五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

今日は復活祭

2013年03月31日 | 第2章 五感と体感
先週は聖週間。そして本日は復活祭(イースター)です。

キリストが金曜日に十字架にかけられ、3日目に復活。

春分以降の満月の後の日曜日が復活祭です。

春分の太陽と月の関係が復活祭と結びつきます。

キリストの誕生日、つまり、クリスマスは冬至と重なります。

そして、聖霊降臨は限りなく夏至に近く日中の太陽が頭の上にある季節にあります。

太陽の位置によって神を祀ることにより、人の暮らしの勤勉さを助長させていくように思います。
勤勉さは、人が心身ともに健やかに生きるための「知恵」ともいえると私は思っています。

日本の寺院も修二会が節分以降各々の寺院で行われ、4月8日のお釈迦様の誕生日を迎えます。
東大寺の花筐に祀られるお釈迦様は、馬酔木や椿の花に囲まれ華やかです。

春の到来です。

ご復活おめでとうございます。

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自己実現

2013年03月30日 | 第2章 五感と体感
「主張する」こととや、「声に出す」こと、それに「自分はこんなことをやっている」ということを世間に発信することを嫌う日本の社会の風潮が、ここ数カ月で変わってきたように思います。

子供の保育所についての不満を声に出し始めた子育て中のお母さん方、一票の格差の問題や、
会社のコマーシャルも「うちの会社は、こんな社会貢献をしている」というアピールを前面に出して制作したり、
先日の新聞には、横浜市が宮城県山元町の支援を強化することを具体的に説明する記事が大きく掲載されました。

ただ、不満を爆発させるより、何をアピールし、何を補い、何を変えていくか、ということを具体的に声に出し、しかるべき方法を使って合理的に行動することは、どういうわけか、今までの日本の社会で欠落していたことのように思います。

「私は何をしたいのか」

それを実行するにはどうすれば良いのか、実行を阻んでいるのは自分の問題なのか、社会の制度、法律の問題か?

そして、制度や法律のどこを変えていけばよいのか。

そのためには、どんな行動をすれば、実現するのか?

「自己実現」の方法は、昔から企業研修にも使われ、実行されてきたのでしょうが、最近になり、私のような一般人にも目に見えるようなアピールが増えてきたように感じます。

1.イメージする

2. 言語化する

3.行動する

たったこれだけの法則なのに、自分を阻むものは何なのでしょう。

不満の言葉を吐き続けることよりも、このように動き出した人々が私の目に見えてきたことに、風通しの良い清涼感を感じます。

アピールすること、自己主張することは、自己実現への一歩だな、と、思います。

私も感じる社会の変化に気持を押されています。そんな私は単純です^^;

それでもガンジスの砂の一粒を信じて、粛々と自分の役割を遂行していきたいものです。

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不適応

2013年03月29日 | 第2章 五感と体感
自分の置かれた環境や出来事に「イラッ」としたり、「こんなハズじゃなかった…」、と思い悩むことは、人生過程に於いて、小さな事を含めると数え切れないほど経験しています。毎日が、その繰り返しです。

生き甲斐の心理学を学ぶにあたり、まず最初に学んだ事の二言三言に、私自身の考え方をガラリと変えられたものがあります。

それは、「不安は人の本質である」
そして「自分の悩みの答えは自分の生育史のなかに必ず宿っている」、
その上、ある傾向の社会の中で、自分がヘンなんじゃないかと、悩んでいた時期の私に「それは、あなたの個性の美ですね」と、言われた瞬間に、自分を追い詰めていた「悩み」という囚われから解放されました。

その後、未だ生き甲斐の心理学を学び続け、NPOを設立し教育普及活動をしながら、個人的には学校でスクールカウンセラーとして仕事をしています。

どんなに他人が自分の「個性の美」を讃えても、自分自身が「そんなんじゃない」と解釈していたら、それまでの話です。
自分自身が自分自身を肯定していない限り、せっかく育んできた自分の個性の美を殺してしまうのです。

「自分の生育史は宝物である」ことを自分の中で受容しているとしたら、たぶん、どんな環境の中でも自分のアイデンティティを信じて、自ずから適応の方向に導いていくはずです。

他者から期待されることは、ほんとうに他者が自分に期待していることなのか?
そして、自分が「~せねばならない」と、思っている事は、生まれてから今日まで育まれてきた自分の習慣とどう繋がっているか、ということをまず意識化していくことから学びがスタートしていきます。

つまり、私と他者を分けているかどうか。親も子も伴侶も他者です。そのことを意識できているか。

親や子、夫や妻に言われ続けてきた事、言い続けてきた事、そして期待すること、期待されることが、自分が他者と混同していないか?
勿論、親子関係も夫婦関係も、どんなに「自分は違う!」と、思っていても、いつしか互いに依存し合っていることのほうが自然な成り行きだと思います。それを敢えて、自分と他者として分けようとすると、自分がいつもどんな主語を使って日常生活しているかに気付いたりします。

ついつい、口に出している「母が、」「父が、」「夫が、」「妻が、」「子供が、」....

「私が、」「私は、」という主語を使う事を促していく事から学びを始めていくケースも少なくありません。

どんな環境の中でも、自分を活かしていく力は生き抜いていく力に変換されていきます。

4月からは、新しい環境に身を置く時期でもあります。
まず、「自分は不適応から始まる」ことを前提に、自分が、どう環境適応できていくかを自ずから観察してみるのもよき学びになるかもしれません。

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同じ川の水を飲む

2013年03月28日 | 第2章 五感と体感
私が何かに関わると、必ず私と関わりのある人が、どこかで繋がっていて、その繋がりの御縁で結ばれることの頻度が多いのです。

もしかしたら、「繋がっている」と思う私の解釈に、何でも繋げてしまう自分の傾向が加わっているのかもしれませんが(笑)

先日ひょんなことから「私達、同じ川の水を飲んで育ったのね~」という言葉を聞きました。

私の習い事のご師匠と東日本大震災がきっかけでお付き合いの始まった団体の理事長さんが、まさしく同じ川の水で育っていたことが発覚。
二月のブログでも書きましたように、宮城県山元町の皆様にお会いし、そこで聴いた「さんさ時雨」の事を師匠に話し、「着物の上に着る活動着があると、催しの時に気楽に着ることができて、いいのだけれど。。。」という情報もお伝えすると、早速着物を送ってくださいました。

そのことがきっかけで、お二人が同郷者であることが発覚。同じ宮城でも仙台に近いあたりのようですが、盛り上がっているお二人にしか解らない深い絆に感動しつつ、物を媒体とした繋がりがこのように繋がっていくことに深い歓びを感じました。

心と魂に触れていく瞬間、身体の中に温かい血が巡っていくのを感じます。
その体感が、生きる喜びに繋がっていくのだとしたら、もっともっと人と人が繋がっていって手を繋ぎ合えるような活動をし続けていきたいと思うのです。


「同じ川の水を飲んで育った」という言葉に、故郷の好みを無条件で感じ、また一つ人と人が結ばれた歓びを一緒にできた体感を私自身が味わっています。

日本は島国です。川が国境になっていたり、複数の国に川が流れているということはありません。
故にRiverは、Rivalの語源と言う事を聞いたことがあります。

日本は違います。

「同じ川の水を飲む」ことによって信頼感が生まれ、アイデンティティの統合が成されていくことが自然とDNAに組まれているように思います。

一定の年齢まで一つの場所に育った人々を羨ましいと思いながら、私は寅さんのように、いやいや、願わくはスナフキンのように、理想を云えば、西行法師のように(笑)、繋げ役を静々とできれば、これで私の幸福感は満たされると、しみじみ感じる今日この頃です。

いつもどこでもエトランゼみたいな感覚である私は、自分のエトランゼ感を受容した時から気楽になったことも長年の学びのお陰かな、、、、と。いつも異邦人で、いつも旅人であることは、たぶん、死ぬまでかもしれません。

京都の持勝寺の西行桜は、ちょっと遅れてそろそろ見頃かもしれませんね。

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不安感って何?

2013年03月27日 | 第2章 五感と体感
理想と現実のギャップが不安感を生みます。

理想とは、夢のようなことも含まれますが、この場合は「~せねばならない、こうすべき、こうであるべき・・・」というような、自分の中に在る習慣的な傾向そのものが理想の領域であると捉えてみるとよいかもしれません。

自分が当たり前のようにしてきたことが、在る日突然、環境の変化によって、当たり前で無くなった時、現実不適応となり、不安感が生まれてくるのです。

例えば、37年間、当たり前のように東横線を使い、当たり前のように山手線に乗り換えていた自分が、渋谷駅が地下五階になったことで渋谷乗り換えを過剰に拒否していることも「私の理想と現実のギャップによる不安感」です。
環境不適応によって、過剰に不安感を生んでいるようです。

自分の不安感は、常に身近にあるはずですが、人は不安感が無くては生きていけません。
不安感があるから、好きと嫌いを意識し、好きなものを選択し、怖い怖くないという感情があるから、不安でないものを選択して、生き抜いていくのです。
そのような直感的な原初感情を無視していると、いつしかボタンの掛け違いが起こってきます。

幸福なこと、癒されることばかりに目を向けていて不安感が解消されないのは、不安感が人の本質であることを知らないからかも知れません。

ちょっとした不安感を意識することから、それに対する理想と現実をイメージしてみると、案外、解決する答えは自分の中の近いところにあるように思います。

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映画「ニーチェの馬」

2013年03月26日 | 第2章 五感と体感
先日、物凄く重苦しい映画を観ました。

タイトルは「ニーチェの馬」

かつてベルリンの壁があったころ、ドイツ東西の冷戦、ロシアとの冷戦の時代には、このような象徴的な映画が多く生まれました。その頃の映画のお陰で、諸々なことを育ませて頂きました。

ニーチェの馬は、その頃を思い返すような映画でした。

「人は心と身体と魂で成っている」ということを信じている私には、「人は心と身体のみで生きている」という大胆不敵なテーマに挑んだ作者の意図の勇気と実践に、腕組みをしながら、実際には途中で夕食の支度をしながら、それでも最後まで見ました。

「人には見神欲(デジデリウム)が備わり、自ずから文化を欲すること」は、東日本大震災以来、私がずっと感じ取っていることでもあります。

神が居るとか居ないとか、教義に従うとか、そういうことではありません。

人は、自然の脅威に触れながら、頭(こうべ)を垂れ、そして、その環境の中から生き抜く力を育み、歌い、舞いながら、その土地に風土に見合った文化を構築していくのです。それが風習であり、慣習であり、文化であるのです。

「人から崇める対象や風習や文化を取り去ったらどのような絵図になるか。。。」
これは、私の勝手な推測ですが、もし人がそのように生きていたら・・・、ということを前提に作られた映画だとしたら、「魂を信じない人、もしくは、魂を信じることを知らない人がどのように生きていくか、ということを具体的に映像化することを試みた」という意図を感じたりするのです。

愛に溢れたものを表現し、喜怒哀楽を表現することよりも、魂を信じない、もしくは魂を知らないことを表現することのほうが、深い思索が必要だと云う事をまざまざと感じさせられた映画です。

魂を信じるところから心を育んでいく力が人に備わっていることを逆に証明したような映画でもあるかな、と、思ったわけです。

「ニーチェの馬」の私にとっての意味づけを考えることに随分時間を費やしましたが、映画の感想は、これ以上でもこれ以下でもありません。
久しぶりに、思索を与えられた映画でした。

映像の中から見えてきたものを語ってみました。

人とは何たるや。文化とは何か。神とは何か。
ひたすら続く同じ繰り返しの映像から徐々に暗闇となる行程のデクレッシェントを感じるための忍耐力が必要な映画ですが。。。見たほうがいいよ、とはお薦めしません…。

ただ、人に必要なものを意味ずけするための材料にはなるやもしれず、文化的な何かの助成金を得るために比較考察のためのプレゼンテーションのネタに使えたりもするかもしれない、と、。

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息子の母

2013年03月25日 | 第2章 五感と体感
男の子を育てる過程で、自然と親である私の情報収集力が長けてきつつ、そのうち子供から得る情報についての信憑性に疑いを持つことに馴れてきたように思います((笑))

娘がいようが息子がいようが、親の役割は変わりませんが、あれこれ喋らず情報伝達に著しい欠落の息子から得る情報をアテにしないこと、期待しない事を前提にする母親の心構えは、長年かけてすっかりと板についてきたように思います。

親に対する言語伝達を私自身が期待しなくなった頃から、私の心配する気持は随分軽減されました。

多分、その分、見えないところで信じる気持が強くなってきたのかもしれません。

「きっと、こんな感じで親子関係が継続していくのだろうな」という、気楽な気持ちに至ったお陰で、子の行動を深追いしない母に成長できたのかな、とも思います。

さて、
そんな情報伝達欠落息子の大学の卒業式が昨日ありました。もちろん卒業式の具体的な情報はインターネットで調べ、いそいそと出かける息子をニコニコと暖かく見送り、規模の大きな大学でありながら規模の小さな学部のお陰で最後の最後に教室入口でとっ捕まえて、写真を取ることもでき、まぁ、息子なんてこんなもんだ。。。と。私も随分、要領が良くなったものだと、自分を褒めつつ^^;。

確かに子供の存在は自分の生き甲斐ではありますが、その生き甲斐がもれなく自分の人生行程くっついてくるわけでもなし…。
かといって、そのことを他人からは言われたくなく、自分自身で掴んでいくものなのでしょう。

ありがたいことに、学校というフィールドで仕事をしることで、娘のような生徒さん方、そして娘を育てるお母様方との交流は、私自身の成長を促して頂いております。
複合的な生き甲斐が折り重なりながら日々生きていることも、私らしさであるのかもしれません。

兎にも角にもピリオドを打つことができた子育て行程に合掌し、千鳥ヶ淵の満開の桜を愛で、神楽坂でお腹いっぱい食事をし、帰路についた一日でした。勿論、息子抜きです((笑))。しかも、未だ帰らずですが、^^;。

あとは、社会人一日目に、にこにこと送り出すのが私の最低限で最高の愛のしるしであろうか、な?。

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桜と紅葉の饗宴

2013年03月24日 | 第2章 五感と体感
昨年は、仕事にかこつけて京都を巡る回数が多く持てましたので、季節ごとに楽しむことができました。
三月は北野天満宮の梅を愛で、四月は市街地は満開でしたが西行桜の元祖、勝持寺で咲き始めの桜を愛で、筍を大量購入しました。
一年経つのが早いです。

能楽の発表会を拝見することを目的に一泊することにしました。この季節、日帰りでは勿体無い。。。
思いがけずに桜の開花が早く、特に京都御苑の近衛邸跡の桜は満開で訪れた21日は丁度見頃となっており、噂を聞きつけた人々が大木に咲く小さな花弁の可憐な桜を静々と眺めていました。

お友達の能は「紅葉狩り」。
女性のワキを拝見するのは初めての経験でした。

山深い場所で紅葉狩りの宴をしている美女に呼ばれる平維茂。鹿狩りはそっちのけで酒宴に呼ばれ、ついつい呑み過ぎ寝入ってしまいます。目が覚めるとそこには美女では無く鬼が。。。
美女では無く実は鬼であったわけです。太刀を振るい鬼退治をするのが「紅葉狩り」のあらすじです。

美しい武将が女性であることを忘れて、すっかり虜になりながら観ている私がおりました。

紅葉狩りが、桜の花見と同じく宴と掛かり、外は桜、内は紅葉でなんとも情緒溢れた贅沢な演目。
出演された皆様を桜が祝福するかのような一日でした。

Sさんの出演に駆けつけた友人達とすっかり交じらせていただき舞台を終えた夜の饗宴も楽しく「鬼即ち神となり」の尊い一日を過ごさせて頂きました。

能の話題で持ちきりとなる時間は、脳みそが蕩けます。

ここでまた一句。
桜萌えうれしたのしや宴の夜(よ)

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弘法市と不二桜

2013年03月23日 | 第2章 五感と体感
東寺の弘法市に初めて行ってきました。

毎月21日は弘法市です。
京都に住む友人が教えてれたお陰で、ようやく弘法市を歩くことが出来ました。

京都の駅から近鉄線で一つ目の東寺駅から徒歩五分。駅降りて路に出ると、人、人、人。歩道に露店が並び、境内に入ると想像以上の露店の数。驚きました。古道具あり、陶芸作家の新作あり、布屋、古着屋、トウガラシに漬物、お菓子に植木、ありとあらゆるものが売られています。

月に一度やり続けていることのパワーは、弘法大師のパワーそのものであるかもしれないし、人に内在している生き抜く力は、弘法大師のみならず全ての人に備わっているものなのだ。。。、と、。

「お大師さんを信じているならば、自分の力をマジで信じなさい」という声が聞こえてきたような…。

生きてゆくためには、したたかさがあってよろしい、という赦しを得たような…。

東寺の薬師如来に月光菩薩月光菩薩、十二神将、それに大日如来様を囲む人のパワーは、互いに補い合っているのやも知れぬとも思ったり…。

今日は、永遠普遍の富士山に永らえたもう命をなぞらえた不二桜を愛でる参拝客も多いことでしょう。羽衣つけた天女も舞う満開の桜に、羽衣謡い、春を慶びたいものです。

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京都で萌えてきました

2013年03月22日 | 第2章 五感と体感
二日間、京都を楽しんできました。

SNSでの繋がる能楽愛好家の皆様とモテモテのSさんの能の舞台を拝見しました。Sさんは女性で、しかも、ワキ方をしていらっしゃいます。演目は「紅葉狩」。

女性にしては珍しくワキを何故選ばれたのか、お聞きした事はありませんが、ともかくカッコ良かった、美しかった。素晴らしかった。。。そのような舞台を観続ける私の目は、確実にハートになっておりました。

韓流にハマったことも、宝塚にハマったことも無い私ですが、よくよく考えてみれば10代、20代までは、音楽や映画、或る種の演劇に対しては、うるさく固執していて、ある意味オッカケに近いことをしていたかもしれません。

そして、6年ほど前から久しぶりに萌え萌え気分で能を楽しんでいる自分がいます。

素人にしておくのはもったいないSさんの凛々しい舞台を目の当たりにし、ふるふるとした歓びを感じさせていただきました。

京都もあっという間に桜が咲きだし、教えていただいた御所の近衛邸跡の桜も満喫し、金戒光明寺にて会津藩士の墓をお参りし、3重の塔から眺める京都の景色を目に納め、東寺の弘法市を初めて訪れ、旅の最後に不二桜(東寺)の今にも咲かんばかりの様子に手を合わせ、発表会に謡う富士太鼓を祈願しました。

年度末のあれこれは未だ終わっておりませんが、これから一気に頑張る力を頂き、気を蓄えた状態で働くことができそうです。

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春分の日

2013年03月20日 | 第2章 五感と体感
冬至から一日一日、日照時間が長くなり、今日は春分の日です。

古代から春分は、祀り事の対象として大切にされてきました。

これから夏至に至るまでの三カ月、どんどんと長くなる太陽の光を浴びながら、自分を活かしていきたいと思います。

目覚めの時期に、目覚めることに素直に従うと、「始まること」に背中を押されるように自ずから一歩踏み出すことができるかもしれません。

春分の日を過ぎた満月の後に来る日曜日が復活祭です。
今年の復活祭は3月31日です。新年度にぴったりと合うので、諸々の慶び事と重なりそうです。
バチカンでは法皇も決まり、今年の復活祭も久しぶりに身の丈に合った暖かさに満たされるような気配です。

4月8日の花まつりまで、お祭り気分。。。めでたしめでたし。

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アッシジの聖フランシスコ

2013年03月19日 | 第2章 五感と体感
ローマ法王が「フランシスコ」と名乗る事に、一瞬疑いの気持を持ちましたが、公に大胆にもフランシスコと名乗るのであれば、それを信じよう。。。という気持に切り替えることにしました。

2009年の9月末に日本でお世話になっている神父さんの故郷の国スロベニアを案内していただきました。
小さな村の教会に泊まり、一週間神父さん2人と私の家族3人が共同生活。
夜になると15分おきに鳴る教会の鐘(午前0時頃まで鳴り、6時前から再び鳴る鐘)が不眠の原因となりながらも、農業&自然と共に暮らす人々の豊かな食生活に預かり、貴重な体験をしました。

でぶっちょのH神父さんが、車を運転しスロベニアの主要観光地?主要聖地?を隈なく案内してくださり、人任せの楽チンな旅を今まで経験したことのない私達は、恐縮しながらも思う存分楽しみました。

首都リュブリャナに寄って、H神父さんの妹さんがいらっしゃるサレジアン修道院で美味しい御馳走でもてなしを受け、そこからブラッドに行った時の話です。
ブラッドは湖の中に浮かぶ島があり、修道院が建っています。美しい風景ゆえに日本の観光の新聞広告にも象徴的に使われている観光地です。
湖を一巡りし、おいしいケーキを出すカフェに連れて行かれました。
湖を一望できるオープンスペースに席を取り、店の定番大型ミルフィーユを頂き休憩し、私達がお土産を探している間、日本でお世話になっているK神父さんが一人テーブルに残り静かに座っておられました。
母と私が用事を済ませ、遠目から一人据わるK神父さんのテーブルを眺めると、テーブルに散らかったミルフィーユのパイの皮を雀が沢山乗っかり、ついばんでいるではありませんか。。。
K神父さんは、静かに座り、その雀を涼やかなお顔で眺めているのです。

「アッシジの聖フランシスコ・・・」その光景を観て母と私が同時に呟いた言葉です。

自分の一番身近な所に、こういう方がいらした、、、ということを改めて感謝した瞬間でした。

ユーモアがあって話題も豊富。人を気遣い、人に気遣わせることを嫌い、スロベニア滞在中の数ヶ月間の荷物も小さな段ボール一箱。反面、頑な考え方も持ち、自然体で心身を律しておられる方です。
毎年二回はK神父さんと過ごす期間を持ちますが、ほんとうの家族のような親しみを感じさせていただいています。

イタリア出身アルゼンチン人のパパ様が、この名乗り使いどのように世界にプレゼンテーションしていくか、、、巨大組織のカトリックを「フランシスコ」という名乗りで務めていかれることは、ある意味大胆な選択だと思いつつ、反面、期待もしながら見守りたいと思うのです。

K神父さんもローマ法皇フランシスコも同じ修道会です。

人の本質を受け容れ、和合していくことは難しいことです。地球全体を見てみると未だ、成されていないことでしょうし、これからも、成されることは不可能なことかもしれません。それぞれがそれぞでの宗教や慣習で目指していることを互いに寛容し合えたら、それは成されることに等しいはずです。

アッシジの聖フランシスコのように、鳥からも好かれ、自然と人が集まるような暖かさを醸し出して頂きたいと願いを籠め、書かせて頂きました。ニコニコと嬉しいこと楽しいことを表していたら、いつしか天岩戸を開ける天照が現れるやもしれませぬ。

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桜開花に急かされる年度末

2013年03月18日 | 第2章 五感と体感
この月末は、今年度一年間の書類をまとめる事と来年度に向けての準備が交錯する時期です。そういう私も、年度切り替えのために必要な作業を粛々と行う日々が続いています。

学生にとっては、なぁんにも考えなくてもよい唯一の時期でもあるので、一旦自分をフレキシブルにできる良き機会かもしれません。受験生も、一つの事に集中できるので、少しは心の余裕を持つことができそうです。

先週末には桜の開花宣言もあり、今年の春の訪れは、桜の開花と同時に一気にやってきたようです。
そんなこともあり、桜の花咲く頃には、新年度の準備が整っているはずなのに、桜の開花が早かったせいで、何かと急かされている気分です。

でも、よくよく考えてみるとまだ春分前です。

自分の息抜きは自分で作らなくてはならない大人の世界。。。
「少し休んだ方がいいよ」と、声を掛けるのは自分であり、他者から声を掛けられても、それを素直に聞けるわけではありません。「うん、少し休もうか」と、休む自分を赦すのも自分自身です。

春分あたりには自分の切り替えすべく、旅に出たいと計画し、それを目指して、今日も粛々と致します。
そうはいっても、覚えなくてはならない謡いを唱えながらになりそうですが((笑))

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静御前と吉野山

2013年03月17日 | 第2章 五感と体感
源頼朝の追っ手から逃れようと吉野の山に潜んだ義経と静御前。そこで義経は静御前を都に返す決断をします。
修験の吉野に入ることで生き延びた天武天皇ととうののさらら(持統天皇)を重ね合わせ、五百年あまり時を経ても変わらぬ吉野の霊性を義経も静御前も感じ、希望を持って腹を括った決断を想像すると、いとも哀しき別れにしおしおとした想いがこみ上げてきます。

昨日拝見した能は「二人静」でした。

吉野の山に入った僧が、里の女に「静御前に出会った」話を聞きます。里女が出会った女が静御前であることを疑う気持ちが出ることによって、里女に静御前が乗り移るのです。そして、想いを語ることで執念を晴らし去ってゆきます。

同じ装束を身につけ、同じ面をつけ、同じ舞いをすることが、能楽「二人静」の見どころです。

疑う気持ちがあるのなら、私はあなたに乗り移り、あなたの身体を使って私を解ってもらいます。。。という気持は、どの人にも湧き出す気持であるかもしれません。

「伝えたい相手に気持を伝えたいのに、それが叶わない思いを何としてでも伝えたいこと」を二人の舞い「合い舞い」によって表現するのです。

能の面白さは、簡潔さです。幽玄や夢幻であると同時に、表現したい事を最小限にまとめているのが能楽であると私は思っています。所作の形から読み取ることは見る側の感性に委ねられるように思います。であるから故に、素晴らしい舞台と出合いたいといつも期待を籠めるのです。自分が出来ない分、舞台に焦がれるのです。

昨日の里女に、将来の期待を籠めて、美しい謡いと舞いを観続けてゆきたいと思いました。
心から応援しています。


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感性を活かす

2013年03月16日 | 第2章 五感と体感
自分の感性の豊かさに気付かず、感情の起伏が激しい自分だと思い込んでいたら、それはもったいないことです。

感情の起伏の激しさと感性の豊かさは、確かに繋がっているかもしれませんが、かといって感情の起伏の激しい人が感性が豊かかというと、それは違うと私は思っています。成育史上の解釈の問題は、ここでは語りませんが、解釈によって引き起こされる「湧き出す感情」が怒りであるのなら、理想と現実のギャップによる不安感がいったい何の不安感なのか意識化していく必要がありそうです。

私自身、自分の感受性を持て余していた時期がありました。
丁度、子育て中の時期です。
自分の感受性を上手く発散したり表現したりすることを忘れ、そのストレスが無意識に働いてどうしていいのか分からず、ひたすらピアノを弾き続けることで頑なになっている脳が和らいでいくのがわかり、それでも、いつも脳の疼きがありモヤモヤしていました。

いつしか、理想の家庭生活に固執するあまり、本来の自分を抑制しているうちに、段々と抑制していることすら忘れてしまい、うずうずとした疼きが身体症状となって私自身に助けを呼んでいたようです。

そんな時に始めたのが、生き甲斐の心理学の学びです。

自分は何のために生きているのか?
自分の生き甲斐は何か?
自分は心と身体と魂を大切にしているか?

この問いかけの中で、学び続けているうちに、幼い頃から長年、旅や本、諸々の表現したり見たり聞いたりしながら思い巡らせて生きてきたのに、いつしか現実の生活に囚われて自分の感性を上手く活かすことが出来なくなってしまった自分に気付きました。

私が学び続けることは、生涯のライフワークです。

自分の取り扱い方法は、自分にしか解りません。
答えは自分の内に宿っているのですから。。。

NPO法人CULLカリタスカウンセリング学会「生き甲斐の心理学講座」
東急セミナーBE雪谷(第三金曜日13時半~15時半)
東急セミナーBEたまプラーザ(第四金曜日10時半~12時半)

詳細は、東急セミナーBEにお問い合わせください。

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