五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

都会のオアシス

2007年01月30日 | 第2章 五感と体感
青空が広がり、梅の花を楽しみながら、ぶらぶら歩くには丁度良い気温。

仕事のついでに祖先のお墓参りをしようと、東京タワーの袂にある増上寺を訪れました。
本堂の大屋根の向こうには東京タワーがそびえ、瓦の黒と東京タワーの赤い色が、青空をバックにくっきりと浮かび上がって見えます。

昔は、この異質なものとの組み合わせに違和感を感じたものですが、今では 懐かしく愛する故郷の風景の一つとして、大切にしています。

お昼休みの時間帯。
本堂に入ると、以前は見なかった光景に出合い、ちょっと驚きました。
サラリーマンの方々が用意された椅子に座り、瞑目しているのです。
周りにはビルが建ち並び、多くの方がそのビルの中で働いています。

休憩時間に、公園を歩くのも良し。
近くのお寺で、瞑想するのも良し。

わずか数分でも、仏様を前に目を瞑ることは、お金では買えない とても贅沢で恵まれた一時。
姿勢を正し、目を瞑るスーツ姿の人々を眺め、与えられた僅かな時間を自分の為に有効に使う「心の余裕」に、将来の明るさを見たように感じました。

祈ること。拝むこと。手を合わせ願うこと。
深く息を吸い、深く息を吐く。

私もこの時間をもっと大切しようと思います。

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黒の奥行き

2007年01月27日 | 第3章 無意識の世界
20数年前、ニューヨークに住む従姉妹の家に3ヶ月居候し、マンハッタン中を歩き回り、美術、映画、劇場を見尽くした経験があります。
20代前半の頃です。

20代の方にとりましたら、そんな昔、とお思いでしょうが、この年齢になってくると、昔のことが表裏一体のように瞬間的に思い出し、まるで昨日のことのように思えるのが不思議です。
歳を重ねる毎に物忘れもひどくなり、痴呆になると、瞬間的に本当に5歳の自分にになったり、20歳の自分になったりする現象が起きることが、なんだかわかるような気がします。

さて、本題。

20数年前。現代美術が、面白くなってきたころです。作家のスケールも壮大なプロジクトで行なわれるようになり、美術に興味がない人でも、普段の生活の中で目にすることができるようになったのもその頃からだと認識しています。

マンハッタンのお隣、クィーンズの倉庫が建ち並ぶ街に、廃校となった学校があり、それに目をつけたプロデューサーが、世界中から、各国で活躍する現代美術家を呼び、そこをアトリエにして、数ヶ月~数年の単位で活動していただく。
そこに従姉妹と訪れた時の話です。
廃校の中をぶらぶら歩き、それぞれの広い教室で、作品を手がけている作家を眺めていました。

廊下からアトリエを覗くと、黙々と描いている作家が見えました。

アトリエが、美術館のような、設定になっているので、作家とのコミュニケーションも自由気ままでにできます。

中にはいるなり、真っ黒の画面が、私を飲みこむように迫ってきたのです。
「本当の黒」、瞬間的にそう思いました。衝撃的でした。
重ねたその先は見えないけれど、黒を重ねたその奥行きは底無しのように深い・・・。

墨絵の黒には幅があり、奥行きには時間と空気を感じます。

彼の作品をひとたび見ると、その余裕は許されません。素粒子の狭間も許さない、そんな体感に、鳥肌が立ち、身震いをしました。
そして、観た私の感情の怖さと同時に、観続けると見えてくる「見えない柱」に感動する情動が湧き上がってきたのです。素晴らしい表現力に二度の、鳥肌。

(西)ドイツ人のアーティスト、キーファーとの出合いでした。

それから、数年後、ベルリンの壁が崩壊。

作品のイメージとはまったく違う、穏やかな目をした方。
「僕は、ベルリン中心にいろんな国で、回顧展してるんだよ」みせられた本は、立派な作品集でした。

日本に帰国し、彼が注目されている有名な現代美術家だと改めて知りました。

ちなみに、キーファーが描いていた「黒」は、コールタール。
素材は無限です。表現も無限です。

若い頃受けた五感は、無意識に私の方向付けをします。

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掛け軸

2007年01月24日 | 第2章 五感と体感
そろそろ友人に頼まれた作品を掛け軸に仕立てなくてはなりません。

他の仕事を全て放棄し、呼吸を整え、背筋を伸ばし、集中する。
この条件を整えないと、必ず大きな失敗を招きます。

自分自身を整えることが、最低の条件です。

作品を囲む裂地を選びは、自分の感性を信じるしかなく、一つ決めるのに、かなりの時間を費やします。
一幅は、海松(ミル)色。緑藻に灰色を混ぜたような色、もう一幅は、黄茶色(黄色味を帯びた茶色)を主体に選びました。
作品を生かし、雅な可能性を表わすことがひっそりとできれば、それで良しです。

私は、まだまだ未熟で職人の仕事に及ぶ技術はありませんが、そこに職人の密かな喜びが隠されてるように思います。未熟であっても、喜びだけは想像できます。
作品から与えられ、感じた五感を表装に仕立てる感覚は、月が出る夜、砂浜に立ち、打ち寄せる波音と引いてゆく波音をどちらも平等に聴くような、そんな感じです。


惹かれ合うことと引かれ合うことが、感性の高みで響き合ったときに、きっと、文句無しの作品が仕上がるのでしょう。

さあ、まずは丸包丁をしっかり砥いでから始めよう・・・・・。

 
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恩返し

2007年01月23日 | 第2章 五感と体感
「与えたことに見返りを求める」
正直にいって、当たり前のことだと思っています。

与えたのに返ってくるものがない「寂しさや怒り」の感情は、人の持つ自然な感情ではないでしょうか。

「私は与えることしか考えていません」とおっしゃる方の目は、たいてい虚ろだったりします。

但し、賄賂を与えて、その見返りに仕事を頂くということではありません。

「頂くもの」をどう自分のものにし、生かしていくか。
そして、その生かされたものを、生き甲斐をもって世の中に還元できるか。
その姿を嬉しそうに眺めてくださる方の存在が、更に私の活力となっていくのです。
私の行動そのものが、頂いた方への恩返しであると考えています。

自分の愛弟子が、活躍する事を妬む師匠も世の中には沢山居ます。
愛弟子が、自分の教えを体得し、イキイキと次世代に繋げてゆくことに師匠が気付かないだけの話です。

芸術の世界も、福祉の世界も、家庭生活も、同じことです。
与えられたものを与えた人に返すのではなく、与えられたものを更に別の対象に与えることが、ギブ アンド テイク、と云えるように思います。

「私は与えるだけで充分」と、見栄を張る前に、自分が「与えられている体感」をまず感じてみませんか?きっと、「与えていることに見返りを求める美しい自分」に出合うはずです。

与えてくださる方々がワクワクドキドキするくらい、喜びの中で仕事をしている自分をお見せしたいと思っています。閉塞感はまっぴらごめん!広く広く、還元する事。
それが、私の恩返し。

「生き甲斐の心理学」のご師匠様に、日々の感謝と愛をこめて


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幸福感

2007年01月20日 | 第2章 五感と体感
原初感情、というものがあります。
「怖い、怖くない」
「心地良い、心地悪い」
「好き、嫌い」

怖い、怖くないという感情が、いろいろな種類の感情に発展していきます。

この感情がちゃんと働いてきたからこそ、私達は生きて延びてきたのだと思っています。
経験と学習。
常にこの繰り返し。

「怖い、怖くない」という直感を意識をして生きていくことは、とても大切なことです。
自分の求めたいものを「幸福の条件」で包み込み、情報過多のなかで、本当の自己感情を意識しないで生活している方もいらっっしゃることでしょう。

目を瞑り、「幸福感」を感じる時の、自分の五感や体感を想像してみるのは如何?
幸福感がみえてくると、自分にとっての「怖いもの、怖くないもの」が、識別できてくるのです。

ちなみに私の「本日の幸福感」は、自分のもやもやした感情を相手に伝え、そこから「取り戻した信頼感」が、「安堵という領域」でほんわりと暖められています。
私にとっての今回出合った怖いものは、「狭い箱」。

「幸福感」が戻ってきて、ほっと一息ついています。

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震災を語る

2007年01月17日 | 第1章 意識と知覚
阪神淡路大震災から12年。

あの日、横浜に住んでいる私も微細な揺れを感じました。
七時頃のテレビでは、未確認の情報が飛び交い、8時を過ぎたあたりで、大変なことになっていることが、徐々に伝わり出しました。
子供を幼稚園に送り、歩きながら空を見上げると、ヘリコプターが、西に向かい、続々と飛んでゆきます。

時間が経つに連れ、だんだん不安になってきました。
頭に浮かんでいるのは、神戸に住む親しい友人。
電話をしても繋がらない。
そのうち、公衆電話なら繋がる、という情報が流れ、近所の公衆電話掛け込み、かけますが、当然繋がらない。
そして、友人から電話があったのは、夕方。

安否の確認は、離れて暮らしている者にとっての最低条件。
それからの私の対応は、はっきりいって、お粗末なものでした。

どんな状況で、どんな風に脱出したのか、そして、今、どんな状態なのか。。。
彼女が、面々と話すのですが、心の距離は、地図上の距離よりはるかに遠く、結局何も力になれませんでした。

私が経験した苦い経験です。

そんなわけで、私は、この日に、「聴くことの感性」を再確認するようにしています。
自分以外の人の心の状態は自分のようにはわかりません。全て私の心を通して伝わってきます。どんなに客観的に、、なんて、思っていても、自分の取り方で相手を解釈しているのです。
ましてや、話を聴いて欲しい人は、その相手の心の状態を敏感に察知します。

1月17日。
自分の心の状態を再確認。
謙遜さ。
想像力。
そして、命の尊厳。
思いやり。

私という小さな存在が、私なりに「震災を語り継ぐ」ことに意味を感じています。

皆さんは、どんな思いで一日を過ごすのでしょうか。

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明るい方へ

2007年01月15日 | 第2章 五感と体感
其の一、集団行動が苦手。
    世間の常識に合わせて保身に入るのが大嫌い。

其のニ、気の合う仲間とはとことん付き合う。
    本音を大切にしながら、自然体を意識した生活をする。

其の一で「私」をイメージしていただくのと其のニで「私」をイメージしていただくのとでは、何が違うでしょう?

私が二十歳の頃は、まさしく「其の一」で生活していました。今は「其のニ」での生活を大切にしたいと思っています。
どちらも私を表わした言葉です。
自分の中の明るさと暗さは、現在、共存しながら仲良くしています。

社会に出て、仕事、結婚、子育て、そしてまた勉強、仕事、そんな経験が私の意識する感情、または自己の性格の捉え方を肯定的な明るい方向に変えてきたようです。

今年の年賀状に、高校の美術の恩師から、不思議???な年賀状が届きました。
「女版、光源氏をいつまでも・・・」

う~~ん、、、喜んでよいのか?悲しむべきか?

私の相変わらずの自由気ままな、「感性重視の生活」にエールを贈ってくださっているのだと勝手に良い方に解釈しました。

人は、死ぬ瞬間まで気付きがあると信じています。
明るい方へ明るい方へと、向かっている自分を体感しながら。

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体を動かす

2007年01月12日 | 第2章 五感と体感
私が「継続は力なり」信じて続けているスポーツは、テニスです。

公のテニスコートを使ってテニスを楽しんでいるグループを友人に紹介してもらい、無理せず始めて8年が経ちました。

テニスコートを押さえるには、ちょっとした努力が必要です。なんといっても、2時間2,000円。格安です。ですから、コート使用希望者は沢山います。
男性含めて十数名のメンバーが、月に一回、毎週同じ曜日の同じ時間にテニスコートの日時エントリーをして、抽選に参加します。抽選に当たった日を集計し、参加人数の確認調整しながらまとめていきます。その集計連絡係りを決め(本年度は私が担当)、まるでサークル活動のようにグループ運営?をしています。

当然ながら、私達の平均年齢は上がりつつありますが、かろうじて40代後半、最近では、回りを見渡すと60代の方々だけでなく、70代80代の方々を多く見掛けるようになりました。

皆さん、笑いながら体を動かしていらっしゃいます。

私達のグループも同じく笑いが絶えません。
自分が抱えている問題や辛い悲しい感情を一時でもリセットできる不思議な空間なのです。
体を動かすことに加え、余計なコメントをせず、ウンチクは聞き流す術を持ったこの集団は「奇跡の仲間」だと思っています。
「どうしたら人が傷つくのか、どうしたら人が喜ぶのか、」を、それぞれの成育史の中で育んできた方々が、上手に個性を表現されているのです。

生きる知恵は、体を動かす気持ち良さからも授かります。
固執した心の状態を「一時でもリセットする」ことは、それを意識的に続けることで、必ず軽減に繋がります。
楽しめる仲間と体を動かすのも「いきいきと生きる知恵」のひとつです。

今年も、テニスの技術向上は見込めませんが、「生きる知恵」を授かるよう楽しみたいと願っています。
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花降る日

2007年01月08日 | 第2章 五感と体感
「花降る日」
これは、絵の題名です。

砂漠を移動する人々が迷わないよう建てられた石の螺旋搭。
海の灯台以前に造られた砂漠の灯台です。
その螺旋搭をモチーフに中世のいでたちをした女性が静々と搭を昇っていきます。
彼女の昇る姿に、天からはらはらと花びらが落ちてきます。

私がその絵の前に立ったのは、高校生の頃だったと記憶しています。
当時あった具象画家の登竜門である「安井賞展」が、絵との出合いでした。

日本画というか、フレスコ画というか、決して油絵の世界とは違うマチエール(画面の肌)、そしてルネッサンスの絵画を思わせるような構図。ビザンチン様式のような、緻密さと素朴さを交えたモチーフ(題材)。
それでいて日本人の持つ感性をどこか遠くから湧き上がらせるような安定感。
表現されている全てが心地良く、永遠にその絵から離れたくないという情動にかられたのです。

それから30年近くが経ちました。
事在る毎に有元利夫さんの絵を静かに観続けてきました。

西洋と東洋のエッセンスが、彼の浄化された精神から醸し出され、普遍性が表出されているのだと解釈しています。
だからいつ観ても心地良いのかもしれません。

有元さんは、38歳という若さで天に召され、既にこの世の方ではありませんが、絵に宿る彼の魂は永遠に生き続けています。

「有元利夫展」は、現在「横浜そごう美術館」にて、1月25日まで開催されています。
今年最初のお薦め展覧会です。

ひっそりと絵画と向き合い、御自身との五感の対話をお楽しみください。

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花降る日

2007年01月08日 | 悔いのない人生とは?
「花降る日」 これは、絵の題名です。 砂漠を移動する人々が迷わないよう建てられた石の螺旋塔。海の灯台以前に造られた砂漠の灯台です。 その螺旋塔をモチーフに中世のいでたちをした女性が静々と塔を昇っています。彼女の昇る姿に、天からはらはらと花びらが落ちています。 私がその絵の前に初めて立ったのは16、7歳の時。当時あった具象画家の登龍門である「安井賞展」が、彼の絵との出合いでした。初めて観る、日本画でもフレスコ画でもなく、ましてや油絵の世界とは程遠いマチエール、そしてルネッサンスの絵画を思わせるような構図。それでいて日本人持つの感性を、どこか遠くから湧き上がらせる安定感。表現されているすべてが心地良く、永遠にそこから離れたくないという情動にかられました。 それから30年。ことある毎に有元利夫さんの絵を静かに観続けてきました。西洋と東洋のエッセンスが彼の浄化された精神から醸し出され、普遍といわれるものが画面に表出
されているのだと解釈しています。横浜のそごう美術館で開催されている「有元利夫展」、今年最初のお薦め展覧会です。ひっそりと絵画と向き合い、ご自身の五感をお楽しみください。
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富士山は美しい

2007年01月05日 | 第2章 五感と体感
小学生の六年間弱、神奈川県茅ヶ崎市に住みました。
海と山を堪能し開放された楽しい生活でした。

両親の実家は東京にあり、福井に住んでいた頃は開通したばかりの新幹線にワンピースなんぞをを着せられて乗っていました。
おしゃべりしているよりも、じっと黙って風景を観たり、人の様子を眺めたり、会話に耳を傾けることの方が楽しい子供でした。現在の人一倍喋る私からは、想像できない方もいらっしゃることでしょう。

米原から新幹線に乗り、茶畑と富士山が見えると、車内中の人がうっとりとその姿を眺めます。
その頃の感動する人々の様子を見、私なりに「富士山は美しい」と学習したようです。
未だに、新幹線に乗ると、富士山の姿を必ず確認します。

そんな私が、茅ヶ崎に引っ越したお陰で、皆の憧れである富士山を見ながら生活する事となりました。

大山を中心に丹沢の山々を北西に眺め、西に目を移すと雄大な富士山がいつもそこにありました。

「いつもそこにある」

これが、私の「普遍」の始まりだったのかもしれません。

春はおぼろげな姿を見せ、夏までは朝夕の姿が美しく、うろこ雲の広がる高い空になってくる頃になると、お天気の良い日はいつも眺めることができました。
季節や天気によって姿を変えて現れる富士山は、「いつもある」私の心の平安の媒体になって、なくてはならない存在となっていったようです。

美しい存在は、私の心の投影です。
幼い頃からの経験や語られる神話がいつしか、体と心に溶けこんでゆき、「普遍」と絡み合い、それが私にとっての無意識に認識する「美しさの定義」となるように思います。

美しいと思う心の情景は、私の五感と体感から生まれるものです。
湧き上がる記憶と言葉を今年も語らせていただきます。

人の心は、体の体積以上に広く深く大きなものです。
この無限の可能性を言葉にしてゆくことは、私の生き甲斐です。

本年も宜しくお願い致します。

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