五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

木喰上人の仏たち

2015年02月27日 | 悔いのない人生とは?
木喰さんは、1718年に山梨で生まれ、45歳で出家。それ以降「木喰」=五穀・魚・火食を断った食事をし、93歳で生涯を閉じます。
今回の横浜そごう美術館では、円空さんと同時に木喰さんの仏たちも展示されています。

民藝の柳光悦が木喰を見い出したと書かれてあります。

この木喰さんは、50代に入ってから木彫を始めます。そこから亡くなるまでに千体以上の仏を彫ったそうです。

円空同様、彫る情動が湧きあがることが生涯消えなかったようです。

情動が湧く。

己に湧く情動のまま動く事は、ともすれば自分の現実吟味力の足りなさに繋がりかねないわけですが、創造する情動の行為は、あらゆる芸術の個人の象徴を生み出してゆきます。

円空らしい表現、木喰らしい表現は、ゴッホやピカソらしい表現と同じく、一人の人間を通して創造されたものは、その人らしさの個性が表現されていくということなです。

他者の個性の美を見い出すことは、その人らしさを見い出すことでもあり、その人らしさとは「個人の傾向」であることを思うと人は生まれ育つ過程で、既に芸術家であると云っても過言ではないように思います。

いつから始めても遅くは無いけれど、「自分の情動を何に向けるか」によって、人生の愉しみ方が違ってくるようです。

木喰さんのヘタウマのようでそうでないような仏たちの愛らしさは、きっと木喰さんの個性そのものだったに違いありません。


今日は東急セミナーBE「たまプラーザ」生き甲斐の心理学講座です。「NPO法人CULLカリタスカウンセリング学会」


☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円空の情動

2015年02月26日 | 第2章 五感と体感
横浜そごう美術館にて「円空・木喰展」が行われています。

江戸時代前期に各地に留まりながら膨大な仏を掘った二人の僧、円空と木喰。円空のほうが少し早い時期に生きていますが、60代で亡くなった円空の20年後ぐらいに生まれた木喰は、時代の流れのせいか神や仏のデフォルメにも人に近い具象性の強さを感じます。

円空さんは、今で言えば、基礎を学び、それを体得した上での抽象的な表現と云う事が正しいのかは解りませんが、仏の全体像を与えられた木や木片を利用し、その材料に魂を入れこんでいく様な強さのある仏を次々と制作していきます。

国立東京博物館、通称「東博」での数年前の円空展では、比較的大きな仏が展示されましたが、今回の円空さんは、手の中に納められる大きさのものから人の背丈ぐらいのものまでを展示しています。

各地の寺や個人から拝借した多くの仏は、どれも愛らしく、そして円空の制作情動を強く感じます。

この展覧会のキュレーションにも好感を持ちました。
各地から拝借した仏達をそれぞれ出会わせ、設置した様は、なかなか面白く、時空を超えて一挙に揃った円空同窓会のような楽しさも感じます。

縄文あたりから重なってきた古層の響きが蓄積され、本質的な日本人の情報がそこに納まっているようにも感じました。

明治以降、無理やりに作られた仮想的な廃仏希釈において排他された仏様の叫びの様なものも聴こえ、「よくぞ御無事で。。。」という仏達の交わす言葉まで聞こえてくるのでした。

歴史を重ね、時を重ねて湧いてくる人の情動は消し去ることはできないのだ、と、観覧者の私までもが円空仏のように背を糺して展示会場を後にしたのでありました。

合掌

東大寺二月堂のお水取り、いよいよです。。。これもまた魂の連鎖です。松明の炎に見る先祖の魂を自分自身と重ね合わせる貴重な機会でもあるかもしれません。命の連鎖は頼もしいものであり、生きている者の希望でもある事を改めて意識する期間でもありそうです。


☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霞はじめてたなびく

2015年02月25日 | 第2章 五感と体感
2015年の六分の一が過ぎようとしています。
今朝は、一層芽生えの匂いと花の匂いが空気に混じり、もわっとした重さを感じます。湿度の高さは空気の重さに比例することがよくわかります。

暦を捲るとこの時期の節気は、「雨水」・・・「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」です。そして72候となるとツチショウウルオイオコル・・・「土が湿り気を含みだす時期」
そして、本日あたりは「霞始たなびく」(カスミハジメテタナビク)

ほんとうに節気通りだなぁ~~、朝早くから節気の本を読みふけておりました。

暖房を入れても直ぐにもわっと暑くなる今日この頃。日本の気候の中で季節を巡り和紙を扱い、裏打ちしたものをいつ剥がして次の作業に進めるかをついつい考え過ぎてしまう時期でもあります。
三寒四温の時期をやり過ごして、多少安定する時期まで待つことも技術の一つのようです。この兼ね合いにいつも悩みます。

「霞み始めてたなびく」

確かに今朝は、もやっとしたどんよりとした見通しの悪そうな感じです。

身体も「春眠暁を覚えず」でありましょう。

空気の冷たさに身体が慣れているので、急に温んでくると気温の差に身体が付いて行かず、いつまでも寝ていたくなります。
季節の変化と体調の様子は関係が深いのです。
自分の身体に無理をせず、気候に委ねて馴染んでゆくことがこの時期は体調管理のコツでもありそうです。

表装にしても身体にしても四季の変化に馴染もうとする習性を無理やり身体や和紙に押し付けることはできません。

移ろいゆく季節をゆるりと体感できるぐらいの程好さをこの時期は意識したほうが良さそうですね。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリンの保育園

2015年02月24日 | 第2章 五感と体感
最近「自立」という言葉を考える機会が多々あります。
単純に考えれば「自分で立って、自分で稼いで、他者に依存せずに生きてゆくこと」というような概念が思い浮かぶのですが、実は、赤ちゃんから大人までに持ち備わっている生き延びる為の本能的なものであるはずなのです。

ロジャーズの自己成長理論にしても人に具わっている生き延びる力を大前提に理論が組み立てられています。

「愛の原型」という用語があります。
自分が親から愛されたと感ずるエピソード「愛の原型」を思い浮べながら自分の満足する愛され方愛し方を意識します。

どんなに身体が動かなくなってもどんなに歳を重ねても、その人に「一人で立つ事の意識」を感ずると、感ずる私は安堵感を感じます。
逆に憂いの中に埋没し、自己の感情だけに支配され翻弄されていることを感ずると不安感を感じます。

どんな条件においても自分が最大限一人で立って生きていけるための意思を持つと関わる周囲の人々も安心します。

先日、アフリカの草原に生きているキリンを話題にしたテレビ番組を観ました。
キリンの生態を調査していくうちに、草原にいるキリンよりもブッシュにいるキリンに注目するようになり、そこでキリンの保育園があることが解ったのです。
生後3カ月までは母子で生活するのですが、それを過ぎるとキリンの子供達は一頭のお母さんキリンが保護役になり、群れを成して一日を過ごすのです。そこで生き延びる術とコミュニケーションを学んでゆきます。
保護役のお母さんは、自分の子供にしかお乳を与えません。どんなに他人?の子が甘えてきても足で蹴飛ばして拒否します。
その代り、お乳を出す為に草原で栄養を取り、保育園にお母さん達が戻ってくると走り寄って存分な愛情を示めして子供を包みこみます。そうやって、他者の力を借りながら自立を目指すキリンに感動しました。

自分の自立のために余計な事ばかりが多い人間は、案外、このシンプルさを忘れているのではなかろうか、、、と、思いながら番組を見、自分には何重にもまとわりついてどうでもいいことに捉われているであろうことを改めて意識させられました。

自分は一人の人間です。どのくらい依存すれば、自分の自立を意識出来るのでしょう。

キリンの母子からそんなことをつらつら考えました。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小銭の分配

2015年02月23日 | 第2章 五感と体感
富の分配について、世間では話題になっていますが、ピケティの21世紀の資本が言っている富んでいる人のことを思い浮べようと思っても日本の場合、欧米中東の富んでいる人とは比べものにならないわけで、もやもやとした中間層の私は、いつ貧困層に落ちるとも解らない危うさばかりが頭に浮かびながら話題の本を読み進めています。

私自身もNPOを設立し、生き甲斐の心理学の教育普及を行っていますが、毎年貧困層に匹敵する収支決算で毎年過ごしています。この収支決算で活動しながらいやはや何ともお人好し、、、と、思いきや、仕事の分配度としては質と量はまずまずの好い塩梅なのです。NPOという団体であるため、会社と同じように収入を得ていかなくてはならない責任はあるのですが、何とかやりくりしてこの団体を経営しています。
活動する役員は、皆他で収入を得ているお陰で、富からはかけ離れた決算で経営が成り立っているのです。

つまり、簡単に言うと私達は「富の分配」ならぬ「小銭の分配」をしているということになるのです。
仕事(ワーク)という視点で考えてみると仕事の分配をすることで、収入を得ることと生き甲斐を得ることが自分自身の中では、一つにまとまるということも言えそうなのです。
そうすると、
小銭の分配をすることで、仕事の分配が成り立ち、それによって「自分の生き甲斐」に繋がっていることは確かなようです。

自分にとっての分配とは、何だろうと思っているうちに、「生き甲斐>マネー」という私なりの数式が見えてきたように思います。
ビルゲイツのやっていることと同じことを私達もやっている、という考え方でも間違いは無さそうなのです。

テレビの番組でピケティの理論について語っていくうちに、精神論にいつしか転換してしまう出演者の人々を見ながら、「ああ、私もあなたも縄文人や。。。」と、にやにやと笑いながら答えの無いことに平和で終止符を打ちたいアイデンティティの同調を感じ、自分の中に、どうしても経済的な図式が身に付かない理由が解ったような気がしています(笑;)

生き甲斐>マネー=∞ とでも書いておきましょう。。。

はてさて、皆様は、如何でございましょうか?

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お水取りの季節

2015年02月20日 | 第2章 五感と体感
新年に飾る東大寺二月堂横の手向山八幡の絵馬をようやく片付け、二月堂の糊こぼしの土鈴を出しました。
「糊こぼし」とは、二月堂の袂に咲く椿を模した名称です。朱い椿に白い糊が付いたような様が「糊こぼし」の由来と聞いています。
表装を手掛ける者にとって、この「糊こぼし」を身近に感ずるのもこじつけのような気もしますが、毎年お水取りの期間に我が家の飾棚に登場します。

奈良の和菓子屋さんは競って糊こぼしの名を持つ練り菓子を期間限定で販売します。期間限定の和菓子を目指して奈良に行きたしと思いがつのるのはこの季節が一番強いかもしれません。

3月1日から14日まで練行衆が行を行い、夜にはお松明が走ります。紙子の和紙を纏った練行衆の姿を浮べつつ、糊こぼしの飾りを丁寧に供え、私もお水取り(修二会)を静かにお迎し、同時に始まる四旬節の時期、心鎮めて過ごすことを心掛けたいと思います。

お水取りのワクワク感は拭えません^^。奈良好き東大寺好きにはたまりませぬ。。。

東大寺では和紙で糊こぼしを拵え、二月堂本堂の十一面観音を飾ります。そこでの修二会の行は魂の連鎖でありましょう。
日本人のアイデンティティを深く体感する好い機会であるから故のワクワク感。待ち遠しいです。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気な証拠

2015年02月18日 | 第2章 五感と体感
身体の調子が悪いと全てがお手上げの状態になります。
でも、段々と調子が良くなり、いつもの自分に戻ると、自分を取り戻した気持になります。

歳を重ね、思うようにならなくなった時に自分は果たして自分の状態をあっさりと受容できるだろうか、、、と、思うのですが、こればかりはなってみないと解りません。

元気な証拠は、自分が元気でいないときの状態を意識してこそ、元気を意識出来るので痛みや憂いを感じない時こそ元気な証拠だと思うようになりました。
普通に生活できることのありがたさをいちいち噛み締めることがないことが、元気な証拠であるように思います。

遠い将来の事は解りません。

身体が動くようになり気持に元気が戻ってきた母の元気ゆえに出てくる言葉が復活し、「はいはい、」と思う私の母と娘の図式の復活にも「元気な証拠」を見い出すわけであります。

「元気な証拠」と思うそれぞれの家族のありようは、案外「満たされたもの」ばかりから感じ取られるものではなさそうですね。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源氏物語 御法(みのり)

2015年02月17日 | 第2章 五感と体感
某講座で、源氏物語の中で、誰が一番孤独だった?という問い掛けを話題に進めるための準備をしています。
数週間つらつらと源氏物語を想い浮かべていましたが、何と言っても一番孤独っぽいのは光源氏です。でも、それでは面白くありません。皆さんが解っていることですので。

私自身、源氏物語の中で一番好きなのが「御法(みのり)」です。この帖の主人公は「紫上」。鞍馬寺に預けられていた紫上は、光源氏が自ら育てたいと申し出て、幼い頃から光源氏を父と思い、いつしか妻となり、諸々の孤独な思いを重ねながら人生を過ごします。
六条の御息所の怨霊事件以来、思わしくない体調の中で、紫上は自ら法要を行います。それが、或る意味、生前葬とも思える内容で描かれています。尼になりたいと光源氏に申し出ても、彼の独占欲が先行し、常に却下される中での決断でした。
それから暫くして、明石君と光源氏に見守られて命を閉じるのです。

切ない内容なのですが、紫上の自己実現を思うと、彼女にとっての悔いの無い人生が、この御法の帖に表現されているように思います。

孤独感の中から生まれた最大限の自己表現が法要によって成された素敵な帖なのです。

この帖によって、紫上に想い描いていた抑圧的な切なさが読み手の私自身すっきりとした気持になったことを未だに覚えています。

そのようなわけで、2月18日の某講座の私の役目はそんな話題を提供して愉しみたいと思い巡らしています。


☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の幸福感

2015年02月16日 | 第2章 五感と体感
法螺貝を吹いた幸福感。
謡いの稽古を終えた時の幸福感。
仕事がうまくいったと思えた時の幸福感。
食の幸福感。
今日もお布団で寝ることのできる幸福感。
身体が動くことの幸福感。

自分の幸福感のスケールを思い浮べてみると、身体が自由に動き、食事を自由に頂くことが出来ているからこその幸福感であるように思います。

身体が自由に動かず、食事も思うように食べることができなければ、自分の幸福感の意識化を改めて問い直さなくてはなりません。
自分が現在置かれている環境の中で幸福感を感ずることが出来ないとしたら、一体自分は何を満たしたいのか?そのことを考えなくてはなりません。満たされていないことを想い浮かべ、それが現実に実現可能な事なのかを吟味してみる必要にも迫られるかもしれません。

自分の幸福感。

今から自分が寝たきりになることを想定して、その時の幸福感を考えようと思っても実際に自分がその状況下で生きているわけではないので、推測することはできません。

今、この時の幸福感を感ずることこそ、自分の環境の変化による適応に繋がってゆくのだと思います。

今の自分の幸福感を意識化することができれば、きっと大丈夫、、、という確信があります。

「幸福の条件」が満たされずに不満であることと「幸福感」は違います。

いつも過去や未来を想像して不安になることは、仮想現実に捉われて地に足が着いていない状態である事と同じであるかもしれません。

今ここでの幸福感の意識化こそ、将来環境変化するであろう自分自身の保ち方に繋がるはずなのです。

現在の自分の心と魂と身体を大事にしたいものです。今という瞬間は、瞬時にして過去になっていくことを時々は意識したいものです。



☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

法螺を吹いて見神欲

2015年02月14日 | 第2章 五感と体感
実家にホラ貝が届きました。指導を受けていた尺八の師匠が齢九十で亡くなったのと本人も体力的にも尺八に限界を感じた気配のある父が以前から「法螺、法螺、ホラ」と呟いていたのですが、ついに手に入れました。

今治の某法螺伝道者から送られてきた箱を開けると
中には、
法螺。
法螺を包んで首から下げる編み紐。
教本。
法螺貝のCD。
が、はいっておりました。

最初から吹けるわけない、と、思いきや、何と法螺貝は息を吹き込みその共鳴する音を発するのではなく、自分の声そのものが拡声して響き渡ることが判明。
手にしてみないと解らない、と、いきなりハードルの下がった錯覚に陥り、ホラ吹き大会が始まりました。

なるほど、「ホラを吹く」と云う事の由来は、そこから来ているのだと、改めて知る事となった次第です。

自分の生き甲斐を魂の方向に向けることで、見えてくるものが白装束の修験道の領域であるような無いような、そんなイメージを持っている父の見神欲(デジデリウム)は衰えていないかな、と、窺うこともできそうです。

役行者が葛城山で生まれ育ち、あれやこれやと能力を蓄え疎まれつつも吉野金峯山寺を聖地として開山する前から、日本の国には多くの聖地と霊山があったはずです。それぞれの地域に住まう人々が、山を仰ぎ、海を仰ぎ、天を仰ぎ、頭を垂れ、生き抜くためのエネルギーを頂いて世を繋いできました。

明治政府が海外を真似し、強引な宗教改革をしてしまったことで、日本の八百万の神々+諸々の宗教は、分離されあいまいさを法的に排除しました。それでも無意識の中に一層溜まる人の神を見る力(欲)は、抑圧的に層と成してきたはずです。
歴史の学びで、そのあたりの事を丁寧に教えることができないので、ますます日本人特有の察しの文化が強調されてきたのかもしれない、と思う事が度々あります。

古層から積まれてきた人の自然な取捨選択は、そうそう切り落とすことはできません。形成される人の思考と感情と行動に抑圧された信仰の歴史が日本という個性として分化されていることは、文化人類学的に言うと当たり前の事なのです。

自分の中にある山岳宗教的な記憶は、声明の呂律を聴くことで魂の深いところから湧き上がってくる回帰のような情動がその証拠かもしれません。

老いた両親に少々手間が掛かり始めたこの時期に実家に行く毎にホラ貝を吹きながら、その呂律を学ぶ事は、私の楽しみの一つにもなりそうです。
ホラ貝を吹くことは、声明を唱えることに近いように思いますが、謡いをしていることで、感は掴めそうです。

父が、「お前も一つホラ貝を買うか?」と、聞かれたので、すかさず、「いやいや、私に楽器を買ってくれるんだったら、小鼓がいいわ、」と、どさくさに紛れておねだりアピールしておきました。

今日も実家に行かねばならないので、勿論、ホラ吹き練習やってきます(笑)
人生の道行きに自分に何が手に入るか解りません^^;
金峯山寺で聞いたホラ貝の音の物凄さは、ホラ貝を吹いた山伏の修行している身体と心と魂そのものであることに、気付かせていただき、これまた何がきっかけで気づかされるかわかりません。

合掌

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相手の力を程よくお借りする

2015年02月13日 | 第2章 五感と体感
人の能力には限界があります。
どんな天才でも、要領の良い人でも、自分は何も出来ないと思っている人でも、自分の身体は一つであり、与えられている時間も他者とはなんら変わりません。つまり人が行動するための基本的な条件は同じなのです。

他者の能力や可能性を信じて委ねる時間を持つことは、大人になればなるほど大切な心掛けなのかもしれません。

世代の違い。職業の違い。役割の違い。自分以外の人は、全て他者です。
その他者と向き合う時に、自分の思考と感情と行動の傾向を他者に求めても、上手く事は運びません。

自分と他者との関係性で、自分の優位性、自分の傾向を強調発信しても、他者との関係性の距離は遠ざかるばかりです。

まずは、他者の力を信ずること、つまり個人の「思考と感情と行動」を尊重することが、共に何かをするときの基本的スタンスであるように思います。

他者を信じて放(はな)ってみると、そのうち好い塩梅の関係が成り立つはずなのです。
何かを違和感を感ずるタイミングも早めに訪れます。その時は、軌道修正をすれば良いのです。

「相手の力を程よくお借りする」ことは、互いの違いを受容する事と繋がります。

信ずることと依存していることは、似ているようでいて違うことをそこで学ぶこともできそうです。

程好いお借り上手になりたいものです。


☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の幸福感

2015年02月12日 | 第2章 五感と体感
春の気配が感ぜられます。
花粉症の人はお鼻やお目目がかゆくなる季節です。私も何となく反応するので、花粉に関しては好意的には思えませんが。

この季節になるとむずむず湧き上がってくる情動。それは奈良です。
先日も奈良の歴史関連を学んでいた友人が別件で我が家を訪れたのですが、仕事の話はそこそこで、行き着く話題は奈良談議。
そろそろ、お水取りの準備が具体的に始まります。

今年は早めに「糊こぼし」と云われている椿の土鈴を出そうかしら。。。
糊こぼしとは紅い花びらに白い糊がこぼれたような模様であるために糊こぼしと云われている椿の名称です。
二月堂には、この糊こぼしの土鈴が売られており、毎年この季節になると我が家の玄関の飾棚にはこの土鈴が置かれます。

うずうず。
わくわく。

木の芽、草の芽が顔を出すのと同じようなうずうず感は、この時期ならではの私の幸福感です。

二月堂でのお水取りでお松明の灯を眺めると太古の昔から繋がれてきた祖先の魂と今を生きる自分が出会うことを感じます。

奈良好きにはたまらない季節到来。。。

寒さの中にも春の音が聴こえてきます。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表装と茶の湯

2015年02月11日 | 第2章 五感と体感
茶の湯の文化は、もろもろの作り手に付加価値を与えてくれました。
数寄屋作りの家の中に籠められた思いが「これが美である」という概念を一層見せる者、与える者に強く響かせる演出は、侘寂の文化形成に多大な進展をもたらせたように思います。

茶室に居ながらして自然界と深遠なる深さを体感します。炉にくべた墨の音と設えの意味を想いながら床の間の軸と花に眼を向けると、その日の茶会の意味が言わずとも見えてくるのが茶の湯であるからこその成せる技なのです。

口を開かず最小限の言語伝達の中に暗示と隠喩を汲み取る感性が具わる日本人のアイデンティティが生み出した芸術でもあり、コミュニケーションの形としては、かなりの知性と感性の力が無くしては挑むことはできないはずです。
その知性と感性を磨くためにひたすら学んだ人々が数寄者と呼ばれるのであれば、こんな羨ましい暮らし方はありません。

茶の湯が大ブレークした利休の時代に「私は数寄者」と自分から名乗る人が居たかどうかは知りませんが、堺の商人の旦那衆が没頭した贅沢なこの趣味は、酒や賭け事に溺れるよりも社会の経済を活性化させ、まさに旦那衆の秘密結社のようなものだったのかもしれません。

知性と理性の探究を美の概念と結び付けてゆく茶の湯の世界は、学び続けてゆくうちにいつしか見る目が華美なる物を遠ざけてゆくから不思議です。必要最小限を自然界の中から見い出す力を具えてゆくと審美眼も自ずと身についてゆくように思います。
そんな中で、床の間の表装に眼を向ける事は、茶会の亭主の持ち味に留めを指すと云っても過言では無いかもしれません。
それは何故かと云うと、表装として設えられるのは、文字であったり、画であったりするからです。
無言の伝達から具体性のある伝達のかけ橋が茶の湯の作法であるとすると、こんなサロンは他の国では見当たりません。

刀を扇子に置き換え、腹を探る者同士が同じ茶碗で茶を頂く場面では、亭主が凄腕のファシリテーターでなくては叶わないはずです。

本音の伝達をどこで示すか。
気付けば、感情が動きます。気づかなければ、それまでです。試されている事も承知のひととき。
数寄者修業の学びは終わる事の無い永遠の魅力だったのでありましょう。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

整理ながら選択肢を作る

2015年02月10日 | 第2章 五感と体感
持ち物にしても、自分に関わる出来事にしても、整理していくうちに次の海路が見えてくる事が多いようです。

いくつかの種類の仕事を同時進行しながら健全に暮らしていくには、どうしても取捨選択の必要性が出てきます。

全ての事を受け容れて自分がこなそうと思っても、なかなか難しいことです。

自分の身の丈を知ると、このくらいでちょうどいい、、、と、思えるようになるにも随分時間がかかります。
20代、30代ぐらいまでは、少々無理をしても回復力を信じて突っ走っていくことができましたが、思いに身体がついていかないことを歴然と感ずるようになると、自分の限界も見えてくるようになります。
経験してきたことの処理に限界を感ずることに口惜しさを感じるのであれば、まだまだやりたい自分と出来ない自分の葛藤中ということでもあり、大いに悩めばよいのです。

そのうち、口惜しい自分を乗り越えて、取捨選択できる時期がやってくるようです。

稀にいつになっても手放せず周りを振り回す人に出会う事もありますが、そのような人は生きてきた過程に何か捨てられない経験をしてこられたのでしょう。

自分の身支度とは、最終的には自分の命の閉じ方にも繋がることなのです。整理しながら選択肢を作ることは、メメントモリ(死を想う)の大切な作業でもあるように思います。

先日60年担ってきた役割の後継者をようやく決めた父。身体の具合が思うように回復しない事態を経験し、ようやく観念したと見受けられます。
「そうそう、その調子!」と、心の内で声を掛けながら「こういうことは、娘の受け継ぐ役割でも無し、父の選択を黙って見守ることしかできんのだ。」と、安堵した次第です。

整理していくと選択肢が見えてくるし、そこで選ぶ一筋の道に明るさが見えてくる事は、人に具わる真理のカタチであるのかもしれません。
他者から勝手に与えられた道筋からは、見えてこないものです。

☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

肯定することとは

2015年02月09日 | 第2章 五感と体感
自分のセルフイメージにしても自分のやっていることを否定されたり、他の考え方を強要されたりすると、言われた本人は、相手が思った以上に全否定された様な気持になります。

良かれと思って発する言葉が、案外相手を痛めていることに気付かなかったりするのです。

「傾聴」をすることによって、相手の何を肯定するか。
「肯定的理解を示す」ということが大切なポイントのようです。

相手のやっている事、考えている事が聴いている側にとって「それは違うでしょ」と思ったとしても、相手が思っている事や行動している事をそのまま受容することが肯定的理解に繋がるようです。

聴く側の肯定的理解によって、相手は自分の「現実吟味」を自分自身で検討する余裕が生まれてくるのです。

やっていることを「それじゃ、だめよ!」なんて、言われようものならたちまち心を閉ざしてしまいます。

傾聴における「肯定する」という意味は、相手の意見や考え方に賛成したり、それに自分も同調していることを示すことではありません。

相手の思いをそのまま受け止めることは、信頼関係の始まりの始まりです。

「でもね、あなたのやっていることは間違っている。私は、こう思う。」という言葉を発するタイミングをもう少し引き延ばしてみることは、かなりの努力と我慢が必要かもしれません。

間を置き、肯定的理解に努める時間は、相手に考える時間を与えていることを忘れてはならないようにも思います。


☆☆ ☆☆
ブログの下に掲載される広告は、私個人に関わるものではなく、一切関係ありません。有料の広告非表示でブログをアップしているのですがスマホ対応はされていないようです。

☆ クりック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学/五感で観る」
人気blogランキング




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする