五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

鴨居玲展

2010年07月31日 | 第2章 五感と体感
シャガール展を観に行った次の日に、鴨居玲の展覧会を観に行ったのは、何かの縁かもしれません。

当時日本の具象画家の登竜門であった安井賞を受賞。1960年代から80年代にかけての画家です。

私が鴨居玲に出合ったのは小学生の頃です。公募展の展覧会だったと思います。日本人の画家であれだけ絵の具を使いこなす人がいるのか、、、という思いで驚いた体感を未だに覚えています。安井賞受賞後、自分の内面を投影した人物画を描くようになるのですが、ほんとうに暗いのです。暗いのだけれど、心打たれるものを感じるのです。
私が中学生の頃は、多分、その絵が自分の内面と折り重なるような解釈をし、私のふつふつとした想いを代弁して発露してくれていたのだと思うのです。

苦しい自分を表現する術がなく、ない代わりに、代弁者である表現者を彷徨い探すのが、私の思春期の「行動」だったのかもしれません。
それが、鴨居玲だったのでしょう。

「自分を表現する行動を起こしている今の自分は、幸せだ」と、鴨居玲の作品の前で語りかけました。

「信じないで見えてこないもの」を表現者の中で見つけるならば、鴨居玲が相応しいかな、と思います。「信じて見えてくるもの」が幸福の関門であれば、信じないで見えてこないものを描く画家は、想像を超えた苦しみの中で描いていたのでしょう…

シャガールの翌日に鴨居玲を観ることで面白い感情体験をしました。

鴨居玲展は、横浜そごう美術館。
シャガール(ロシア・アバンギャルド展)は上野の芸大美術館で開催中です。




クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャガール展

2010年07月30日 | 第2章 五感と体感
上野の芸大美術館でシャガール展を観てきました。
だいたい芸大美術館に足を運ぶことは、三回も芸大受験している私の青春の苦い経験が蘇り、アホな自分を思い出し気が重くなるのですが、フランスのポンピドーセンターに所蔵されているシャガールを語るに大切な作品がいくつか来ているので思いきって行ってきました。(芸大を三回受験したくらいでは誰も驚かないのが芸大受験ですが・・・)

空を飛ぶ男女、緑の顔に赤い牛、、、故郷ロシアのウェテブスク、最愛の妻ベラと最強の妻ヴァヴァンティーヌ・・・
素人受けするメルヘンチックな画風に昔は興味を持てませんでした。
ところがです。
初めてフランス・ニースにある国立シャガール美術館を訪れ、感動のあまり動けなくなる経験をしたのです。

シャガールという人はユダヤ教、故郷の町、愛をテーマに、技法や表現方法を駆使し、歴史に翻弄されつつもぶれない芸術魂を持ち、カオスともいえる人の内面を何度も手直ししながら厚みのあるマチエールを作り出し、完成度の高い作品を描いた画家です。

私はニースの出来事以来、縁があり宗教心理学を学ぶ中、絵画鑑賞療法にシャガールの成育史をベースに彼の絵を鑑賞することで湧きあがる自己の感情を言語化する訓練を勉強仲間としてきました。

「イカルスの堕落」の前に佇み、シャガール90歳にして初めて故郷ウェテブスクの街に色がついたことに気付きました。私にとっての大きな収穫です。

舞台芸術を多く手掛けたエスキースも多く展示されています。これも必見です。
「魔笛」の舞台、素晴らしいです。

パリのオペラ座の天井画を想いながら上野の森で、真夏の暑さをシャガールで凌ぐのも良いかもしれません。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の行動を振り返る

2010年07月29日 | 第2章 五感と体感
「遺伝」と「老化」と「環境」に加え、自分自身の体の「免疫」「分泌」「自律神経」
がその人自身の体と心を整えていきます。

上記の6つの要素が重なり合って自分の考え方「思考」と湧き出してくる「感情」と「行動」が、「私」=「個性」として差別化されていきます。

私とあなたが違うのは、個が違うからです。

いくら同じ親から生まれても性格が違うのは6つの要素で成り立っている「個」が違うからだと思っています。

昨日の勉強会では「自己の行動」について思索しました。

愛ある行動
愛のない行動
愛を信じている行動
愛を信じていない行動

成育史の自分の行動を振り返えると、なんと自虐的な行動をしていたのか、とヒヤヒヤします。
今の自分を肯定&受容できるようになってくると、過去の思考と感情と行動を蓋せずに蘇らせることができるようになるのが不思議です。

今現在の自分の行動が愛を信じているか、と問われると照れくさい気持がありますが、「人を信じて行動している人々」と仕事をさせていただいている環境が、自分の考え方を修正してこれたような気もしています。

こうありたい自分「理想」を堂々と頭に巡らせることができるようになったのも最近のことかもしれません。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親と子の関係

2010年07月28日 | 第2章 五感と体感
子供は家庭という世界がすべてであるかのように育ちます。

子供の物の考え方は、親との関係から成育されていきます。親から教えられることだけが子供の考え方を作り上げているわけではありません。むしろ、親との関係性において、その関係を子供なりに統合させていくことに、ある傾向が生まれていくように思います。

どんな虐待を受けようと、どんな言葉を掛けられて育てられようと、子供は親が愛の対象です。親は子供にとって太陽なのです。

その太陽が輝けば、まいた種はすくすくと育ちます。
輝きすぎて、いつもギラギラしていたら、せっかく出た芽は萎えてしまいます。
太陽が雲に隠れ、間接的にしか光を与えられなかったら、育つ植物もなんとなく元気がありません。嵐となれば、もっと痛めつけられます。

いつしか大人になって社会に出た時、自分の湧きだす感情の傾向で自分を痛めつけているとしたら、もう一度親子の関係を見つめ直してみるとよいかもしれません。

いつまでも親のせいでも困りものです。

親といっても自分ではありません。他者です。他者は変えられません。気付いた自分から
変えていくことを心がけたいものです。

親と離れて暮らしてみると、具体的に親子の関係における良さも悪さも見えてくるはずです。
同時に自分がどれだけ親の思考と感情と行動に支配されて育ってきたかもよく見えてくる反面、愛の原型(愛されてきた経験)も見えてきます。

自分の傾向を軌道修正できる機会を作るのも自分次第です。

逃れるように親から離れてみた時、私自身に掛けられた呪縛から解き放たれた経験を持っています。それは私の成育史上におけるナンバー3位以内にはいるくらいの「勇気」の一つです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表現力を高める

2010年07月27日 | 第2章 五感と体感
昨日の某学校の勉強会に足を運んでくださった皆様、お疲れ様でした。
ストレスについてのテーマで展開しつつ、フォーカシングの技法を後半行いました。
ここでおさらいをしておきます。

「フォーカシング」
①自分自身、今現在、不安に感じていることはいくつあるのでしょう?

②いくつか数えたら、ひとつだけ選んでください。口に出す必要はありません。

③その一つ選んだ不安なことから生ずる感情は何でしょう?

④一つ選んだ不安なことの最悪のシュミレーション(イメージ)は何でしょう?

⑤一つ選んだ不安なことのハッピーエンド(最高)のシュミレーション(イメージ)は何でしょう?

⑥腑に落ちる統合、または解決。(妥協したり、折り合いをつけたり、納得する結論出したり、その内容によってひとそれぞれの解決)

これらのプロセスを、具体的な内容を言わずに自問自答していきます。

比喩的な表現を使ったり、小説や絵画、音楽などに置き換えたり、和歌や俳句を作るような、そんなイメージで表現していくことは、直接的な事例を語るよりもよりリアルな体感を掴むことができるようです。
傾聴していく側は、常に相手の感情に添うことが一番大事なので、「あなたと私」の表現による解釈が違っても、体感的に感情を理解していくことができるのです。

平素、似たような言葉しか使っていない生活をしていると感情表現は難しいはずです。
だから、自分の好きな音楽やドラマを比喩に使うと、自分らしい表現がでいると思います。
料理とか花とか、自分に身近なものから「自己の感情」と置き換えてみると、モヤモヤしていて言語化しにくい不安感が、焦点付けされていくようです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福への関門

2010年07月26日 | 第2章 五感と体感
いつかは向き合わなくてはいけない問題。
それを先延ばしにしているうちに、だんだん面倒くさくなり、結局向き合わずに放置してしまいます。

そのことを身近な人や家族に指摘されると、拒否感が湧きだします。

ストレスの感情をむき出しにして、当たり散らしたりし、結局逆ギレして、言い合いになってオワリ、、、という繰り返しを経験している方も多いかもしれません。

逆ギレされると、心配して言ったことがあだになり、そのうち腫れものに触るような緊張感が、暗い感情を増長させていきます。身近なあなたと私の関係からおこる緊張感ほど辛いものはありません。

ストレスと向き合うことを恐れている生活と向き合ってみる生活。。。

自分自身のストレスをそのまま受け容れるまでの時間は、確かに充分なくらい必要かもしれません。

ストレスと向き合うことは、幸福への関門だと思います。
人の本質は不安感なのですから。。。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストレスと向き合う

2010年07月25日 | 第2章 五感と体感
「不安感」は人を「平安感」に導く「道しるべ」です。

理想と現実の狭間で揺れ動く自分の感情は、理想から程遠いほど不安感に支配されていきます。でも、必ずしも理想と現実のギャップが自分自身意識化されているわけではありません。

何かが解決してみて初めて自分のストレス(不安感)に気付く場合もあります。

胃が痛かったり、食欲が無かったり、ひたすら自分を責めていたり、学校に行くことが苦痛になったり…身体症状に表れていても自分の不安感に気付かないでいるとますます苦しくなっていくはずです。

自分の不安感と向き合うにはちょっとした勇気が必要かもしれません。避けて通りたい思考と向き合うまでに何故か人は時間がかかったりします。
そのためには、自分自身を傾聴する必要があります。(傾聴は7月初旬あたりのブログにシリーズで書きました)

夏休みの時期、時間をかけてゆったりとできる時間を、自分のストレスと向き合う時間にあててみるのもよいかもしれません。

海を眺めたり、森に身を置くことが、自らを傾聴するよい環境でもあります。
普遍的な美しい場所は、そっと自分の心に添ってくれます。
寺社巡りも良し。教会巡りも良し。。。

ストレスは自分の心身を助ける道しるべ。ストレスを感じなくては、自己修正もできません。危うい方向に向かっていることを知らせてくれるのもストレスがあるからこそです。

自分の感情と体感を「ストレス」から点検していくことからのんびりと向き合っていきたいものです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ストレスを意識する

2010年07月24日 | 第2章 五感と体感
学校がお休みになると、私の生活もひと段落となります。
普段は一週間のサイクルに追われ、ひとつ終われば次の準備、という繰り返しです。
先週あたりから、時間にも余裕ができ、遊び呆けているので、ちょっと気を引き締めなくてはなりません。

某学校の保護者のための勉強会が7月にあと一回あるのみですが、暑さの中、学校まで足を運んでくださることに心から感謝いたします。

さて、こうやって余裕のある時間を過ごしてみると、自分はいかにストレスの中で生活しているということに気付かされます。
ストレスというのは、嫌なことばかりではありません。ストレスは生きている証です。

自分の行動や意思を現在の状態から実現させていくために、自分にストレスをかけて叶えて行きます。
汗だくで家から駅まで10分歩くことも「ストレスを克服する」行動です。その時に湧く感情を考えるとかなりのストレスです。
夕食のメニューを考えることもストレス、、、
夏休み中の子供の行動を見ていることがストレス、、、

理想と現実のギャップを意識してみると、「今この時」の感情は、何と何のギャップから表出するものなのでしょう・・・

そのことを意識してみることを心がけてみると自分の不安感が「体と心と魂」のどこにあるのか見えてくるはずです。

来週の勉強会は「ストレス曲線について」です。自分のストレスが「不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱」の中のどのあたりなのでしょう…
それを意識してみるとちょっぴり予習ができるはず…

休日勉強会もそんな感じでしようかな、と考えています(業務連絡!!)

今日も猛暑の予感です。朝から居間の温度は30度。これは、かなりの覚悟が必要です。皆様よき一日を

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱中症対策

2010年07月23日 | 第2章 五感と体感
この数日間、暑さが続いています。

多治見では40度近くまで上がったそうです。(多治見に住む友人はどうしているかなぁ~、如何お過ごしですか?)

この暑さに負けないでテニスをする方法はないものか。。。とスポーツ用品の広告を隈なくチェックしていたら、ありました!熱中症対策グッズ・・・

首の後ろに保冷剤を入れる袋が付いている「首巻き?」。。。
紐をキュッと絞ると首に難なく巻き付き動いてもズレません。

ゴルフのコースを回るために作られたもののようです。

ほかにも紫外線対策のための小物をあれこれ探し捕獲しました。早速本日使用します。

私だって夏休みの期間くらい、まとめてテニスをしたいわけで、、、室内で優雅にテニスをするならまだしも、「ほんとうにアホやねん!」と思いながら、炎天下のテニスコートに挑んできます。

平素の生活も水分補給を忘れずにお過ごしくださいませ。。。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独を受容するということ(宗教観7)

2010年07月22日 | 第2章 五感と体感
とてつもない孤独感に襲われたことがあります。

草原が広がる一本道は舗装されておらず、砂利がゴロゴロしています。

その道に転がったただの石になったような体感を覚えたのです。

打ち捨てられた石、という感覚は、自分がたった一つの石コロになったことを受容した瞬間でもありました。

その体感は、私は私であって私以外の何者でもないことを体と心が同時に意識したのだと私なりに解釈しています。

人生の折り返し地点ともいえる年齢にして初めて自分の孤独を受容できたようです。もしかしたらまだ受容しきれていないかもしれませんが…

日々の生活に追われ、自己概念が固すぎて、自分の内にある核からどんどん離れていく感覚ほど寂しく虚しいものはありません。
自分の柱をなんとなくでも見据える機会を意識的に持つことは、「私が私であること」の確認となるように思います。

孤独である自分を受容することは「私」という「個」とどう付き合うかの意思確認にも繋がります。

神や仏は、願いを叶えてくれるためのものではなさそうです。

手を合わせ自分の内に留まる「時」が自分の内に宿る答えを導き出す手伝いをしてくれるのです。そこから幸福感や平安感、統御感が湧きだしてきたら、自分の内にある「見神欲」(デジデリウム)が働いているということかもしれません。

自分の孤独を受容すると他者の個性が輝いて見えます。人との繋がりがあるから故、自分が成り立っていくのです。

成り立つ自分は、人との繋がりながら、更に誰かと繋がっていくのです。

私のデジデリウムは、自分の内から湧いてくるものと昔からの知恵が合わさることで随分満たされるようになってきたようです。

「宗教観」という言葉を使うよりも「デジデリウム」のほうがしっくりくること自体が私の宗教観ということかもしれませんね…。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

解釈は訓練(宗教観6)

2010年07月21日 | 第2章 五感と体感
自分の感情の赴くままに生活できたら、なんと幸せなんだろう。。。と思っても、赴くままの感情を意識してみると、案外猜疑心や嫉妬や怒り、悲しみの感情のほうが、多いような気がします。自分をありのままに放っておくと、不安感の感情に流されがちになります。

いつも楽天的に、楽しく、人とのコミュニケーションを上手にしながら生活するには、不安感を持つことよりも努力が必要なのです。

他人に自分の気持ちを察してもらうことを待っていても、自ら表現しなければ相手はそうそう察してはくれません。

先日友人からメールが届きました。「空に羽のような雲が浮かんでいました(彩雲)。天国にいる大切な人から私たちへの贈り物です。その雲の行く先に天使の雲が浮かんでいました。」と。彩雲と天使の雲の写真も添えられてありました。

私はその写真を見て、羽ペンを想いました。羽をひらひらとさせながら空いっぱいに手紙を書いている天国の大切な人が想像できました。空いっぱいのメッセージが言葉の粒となって、天使の手からぱらぱらと撒かれ地上にいる人々に大きな大きな愛を注いでいるように思いました。

その日、私自身も知らないうちに言葉の粒を注がれていたわけです。

不安な気持ちを色々と解釈することは簡単です。
でも、愛の解釈を表現するには知恵が必要かもしれません。

訓練は修業を積めば積むほど自然に身についてきます。自然に身につく日に憧れながら、今日も解釈を楽しみたいと思うのです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心と体と魂(宗教観5)

2010年07月20日 | 第2章 五感と体感
私が死んだらどこにいくのだろう?

この普遍的な問いを意識に上げて、自問自答しながら生活していると不思議ですがいつも生き甲斐に繋がるのです。

つまり、死んだらどこにいくのか?という問いは、生きるための道しるべともいえるからです。
「生きるための道しるべ」は、迷いの立て札のようなものです。

この山を登ってあちらにいくか?
この山裾を回り、あちらにいくか?

山の向こうへの行き方は(生き方)は、私の心と体と魂を見据えることで判断していきます。

自分の心と体と魂を見据えることは、自分でしか付き合えない体と心との会話です。心・体と向き合うことで自分の内に宿る魂が浮かんでくるのです。

自分の内に宿る何かを見据えることは、生き抜くためのノウハウだと私は解釈しています。

心と魂と体を大切に・・・

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どれも自分だよ、という人生(宗教観4)

2010年07月19日 | 第2章 五感と体感
最近の服の流行はチュニジア風らしい・・・エスニックな雰囲気がフェミニンさを際立たせるのでしょうか?
そういえば、学生時代、私は独特な服を着ていました。今がチュニジア風ならば、その頃着ていたのはインド風です。でも、時代は聖子ちゃんとトラッド。。。浮いていたといえば浮いていたかもしれませんが、類は友を呼ぶ場所が私の学び場でしたので、さほど違和感を感じることなく過ごしていました。

仕事をしていくうちに、いつしか服装も静かになり、数年前までは黒い色ばかり着ていました。
ここ2,3年は、黒い色の生活から渇望感が生まれてきたらしく、20代の人たちに紛れてチュニジア風の色合い選択が復活してきました。

過去の自分の服装については、「うわー、あの頃の服、こんな服着てたんだ!」という恥ずかしさもあります。数年前の自分にしても「なんだか、黒ばっかりでストイックだったよね~」とか、、、今から考えると、今の自分とは違う選択をし、行動している自分に違和感を覚えたりします。

でも、それらはどれも自分なのです。
その時その時に自分にとって必要なものを選択していただけの話です。

華厳の思想を借りるならば、その時代時代に生きてきた「私」は、「私」という「個」を繋ぎながら今に至っているのです。人と人だけではありません。自分自身と向き合っても、それぞれの時期の自分の「思考と感情と行動」が、自分の体に記憶されているのです。
その記憶があるからこそ、それぞれの感情が湧き出てくるのでしょう。

悲しい私、怒っている私、喜んでいる私、楽しんでいる私。。。

どれも私です。「どれも私」を繋げていくと「私の個性」が益々見えてくるはずです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皆が経験すること・・・宗教観3

2010年07月18日 | 第2章 五感と体感
生まれてくることと死ぬことは、今生きているすべての人が経験できることです。

「すべての人が経験する」この条件は、すごいことだと時々ふと思うことがあります。

大切な条件が揃っているにも関わらず、人は生きている人の数だけの個性があり、家族であろうが、それぞれ全く違う人生をおくっていくのです。

他者と違う人生、個性を意識しようとすると、何故か孤独感に陥ることがあります。

でもなぜ、多くの人が孤独感を悲しいと思うのでしょう。

DNAに組まれたこの感情の経緯には、人が生き抜くために意味があるから孤独感を悲しいものにしてくれているのだと思うのです。
そうでなければ、人は集団で生活するどころか種の保存にも至らないわけですから。

孤独感に追い込まれていく人生を歩んでいるのか?
孤独感を意識することでそれを尊いものだと解釈してる人生を歩んでいるのか?

孤独感を尊い感情だと感じてみると、街を歩く知らない人までも愛おしく感じる瞬間を経験します。

人と人が繋がることに意味を感じることは孤独感に追い込まれている状態では見えてこないように思うのです。

人の本質は不安感です。そして自分の孤独感を受容すると「何のために生きているのか?」という問いが、生きていく道しるべになるはずです。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もんとうに知りたいもの・宗教観2

2010年07月17日 | 悔いのない人生とは?
見えないものの力を信じる感性は、すでに人に宿っていると思います。
「宗教」という用語に嫌悪感を感じる人は多いようですが、「癒し」とか「ヒーリング」という曖昧な表現の用語に関しては好意的な人が多いようです。

言葉の虚しさを感じながらも、私は言葉でしか表現できないので、たぶん一生かけながら自分の内に湧きでる感情を言葉に置き換えていくことが私の生き甲斐なのだ、と思っています。

私の内にある宗教観の目覚めは、たぶん5歳の頃です。
「人は死んだらどうなるのだろう」この問いが自分の頭に廻り出したことと、
私自身のDNAの記憶には、人を弔う経験が確かにあってその経験が体に宿っていることを意識しだしたことがほぼ同時に意識化されたのです。
そこから私の時間の旅が始まりました。

ユングの云う無意識の意識化です。

どんなに幼い子供でも「死んだらどうなるのか」を考えるのです。
私自身がその経験をしているのですから間違いありません。

「人は死んだらどうなるのか?」

この問いかけを自問自答しながら生きていると、喜びは、より喜びとなり、悲しみは、より悲しみとなり、怒りは、一層強く怒りとなっていくように感じます。

感情を生み出す自分の体に宿る過去の記憶は、生まれてから今日までのことだけでは無いはずです。宇宙の塵であった頃からの記憶は、私たちの体に含まれています。

人は死んだらどうなるのか…
人に還り、人に宿りながら、人を継承していくことは宇宙の将来に繋がっていくのだと信じています。その連鎖が生命を生かしているのではないでしょうか。

ガンジスの一粒の砂は、その砂一粒一粒に意味があり、繋がり合い、一つの体系として創造されていくのです。(華厳思想から)

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする