五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

日光月光

2008年04月29日 | 第2章 五感と体感
国立博物館で展示されている「薬師寺の日光菩薩・月光菩薩」についての特集をテレビで観ました。

奈良の薬師寺。

菩薩の光背を取り、後ろ姿まで拝み見ることのできる貴重な機会を私たちに与えてくれています。

そして、今日の朝日新聞の朝刊に、35年間日本で活躍されたイエズス会(カトリック)の総長のコメントが載っていました。

〝「信仰をもたない人が、お寺に行くと落ち着く」と語る日本。除夜の鐘とともに寺社に集まり、世俗化しても宗教への尊厳を残す日本に感銘を受けた~~~「和」があれば事は自然と進む、これが日本で学んだことです〟(朝日新聞29日)

昨日の番組の中で、博物館に展示された菩薩像を拝みながら見上げ、涙をこぼす人々が何人も映し出されていました。
自然と湧く涙の元は、「和」という普遍性なのでしょう。

私にとって「美」と「普遍」には、隔たりがありません。
互いに含みあうものだと思うのです。

思わず手を合わせ、祈りを捧げる人の姿こそ、美しさの原点。

画家だった祖父が、遺作として描いたのは、「日光」というタイトルの絵でした。
5歳の私は、祖父のアトリエで、その絵を前にし、手を合わせ、目を瞑りました。

その数年前に描いた「月光」。深遠な大地に浮かぶ月と重なる雲。月に照らされ、静かに輝く蛇行しながら流れる川。
これは、私のお気に入りの絵。

祖父から観えてくる浄土の世界だったのでしょう。

生と死は、いつも隣り合わせ。
生を与えられているから、死を想うことができるのです。
人が繰り返し、問い続けてきたこと。それでもまだ誰も答えを知りません。

薬師寺のお坊様が、展示のために移動する仏を磨き清める姿は1300年前の人々の姿となんら変わりはないのだと思うと深い安心感が湧きます。そして彼らの慈愛と強い志のまなざしに、感銘を受けました。
繰り返し繰り返し、普遍を問い、祈る人々の姿はやはり美しい。

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空想力

2008年04月27日 | 第2章 五感と体感
今日は、午後から勉強会でした。
気の合う仲間と気の合う会話。
そこから見えてくるものを語り合いながら、のんびりと時を過ごします。

日常の体験と湧きだす感情は、生きている以上、とどまることろを知りません。

そんな中で、やっぱり自分の体験の解釈、というのは、「自分にとっての常識」であり、「他人にとっては非常識」なのだと、しみじみと語り合いました。

幼いころ、不安感にかられると、よく見た夢があります。

それは、いつも同じものでした。

私は祖母と手を繋ぎ、永平寺の杉の森を歩いています。
そこに、白装束のお坊さんが何人か音もなく歩いてきます。
棺を持ち、私たちの前を通り過ぎます。
私も祖母も無言でその人たちを見送ります。

黒い森に、白い着物が際立ちます。

印象的な映像の夢です。

不思議とそこには恐怖感もなく、黄泉の国に思う自分の想いが夢となって現われたのかもしれないと、大人になってから勝手に解釈しました。

幼いころの空想は、いつしか夢想となり、それが現実かそうでないか、わからなくなることもしばしば経験しました。一人で歩きながら、空想すると、つまらない風景にも意味深いものが見えてきて、それが積み上がっていきます。幼いころに、どうもその癖をつけてしまったようです。
現実逃避するくらい、現実を受け入れがたいものがあったのは、住まう場所の変化により自分をとりまく環境に適応する術だったのだと思うのです。

そのころ身につけた「五感の体験」は今ではすっかり私の個性となっています。

夢見心地な空想から生まれる解釈は、今でも私自身の暮らしを助けてくれているようです。

空想。想像。

これらは、食べること、寝ることと同じように、私の大切な欲求かもしれません。

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決めない「存在感」

2008年04月26日 | 第3章 無意識の世界
今日から映画「I,m not there」が公開されました。

六人の俳優によって演じられるボブディラン、とだけ言っておきましょう。
(まだ観ていないので)
6人の中の一人、ケイトブランシェット、むちゃくちゃカッコイイ。唯一の女優。
昔観た映画、「勝手にしやがれ!」を思い起こすカッコ良さ・・・

私が十代のころ、彼は、フォークシンガーのイメージが強く、あまり興味は湧きませんでした。でも、年を経て、いくつか変容する彼の表現に、何となく私の気に留まることは少しだけありました。

世間に見せるどの「顔」も自分である。

「本当の私はこうなのよ」と陰で言い訳がましくつぶやくよりも、「どれも私よ」と言ったほうが、私自身、自分を生き易くしているように思います。

昨日やっていたことと今日やることがまるで違っていたとしても、自分の思考と感情と行動によって成せた表現であるのだから、「どれもこれも私である」というのが私の在り様です。

「憧れとは、川の流れのようである。」(三島由紀夫の「花ざかりの森」)
三島由紀夫、16歳にこの小説を書きました。私が読んで腑に落ちたのも16歳の時でした。

時代の流れ。環境。年齢を重ねることと自身の経験。

どれも、「私」という「器」が経験していることですが、器に囚われて、本質を見ようとする意思と意識を失わないようにしていきたいものです。

今、掴みたいものを掴む精神力。
瞬間瞬間に掴んだものが、いつしか自分の太い柱となっていくのです。

これは、書いている本人の生涯の課題。。。

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ムーミン村

2008年04月24日 | 第2章 五感と体感
アートランドの勉強会の朝。
横浜駅で乗り換えようと駅のホームを歩いていたら、向こうからムーミンに出てくるミーのTシャツを着た女の子が歩いてきました。

小学生の頃、学校の図書館で借りて夢中になって読んだムーミン村のお話。
何巻もあり、もちろんテレビではお馴染みのアニメーション。小さな村に住んでいる森の妖精の日々の暮らしや思いが、綴られている誰もが知っている物語です。

登場人物は、ムーミン一家を中心にしながら、個性豊かな人々?が、人生叙事詩を語ります。子供のころは、そんなことを思って読んでいたわけではありませんが、大人になり、ムーミン村を思い起こすととても哲学的な童話だということに気づかされます。

縁あって勤めた設計事務所では、フィンランドのログハウスの仕事に恵まれ、森の中での仕事を心から愉しみました。
その仕事に携わる仲間は、今でも、その時のまま付き合っていることが、自然の流れのようで違和感がないのも、なんだかわかるような気がします。

皆ムーミン村の住人だったようです。

だから、ムーミンを好きな人は、たぶん、私好みの人であると、思い込みをしているわけです。

・・・・で、その横浜駅ですれ違った女の子が着ていたミーのTシャツの話に戻ります。
私は東横線の改札口を通り、アートランドに向かうべく、京浜急行の改札口に向かいました。その脇に小さなソニープラザ(雑貨屋)があります。ふと、品出ししている女の子の手元を見ると、あの「ムーミンシリーズ」のTシャツが。。。

モチロンです。仕事の帰りにお店に寄り、買いました。

ほんとうは、Lサイズが欲しかったんですが、Mしかなく、私が着ると、ミーの顔が横にビヨ~~ンと伸びるのです、、、ま、、いいか!

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NPO法人を設立して3年目

2008年04月22日 | 第2章 五感と体感
NPO法人CULLカリタス カウンセリング学会を設立し、認証されてから約二年半。
申請を出し、東京都庁のお百度参り?をし、ようやく認証。
この苦労を体験している方々は、きっとお「百度参り」という言葉でうなずかれるのではないでしょうか。

立ち上げた仲間ととことん話し合い、趣旨書や定款をつくり、やっとの思いで都庁に出向いても、文言うんぬんでいろいろと指示を受けます。
大人になってまで他人から、とやかく言われることは、私たちの我慢と忍耐の修練の場でもあったように思います。(指導する方々も、もちろん、いい大人相手に大変だと思います。)

ちょうど三年前の今頃は趣旨書を書き、私たちの方向性を見極め、何度も何度も話し合いを重ねていました。
それから7カ月後の11月にようやく認証された時は、受験に何度も失敗した浪人生がようやく春を迎えたという、そんな心境でした。

そんな思いと努力で設立したNPO。

会員と賛助会員の方々も少しずつ増え、賛同してくださる皆様の温かい支援で、
なんとかここまでくることができました。

「生き甲斐の心理学」教育普及活動は、日々の暮らしでの生き甲斐支援にも繋がります。

「自分がいきいきと明るく生きていくには、何が必要なんだろう?」
「私の生き甲斐とは何だろう?」
「私の不安な気持ちはどこから来るの?」

〝ミネルヴァ(知恵の神)は暗闇とともに飛び立つ〟という言葉があるとおり、思った時が吉日です。

講師が参加者の皆様や支援者の方々とともに学びを深めていくことは、それぞれの講師自身の喜びでもあります。
勉強会もこれから増えていきます。勉強会だけではなく、賛助会員の方々との交流も大切にしていきますので、益々のご支援、よろしくお願い致します。

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華厳の思想

2008年04月20日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
奈良の東大寺本殿を華厳寺と云います。

明治時代の法の改正で、「一つのお寺に一つの宗派」となり、南都6宗、(真言宗・天台宗含めて)8宗の学問所となっていた東大寺は、華厳宗を選択しました。
(表現が間違っていたらごめんなさい)
そこで、神仏も分離され、かつて東大寺建立に際し宇佐八幡と関係を結んだ手向山神社も別の宗教法人になったと本に書かれてあります。

そうはいっても、神仏混合、そして古来から伝わる古層という文化・宗教が混じり合い、日本のアイデンティティが成されてきたのです。


華厳の思想。

決して難しいものではありません。

一つ一つ、孤立した個々の個性は、全て繋がっていて、それが世を成しているという思想です。

人類みな兄弟、という言う人もいれば、隣人を愛する、という言葉もあります。

ブログには何度か書いていることですが「ガンジス川の砂粒は、一つ一つにすべて意味があり、繋がることで、ガンジスの滔々とした流れをつくることができている」と、ヒンドゥーでは、云い伝えられています。
これを人に入れ替えても同じことが言えます。
ひとりひとりの個性は尊く、その尊い個性が結び合って、世を成していくのです。

人は、普遍を求めようと、振り子のように揺られながら生きています。

揺られながらも、普遍の片鱗に触れたとき、言い知れぬ平安感を感じることがあります。
何が真実か、何が正解かは、私自身が持っているアイデンティティから私自身が判断することしかできません。

表現するものが違っても、必ず人は繋がっています。

自分ができる小さなことでも、必ず何かに繋がっていくと信じています。

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宝塚勉強会報告

2008年04月17日 | 第9章 愛
16日、兵庫に行ってきました。
とある修道会主催の勉強会。
参加者の皆様、そして、主催してくださった皆様、良い機会を与えてくださり、心から感謝申し上げます。

通信講座生の方々も駆けつけてくださり、25,6名の方々と、出会い、再会を楽しませていただきました。

平素の生活、悩みやしなければならない課題等を意識的に頭に浮かべると、かえって整理がつかなくなったりします。私の場合もそうです。
だから、あまり思い悩まないで、日々の生活を送って過ごすことのほうが多いかもしれません。

このように日々の生活を続けて元気に行動していても、ふと、言い知れない不安感が持ち上がったり、もやもやした気分に取り込まれたり、陰鬱な気分になることがあります。

そんな時、私たちの行っている勉強会で、ふと、立ち止まるのも良き機会のように思います。

生き甲斐の心理学を活かして、学びを続け「生き甲斐の心理学」を普及する仲間もいれば、自分の長年の悩みや苦しみを自分の内から見つけようと必死で学ぶ方もいらっしゃいます。どちらかというと、自分の中の問題点をを意識化しながら結果的に学び深め、社会に還元している方が大半です。

今回、宝塚の勉強会は、初めて「生き甲斐の心理学」に触れる方が多く、
「不安は人の本質である」
「理想と現実のギャップが不安感を増長させ、ストレスとなっていく」
「悩みの答えは、必ず、自分の内にある」
等、このような概念を、たった数時間で語っていったわけですが、如何でしたでしょうか?

知識を知らないで、生きていくより、知って生活するほうが数倍明るく暮らすことができるはずです。

悩みや苦しみ、なにかわからない「もやもや」した気分から解放されるには、やはり「こうありたい」という自分自身の意志が必要なのだと思います。

愛することも愛されることも、自分の意志次第、ということでしょうか。

ともかく、学び、食事をし、修道院という場所で共に過ごす時間は、人生において貴重なひとときです。新たな出会いに心から感謝し、またお会いできることを楽しみにしています。

ありがとうございました。

★「生き甲斐の心理学」ユースフルライフ研究所発行 1.890円
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ご興味のある方は、ぜひ、ページをめくってみてください。

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五感と体感の話

2008年04月13日 | 第2章 五感と体感
言葉という伝達ツールを使って生活しているのですが、それだけでは表現できないものがあります。

五感で感じる体感は、遠い過去のものでも時として時空を超え、現在に鮮烈に蘇ります。

今日、波音を奏でるフルートの音を聴きました。

そこで「季節を感じる波音、場所を感じる波音」の話題が出ました。

海風の吹く空を眺めながら奏でる音を聴いているうちに海にまつわる私の成育史が蘇ってきたのです。

定期的に訪れる鎌倉の海は、太平洋に面しています。私が生まれた高知の海も太平洋です。幼い頃までしか住んでいないので、具体的なことは覚えていませんが、太平洋の荒波と台風が過ぎ去ったあとの平安な波音は、印象に残っています。
瀬戸内海の海に平安感を感じたことは、以降、大人になって何度見ても同じ気持ちが湧き上がってくるのが不思議です。

小学生の頃住んでいた茅ヶ崎も太平洋。黒っぽい砂浜が続き、湘南の海ともてはやされている割には、殺風景なイメージがありますが、未だに烏帽子岩が見えてくると家に戻った気分になるのです。どちらかというと江の島から葉山にかけての海のほうが、太陽がきらきらと反射する美しさと華やかさを感じます。

横浜の海も格別。毎日毎日、京浜東北線の車窓から見る海は、元気の源でありました。高校の校舎から穏やかな根岸の海を眺め、心地よく差す日差しでうつらうつらしたのも良き体感の思い出だと言い訳しておきましょう。

同じ海でも、季節や天候、時間帯によって、違った表情を見せてくれます。
そのうえ、自分の心と体の状態によって、五感による体感は変化していきます。

穏やかな海。悲しい海。嬉しい海。怖い海。気ぜわしい海。優雅な海。
海の表情とともに生きてきた自分を改めて気付かされました。

感情を投影した海の風景を、音楽とともに愉しんだ一日に感謝。

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決まりごと

2008年04月12日 | 第1章 意識と知覚
住まう地域、風習、そして歴史において、私たちは、なんらかの決まりごとを守りながら生活しています。

そして、恥をかかないように、しきたりや風習を気にしたりします。
私自身、かなり天然ボケなので、欠落していることが多いのですが・・・

先日、ある写真集をぼんやり眺めていたら、ある方の持ち物である着物のしつらえの中に、龍の柄の帯を見つけました。
黒地に筆で描かれたものと刺繍が施されたものです。畏れ多い中にも品よく美しい、しかも流動的に表現されています。

日本画を描く方や、山水画を描かれる方はご存じだと思いますが、龍の爪を数えると、5本。
5本の爪を使うことができるのは、中国の皇帝のみだと聞いたことがあります。
ちなみに先日の近衛家の展覧会では4本の爪が最高の本数でした。

寺の天井画の龍の爪も、その本数を巡って大論争になった話も聞いたことがあります。

手にした五本の龍の爪の図柄が、いつのものかは分かりません。
いとも簡単に帯にしてしまった持主に、恐れを感じてしまう私は、自由な時代に育った割には、案外ちっこい肝っ玉だなぁ~、と思ったのでした。

表装という世界に首を突っ込んでいる以上、決まりごとは決まりごととして心に留めることは大切なことです。

でも、美を求めて、それを得ることに余計な塀を作らない自由な心の持ち主に、敬服・・・・・。

より良いものを掴み取るには、掟を破ることも必要だし、かぐや姫のお婿さん探しではありませんが、そのくらいの高い望みも掲げることも時には必要なのかもしれません。

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フツーの生活

2008年04月09日 | 第3章 無意識の世界
アートランドの勉強会。
日ノ出町界隈、大岡川の桜はすっかり散り、葉がずいぶん出てきました。川沿いの提灯もなんだかむなしく感じた今日の桜の風景です。

「私にとってのフツーの生活って何だろう、???」

「可もなく不可もなく、平平凡凡に過ごすのが人の幸せ、」などとよく口にしたりします。
けれども、その平平凡凡が、ままならぬ事態に陥るのが世の常、人の常。

だからこそ、平平凡凡が理想となったりするのかもしれません。

しかし、しかし、です・・・
「あなたのフツーの生活って何?どんな生活?」
と問うと、結構自分とは違う「フツーの概念」を耳にすることとなるのです。

自分の理想と現実がかけ離れるほど、人は不安に陥ると云います。

子供のころ、隣の家族が恨めしく見えたり、テレビのドラマに憧れたり、そのたびごとに、「家はフツーじゃない」と思ったりしたものです。
私のフツーは、他人にとってフツーとは云えません。

そんなことを思いながら、勉強会の時間が過ぎ、
今一度、自分の「普通」と「理想」の相互関係を考え直してみようと思いました。


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子供の可能性

2008年04月06日 | 第2章 五感と体感
今日は、花見ができる最後の日曜日。しかも、晴天。
私の関わる日ノ出町アートランドも桜まつりの川沿いに毎年場所を確保し、似顔絵描いたり、陶器を売ったり、メンバーがそれぞれ活動しています。私は、陣中見舞いにひやかしに行き、友の店番を楽しみながら、青空に散る桜を見上げながら、ビールを頂き、お花見を楽しみました。

皆様、それぞれの週末を過ごされたことでしょう。

さて、本日のメインは、わが子の通う学校のオーケストラ部の定期コンサート。
中高生合わせ61名のオケ。発足三年目ですが、従来ある実力あるマーチングバンドを脅かすくらいの急成長。
ともかく、意識と目標が高い所にあるのです。
目標を高く掲げ、常に完成のイメージをもって練習しているのが、よくわかるのです。去年、情けなかったヴァイオリンは凛とした高音を保たせることができ、チェロやフルートは、幼いころから練習を始めた子がぐんぐん引っ張っていくのです。作曲を手がける生徒、ドラムを叩ける子が打楽器をやり、しかも、人数が揃っているので、非常に肉厚な音となります。
ハープのプロの助っ人もやってきて、校長先生が嬉しそうにチェロを弾き、厳しい練習の成果が、先生や父兄のの温かい配慮で、大成功。

子供の可能性は、とどまるところを知りません。それを止めるのも引き上げるのも大人次第。
可能性を信じ、一所懸命になっている先生のタクトを振る姿にも感動しました。

愛することと愛されること。
伝わる愛を素直に受けることのできる幸せな子供たち。
この持ちつもたれつの関係は、努力なしでは成し遂げられるものではありません。

講堂に鳴り響いた拍手は、彼らを益々成長させることでしょう。

ちなみに、プログラムは
1、歌劇「アルジェのイタリア女」序曲・・・ロッシー二
2、歌劇「フィガロの結婚」序曲・・・モーツァルト
3、ハリーポッターのメドレー
4、サウンドオブミュージックのメドレー
休憩。。。楽器ごとのセッションを聴かせて頂きました。(皆休む間無し)
5、弦楽セレナーデ(生徒の作曲)
6、交響曲第一番 第一楽章、第四楽章 ベートーヴェン
7、パッフェルベルのカノン  バッハ
8、くるみ割り人形 「花のワルツ」・・チャイコフスキー

特に、ロッシーニは最高でしたし、ベートーヴェンは、聴き惚れました。
次回の演奏会が、楽しみです。
子供たちから、元気をもらいました。清々しい気分は四月にふさわしく、新しい年度、私も目標をちょっぴり高くしてみようかな。

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テニス日和

2008年04月04日 | 第2章 五感と体感
今日は、24節季の「清明」
「天地万物の気が満ち、気良く明らかになる」
、だそうです。

おかげさまで、今日は晴天。珍しく二週続けてテニス日和。
仕事が入ったり、天気が悪いとできないので、テニスができると本当に得した気分になります。

横浜の桜は、なんとなく桜餅の雰囲気です。茶色っぽい葉っぱが見えてきました。
今週末が見納めというところでしょうか。

青い空と、動くには最高の気温。

三面あるテニスコートの真ん中が本日の私たちのコートでしたが、周りを見ると、結構年配の方々が混じってプレーされています。
中には80代の方もいらっしゃいます。

私たちテニス仲間も、そのような元気な方々を目標にしたいといつも話し合います。

いくつになっても始めたいと思った時が「始め時」

余談になりますが、皆で買った新しいボールが立派すぎてなかなか馴染めません。
少々重いせいか、ラケットの重心がブレてしまうのです。
と、いうより、今まで何年も使っているうちに空気圧の低くなったボールを平気で使っていたので、ソフトテニス並みの負荷をかけていたせいだと推察・・・。
堅実な主婦集団が、このボールに慣れるのは、いつの事やら。。。

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個と個を繋ぐ

2008年04月03日 | 第4章 愛とゆるし
私たちは、それぞれの解釈と信念を持って生きています。

どんなに中立を意識しても、どんなに自然体を意識しても、「私」が見ているものは「私」にしか見えません。

「私」という「個」を通して、「私自身が感じ、解釈している」のです。

「世間体」とか、「皆さんは」とか、そいういったあいまいな主語を使っても、結局はその人自身の想い(思い)から出てくる言葉なのです。

「生き甲斐の心理学」の学びの中に、「体験の解釈」という言葉があります。
同じ現象に出くわしても、個々により、その解釈は違います。

それはなぜか、というと、、人それぞれ(遺伝・環境・老化・自律神経・内分泌・免疫)であるからです。

自分の体験の解釈に囚われるあまり、辛い思いで生きていらっしゃる方もいます。
それをバネに強くたくましく生活している人もいらっしゃいます。

「生き甲斐の心理学」の勉強会では、難しいことを学ぶわけではありません。

扉を開くと、次にまた扉が見えてきます。でも、これは、私だけが見ている扉であって、他の人に同じ扉が見えているわけではないのです。
その自分にしか見えない扉を自分の手で開くことが、この勉強会の意味するところであると考えています。

他者を知ること。

そして、同じものを見ても、こうも違うとらえ方をするのだ、という感動を得ること、または落ち込むこと、それができて初めて、学ぶ意味が見えてくるのだと思います。

他者を知ること。そこから見えてくる自分の内を見ること。

何ができるというわけではありませんが、一人一人の「個性の美」を繋ぐ役をこれからもやっていきたい、というのが私の願いです。

「ガンジスの砂一粒一粒が宇宙をつくっている、」というヒンドゥーの教えは今も変わらず私を支えている考え方です。

先日、NHKで久しぶりに松岡正剛氏に触れ、ふと思ったことを書きました。


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