Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

6月20日 ライプツィヒで食べた中華ティクアウェィ

2006-06-28 | FIFA World Cup
共にグループリーグの勝ち抜けは決っているが、2試合を消化した時点では得失点差でエクアドルが1位。もしドイツが敗れるか、引分で終わると後の日程が25日シュツッツガルトで1回戦。7月1日ゲルゼンキルシェンで準々決勝、7月5日ミュンヘンで準決勝の日程となる。勝って1位で抜ければ1回戦は6月24日ミュンヘンで、準々決勝は6月30日にベルリンで、準決勝は7月4日ドルトムントとなり、移動距離が少なくなるうえに決勝戦は中五日で1日長く休める。その上、準々決勝がベルリンでの試合となりその分経済効果が上がる。それだけに1位で通過を果たしたいところだろう。スタメンを見てもDFロベルト=フートが、メッツェルダーに替わって起用された以外は全てレギュラーメンバー。メッツェルダーが起用されなかったのはポーランド戦で警告を貰っていたからだろう。しかしポーランド戦で同様に警告を貰っているバラックもスタメン。一方の連続出場のエクアドルは国民的英雄アギナギがメンバーに選出されず若い世代にシフトされ、前大会経験者は8名。しかしテノリオ、デルカドらFW選手に経験者が多い。2連勝で優々と決勝トーナメント進出を決めたが警告者が5名おり、この試合はGKクリスティアン=モラ以外の警告受領者はスタメンを外れ、更に3名を加えた7人の選手が大会初スタメンだ。試合は開始からモチベーションの違いからか、ドイツが主導権を握る。開始4分にはメルデザッカーのスルーを受けたシュヴァインシュタイガーのセンタリングを受けたクローゼがゴールに流し込みあっさりと先制点を挙げる。クローゼは今大会3得点目、前回は5得点だから大会終了後は通算何得点挙げるだろう?その後も前半はドイツがほぼ一方的に押し捲る。18分、シュナイダーのボレーはクロスバーの上、24分またもやシュナイダーのスルーに反応したクローゼのショットはGKモラが抑える。 前半はこのままと思った44分、バラックの芸術的なチップキックのパスを受けてフリーで抜け出たクローゼが追加点を挙げる。この時点でドイツの負けは無くなったと思った。後半エクアドルが3点を挙げるとは考えられないからだ。後半、エクアドルは20歳のFWベニテスをボルハに替えて投入するも序盤からドイツのペース。開始早々、クローゼが惜しいシュートを放つ。彼は一体何点取るのだろう?満員のベルリンオリンピックシュタディオンは1936年の五輪で日本選手も大活躍した競技場だが、この日は地元サポーターのフェスタが続く。しかし、これでドイツはペースダウンをしたのか、50分頃からエクアドルもボールが回り出し、メンデスが惜しいシュートを放つが、57分には逆襲からシュバインシュタイガーからポドルスキーに繋がりそのままゴールイン。完全に勝利圏内に入った。以降、この試合は両チームの試験場と化した。エクアドルはララ、ウルティアが、ドイツはベテラン、ノイビルがクローゼに替わって登場大会初登場、そしてアサモア、ボロウスキーが投入された。数少ないエクアドルサポーターが沸いたのは72分にメンデスのFKがクロスバーのわずか上を通過したくらいで、そのままタイムアップ。1970 年メキシコ大会以来94大会ぶりに1次リーグを3連勝で日程を終えた。大会前はイタリアに 1-4 で敗れるなど不安視されたが本番で結果を出す当りはさすがドイツである。
試合終了後はホテルを出て買い物がてらに街を散策する。散策と言っても中央駅構内がこの近くでは最大のショッピングセンターだ。電気屋まであり、ここでパソコン周辺機器を購入した事もある。構内の書店には海外の新聞も手に入り、朝日新聞や日本経済新聞も午後には同日分が入手可能だ。ただ他の大都市では午前中に手に入るが。イタリアのガゼッタデルスポルティボや英国の TIMES なんかを買い込む。2つ階下にはブティックやファンシーショップ、スポーツ用品店そして名前は忘れたが安いスーパーマーケットがある。このスーパーでミネラルウォーターやビスケットを買う。その1つ階上にはティクアウェィショップが並びマクドナルドや Nord See そして寿司ティクアウェィ店も。だが私のお気に入りはベトナム人が経営する中華(香港風)料理屋だ。最後にここで好物のチャーハンと酢豚を買ってかえる。ライプツィヒは旧共産圏地域なので、街には中国人やベトナム人をよく目にする。さすがに北朝鮮人はいなかったが?ここには共産時代に鹿島建設が建てた Hotel Merker の2階にSAKURAと言う和食レストランがあると昔聞いたが、今はあるのかどうかわからない。ゲーテの愛した Auerbachskeller と言う 元Kuaipe ( 居酒屋 )で今はレストランになっている所が泊まっているホテルのすぐ近くにあるのだが、ここには寄らなかった。本当は家族を連れて来たかったのだが。外はまだずっと明るいので気が付かなかったが時間を潰しているうちに午後9時が迫ってきた。ケルンで行われるイングランド対スウェーデンの試合が始まってしまう。 イングランドは既に2勝をしているが、もしこの試合の敗れたら決勝トーナメント1回戦は地元ドイツと当たる。一方のスウェーデンも敗れればパラグアイ対トリニダードドバゴの結果次第では1次リーグ落ちも。引分でも決勝トーナメントには進出できるが、その場合ドイツと当たる。共に負けたくない試合だ。イングランドはオーウェンとルーニーの2トップ。おいおいエリクソン監督、彼をスタメンで大丈夫かい?トップ下にランパードを置き、ジェラードはスタメンを外れた。ハーグリーブスが中盤の底に起用された。彼はブンデスリーガのバイエルンミュンヘン所属。終盤は7試合連続でスタメン起用されたが、シーズン出場試合数は16に留まった。ここでアピールできるかな?イングランドでプレミアシップ以外に所属するのは彼とベッカムの2人だけだ。スウェーデンはイブラヒモビッチをベンチに置き、ラーション、アルベックの2トップゆっくりと持ち帰りのチャーハンを味わいながらテレビ観戦を。すると開始4分にオーウェンが変な倒れ方をして立ち上がれない。そしてクラウチと交替する事に。翌日の新聞には彼が飛行機に乗って帰国する写真が。今年初めの怪我の回復が危ぶまれていたが何とか大会に間に合いうも彼らしい動きは見せていなかった。これからいよいよと言うときに気の毒な事になった。一方のルーニーだが、少し身体が太めだ。そして汗の量が。やく1ヶ月半、やはり心臓に負荷のかかったトレーニングができていなかったのだろう。この上にオーウェン抜きではイングランドサポーターの心中は察する事は容易だ。それでも先制点はイングランド。ならば俺がとJ.コールが1人で持ち込んで先制点。Kicker誌では Spieler des Spiels ( Man of the Match )。そしてハーフタイム。ところがここで私はソファの上で寝入ってしまい、何度かテレビから流れる歓声に目を覚ましてはうとうとの繰り返し、気がつけばスコアが 2-2 になって、試合が終わっていた。翌日のダイジェストでラーションが終了直前に同点にした事がわかった。カイザースラウテルンではパラグアイが 2-0 でトリニダードドバゴを破り初勝利。初戦のスウェーデン戦を引分けたトリニダードドバゴは結局無得点で帰国する事に。でも勝点1は上げた。この日は試合観戦は無かったが、なんだか疲れが取れたと言う感じのしない1日であった。

6月20日 俺も欲しいなぁ IDカード ハンブルグからライプツィヒへ

2006-06-28 | FIFA World Cup
6月20日。前日、ハンブルグでウクライナ対サウジアラビアを観戦した後に知人のGさん宅にお邪魔し、ざるそば等手作りの夕飯をご馳走になりながらスペイン対チュニジアをテレビ観戦した。スペイン対チュニジア戦はチュニジアが先制し、70分まで 1-0でリードと面白い展開に。このままチュニジアが逃げ切るか引分ければグループHも面白い展開になるのだが、71分に交替出場のラウールが同点ゴールを決めて、尚もフェルナンド=トーレスが79,91分に連続ゴールを挙げスペインがH組の勝ち抜けを決めた。やはりスペイン。1次リーグくらいは勝ち抜く地力はあった。Kicer誌6月19日号にはラウールの特集記事があり、かつてのドイツ代表選手でスペインでもプレーした(バルセロナだけど)“ラウルは他のチームに行くべきだ”とコメントされるなど、2000-01のシーズンに24ゴールを挙げて以来、14,16,11,9,5 とゴール数は減少。その汚名挽回のゴールでもあった。
海外を転々としていると、Gさん宅で頂いたような手作りの和食は非常にありがたく感じる。Gさんは9年前からずっとドイツに在住しておられるが、その前から留学をしたりと頻繁にドイツとは係わりを持っておられる。このワールドカップも非常に楽しみにしておられ、数ヶ月前に大きめのアパートに引っ越され“日本の勝利を祝ってあのテラスで乾杯をしましょう。”と大会前に言ってくださった。しかし、まだ乾杯の機会は。明後日のブラジル戦に賭けるか?ドイツ、特に北部のハンブルグやベートーベンの故郷では音楽留学の邦人学生が多いらしく、ここハンブルグでもその留学生や在留邦人の方達が集りコンサートを行う事も。それが現地人の方達にも定評が高いらしい。またハンブルグ近郊には今は3部リーグにあたる Regional Liga に落ちてしまったが、かつてブンデスリーガ1部にも所属しており、日本の尾崎加寿雄がプレーしていたFCザンクトパウリというチームがある。そのザンクトパウリでパブリックビューイングが毎試合催され6月18日の主役は日本対クロアチアの観戦にこられた現地在留の日本人の方達で” Der SUSHI Sonntag auf St.Pauli 日曜のザンクトパウリでの寿司” と翌日のBild 紙のハンブルグ版に応援に来られた日本人の写真付きで大きく報道された。現地に在留される邦人の方達の為にもブラジル戦は、奮起して欲しいものであった。
ハンブルグから次の移動先ライプツィヒまでは ICE で3時間程度だ。この日は観戦予定が無かった。言わば移動日と休養日?だ。途中停車駅のベルリンではドイツ対エクアドルが行われる。チケットは無いが、競技場近くにいるであろうダフ屋から買おうかとも考えたが、地元ドイツの試合で価格も高くなりそうな上、ドイツ、エクアドル共に決勝トーナメントへの勝ち抜きは決まっていた。もっと近くのハノーバーでも同じくA組のコスタリカ対ポーランドの試合もあったが、これは消化試合。他は午後9時にB組の試合がカイザースラウテルン(トリニダードドバゴvs パラグアイ ) ケルン ( スウェーデン vs イングランド )で行われるが遠いので結局ライプツィヒでテレビ観戦する事にした。 列車は1等車でもほぼ満席。なんとか席を確保する。こういう時、一人旅は便利だ。車中を見回すとプレス様のIDカードを首から掛けた人ばかりだ。“ちぇっ、一般客と違うと言う事を見せびらかせたいのかよ?”と心中でやっかみの舌打ちを。はっきり言うけど、こっちはサッカーこそ未経験だけどスポーツは大学、実業団までやったし、サッカーの知識には自信があるし、外国語だって今の仕事で毎日使っている。英語、ドイツ語くらいならいくらでも話が出来るし、スポーツの文献も読んできたと言う自己中心な自負心がある?俺だって今すぐそっちの世界に飛び込んでもやっていく自信はあるし、今のこんなサラリーマンで安くこき使われる人間じゃないのに…と勝手な過信を心の中で絶叫しながらパソコンのキーを叩く。でも後で知ったのだが、大会のスポンサーになっているDB ( Deutsche Bahn : ドイツ鉄道) はプレス関係には乗車券とICEまでの特急券を無料提供したので報道関係諸氏はこのIDカードを見せるだけでドイツ国内の列車に乗り放題。数ユーロ支払えば座席の指定も受けられるとの事。だから彼らは身分誇示の為でなく車中でもこのIDカードをぶら下げていたのだった。でも羨ましいのは変らない。“軍隊と企業内では上の階級にいかねば意味が全く無い”と言う言葉も思い出した。(関係ないか?) ハンブルグ中央駅に到着すると彼らの8割は下車してしまった。やはりより多くの報道陣が地元ドイツ戦に集るのか、と改めて思った。ライプツィヒは旧東ドイツ都市の中では唯一開催都市に選ばれた街だ。第二次大戦前はドイツの出版物の半分はここライプツィヒで発行され、岩波文庫の手本となったレクラム文庫の出版社や楽譜のベーター社が残っていた。また多くの文化や芸術を生み出した街でもあり、ゲーテ、ライプニッツレッシング、ニーチェらはライプツィヒ大学で学び、森鴎外、滝廉太郎もここに留学した。バッハも半生をここで過ごしシューマンは当地でクララと恋に落ち、ワーグナーはこの町で生まれたという由緒ある都市だ。しかし、東西ドイツ統一後は旧西側に仕事を求めて人口が80万人から55万人に減少、ライプツィヒのあるザクセン州は失業率も17%。まだまだ東西の経済格差は埋まらない様だ。ライプツィヒ中央駅は旧共産圏の名残を残す駅だ。線路が突き抜けられるようになっておらず、ここに入ってきた列車が再出発する時はスイッチバックするようにやって来た方向に逆戻りするようになる。(フランクフルト、ミュンヘン中央駅もそうだが)欧州では最大規模を誇るらしく、線路も26番線まである。また歴史的な建造物が中央駅付近に集中しているので観光も便利だ。この街に2泊したのだが、投宿したとホテルは中央駅前にある Novotel Hotel。翌日ここから約数十メートル離れた Marriot Hotel にアンゴラ代表チームが泊まっていたのが解った。イラン代表は反対方向に数百メートル行った Radisson SAS Hotel に泊まっていたらしい。あぁダエイのサインが欲しかったなぁ。 チェックインしたのが午後2時半少し前。このホテルの空調はセントラルシステムらしく部屋の空調のつまみを上げても全く涼しくならない。窓を開けると、ホテルのすぐ隣の公園では大会期間中毎日イベントが行われるらしく大音響でがんがん掛かっている音楽が室内一杯に響くのでとても開けてられない。フロントに文句を言うが、まったく改善の見込みなし。恐らく旧東ドイツ時代からあったホテルを Accorhotel Groupが買い取って外面を手直ししただけなのであろう。欧州のホテルは暖房設備はしっかしているが、冷房が今一だ。それだけ高温多湿の日本とは異なると言う事だろう。東南アジアのホテルはグレードが高ければ高いほどがんがん冷やしてくる。冷やす事がサービスと思っているようだ。仕事関係のメールを片付けたりするうちに午後4時、ドイツ対エクアドルのキックオフ時間が近づいてきたのでテレビをつけることに。 次に続く

6月19日 ボンからハンブルグへ

2006-06-26 | FIFA World Cup
この日は目覚時計よりも早く目が醒めた。 Sport Park までジョギングをする。前日は走らなかったせいか?それとも気温、湿度が前日より高かったのか?発汗量がすごい。それとも歳かな? 部屋に帰ってシャワーを浴びて帰り支度を始めるが汗が引かない。結局ボン中央駅からICEに乗るまで汗は拭いても拭いても止まらなかった。 この日は北部の港町、ハンブルグに移動だ。 乗り込んだICEは1等でもパソコン用の電源が少ないタイプのもの。それでも何とか電源を使える席を確保する。しかし列車はゆっくりとしか走らない。この日はハノーバーで乗り換えねばならない。そこでも乗り継ぎ時間は8分しかない。この当たりが欧州での長距離列車の泣き所だ。日本の新幹線の様に東京~博多間約1,200km を毎日、何十本ものICEや EURO STAR の2倍以上の営業定員を載せた列車が予定時間通りに運行すること自体が奇跡なのかもしれない。
ハノーバーには20分遅れで到着した。しかし、到着30分遅れの Hamburg Alotona 行きのICEが到着してきたので首尾よくそれに乗り込むことに。この列車は満員でコンパートメントに乗り込んだ。そこには老婦人が2人と男性が。全てドイツ人だが、男性はドイツ中をワールドカップしているという事なので話が弾んだ。カイザースラウテルンでの日豪戦を観戦したそうだ。失点するまでの日本の組織力にはドイツも見習うべきと賞賛。それに彼はバイエルン=ミュンヘンの長年のファンで1974年、 1990年に来日している事やさいたまシティーカップで浦和レッズと Exhibition Match をすることを知っていた。それに奥寺や尾崎、車範根の事も。本当に驚いたが、よく考えれば驚くのは彼の方だった。それらはブンデスリーガのチームに関する事でそれを極東の島国の人間が知っている事が驚になる。 それに昔のワールドカップの事やカイザースラウテルンの競技場名、フィッツ=ヴァルターの事に話が及んだ。そのヴァルター主将が活躍した1954年のワールドカップ、御婦人に“貴方はこの試合をラジオで聴いていたのではないですか?”と訊ねると。“もちろん”との回答。“ Aus, asu, asu. Das Spiel ist aus. Deutcheland ist Weltmeister „ と私が言うと大いに受けた。これはハンガリーとの決勝戦終了にアナウンサーが叫んだ有名なフレーズで、”日本人でも知っているのか?“とご婦人が目を丸くする。
港町ハンブルグには予定より数分はやく到着する事に。中央駅から徒歩5分程度の所にある仕事でいつもお世話になっているGさんのお店に荷物を置かせて頂く。Gさんは当地で8年以上お寿司の持帰り店を営んでおられる。今年に入り更にもう1店舗開設をされた。実はこのワールドカップでは家族での観戦を予定しており、家族ともどもGさん宅にお世話になる予定が、結局私1人となってしまった。そして余ったチケットでGさんと観戦しようと思ったのだがお店が忙しいので、ここの女性従業員のTさんと彼女のポーランド系ドイツ人の彼氏と3人で観戦することにした。Tさん達がお店に来て一行はAOLアリーナを目指す。街中はウクライナのサポーターで一杯だ。第二次世界大戦後、ドイツにいたロシア系ドイツ人の多くがスターリンの指示によってソ連に連れて行かれたが、ソ連邦崩壊後その多くがドイツに帰ってきたらしい。またソ連軍の手を逃れてここに定住を続けたロシア人の多くは地理的な事もありウクライナ系が多いとの事。私としてはアジア代表のサウジアラビアに頑張って欲しいところだ。初戦のチュニジア戦は終了直前に同点ゴールを喫したが、ウクライナと引分ければ決勝トーナメントへチャンスは出て来る。一方のウクライナはここで勝点を上げられないと初戦のスペイン戦を 0-4 と大敗しているので星勘定が苦しくなる。中央駅のUバーンホームに行くとそこでプラカードを持った係員が“赤、黄ゾーンのチケットを持った人はこちら、青、緑ゾーンのチケットを持った人はこちらの列車”と色分けをしている。混雑を避ける為にシャトルバスの発着駅を分けていたのだ。昨シーズンまで高原が所属していた HSV Hamburg の試合がある時はここまでしない。まぁHSVの試合の時は駅から歩く人も多いから。Tさんの彼氏は家族と共にポーランドの KATOWICと言う街からドイツに渡って17年が経つとの事。子供の時からHSVのファンらしい。昨シーズンの成績には満足しているが、バルバレスをレーバークーゼンに放出したのは良くないと。今シーズンから Emirates 航空がスポンサーに付き潤沢な資金が当て込めるが、大金で有力選手を買いあさる事はして欲しくないと。それでも昨シーズンは移籍期限ぎりぎりに Ajax のエース、デ=ユングを引っ張ってきたりと補強には随分と金をかけた。高原の出番は少なかったが。 その彼氏は70年代~80年代初期のポーランドの快進撃を知らない。1974年大会から4大会連続出場。その間3位が2回。他の2回も一次リーグは勝ち抜いている。五輪でも金、銀が1個ずつ。彼は“もう少し早く生まれたかった。今大会、2次リーグには行けると思ったのだが。”と。 バスを降りてまずボディチェックのゲートに向うが歩道から車道に降りられないようにフェンスが張られており遠回りをせねばならない。Tさんには“チケットには名前が明記されているのでなるべくパスポートは見せない様にしてくださいね。”とお願いする。そして彼女から彼氏にも。ボディチェックを抜けて、入場門に向うがここは100m足らずの距離だ。無事に入場完了と思いきや、Tさんの彼氏が入場ゲートで捕まっている。しかもIDカードを手に。どうやら身分証明提示を要求され、チケットに明記された名前と違う事が判ってしまったらしい。彼女が慌てて飛んでいく。しかし、係員は落ち着いて“ No problem. Within 5 minutes he will return“ と優しく我々に応える。そして無事に彼はチケットを片手に還って来た。2人とも安堵の嘆息を漏らす。彼は自分が身分証明の提示を求められた事に少し納得がいかない表情。チケットを見ると手書きで彼の名前が書かれていたものが。元々息子の名前が書かれており、試合終了後は息子への記念にチケットは返してもらう事をお願いしていたのでTさんは”本当にすみません。こんなことになって。“と謝る。しかし、ここは皆無事に入れたので良しとしましょう、と応えた。客席はカテゴリー1だがまたも2階席。しかし前から2列目なので、チェコ対ガーナ戦よりはよく見える。Tさんも彼氏も、良い席をありがとうございますと。 着席後間もなく雨が降って来た。この”AOLアリーナ“は観客席上がすっぽりと屋根に覆われているので降雨が始まってもよく解りづらい。それだけ観客には見やすい競技場だ。 雨だとサウジアラビアには不利だろう。早く雨が止む事を祈るが。 スタンドには青と黄色の2色のウクライナ国旗が至る所で打ち振られる。そしてゴール裏の一角には緑のサウジアラビア国旗を振る集団も。サウジアラビアと言えば厳しいイスラムの戒律だ。街中には宗教警察官がおり、ムスリムでなくても外出女性がアバヤと言う黒いベールで全身を覆われているか?お祈りの時間に商店やレストラン等が閉められているか?厳しく取り締まるらしい。そして宗教上の理由でアルコールは厳禁だ。観光ビザが存在しないので外国人の入国が限られている。従ってこの国の素性を Up Date に知ることは容易ではない。それがサウジアラビアの advantage でもあるらしい。 その雨はすぐに上がり、両国選手の入場を迎える。その直前に1979年のグロリア=ゲイナーの全米No.1 ソング I will survival がかかる。今の両チームの心境を表したナンバーだ。 しかし、初戦のスペイン戦を 0-4 で落としているウクライナの方が緊張する試合であろう。その間隙を突いてサウジは勝点1以上を稼ぎたい所だ。そうすれば12年、3大会ぶりの決勝トーナメント進出が見えてくる。ウクライナはスペイン戦の先発メンバーから5人を替えてきた。4バックの最終ラインは左サイドのネスマチュニー以外は全て替えて、ティモシチュク、フシンのスペイン戦では中盤で起用された選手を最終ラインに配備。2トップこそ、ボロニン、シェフチェンコは替わらないが中盤は総換えであった。70年代から80年代中ごろにかけてソ連代表の中心選手であった俊足”100m 10秒台“ 1978年にはソ連代表として来日経験もある元ウィング、オレグ=ブローヒン監督は超攻撃的な布陣を敷いて来た。一方のブラジル人パケータ監督率いるサウジアラビアは、チュニジア戦のアル=カフタニの1トップから、MF登録のアミーンを入れて2トップに。そしてトップ下にはヌールを置いて、ベテラン、アル=テミヤトをベンチに置いた。そしてベテラン、サミ=アル・ジャバーはこの日もベンチだ。サウジアラビアは全てが国内リーグに所属する選手。昨年度、AFC Champions League で優勝したアル=イテハドから7人、アル=ヒラルから9人は選出されているが、FWを外国人選手に頼るアル=イテハドからは守備の選手が多く、攻撃の選手はアル=ヒラルが多い。何とか先制点を挙げて、逃げ切って欲しいと願う。 つづく

6月19日 Ukuraina girl really knock me out

2006-06-26 | FIFA World Cup
しかし先制点はあっさりとウクライナが。開始4分。バックパスの処理をGKザイードが誤りCKに。そのCKからこの試合から起用されたDFルソルが押し込んであっさりと先制点を挙げた。サウジ選手の足が地につかないうちにと言う表現は高校野球的か?さらに7分にはロビングをGKザイードがキャッチせずにパンチで弾きそのこぼれ球を拾ったボロニンがシュート。11分にはフシェフのドリブルからCKを得る。そこから3連続CKのチャンスを掴むが最後はアジズがクリアー。17分はスルーが出るがシェフチェンコに合わない。21分にもシェフチェンコからボロニンへのパスでシュートが飛ぶがいずれもとくてんには結びつかない。シェフチェンコはこの試合も少し身体の切れが悪く動きが遅い。なんとか彼の調子が出ないうちにサウジは同点に追いつきたい。しかし、サウジの選手は足を取られて上手くボールが処理できない。降雨の試合はサウジ向きでは無い。23分にはウクライナのネスマチュニーが警告を受ける。かれらもスペインに4点差をつけられているのでこの試合では大量得点が必要だ。その焦りを利用したいところだが、36分レブロフのミドルがサウジゴールに突き刺さり追加点が入る。サウジアラビアGKのMabrouk Zaid は昨年の FIFA World Club Championship にアジア王者アル=イテハドの一員として来日している。2年前中国で開催されたアジアカップではMansour Al Naje , Tariq Al Hargan に次いでの第三GKに甘んじ出場の機会はなかった。そして同年末に行われたAsia Champions League の決勝戦は負傷で欠場。チームの優勝をピッチで味わえなかった。昨年は代表の正GKとしてゴールを守りワールドカップ予選では出場した6試合では1ゴールしか許さず、韓国を抑えてグループ首位で4大会連続ワールドカップ本戦出場を決める原動力となり今年の AFC最優秀選手に同僚のDF 選手Hama Al Montashariと共にノミネートされた。他にもサウジアラビア代表には アルイテハドからはDF で主将を務めるMohammed Noor らがおり中盤以降の守備力の安定度はワールドカップ予選では秀でていたが、世界レベルでは対応が無理か?以降もウクライナの早い攻撃に守備陣が翻弄され防戦一方だ。41分、43分、44分、に立て続けにシェフチェンコらにあわやというシュートを撃たれるがDFのブロックなどで何とか失点を許さない。何とかこのままと思う後半。開始早々40秒にカリニチェンコのクロスにシェフチェンコが頭で合わせて3点目が入ってしまった。6割以上はウクライナサポーターで埋まった観客席から大歓声が。ブロヒン監督が最も待っていたエースの復活ゴールだ。“アジア代表のサウジアラビア、もっと頑張ってほしいですね。”とTさんが。彼氏もあまり大喜びと言う訳ではない様だ。このあたりがポーランドと旧ソ連邦の政治的な関係があるか?その直後、スルーパスを受けたアル=カフタニがシュートを放つが惜しくも外れる。サウジアラビアが初めて見せたチャンスであった。するとスクリーンにはエース、アル=ジャバーが映し出される。彼の出番は無いのかな?7分にはまたもやウクライナが波状攻撃。グゼフがリバウンドを連続でショートを放つ。Kicker誌には Husev となっていた。おそらく GとHのミスプリントだろう。この試合はDF登録ながらよく攻撃参加していた。55分、サウジベンチが動く。アル=ハスラン、マースをドゥヒ、アミーンに替わって投入した。ハスランはDFだがマースはFW選手。4バックから3バックにし、その代わりFWの枚数を1枚増やした。この前線でよく動くマースに56分、59分、61分と連続してスルーが通る。そして63分にはCKからアジズがシュートを放つがGKショフコフスキがセーブ。そしてサウジの連続攻撃を見せた時間帯もここまで。後はまたウクライナの攻撃が続く。64分にはカリニチェンコのミドルがクロスバーを直撃。68分にはティモシチェクのロブをシャフチェンコが狙うがGKがブロック。そのこぼれ球を拾ったシェフチェンコをサウジDFが3人がかりでやっと止める。71分、ウクライナはMFロタンがレブロフに替わって投入されるが共に名門ディナモ=キエフの選手。今大会は9名の選手がディナモ=キエフから選出されている。シェフチェンコにしても元々はディナモ=キエフでプレーしていた。その直後にサウジのマースが惜しいシュートをペナルティ=エリアの外から放つ。そして76分。ついにサウジアラビアのエース、アル=ジャバーがピッチに入る。サウジサポーターが大きく湧き上がる。何とか彼に得点をと祈るが。78分にはボロニンに替わってフシンが投入され、ウクライナは守備堅めに入ったか?スクリーンにはブロヒン監督がソ連代表としてワールドカップで2得点挙げた事が紹介される文章が映し出される。82年大会のニュージーランド戦と86年大会のカナダ戦だ。そして84分。シェフチェンコのドリブルから最後はこの試合の Man of the Match に選ばれたカリニチェンコが右足で決めて4点目。これで初戦、スペイン戦の負債を返す事になった。その直後に御役目御免とシェフチェンコがミレフスキと交替してピッチを後に、大歓声に送られ、かれも観衆に諸手をあげて応える。そしてタイムアップ。スタジアム内はウクラァイナァ! ウクラァイナァ!の歓声がひときわ大きく鳴り響く。周囲にも美人で有名な Ukraine Girls 達が旗を打ち振り大喜びだ。ソ連時代はダサエフやヤシン(古いか?)のロシア共和国選手もいたが80年代の全盛期の中心選手はディナモ=キエフ所属の選手と数人のコーカサス地方からの選手。そして名称で故人となったロバノフスキー氏はディナモ=キエフを指揮するウクライナ人であった。それでも当時はロシア人選手がその出自を鼻にかけていたらしい。その当時から“ウクライナこそサッカー大国。我々はウクライナだけで選手を組める”と豪語していた人もいた。連邦崩壊後、ロシア共和国が2回出場しているが1次リーグで敗退している。ウクライナは今大会はスペインと共に決勝トーナメントに進出で来たがそれは旧ソ連邦の共和国では初めての快挙だ。 
一方のアジアの雄サウジアラビア、国の事情からあまり遠征して試合が出来ない事がこの試合でも現れた。たまに海外に出てもそれがガルフ=カップ等同じ西アジア地域での大会の上、その大会で成績が振るわないと監督が更迭される。今回はワールドカップ予選突破の立役者アルゼンチン国籍のカルデロン氏をその西アジア大会での成績不振で解任された。その影響が出ているのではないか? 。そんな話を帰りのSバーンの中でTさんの彼氏と話をした。共産時代もそう言う事はしょっちゅうあっただろう。しかし、物心付いたときにはドイツに移って来た彼は多分そういうことは目の当りにしていないだろう。 シュート数はウクライナが19に対してサウジは6本。そして枠に飛んだシュート数ではウクライナが9に対してサウジアラビアは1本も無かった。本当に完敗であったアジアの出場枠はどうなるのだろう?黄色のウクライナ代表レプリカを着て、笑顔で話している人々を見てそう考えた。 次はライプツィヒでイラン対アンゴラだ。 アジア勢の健闘を祈るよ……

戦い済んで.....

2006-06-25 | FIFA World Cup
6月24日 九日間に渡るワールドカップ観戦旅行から香港経由でかえってまいりました。試合観戦等の報告は6月18日のクロアチア戦で止まっていますが、以降4日間、3試合の模様はこれから順次お伝えします。 ご期待下さい?(誰も期待していないか?) あぁ疲れた。日本が決勝トーナメントに進めなかった空しさは残るけど、でも楽しかった。明日から仕事か.....

6月18日  クロアチア戦を終えて数十年間の思いは

2006-06-23 | FIFA World Cup
後方に日の丸の鉢巻を巻いて熱心に日本を応援してくれる女性1人と男性2人のドイツ人がいる。みな地元のニュルンベルグ在住との事。先日レーバークーゼンで行われたドイツと日本の試合をみて感激したらしい。日本のサッカーは素晴らしいと言ってくれたが今日は彼らにも応えられるだけの内容ではない。後半は必ずチャンスがあるから、と反対に私を力づけてくれる。さて後半の開始。日本は福西に替わって前大会で2得点を挙げた稲本が投入された。攻撃力をアップさせる狙いだろう。しかし開始41秒で稲本がプルソを後ろから押してゴール前でFKを献上する。そのFKは左からであったがここでもスルナが担当。壁に当たって事なきを得る。スルナはウクライナのシャフタール所属。大会後は西側のクラブにスカウトされるのではないか?51分日本は、この試合以降何度も放送局が映し出しているであろう絶好のチャンスを逸した。中村からサイドバックの加地にボールが出され、絶好のセンタリングが入りゴール前5mのところでフリーでそれを受けた柳澤のシュートはゴール右に外れていった。そのまま押し込めば入っただろうに。GKプレディゴサが最も緊張した瞬間ではないか?翌日の Sports Bild 紙にリトバルスキーが寄せたコメントでは “ Den hätte Rudi Völler mit dem Gipsbein reingmenacht ( ルディ=フェラーならギプスをしてても決められただろう) „ と解説された。その直後、今度はこぼれ球をクラスニッチがシュート、ジャストミートしないものの川口が必死のセーブで逃れる。更にその後、日本DF陣の連携ミスからボールを奪われ最後はクルニツァールにフリーで撃たれたが外してくれた。柳澤のチャンスを逸した後はまたひやひやするばんだ。そのクルニツァール、今度はボールを加地に取られて、その加地を後ろから引き倒すがカードは出ない。彼は国内リーグのハイデゥク=スピリット所属。大会後西側のクラブに移籍するだろう。隣のクロアチア人は彼のレプリカを着ているがディナモ=ザグレブのサポーターらしい。かつてプロシネツキとKAZUが共にプレーしていた事など当然知っている。1993年、私の好きな Steaua Bucuresiti が1993-94 の Champions League で当時クロアチア=ザグレブと呼ばれていたチームが激戦を演じた事を話すと” Oh!! You Journalist !? „ と言ってくれた。今回話題になった、ブラジルからの帰化人選手で国内リーグ最優秀選手のダ・シルバの落選に就いては”彼は元々クロアチア人ではなから“とこだわってはいなかった。70分ゴール正面でFKを得る。日本サポーターは久々に”中村、中村“と連呼し大喜び。しかし、中村のFKはクロスバーを越えてしまう。後で知ったが中村は39度の高熱があったらしい。この試合前に発熱したことは彼自身が一番悔しい思いをしたであろう。体調万全なら決められていたか?すうると二人目の交替選手が。玉田がタッチラインに立っている。交替するのは柳澤。出来れば攻撃の枚数を増やすべく、FWは残して欲しかったが、まだリスクを犯す時間ではなさそうだ。”私はグランパスのサポーターなんです。玉田の出番を待っていました“と隣の日本人男性が。”アジアカップで見せてくれたようなプレーをして欲しいですね。“と私が答える。前線でいい飛び出しをして欲しい。だがその直後、プルソがハーフィウェーライン付近からドリブルでシュートにまで持ち込まれる。プルソは中村と同じスコットランドプレミアでプレーしセルティックのライバルレンジャースに所属。彼の様に1人で何とかできる選手が欲しいものだ。69分オリッチがトゥードゥルに替わって投入される。トゥードルはフランス大会から代表に選ばれているセリエAのシエナ所属のMFだ。一方のオリッチは全ソ連リーグ時代からの名門CSKAモスクワ所属のFW。前線もう中盤を省略して前線の数を増やしてきた。しかし、クロアチアは運動量が激減し出した。今度はそこを日本が突く番だ。75分には中村がいいクロスを入れるがこれまた良い飛び出しを見せた小笠原に当たらない。その2分後には中村が左からペナルティーエリア内に侵入。フリーになりゴールに迫るが、右から飛び出した高原にボールを出しそのボールがクロアチアDFにカットされた。俊輔ここは撃って欲しかったぞ。”シュート撃ってください!!“ 後方の女の子が絶叫する。そしてここでついにクルニツァールが下がりモドリッチが入る。ディナモ=ザグレブ所属のワールドカップ予選には1試合も出場していないがズラトコ=クルニツァール監督に抜擢された選手だ。だがその選手を自分の息子ニコと入れ替えるとは心中はそうだったのだろう?この時間からクロアチアは後方からゴール前にロビングをどんどん入れてくるが誰も触れない。クロアチアサポーターからは批判の声が飛ぶ。たまにシュートを放つが我々をはっとさせた前半のものとは程遠い。84分、日本は3人目交代選手大黒が高原に替わって入る。これで日本は2トップが入れ替わった事に。玉田と2人で足の止まったクロアチアDF間を駆け巡って欲しい。サポーターからも大黒コールが連呼される。 女の子からは“勝つんでしょ~っっ”と悲痛な祈りが。クロアチアも85分にスルナに替わってこれまたディナモ=ザグレブのFWボスニャックを投入する。モドリッチ、ボスニャック、プルソ、クラスニッチとクロアチはFW登録の選手が4人ピッチにいる。日本がそれを出来ないのは初戦で3失点しているからか?しかしここは勝点3が必要なのだけれど。三都主がゴール前に入れるが前に人がいない。そしてCKにはついに中澤が上がってくる。中澤は高さでクロアチアDFに競り勝つがボールはクロスバーの上。ピッチ上には警備員が配置された。もう時間が無い証拠だ。ロスタイムが3分と表示される。まだチャンスはある。しかしクロアチアも必死だ。彼らとて引分は負けに等しい。我々もクロアチアサポーターも立ち上がって声援を送る。しかし無情のホイッスルが。ピッチ上の気温は何度だろう?両チームの多くの選手達が精根尽きたと仰向けに倒れる。スクリーンには出中田英がこの試合の Man of the Matchに選出された事を映し出すがそれが虚しく感じる。呆然とピッチを眺めていると隣のクロアチア人の方から“写真を撮ろう”と声を掛けてくれた。写真を撮ってお互い両手で“ Good Luck „ と声を掛けて抱擁し別れる。反対隣の日本人男性は”私はブラジル戦のチケットはあるので彼らを信じて応援します。“と”私もチケットを何とか入手してドルトムントに行きます“と再会を誓って握手をして別れた。スタンドを離れて、日本の友人に電話を入れる。まだ可能性はあるけどこの後のブラジル対オーストラリア戦次第だねと彼は言う。スーベニアショップは日本人で溢れていた。日本円にして10万円近く現金で買い物をした男性も。これには店員のおねぇさんも”彼はクラブチームを持っているのか?“と驚いていた。駅までの道中、名残惜しそうに記念撮影をする人やクロアチアサポーターとユニフォームを交換する人も。帰りは中央駅までの電車もスムーズに乗れて車中も混雑しなかった。中央駅ではICEの到着時刻や到着ホームの変更をドイツ語、英語に続いて日本語、クロアチア語でアナウンスされる。 中央駅ではタイからの男女2人ずつのグループが。そのうちの男性1人は流暢な英語を話すので会話が出来た。来年のアジアカップではよろしくお願いしますよと。タイの女の子は小柄でそれでいてスタイルもよくとても可愛らしい。彼らだって自国の代表がアジア予選を勝ち抜きワールドカップでプレーする代表を生観戦する事を願っているだろう。車中には多くの日本人が。そして試合をと言うよりも代表を振り返る。たしかに贔屓チームにはいつも勝って欲しい。自分が競技場に観戦していれば尚更だ。しかし何十年も日本代表が五輪を含めてアジアの壁を突破できなかった時、それ以上に話題にもならなかった時から見ているものに取っては”まだこんなものなのだろう“と思えてしまう。何しろ誰からもサッカーが知られなかった時代はつい15~16年しか経っていない。ICEの中でパソコンのキーを叩いているとミュンヘンで行われたブラジル対オーストラリアは 2-0 でブラジルの勝利を告げると思われるアナウンスがドイツ語のみで流れる。近くのご婦人に確認したらその通りであった。その近くにいた日本人女の子2人組みに教えると”ブラジルには5点くらい入れて欲しかったですね“と。ブラジルの2点目はロスタイムに入ったゴールであったとは後に解った。これが幸運に繋がれば良いのだけれど。 Köln 中央駅で乗り換えた時、別の日本人の女の子二人連れから”韓国対フランスは 1-0 でフランスがリード“と教えてもらった。 至る所で日本人がいるが、こういう時はワールドカップを楽しむと言う共通の目的があるので話しかけられたり、かけたりしても違和感は無い。 やはりアジアは厳しいか?と思う。しかしホテルに帰ってFIFAのサイトを覗くといきなり朴智星の顔写真が右上に。 The Latest Goal として紹介されている。さらに検索すると81分に朴智星のゴールで韓国はフランスと引分けたのだ。これで韓国は決勝トーナメント進出を大きく引き寄せる事に。一方のフランスはジダンが累積警告で次のトーゴ戦は出場出来ない。フランスのゴール自身前回は無得点だったので2大会ぶりだ。フランスが1次リーグ敗退の可能性も出て来た。それとともに、クロアチア戦で逸したゴールチャンスがたまらなく惜しく感じると共に、韓国が羨ましく思えてきた。4年前の様に...... 明日はハンブルグに移動だ。

6月18日 クロアチア戦 神様 仏様 川口様

2006-06-21 | FIFA World Cup
両国の選手達が入場してくる直前、隣の空席に日本人男性が文字通り滑り込んで来た。前日私が入場券を買った時に見せられた2枚の席のもう1つの方の席だ。後で訊いたらこの競技場の前で手に入れたとの事。昨日の事を話したら“良かった、貴方がこちらを買ってくれてて。もしペアの人が買っていたらここは空いていませんでした。”と言ってくれた。しかし、後ろの列は4席連続空席でとうとう最後まで誰も来なかった。そして私の隣から3席と前列の3席はクロアチアからのサポーターだ。そしていつものテーマ音楽がかかり国旗に続いて選手達が入場してくるみな一斉に立ち上がってひときわ高い歓声を送る。そして国歌演奏は君が代からだ。かつて日本で代表Aマッチが行われても国歌演奏は無かった。左翼連中や日教組の奴らに気兼ねしたのか?1989年ソウルで開催された日韓定期戦でさえ君が代は演奏されたが、その数ヵ月後、東京国立競技場で行われた北朝鮮とのワールドカップ予選では両国歌の演奏はされなかった。 そんな思いが去来しつつも君が代を私も絶叫する。よくぞここまで、この日がやってきた。長い間待っていた日がついに来たのだ。続いてクロアチア国歌がかかる、隣や前列のクロアチア人が国歌を斉唱する。彼らもこの国歌を歌えるようになったのは15年程度前からだ。チトー大統領の死後、徐々に民族単位のアイデンティティが確立され、ソ連崩壊をきっかけに一民族一国歌の大きな潮流が起きついにユーゴスラビア連邦が崩壊しその惨劇は誰にも収拾がつけられなかった。 この日も国歌演奏が終わるたびにお互いの国家を尊重すべく拍手が沸き起こる。隣のクロアチア人達から握手を求められる。 Wir haben uns gutes spiele !! と声を掛けた。すると突然携帯電話が鳴った。もう寝たと思っていた子供からだ“パパ、どこにいるの?どこに座っているの?”と、本当は4年前から子供と来るつもりであった。しかし直前になってやっぱり行かないと。理由は“幼過ぎた”のだ。小学校5年生はまだ母親から離れては無理だった。しかし、この電話後強烈に思った。無理矢理にでも連れて来るべきだったと。そうすればここに親子で居れたのにと。4年後は中学生。もう親と旅行に行く年ではない。ならば一人旅をさせるか?と考えた。
前日のケルンでの試合もそうだったが、スクリーンに、この日のメンバーが映し出されない。日韓大会の時はほぼ恒久的にメンバーが写され続けたので誰がどういうプレーをしたのか非常に解りやすかったのだが。日本は報道通りに4バック。中盤には小笠原が。2トップは高原、柳沢と豪州戦と同じ。トップ下には中村俊輔、そして右の中盤には中田英寿。一方のクロアチア、噂ではニコ=コバチは怪我で出場が危ぶまれたがしっかりとスタメンに。2トップはプルソ、クラスニッチそしてトップ下にはニコ=クルニツァール。システムもいつもの 3-4-1-2 だがスルナが結構上がってくる。これは守備に不安がある三都主を突く考えだろう。クルニツァールもだいぶ身体が絞れて来たみたいだ。試合は開始からクロアチアが押してくる。前日クロアチアのクラニツァール監督は“最初から高さで押す”と報道陣に答えていたらしい。開始3分早くもニコ=コバチのミドルが飛ぶが川口の正面。その直後もコーナーからクラスニッチに渡るがここは三都主が対処。その後も左サイドから連続してスルナのロングスローが入るが、中澤そして中田英がクリアー。7分にはまた左サイドを突かれるが加地をはじめ3人が囲い込んでボールを奪い中村に。中村がドリブルで前線に持ち込む。その間に加地が右サイドを疾走し中村からボールを受け中に入れるが高原には繋がらなかった。どうしてもクロアチアのパワーに押され気味で前線に人数が掛けられない。その直後も攻め込まれるが今度は福西がナイスディフェンス。この日も中田は守備で貢献する。しかし、平均身長で8cm上回るクロアチははどんどんハイクロスを入れてきてそのこぼれ球も拾うので日本はコーナーに逃げるなど防戦一方だ。特に日本の左サイドを突いてくる。CKやスローインはスルナが担当。特にロングスローは良い所に投げてくる。19分にはクラスニッチが合わせ損なってくれたが完全に1点ものだった。日本の選手達は疲れが残っているのか動きが硬いそして後手を踏んでいる様だ。そして22分、左からプルショが宮本を交わしてペナルティーエリアにフリーで侵入するところをやや後方から入った宮本のタックルでプルショが転倒。ベルギー人ブレックラー主審はすぐにペナルティースポットを指し、宮本にはイエローカードを。国旗を打ち振り躍り上がって喜ぶクロアチアサポーター達。一方我が日本サポーターは表情が凍て付く、そして声も出ない。“クロアチア!クロアチア!”との叫び声を耳にしながら彼らの打ち振る旗のかげから祈るように。“夢であってくれ”と思いながら、プルソがボールをセットするのを目で追う。アジアカップでは神がかり的なセーブを連発してくれたが...“さぁ川口”と思った瞬間川口がそのショットをゴール左ポストに弾き出した。声が出なかった我々サポーターは一斉に歓喜の絶叫を上げる。“ナイスキー!ナイスキー!ナイスキー!ナイスキー!!川口ナイスキーパー!!”と私も連呼する。隣の日本人男性とも抱き合う。涙ぐんでいる女の子も。対照的にクロアチアのサポーターは沈黙してしまう。だがこの後のCKに気を取り直す。オーストラリア戦でもそうだった。そして案の定?CKからライナーのシュートが飛ぶがサイドネットを直撃。“危ない。あぶなぁぁぁぁ。”と胸をなでおろす。スタンドのあちこちでは“ヨシカツ”コールが湧き上がる。これで一気呵成に日本攻撃陣が生き返って欲しいが、目の前ではクロアチアのCKやスローインが続く。クラスニッチはヘディングで完全に三都主に競り勝つがボールがかぶったりして幸運にもシュートに至らない。 25分には久し振りにクラアチア陣内に攻め込み三都主がミドルを放つが枠は捕らえられない。直接狙う距離ではなさそうであったが、相手DFを前に出す為にはミドルも必要だろう。しかしその直後もクルニツァールのミドルはポストを直撃する。まだ幸運は残っているのか?隣のクロアチアは自分のレプリカを指差す。クルニツァールと同じ19番だ。この時間になると日本も徐々にクロアチア陣内でプレーをする様に。28分には逆襲から最後は小笠原が上げるが、サイドに逃げられてスローイン。そして今度は高原がボールを受け得意の横の動きからシュートを放つが相手DFに当たってGKに。そして中村からスルーが小笠原に渡り、はなったミドルはGKの正面に。この時間帯からようやく両サイドが前線に出ることが出来てパスコースが広がる。30分には柳澤がファールを受けてゴール前正面の絶好の位置でFKを得た。しかし中村が蹴ったショットは壁に入った三都主の臀部に当たった。三都主がいなければゴール枠に飛んだと思われる。中村は思わず苦笑い。この大会は早い時間での得点が多いがそれは公式球が良く飛び、よく曲がる為だといわれている。従って中村にはCKからでも直接狙ってほしいのだが。 日本もようやく落ち着きをと思われた33分頃、加地のバックパスを川口が処理しそこねてCKにしてしまった。確かにすこしイレギュラーをしたのだが。そのCKは川口がしっかりとキャッチした。しかし、日本もいい展開は続ける。中村から加地に展開してチャンスを造るなど、加地のサイド攻撃は効果的だった。35分には加地からボールを受けた中村のパスから中田が見事なミドルを放つがGKプレティゴサも必死のセーブでコーナーに逃げる。その直後今度は日本がボールを奪われシュートを撃たれるが川口がセーブ。そのボールを奪われた宮本に何やら川口が言い寄る。すると主審は遅延行為とみなし警告を川口に。宮本は既に先程2枚目の警告を受けて次のブラジル戦は出られないが今、宮本はそんなことは考えていないだろう。42分CKからプルソがドンピシャのタイミングでヘッドを撃たれるが、クロスバーの上。オーストラリア戦では身長差をあまり感じなかったがここではそれが痛切に感じる。ここがオーストラリアとの技術の違いか?だが技術と言えば中村は2人、3人に囲まれてもボールをキープ出来る。しかし、日本ゴール前でなくその技術は相手ゴール前でも発揮できる展開をしてほしいのだが。 結局ロスタイム1分を含めて両軍得点は入らずハーフタイムに。それにしてもわくわくよりもひやひやする前半だった。 ベンチの戻る川口に声が飛ぶ私も“川口~!! ナイスキーパー!!“ と叫ぶ。 後半は”ナイスシューッッッッッッッッ!! “ と我々を湧かせて欲しいものだ。  後半に続く

6月18日 ニュールンベルグへ

2006-06-21 | FIFA World Cup
6月18日。目が醒めたときは既に8時半。確かに昨夜は7時前に時計をセットしたはずなのだが。大慌てで洗面を済ませて着替え、フロントにタクシーの手配をする。5分後にタクシーは来るとの事。大切なチケットや身の回りの準備を済ませてフロンとに降りるともうタクシーが来ていた。中央駅までは日曜日と言う事もあり約5分足らずで到着。そして文字通り電車に滑り込んだ。同じ電車には日本人の二人連れがいて“チケット余っていませんか?”と訊かれたが“自分の分しかないけど私も昨日のガーナ対チェコ戦の前に競技場の近くで手に入れたのでまだまだチャンスはあるはずですよ。”と言った。彼らも勇気付けられた様子であった。列車が Köln Messe / Deuz 駅に着く。ケルンはハノーバー、デュッセルドルフ、ハンブルグと並んで国際見本市が開催される都市で有名だ。私も9年前ここで開催された国際見本市に出展者としれ参加した事がある。しかし、その時勤めていた会社の課長は死ぬほど嫌な奴でこの展示会は良い思い出はない。その翌年、石持て追われる様にその会社を辞めたが、その数年後辞めた会社は廃業し、人生最高の痛快な思いをした。今日のクロアチア戦ではそれ以上の痛快感を味わいたいものだ。Köln Messe / Deuz 駅ではニュルンベルグ行きのICEが車で30分弱あるので、ここのKIOSKで車内にて食べる朝飯や新聞を買い込もうとKIOSKに向う。10人ほどの青い代表のレプリカを着た日本人の方達がここにも。日本戦があるんだなぁとこちらも再確認をさせられる。プラットホームに出るとすぐ近くに黒い上下のブレザーを着た5~6人程度の一団が。胸にはFIFAのマークが入っている。何やらスペイン語と英語とちゃんぽんで話をしている。近くに寄って聞き耳を立てるわけにもいかないので遠巻きに見る事に。外国語を使って仕事をする身には彼らは羨ましい存在だ。会社で売り上げやノルマに追われるよりこういう仕事に就きたいものだ。ドイツ鉄道自慢のICEが約5分遅れて到着した。日本の新幹線が5分遅れると何度もお詫びのアナウンスが入るがここでは2~3回程度アナウンスがあり、後は掲示板に出るだけだ。だがICEやIC ( Inter City ) EC ( Euro City ) の様に国境を越えて欧州大陸を走る列車の発着は英語のアナウンスが入る。列車に乗り込むとさすがに Ersta Class 空席が多い。いつも欧州を旅するときは Rail Pass を準備する。今回はドイツ国内1等車を8日数分乗り放題の330ユーロコースだ。列車がニュルンベルグに近づくにつれて日本人乗客も増えて来る。 そして車内を見渡すとブラジル、オーストラリアのサポーター達も。彼らは18:00からミュンヘンで行われる試合観戦に行くのだ。クロアチアのレプリカを着ている人も。この列車には呉越同舟よろしくF組全ての国からの人が乗車している。オーストラリアは商用でよく訪れる国だ。彼らと色々歓談が弾む。異口同音に“今日は是非クロアチアに勝ってくれ”と言う。それが彼らにとっても都合の良い星勘定にもなる。
すぐ近くの親子二人連れの荷物にスコットランドの旗が貼られていた。そこからの親子だ。父親は Rangers のファンだが中村は wonderful と言ってくれた。スコットランドはここ2大会ワールドカップにはご無沙汰だ。かつては5大会連続で本大会に出場し、しかも1974、1978年大会は英国4協会でスコットランドだけが出場を果たした実績がある。しかし彼は“最近は若い良い選手が出て来たので、これからは期待できる。”と言っていた。このワールドカップ予選もベルティ=フォックツ監督が指揮したが3試合で解任。後任のウォルター=スミス監督が何とかベテランも起用しチームを立て直したが、イタリア、ノルウェーの後塵を拝した。こうして乗客と話したり、パソコンのキーを叩いたりしているうちに列車は目的地のニュルンベルグ中央駅に到着した。天気は良いが気温も上がりそうだ。プラットフォームにいる9割以上は日本かクロアチアのサポーターだ。ここでローカル電車に乗り換えるのだが、クロアチアサポーター達は様々な応援かを絶叫し気勢が上がっている。一方の日本人はお行儀よろしく乗り換えホームに向うが、決った応援歌がないのも本音だ。列車はすし詰めとまではいかないが満員だ。しかし、日本のサラリーマンが慣れている通勤ラッシュと比べると物の数にも入らない。だが空調が効いていない暑さと欧州人独特の体臭には閉口した。約10分足らずゆっくりと列車は走り、Franken Stadion 駅に到着した。駅構内の通路を抜けて外に出ると日差しが眩しい。今から選手達のコンディションが心配になる。競技場に入る前に、翌日ハンブルグで観戦予定のウクライナ対サウジアラビアのチケットをピックアップしにチケットセンターを探すがこれが入場門から数百メートル離れているが明日試合直前にじたばたするよりも今時間のある時にとそこに向う。日本人の中には相撲取りや侍の格好をした人や着物を着た女性客、そして今流行の?メイド系のコスチューム(もちろん代表のユニフォームは着ている)の人も。一方のクロアチアはあまり特別なコスチュームは無いが、ナイスバディの女性サポーターがへそだしや脚線美を出して闊歩する姿は良く目立つ。チケットセンターではボランティアの人達が親切に応対してくれて、チケットの発券もスムーズであった。ここの仕事は大変ではないですか?と訊ねると“ドイツ戦の行われる会場よりかは楽でしょう、と言っていた。4年前の時はチケットセンターで余ったチケットが売り出されるというデマが流れて多くの人が押しかけ、一部の心無い人間が暴れて窓ガラスを割った事件があった。また、当時私が東京国際フォーラムで発券をして貰っていると、どうしてもチケットを買いたいとそこを動かない男性もいた。しかし、本当に隔世の思いだ。わずか16年前、誰がワールドカップの存在を知っていただろう?サッカー観戦をしようと思った女性が100人中1人でもいたかな?まぁ当時はサッカーだけでなく、スポーツに打ち込む男性を愚かなバカと思っていた女性が跋扈していた。それら全てを覆したのがJリーグだ。これで一気にスポーツの地位が急上昇したのだ。しかし残念ながらその時、私はもうスポーツの現役をとうに引退していた。ボディチェックをするときの携帯品検査で持っていたラップトップコンピューターが引っ掛かった。旅客機に乗るときもPCだけは必ず取り出してX線を通される。たかだか私のPCがテロ行為に繋がる訳では無いがここは指示に従い、すぐ横の手荷物一時預かり所に預ける事に。そして競技場敷地内に入り、スタジアムを目指す。途中で馬に乗った警官を目にする。その警官と馬と記念撮影をする日本人も。スタジアムの入り口まではケルンの Energen Stadion よりも距離がある。ようやく入場ゲートに着きチケットを通す。良かったお咎め無しだ。 しかしスタジアムでは既にスタメン発表が始まっていた。席に着く前にコーラを買っていると、ばったりとNさんと出合った。お互いに再会を喜ぶ”私の席はフィールドが良く見える良い席でした。そちらはどうですか?“と訊ねられた。まだ着席していないのでと言うと”そうですか。今日は私も死ぬ気で応援します。頑張りましょう。“と言葉を残しでスタンドに消えていった。本当に結果を今日のこの日に出して欲しいと願う。そして席に向う。1階席でゴールのやや左後方だ。2階席が上にせり出しているがピッチは良く見える。そしてそれが良い日よけになる。しかし、ピッチは完全に日よけが無い。オーストラリア戦の悪夢がよぎる。競技場内には色々な音楽が流れているが、キリンビールのCFで使われているおなじみの音楽が流れてくると日本サポーターはいっせいにその音楽にあわせて歌い、そして両手を左右に振って踊り出す人も。よく考えれば代表の試合を見るのは11年ぶりだ。もう日本国内では入場券がなかなか手に入らなくなった。そしてスクリーンの両国選手が入場を待っているシーンが映し出される。いよいよだ。頼むぞ。両国サポーターが一斉に立ち上がり自国の選手達の入場を迎える。自分自身、32年来の夢が叶った瞬間だった。 続く

6月17日 ケルンにて燃えるガーナ真っ赤なチェコ

2006-06-20 | FIFA World Cup
ようやく着席をしたがカテゴリー1なのに2階席の上の方だ。確かに全体が見やすいが現場観戦の迫力には少し欠ける。しかしNさんは“全体が見易くていい席ですよ。ありがとうございます。”と喜んでくれた。スタジアム内ではやはりチェコのユニフォーム赤色が目立つ。ガーナサポーター達も数こそ少ないが国旗をうちふり、アフリカ独特のリズミカルな調べを奏でて雰囲気を盛り上げる。 やがて両国の選手達が入場口前で整列している所がスクリーンに映し出されスタジアムが一気に盛り上がる。そして選手が入場する。ワールドカップフランス大会から使われているあの音楽に乗って。両国の国歌が演奏される。昨日テレビでみたアルゼンチン対セルビア=モンテネグロ戦では国歌演奏の時に口笛が吹き鳴らされたが、ここはその様な非紳士的な行為は無く、相手国の国歌を respect するべくそれぞれの国歌終了時には拍手が沸く。 
そしていよいよキックオフ。チェコは長身のヤン=コラーが怪我の為にロクベンツがワットプに、いつもは2列目の左サイドに位置するネドベドが真中に。2列目は…とポジションの確認をする間に何とガーナが先制ゴールを挙げてしまった。左からのクロスにアサモア=ギャンが反応しそのままゴールネットを揺らした。ガーナゴール裏に陣取るガーナサポーター達は文字通り踊りあがって大喜び。開始わずか1分12秒だ。これは今大会最速のゴールとスクリーンに紹介される。この展開はチェコサポーターのみならずガーナサポーターも予想だにしなかっただろう。しかし“でもこれで試合は面白くなりますよ”とNさんが言う通り、チェコが追う展開の方が見ごたえがありそうだ。だがその後も主導権を握るのはガーナであった。MF のアッピー、ムンターリの2人がボールを持つとチェコの選手はボールが奪えない。そしてブンデスリーガのマインツに所属するオットー=アッドもボールキープが良い。またワンボランチのチェルシー所属のマイケル=エッシェンも縦の動きが良く攻守に渡り貢献する。29分にはアッピアーが決定機を外すがゴールに迫るのはガーナばかりだ。チェコは34分に、ようやく波状攻撃を見せるがゴールを割れない。この日は2列目に左からプラシール、ネドベド、ロシツキー、ポボルスキの4人を並べ、プラシール、ポドルスキーが攻撃時には両サイドを上りチャンスを伺う。しかしガーナはパス回しも良く37分には自陣ゴール前から見事なパスワークでシュードで持ち込む。その直後、今度はロシツキーがドリブルで持ち込んでシュートを放つが、チェコのチャンスはロシツキー、ネドベドのドリブル以外はチャンスが掴めない。“ガーナDFの戻りが早いのでチェコはパスが出せないんですよ”とNさんがコメントする。その後ガーナはアッピアーが素晴らしいシュートを放つが僅かにポストの外側だ。
こうして前半はガーナの見せ場が多いうちに終わった。 良く考えれば今大会のガーナ代表は4人の選手を除いて全てが欧州でプレーをする。GKアジェイを初め3選手がイスラエルで、MFドラミニがセルビアのレッドスターでプレーをし、他にもドイツ、フランス、イタリア、トルコ、イングランドでプレーする選手ばかりなので、個人能力は高い。そしてセルビア人デュイコビッチ監督が戦術を浸透させたのだろう。一方チェコのブリュックナー監督。目の前で見せるガーナの戦術こそ、かつてチェコが誇ったものと述壊しているのではないか? 後半はトップのロクベンツのボールが入らないのでバロシュを入れて2トップにするのかと思ったが、ボランチのガラセックをポラックに替えただけ。ガーナはオットー=アッドに替わってボアテンが入った。後半開始30秒、ネドベドのヘッドがゴールネットを揺らす。周囲のチェコサポーターが一斉に立ち上がるがオフサイド。しかし、チェコサポーターが湧いたのはこのシーンと56分、初めて見せた見事なパスワークから最後はプラシールが放ったショットをガーナGKアジェイにファインセーブされた時だけ。後半はハーフタイム中にどんな指示を受けたのかガーナの見事な戦術とパスワーク、ポジショニングが目立つ45分だった。65分にはアモアがウィファルジに引き倒されてガーナがPKを得る。しかし、先制ゴールのギャンが蹴ったPKはポストを直撃して追加点はならない。チェコサポーターは大喜びと言うよりも安堵の歓声を上げる。しかし、ガーナがその後も支配を続ける。チェコのロングパスにも先に追い付いたり、高さで優ったりと身体能力の高さを見せる。56分にはポボルスキーに替えてスタイナーを、68分にはシオンコがプラシールに替わって投入されるが、展開は変わらない。バロシュは怪我でもしているのかな?そしてワンタッチでパスを華麗に回す。72分、74分とペナルティーエリア内で3本のパスが通され、チェコも後手、後手にまわる。80分にFWのアモアに替わりPSVアイントホーフェン所属のエリック=アッドが投入され、中盤を厚くした直後の81分、左からのギャンからのセンタリングをステファン=アッピアーがチェコゴールに蹴りこんで、決定的な2点目を。もうゴール裏に陣取るガーナサポーターはお祭り騒ぎだ。ブリュックナー監督もなす術なしと両手を広げるポーズがスクリーンに映し出される。さらに勢いに乗ってガーナ選手がチェコゴールに何度もせまる。チェルシー所属のGKチェホのセーブが無ければ何点獲られていただろう?85分にはこの日の Man of the Match のギャンが大歓声に送られてピッチを後にする。スタンドにはガーナサポーター達のリズムが更に大きく流れてくる。そしてタイムアップ。ガーナは歴史的なワールドカップ初勝利を納め、チェコのアフリカ代表との初対戦は黒星となった。良く考えれば両国の選手自身はみなワールドカップは初登場。ガーナ選手がチェコを圧倒するのも不思議ではなかった。
スタジアムの周囲はガーナ人のフィエスタが続く。“チェコが負ければ帰りのトラムが心配だ”とNさんと言っていたのだが、チェコのサポーター達も非常に紳士的。しゅくしゅくと今日の試合を振り合えっていた人達が多かった。
ここでNさんは友人達と合流しデュッセルドルフに向かいます、と明日の日本戦でも再会と我が代表の健闘を祈り別れを告げた。私はYさんとTさんとで中央駅の近くのイタリアレストランでビールとパスタを突きながら、アメリカ対イタリアをテレビ観戦することにした。 中央駅付近にはレストランはあるが、テレビのあるレストランは少なく、ようやく見つけたこのレストランもテレビは大型ではなかった。おそらく21型ではないかな? 試合は既にイタリアがジラルディーニョのゴールでリードしていた。しかし入店直後、アメリカ、デンプシーのクロスがザッカルドに当りオウンゴールでイタリアは同点にされた。 そのキックオフ直後にアメリカ選手が流血しているのが映し出される。客は何事かと画面を。デ・ロッシが競り合いで肘をマックブリッジの顔にいれたのだ。これでデ・ロッシは1発退場。 するとリッピ監督は早くも35分にトッティを下げてガッツゥーゾを投入する。すると今度はアメリカDFマストレニがピルロへのスライディングが足を派手に払ったと、1発退場。この判定にはアリーナ、アメリカ監督が怒りを隠さない。そして後半開始早々アメリカ選手が足早にピッチを後にするシーンが映し出され、続いて再びアリーナ監督が何やらわめいているシーンが。DFポープが2枚目のイエローをもらい退場となった。ポープはシドニー五輪の準々決勝での日米決戦にも出場した選手だ。 “10対9かぁ。どんな試合になるんやろ?”とYさんが。“これだけスペースがあれば何でも出来るんとちゃいますか?”と答えるとTさんもなるほどと。リッピ監督は54分にはデル・ピエーロをザッカルドに替えて61分にはルカ=トニを下げてイヤンキタを入れる。この試合もインザーギの登場はなかった。52分2月の日本戦で活躍した コンラッドがコンベイに替わって投入される。登録はDFだがその攻撃力は日本戦で証明済だ。62分にはPSVアイントホーフェン所属のビーズリーがデンプシーに替わって入る。まだまだ守りに入る時間じゃないというシグナルだ。1990年イタリア大会でアメリカはイタリアに 1-0 で敗れている。しかし今回は堂々と渡り合っている。特にフィジカルの強さを前面に出し、キックアンドラッシュを使ったと思えば、トップ下のドノバンがネスタ、カンナバーロらと渡り合う。またGKケイシー=カーシーもしっかりとゴールを守る。初戦のチェコ戦を 0-3 と落として後が無いアメリカのこの戦いに感動を覚える。そしてそのままタイムアップ。オフサイドの数がイタリア11に対してアメリカはわずかに1。これでGroup E 全てに未だ決勝トーナメント進出の可能性が残った。明日の日本もこの様に戦って欲しいと願う。我々も他の客同様にレストランを出てそれぞれの帰途についた。明日18日はボンから約4時間半かけてニュルンベルグへの長旅だ。ホテルに戻り電車の時間を調べ床に就いた……

6月17日 クロアチア戦チケット入手 !!

2006-06-20 | FIFA World Cup
6月17日。目覚めは午前5時半。未だ時差が残っている証拠だ。ここ数日の間に入ってきた仕事上のメールを片付けて、6時半頃、早朝ジョギングに出る事に。代表がドイツ入りして連日紹介される地元のスポーツ設備 SPORT PARK までひとっ走りした。欧州はジョギングコース選択に困らない。 SPORTS PARK までは約20分程度。ここは文字通りプール等の設備の完備された、陸上競技の投擲種目のフィールドまで併設されている総合運動公園。 ドイツ代表のメインスポンサーである Deutshce Telecom の本社がボンにあるので最近はドイツ代表もここで練習をするらしい。競技場には陸上用のトラックがある。陸上競技出身者の私はまずここに目が行く。そしてバックスタンドには SAMURAI BLUE の横断幕も。スタンドの上の方にはレストランがあり食事をしながら、フィールド上も見ることが出来る。 そして“日本テレビ関係以外の方達のレストランでの撮影を禁じます”と日本語、英語、ドイツ語で書かれているラベルが数箇所に貼られていた。 午前中に仕事関係のメール等を片付け、 Köln に出かける。昨日出会ったNさんが“午後3時からのイラン対ポルトガルを Köln のパブリックビューイングで見ませんか?”と誘ってくれた。Nさんは17日は デュッセルドルフの知人宅に宿泊する関係で先に Köln 入りをしていた。とはいってもボンから Köln までは普通の電車で30分程度だ。ボン中央駅に行くとスウェーデンサポーターの一群と数名のイングランドサポーター達がいた。20日のスウェーデン対イングランドは Köln で行われる。この組を1位で抜け出さないと決勝トーナメント1回戦で地元ドイツとあたる可能性が高いので、その辺の駆け引きもある。イングランドのサポーターに“監督からスウェーデンにお願いしておけば良いと思う、 mother tough で”といったら受けた。イングランドは親善試合を含めて未だスウェーデンに勝った事が無い。前大会、両者はさいたまスタジアムで対戦したが 1-1 の引分であった。  Köln はさすがにボンと異なり大都市だ。中央駅を出るとガーナ国旗とチェコ国旗を打ち振る人々が沢山いる。チェコのサポーター達が圧倒的に多く、あるオープンカフェはチェコのユニフォームである赤一色であった。共産時代は限られた人しか西欧に出られず、それらの人々も共産党のお偉方が中心だった。ガーナの人も少なくない。訊けばドイツか近隣の欧州諸国に在住していて母国代表の応援に来ているとの事。やがて携帯が鳴り、Nさんと会う。Nさんに連れがいた。1人日本からやって来られた女性のTさんとそのTさんのお連れの大阪から来られた2人組SさんとYさんだ。訊けばお互い当地で知り合われた方達同士との事。今日、 Köln で行われるチェコ対ガーナの試合のチケットが無いのはこの後すぐフランクフルトに向うSさん以外はTさんのみ。しかも彼女も、あの旅行会社事件に巻き込まれた方であった。我々は何とか彼女がチケットを手に出来るようにご協力しましょうと団結した。 3時に中央駅のすぐそばにある Köln DOM のすぐ裏手にパブリックビューイングに入りポルトガル対イラン戦を観戦する事に。  Köln はイラン人が多く、彼ら独特の太い大きな歓声がと期待をしていたのだが、どうもイラン国旗が目につかない。この日は土曜日、飲食関係を経営するイラン人が多いのでまだ仕事中なのかもしれない。ここしばらくの核開発問題があって、あまり目立ちたくないのかな? Köln のパブリックビューイングは広いが客席が少ない。ボンとは正反対だ。したがって多くの人が、地面に座って観戦するが、人が増えるに連れて立ち見の人が増えてきてとても座っていられない。結局立って見る事にした。このあたりが日本との公共性の違いか? 
試合は予想通りポルトガルが押す展開。フィーゴをパウレタ、ヴァレンテ、コスティニャの“黄金世代”の生き残りにEUR0 2000 でブレークしたヌーニョ=ゴメス(ただしあまり出番は無いが)そしてバルセロナのデコ。フェレイラ、マニシェのチェルシー組。名前だけでイランを威圧できるか?一方のイランはアリ=ダエイがスタメンを外れて1トップにメキシコ戦を怪我で休んだハシュミアンが入り、その後ろをバイエルンのカリミが。2列目は左がピルズィのマダンチ右にはHSVのマハダビキアが配された。9分にはパウレタが持ち込み、12分にはデコが強烈なショットを放つがGKミルザプールがストップ、14分にはマハダビキアがロブを上げてポルトガルDFの裏に落とすがマダンチはコントロールできず。イランはカリミの様にボールキープが出来る選手もいるが、ここは8年前のフランス大会も経験しているマハダビキアのドリブル突破しか攻撃の糸口がつかめない。いつもはもう少し後方に位置し、守備でも貢献するのだが、ポルトガル相手に勝点を稼がねばならないのでは前方配置も仕方ないだろう。28分にマンシェがCKから決定的なヘッドを外すと今度は30分、マハダビキアのスルーで抜け出した左のボランチのティムリアンがフリーになり放ったシュートはポストを直撃する。しかしこれはその前にオフサイドフラッグが上がった。しかしここからポルトガル攻撃陣のエンジンがトップに入る。33分にはマンチェスターUのクリスチャン=ロナウドのシュートがGKを破るがイランDFカエビがクリア。続いて放ったミドルはサイドネットを直撃する。これまでのボール支配率はポルトガル69、イラン31と圧倒的にポルトガルが支配。イランはマハダビキアのドリブルが冴えているうちに得点を何とか挙げたいがこの日はザンディがスタメンに入っておらず、攻守に渡ってマハダビキアに大きく負担がかかる。35分にはハイクロスをクリアーしようとしたカエビの足がフィーゴの顔に入り、フィーゴは一時ピッチを離れる。結局数分間の離脱後フィーゴはピッチに戻るがその直後の40分には始めてカリミからハシュミアンにいいボールが入りチャンスを迎えたがゴールには至らなかった。そして前半が終了する。後半のイランの健闘を祈りながら私達一行はTさんのチケットの事もあるので試合のある Weltmeister Stadion に向かう事にした。フランクフルトに向かうSさんとはニュルンベルグでの再会を誓う。中央駅からUバーンに乗り継ぎ、 Neumarkt でSバーンに乗り換える。地元クラブチーム、元日本代表の奥寺康彦が所属した 1FC Köln の試合がある時と異なり、2本の線路を使ってトラムを発着させている。これもワールドカップのためだろう。トラムの中ではチェコのサポーターが多い中3人ほどのガーナサポーターが乗り込んできた。チェコ人たちは殆どチェコから、このガーナ人達はケルン周辺に在住しているらしい。ガーナといえばアテネ五輪では大久保のゴールで日本が 1-0 で勝った相手だ。今大会のガーナも五輪選手達が多くいるがその礎は2001年のU-20準優勝メンバーだ。アテネ五輪の日本戦はここのガーナ人も覚えており、我々日本人一団からそのネタに気勢があがると、周りのチェコ人も同調する。その中の英語を話す若い男性と車中歓談する事に。昔、東欧ビジネスをするにはドイツ語も学べと言われた。それだけチェコではドイツ語はよく使われる言葉だった。しかし、時代は替わり今は英語が第一外国語で、彼は英国で働きながら英語を勉強したらしい。チェコではまだいい先生がいないとの事。1992年のビロード革命後、チェコ代表としてワールドカップに出場するのは初めてだ。16年前、スクフラビー、ステイスカルを擁してベスト8に進出した話をしたら“何故スクフラビーを知っているんだい?ジャーナリストか?”と驚いて尋ねられた。スクフラビーは長身を生かしたプレーが特徴で、イタリアのジェノアに在籍し、その時にKAZUもジェノアにいたのでスクフラビーを知る日本人は少なくないと説明した。 KAZUはまだ現役でプレーを続けているがスクフラビーはその後身を崩して何をしているかわからないとの事だった。トラムが終点である球技場のひとつ前の駅につくと乗客はみなおり始めたので我々もそれに続く。ここでもチェコのサポーターが多い。競技場に向う人が多くなかなか前に進まない。” NEED A TICKET” “ We need Tickets “ と書いた紙を掲げる人がちらほら。すると2人組が私に話しかけてきた。明日18日の日本対クロアチア戦のチケットを400ユーロでペアで買ってくれないかとのオファーだ。私は1人だかというとあっさり150ユーロでと提示してきた。カテゴリー1なので定価は100ユーロだ。この際即決で買うことにした。恐らく入場は可能であろう。最も入手したかった試合のチケットがしかもこの価格で入手出来た幸運に感謝した。Nさんと知り合いになってNさんが知り合ったTさん達とケルンで待ち合わせて一緒に競技場に来なかったらこういう幸運は訪れなかったかもしれない。さて今度はTさんの番だ。すると我々に声を掛けていた三人組みがいた。4枚あるカテゴリー1のチケットを売るとの事。ただし、4枚セットじゃなければ売らないとの事。そこでさっきすれ違った2人組みの日本人と1人の日本人を連れてきて4人を集めた。しかし価格が1枚350ユーロで相手は強気に譲らない。これには4人とも諦めて他をあたることに。なかなか1枚だけというのは売る側も買う側も需要、供給が少ない。それでも入り口に近づくとチケットを売りに来る人が増えてくる。そして3人組の英国人グループが“友人が1人来れなくなったのでカテゴリー1を200ユーロで買ってくれと”寄って来た。これまでの提示額が350~300ユーロだったのでTさんは即決で購入する事に。チケットのダフ屋行為を生業にしている人じゃなかったので別に額面で売ってくれても良さそうなのだがまぁここは需要過多な上にTさんも購入意思が決定していたので何もいわなかった。その代わりに試合中は彼女をしっかりとアテンドしてくれ。 That is yours tusk!! というと、非常に受けた。 これで皆揃って試合観戦が可能になった。まずはめでたしだ。 競技場に入る前にまずボディチェックと携帯品チェックがある。ペットボトルの清涼飲料やミネラルウォーターでさえ、競技場内には持ち込めない。 これにまず時間がかかる。 それを抜けて3~4分程歩いて入場ゲートにたどり着く。途中では土産物のテントや色々なイベントが催されている。4年前の日韓大会で私が訪れたところでは今大会の様に競技場敷地内ではこういうイベントは少なかった。入場ゲートでは最後の関門、NさんもTさんもIDカードチェック無しに入場を出来た。これでようやく万事めでたしとなった。

6月16日 ボンにて G-JAMPS でトンカツを

2006-06-19 | FIFA World Cup
ボンで投宿しているホテルは仕事でも使う Ibis Hotel 。フロントには SAMURAI BLUE のフラッグが。そして G-JAMPS の案内も。しかし、フロントはここの場所を知らない。独力で探す事にした。ホテルから中央駅まで歩いて15分程度。バスだと路線が遠回りをするので10分程度だ。街の中心街をぶらぶら歩く。日本での報道だと街は Japan Blue 一色と報道されるが、そなことはなかった。確かに日本の国旗や SAMURAI BLUE の旗は多く見たが、圧倒的に多いのは地元ドイツの国旗で他にはイタリア、ブラジル等サッカーでは列強の国旗も多く観られた。街の真中にあるパブリックヴューイングではC組の次の試合、オランダ対コートダジュールが放映されている。街の至る所でオープンカフェが有り外に大型のモニターや店内にテレビを置いてワールドカップ中継を観られる様にしている。まだ昼間なのでまだそこに集う人は多くはないが、午後8時にキックオフとなる第三試合当りになれば人も増えるだろう。こういうオープンカフェの文化は欧州ならではだ。
さらに歩を進めるとオペラ座の近くに出てきた。路を挟んで正面は我らが代表チームの投宿するホテルだ。その前で青いレプリカを着た人が数多くいる。私もそこに駆け寄ってそこにいた日本の方に尋ねてみると、たった今代表選手達が次の試合会場のある Nürnberg に向け出発したとの事。当地までは列車で乗り継いで4時間以上。従って国内線で空路を使ったらしい。 このホテルはライン川沿いにあり、ホテルが面している大通りは出張などで私がボンに泊まった時の朝のジョギングコースだ。私はボンを19日の朝に出発するの予定なのでもう代表とここらで遭遇する事はなさそうだ。私は踵を返して日本でも話題になっている G-JAMPS に向かう事にした。
G-JAMPS は中央駅からみると繁華街とは逆の方にある博物館を間借りしている。中央駅の裏側を出ると SAMURAI BLUE のフラッグが多く飾られており道しるべ代わりになる。徒歩約5分、大きな SAMURAI BLUE のロゴが見えてきた。併設されているカフェ兼レストラン"SAMURAI BLUE CAFE" では20名近い邦人、ドイツ人が食事と歓談を楽しんでいる。大型のハイビジョンモニターではオランダ対コートダジュール戦が映し出されている。 2-1 でオランダがリード。そして試合もロスタイムに入っている。 コートダジュールは何とか同点にとドロクバにボールを集めるがオランダDFも必死の守り。結局コートダジュールは最後の反撃空しくオランダに守りきられ、オランダが2勝目を上げてアルゼンチンと共に決勝トーナメント進出を決めた。死の組と言われたC組も最終節を待つことなく勝ち抜け2カ国が決った。
試合が終わり建物の地下に降りるとちょっとした日本サッカーの博物館みたいになっている。日本サッカーの小史が日本語と英語で書かれている。千葉ロッテマリーンズの選手達のメッセージとユニフォーム、それから王監督を初めとしたWBCのメンバーの寄せ書きが入ったサッカーボールをかたどったペーパークラフトも展示されている。そしてここに訪れた人達を含めたサポーター達の寄せ書きも。これらを見るとオーストラリア戦の敗戦が再び勿体無く思えてならない。 次のクロアチア戦に向けての必勝祈願の寄せ書きが多く目に付く。 
折角ここを訪れたのだから“記念に”何か食べていこうと、レストランに上がってメニューを眺めていると、日本人のウェイトレスの方が親切に説明を。メニューには無いがとんかつがあるとの事。空腹も手伝い早速ご飯とお味噌汁を合わせて注文する。それにミネラルウォーターを合わせて19.8ユーロ(約1,450)この際値段は関係ない。空腹時をとんかつで満たせる事に幸福を感じる。テレビではメキシコ対アンゴラの中継が始まっている。この試合は私にとって大切だ。もしアンゴラが敗れてしまえばライプツィヒのイラン対アンゴラは消化試合になりかねない。イランにも明日フランクフルトで行われるポルトガル戦には頑張ってもらいたい。 
試合は地力に優るメキシコが押す展開だ。かつて北中米地区を完全に支配しながら、本大会では1966年大会の1次リーグで消化試合となったチェコ戦で勝利を挙げた以外は中々勝利を挙げる事が出来ず、ようやく1970年地元開催のワールドカップでベスト8進出を果たしたがこれには1次リーグから同じ北中米代表のエルサルバドルが入ったり、ベルギー戦での疑惑のPKがあったりでいわく付きのベスト8だった。次の西ドイツ大会では進出ハイチに名をなさしめ、続くアルゼンチン大会では3連敗で帰国。しかもチュニジアにアフリカ史上初の勝利を献上し、続くスペイン大会ではかつて“サッカー戦争”を引き起こした当事者、エルサルバドルとホンジュラスに出場権を奪われた。再び地元開催となった1986年大会ではベスト8に進出。準優勝のドイツとPK戦の末惜敗を喫した。1990年のイタリア大会はワールドユース大会に出場選手の年齢を詐称したかどで失格に。しかしその後1994年アメリカ大会から3大会連続で1次リーグを突破しており、今大会はついにシード国となった。かつてはウーゴ=サンチェスというレアルマドリードで活躍した国民的英雄がいたが、今の英雄はなんと言ってもメキシコ史上初めて UEFA Champions League タイトル覇者の一員となったDFのラファエル=マルケスだろう。そしてFWには今回の Champions League で台風の目となった Yellow Submarine ビジャレアルのFWギジェルモ=フランコがいる。今回のメキシコはMF登録の選手が5名しかいないが、それは両サイドのピネダ、メンデスがDF登録になっている事もある。試合はやはりメキシコペース。サイド一杯を使い、細かいダイレクトパスをどんどん通してくる。フランコにボールが収まると複数で対処せねば止められない。たまに攻撃に転じてもマルケスの読みが良く決定機が作れない。今のアンゴラのスーパースター、ベンフィカ所属のマントラスはベンチスタートだ。怪我がまだ完治しないのかな?もう1人のFWフラビオは昨年末のFIFAクラブ選手権でアフリカ代表で来日したエジプトのアル=アリ所属だ。しかし、この日アンゴラで最も輝いていたのはGKジョアン=リカルド。特にハイボールには勇敢に飛び出して対処。前半は無得点に抑えた。
ハーフタイム中にそろそろホテル帰ろうと勘定を済ませようとする。持っていたサッカー雑誌にSAMURAI BLUE CAFE が写真付きで載っていたので見せてあげると随分喜んで“コピーさせて下さい。”と先程の日本人ウェイトレス嬢が。もちろん断る理由は無い。するとレストランからお礼にと食後のコーヒーを頂く事に。別にそんなつもりではなかったのだが。コーヒーを飲む間もうしばらくここでアンゴラ対メキシコをテレビ観戦する事に。隣の席にはカプチーノ飲みながらテレビ観戦をしている黒人女性が1人。彼女はおもむろにバッグの中から一枚の布地を出してきた。何とそれは選手達のサインのはいった日の丸ではないか。中村俊輔、宮本をはじめ川淵キャプテンにZICO監督のサインまである。中田英寿は未だもらえていないらしい。訊けば今日ホテルの前で代表が Nürnberg に出発する前に書いてもらったものもあるらしく、写真も見せてもらった。デュッセルドルフからほぼ毎日ここに通っているらしい。何故日本代表が好きなのかはよく解らなかったが(私のドイツ語がまだそこまでのレベルでもなかったのかも)日本語も勉強したいそうだ。昔我々がワールドカップを遠くから見ていたときにブラジルやイングランドを応援していた様に彼女も日本を応援しているのかな? 後半が始まる頃、1人の日本人の男性が“合い席良いですか?”と尋ねてきたので、“どうぞ”と答えた。訊けば18日の日本対クロアチア戦を観戦するらしい。明日の予定を聞いてみると Köln でのガーナ対チェコ戦を観戦したいが、チケットが無いらしい。ビンゴである。実はこの試合のチケットを私は2枚持っていたのである。もう一枚は子供の分であるが、事情により子供は結局来ないことに。そのチケットを額面100ユーロで買ってもらう様にオファーを出したら、驚いて受けてくれた。実はここに来た目的のひとつがここにあったのだ。しかし、こういうところに1人で来る人は少ない。この日の G-JAMPS は1人でいたのは私とさっきの黒人女性のみであった。もしここで見つからねば明日競技場でチェコ人にでも話してみようかとも思っていたところだった。この日本人男性、Nさんとは試合の後半を見ながら話をする事にした。 試合は相変わらずメキシコが押す展開。そしてオリベイラ=ゴンザレス、アンゴラ監督はマントラスを投入する。0-0 でも勝点1を確保するのではなくまずゴールを獲るという監督のサインだ。こういう交代は選手を勇気付ける事がある。選手の動きが良くなった様な気がする。一方のメキシコは焦りが目立ち出した。細かいショートパスが持ち味であったのだが、格下相手に各選手がドリブルを試みるようになり、反対にアンゴラDF陣に引っかかるようになる。フランコがミドルからショートを放つがアンゴラGKリカルドが好守で応酬する。メキシコとしては次のポルトガル戦の前に1次リーグ突破を決めたいところだろう。しかしアンゴラDFも必死の守りだ。そして前線にいるマントラスにボールが入ればそこで一旦タメが出来るのでその間にDFはラインを上げられる上にすこし休める。結局メキシコはゴールを割る事が出来ず、アンゴラは貴重な勝点1を挙げた。これで21日 Leipzig での観戦チケットが消化試合にならなくて済む。試合が終わり、Nさんとレストランを出た。“ありがとうございます。本当にラッキーでした”と御礼を言われるが“私こそ、チケットが売れてよかったです。”と。明日、彼とは Köln で落ち合う約束をしてホテルに戻った。しかし、私にとっても彼との出会いが幸運を呼ぶ事になったことをこの時は知る由もなかった。

6月16日 フランクフルト空港は曇り

2006-06-19 | FIFA World Cup
ドイツ入りして3日目を迎えますが、今だ現地からの詳しいレポートが無いと各方面から批判が寄せられそうです。(誰もそこまで期待していないか?) 今日は6月18日。現在ドイツ自慢の特急列車ICEで一路 Nürnberg に向っております。そうです、本日のクロアチア戦に向かって。 それでは、私のドイツ入り後の様子をこれからご紹介しますので、お楽しみ下さい。(誰も楽しみにしてないか?)

6月16日。 午前6時前に到着してフランクフルト空港は曇り空。機内アナウンスでは気温17度と言っていたけど半袖の身には少し肌寒い。知り合いの旅行代理店が取ってくれた航空券は香港経由。予算の関係上と、この時期欧州への渡航者がピークを迎える上にワールドカップと重なるため欧州路線は混雑していたので、このルートを取る事にした。東京~香港間は約4時間のフライト。そして3時間程度のトランジットを空港で過ごし、香港~フランクフルトは11時間半程度のフライトだ。機内は共に満席。そしてワールドカップ観戦の為の日本人旅行客が非常に多かった。後に聞いたがあのワールドカップチケットが中国から入手出来ずにワールドカップツァーを準備できなかった旅行会社の事件に巻き込まれた人もいた。 9年ぶりに乗ったキャセイパシフィックは期待通りの?最低なフライトを提供してくれた。東京~香港間ではビデオ設備の故障の為に機内映画が観られない。そして香港~フランクフルト間ではヘッドフォンジャックが壊れており音声が聴こえない。文句をフライトアテンダントに言うと“他の空いている席にどうぞ”といつものパターンだ。しかし、機内はほぼ満席。窓側、通路側は空いていない。通路側は譲れない。そんな押し問答をしていると、黒服のチーフアテンダントが出て来る。こういった問題が起こったときは大体が乗客に忍耐を強いるのがこの世界の常識だ。しかし、それには負けていられないので“キャセイに乗るといつもトラブルが起こる。東京から来るときも、前回もそうだ”、てな文句を言うと、彼女はキャプテンと話すと言葉を残し前方に戻っていった。しばらくすると“機長と話しました。ビジネスクラスにどうぞ”と言いに来た。これはラッキー。しかし、ここで表情を崩してはいけない。無言で、憮然と荷物を持って2階のビジネスクラスに向う。さすがにここは天国だ。しかし、それでも私の怒りは収まらなかった。着席直後、フライトアテンダントが食事を伺いに来るが、目を合わせずに無言を通した。すると別のアテンダントを連れてきて“オショクジハイカガナサリマスカ?サカナ?オニク?....“ これには頭にきた。英語が話せないと思ったらしい。“ English is compulsory in Japan too !! I ‘m doing business everyday with English. May be I can do better than you !! “ と怒鳴ると二人とも一礼をし、退散してくれた。おかげで?後の10時間ばかりのフライトは誰にも邪魔される事無く過ごせた。だが、大体の場合,こうはしてくれない。オーストリア航空などは読書灯が故障して本が読めないと言うと、キャビンアテンダントは”他の事でお楽しみ下さい“で終わり。それでも文句を言うと日本人スチュワーデスを寄越して来た。頭に来た私は”日本の男がみなスチュワーデスを気にいていると思ったら大間違いや!!” と言った。大体私はスチュワーデスが大嫌いだ。エコノミーとビジネスの乗客では接する態度が違うし、自分は美人だとお高く止まっている。その上私は昔、スチュワーデスに振られたのだ。

フランクフルト空港から最初の投宿地ボンまではドイツ鉄道 DB ( Deutsche Bahn ) ご自慢のICEを乗り継いで2時間程度。今度は快適な列車の旅だ。さすがに欧州屈指の大空港,フランクフルト空港。世界中のサポーター達がいた。トリニダードドバゴのサポーター数人。前日は England に敗れたが表情はなにやら誇らしい。そして数多くのオーストラリアサポーター達とも。反対に慰めれられた。 Johnny Warrenn の話題を持ち出すと、みな驚いてくれる。そして握手を求められた。 
まずはホテルにと、言いたいところだがボン中央駅には仕事上の顧客が迎えに来ている。2~3日前から数年前に納品した機械の調子が悪く見て欲しいとの事。折角ドイツ入りしたので無視は出来ない。しかし場所はボンの近くでトラブルも大した事が無かったので午前中で仕事は片付き、昼食をよばれた。 日本の試合の話もする。地元でのドイツの評価はうなぎのぼりらしい。大会前は1次リーグ突破も危ないと思った人が半分くらいはいたらしい。

ホテルにチェックインしたのは午後1時過ぎ。ブッキングは半年以上前に入れておいたが、無事にキャンセルされていなかった。本当はこの日3時からボンからICEで2時間程度のギルゼンキルシェンで開催されるアルゼンチン対セルビア=モンテネグロを見に行こうかと思っていた。チケットは無いが現地でダフ屋から買おうかとも思っていた。しかし、少し疲れが残っていたのと、チケットの価格が心配だったので部屋でテレビ観戦する事に決めた。
そしてそれは正解だった。両国のワールドカップでの対戦は1990年イタリア大会以来16年ぶり。その試合のビデオを持っているが、ユーゴスラビア連邦最後の大会となったこの試合はPK戦までもつれマラドーナ、ストイコビッチの両雄が共にPKを失敗した後にアルゼンチンGKゴイコエチアのセーブでアルゼンチンが勝った試合だ。試合後アルゼンチンサポーターの前で“アルヘンチナ!アルヘンチナ!”と叫びマラドーナを初め飛び跳ねるアルゼンチンとフィールド上に伏して立ち上がらないユーゴスラビアの選手達とのコントラストが印象的だった。 今回も誰もが好試合を期待したはずだ。セルビアは初戦のオランダ戦を落としているがまだまだ決勝トーナメントへの可能性はあった。 しかし開始早々先制点を許してしまう。アルゼンチンはペケルマン監督がユース代表を指揮した時代からの選手が多く、戦術と組織がきっちりしている。その上各個人のレベルが高い。セルビアもミロセビッチ、スタンコビッチ、ケズマンを擁してアルゼンチンとは見劣りしないメンバーだが,組織力に差があったか?かつて連邦が存在した時、ユーゴスラビアの国内リーグのレベルは高かった。レッドスターベオグラード、パルチザン=ベオグラード、ハイデゥク=スピリット、クロアチア=ザグレブ、これらが一堂に同じリーグにいたのだ。そしてユーゴは東欧の中でも経済状態が良く他の共産諸国よりも西側との交流があり、裕福な国であった。当時、同じ東欧とは言えポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアといった私が担当した市場とはビジネスサイズでも格上で羨ましかった記憶がある。連邦崩壊後旧ユーゴ諸国の選手達はサラリーを求めて西欧に出て行くのが本音だろう。同じ事は指導者にも言える、優秀な人材は明日の日当も保証されない自国では仕事をしたがらない。アルゼンチンも正GKアボンダンシェリ、第三GKウスタ-リ、FWパラッシオ以外の3人は国外組だ。クレスポと2トップを組むテベスはブラジルのコリンチャンズ所属だ。それ以外の19名はメッシ(バルセロナ)、クレスポ(チェルシー)を初め欧州組だ。しかし、U-20時代から同じ釜の飯を食ってきた選手が多い上、その当時から指導を受けていたペケルマンが監督なので戦術の理解も高いのだろう。ユース、五輪チームの力の入れ方は欧州より南米、特にアルゼンチンが上を行く。 アルゼンチンは得点を重ねる、セルビアはエースケズマンが退場になるなど良い所が無い。最後はトh食う出場した怪我の回復が危ぶまれていたメッシがゴールを決め、6-0のスコアとなってしまった。得点の度に映し出されるマラドーナと彼の家族。今大会のアルゼンチン株はこれで更に上昇するだろう。セルビアも悪くないチームだっただとうが、6点差は誰も予想しなかったに違いない。スタジアムからは“アルヘンティナ !! アルヘンティナ!!”の歓声が聞こえてくる。1978年大会でテレビからよく聞こえてきた歓声だ。そして翌年日本で開催されたワールドユース大会、アルゼンチン対ソ連の決勝戦。日本の観客はマラドーナ、ラモン=デアス、サンタクルス、バルバスらを擁したアルゼンチンユースチームに同じ様に “アルヘンティナ!!” の歓声を送った。それはアルゼンチン地元でも話題になり。1986年のTOYOTA CUP で来日したリバープレートの役員が日本テレビのインタビューで”あの時はアルゼンチンを応援してくれてありがとう“と語ったことがある。 
そんなことを思い出しながら私はホテルを出て日本サポーターの基地と言われている G-Jumps に向った。  続く

捕鯨問題に言及。ワールドカップ は戦いだ。

2006-06-17 | FIFA World Cup
スポーツはある意味“代理”戦争である。よく耳にするフレーズだ。そしてWBCではイチローが言っていた。“この前はしゃくにさわりましたから。野球は喧嘩じゃないですが、今日はそんな気持ちでした。” これは準決勝での韓国戦で実際に彼が語った名言だ。この点については日本はまだまだナイーブだ。それは貿易立国で、世界市場は日本製品を買ってくれる御客様。ご機嫌を損ねては大切な外貨も獲得できないと言う事か?しかしそれは1970年代以前の話で、最近では2世、3世そしてタレント国会議員が海外視察と言う名目の公費海外豪遊旅行の訪問先で“この道路はあの先生のお言葉添えで実現しました。”との儀式を滞りなく終えるために訪問先と議員先生様のご機嫌を損ねないように尽力せねばならないのだ。“先生と呼ばれるほどの馬鹿は無し”実に良く表現されたフレーズだ。 
6月14日付けの The Australian 紙には“ Dead meat “ と言う題がつけられた日本のマスコミも見習うべき記事があった。 これは捕鯨に関する記事で meat は文字通り鯨肉。捕鯨の規制に関する駆け引きが Dead heat して来ており、その Heat と Meat をかけたのだ。
我々が小学生の時は鯨肉のフライが給食で出てきた。私の好きなおかずでもあった。しかし、海外諸国、特にアメリカとオーストラリアが音頭を取って鯨の激減は日本の乱獲が原因と指摘され、日本の捕鯨産業が崩壊させられてしまった。その後も世界的な捕鯨禁止の流れは続き、この世界では日本とノルウェーが悪者にされている。しかし、鯨激減の理由は本当に日本の捕鯨だけにあったのだろうか?19世紀、アメリカの海洋船の燃料は何だったか知っているかい?鯨からとれる脂だった。1回の航海で必要とされている鯨の脂は1頭じゃすまなかったらしい。ちなみに、鎖国状態末期の日本に黒船に乗ってやって来たペリー提督からの開国要求や、その後締結された日米和親条約は、アメリカ捕鯨船への補給を名目としたものであり、小笠原諸島に居住している米国系日本人は、定着したアメリカ捕鯨船員の子孫である。20世紀の後半に入って優秀な日本の船舶会社の開発により優秀な捕鯨の為の“キャッチボート”が完成し日本の捕鯨産業は全盛期を迎えるが、それは戦後、日本に進駐してきたGHQが日本人の栄養回復の為に捕鯨を奨励した背景があり、その前にアメリカが乱獲を続けたことを知る人は少ない。同じ事をノルウェーの人も言っていた。1970年代後半から本格的に捕鯨禁止が進んでいるが、どうやらその流れも終盤を迎えているようだ。最近はカリブ海諸国が鯨肉の輸出に外貨獲得を求めており、商業捕鯨一時停止に反対を投ずるようになってきたのだ。彼らの輸出先は日本と考えるのは容易だ。捕鯨反対国のリーダーの1人であるオーストラリアに対して St.Kitts and Nevis の代表団はオーストラリアには我々より多くの食品規制があるのに、と不満を漏らす。これを不満と感じるオーストラリアは“カリブ海の小国にとって日本円は重要な要素”と見ている。そして日本は捕鯨解禁の仲間を作る為に発展途上国の援助を惜しまないとコメントを。これに対し日本のモロヌキ代表は“我々は投票を買ったりはしない。しかし、我々に協調する国の対象国とするのは当たり前”と返す。捕鯨禁止の裏にはオセアニアで流行の Wheal Watching がある。これは世界には海洋を持たない国が多く、それらの国から観光客が押し寄せ外貨を落とし利益率が捕鯨よりも抜群に高い、文字通り鯨がいなくなれば話にならないビジネスだ。オーストラリアやニュージーランドでは鯨は神聖な動物で巨大な脳容積や、音波によって同族間の緊密なコミュニケーションをとっているらしいことを挙げて、「知能が高い動物を食べるのは残酷である」と主張する者もいる。ならば、オージービーフで有名な肉牛は脳が無いのかい?脳容量が少なければ良いのでしょうか?それに君達が先住民のアボリジーニやマウリにしたことは何なんだろう?その上オーストラリアはあまり知られていないが世界屈指の人種差別国家で、一時国連が注意をした事も。数多くのアジア系移民がどれだけ辛い思いをした事か? One Nation Party の党首さん。
また悪名高い Green Peace や Sea Shepherd の示威行為にも関わらず、JARPA II は昨夏から今年4月まで南方洋でミンク鯨を863体、ひげ鯨は10体引き上げた記録があるとされている。この JARPA II とはIWCの規制を受けない各国政府が独自に行える調査目的の捕鯨プロジェクトだ。そしてノルウェーや日本はこの1年で過去20年間に捕獲した総数よりも多くの鯨を捕らえたと報告。そしてノルウェーは輸出に失敗したが、日本は3月末現在で 3160トンのストックがあるのに更に3400トンの鯨を持ち帰ったと。もしこれが日本の捕鯨が鯨の存続の危機をもたらす動かぬ証拠とするなら、私は改めて彼らの能力の低さに安心するだろう。まず、日本の鯨に関する科学的調査は世界でも定評がある。そしてミンク鯨は数が激増しており、今やオキアミだけでなくインドマグロやニシン等を餌として食べ、その量は人間の漁獲高の3~5倍と言われている。一方シロナガス鯨は成育に時間を要するので数が中々増えないが、それこそ西欧諸国が皮脂から油だけ採り、残りは捨ててしまい乱獲したのが激減の原因だ。
現在IWC加盟国の中で日本に協調するのは2005年、韓国の蔚山で開催された総会では28カ国であったが、そこには日本に同調するであろうと思われた6カ国が参加しなかった、そして更にカンボジア、グアテマラ、マーシャル諸島が日本に同調すると考えられている。商業捕鯨の一時停止を含めたIWCの“Scheme:公共計画” を再考察するためには加盟国の中から 75% の支持が必要だ。しかし、その RMS Revised Management Scheme ( 管理計画の差し替え?) は1992年に設立され、45回も話合っているのに進まないのはオーストラリアが邪魔をするせいである、と日本のモロヌキ代表は語る。そして今年に入り中国が日本との協調路線から撤退。北京政府は捕鯨も反日カードとして利用する事は見え見えで新華社通信は”商業捕鯨再開支援の為に世界に金をばら撒いているが中国各国から反対の声が上がっている“と報道。中国国内では”冷血名日本人が大口を開けて鯨を飲み込む“”鯨にとって最も大きな脅威は海洋汚染、船舶との衝突などの他に日本が行っている乱獲“と報道するが、世界中に環境汚染を垂れ流しているのは中国であり、世界中の食糧を掻き集め、自給率を考えないのも中国政府だ。 モロヌキ代表のコメントは”あくまで sustainable ( 維持可能な )数字で捕獲数を決めるとコメントしているだけに、中国が日本と協調すると印象がかえって悪くなるので離脱してくれた事はこの上なくありがたい話しだ。
この記事の出だしには“ワールドカップでの敗戦にもかかわらず、捕鯨に関してはオーストラリアから勝利を決定付ける大量点を挙げた”との出だしに始まる。 

しかし、日本戦の勝利に関するあるコラムに下記の様な書き出しが。 “ SMEWHERE, Johnny Warren was smiling. He told us this day would come. : どこかで Johnny Warren が微笑んでいる。彼はこの日がきっと来ると教えてくれた“と。昨日 Köln の中央駅であったオーストラリアサポーター達にこの話をした。彼は黙って右手を差し出したそして言った” Johnny Warrenを知っている日本人に敬意を払う“と。先人を敬うしきたりは日本のマスコミには無い。スポーツは全てのシーンでこうありたい。
捕鯨に関する事は下記を参照してください。興味が湧きます。

http://aikij.com/kujira/naka.htm

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E9%AF%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

http://www.athome.co.jp/academy/zoology/zoo19.html

韓国逆転勝ち そして地元マスコミの反応は?

2006-06-16 | FIFA World Cup
イラン、日本とアジア勢の連敗後、韓国がトーゴに逆転勝ちを収め、サウジアラビアはチュニジアと引分た。アジア勢は全て、初戦は“第三世界”との対戦。昔と異なり、全体の出場枠が増え14の国が欧州、南米以外から出場できるようになり、無得点、勝点ゼロで帰国する国が少なくなった。(とは言え前大会の中国、サウジアラビアはそうだったが。) 日本がオーストラリアに敗れた翌日、韓国が見事に逆転勝利を収めた。序盤は監督の離脱問題で揺れるトーゴ相手にちぐはぐな攻撃が目立ち、うまくボールが廻らずフィジカルを生かしたトーゴの押し込みに後手を踏む形で先制されたが、李天秀のFKで同点にそして安貞垣のミドルで勝負を決めた。特に後半、安貞垣が投入されてからチーム内に締りが出て来たようだった。やはり重鎮となる選手はこういう大きい大会では必要だ。かつての加藤久やラモスの様に。(古いか?)しかし、韓国が試合をしたフランクフルトの競技場は屋根がついており直射日光は避けられた。運動量を武器とする韓国には有利な競技場であっただろう。日本は次の試合会場も屋根が無い。体力の温存が鍵か?
日本が逆転負けを喫した翌日に逆転勝利を韓国が収め、しかも日本を敗ったオーストラリアを指揮するのは今だ彼らの英雄、フース=ヒディンク。今大会のワールドカップは韓国マスコミ界にとってこの上ない痛快な幕開けとなった。 
6月14日付けの朝鮮日報では明知(ミョンジ)大学スポーツ記録分析研究センターがオーストラリアと日本の試合を分析した結果を掲載、選手交代の考察をし、彼の功績を称える。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/14/20060614000052.html

例えヒディング氏が率いたチームでも、これが日本相手の勝利でなければここまで分析したであろうか?

またオーストラリア国内でのワールドカップ初勝利に対する興奮も報道されている。
この試合は現地時間では午後11時に(一部12時、パースでは9時)に始まり、試合終了後深夜まで続いた大騒ぎで試合翌日の13日は会社を休む人が続出し。ある労使問題の専門家は「病気や他の理由で欠勤した人も含めると、会社を休んだ人は全労働者の20%に上る。このためオーストラリアにある全会社・工場の損失は最高2億5000万オーストラリアドル(約213億円)に達するだろう」と話す。との地元紙の論説を引用。そして中村のゴールを認めた審判の“誤審”にも言及している。オーストラリア人のサボタージュは今に始まったことではないのだけれど。
だけど、後にFIFAが駒野がケーヒルに倒されたのはPKであったと公式に発表した事はどうコメントするのか楽しみだ。

そして逆転負けを喫した日本では、韓国に八つ当たりする意見がヤフージャパン・ワールドカップ掲示板を始め、至る所に書き込まれているとの行も。 「朝鮮日報を見ろ。韓国はひどい。日本に対してあんなに悪感情をむき出しにするなんて。オランダ人が本当に韓国人と仲がいいのか?」、「神様、どうかフランス・スイス・トーゴが全部、韓国に勝てるようにしてください!」、「結局は、自国開催で審判を買収しなければ勝てない国・韓国」などの書き込みが相次いだらしい。
前回日本がトルコに敗れた時にトルコに次いで大歓声を上げたのはどこの国だい?それにソウル五輪の柔道で日本人選手の相手がどこの国籍であれ大歓声を送って応援したり、公開競技だったけど野球の準決勝で日本に敗れた後、決勝戦でアメリカチームの応援にチアーガールを送り込んだのはどこの国だったっけ?開催国がそんなことするかい? その上神戸で大震災が起こった後に“ワールドカップは韓国で、日本には地震が似合う”てな書き込みをした国はどこでぃ?

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/14/20060614000036.html

そして興味を引くコラムもあった。チョン・ウォンジェ崇実大学教授(前サッカー協会技術委員)が朝鮮日報紙に寄せた“いまやオーストラリアを許すべき時”と題したコラムには興味を引いた。 
先日の日豪戦は“これは韓国のサッカー史において記念すべきことではないだろうか。”との出だしに始まるこのコラム。この試合は前大会の韓国対イタリア戦を彷彿させたらしい??
韓国とオーストラリアはワールドカップ予選では結構直接出場権を争っている。メキシコ大会のアジア地区1次予選は韓国でオーストラリアと日本を合わせた3カ国で行われ、オーストラリアがその1次予選を勝ち抜いている。(この大会はイスラエルがアジア代表権を勝ち取る)そして次の西ドイツ大会予選では最後は韓国とオーストラリアが直接対決で代表権を競う事に、シドニーでは 0-0 続くソウルでは 2-2 となりその当時はまだ「アウェーゴール数ルール」がなかった時代で、最後は香港でのプレーオフにもつれ込みオーストラリアが 1-0 で勝利を収め、ワールドカップ初出場を決めた。続くアルゼンチン大会予選もオーストラリア、韓国、イラン、クウェート香港の5カ国が2次予選に進出しホーム&アウェーの総当りで1つしかないアジア出場枠を争った。当初はアジア地区の勝者がオセアニア地区の勝者とでプレーオフを行うとされたが、AFCが不公平とFIFAに提訴したのが認められた形となった。結局当時パーレビ王朝の資金的バックアップのあったイランが代表権を勝ち取り、韓国は2位に終わった。オーストラリアはイラン、クウェート相手にホーム&アウェーで敗れるなど4位に終わったが韓国とはホームで勝ち、アウェーで引分た。韓国は3勝4分1敗勝点10.イランは6勝2分け勝点14.両者の直接対決はホーム、アウェーともに引分であったのでオーストラリア戦の戦績が明暗を分けた。

しかし、だからといって対戦国を許すも許さないもないだろう。ヒディング監督を獲られたと今でも思っているのか?日本に勝った事でそれを忘れようということなのだろうか?

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/13/20060613000045.html

オーストラリアでは韓国人の移民も多く、在留邦人の2倍以上と言われている。現地の日本人達はオージーと韓国人の間で肩身が狭くないか大変心配だ。WBCの時は大いに胸を張っていなかったなぁ。日本人は謙虚だから。むしろ韓国人に“何故韓国は2回も勝った日本に3回目であんなに大敗したのだ?”と訊かれたものだ。

そして車範根、車ドゥリ親子が解説したMBCがSBS,KBS との視聴率競争を制したらしい。 13日、視聴率調査会社TNSメディアコリアによれば、MBCは12日放送の豪州対日本戦の中継で25.8%と 圧倒的な視聴率を記録。この日の試合中継で、SBSは13.5%、KBS2は13.6%の視聴率を記録し、対照的な結果となったとのことだった。現役時代の車範根は私の好きな選手だった。車ドゥリは今大会は残念だったけど、次回は李東国と2トップを組む事を目標に頑張って欲しい。でも3局もどうして同じサッカーを中継するのだろう?

東京裁判じゃないけど、敗者は勝者にはなにも言えない。それだけに、次の試合は本当にただ願うばかりだ。本当にただ、ただ.....

追伸:さて私、コンティは本日よりドイツ入りを致しました。現場からの報告、楽しみにしていてください。

頼む 勝利を 彼らの為にも

2006-06-15 | FIFA World Cup
敗戦から3日が過ぎたが、肝心の選手達は精神的に切り替えられただろうか?日本を代表する選手達だからたかだか私の様な人間が心配する必要もないが。 
オーストラリアでのワールドカップ初勝利は我々の想像を超えているようだ。そして勝ったから言うのだろうか?それとも負けたらもっと激しかったか?日本選手を批判する内容の論評が続いていた。

まず、第一の矛先は中村の先制ゴールを認めたエジプト人主審ABD EL FATAH Essam 主審に向けられる。
6月13日付の Sydney Morning Herald 紙には “このエジプト人の主審には大型画面のついた最新のDVD対応モニターを贈るべきだ”との行に始まり、中村のロビングを処理しようとしたGKシュヴァルツァーに“ぶつかった”タカハラについては“彼の名前は TAKAHARA 。日本にラグビーを普及させたいようだ。”との文章が。 そして再びEssam 主審に触れて“どうやらこの主審はホームチームに気を使った様だ。”と、そのホームチームとはドイツでプレーする日本人選手を指し、その日本人選手を“ブンデスリーガの HSV Hamburg で Occasionally ( たまに ) プレーしていた”との説明が。 確かに、後に Essam 主審は誤審を認め、私を含め多くの日本人でさえ、“幸運な先制点”と思っている。 高原が2点目を決めてくれておれば、おそらくもっと彼の事を悪く触れただろう。
そして中村俊輔に就いては“ Soceroo がよって来ればすかさず倒れる。ZICOが監督に就任して以来日本人に足らなかったマリーシアは習得した様だ。”と。 しかし、結構中村への後方からのチャージには寛容であった様な気もする。そして彼のテクニックにオーストラリアDF陣が何度か翻弄される事も。 試合前にオーストラリアの解説者は“ナカムラとナカタにスペースを与えては何をされるかわからない。”とコメントしていた。 彼の技術力は確かに証明されたが、勝利には残念ながら結び付けられなかった。
そしてDFグレッラのコメントを “ R-E-S-P-E-C-T :…… “ との見出しで紹介。 グレッラは日本は我々を Respect ( 尊敬 ?)しなかったと。 スポーツをするに当たって全ての競技者は自分以外の参加者に敬意を払うものだと。その意味は私もよく理解する。しかし、グレッラは日本からはその RESPECT が感じられななかった,とのコメント。それは“簡単に”倒れる日本人選手に主審が迷わずファールを与え、それにより日本選手達は更に“容易に”倒れる様になった、とのことだ。 ある選手は“こちらが寄せてくるのを確認して倒れるタイミングを計る日本人選手がいた。”と。そしてフィジカルで優るオーストラリアは日本の様な相手だと審判は公平に笛を吹かない。要するに身体のでかい選手が審判の先入観で不利な判定を下される。 との事だ。 ここでも日本の先制点の事を言いたいのだろう。
しかし、もっと言いたいのはオーストラリアのブックメーカーではなかったか?オーストラリアの知人はこの試合を正に完全アウェーの状態のカジノでテレビ観戦していたらしい。そして First Goal の賭けをしており、中村俊輔に賭け、見事な“勝利”を収めたらしいが、そのオッズは何と17倍だったらしい。親元であるカジノか、地元のサポーター達の不平が聞こえてきそうだ。
しかし、ケーヒルの逆転ゴールが決まった瞬間に私が思ったのは商用でよく訪れるオーストラリア大陸におられる在住邦人の方達の事だ。6月10日付けの Sydney Morning Herald 紙に以下の様な記事があった。

http://www.smh.com.au/news/aussie-update/socceroos-match-divides-household/2006/06/10/1149815358404.html

シドニー在住のチバマサノリさんは1993年にオーストラリア人のリンダさんと結婚し、二人の子宝に恵まれているらしい。長男のリキ君、地元のサッカーチームに所属する12歳の男の子だ。お気に入りの選手は中田英寿。昨夜の試合には日本を応援すると語っていた。11月にKAZUが Sydney FC に移籍した時はお父さんに試合に連れて行ってもらったらしい。長女のエミちゃんは8歳でまだどちらを応援するか決めかねているとのことだった。 
オーストラリア各紙を見ると前日の逆転勝利が大きく報道され、選手達の一挙手一挙動は英雄的に伝えられている。当地に在住される邦人の方達は試合後そして翌日、どういう思いであっただろう。特に子供達、日本人学校でなく地元の学校に通う子供も多い。大人と異なり子供同士だと遠慮なく物事を話せる。それが悪い事にならねばよいが。 この2日間はまさに “ Australian day “ だった。11日にはシドニーの Telster Stadium でラグビー( Union ) の世界王者の England を 34-3 で一蹴し、3年前、地元で開催されたワールドカップ決勝戦の雪辱を果たした。そして12日はサッカーのワールドカップで初得点、初勝利。日本の様にワイドショーを始め、サッカーとおおよそ関係の無い人々までこの試合に終日言及する事は無いだろうが、少なくとも1次リーグが終わるまではオーストラリアではワールドカップ絡みの話題は途切れないだろう。 

オーストラリア在留邦人はやや肩身の狭い思いをしているのではないかな? 
彼らの名誉復権の為にも、クロアチア戦では勝つ試合を見せて欲しいものだ。