが好きで、それが体の一部になっているロナウジーニョ。そして彼の笑顔。

喜びの感情を顕わに出した人に出合うと美しさを感じ、何とも言えない高揚感を感じます。
ますます元気を頂いた私。素晴らしいプレーをありがとう!


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横浜日ノ出町

2006年12月14日 | 第1章 意識と知覚
ロコサトシさんというアーティストが横浜にいらっしゃいます。彼は、横浜~桜木町間にある高架下に絵を描き、それが話題となり、以来20年、横浜を拠点に活動されている方です。そんな彼が、横浜日ノ出町に、「日ノ出町町おこしと芸術の発信と人の交わる場所」を目的として、「日ノ出町アートランド」を立ち上げました。
私も、長年彼の活動を知人として垣間見てきた一人なのですが、それがきっかけで、私もスタッフの一員となり、「NPO法人CULL カリタス カウンセリング学会」でカウンセリング普及活動の勉強会を始めさせていただくことになりました。

音楽や美術を通して、人々がいきいきと生きていくことを見出すことのできる空間をロコサトシという個性が自然に作り上げていることに、彼の不思議な求心力に魅せられています。

日ノ出町アートランドを5月にオープンさせて八ヶ月。スタッフも、それぞれ仕事を抱えながら、この場所に関わっています。
あらゆる枠を取り払い、生身の人間として、どう生きていくかを常に思索してる人達がロコさん中心に、美術や音楽、アロマテラピー、編物、学習塾、そして私達のカウンセリング教育活動を始めています。

そこは、人が本来持っている「境のない心」を最も大切にしてる人々が、「五感と体感」を自由に表現できる希少な場所です。ご興味のある方は是非、お問い合わせください。

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五感がひらめく

2006年12月09日 | 第2章 五感と体感
昨年認証された「NPO法人CULLカリタス カウンセリング学会」で、「生き甲斐の心理学」教育普及活動をしている私は、同時に日本の伝統技術である「表装」をしております。「表装」、聞きなれない言葉かもしれませんが、「掛け軸や屏風、襖」と言えば、ピンとこられるでしょう。

人との関わりは、表装では欠かせない和紙と糊、そして裂地の関係と同じだとつくづく思います。雑に扱えば、雑にし上がり、丁寧に仕上げても、敏速にしなくてはならないこと、慎重に行なわなくてはいけないことを怠ると、怠ったものがそのまま作品に現れてしまいます。
季節との関わりもデリケートに影響します。冬になると乾燥が激しく、梅雨時の扱いとはまた違います。

そして、作品という個性を生かすために、裂地の配色決めはとても重要な作業です。

人と関わるのも、表装を手がけるのも五感のひらめきと解釈がその人の歩む道に影響を与えていきます。

聴くこと。触ること。味わうこと。嗅ぐこと。見ること。

「五感を観る」、というのは、自分が使える五感と体感をフルに使い、そこから観えてくる心の風景のことを云います。

自分が観えてくるもの、他人が観えてくるものは、それぞれです。それぞれの個性が、個性の美として発揮できるよう、このブログをできるだけ長く続けていきたいと思っています。

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高知の台風

2006年12月06日 | 第1章 意識と知覚
季節は、少々ずれますが、
台風が近づいてくると決まって父の会社の人がやってきて、2軒長屋の社宅の雨戸を外側から板で打ちつけてくれました。

40年前の話。

太平洋という大海原と真正面に向き合う高知県は、台風の通り道。
暴風雨から台風の目に入り、また暴風雨、、これが一晩続くのです。

丸いちゃぶ台に、おにぎりと蝋燭が準備され、息を殺して嵐が去るのを待ったことを鮮明に覚えています。
「息を殺す」ということを覚えたのは、その体験でだと思います。
声を出すと「台風」というお化けに掴まるんじゃないかという私の怖い体験でもあり、こんな時は、なんだか母が優しくみえたりして・・・。

恐怖と母の愛を同時に感じ取ることのできた大切な時間を台風で経験させてもらったようです。

私の知覚が意識化された「過ぎ越し」のひとこまです。
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一つを選ぶ

2006年12月04日 | 第1章 意識と知覚
四季の移り変わりは、私達の心を豊かにします。

同じ場所に住んでいても、一年を通して、自然だけでなく、他の国には見られない折衷行事が日本という国の個性をつくり上げているような気がします。

最近、アイルランド出身のロックグループが日本でコンサートをしました。
そのグループのリーダーが、「多様性(八百万の神)を受け容れる日本人は素晴らしい」というような内容のことを言っていました。アイルランド・ダブリンで育った彼の成育史から、ほとばしりでた言葉です。

「一つのことを決められない。
一つを決めることに躊躇する。
一つのことを決めようとする人に、以外と冷たい。
曖昧なところで妥協する。」
上記のことは、「いやだなぁ」、と思う半面、結構私の内にも宿っている個性です。

多様性を受容する、というより、多様性の中に妥協点を見出す、といった方が良いかも知れません。

人生の岐路に立ったとき、どうしても一つを選んで生きていかなくてはなりません。
そんな時に、意識できる知覚が、私を助けるのです。
「好き」、「嫌い」
その選択を、垣根を越えて、選び取る勇気が、そろそろ必要となってきました。
自分の体で感じた、心地良い(好き)、心地悪い(嫌い)を、大切にしていきたいものです。

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