五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

大晦日八百万

2013年12月31日 | 第2章 五感と体感
日本で一番人の集まる場所に関わる仕事に就いた息子を先ほど送り出し、私はおせち料理のラストスパートに。

伊勢神宮で求めた神棚に水を供え、我が家の八百万の神様仏様キリスト様に礼拝し、勿論、写真立てに入っているマザーテレサにも手を合わせ、大晦日の始まりです。

我が家は神様のオンパレードです♪ピラミッドの置き物だってあります(笑)

世界中の人々が祀る神々は互いに仲良くしているはずなのだから地上にいる私達はもっと仲良くしましょうよ♪という願いを籠めて、旅する毎に買い求めてきたものです。
今年は、熊野三山の三社で求めたヤタガラスが加わりましたので、年明け早々から始める表装作業のために待機中です。

風土と信仰は一体です。都市で生活していても、もよくよく意識を向けると地元の寺社等に必ず気付くはずです。

今年も風土を巡る旅や仕事でもプライベートでも多くの人々に出会いました。出会ったお一人お一人は、ほんとうに尊い出会いです。

来年もガンジス河の底の砂粒の一つとして、繋がりを大切にしていきたいものです。

みなさま、一年間ありがとうございました。
よき年をお迎えください。


☆お知らせ☆
東急セミナーBE雪谷校一日講座:「生き甲斐の心理学」2月1日(土)が決まりました。詳細は東急セミナーBEのホームページをご覧ください。



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繋がりに感謝

2013年12月29日 | 第2章 五感と体感
あと3日で新年を迎えます。

冷蔵庫に貼った「やることメモ」は、毎日違うペンで棒線を引き、一週間ほどかけて完了しました。(来年に延ばしたものもありますが^^;)

私が関わるいくつかの会社やNPO、学校。表装や趣味で交わる皆さまとの交流が一段と交じり合った一年となりました。これもブログを読んでくださる方々や各講座での出会いのお陰です。

思いもよらないところでお声を掛けてくださったり、懐かしい再会がありましたことに心の底から喜びを感じています。

仕事にしても趣味にしても眉間に皺をよせず、否定的に他者と関わらないよう心がけた一年でもありました。

「否定的に他者と関わらない」というのは、「肯定的に人と関わる」とは、一寸違います。

肯定的に関わろうとすると、自分の本音と「~ねばならない」という義務感が自分を苦しめ、益々自分を追い込んでいきます。
何でもポジティブに考え方を整えようと思っても、そうそうできるものではありません。

「否定的な思考で、他者と関わらない」ということを意識してみると良いかな、、、と、思ったほうが、随分楽チンな気分になります。

楽チンな気分になると、自分の中にボーダーが消えていきます。

ボーダーが消えていくと、自分の仕事や趣味のテリトリーの境界線が益々なくなってきます。

役割分担や仕事のけじめ、節度は大事なことですが、心の中にボーダーラインを引くことをやめてみると、自然体な自分を表わすことができるように思います。

「どうせなら、あっちとこっちを繋げて、楽しく生きようよ~♪」ということが、私にとってとても大事な自分の生き方であることを実行できたような一年でもありました。

若いうちは自分を閉塞的に追い込んでいくことも必要で、良い経験だと思います。そうであるからこそ、ということも言えるのかもしれませんが、歳を重ねる毎に、自分が作ってきた自分の中の境界線を解くいていくことで、他者との繋がりが益々友好的になっていくように感じています。

皆様との繋がりに感謝しています。



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今年の旅は吉野で〆

2013年12月27日 | 第2章 五感と体感
今年も日本国内の旅を満喫しました。

車で隈なく日本を巡る旅をするのが夢ですが、今のところ叶いそうもありません。なので、行きたい場所に優先順位をつけて、可能な限り旅を実行しています。
でも、その優先順位にはかなりの偏りがあり、どうしても伊吹山から西方面へと気持が傾きがちです。
京都や奈良も毎年外すことのできない場所なので、ついついそのあたりに資金投入してしまい、それでも同じところに行かないと落ち着かないというのが私のここ12,3年の旅の傾向となっています。

毎年数回訪れる奈良や京都もまだまだ行っていないところも多く、旅を中心に生活できるのなら京都や奈良に住んだ方が効率が良いと思いを巡らすほどです。

東日本大震災以降、東北を訪れる機会も増えました。
縄文からの歴史の深さから、まとうものを感じず、そこから無垢で顕わなものを感じるようにもなり、訪れれば訪れるほど魅力を感じるようになりました。

そのうえ、能楽は、自分の旅を広げます。

昨日鑑賞した国栖(くず)は、壬申の乱で吉野の清見原の逃れた天武天皇のお話です。
流星を見た吉野に住む老夫婦が、高貴な人がやってきた印だと思い、逃れてきた天武天皇を匿い助ける内容なのですが、まるでキリスト生誕のようなお話です。
天武天皇と天智天皇の権力争いの中、妻である持統天皇とともに天武天皇は吉野に籠ります。舞台の吉野川の上流清見原は、風光明媚な渓谷です。そこに天武と持統は、何度も行幸しているのです。

今年は、6月に吉野を巡り、清見原に立つことができました。国栖を観ながら、歴史を学ぶメンバーと楽しい旅を実行できたことを改めて感謝しました。

清見原に現れる天女と大権現が実は老夫婦であったのかどうかは解りませんが、壮大な舞台を夢見心地で拝見出来たことに、さい先良い予感を勝手にこじつけ、観能納めとさせていただきました。

来年も歴史の妄想を愉しみながら、色々な形の旅を実現していきたいものです。



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クリスマス徒然

2013年12月26日 | 第2章 五感と体感
昨日は、XMASの字の通り、キリストのミサに与りました。
イヴは夜にミサがあるため、与る人の年齢層低いのですが、25日は平日の午前中のミサでしたので、中高年を中心に冬休みに入った子供達が目立ちました。
待降節の間は、あれこれと行事が続いていたので、久しぶりにゆったりとした気分の時間を過ごしました。

欧米ではクリスマスホリデーが始まり、案外日本人よりも長く年末年始の休暇を取る人が多いかもしれません。

夕方、小学校入学前の子供達とママ達が「今日は、楽しかったねぇ~。よいお年を~。」と口々に挨拶して、パーティー会場になったお友達の家を後にする光景に遭遇しました。

その光景にじんわりと、懐かしさがこみ上げてきました。

未だにお付き合いしているママ友のうちで、幼稚園からのお付き合いの方も多く、今や子供よりも親同士の友情が成り立っています。子供達は、どんどんと自分の環境を変化させて成長していきます。成長している時期は、そんなものでしょう。

子供を育てるお母さんの役割は、聖母マリアのようにはいかないでしょうが、子供の進む道をどのくらいの度量で見守ることができるか、ということも、母としての課題の一つかもしれません。
これがとても難しいことだということに気づく事が子育て真っ最中の時期にあれば、親子で育つことを意識出来るよいチャンスなのだと思います。

楽しそうにママと一緒に家路に着く子供達を眺めながら、微笑ましい一方、そのようなことをツラツラ。。。

環境を選ぶことはできませんが、環境を整えることはできます。
でも、それは、親次第です。子供が自分で環境を作ることはできません。作ることは出来ないけれど、整える知恵は身についているはずです。子供が持っているその力を信じることが、一所懸命子育てをしていると見えないことも多いかもしれません。

信じることが基本にあれば、信じて実行する力を子供が自ら育んでいくようです。

冬休み。忙しなくなる人もいれば、全てを忘れて旅に出る人もいらっしゃることでしょう。
自分に与えられたそれぞれの環境を受け容れながら、その環境で心と身体を整えていきたいものです。



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クリスマスの朝

2013年12月25日 | 第2章 五感と体感
暁の星にちょこっと頭を下げ、今日が始まりました。冬至から3日。多少明るくなる時間が早くなった様な気がするのは、あまりにも単純な思い込みかもしれませんが、毎日5時起きなので日の出の時間は気になるところです。
確かに、冬至の頃よりも日の昇る時間が早まったように思います。

昨日は、実家で聖夜を過ごしました。気になっていた事がめでたく良い方向に片付き、胸を撫で下ろす心境で、食卓を囲みました。
親が歳を取ってくると、実家で食卓を囲む事も多くなっていくのだろうな、という思いが湧いてくる事も覚悟の一つかもしれません。

クリスマスを迎え、あと一週間で大晦日です。作った「やることメモ」も随分線が引かれてきました。
とはいえ、仕事はまだまだ。。。

今日は、ペースダウンして、クリスマスをお祝いする一日を過ごそうかなと思っています。

街に出れば、クリスマスからお正月に一気に様変わり。
商業ペースに流されると、自分を見失いそうな年の瀬です。

身体と心を整えて、新しい年を迎えたいものです。

メリークリスマス☆(^^)☆/



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降誕祭

2013年12月24日 | 第2章 五感と体感


キリストの降誕を祝うクリスマス。
キリストがエルサレムに入ってから十字架に架けられ、復活するまでのストーリーは、カトリック教会の聖堂内を巡るように掛けられている絵や彫刻で知ることができます。

先月末に伊勢神宮を参拝するにあたり、二見で禊ぎ、外宮、本宮の順で参拝を果たしました。実はそれだけでは無く、外宮の真ん前にあるカトリック伊勢教会を拠点にさせていただきました。伊勢教会で正式参拝のメンバーと待ち合わせ、帰りもそこで解散したのです。

戦後、アメリカに接収された土地はたくさんありました。たぶん、そこからの流れなのでしょう。アメリカの某修道会がその土地を手に入れたのが始まりだそうです。

そのカトリック伊勢教会のステンドグラスは、キリストの道行きを表現したステンドグラスが聖堂を巡らしています。

ほんものの教会(なんちゃって結婚式場の教会ではなく)でも、日本では、なかなか素敵なステンドグラスに出合った事がありませんでした。でも、この伊勢教会のステンドグラスは、重厚で素朴で温かみのある表現が叶った素敵な「道行き」です。

ヨーロッパのキリスト教以前の宗教や原始キリスト教を想わせ、多くの宗教を飲み込みながら建造されたフランスのシャルトル大聖堂の祭壇奥に道行きのレリーフがあります。普通はキリストの生涯で終わるのですが、シャルトルは違います。聖母マリアの昇天がキリストの生涯の続きにあり、それが道行きの最後なのです。

昨日クリスマス商戦で賑わうデパートを歩きながら、伊勢の十字架の道行きを思い出しました。

クリスマスイヴに夜空を見上げて、ひと際輝く星を見つけられたら、きっといいことがあるかもしれません^^。



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何を持って暮らすか?

2013年12月23日 | 第2章 五感と体感
「物を持たない」は、私の憧れの生活です。

持ちモノが少なければ、整理をする手間も省けるはずです。
多ければ、整理するのに時間がかかります。

とはいえ物を溜め込み、毎年この時期になると、持たないことの憧れが強まるわけです。

物が増えるのは生きている証だと云われれば、それもそうです。

新しい年を迎えるにあたり、必要なもの、必要の無いものを振り分けつつ、名残惜しくお別れする物の未練は捨てさり、新しく入ってくる物をお迎えする空の引き出しを一つぐらいは作りたいものです。

物を溜め込むと、家の空気の流れが留まります。空気の流れが留まると、身体に廻る気も留まりやすくなるようです。

「自分は何を持って暮らしていくか?」
年に一度、私に与えられる思索の期間でもあります。

今日も「年末のやることメモ」に棒線を引きながら、プチ達成感を感じることと致します。




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人類発生以来の祈り

2013年12月22日 | 第2章 五感と体感
今日こそ冬至ですね。昨日は一足早く冬至宣言をしてしまいました。
今年も柚子湯とカボチャで冬至を祝い、無病息災を祈願したいです。

昨日は、仕事場である学校の毎年恒例のクリスマスタブロでした。キリストの生誕劇といえば、我が子の小学生の時から毎年観続け、バトンを手渡されたようにいつしか私自身の生活に根付いた祭儀となるようになりました。

息子が小学一年生の時に演じたのは、イエスとマリアが宿を探す場面で、宿屋の主人1だか2でした。
台詞も一言。
「泊める部屋はありませんよ」というような台詞の一言。

その時の舞台衣装は、もちろんそれぞれの親が作るわけですが、宿屋の主人の衣装が、某学院のタブロに使用する衣装の色と同じなのです。毎年、この衣装を見るたびに、懐かしさが溢れてくるのです。

私が通った越前大野の幼稚園は、お寺が経営していました。父の転勤の関係で幼稚園を三か所経験しているのですが、このお寺の幼稚園は二回目に数カ月通っていただけです。でも、その時の印象はとても深く、毎週朝のお勤めがあり、何かの行事があるときには本堂の前の観音開きが全て開けられ、仏像を拝みます。
その観音開きが開けられ、仏様が見えてくる瞬間がとても待ち遠しく、まるで天国を見ているかのような至福感を味わっていました。次に通った幼稚園は、きれいな建物でしたし先生も優しかったのですが、私は本堂に繋がっている薄暗い教室の幼稚園のほうが満たされた喜びを感じていました。なんといっても毎日、お線香を立てた本堂で手を合わせられるのですから。

人は見神欲(デジデリウム)を持ち備えながら生まれてくるようです。
自分の幼い頃からの諸々の体験から立証できるので、私はそれを信じています。

一年のサイクルの基点である冬至と夏至に太古から人々は太陽に手を合わせてきました。

毎年同じ位置に太陽の光が届くことで、人は普遍性に対して畏れ敬う感情が生まれ、信じて見えてくるものが典礼を生み、祭儀として定着していきました。

毎日繰り返す祈りは、人類が発生して以来、ずっと繰り返されてきたようです。

自分の生まれ育っ環境によって育まれた「信じるもの」を大切にすることが自らを大切にすることに繋がっていることを忘れてはなりません。

先月歩いた熊野の道も、あまりにも古層が厚いため、見えてくる神様は多種多様で、見えてこない神様を想像するだけで押しつぶされそうになりました。ただ、今、この場に立ち、古層をほじくらずに手を合わせるだけで良いのだということを熊野を歩きながら思いました。

クリスマスからお正月にかけて、諸々の場で手を合わせる機会が多くなります。

手を合わせる対象は違えども、手を合わせる自分は自分以外の何者でもありません。手を合わせる自分に自分という普遍性を感じつつ、八百万の神を畏れ敬い礼拝したいものです。




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今日は冬至

2013年12月21日 | 第2章 五感と体感
今日は冬至ですね。
カボチャと柚子湯は我が家の定番です。

冬至と云えば北欧フィンランドを訪れた事がないくせに、あのムーミン村の円い塔と湖を思い巡らします。小学生の頃に学校の図書館で借りて読んだムーミンシリーズには夢中になる魅力がありました。日曜日夜7時半からのテレビアニメの影響もありそうです。決して明るくない人間学的な童話でした。
時々登場するスナフキンの言葉に自己投影するものを感じたものでした。

冬至は闇から光へ向かう起点の日。

遺跡は、「春分、夏至、秋分、冬至」を祭儀の基にしているものが多く、イギリスのストーンサークルの中心に立ち、自分が宇宙の中心に在るかの如くの感覚を得たこともあります。

円の真ん中に入ると、森羅万象の中心に居る様な気分にもなります。

であるからにして、ムーミンの家は円形なのだろうか。。。、などと、朝からくだらないことを考えつつ、一旦忙しない身体を円の中心に置き、冬至の一日を関わる学校のクリスマスタブロで過ごす予定です。

円を描く様な日々の生活ではありますが、冬至の一日、円の中心に腰を据えてみる自分を赦してみるのもよいかもしれないと思います。

クリスマスを迎えるにあたって、冬至はとても大切な日なのです。

無病息災を願い、一年を巡ったことに感謝し、さらに一年を巡る祈願もしたいものです。



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福の神に会いました

2013年12月20日 | 第2章 五感と体感
今日は、今年最後の講座になるので、来年を予感させる様な講座にしたいと思います。

年末のこの時期、どんなに焦っても、時は淡々と過行きます。

歳時の設えをしようとすれば、時は待ってくれず、間に合わせるために益々忙しさに拍車がかかります。

ともかくやらなければ進みません。

冬休みと同時に食事の支度も朝昼晩と作らなくてはなりません。

年末年始の煩雑なあれこれを巡らすだけで、焦りの気持が増してくることもありそうです。

私はクリスマスを迎える準備とお正月を迎える準備に区切りをつけながら、やるべきメモと買い出しメモを作ります。

やるべきメモを大きな字で書き、しかも、やるべき内容を具体的に書きます。
そして、できたものの項目に線を引きます。
日によって線の色を変えると、自画自賛の達成感を感じます。
線の数が増えてくると、だんだんと達成感の喜びも感じてきます。

なるべくなら自分がやり遂げた事を何でもいいから喜びたいものです。

小さな喜びが一日に数回あると、お顔も血の気が増し、幸福感を感じながらお布団に入ることもできるはずです。

どんな小さなことでも達成感と幸福感を意識したいものです。

昨日、宝くじを買いました。メインストリートの宝くじ売り場は長蛇の列。並ぶことが苦手な私は地下街の隅っこにある宝くじ売り場に行きました。案の定、誰も並んでいません。窓口の女性が、にこにこと「7億円当たるといいですね」と、声を掛けながら私に宝くじを渡しました。その女性のお顔を見るとまるで福の神のような福を呼びそうなふくよかなお顔なのです。
「まるで、福の神のようですね~。」と、つい口に出てしまい、互いにケラケラと笑ってその場を去りました。
しばらくの時間、温かい気分が持続しました。

師走の焦りも、笑うと治まるようです。

口を噤んで、もそもそと動くよりも、笑って動いていた方が効率もよいかもしれませんね。



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心と身体と魂

2013年12月19日 | 第2章 五感と体感
人は心と身体と魂で成っています。

心は、生まれてから今日までの生育史で育まれた考え方、そしてそこから湧き出す感情を指します。

身体は、身体そのもの

そして、外してはならないのは魂です。

人は死んだらどこにいくのだろう。
愛とはなんだろう。
慈悲とはなんだとう。
普遍性とはなんだろう。
天の国はどんなところなんだろう?

上記のような問い掛けを人は何万年もかけてしてきました。
不思議なことに、人が生まれ考えを巡らすように成長していくとこの問い掛けがどこからか自分の内から湧いて出てくるのです。

私にこの問いかけが降りてきたのは5歳の時です。闇が怖いくせに押し入れの中に籠り、頭の中に湧き出す思いを巡らし、想像の世界を愉しんでいた子供でした。
そのくせ、夜の闇が人一倍怖く、夜中に目が覚め、トイレに行く時に、闇から現れるお化けを切るために裁ち鋏を持っていったものです。
昼間は、ふらふらと外を出歩き、そのころ住んでいた越前大野の水場を巡り神社やお寺の境内を散歩していました。一人で想像を巡らしながら歩くことが私にとっては服を着ることや食べる事と同じくらい大事なことだったようです。
身体全体で感じる五感を皮膚や耳で聴き取ることにとてつもない心地良さを感じていたことを覚えています。

でも、身体は弱く、しょっちゅう病院通いをしていました。

きっと幼い自分は「身体が反応していることを補うために心が魂を求めていたのだろう、という解釈が私にとって一番ふさわしい解釈であると思っています。

子供は経験していることは少なくとも、自分に関わる情報を処理する能力は大人と同じくらい兼ね備えているのではないか、と、自分の体験を通して信じています。
だからこそ、身体と心と魂を持ち備える人として、子供であろうと大人であろうと生きていく人としての条件は同じであると思っています。

だからこそ、「子供なのにすごいね!。大人なのにだめね!。」という言葉は、私自身控えるようにしています。
子供であろうと大人であろうと、「人」なのです。

心と身体と魂は、三位一体でありましょう。

どれかのバランスが崩れると、それを補おうと無意識に補うものを求めていくように思うのです。

きっと私は紐で繋がれ心と身体を拘束されてしまうと魂ばかりに意識を向けて、死んでしまう性質を持っているかもしれません。

「人は魂と身体と心で成っている」という考え方を否定も肯定もせず、一旦受容してみて、その視点で自分のありようや他者のありようを見てみると、きっと腑に落ちるものを感じるかもしれません。

昨日は広尾の某大OGの講座でした。一日かけての長丁場、大変お疲れ様でした。
最後に補足で語らせて頂いたことに不足感を感じておりましたので、改めて書いてみました。
よきクリスマスと新年をお迎えください。





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自分は何を求めているのか

2013年12月18日 | 第2章 五感と体感
人の好みはそれぞれです。

自分の主張をどの程度他者に表現するかは、その人の個性によって違うでしょうし、場の雰囲気によっても違うでしょう。

あたかも自分の好みが世界で一番の選択であるかのように主張している人がいたとすると、その人の現実吟味力がどのくらいであるかを推察したくなるのが私の傾向でもあるようです。幼い頃から自分の求めているものと他者の求めているものの差異を図ることで人との関係性のバランスを大事にしてきたように思います。学級委員になって壇上に立ち話し合いのまとめ役になることが多かったのは、多分、自分が調和を好んでいたからだと思うのです。
この傾向は、変わっていないな、、、と、ふと昔の事を思い出し、一人で苦笑いしていました。

昨日の四ツ谷勉強会は、四ツ谷会場最後の勉強会でした。

それに相応しく、テーマは「求めよさらば与えられん」でした。

自分の悩みや不安をどうにかしたいとき、与えられていないことはツラツラと頭に浮かんでくるものですが、果たして自分は何を求めているのか?と自問自答すると、案外きっぱりと求めているものが具体的に浮かんでこないことが多いように思います。

与えられていない事を憂う。
求めているものを思索する。

どちらが簡単に言葉に出てきやすいでしょう?

私自身も生き甲斐の心理学を学ぶ前は、不満足なことに対する不満感を主張することのほうが多かったように思います。

学びすすめるにつれ徐々に「求めること」の意識化が、生きていくうえでとても大事なことであることに気付いてきました。

昨晩は、クリスマスを迎える待降節にシュトーレンを頂きながら、イエスが悩める人に必ず尋ねる言葉を思い出していました。
「あなたは、どうしたいのか?」「あなたは、何が欲しいのか?」
イエスはずばりと聞くのです。
そして、その問い掛けに、今までふわふわと憂いでいた人が、我に帰るのです。

自分が求めているもの。
自分が好んでいるもの。
自分が選択したいもの。

それらは、他者が決めるものではありません。自分自身が決めるのです。

求めているものを与えられたとしても、人はひとりで死んでいくのですから。

待つことの喜びがある半面、孤独感と向き合うための待降節でもありましょう。

いろいろと考えるに相応しい四ツ谷の一日でございました。

四ツ谷勉強会は、来年から京王線つつじヶ丘の某学校の修道院の会議室へと場所が変わります。
詳細は、ユースフルライフ研究所の会報をご覧ください。

皆様との出会いに感謝し、楽しい学びの会を今後も続けていきたいと願っています。



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夢を繋げる

2013年12月17日 | 第2章 五感と体感
「こんなことが出来たらいいなぁ~~」
と、夢見ることは生きてゆく過程においてとても大事なことのようです。

「こんなこと出来るわけがない。」
「無理無理!」
と、口に出していると本当に叶いません。

自分の求めていることを現実に繋げることは、まずは夢を描くことでありましょう。

今年は自分の課せられた義務であり役割の一つから解放された年でもあるので、自分の描いた「こんなだったらいいな」を一つ一つ実現に繋げていくことが出来た年でもあるように思います。
来年も今年の収穫を来年へと繋げていくことができればいいなぁ~~、と夢を描いていきます。

幼い頃から夢見る夢子さんと母から言われ続けてきましたが、湧き出す情動が私の個性であることに気付くのに随分時間がかかりました。
「止めてくれるなおっかさん」と言えなかったばかりに、中途半端な機制を掛けていた自分が勿体無かったな~と思いますし、これからの人生を自分自身のために生きていきていくには丁度良い時期とも思います。

三度笠を被り、わらじを履いて、竹で編んだ箱を肩に掛け、縞のマントを翻して、風吹く町を後にする、、、時代劇でよく見たシーンを巡らして、「止めてくれるなおっかさん」と、今更ながら言っているような気がします(笑)

ようやく夢見る夢子さんが自分の個性の美であることを自分自身が認め出したようにも感じています。

自分の義務と役割と夢を繋げるには、少々の人生体験があったほうがよいのかもしれません。

「自己実現には遠回りすることが近道である」と、昨晩の番組でイチロー選手も言っていたように思います。

そのためには、夢を巡らすことがまずは最初のやるべきことであることでありましょう。



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自分の感受をどう始末するか

2013年12月16日 | 第2章 五感と体感
生育過程に体験したことや日常における育ち方は、自分の考え方や感情の湧き出し方に個性をもたらします。

好きと嫌い
怖いと怖くない
が、人の原初感情と言われていますが、
幼い頃から自分を育んできた環境は、自分の「湧き出す感情」に大きな影響を与えているのです。

育まれた考え方は感情を生むと言えそうです。

「感受」するものを自分が感じ取り、
「感受したことをどのように自分が解釈しているか」その捉え方が自分の個性そのものでもあるのです。

一つの事象に対しての捉え方、感情の湧き出し方、行動の仕方は、人それぞれ違います。

他者の考え方や捉え方、行動の仕方にいちいち反応していると、きっと自分の個性が上手く発揮できなくなってしまうことでしょう。

自分が感受することを自分がどう始末するかは、自分に課せられた課題なのです。

つまり、自分の感受したものをどのように始末したいか、どのような理想を持って解釈をしているかを意識化しておかないと、多分自分の個性を磨いていくことは難しいかもしれません。

答えは自分の内にあります。

自分で始末できないものであれば、助けを呼ぶことも必要です。

答えを導けないまま感受したままの感情を放置しておくと、自分の防衛機制が増長してくるのです。

自分の感受を持ちきれなくなってどこかで爆発する前に、ちょこっと立ち止まって自分の感受の始末のパターンを振り返ってみる事も「自分の平和」をもたらすコツでもあるかもしれません。

今週で私が関わる2013年の各講座が納まります。ラストスパートの週を大切に過ごしたいと思います。



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パリのパッサージュ

2013年12月15日 | 第2章 五感と体感


パッサージュとは、屋根付きアーケード商店街のことです。

パリには沢山のパッサージュがあります。

洗練された所もあれば、おもちゃ箱をひっくり返したような所もあります。

クリスマスの時期にこのパッサージュを歩くと私の記憶の中には金色にキラキラ光る光の印象ばかりが残ります。
実際はそこまでキラキラしているわけではないのですが、記憶に留まる印象が「キラキラ光る」なのです。

モンマルトルの友人宅の近くには、印象派の画家たちが利用していた商店街があり、未だに活気を維持しています。
このあたりにはパッサージュはありませんが、パン屋や肉屋、魚屋、チョコレート屋にワイン屋、花屋が立ち並び、何故かそこを歩いて買い物をすると親の実家の高円寺と重なるのです。
ここはサクレクール寺院のおひざ元で映画アメリの舞台になった場所でもあります。近くにはムーランルージュがあります。
東京でいえば浅草のような感じです。
見た目は混沌として映るのですが、お店ひとつひとつが個性を持っているので、お店に入るとその店に売っている物や装飾に心を奪われていくのです。

パッサージュは屋根があるので、混沌とした商店街がその屋根のお陰で一つにまとまったように感じるのかもしれません。

京都の街もパッサージュ=アーケードが多くあります。奈良にもありますね。寺社巡りの合間に小さなアーケードに出くわすととても嬉しくなります。

年末にあれこれと買い込む量は昔ほどではなくなりましたが、スーパーで買い物をするよりも、アーケードに引き寄せられるのは、幼い頃の高円寺商店街の思い出が根強いせいかもしれません。

雪国の雪降るしんとした空からトナカイのシャンシャンシャン、、、という鈴の音が聴こえてくるイメージが湧いて来たり、パッサージュの雑踏で年末の買い出しをすることを思い出したり、師走は妄想も忙しいです(笑)



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