五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

五感を味わう

2012年10月31日 | 第2章 五感と体感
昨日はクリエイティブフードセラピーの経営者であり、指導をなさっている大石雅美さんの講座の一こまを持たせて頂き、「生き甲斐の心理学」の勉強会を行いました。

薬膳料理に基づいた時間のかからないお料理を素敵な設えの御膳で皆様と頂くところから始まりました。

講座が3回目とあって、皆様との信頼感は既に温かく和やかな雰囲気になっていて、大石さんのお人柄と皆様への身に成る指導が私にも心地良く伝わり、ほんわかと楽しませて頂きました。

目で見てたのしみ、

香りでたのしみ、

味をたのしみ、

食感をたのしみ、

耳でたのしむ。

食事を頂き、フルに楽しむ五感は、一膳のご飯に梅干し一個でも感じ得ることができるはずです。

どこかの誰かさんの言葉ではありませんが(笑)口に広がるハーモニーは、その人の個性によって色々な奏で方があるはずですし、曲だってそれぞれ違うはずです。

自分が奏でる楽器は何なのか。奏でる音楽は何なのか。奏でた音楽でどんな心持に成るのかは、自分自身にしかわかりません。
でも、その奏でる音を、言葉にしながら共に語り合う会話が交じり合うと、新たな個性の雰囲気が一貫して作り上げられていきます。
その雰囲気を利用させて頂きながら、私も勉強会をフルに楽しみむ、というわけです。

次回の勉強会で、更に食の学びを深めた皆様とお会いするのを楽しみにしています。

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美味しい生活

2012年10月30日 | 第2章 五感と体感
美味しい料理、美味しい食物の思い出は、思い起こしてみると沢山あります。

食べることが満たされていると、前向きな気持になります。

食べれば元気になることもありますが、悩み事に苦しめられていると、食べるものに美味しさを感じなかったりします。

仕事に集中してしまうと、食べることを忘れてしまったり、疲れて帰宅し料理するのが面倒くさいと思ったりすることもありますが、「美味しい」と、思えるような暮らしを大切にしたいと意識して日々生活しています。

自分が口にしたものが、自分自身の身体を作っていることを改めて意識したのが3年前のスロベニア旅行です。
スロベニアの小さな村にホームステーさせていただき、村の人々がつくった肉や野菜やパンを頂き、一週間心底贅沢な食生活を過ごしました。
その時に、胃腸や身体を廻る血液が、心と身体にぴたりとした体感を感ずることができました。
身体の内側から健康感を感じた初めての経験でした。

食べたものが血となり肉となる、ということを真面目に考えるきっかけにもなりました。

嬉しいことに今日から新しい出会いの中でのお仕事が始まります。
食のプロであるO先生が御自分の講座内に「生き甲斐の心理学」の講座を設けてくださり、今日はその講座の第一回目となります。

今日も皆様と共に五感を大切にした伸びやかな時間を過ごしたいと思います。

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過去は変えられない

2012年10月29日 | 第2章 五感と体感
重箱の隅を突く様に過去を顧みて、自分の今を憂うことは、誰でも一度や二度は経験しているはずです。

でも、過ぎ去ったことを重箱の隅を突くことをどのくらいすれば自分で気が済むのでしょうか?

過去に起こったことは変えることはできませんが、今、これから先の自分は自分次第で変えていくことはできます。

昨日の大河ドラマ「平清盛」は、過去の解釈をどのように生かして今を生きているのか、、、という視点で見てみるととても面白く、45分間正座して見入りました。

平氏を率いる平清盛の生育史と源氏を率いることとなる源頼朝の生育史によるそれぞれの武将の解釈が、彼ら本人の思考と行動と感情を支配し、それが日本の歴史を大きく動かしていることに具体的な面白さを感じ入り、歴史は結局繰り返されるのだと、しみじみ思ったわけです。

源頼朝は父を殺した父親から受けた教育の影響は大きかったと推察します。そして、味方に裏切られて命を落とす父親、頼朝自身は、命は助けられたものの伊豆に流され生きる屍のような暮らし。将来を夢見ることよりも、現実から逃避しひたすら経を唱える日々。最終的には、自分の家臣であれ義兄弟をも信用することができず、過去の囚われから解放されず、、、

一方、冷血な行動と壮大な夢を実行していく平清盛の背景にある闇のような不安感は、平氏の血を受け継いでいない自分の出生の不確定さがデラシネのような自分と「合い重なった時」に、爆発していくのです。

両親の愛。その愛の原型を生涯の宝物として自らの人生を切り開いていくことが、人の業に繋がるとすれば、二人の武将の「生育史」と「愛の原型」は、あまりも壮絶であり、彼らは天から試された男たちである、、、と、ツラツラ思う日曜の夜となりました。

愛の原型が、地球上の人を動かしていくとしたら、その愛とは一体何なのでしょう。

永遠普遍の喜びや、平安感、統御感を求め、その実現をひたすら追い求める平清盛と源頼朝。

人はどこまで満足すれば、良いのでしょう。

でも、幼い頃にその満足感を体感できていなかったら、満足感という体感を知らないだけに、永遠に求め続けていくのです。

幼い頃に愛に満足した体感を経験しているならば、それがその人の尺度になっていくわけですが、その尺度が無ければ、満足してこれで良し!にはなりません。

天に試された二人を考えること、今の自分が見えてくるようです。

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表現したいものの焦点

2012年10月28日 | 第2章 五感と体感
美術でも音楽でも文章でも、表現することの焦点が絞れていないと、他者には伝わりにくいものです。

とはいえ、絞った焦点だけを表現したところで、他者に伝わるかと言うと、それも難しいのが現実です。

「他者の解釈」はこの際気にせず、「自分が今何を表現したいのか」のみに焦点を当ててみると「表現したい事の焦点」がすっきりとしてくるのです。そうしないと「表現」はできません。

私自身毎日ブログを書く時も、いつも気に掛けているのはこのことです。

掛け軸を仕立てる時も同じです。

本紙(作品)に何を着せるか、と考える時、合いもしない裂(布)を気に入っているからと言って使うわけにはいきません。
裂が本当に気に入っているのなら、その裂を見せるために、その裂を本紙として掛け軸を作れば良いのです。

文章についても同じことが言えます。
何を伝えたいのか。。。ということをせめて3行で伝えることができれば良いのでしょうが、
相手に読んで欲しいことを2つ以上書いてしまうと、読んだ相手は、当然自分の中で都合の良い、または、都合の悪いことだけに目が行ってしまい、ほんとうに伝えたい一つの事を読んでくれなくなります。

表現したいものの焦点を察することができれば、唖吽の呼吸で伝える言葉は最小限て済むはずです。
でも、それが、なかなか思い通りに伝わらないのが世の常というわけです。

あれこれ言っても、この人には伝わらないないなぁ・・・、と思うのであれば、相手に求めるだけでなく自分のアイデンティティ(信念や信条や軸となっているもの)を明確に伝えることが、最終的に一番大切なことであるように思います。

そこから先は、他者が自分で判断していくしかないのです。関わる私は何もすることができません。

他者の解釈や判断は、その人の尊い生育史そのものであり、人の身体は神の神殿であるのですから。

うーーーん。。。
表現したいものの焦点が絞れた「今日のブログ」であるかは、読んだ皆様にお任せ致します^^;



NPOの会報20号が出来上がりました。明日あたりには発送できるよう休日返上で頑張ります。賛助会員の皆様、いつも応援してくださり感謝しております。

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不安の取り扱い

2012年10月27日 | 第2章 五感と体感
不安で不安で不安なときは、不安の重圧に押し潰されそうになります。

不安という形が見えないので尚更です。形に見えないと、見えないだけに一層不安になります。

では、どんなふうに今の自分の不安を取り扱っていけばよいのでしょう?



自分の抱えている不安は、自分の問題なのでしょうか?それとも他者の問題なのでしょうか?



他者の問題であれば、他者の問題と自分の問題を分けることができているでしょうか?



他者は、伴侶であっても、親子の関係であっても、他者は他者です。

自分と他者

それが分けられなければ、自分は、その他者にとってどんな存在で、どんな役割を自分自身に課しているのでしょうか?

その自分の役割の中に持っている他者への理想と現実のギャップはどうでしょうか?

ギャップは、理想と現実のギャップから湧き出してくる感情と捉えていただけるとよいかと思います。



自分と他者が分けられていれば、自分のことだけに焦点をあててみることはできるでしょうか?



自分の中に焦点を当てようとした場合、自分を押しつぶそうとしている不安なことはいくつあるでしょうか?



不安なことを数えることはできるでしょうか?



では、不安をなことを数えることができたら、その中から一つだけ選んでみてください。



一つだけ選ぶことに意味があるようです。

そして、その一つだけ選んだ不安なことに感じる「感情」は、どんな感情でしょうか?

… … …

これはフォーカシングの技法の一部を含んだ設問なのですが、
私自身、感情を整理する必要があるとき、この自問自答を繰り返していきます。

感情を明確化することは、簡単なことではないかもしれませんが、自分の身体の中から自分の感情を聴くことは、今の自分を意識化することに繋がってゆくと思います。

すると、今の自分を受容しているのか、受容していないのか。。。にも、繋がってゆくはずです。

受容している自分であろうが、受容していない自分も自分なのです。私は私なのです・・・

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まずは落ち着くこと

2012年10月26日 | 第2章 五感と体感
自分の許容範囲を超えた役割

突発的な出来事

自分自身が精神的に受け容れることのできない何か

人生、生きていると色々なことが起こります。

家庭でも
学校でも
職場でも
社会でも

そんな時に、自分はどのくらい慌てているか吟味することができるでしょうか?

向こう見ずに走っていないか・・・

問題とは関係の無い人まで巻き込んでいないか・・・

ほんとうにその問題は、自分にとって関わりの深い問題なのか・・・

そして、

その問題は、自分自身の命にかかわることなのか、自分自身の生活を脅かすことなのか?

それとも、

他者の問題であるのか

つまり、

自分の問題なのか、他者の問題なのか、

最低限、そのくらいの吟味をできるようにしていたいものです。

自分の傾向に、これらのことで何らかの不安なことが意識できているのならば、
まずは、「落ち着く」ことを意識したいものです。

まず、落ち着く。

問題解決、問題の対処は、その条件を満たしてから、考えていきたいものです。

そこから問題に対する自分の役割を冷静に考えていくことができることで、本筋から逸れることを避けることくらいはできそうです。

問題に対する脳みその混乱の整理は、書類の整理と部屋の整頓と似ていると、いつも思います。

。。。。

「落ち着くことを意識する」ことを大切にしたいものです。、


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地図から見える動線

2012年10月25日 | 第2章 五感と体感
地図を見ていると、あっという間に時が経ってしまいます。

ある特定の場所の歴史や風土調べながら、その周辺の地図見続けていると、生き延びていこうとする人の動線が見えてくることがあります。

平家物語にしても源氏物語にしても、地図で確かめながら読み解いていくと、臨場感が高まり、あたかも自分がその時代に生きているかのような感情移入を楽しむことができるのです。

昨日は、持統天皇の勉強会でした。

壬申の乱に琵琶湖から吉野へ移動する動線を皆さんと辿ってみました。その路が未だ使われ、その時代時代に纏わる人々が住んでいることを想像すると、平家物語の色々な場面を思い出し、益々奈良時代から江戸時代以前の歴史に名だたる人物の動線の面白さをまだまだ味わい続けたい情動に駆られるのです。

私自身の両親の両親の祖先を考えただけで2の倍数で広がっていきます。私が把握しているだけでも私の祖先は、日本地図のかなりの範囲で関係が繋がっています。
私のDNAの故郷や移動を考えると、益々脳みそが活性してきます。

地図から見える祖先の動線が見えれば見えるほど、自分という存在の意味が尊いものであると自ら思えるのです。

自分のルーツをたどることも、歴史を学ぶことも古典を読むことも、すべて自分のありようと繋がるのです。

地図は、面白し…。

奈良時代の学びの次は、いつのことかわかりませんが、太平記であるな、、、と、

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子の巣立ち

2012年10月24日 | 第2章 五感と体感
「子供に愛情を注ぐ」

といっても、人によって「愛」を示すことの概念が違うので、注ぎ方はひとそれぞれです。

「愛」という普遍的な言葉は、テーマにするには大きすぎますが、生きている私達が必ず抱えているテーマでもあるわけです。

「我が子に超えられちゃったな。。。と、思ったのはいつごろでしょう?」という質問を、先日の勉強会でしてみました。

そもそも我が子に超えられた?という質問は、我が子に超えられていないと思っている人には嫌な質問かもしれません。
でも「嫌な質問だ」と思うときの、嫌な感情を意識化してみると、自分の傾向も同時に浮き上がってくるのでは、とも思います。

さて、
この質問をしてみると「子の時期」は、様々です。

中学生と言う人もいれば、高校生という人もいます。就職してから、という人もいれば、何かのきっかけがあった方もいらっしゃいました。

我が子に超えられた

という考え方は、本当に子供が親を超えたと意識していることとは違います。あくまでも母親が「子に超えられちゃったな」と思う自分自身の概念のことです。

最近、つらつら思います。

そろそろ大学を卒業する我が子の子育てを振り返り、いろいろな反省点もありますが、我が子が母親である私という存在から離れることをボチボチし出したのは、中学2年生くらいです。友達4人で、飛行機に乗りアメリカのサンノゼでホームステーさせていただいたことがあります。好き放題の2週間の中で、年上のお姉さん達との会話や放ってくださったサンノゼのママ、4人の共同生活でのあれこれ。。。いろいろあったようですが、帰国するなり、「こんな愉しい日々は今までなかったし、長年の肩こりがなおったよ、」と言われ、プチショックを受けたものの、自分の道を歩きだしたんだな、という嬉しい思いも同時に湧いてきたことを思い出します。

もともと、指のおしゃぶりを止めさせたいな、、、と、思った時に、子供に「そろそろ止めようよ」と言うと、2歳の誕生日の日から、ぱったりしなくなったり、小学校6年生の誕生日に「今日から、パパとママはやめてお父さん、お母さんと呼ぶから」と言われ、その日から一度も呼び間違えなかったことで、意思の強い子だな、、ということを私の中で意識化できたきっかけとも言うことができそうです。

我が子の傾向に心配を増長させるか。

我が子の傾向に将来を託し信じるか。

この選択は、母親は意識無意識に関わらず、常に測り、なんらかの行動をおこしているはずです。

子の巣立ちの形は、人によって違います。。。

人がいろいろな理想と現実の狭間に立たされ悩むことは、健全な証拠であるし、悩むことで答えを求めようとする情動は、いくら親でも手を貸したところで納得する答えを本人が見出すことは難しいと思うのです。

とにもかくにも、「人と成る」ことを見守るのが、私の役割でもあることを忘れてはならないことを心に留めていたいものです。

「人と成れ…」という、某学校の校訓を改めて思い出し吟味しています。

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火を拝む

2012年10月23日 | 第2章 五感と体感
暖炉に薪をくべながら燃える炎を見つめていると、いつの間にか時が経っていきます。
燃える火は、生命の源のようにも見えますし、魂のように見えることがあります。

3月に行われる東大寺二月堂の修二会は有名ですが、松明を灯し生きている私達が祈願する「行」は数知れずあります。

昨日は鞍馬の火祭りだったそうです。いつかは行って観たいなぁ…、と思うのですが、あの狭い山道と、決して多くの人数を運ぶことができない叡山電鉄を想像すると、とてもとても大変そうだな、、、と思うのが本音です。

私の狭い情報では関東で行われる秩父の夜祭り(12月)とか、富士の火祭り(8月末)を知ってはいるのですが、あの狭い鞍馬の山路を走る炎を想像すると、やっぱり行って観たいなぁ~~と思うのです。

ゾロアスター教(拝火教)というのは、人の本質を上手く捉えているし、そこから繋がっているであろう真言宗も護摩を焚きます。源氏物語では、六条御息所が葵上に嫉妬し無意識に呪う事で、護摩に落とすケシの実の香りが髪に浸み混みその臭いに苦しみます。

空海が火を拝み、その火が消されず灯され続けている宮島の弥山の堂も1100年以上の歴史があると云われています。

炎を拝むことを続けてきた人の魂は、生きてきた人の魂を炎と置き換えることで、炎が魂そのもののように見えてくることは、私にとっての真実であると、思い続けています。

役行者に空海、最澄、そして平安貴族の人々のいまようの想い、陰陽思想、それらの只中に生きた清盛や西行法師…
そして、質実剛健な鎌倉の反動形成のような室町、そこで現れた観阿弥、世阿弥…。そして、織田信長や豊臣秀吉の出現によって重ねられてきた文化、そして江戸時代。。。歴史の跡を辿る芭蕉…。

重ねられて覆いかぶされてきた華美なものをはぎ取っていくと、結局はシンプルなものだけで成り立っていることに気付くのです。

地、水、火、風、空。。。

人が生きていくのに必要な、かつ最も尊いものはこれでしょうし、その中で生かされている「魂を想う人」の存在が、イコール地球という存在の意味なのかもしれない、と、、、思ったりしています。

火を拝み、自分の内から魂を感じることを大切にした暮らしを営んでいきたいものです。

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受容することと吟味すること

2012年10月22日 | 第2章 五感と体感
「今の自分を受容しよう。ありのままの自分を受容しよう」

受容するとはどいういうことなのでしょう。

「自分の傾向を正しく見据えて、その自分を慈しみ愛することること」という教科書のような定義では「受容」という言葉を扱う事ができないと、いつも思っています。

私と他者は別のものです。(家族であっても、家族であれば、尚更他者であることを意識する必要がありそうです)

このことに分別がつかないと、私と他者が混同し、私も傷つき、他者も傷ついていくことに成りかねません。

そして、

「私はいつもこうなってしまう」

「私は、いつも結局、こんな感情が湧きあがってしまう」

「私は、こんなふうに親から育てられてきたので、こんな考え方なのである」

こんなふうに、自分を吟味することができるのであれば、「こんなふうになってしまう自分」は、自分の傾向であり、個性であるという考え方にシフトできると、自分の現実を吟味する力が備わってくるようにも思います。

自分の傾向を他者のせいにしたり、自分の傾向を他者に押し付けたり、自分の傾向をありのままに自分で意識化できていないと、自分の中にある答えを自分で見い出しにくくなるでしょうし、自分の中にある答えを理想の領域で選択してしまうことになりかねません。

「自分は、こんな傾向なんだ」ということを、自分自身で否定も肯定もせず、そのまま湧きあがらすことができたときに、自分の現実を吟味する力がついてくるのだと思います。

他者のことをあれこれ思う前に、我を思う事をまず優先したいものです。

私と私以外の他者は、別々の心と身体で成っているのですから…。

本日の保護者勉強会は、こんなテーマです。

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夢を描くこと

2012年10月20日 | 第2章 五感と体感
幼い頃から、空想とか想像とか、ひとりで頭を巡らせ、いろいろなイメージを思い浮かべていた私は、空想妄想は私にとって当たり前でした。

出歩いている途中に、ちらりと見た風景が忘れられず、改めてその場に佇み、その風景を五感で観ることは、3歳くらいから私が普通にしていたことです。

神社の大きな銀杏の木、
自分の背丈よりも高い稲穂、
田んぼ一面の蓮華の花、線路の鉄のカーブ、
永平寺の静寂な杉木立の境内、
台風が去った後に見た太平洋、
瀬戸内海の凪いだ海、
山道の森、
初めて降る雪を見た時、

5歳くらいまで記憶している風景は、思い込みのもの?も含めて数知れずあります。見たものだけでなく、匂いとか、音とか、感触とか、味覚とか、つまり、五感で自ら体感したものの記憶は、私の想像の大切な源です。

時々私はずっと旅している気分になるのですが、多分、それは、見てきた風景をいつもいつも心に留めようと意識する習慣を幼い頃から身につけてきたせいだと思うのです。

心に留めたことを、この7年ブログで書き綴ってきました。

五感で感じたことを表現することを20代までは絵に描いたりしていましたが、心理学の学びをするようになってからは、もっぱら言葉で表現するようになり、それが自分にとっては一番自分の表現方法として相応しいことを段々と思えるようにもなってきました。

昨日の雪谷の勉強会では、講座生の皆様と
幸福な場所に居る自分のイメージを語って頂きました。お一人お一人の言霊はその人の宝物だと、昨日もしみじみ感じました。

自分がイメージすることは、生まれてから今日までの生育史の賜物と言えそうです。

イメージすることができないと、私は毛穴がふさがったような閉塞感を感じます。イメージできると、どこまでも広がっていくような開放感を感じます。

その喜びを知っているから、きっと想像したり、妄想したりして自分を開き、自分自身を生かしているように思います。

夢を描くことは、どんな状況でも可能なことですが、夢を描くために必要な五感を磨くことは生きている間に課せられた自分の修業かもしれません。そして、その面白さを知ったことが、私の生きる喜びと繋がるように思っています。

五感を大事にしてこそ、描くことのできるのが夢かもしれません。

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秋深まる体感

2012年10月19日 | 第2章 五感と体感
一雨ごとに寒くなってくる季節ですが、今朝はひんやりとした体感を感じ、そろそろ秋も本格的かな。。。という思いがようやく湧きあがってきました。

この秋の「そうだ京都にいこう。。」は、二尊院。嵯峨野の風景を思い出し、久しぶりにあのあたりを歩きたい気分が湧きあがっています。

小倉山から落ちてくる冷たい風が、ひんやりと頬を撫で、山の深さと里の赴き両方を兼ね備えた嵯峨野の小路を歩いた日を昨日のことのように思い出しています。

身体で感じた体感の記憶は、とてもリアルなものです。30年前のことでも、今感じているかのような感覚になることも可能です。

五感と体感を大切にした生活をしていると、その記憶である五感から蘇る体感が、自分をより良い方向に生かしていくことに繋がっていくように思うのです。

秋深まる中、美味しい秋の味覚を追いつつ、昨日は柿を頂きました。お初です。

柿色からホッとした心地良さを頂きました。

そんなわけで、柿色の裂を使った昔仕立てた掛け軸を掛け、リビングも秋色になりました。

秋深まる体感を楽しみたいと思うのです。

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自分の内にある答えと固執概念

2012年10月18日 | 第2章 五感と体感
尊敬している人、信じている考え方、これだと思う哲学や理論を大切にするのはとても大事なことです。でも、一つだけを信じてしまうと、自分の現実吟味力、つまり、現実に起こっていることを自分自身で吟味すつ力が、固執したものになってしまうことは、心に留めておきたいものだ、と常々思っています。

自分が生きている時代に自分が生き抜いていく術としての「或る考え方」は、その時代が過ぎると、新たにその時代に生きる人々が吟味し考察し、いまようへと変化させていく事は、自然な成り行きであるように思います。

但し、ある概念に固執すると他のものが見えなくなります。

だいたい、自分が親から育てられた過程自体が、「固執したある概念」という世界の中で生きてきたと言っても、言い過ぎではありません。

自分から湧き出す感情や考え方は、いくら他人に諭されても、自分が正しいと思っているので、自分にとっては真実なのです。

唯一私が大切にしている心理学の理論があるのですが、それはカールロジャーズの理論です。

「命題1.個人はすべて。自分が中心であるところの、絶え間なく変化している経験の世界に存在する」
「命題2.有機体(生命を持つもの全体を示しますが、有機体=個人つまり私)は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この近くの場は、個人にとって実在(リアリティ)あのである。」

私は私です。私は自分の産んだ子供でもなく、自分を生んだ母でもありません。私以外の何者でもないのです。
その私は、私を通して、事象を経験していきます。
そこで、見たもの、感じたもの、そして、解釈したことは、私にとっての真実なのです。誰が何と言おうと、そう見えたのですから、私にとってのリアリティなのです。

私が解釈している言葉で説明すれば、こんな意味になります。

半世紀以上生きてきた私が考えていることは、私の賜物であるわけで、他者にとってそれが賜物となるわけではないのです。

我が子に対してもそうです。

西洋で生まれて心理学もまだまだ聖書や仏典から比べたら歴史の浅いものです。もともとキリスト教文化が無くては、ユングもフロイトも現れてこなかったことでしょう。

文学や美術も、その時代性の流れの中で作家の生育史から感じ考えてきたことから生み出されてきました。

そのことを踏まえたうえで、物事を学んでいかないと、たぶん、普遍性というものを見失っていくのではないかと思います。

でも、。。。
若い時は、そんな時期があっても良いのだと思うのです。その思考錯誤、そして、理想と現実のギャップから生まれてくる足掻きは、他者が救えるものではないからです。

自分の内にある答えは、自分のやり方で見つけていかないかぎり、それは自分の答えでは無いのです。

だからこそ、いつか答えが出るであろう自分を信じ、他者を信じていく必要が、答えを見つけていく上での最高であり最低の条件だと、私は考えています。

自己肯定
他者肯定

よく耳にする言葉でしょうが、簡単なようで、実はそうでないのが、生きている人間の業かもしれません。

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日本人のアイデンティティ

2012年10月17日 | 第2章 五感と体感
今日から某大学OGの後期講座が始まります。植村先生のアシスタントを務めさせて頂き、今年で8年目。

今回のテーマは「日本人のアイデンティティについて」です。

源氏物語、平家物語、持統天皇あたりの時代からの歴史を紐解きながら、長年勉強させて頂き、段々と私自身の中で、私のアイデンティティとの考察を含め、まとまりがついて落ち着いてきたように思います。
そんな意味でも、今日から半年間の勉強会は、私にとってもよき時間になると期待しています。

まだまだ、学びの素材が整いだしたくらいの時点に過ぎませんが、西行花伝を書いた辻邦生氏も準備に10年かけられたとのこと。機が熟すにはまだ時間が必要ですが、熟すための機会として私も利用させて頂こうと考えています。

「日本人のアイデンティティ」というテーマから、参加者の皆様の口からどのような言霊が飛び出すか、楽しみにしています。

同時に「生き甲斐の心理学」に書かれている理論と私の心に描かれている模様をしっくりと言語化して繋げていくことができるよう努力を続けます。

はりきって、いきます^^//

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宮島の弥山

2012年10月16日 | 第2章 五感と体感
世界遺産となっている安芸の宮島は、京都よりも外国人の率が高いように思いました。しかも御神体の山である弥山(みせん)の山頂を目指すと、益々外国人の割合が高くなるようです。
宮島紅葉谷公園からロープウェーを乗り継ぎ、そこで瀬戸内海の絶景に感動。そして、さらに歩いて向こうの山を目指します。その向こうの山が弥山の山頂となります。

もともと宮島は古来から根付いている豪族の佐伯家の領地でした。讃岐も佐伯家の領地であり、空海は佐伯家です。パンフレットには西安から戻った空海が霊地を探し求めている時にここを修業の場とし、堂を建てたと書かれてありますが、もともとは佐伯家の祈りの場所であったのではないでしょうか。

佐伯家の厳島神社の御神体が弥山であり、空海はその御神体の山に堂を建てたと理解したほうが腑に落ちやすいです。

ロープウェーから降り、向こうの山までは、かなりの高低差を歩くことになります。ゆっくり歩くこと一時間。弥山は、大きな大きな岩が至る所にあり、緑も豊かです。山頂に近くなるほど巨大な石が重なり、不思議な光景となっていきます。
飛鳥の石舞台が自然に出来上がったと形容するのが相応しく、ストーンヘンジの天然版といっても過言ではないように思います。

誰もが感じるお墨付きの霊場と言いうことができそうです。

弥山中腹にある寺院には「消えずの火」が灯されており、空海が修行に焚いた火が1200年以上灯され続けていると言われています。
中腹の寺院からさらに登ること15分ほど。そこからの景色が、更に絶景になります。大きな石が積み重なり、それが瞑想するには相応しく、天然のお堂のような場所がいくつもあり、ここで修業せねばどこでやる。。。というくらい霊場の条件が整っています。
360度の大パノラマは、瀬戸内海を一望でき、その風景は誠に美しく、巨石の上に座り込み、暫く茫然と風景の中に溶け込みました。

山頂に佇んでいると、地上で繰り広げられる諸々が、とても小さなものに見え、自分に起こる諸々の事象に関しても何だかとても小さなことに思え、ただただ、この石の上で大きな力に包まれることに至福を感じ続けていたいという情動に駆られました。

厳島神社参拝の際は、時間に余裕を持ち、山歩きの靴を履いて詣でることをお薦めします。

結局、私はいつも空海の軌跡を辿っているような気がします。

平清盛も、大海に夢を馳せ、大陸での学びを深めた空海のありようを信じていたのかもしれません。

ならば、成程、京都の町でなぞるような生き方を選ばなかった清盛の大器は、本物だったのかもしれない、と私独断の解釈で納得したわけです。

歴史の繋がりは点と点を結ぶことで、見えないものが見えてきて、線となって繋がっていくようです。

宮島の旅は、改めて空海と対話したよき旅でもありました。

(空海と佐伯家の事に関しては、司馬遼太郎氏の「空海の風景」にて知ることができます)

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