五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

西の魔女が・・・

2009年06月30日 | 第9章 愛
映画「西の魔女が死んだ」を観ました。

この小説の存在も知りませんでした。
たぶん、小学生、中学生の世代から大人までがしみじみと観耽ることのできる映画でしょう。
忙しい最中に、ばたばたと観る映画ではありません。ばたばたと観ると「ばたばた」しか返ってこないかもしれません。

日本人の理科の先生(おじいちゃん)と結婚し、夫に先立たれたイギリス人のおばあちゃんが不登校になった孫娘と一か月、信州の森の自宅で同居するという内容のものです。孫娘だけでなく、彼女のお母さんと母であるおばあちゃんの母と娘のスタンスから表出する雰囲気も見逃せません。

つまり、自分自身の心が直球で跳ね返ってくる、という感じです。

人は、「魂と心と体」で成り立っています。
その言語化をとても分かりやすく語るおばあちゃんの語り口が、森の中に沁み入るような静かで、しかも心の中をすべて言いつくすかのような空気を漂わせます。

一見カウンセラー役であるおばあちゃんは、決して一方通行ではありません。
孫を通して、自分の弱さや辛さを静かに静かに顕わにします。

「ロジャーズの六条件」を映像で感じることのできる映画です。

ともかく、もし、観るのであれば、二時間静かに座って集中していただければ幸いです。

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やりたいことをやる

2009年06月29日 | 第1章 意識と知覚
好き?嫌い?

平安感?それとも不安感?

満足する?それとも不満?

岐路に立ち、何度も何度もこれらの自問自答をしながら生きている私たちです。

小さな選択から大きな選択まで、曖昧さを保ちながらも、何かしらを選んでいます。

「結局はこういう生き方なのよねぇ~」と、苦笑いすることも自分を愛しむ慈しみある赦しの一つかもしれないな、と思うのです。

そのような繰り返しの感情を経験しながら、岐路での選択は死ぬまで続きます。

雨降りの日曜日、自分のやりたいことをやり続けている友人・知人に会いました。
「私にはこれしか道がない」と思いながら、同じことをひたすらやり続けることができること、それ自体が才能だ、と思います。

好きな服を作り続けたり、好きな場所で好きな作品を作り続けたり、好きな場所で好きな料理を作る・・・好きなものを選択してその心地よさで生きること・・・

こうしなければ、家族と暮らしていけない、、、こうしなくては、子育てはできない・・・こうしなければ私らしくない・・・私の中に潜んでいるいろいろな思い込みからスウッーと解放された一日でした。

我武者羅に学んできたものを一旦緩める時期に来たような気持ちが湧き上がってきているのは、心の余裕が出てきた証拠かな?とも思います。

そろそろ、いいんじゃない?

うんうん・・・

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他者分析は怖いよ

2009年06月28日 | 第9章 愛
人の傾向や性格を他人が捉えて解釈するほど怖いものはありません。

自分には必ずフィルターがかかっています。
だから「私は、物事を客観視できる人だ」と言い切る人ほど私は警戒します。

私は私の思考と感情と行動で生きています。

先日、子供専門の精神科医の先生の講義を聴く機会がありました。
私たちが学ぶ「生き甲斐の心理学」を別の言葉や事例を使ったような内容でした。

その講義の中で私の心に響いたのは、
「診断にも傾向があります。たとえば、ADHDという病名が世間に取り立たされた年は、その病名で診断される子供が多いということです。」

「薬は症状を抑えるもので、治すものではありません。それよりも自分の傾向に気づき、どうやったら社会の中で生活していけるか、そして生き甲斐を見つけられるかを関わる人が愛着を持ちながら関わることが一番なのです。」
「「生きにくさ」ではなく、「生き甲斐」を見つけることです。」

私も講義を聞きながら改めて、自分の中に安心感が湧き上がってきました。

診断され、病名をつけられることは、ある意味で社会に受け容れられる「安心」に繋がる場合もあります。でも、それから先にどうするか?が大切なのだと思います。「私」という一人の人間の「自立」のために、本気になって関わる人の存在は、何よりも替え難いお薬だと思うのです。

「愛」という言葉も一人一人解釈が違います。そうは言っても、愛し愛されることを五感と体感で感じる経験は、生き甲斐の道しるべとなるようです。

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二人のスター

2009年06月27日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
マイケルジャクソン逝去について、いろいろな視点から報道されています。
もうすでに神話化されているような節もあります。
ともかく、彼の存在は時代の象徴として捉えても過言ではないでしょう。

昨日同日に、ファラフォーセットが逝去。

二人のスターが、いっぺんに天国にいってしまいました。

二人の熱狂的なファンだったわけではありませんが、当時のアメリカの文化の格好よさを知る媒体でした。

長くてふわふわしたブロンドの髪をなびかせながら活躍する三人の女優のなかの一人が、ファラです。映画チャーリーズエンジェル。個性の違う三人の女性の中で、一番華やかに見えたのが彼女でした。
アクション映画の主役が女性三人、というのは画期的なものだったと記憶しています。

マイケルは、一緒に育ったようなものです。同世代の彼は、私が気付いた時には、もうすでにスターでした。
最近コマーシャルに使われていた歌はジャクソンファイブの頃のもので、彼の声は、時代が変わっても変わらずに美しいと感じていました。
50年という年月、ジェネレーションを共に生きてきた私たちには、生活の中に常に彼の歌声が意識・無意識に関わらず耳に入ってきていたのです。

本牧の米軍ハウスが無くなり、フェンスが取り除かれ、日本流の家が建ち並び、バスの中から見ていた風景が明らかに変わってしまったころに20代だった私は、その面影を追いながらも、そのうちそれらの記憶が自分の中に溶け込んでいったように思います。つまり、私という個性の一部になったということです。

とにもかくにも、重たい鎧から解放されたマイケルは、自分の真の姿で自由に飛び回っていることでしょう。7月公演を前に残念ですが、これも何かの意味があるのでしょう。

お二人のご冥福をお祈りします。




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やっぱり体感

2009年06月26日 | 第9章 愛
言葉の貧困さは、経験でいくらでも克服できます。
でも、それには、自問自答を「否定も肯定もせず」聴いてくれる人の存在が必要かもしれないな、と思います。

なんでもかんでも「かわいい~
嫌いなものは「うざい~!

そんな表現しかしない人でも、どんなものが「かわいい」のか、どんなものが「うざい」のか、明らかに「好き」と「嫌い」で判断しています。

かわいいに「超」がつけば「超可愛い」わけで、「かわいい」とは明らかに数段可愛いということが理解できます。
「うざい」のか「きもい」のか、うざいけれど親愛の情で言っているのか、嫌悪感で言っているのか。。。それも、前後の言葉や表情でなんとなく伝わってきます。

人との対話は、そんなところから始まります。

でも、やっぱり答えは本人の内に必ずあるわけで・・・
体感の「違和感」や「満足感」を自分自身が意識できるようになったら、言葉も流れてくるのが不思議です。

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言葉が貧困だと・・・

2009年06月24日 | 悔いのない人生とは?
心の中で感じていることが、ふつふつと意識の上に上がってきたとき、やっぱり誰かに話したくなります。
もちろん、自問自答も必要です。

でも、そこで問題が生じます。

ボキャブラリーの問題です。

心の内は、とてもデリケートです。

でも、知っている言葉が少ないと、自分を言葉で上手に表現できません。

私の場合、言葉を使わず、最終的には体感が腑に落ちたとき、ほんとうにモヤモヤ感が解消されるのですが、同時に言語化も大きな役割を果たします。

言葉と感情。限りなく近づきたいと願いながら、もっともっと色々なことを学んでいきたいと思います。

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補う

2009年06月23日 | 第2章 五感と体感
ともかく無口な子でした。
自分から喋るよりも、会話を聞いているほうが楽でした。

そうは言っても、自由自在に言葉を操ることの出来る友達を羨ましく思っていました。

人を見て、様子を見て、感じていることを意識するものの、いざ口に出そうとしても「いい言葉」が思い浮かばないのです。

だからその分、マンガを描いたり好きな文章を書いたりと、表現することに喜びを見出す傾向になっていったのだと思います。


足りないものを補う。
学んだことを学習する。

これらは当たり前のようですが、人それぞれです。
答えは「あなたの内に」あります。


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本の読み方

2009年06月22日 | 第2章 五感と体感
最近、太宰治が多くの人に読まれているそうです。

この現象は、昔からあったと思います。

太宰治の文体と、感情表現は、読者の自己投影のためのツールになりやすいようです。

自分のもやもやした気持ちを誰かが代弁してくれたら、こんな嬉しいことはありません。

小説だけでなく、音楽、舞踏や演劇、アート等、自分を代弁してくれる可能性のあるものはたくさんあります。

どんな時に、どんなものに出合うかわかりません。
どんな時に、どんな人に出会うかわかりません。
とりあえず、自分が欲することを意識することだけは、忘れないようにしたいものです。




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湧きあがる感情

2009年06月21日 | 第2章 五感と体感
「湧きあがる感情には、必ず意味があります。」

同じ現象に出くわした時、ある人には過度な怒りの感情が湧き上がり、ある人は喜びを感じたり、またある人は悲しみの感情が湧き上がったりします。

その湧き出した感情が「私」つまり「個人的」なものであることを意識しなかった場合、どんなことが起きるでしょうか?

「湧き出す感情が自分の内から湧き出したものである」と意識できると、その感情についての現実吟味ができ、感情のコントロールがしやすくなってきます。

でも、湧き出した感情が自分の内から湧き上がり、それによってこういう現象が起きている!という意識化がされていないと、自己否定・他者否定的な「思考と感情と行動」が増長していきます。

自分をストレスに追い込まないためには、まず、自分の湧きあがる感情をみつめていくことから始めるのが一番てっとり早いかもしれません。

でも、

これが、案外難しい・・・

のんびりと、互いに語り合いましょう。

心地よく語り合える人。語り合える場。「聴いて、聴ける人との関係」を持っている人は幸せです。

私も幸せです。


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もがりの森

2009年06月19日 | 第2章 五感と体感
「亡くなった人が自分が亡くなったということを意識していない場合もある」というセリフが印象的だった映画シックスセンス。

亡くなった人と遺された人との魂の交わりが描かれたサイコセラピーの映画だと解釈しています。
これは、普遍的な愛の物語ではありますが、日本人の描いたものではありません。

ようやく「もがりの森」を観ました。

日本の映画に限らず、死者との対話をテーマにしたものはたくさんあります。

今回観た「もがりの森」は、‘ストーリー,というよりも大切な人の死による自己の感情のプロセス、つまり、もがりの時間を映画観賞者とともに過ごす‘映像,とも云ええるのではないか?と思いました。

‘もがり,とは、敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間。または、その場所の意、だそうです。

里山。茶畑。そして、山深い場所。森。立ち木枯れの杉。

人を弔うための風習。

森の中を歩いているのは、自分なのだ、という錯覚に陥る監督の意図。
カンヌ映画祭で主演女優賞を取った主人公の感情移入。
喜怒哀楽のわからないあいまいな玉虫色の表情から変化していく浄化への経過。

ほとんど無いに等しいセリフが、登場人物の行動を「穢れのないもの」「言いわけのないもの」という表現をより効果的に表しています。

日本の奈良を舞台に描いたもがりの森。
古事記や日本書紀、仏教以前の、もっともっと人の精神と自然、そして死が混在
していた時代に戻ろうとする人の無意識が森を歩ませます。内在する答えが自分の内に降りてくるまで、歩いて歩いて歩き通すのです。

森の中でふつふつとわき出す喜怒哀楽を見ている私たちも同じように経験していきます。

もがりの時。魂と対話するとき、そこに必要なのは、感じる感性だけで充分なのでしょう。

感性は、解釈をし、解決に至らす。

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ガンジス河

2009年06月18日 | 第2章 五感と体感
今日の朝日新聞の夕刊に、藤原新也氏の記事が掲載されていました。
この記事を書いた記者は、私と同じ世代の方でしょうか。

藤原氏の写真と文章は、現在の私を生かしている一粒の種であることは確かです。
私もガンジス河のガートに座れば、きっと何かが見えてくると思い、実際に二か月近い旅に出たわけです。

世界の広さと、異文化に触れることへの驚愕とか感動。
見たこともないような、経験したこともないような風景や人との触れ合い。

ガンジスを前に立つと、生と死が、メビウスの輪のように隣り合わせで、しかもどちらも表と表に見えてきます。「表と裏」という表現よりも、「表と表」という表現がふさわしいように思います。
メメントモリ(死を想え)を「想う」では物足りなく、「死を見る」という直接的な表現の方がなんともしっくりくるのです。

仕事を終え、夕食のひとときに目にした新聞記事。

見えてくるものを考える癖は、今だに変わりません。

だから、こんな風に生きているわけです。

「死を見る」ことは「生きる」ことと同じ。
ガンジスで見えてきたものは、こうやって生きる知恵として私の中で「生きている」というわけです。

20代前半での、多くの旅の経験。これもまた、私の宝物です。

旅は、イイよ

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ラベンダーの香り

2009年06月17日 | 第2章 五感と体感
昨日、小さな荷物が届きました
花の香りが部屋中に広がりました。
中から出てきたのは、摘みたてのラベンダーと沙羅双樹の小さなお花。
しかも「生」です。枯れないように一本一本丁寧にティッシュに包まれ、水が漏れないようしっかりとビニールにはいっています。

梱包作業を考えたら、直接私が伺った方が早いのでは、と思うくらい手間がかかったと思います。カードを読み、ほんわりと心が温かくなりました。

このような手紙を頂ける私はなんて幸せなんだろう♡

同日に北海道で療養していた尊敬するOさんが亡くなったことを知りました。
子供の施設に長く関わり、身体は小さいけれど大物の女性です。
いつも自然体で、何よりも赤いトマトが大好きな方でした。
しかも、です。またまた同じ日に、
友人が想いを馳せて北海道を旅し、お土産にアスパラガスをいただいたのです。

何が共通しているか。。。
紛れもなく「北海道」

亡くなった方の魂が、こんな形で繋げてくださったのでしょう。
居間に広がったラベンダーの香りは、祈りのしるしだったのかもしれません。

不思議な一日の体験を皆様にお裾わけ致します

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あなたならどうする?

2009年06月16日 | 第2章 五感と体感
天使と悪魔の映画。とある場所の門外不出の書物の一ページを科学者の女性がビリっと破るシーンがあります。
観ている私たちは、一瞬その行動にドキッとします。

でも、ドキッとするのは瞬時に起こる知覚の問題であって、私も状況次第で、やっちゃうだろうな。。。と思います。
逆に、破らない行動を選択するほうが私には理解できません。

この判断は、ひとそれぞれ。どちらが正しいか正しくないか、それは分かりません。

理想と現実。
理想と現実のギャップが広がれば広がるほど、ストレスが大きくなります。

やらないで時を過ぎ越すこと。
やって悔いなく行動を起こすこと。

振り子のように揺れながらも選択する瞬間に決定を下すのは、結局は自分です。

危険であるか?安全であるか?

生き抜く方法と自分の内にある答えは、いつもくっつき合っているように思います。

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切り替え

2009年06月15日 | 第3章 無意識の世界
よくよく考えてみると、昔は定期的に「頭を空っぽにして、何にも考えない数日間」をとるために旅をしました。「一気に時を駆け抜け、全てを片付けたら、荷物をまとめて飛行機に乗る」という旅です。

頭を切り替える。

今、私自身、ちょっと必要なようです。

時期的に荷物をまとめて旅立つこともできないので、徹底的に映画を観続けました。
映画の中でたくさんの旅をしました。フィラデルフィアにローマにスイス、南アフリカ共和国・・・・

住まう場所と違うところに立ち、そこから改めて自分を見つめると、ふるいにかけられたようにすっきりと自分自身を取り戻していきます。

自分の頭を切り替える方法・・・・いろいろあるはず・・・

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受容って?

2009年06月14日 | 第4章 愛とゆるし
何年も気になりながら、観ていなかった映画をようやく観ることができました。

「シックスセンス」です。

この映画を観た私の親しい人たちは、皆感慨深い言葉を発します。

ざっくり言えば、「見えないであろうものが見えてしまう」子供と「児童心理の専門家・カウンセラー」のお話です。
もう少し広げると、子供のお母さん、そしてカウンセラーの奥さんもこの映画に深く関わっています。

「信じて見えてくるもの」
「信じて見えなくなるもの」
「愛」
「受容」
・・・・私が真っ先に思い浮かんだ言葉です。

「自己受容」「他者受容」というテーマは、どんな立場であろうと、子供であろうと大人であろうと、関係ありません。生きていく人の普遍的テーマだと思います。

そして、「受容」というテーマと向き合うことに気づいた人の人生は、気づいただけで、それで充分かもしれません。

「確信」と「受容」は、隣合わせです。
「確信即受容」とでも言いましょうか・・・

ものすごい衝撃で自己を受け容れるきっかけが訪れることもあるのでしょうが、静かな精神性から、ふとしたことから湧き上がってくる「受容の体感」は、他には替え難い「愛の体感」だと思うのです。

受容という言葉に自問自答するのであれば、この映画を観てから改めて自問自答するのも良いかと・・・

どの登場人物にも「私」が当てはまります。
私は、もう一度、観直そうと思っています。どうも数回観る必要がありそう・・・

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