五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

今年も伸び伸び

2007年08月28日 | 第2章 五感と体感
昨年、我が家の〝萩〟は伸びすぎて他の草木にかなりの迷惑をかけました。

というわけで、今年は春に一番枝を地面から50センチくらいのところで一旦、切りました。枝を増やして高さを押さえるためです。

ところが、そんなことはお構いなしで〝萩〟さんは、どんどん成長。
確かに高さは去年よりも低いのですが、その分増えた枝は幅をきかせて、広がる広がる・・・

結局は、お隣の〝もみじ〟さんも、せっかく植え替えた〝秋明菊〟さん、〝つわぶき〟さんも、伸び伸び〝萩〟さんに、すっかり覆われてしまいました。

そうは言っても、とても気持ち良さそうに揺らいでいる〝萩〟さんに文句を言うこともできません。
とにかく花を待つばかりです。

今朝は、外に吹く風、朝の日差しに明らかに秋の風情を想いました。
この夏の猛暑は、ほんとうに参りましたが、明らかに秋の気配を感じます。

萩の花を愛でる日も近いと思うと、夏が儚く遠い時のように感じてしまうのが不思議です。
「今」を生きているつもりでも、こうやって徐々に変わる季節の体感は、ある日、はたと気付くものなのでしょう。

兎にも角にも、この時期は、萩に習って萩と共に「伸び伸び」を体感するとしよう~。

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言の葉は言霊

2007年08月25日 | 第1章 意識と知覚
今年の八月は、外での勉強会を一切せず、ひたすら本を読むつもりでした。
片手間にやろうと「予測」していた仕事が、意外にも手間が掛かり、「予定なんてものは未定なんだ!」と開き直って、今日を迎えています。

そんな私の夏の過ごし方に加え、この数週間、大切な人にたくさん会い、そして、声を聴きました。このことが、予測をし間違え、開き直った私を支えています。

感情を聴く。

「何をやってる、
何を持ってる、」
そんなことよりも、「今この時」の感情を、聴いている人が「ひたすら受容する」ことだけで、絡まり、固く結ばれた紐が解かれてゆくのが見えてきます。

「賛同」は、おせっかい。誤解も呼びます。
否定も肯定もせず、「受容」するのです。

すると、いつしか、「感情」が顕わになる。

言葉は、言霊。
その人の内にある「答え」が、いつしかその人自身の「言葉から顕れてくる」ことに、いつも感動します。

「私に何ができる」というわけではありません。
私の人生で出会う人の数は、たかだか知れています。でも、互いに自分の人生を歩み、何かのきっかけで出会うわけです。大切な自分の人生を歩んでいる者同士が出会うのですから、その「出会い」は宝くじに当たったようなようなものです。

かけがえのない「出会い」を大切にし合い、自分自身の「言の葉」を生み出していけたら、私の死に逝く日に、「私の人生は、なんて幸せだったんだろう」と思えるのかもしれません。

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香りの記憶

2007年08月18日 | 第2章 五感と体感
ログハウスの松の香り。
久しぶりに思いっきり吸い込んできました。
安らぐ香りの充満した部屋は、時間がゆるりと進み、心地が良いなァと思うのです。

昔は、山中湖あたりに行けば、森の香りが体を包み、山に来た、という実感が湧いたものですが、最近は脳に沁みこむような香りに包まれません。
ちょっぴり残念、と思いつつ、昔の仕事仲間のログハウスの会社に立ち寄りました。

フィンランドのログハウス「ホンカ」。山中湖村役場に程近いところにあり、展示場には5棟のログハウスが建っています。
フィンランドから帰国したばかりの友人にお盆休みの展示場を開けてもらい、息子達の社会勉強と称し見学会。

かつて、八ヶ岳の麓や山中湖周辺は、私の仕事場でもありました。女人禁制の飯場にも宿泊の経験があります。丼飯を頂きながら、青森出身の飯場のおばちゃんと親しくおしゃべりしたり、東北から出稼ぎに来ているおじさんが、照れながら林檎を一つくださったことを松の香りを嗅いだら急に思い出しました。
建築中のログハウスに電気も無く、そんな中で、家具や食器を設置したことは、懐かしい思い出です。

新しいログの香りは、混ざり気のない純粋な松の香りです。
この香りが日常のものだったら、なんて幸せだろう、そんなことを思いながら、20年前を懐かしんだつかの間の時間。

あれから20年。
五感の記憶は、時間の隔たりがすっかり消えて、つい最近のことのようです。

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食卓を囲む

2007年08月16日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
毎年夏のこの時期にある方と食事を共にするのが恒例となっています。

その方は、山中湖の古い家屋を借り、夏の3ヶ月をそこで過ごしていらっしゃいます。
築60年の平屋の家は、森の中の細いあぜ道の奥にあります。
私はそのあぜ道が大好きです。一人しか通ることができない幅。草が程よく茂り、木漏れ日の光がその道を照らし、なんだかお伽の国に迷い込んだような気がするのです。

日本在住50年。齢80過ぎとは思えず、粛々と福祉活動を実践し続けていらっしゃいます。

今年も一緒に食事を共にしていただく機会に恵まれ、ビールとワインで、心地良い会話に心が踊りました。
私達家族が彼の住まいの近くにコテージを借り、そこで有り合わせの食事を作り、質素ではありますが、会話がメインディッシュとなり、夜遅くまでお話を聴かせていただくのです。

パソコンも使わず、テレビも見ずの生活なのですが、ユーロとドルのレートと株価の情報は毎日チェックし、世界の情報もまめに仕入れていらっしゃる。
健康に関しても独自のペースで気を使っていらっしゃる。
そして、文章を書き、勉強も欠かされない。

怠け者の私は、1年間貯めておいた疑問、質問を彼に投げ掛けます。
すると、彼の口から流れるように明るく美しい解釈と表現が私に届けられるのです。
その人から頂く言葉からは、決して暗い言葉が出てきません。
常に前に進み上へと向っているのです。

皆と共に食卓を囲み、喜びに満ちた気持ちで過ごす時間は、料理のカロリー以上に体の芯を燃やします。
パンとチーズを分け合い、そこから湧き上がる会話の旅は、多分世界一周以上の価値があります。

心と体と魂が満たされた3日間に感謝。

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本当に必要なもの

2007年08月12日 | 第9章 愛
この春オープンしたスウェーデン家具と雑貨の専門店「イケア」に行って来ました。

あまりの混み様に行くのを控えていましたが、お盆の時期、少しは空いているだろう、、そんな思いで出かけたのですが、甘い考えだったようです。

日常の物を売っているにも関わらず、何となく手に届きそうな非日常に憧れを抱き、家族総出で買い物に来る人、デートコースにする人、オフィス家具を選ぶ人、レジャー感覚でウィンドーショッピングする人。。。

いろいろな生活スタイルの提案を歩きながら体験することが出来、しかも、物選びをしている人々から聞こえてくる会話がとっても面白いので、買い物よりも聞き耳立てて楽しんできました。

行った方ならおわかりでしょうが 、北欧の生活にはかかせないものでも、日本人の生活習慣には、合わないものもあるわけです。そんなものも商品に混じっているのです。

若いカップルの会話 その①
彼女:「これって便利よね~」(切った野菜の皮などをゴミ箱に捨てやすいように曲がるまな板)
彼氏:「君が生まれてから今日まで、こういうものを使った習慣ってある?」
彼女:「うーーーん、ない!」
彼氏:「じゃ、買っても、絶対使わないと思うよ」
彼女:「・・・だね、」

若いカップルの会話 その②
選んだスタンドの笠を巡っての会話

彼女:「また無難な色、買っちゃったね。でももう少し、濃い茶色がヨカッタナァ」
彼氏:「いいんじゃいない?合うよ」
彼女:「でもさぁ~、私が紫色が欲しいって云うと、必ず反対するよね・・」
彼氏:「・・・」
彼女:「なんでよぉ~」
彼氏:「・・・」

つまり彼は、紫色をコーディネートしようとする彼女の趣味が嫌なわけで、、、。
無言の対決。

こうやって、聞き耳立てていると、意外と男子健在!っていう感じがしてきました。
女子の主張に意志をもって、関わっている。。。

日本の将来、現実吟味力を持った若者がこのように活躍してくれることを祈りつつ、私も自分の人生の日常において本当に必要なものかどうか、しっかりと確認しながら買い物してきたつもりですが、さて、どうでしょう。

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表装のお話

2007年08月10日 | 第2章 五感と体感
今年に入ってすぐ、友人から二枚の版画を託されました。
「額装が飽きたから、掛け軸にして頂戴、、、」と。

「バティック、使って欲しいのだけれど。」

彼女はとても贅沢な人です。
私が20代からのお付き合いで、仕事がらみで互いの感性に惚れ合い出会った人。一回りお姉さんです。
人付き合いも、仕事も、好みに関しても手を抜かない。
そのくせ愛らしく、正直で、思いやりの深い人。
私は彼女から、「本物」の世界を多く学ばせて頂きました。

「バティック」、インドネシアの更紗です。
版画を託され、8ヶ月が経ち、私は事ある毎に、古布屋を覗き、更紗との縁を待ち続けました。

そしてとうとう昨日、私の手元に好みの更紗が納まったのです。
二日間、古布屋に通いました。
それも、出会いです。「裂」=布をこよなく愛し、そのためには労を厭わず、媚を売らず、謙遜でいて「確かな商人」との出会いの中で、その更紗に出合ったのです。

人と成り。

作品は、「人」と「成り」です。だから、紙一枚、裂一枚選ぶのに、たいそうな時間がかかります。
一幅の掛け軸にこれだけの時間を使います。
作品のための表装ではありますが、同時に持ち手の姿を映し出すようなものに仕上げたいと願うのです。

更紗との良き出合いのおかげで、次の行程にようやく進みます。
今度は、その更紗と作品を生かし合う「裂」との出合いです。

まだまだ、私の放浪は続きそうですが、材料選びの加速がついたようです。
年内には、友人の手元に納まるか。。。

・・・まだ、それは、わかりません・・・

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明日への神話

2007年08月06日 | 第9章 愛
石川裕之神父が亡くなって1ヶ月が経ちました。
彼が育てた若者達が広島の巡礼の旅に出ています。

身心の成長過程の時期に「信頼できる一人の大人」に出会った人は幸せです。

問うこと。考えること。行動すること。

問うこと、考える習慣、行動の仕方を「一人の信頼できる大人」から学んだ人々が、世界の将来を明るいものへと導いてゆくことを私は信じています。

ピカソの描いたゲルニカ。

岡本太郎の描いた明日への神話。

いくつもの戦争体験をし、亡命したニューヨークで最愛の妻に死なれたシャガールは、以降、ますます愛そのものを描くことで生涯を終えます。

そして、第2次世界大戦中、国賊と近所の人から指をさされながらも、飄々と我が道を貫き通す絵を描いた私の父方の祖父。

何を表現するか、どう表現するか。
それは作家のアイデンティティの統合を意味します。

岡本太郎氏の「明日への神話」、その絵の題名を聞いたときに、体が震えるくらいの「明日への責任」を体感しました。

なにができるか。
なにをしたいか。

私も問いながら、考えながら、行動していこう。

何をしたいか、何を求めているのか、それを明確にしたときに初めて統合された自分の姿に出会うように思います。

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幸福感を体感する

2007年08月03日 | 第4章 愛とゆるし
あなたの幸福感は?

私の場合、そう問われ、いろいろ考え巡らすと、何気ない日常の生活から「幸福感」が思い浮かんできます。

いつものように起き、いつものように食事をとり、いつものように家族と会話すること。特別なことで一喜一憂する感情より、当たり前にこなしていることを、当たり前にできることが私の幸福感である、と、特にここ数年思うようになりました。

そして、その幸福感は、自分の体感でしか分かり得ないものです。
自分自身がどのように愛されたか。愛するか。

それは、私が生まれてから現在に至るまでに経てきた成育史に大きく関わってくるのです。しかも、どのようにその成育史を解釈しているか・・・。

日常に感じる平安感は、私にとって、何よりの幸福感です。
明日はどうなるか誰も知りません。
だからこそ、「今、ここで」の自分を慈しんでいきたいと願うのです。

私の「幸福感」から「愛された記憶=〝愛の原型〟」が蘇り、そのことが生き抜く原動力になっていることに気付きます。

「幸福感」今一度、体感してみませんか。

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愛の原型って何?

2007年08月01日 | 第3章 無意識の世界
「食べてしまいたいほど愛おしい」

子供の頃、母と眠る時に、頬とか腕とか、お腹をくすぐられて、「美味しそうだから食べちゃおう~」と言われてくすぐられて、「ひゃひゃひゃひゃぁ~、、、」と喜び戯れながら眠ったことがふと遠い記憶から蘇ってきました。

妹が生まれてからは、一人部屋で寝かされ、お化けを想像しながら怖い夜をおくったことの方が鮮明に記憶に残っています。
あまりの怖さに、一人で一階の奥にあるお手洗いに行く時は、大き断ち鋏を両手で持ち、バチバチしながら歩いたものです。
そうはいっても、天井の節穴を眺めながら、カタチを想像し、いろいろな物語を作るのも私の楽しみでもありました。

無口な子供は、小さな頭で、想像を張り巡らしながら、心地良い自分のカタチを求めながら、喋ったり泣いたりして感情表現する以上に、何かを観ていたようです。
それに加え、幼い頃に、両極端な気候風土の土地を経験した私のよりどころは、二階の大きな和室の何も入っていない押入れの中でした。暗闇の中で膝を抱えてじっとしていると、不安や悲しみが、溶けていくような感じになるのです。何が正しいのか、何が間違っているのか、その自分の選択は、自分以外にはあり得ない、と、そこで感じ取ったようです。

そういえば、よく母に「ほら、また眉間に皺よせてる!」と言われていました。

「愛の原型」
それは、幼い頃、個人が愛された確かな経験のことを云います。
そして、この「愛の原型」は、個人の人生の選択や個性の持つ特有の傾向に大きな意味をもたらしていくのです。

「食べてしまいたい~」と云われて育った私の愛の原型は、その後の私の傾向や考え方にも大いに役立っているようです。
「愛されること」「愛すること」
それらをもう一度、振り返ってみるのもよいかもしれません。

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