Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

オーストラリアとは

2005-12-31 | Aussie & Kiwi
オーストラリア最大の都市 Sydneyの中心街、 George Street の大きな交差点で初めて信号待ちをした人はおそらくこういう思いをするだろう。“ここはどこなのだろう?オーストラリア人はどこにいるのだろうか?”年々増え続ける特にアジアからの移民の数は留まるところを知らない。私が初めて当地を訪れた1998年頃は韓国からの移民が多かったが今は中国大陸からの移民が多い、それも若年層の。だがここオーストラリアでも中国人犯罪は社会問題化している。他にも最近ではパレスチナやレバノンと言った中近東の小国からの移民もよく目に付く。12月12日付けの Sydney Morning Herald には Sydney にある最も人気のある Cronulla Beach で中東系の移民と地元の白人青年(白豪者)との衝突を伝える記事があった。事の発端は当地の Life Guard 二人が Lebanon 系の移民に殴られた事だがどの様にしてそこに至ったかは述べられていない。これを機に地元の若い白豪者達は反撃に出る。背中に “ We grew up here, you flew here. :俺達はここで育ちお前達は流れてきた“とペイントされたシャツを纏ったり、国旗やあらゆるオーストラリア代表のレプリカシャツを来て、反中東スローガンをコールしながら行進をしたり、”No more Lebs ( Lebanon ) “ と叫ぶグループも。シュプレヒコールを叫びながら空瓶を投げる白豪者も。そして中東系の面持ちの少女二人にその空瓶が投げつけられ、そばに居合わせた警官に何とか守られた。Lebanon系、中東系そして白人達はこぞって携帯メールやブログで当地への応援、集結を呼びかけたらしい。12日現在、13名のけが人が出て12人が逮捕されたらしい。この事件はUAEの 7 days と言う無料紙の1面で紹介された。だが元々オーストラリア大陸はアボリジーニのもので、ここは欧州の犯罪者の流刑地だったので白人達が我らの地と胸を張るのは少し疑問だ。だが欧州からの移民で最も可哀想なのは第二次大戦直後から60年代初めにかけて英国から送られてきた “ Children immigration “ 達だ。戦後間もない頃、戦勝国とはなったが国家は歳入が少なく、孤児達に回せる予算が無かった。そこで政府は孤児や託児所に預けられた子供を何の知らせも前触れも無くオーストラリアの西部に送り続けた。後の本当の親や親戚が子供を捜しに届けを出しても政府は“米国の裕福な家庭に引き取られた”と偽りその事実を隠蔽し続けた。こういうことが60年代初頭まで続いた。オーストラリアに送られてきてもその子供達の殆どは幸せな思いは出来なかったと言う。当たり前だ。この国のサッカーの歴史は移民を抜きには語れない。私の尊敬するアジア・オセアニア代表として1974年大会に出場したオーストラリア代表の主将を務めた Johnny Warren は当時 St.George Budapest と言うチームに所属しており、1971年日本で開催された4チーム対抗戦に招待され、来日している。彼の所属チームは文字通りハンガリーからの移民をベースに創られたクラブチームだ。Johnny Warren の家族は1954年のハンガリー動乱を機にオーストラリアに移ってきたらしいがその他の多くの選手が同じ理由でオーストラリアに入ってきた。参考までのこの遠征で St.George Budapest は日本代表とは 0-0, 日本B代表に 6-2 そしてデンマークのFrem に4-1 で勝利を収め優勝をさらった。この優勝はオーストラリアのクラブチームが最初に海外で勝ち取ったタイトルとして当時で地元では高く評価された。 St.George Budapest は大会後も帰国までの間に東洋工業と2試合、日立製作所と1試合を行い、その3試合に全勝を収めた。他にもギリシア系や旧ユーゴ系の移民達で構成されたクラブチームが50年代以降設立された。だが余りにも民族意識が強すぎて、特に観客席での争いが年々激しくなってきていたらしい。オーストラリア代表がサッカーで世界の舞台に多く出て来られなかったのは、当時移民達の identity がオーストラリアよりも生まれ育った母国の方に求めていたからではないだろうか?ワールドカップで日本と闘う Socceroos はクロアチア系の選手が Mark Viduka をはじめ8名含まれている。続く

本当に弱かった愛するジャイアンツ

2005-12-30 | プロ野球
先日何年か振りにある本を購入した。“ 2006 ベースボール・レコードブック”だ。しばらく我が愛するジャイアンツが優勝する度に購入していたが、最近は予算が取れずに?ここ10年は手にした事が無かった。久し振りに予算取り?をした理由は今季のジャイアンツの低迷振りを数字で見たかったからだ。
まず5位という成績は1979年以来。これはレコードブックを見なくても知っていた。当時は江川卓があの空白の1日を突いて巨人に入団した年で、交換トレードで阪神に出された小林に8敗を喫した年だ。
オールスター前後までは優勝争いをしていたが、夏場以降黒星が先行し終盤は連敗が続き5位に沈んだ年であった。しかし、優勝した広島とのゲーム差は 10.5ゲーム差で今年の巨人は阪神に 25.5ゲーム差をつけられた。また79年は江川以外にも西本が防御率で2位に入り、打者では中畑がレギュラー取りに名を挙げるなど新戦力の台頭も顕著であった。当時主力であった王はまだまだ本塁打を33本放ったが、張本は目の病気で後半は殆ど出場が無く、柴田、高田らの出番は激減していた。特に高田は怪我で離脱中に中畑が台頭し左翼手に再コンバートされたがそれは張本の戦線離脱を受けてだった。投手では新浦が15勝を挙げたがそれは殆ど前半戦で挙げたもので他のローテンションを任されるのは加藤初くらいでシーズン中盤以降上記した江川、西本の台頭でようやく投手ローテーションが組める様になった。この世代交代は2年後の1981年日本一になって実を結ぶ。しかし今シーズンは2~3年後の巨人軍を背負うへの新戦力は見られなかった。現有戦力でも先発投手陣では工藤の11勝が最高で上原は9勝止まり、高橋尚成が8勝。明るい兆しはリリーフ陣の中で林が18S、久保が7勝を挙げたが、サヨナラ負け8回と言うセリーグワースト2位(横浜が9回)が示すとおり2年前から指摘され続けていたリリーフ陣の整備が出来ていなかった。だが防御率 5.06と言うセ・リーグ最下位防御率が示す通り再整備は投手陣総じて言えることだ。
打撃陣も同じでチーム最高打率(規定打席到達打者の中で)は79年時のシピンの.319に対して今年は仁岡の.301であった。小久保が34本塁打87打点でチームの2冠王であったがその他の主力、高橋由伸は怪我で離脱し88試合止まり、ローズは弘田コーチと揉めて100試合のみの出場。阿部は代率.300 本塁打26, 86打点を叩き出したが、3割打者で今年もシーズン打率.300を残した清水を序盤スタメンからはずし.153のキャプラーを使い続けたり、昨年台頭してきた川中、斉藤、鈴木尚にチャンスを与えなかったり首脳陣の起用も疑問符のつくものばかりだった。また同じ相手に、同じ様にやられたのも今年の特徴だ。例えば優勝した阪神タイガースには今季も8勝14敗と大きく負け越し、3年連続も負け越しとなった。これは過去に無かった。巨人打撃陣は下柳、井川に4勝ずつ献上したが特に下柳は阪神移籍以来何勝されたことか?また巨人投手陣にも同じ事が。金本には今年も撃ち込まれ、打率は.458、6本塁打24打点を喫した。そして巨人戦全22試合に安打を放った。1979年、小林繁に8連敗したが翌年からは打ち込んだと言う工夫、研究が見られない。また直接対決での総得点では阪神が128に対して巨人が79.しかし本塁打数では阪神27、巨人23とあまり隔差は見られない。だが与四球は阪神が48、巨人は72.そして犠打が阪神は16、巨人は8だった。失策も巨人が11に対して阪神は7と少なく、併殺でも巨人が22に対し阪神は7.巨人投手陣は阪神打者に四球を与え、バントで送られ失策で失点するのに対して巨人は本塁打以外、得点が取りづらいという試合運びであったと大げさに表現できるのでないか? 来季から原辰徳氏が再び監督の指揮を振るう。史上ジャイアンツが4年連続で優勝を逸した事は無かったが、現状を見ればそのワースト記録を更新しないほうが難しいのではないか?しかし、2,
3年後にでも常勝軍団を作れるのであれば、ワースト記録更新も止むなしか?

どうなる日の丸飛行隊 その2

2005-12-30 | 冬季五輪
アルベールビル五輪翌年の世界選手権では原田はノーマルヒルでついに金メダルを勝ち取った。これは札幌五輪の笠谷以来の快挙だった。そしてその翌年94年のリレハンメル五輪では団体で惜しくも銀メダルに終わったのを憶えておられる方も多いだろう。個人競技ではラージヒルで斉藤が4位、西片が8位、ノーマルヒルでは葛西が5位、西片が再び8位と表彰台にはまだ立てなかったが入賞には手が届くようになった。そして4年後、地元長野開催に向けてジャンプ競技でメダルを量産する為の選手強化が課題となった。だがここから日本ジャンプ陣の快進撃が始まる95年の世界選手権、ノーマルヒルでは岡部、斉藤がワンツーフィニッシュ、西片が7位。そして新星、船木がラージで5位に入賞した。2年後の世界選手権、ノーマルでは地元フィンランドのアホネンが優勝し日本勢のこの種目の3大会連続優勝を阻んだが、原田が2位、船木が4位、8位に斉藤が入りラージでは原田が優勝しノーマルの雪辱を。日本人選手が五輪、世界選手権のラージヒルで金メダルを取ったのは史上初めて、あの笠谷でさえ成し遂げられなかった快挙であった。これで翌年の長野五輪には期待が寄せられる事に。その五輪、ノーマルで原田は一回目1位につけておきながら5位に終わるが、船木が銀メダル。そしてラージでは船木が金メダル、原田が銅メダル、団体では金メダル、合計金メダル2個、銀1、銅1と日本列島を大いに沸かせた。その進撃は翌年の世界選手権にも続きラージヒルで新鋭の宮平が3位、船木が5位、原田が6位そして斉藤が9位、葛西が10位。ノーマルヒルでは船木、宮原、原田で表彰台を独占。過去、五輪、世界選手権、共に表彰台を独占したのは日本だけである。しかも札幌五輪とこの世界選手権と2度も偉業を成し遂げている。
だがこの大会以降スキーの長さの規定やジャンプスーツの大きさの規制が替わり、日本選手は勝てなくなってくる。特にスキーの長さの変更は体格の小さい日本人選手には不利な変更であった。詳細は忘れたがスキー長は身長 + 80cm ( 70cm だったかな??) となり上背のある選手ほど長いスキーで滑れるようになった。スキー板が長ければ長いほど助走でのスピードが出て、飛び出し後も大気から浮力を受け易くなり飛距離が出る様になる。“体格に優る選手が優位であってこそスポーツ競技”と言う無茶苦茶な大義名分の元でのルール変更だ。元々スポーツと言うのは体格の劣るものは決められたルールの中で工夫しながら体格に優る者と渡り合うものであって、体格の優る人間の為にルールを合わせるべきでは無いはずだ。 ジャンプ競技の盛んなのは欧州大陸でワールドカップの開催地も欧州が多い。そこで日本人選手に勝ち続けられては大会スポンサーも就き難いと言うのが本音だ。幾多のスポーツ競技がこの様なルール変更で日本を不利に追い込んでいる。 2001年の世界選手権ではノーマルヒルで原田が5位に入ったのが最高で、他の入賞者は同種目で7位の斉藤のみ。2002年のソルトレーク五輪でも団体で5位入ったのみで個人種目では入賞者が無かった。2003年の世界選手権で五輪では好成績に縁の無かった葛西が1人大奮起。ノーマル、ラージ両種目で3位にはいり、団体でも2位に入る牽引を果たした。だが今年の世界選手権では入賞者どころかトップ10に入った選手はおらず、団体でも9位に沈んだ。こうやってこの10数年を振り返るとルール変更もあるが、五輪、世界選手権で上位入賞するのは同じ選手ばかりで、世代交代が進んでいない事が一目瞭然だ。今、原田はワールドカップ転戦組みから漏れてコンティネンタル杯組に。そしてかつての金メダリスト船木も。岡部が久々にワールドカップ組に復活しているが、ワールドカップでまだ上位入賞は無い。 葛西に是非五輪ではブレイクして欲しいのだが今季のワールドカップでは2回目に進めない大会も少なくない。世代交代が進まない原因はこの不況から来る実業団のリストラが大いに寄与している。新たに選手を引き取っても若手を育てる時間も余裕もないので、結局ワールドカップ遠征や五輪選考は同じ選手に偏ってしまう。 2月から始まる五輪では誰か一発大飛行を見せてくれぬか?前大会のラージ、ノーマルの2冠をあのフィンランドの鳥人 ニッカネン依頼制したスイスの Adams そしてアルベールビルでノーマル銅、ラージ金を勝ち取ったフィンランドのニエミネンの様に。五輪での勝者は往々にして五輪一発大飛行でメダルを獲得する選手が出て来るものだ。ただ彼らは若く、特にニッカネンは17歳で五輪を迎えた。今の日の丸飛行隊にこういう秘密兵器がおれば良いのだが。五輪まであと2ヶ月。なんとか大飛行を見せて欲しいものだ。33年前自分が感動した様なあの大飛行を。

どうなる日の丸飛行隊

2005-12-24 | 冬季五輪
今年もあと1週間少し。街は Christmas Carol が溢れている。来年はドイツで FIFA ワールドカップが開催されるが、その前にイタリア、トリノで2月10日より第20回冬季五輪が始まる。世間はこれから始まるフィギァースケートの全日本選手権に関心が集まっているが大会後に五輪代表に選ばれた選手達は是非メダルを勝とて欲しい。でも少し過熱しすぎではないか?それに引き換え、スキージャンプは全くと言って良いほど話題に昇らない。新聞の片隅に載るワールドカップに転戦する我らが代表選手の戦績も芳しくない様だ。私は冬季五輪と言うと子供の時に見た札幌五輪での日の丸飛行隊の表彰台独占が忘れられない、といいたい所だが、後に行われた90m級の方が印象に残っている。メダル独占の偉業を達成した70m級 が行われたのは授業のある日で、学校から帰宅後そのニュースはテレビで観て知った。90m級が行われたのは日曜日でトライアルからの中継が行われていた。日本人の期待を背負った70m級の金メダリスト笠谷幸男は1回目106mを飛んで111mを飛んだ Poland のフォルトナに次いで2位に着けていた。当時は今と違って2回目の試技の順番は1回目の順位によって変えたりしなかったので、笠谷の順番45番目(だったと記憶している)は変らなかった。2回目の試技では1回目トップのフォルトナを初め有力選手が次々と失速し、いよいよ笠谷の順番が廻ってきた。96mを飛べばトップに立てるはずであった。そして笠谷の後ろには有力選手はもういなかった。日本人全てが笠谷の2冠達成を期待した、そして信じていた。しかし、笠谷の飛行は優勝ラインの10mも手前の85m付近に落ちてしまい、7位に沈んでしまった。テレビから伝わってきたこの瞬間の会場の雰囲気は今でも忘れられない。そして中継していたNHKのアナウンサーの落胆振りも。五輪が終わってしばらくの間、笠谷のこのジャンプが忘れられなかったがジャンプ競技こそ冬季五輪では最も期待出来る種目と思う様になった。しかし再びジャンプで日本人金メダリストを見られるのには26年後、再び地元(長野)で開催されるまで待たねばならなかった。その間にも好成績は見られた。1980年のレークプラシッド五輪の70m級で八木弘和が銀メダル、秋元正博が4位に入賞したが以降、フィンランドの英雄、マッティ=ニッカネンが登場し、ノルディック王国フィンランド、ノルウェー、そしてオーストリア、東西ドイツには大きく水を開けられる事に。毎年10数回開催されるワールドカップでは1985年に地元札幌で秋元が優勝するなど単発的には好成績が見られたが五輪でのメダルは遠かった。1991年の Valdi Fieme での世界選手権のラージヒル、ノーマルヒルでは日本人最高ながら10位に終わった東和紀が1回目でトップにつけて、2回目の試技を最後に飛んだ。笠谷以来の金メダルが期待されたが、5位に終わってしまった。しかしレークプラシッド五輪以来の入賞だった。この大会では複合競技リレーで日本チームが銅メダルを獲得。翌年そして翌年からの五輪での同種目連覇に繋がる。そしてジャンプも上昇してくる。翌年のアルベールビル五輪では原田がラージヒルで4位に入った。3位オーストリアの Heinz Kuttin とはわずか 3.5 差であった。そして5位チェコの Parma とは 13.3 の差をつけていた。この五輪から原田の時代が始まる。 続く

優勝はイタリア?

2005-12-13 | FIFA World Cup
英国の新聞 Timesに面白い記事が。 来年のワールドカップはイタリアに優勝の機会が大いにありと。ワールドカップ優勝3度を誇るサッカー界の列強の1つイタリアは今大会も当然シード国だ。最後に優勝を果たしたのは1982年のスペイン大会であったが、その大会を境に12年前の1970年大会はペレ率いるブラジルに次いで準優勝。そしてスペイン大会の12年後、1994年大会も決勝戦でブラジルに敗れての準優勝。即ち、70年準優勝、82年優勝、94年準優勝と来れば12年後の2006年は優勝する順番と言うことらしい。だが今のアズーリが24年前の様に優勝の美酒に酔うことが出来るだろうか? 1982年の大会は振り返ると思い出の深い大会であった。当時もNHKは結構深夜に生中継、昼間には中継録画でスペインからの試合を届けてくれた。大学生だった私は夜遅くまでテレビ観戦。翌日は授業も出ずに昼前まで惰眠をむさぼりそのまま中継録画を観戦する日々を続けた。 この大会から本大会出場枠が24に拡大され前回のアルゼンチン大会より五日間長い30日間に渡っての大会であった。当時は欧州のカップ戦も全てがトーナメント戦で試合数が少なく、開幕日が6月13日であったので、日程的には厳しいものでは無かった様に思われたが、大会も進むにつれて高温と当地の長い日照時間は大会が進むにつれて披露回復を含めた体調管理が大きなウェイトが占めたかも知れない。 優勝したイタリアはシード国で1次リーグはポーランド、ペルー、カメルーンと同組。3試合とも引分て勝点、得失点差でカメルーンと並んだが総得点で上回り(イタリアが2、カメルーンが1)薄氷の2次リーグ進出であった。だが1次リーグ、スペイン北部の比較的気温の低いビーゴと言う街のバライドス競技場で全試合を行い(昔は1次リーグ全て同じ地域、競技場で行われた)2次リーグの対戦相手は南米の2強、ブラジルとアルゼンチン。だがブラジルはアリ・カンテ。前回優勝のアルゼンチンは開幕戦をバルセロナのノウ・カンプで終えた後セビージャに廻って、2次リーグの会場、バルセロナのサリア競技場に戻ると言う移動であった。日程も2次リーグの初戦でアルゼンチンを破った事から次のブラジル戦まで中8日おいての日程が組めたが一方のブラジルは1次リーグ終了後2次リーグ初戦のアルゼンチン戦まで中8日開いたが次のイタリア戦には中二日で臨む必要があった。この大会の2年前、イタリアは欧州選手権のホスト国であり優勝は当然義務付けられていた。当時は欧州を7つのグループに分け、各組1位がホスト国に集い覇を競うセントラル方式が取られた最初の大会であった。イングランド、スペイン、ベルギーと同じ組に入ったイタリアは初戦のスペインと引分、正念場のイングランド戦をマルコ=タルデリのゴールで 1-0 で降したが、第三戦のベルギー戦も引分、決勝に進めなかった。3位決定戦でもチェコスロヴァキアに破れ4位に終わってしまった。しかも前年に発覚した八百長疑惑に2年前のアルゼンチンワールドカップで彗星のごとく現れ4得点を挙げた Juventus のパオロ=ロッシも連座していたとして2年3ヶ月の出場停止処分で欠いていた。当時のイタリア代表監督ベアルツォット氏はスペインワールドカップに欧州予選に出場出来なかったロッシをメンバーに入れ各方面から批判を浴びたが、その決断がイタリアを44年振りの優勝に導く。2次リーグではアルゼンチンをタフに戦い、タルデリ、カブリーニと後衛の選手達のゴールで 2-1 で勝利を収め、第二戦をロッシの3ゴールで大会期間中誰に聞いても優勝候補最右翼に挙げられていたブラジルを葬ってしまった。この時のブラジルはあの黄金カルテット(ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョセレーゾ)そしてエデル、DFはオスカール、レアンドロ、らがいたが、欧州のクラブでプレーしていたのはディルセウ(アトレティコマドリード)ファルカン( ASローマ)の二人のみであった。一方のイタリアセリエAは外国人選手が解禁になって4年が経過したばかりで今の様に重要な ポジション を外国選手に頼るという事は少なかった。そして代表にはワールドカップ4度目のGKディノ=ゾフがおり精神的にもチームの重鎮となっていた。1994年大会のバレジの様に。参考までに当時のアズーリは Juventus, Inter Milan , フィオレンティーナ から5人ずつ。トリノ, ウディネーゼ、ASローマ、カリアリ から1人ずつ。そしてAC Milan からはフランコ=バレージ(但し出場機会は無し)とコロバティ の二人しか選ばれていなかった。この様に当時を振り返り今のアズーリと比較すると、容易に決勝に進出するとは少し考えがたい。だが78年のロッシ、90年のスキラッチと本大会に入って彗星のごとく出て来るスターがいるのもイタリアの伝統だ。そういう選手が出てきてゴールを量産すれば、タイトルを争えるか? その辺は大いに気になるところだ。なぜなら、1次 リーグでのイタリア、日本の順位によっては決勝トーナメント1回戦で当たる事もあるからだ。

感動 !! 甲府昇格 !!

2005-12-11 | 京都サンガ J-League
スポーツと言う物は人に感動を与えると昔から思っていた。五輪で君が代の流れる時、ワールドカップでの母国の活躍、贔屓チームの勝利、母校の健闘。我が子が運動会で活躍したり立派にお遊戯を披露したり、それら全ては公平に見ている側に与えられたものだ。 また自分自身でも人知れず努力をした事に対して報われた時の感激は忘れられないものだ。最もそう言う感激はスポーツ以外でも味わえるが。 10日に柏スタジアムで行われた入れ替え戦の第二ラウンドは2部3位のヴァンフォーレ甲府がJ116位の柏レイソルを 6-2 で破りJ1への昇格を決めた。まず柏の降格というよりも第二戦ホームでの惨敗は柏サポーターのみならず甲府サポーターでも想像すら出来なかったのではないか?初戦、ホームで甲府は会心の勝利を収めたが、第二戦、ホームの柏が2点差以上で甲府を降すことは難しい事とは思えなかった。 だが蓋を開ければどちらがJ1チームか確認を要する展開。バレーが開始27分でPKを含む2得点。52分にレイナウドに1点を返すも、その直後のキックオフから繋がれ、柏の選手がボールを一度も触れる事無く3点目を上げ、この時点で柏残留の可能性は霧散した。残りの37分間に挙げられたバレーの3得点と宇野澤のゴールは甲府昇格祝いへの献花に過ぎなかった。確かに柏のチーム状態は万全ではなかった。エース玉田の離脱はただ1人の選手の代用では済まなかったのではないか?元代表の明神が初戦に出られれば結果は違ったかもしれない。第二戦はクーベル、平山を起用し攻撃的な布陣としたのかもしれないが、何故初戦からそう出来なかったか?と後悔は無いか? シーズン途中でラモスがスタッフに加わった。ラモスの自身を問題視するわけではないが、他のコーチ達が納得しての事であったのか?サラリーマン世界でも良くある事だ。一流会社から部長クラスを高給で引き抜き特別待遇にて迎える。経営者は彼が何でも出来る万能な神だと信じて疑わない。しかし、上手く行く実例は皆無に等しい。結果、最悪永年苦労を重ねた生え抜きの課長クラスや部下が去り、経験の無い人間と業績悪化だけが残る。柏がそんな縮図で無ければ良いのだが。マスコミは“名門柏の降格”と報道する。柏はJリーグ発足3年目に加入申請を受諾された。前年のJFLで2位以内を決めた試合後かつてのBrazil 代表の英雄カレッカが“ Yeaaaah !! J League !! “ と叫んだのは印象的だった。その前年は磐田、平塚の後塵を拝し、しかも”柏の様な競技場、運営、伝統のしっかりしたチームのJ入りが望ましい“とJリーグ当局の幹部から発言された上に”柏がナビスコ杯でベスト4ならJ入りは当確“との怪情報まで流れての加入申請見送りであった。 前身の日立製作所も日本リーグ時代から柏市をホームにした名門チーム。海外にも法人を持ち、70年代でも単独で東南アジア遠征を行える環境にあった。碓井、西野、松永、瀬田といった歴代の日本を代表する選手を輩出してきた伝統は確かにある。 しかし、伝統では甲府もけっして引けを取らない。前身の甲府クラブは1965年に甲府一高鶴城クラブが全国社会人大会に進出したのをきっかけに県内の他校OBも加えて結成され、後にJSL二部にまで登りつめた。特筆すべきは企業チームが誕生し続ける中、クラブチームとして2部ではあるが当時サッカーでは最高峰のJSLに最後に残ったクラブチームであった。参考までに1978年に京都パープルサンガの前身紫光クラブがJSL2部から降格し、最後に甲府クラブがJSLに残った。99年のJ2創設を機にヴァンフォーレ甲府がJリーグに入会。しかし、経営難が続き一時はチーム存続の危機もあった。福島FCの様に解散してしまうのではと心配もした。シーズン中でもコンビニでアルバイトをする選手もいたらしい。そんな危機を乗り越えて今季は最終戦の京都に逆転勝利で仙台をかわして3位に滑り込み入れ替え戦の出場権を手に入れた。だが、甲府の昇格を容易に予想できただろうか?昨シーズンJ2では安定した強さを見せた福岡が入れ替え戦では柏に歯が立たなかった事でJ1との実力差を思い知らされており、その上今年のJ2はJ1からの降格チームが無いのでレベルは昨季より低いと思われた。甲府の快挙はまずその勢いの流れに乗っていた事が挙げられる。最終戦の京都戦の良い動きをそのまま発揮できたのだろう。そしてかつて柏を解雇された長谷川、杉山のこの試合に賭ける執念を柏、早野監督は予知できたのか?私が観戦した京都との最終戦ではこの二人にバレー、アライールが入れ替え戦でも同様の動きが出来れば昇格を想像するのは無駄では無いと思った。そしてその通りになった。J1での闘いが苦戦を免れないことは想像にたやすい。予算の都合上選手補強もままならない。J1のワースト記録を次々と塗り替えるかもしれない。しかし、地元の人々は競技場に足を運んで欲しい。毎試合、スタンドを一杯にしてやって欲しい。たとえ連敗、惨敗が続こうとも。ワールドカップや Champions League ばかりがサッカーではない。 それから最後にもう1つ甲府が昇格できた最大の原因。それはロスタイムに京都の鈴木悟が放ったFKを阻んだゴールポストだ。

対戦相手決定 !!

2005-12-11 | FIFA World Cup
今朝(10日)は土曜日にもかかわらず朝7時のニュースを点けた。勿論数時間前に終わったワールドカップの組分け抽選の結果を知る為だ。もう歳のせいか?FIFA World Cup のホームページでの生中継を見ようかと考えてはいたのだが。 組分け抽選の結果はトップニュースで伝えられた。対戦相手はAustralia, Croatia そして Brazil. 対戦相手の分析等はこれからじっくり研究させてもらうこととして? まず第一印象で“よし。もらった。”と思った。それは1次リーグ通過は確実と言う楽観論ではなく“可能性大いにあり”という意味だ。初出場の98年大会よりも決勝トーナメント進出の可能性はずっと高いと思う。対戦相手もさることながらその日程も悪く無いと思う。。 このグループではまず Brazil は決勝トーナメント進出確実。残る1枠には3カ国均等にチャンスがあると思われる。 そんな中で最終戦が Brazil という事は有利だ。最初の2戦にBrazilが連勝してしまえば98年大会の第三戦で Norway がBrazil を破って決勝トーナメント進出と言う再現が期待出来る。だが2位通過ではE組で恐らく1位通過となる Italy との対戦となるのでトップ通過の為に3連勝を狙ってくるかも知れないが。Brazilが1次リーグ突破を最終戦に賭けたのは78年のアルゼンチン大会以来無い。初戦のオーストラリアとの対戦は長年 Socceroo Watcher であり商用で何度も訪問している国だけに興味深い。第二戦の Croatia はフランス大会で対戦し シューケルの1発に沈んだが、今はその時ほど実力差は無い。この2連戦で2連勝もあれば、2連敗も、2分けもある。それに3カ国共に優勝を狙うと言うチームでは無いので、まず決勝トーナメント進出を狙うコンディショニングを行うだろう。 まず開幕当時に何人の各国代表選手達が万全の状態で大会に臨めるかが分岐点となるだろう。 もうひとつの注目すべき点は今大出場している他のアジア代表国にもけっこう1次リーグ突破の可能性がある事だ。 Group G の韓国はフランスと同組だが他はスイス、トーゴ。シード国スペインの入ったGroup H にはサウジアラビアがウクライナ、チュニジアが振り分けられた。韓国、サウジアラビア共にシード国を破るのは厳しいがそれ以外の2カ国は勝てない相手ではない。 メキシコ、ポルトガルと同じGroup D のイランは少し厳しい(もう1ヵ国はアンゴラ)が4カ国のいずれかが決勝トーナメントに残れば、あの 1966 年の朝鮮民主主義人民共和国以来、欧州で開催されるワールドカップでアジア勢が1次リーグを突破すると言う快挙となる。参考までに欧州の地で勝利を挙げたのは先の北朝鮮とフランス大会のイラン(対アメリカ 1-0 )の2カ国、2勝のみ。日本のみならず、なんとか複数国が次のラウンドに進出し、アジア地区からの ワールドカップ出場枠拡大に繋げて貰いたい。我々がその恩恵に与った様に他のアジア諸国にその門戸を広げることも、地区予選突破国の義務である。

組分け抽選直前 England は?Leipzig は?

2005-12-10 | FIFA World Cup
あの強豪 England でさえ、今回のワールドカップ抽選ランキングでは過去の戦績も認められて Brazil に次いで2位にランクされている England でさえ、これから行われる抽選には恐怖で身震いをするらしい。 Angola, Croatia そして Trinidad & Tobago らが同組みになる事を願い、 Holland , Australia そして米国が来ない事を祈っているらしい。日本はどう思われているのかな? だが Times 紙はこう“問題はどの国が相手になるかではなく、いかに England が調子を上げるか?いかに Wayne Rooney が fit してくるか?ではないか”とコメントしている。そしてより多く試合をする為には(要するにより勝ち進むためには)グループリーグの戦いで全力を出し切っては優勝には届かないと。だが1次リーグでの対戦相手は重要だ。前回優勝のBrazil は Turkey, Costa Rica, 中国。準優勝のドイツは Ireland, Cameroon, Saudi Arabia が同組だった。特にドイツは決勝トーナメントに入っても Paraguay, USA, 韓国と欧州勢というよりも対等に近い実力を持つ国は Paraguay 程度であった。ワールドカップの本大会出場国もかつての2倍、32カ国に拡大された。そして決勝戦までは7試合闘わねばならないが、これは24カ国であった大会と16カ国であった西ドイツ大会とアルゼンチン大会でも同じ試合をこなさねば優勝に届かなかった。問題は大会期間が今は一ヶ月の長期に渡る事で選手たちの体調管理が勝敗を分けるとも言われている事だ。1次リーグ以降がトーナメント方式であった1970年のメキシコ大会までは大会期間は3週間(イングランド大会は20日間)西ドイツ、アルゼンチン大会の様に2次リーグを行った大会では24日間であった。参加国がかつての2倍に拡大され、いくら大陸間の実力差が収縮したとは言え、全大会ドイツがサウジアラビアを 8-0 で破ったように上位と下位との差はかなり拡がっていることは否めない。かつては前回のドイツの様にアジア代表と2回以上対戦する事は無かった。また優勝した Brazil も全大会は決勝トーナメント以降は Belgium, England, Turkey , Germany ( 決勝戦 )であったが32年前の同じドイツ大会に対戦した Scotland, Yugoslavia, Zaire, DDR, Argentina, Holland, Poland と比較すると実力の隔たりは否めない。しかしながらEngland の Erriksson 監督は“どの国が同じ組に入っても恐れる必要は無い。相手国の監督達は我々とは当りたくないと思っている”としながらも Holland は避けたいとコメントし、USA, Australia と言った英語母国語の国とは当りたくない、なぜならそういう国々は England から勝利を収めて一旗挙げようと狙っているからだ。また前回の Semi Finalist の韓国も避けたいと。1958年以外優勝カップ ( World Cup, ジュールリメ杯)は大西洋を渡ったとは無いが、ここ15年間南米の選手が欧州のクラブで活躍する南米戦士が激増しているので昔ほど欧州勢には有利にならないと。“選手達が Fit さえすれば前回、または昨年ポルトガルで開催された欧州選手権当時のチームより強くなるはずだ”とコメントしながらも“優勝候補は組分けが決まるまでわからぬが100人中75人が Brazil と言うであろうとのこと。アフリカ勢に就いては Cameroon を抑えて出場を決めた Ivory Coast にごン言及したのみであった。
そして最後まで日本の名前が出てこなかった。約3時間後に Draw が始まる……. 起きていられるかな?? 

Just Like Starting Over

2005-12-09 | Half Time
12月8日。この日は何の日と訊かれて即答できる人達の世代は二つに分けられるかもしれない。1941年の同日(現地時間は7日)に日本軍が真珠湾を攻撃し太平洋戦争の幕開けとされた日。それから1980年の同日(日本時間は9日)元 Beatles のメンバー John=Lennon がDakota の郊外で Mark David Chapman と言う精神異常者の凶弾に倒れた日だ。当日 John は遺作となった久々の Album “ Double Fantasy “ の Recording の帰りであった。共に Studio から出て来た妻の Yoko は何かを食べて帰ろうと言ったが、John は当時5歳の息子 Sean が寝付く前に帰りたいと、そのまま帰途に着こうとした午後10時52分、M.D. Chapman に ” Mr.Lennon “ と声を掛けられ、振り向いたころを彼が撃ち放った5発の bullets に“I’m shot !!” と叫んで倒れた。その銃声を聞き付けた Doorman が飛んで来て時、そこに佇んでいた Chapman は銃を落としてそれを蹴り飛ばした。 Doormanが
”何をしたか解っているのか?“ との叫びに ”John=Lennon を撃ったんだ。“と応えたと言う。Chapman は Honolulu で就いていたガードマンの職を離れて New York にやって来て John を撃つ前に Yoko に”殺人予告“の電話を入れていたらしい。John が倒れ、Yoko達駆けつけた一団は、救急車を待たず Roosevelt 病院に駆け込んだが凶弾に倒れた15分後の午後11時7分、出血多量で帰らぬ人となった。病院に運ばれる間、医師の問いにはうなり声を上げたらしい。 Yoko は直ぐにはJohn の死は受け入れられず警察官に “ 彼は大丈夫だと言って”と取り乱しながら詰め寄ったとの事。また Chapman は現場から連行される前に持っていた“ライ麦畑で捕まえて”を捲っていたらしい。私はこのニュースは当時高校に登校中にあるサラリーマンの読んでいた朝刊で知った。私の年代の Disadvantage のひとつとして物心が付く前にメキシコ五輪でのサッカーの銅メダルと Beatles の全盛期が存在していたと言う事がある。あと4~5年早く生まれていればこの両方の歴史的事象は見られたはずだった。私が Beatles に興味を持ったのは解散後5年以上が経過した中学時代であった。Beatles が解散後でも、影響力はまだ大きく彼らのサウンドを聴いて衝撃を受けた中学生は多かった。日本代表のワールドカップ出場と言う夢は叶ったが、Beatles がいつの日か再結成をしてくれないか?と言う夢は実現しなかった。しかし私は当時どちらかと言えば Paul McCartney の方に興味があった。それはおそらく解散後の活動の違いがあると思う。Paul は Album “ Wings Over America “ のリリースに見られる通り、”コンサート活動“にもいそしんだか、彼の作品はヒットチャートの上位にランクされる事が多かく、知る限りでも Silly Love Song, May be I’m Amazed, Mull of Kintyre , With a little luck, 等が英国、米国( Billboard Magazine ) で1位になった。80年代以降は Michael=Jackson や Steavy = Wander らと Duoを組んだりとした。またソロ活動直後に発表した McCartney, RAM 等もよく好んで聴いた。一方の John=Lennon はヒット曲を作ると言うよりも、自分の芸術を磨くと言った気がしてならなかった。ソロ活動開始後 リリース された Number では Imagine と言う世界的に有名になった曲はあるが、それ以外のシングルタイトルを言える人は多くは無い。そして皮肉な事に遺作となった Double Fantasy が最も売れた Album であり、そこからシングルカットされた Just Like Starting Over が最初の Billboard 誌の1位となった。もし彼が凶弾に倒れなかったら?と言う人も少なくない。1998年にリリースされた Lennon Legend は130万枚売れたが今年10月に発売された “ Working Class Hero “ は18万枚の売り上げの後にチャートから消え、 Double Fantasy の前、1975年2月に発表された Rock “N” Roll の今年発売されたリバイバル版は32,000枚しか売れていない。だが1981年2月に Ringo Star との Collaboration 作品が決まっていたのでもしそれが発売されたらきっと売り上げは悪くなかったと思う。事実、彼の死を偲んで Beatlesの元メンバー3人が手掛けた All Those Years Ago ( George=Harrison が Vocal ) は全米、全英共に1位となった。 だが彼の価値は営業的な数字で計られるものでは決して無い。きっとBeatles 時代の晩年から自分の芸術に没頭をしたかったのだろう。その思いは Yoko=Ono との出会いによって拍車がかかったのではないか?彼を知る人々はその代わり振りを “ Before Yoko “ “ After Yoko “ と区別できると語った。今日 AFN のNews を通じて彼女のインタビューを聴いた。Beatles 世代の何割かは”Yoko の出現が Beatles の解散を早めた“と言う人もおれば ”いや Manager のBrian Epstein の謎の死だ“と言う人もいる。Beatles が全盛期であった1960年代の英国はどうだったのだろう?それは今でもたまに思う。もう彼らの様なグループは出てこないと断定出来るのは時代の違いから来るのかもしれない。最近は英国人でも “ Beatles は Classic ”と言う人も。私もそれだけ年輪を重ねたのかな?

ワールドカップ 組分抽選 

2005-12-08 | FIFA World Cup
12月9日 Leipzig にて、来年6月から開幕する FIFA World Cup の組分け抽選が行われる。6日にシード国8カ国の発表等があった。前回優勝のブラジル、地元のドイツを初めシード国は下記の8カ国だ。
1 Brazil 5 Mexico
2 England 6 France
3 Spain 7 Argentina
4 Germany 8 Italy

今大会はメキシコが(地元開催の70年と86年大会を除いて)初めてシードされ、FIFA Ranking 2位のチェコ、3位のオランダがシード落ちした。 日本を含むアジア4カ国は中南米3カ国と同じ第4ポットで逆シード?されている。 このシード国、何故チェコ、オランダでなくメキシコが入ったのか?
それは大会委員会が前回と前々回のワールドカップと過去3年間のFIFAランキングを独自の計算方法ポイント化しその総合計によるものだ。 例えばブラジルは98年大会が準優勝、前回が優勝、FIFAランクでも2003年から3年連続して1位なので総合計64ポイントで2位にシードされたイングランドの50ポイントを大きく引き離して堂々1位にシードされた。オランダは前回予選落ちなのでその分ポイントが下がり総得点は10位。また2大会連続出場で前回はベスト8のアメリカがこの3年間でも常に上位にFIFAランクに顔を出していたので8位のイタリアに1ポイント差の9位だった。アメリカがシードされる可能性も十二分にあった。この3年間FIFAランクが6位、4位、2位と好調のチェコはここ3大会連続で欧州予選落ちしており、この計算方法で行くと日本の12位を下回る16位。アジアでは韓国が前回の4位が大きく得点を稼ぎ最新のFIFAランクでは29位(日本は15位)ながら日本より1つ上の11位にランクされていた。FIFAランクは当てにならないと言われているが、実はこんなところで影響を及ぼしていた。 1998年のワールドカップ予選で“新規参入”した当時のユーゴスラビアがスペイン、チェコといった強豪ひしめく組に入れられたのも同様の背景があった。 今はセルビア=モンテネグロと名を替えた旧ユーゴスラビアは最新のFIFAランクでは47位で欧州勢では最も低いランクなので、欧州の国がシードされているグループには振り分けられず、メキシコ、アルゼンチン、ブラジルのいずれかと同組になることとなった。 シード国の全ては恐らくチェコ、オランダには来て欲しくないであろう。そして我が日本代表であるが、出来ればメキシコの組に入って欲しい。そしてそこにセルビア=モンテネグロが入って残るはアフリカ勢で、今回の計算方法では下位3カ国を占めるガーナ(30位)アンゴラ(31位)トーゴ(32位)のいずれかが来てくれればと願うがそうはいかないやろなぁ..... 
この抽選では過去様々なドラマがあった。その1つに32年前に同じドイツで開催された大会で、ウルグアイ、イタリア、ブラジルと並んでシードされた地元西ドイツと同じA組に東ドイツが組み入れられ、史上最初で最後の東西ドイツ対決が実現した。1978年大会は地元アルゼンチンがシードされたA組がイタリア、フランス、ハンガリーと同組の“死のグループ”となり開幕までの数ヶ月間、国民を不安にさせたが最後は優勝で幕を閉じた。1966年のイングランド大会の抽選は初めてテレビ中継され、1998年のフランス大会がマルセイユの Velodrome競技場に38,000人の観客を集めるショー化された抽選会であった。そして1970年のメキシコ大会。それまで8大会全てに出場を果たしながら通算20試合中1勝1分け(対ウェールズ 1958年スウェーデン大会)18敗と全く相手にならなかった地元メキシコ。(その1勝も1962年大会、既に1次リーグ突破を決めたチェコスロヴァキアが相手の消化試合)結局史上初めてベスト8に進出する事になったのだが、組み分け抽選では当時大陸別のシード制は無かったが同じ北中米地区のエルサルバドルと同組になる幸運?に恵まれ、欧州勢からは不正があったのではと疑われる一幕も。
今大会、日本の対戦相手は? こういった楽しみが味わえるようになったのもわずか8年前からでそれ以前は“あぁそうなったのか”程度であった。 昔夢に見ていた事が現実となったという幸福感を改めて感じる。

2005.12.03西京極にて

2005-12-04 | 京都サンガ J-League
ロスタイム表示が3分と出た。まだチャンスはある。その直後、スルーパスに反応した小原がフリーで抜け出しペナルティーエリアにあと1m未満に迫った時、甲府DF杉山が田原を後方から引き倒す。主審は迷わずPKを京都に与える。そしてレッドカードが杉山に出される。だがそれでは済まない。レッドカードに不服を唱える杉山。そして反則があったのはエリア外と主張する甲府イレブン。主審は線審に確認し直接FKに変更。今度はサンガイレブンもベンチも黙っていない。私の席からは明らかにエリア外と見えたのでPKかFKかで揉めていたのは後で知った。だが線審がそれを見過ごしていたら歴史的な誤審となっただろう。小競り合いが続く中、更に甲府の阿部、秋本そして京都の鈴木和裕にも警告が出される。まだ杉山は出て行かない。サンガベンチからも“早く出ろ!早く始めろ!”と控え選手、コーチ達が叫ぶ。そんな中、甲府の大木監督はFW長谷川に替えてDF青葉を投入するしたたかさを。やっと杉山がピッチから出て行く。甲府はペナルティーエリア内に全選手が入る。壁の位置を巡ってまだ小競り合いが。そして鈴木悟が右足を振りぬき甲府ゴールに向かって飛んだボールがポストを叩く金属音とサンガサポーターの溜息。そして数十秒後にホイッスル。数分前に知ったであろう“仙台引分”の結果から3位確定を知った甲府イレブンとベンチは喜びを大爆発させ、同様に遠路甲府から駆けつけたサポーターで埋まるアウェィサポーター席も狂喜乱舞。私はまずこの結末をベガルタサポーター達がどう受け止めるのだろう?との思いが去来した。甲府選手とサポーター達の歓声が渦巻く中、場内は地元サンガのシーズン・ファイナルセレモニーが始まるアナウンスが告げられるが、しらけムードを背に次の用事の途に着いた。出口でJ2優勝記念品を受け取り、一年間尽くしてくれたボランティアーの人達に労いの言葉を残し、競技場の周囲を歩いていると陸上自衛隊第三音楽隊の奏でる演奏が聞えて来るがそれが空しく感じる。いかに表現したら良いのか?サンガにとってはJ2優勝そしてJ1昇格を決めた後の消化試合、しかしその結果によって、しかも敗戦によって泣かされるチームの事を考えると。競技場に着いたのは後半開始直後であった。いつもながら自分の時間のルーズさには我ながら呆れてしまう。だがこの日のサンガの試合振りも同じだったか?既に目標は達成していた。その後の試合は消火試合と呼ばねばならぬか?シーズン100勝点、最終戦と動機付けはされてきたはずだが、それ以上に“入れ替え戦出場”という目標の方が明確であったのだろう。それともこの日の観客動員数 8,803 と言う数字は最終戦にサンガイレブンの闘志を再燃焼させるには少なかったのか? 甲府は左サイドから攻撃の起点となる藤田をサンガDFが二人掛りで対応するがこの日の甲府は藤田だけでなく、全選手が身体を張って来る。58分、66分には石原、18分には倉貫が惜しいシュートを放つ。特に66分藤田から始まった左からの波状攻撃は今季あった3度の直接対決の結果を確認する必要性を感じさせられた。球際のしつこさ、選手の運動量は上位チームとの対戦のお手本を示していた。サンガのパウリーニョは既に療養の為に帰国。アレモンはベンチ入りせず、とベガルタサポーターからは“どういうつもりだ?”と言われてもおかしくない布陣。それでも田原豊のポストプレーを生かすべくロングボールが後方から何度か入るが、甲府DFの寄せも早くその後が続かない。68分には田原のポストから好機を掴むが後半、松田に替わって投入された美尾はタイミングが合わない。甲府の攻撃は単純だがそれだけに全選手が明確に動ける。セットプレーの際には長身DFのアライールそれから杉山まで上がって来る。69分の長谷川からの危険なクロスは何とか凌ぐが71分に再び長谷川がペナルティーエリアの少し外から放ったショットは幸運にもGK西村の正面。甲府選手の豊富な運動量にサンガDFは後手にまわりマークがずれてバイタルエリアへの侵入を容易に許してしまう。確かに1対1の局面はサンガの選手に分があるが、数的優位を保たれるのでピンチを招く。72分に、甲府は中盤の石原を下げてFWの須藤を入れて攻撃の枚数を増やす。その上DFアライールの攻撃参加も顕著だ。これはサンガが田原のワントップ気味の前線で甲府は左を藤田、右を須藤、または倉貫が抑えているのでサンガの右、美尾そして左からは中払がサポートに上がれない。77分にようやく田原のパワフルなミドル、続いて加藤大志の右からのドリブル突破でアタッキングゾーンに侵入するが得点に結びつかない。78分、京都柱谷監督はFW小原を中払に替えて投入。FWを増やす事でこの試合の2点目を取りに行くサインを出したなと思った後の80分。甲府に逆転ゴールが生まれる。またも藤田に左サイドを上がられようやくペナルティーエリア付近、DF二人がかりで止めたかに見えたが藤田はしぶとくボールをキープ。最後は不用意な足払いを掛けてFKを謙譲。そのFKを藤田自らが中に送り最後は長身DFアライールが押し込み均衡を破った。これでようやく目覚めたサンガは田原、美尾、小原の3トップでゴールへ迫る。しかし甲府もペナルティーエリア内に7~8人が入り必死の守備。京都の中盤のドリブル突破を警告覚悟で止めにくる。サンガもそれで得たFKにMF加藤、DF大久保まで上がって来る。89分鈴木悟の直接FKは枠を外れ、その後の波状攻撃から最後はループシュートがポストのわずか上に。そして冒頭で述べたロスタイムに入った最後のFKも。 
今季京都は開幕戦、水戸相手に0-2から逆転で勝利を収め第一クールを無敗で終え、結局シーズンわずか7敗、2位福岡に19勝点差を付けての独走で優勝を収めJ2に別れを告げた。今季J1に昇格した川崎、大宮は無事に残留を果たしたが今季のJ2はJ1チーム数拡大に伴いJ1からの降格チームが無く徳島、草津といったJFLからの昇格組を加えたのみのリーグ戦となれば昨年の川崎Fの独走とは一緒に出来ない。来季に向けて柱谷監督は“スピード、正確さ、強さ、クリエィティブなところで個々のレベルアップの必要性を感じた”とコメント。最終戦を見る限り、課題は山積みと言えるだろう。今年昇格を果たせなかったチームの為にも来年は“J1に昇格組サンガあり”と他のサポーター達に思わせるようなチームになる事を望む。そして夢はJ League 王者からAFC王者そして世界クラブ選手権へと、何年かかるかはわからないが期待させて貰いたい。



J League 最終節

2005-12-03 | 京都サンガ J-League
今日12月3日は日本各地でJ League の最終節が行われる。J1は5チームが優勝争いに絡み J2 では仙台と甲府がそれぞれ福岡、京都と昇格決定チームと対戦し3位の座を競い、来週末、柏との入れ替え戦への挑戦権を争う。 面白いのはJ1,J2 優勝争い、昇格争いの対象チーム全てが当該同士の直接対決が無い事だ。であるから5位の千葉まで優勝の可能性が出て来たが、下の表を見ていただこう。

1 C大阪 勝点58 得失点差 +8 対戦相手 FC東京 Home 最近5試合 2勝3分
2 G大阪 勝点57 得失点差 +22 対戦相手 川崎F Away  最近5試合 1勝0分4敗
3. 浦和  勝点56 得失点差 +24 対戦相手 新潟   Away 最近5試合 3勝0分2敗
4. 鹿島  勝点56 得失点差 +18 対戦相手 柏    Home 最近5試合 0勝4分1敗
5. 千葉  勝点56 得失点差 +13 対戦相手 名古屋  Home 最近5試合 3勝1分1敗

勝点56千葉が優勝するのはかなり厳しい。得失点差が +13 なので名古屋に勝って勝点を59に伸ばしてなおかつ首位のC大阪以下全てが引分か敗れなければ優勝に届かない。まずこれは考えがたい。ここ5試合で勝点10と最も勝点を伸ばしているが、他力本願の部分が最も高い。しかし千葉の最後の進撃が優勝争いを面白くしたのも事実。 4位の鹿島。サポーターは悪夢の様だろう。一時は2位に勝点10差をつけて独走していたのだが。しかし最終戦がホームの柏とは運が残っている。柏は早くも来週の入れ替え戦モードの上にエース玉田が離脱。ベテラン本田にもう一度花を持たせようと言う意気込みも。初代のJリーグ(前期、当時はサントリーシリーズと呼んでいた)王者が安定した強さを続けているのは素晴らしい事だ。この5チームの中で最終戦での勝点3が最も期待できるのが鹿島だろう。3位の浦和は相変わらず浮き沈みが激しい。○●○●〇とくれば今度は??シーズン途中でエメルソンの退団と田中達也の怪我離脱がありながら踏み止まっている選手層の厚さはさすがだ。得失点差が最も良いのは強みだが新潟も反町監督最後の指揮と言うことでモチベーションも高く easy な相手では無い。勝利を挙げれば優勝に大きく前進する。2位のガンバ。一体どうした?といったところか。宮本が怪我をおしてのプレーだが余り無理はして欲しくないな。(ワールドカップの為に)川崎フロンターレは5年前、C大阪の悲願を打ち砕いた相手だ。これまで対ガンバ戦0勝という数字は関係ないだろう。ガンバの攻撃陣アラウジーニョ、フェルナンジーニョそして大黒、右サイドのシジクレイが好調時の様な動きが出来れば優位に立てるが。川崎FもJ League 創設時からの選手相馬のラストゲームと言う事で抵抗は受けるだろう。最後にセレッソ。先述した5年前の悪夢を払拭すべく舞台だ。やはり地力で決められるのは大きい。森島、西澤、当時の悔しさを知りその後にワールドカップの舞台を踏んだ二人に残された称号はJの王座だ。だがFC東京はここ11試合6勝5分で負け無し。相手より勝ちたいと思う気持ちの強い方が勝者になる。 ずばり予想しよう。本命はセレッソ大阪。対抗は浦和。そして大穴は鹿島。
一方のJ2の3位争い。愛する京都パープルサンガが2年滞在した2部をようやく卒業してくれて感激もひとしおだ。おかげでこの2年間殆どJ2ばかり見ていた。愛する京都と福岡に続いて入れ替え戦出場を賭けて仙台と甲府が最終戦に臨む。

3.仙台  勝点67 得失点差 +19 対戦相手 福岡   Away 最近5試合 3勝1分1敗
4.甲府  勝点66 得失点差 +13 対戦相手 京都   Away 最近5試合 2勝2分1敗

仙台は一時3位も遠かったが底力を発揮。特に元日本代表GK高桑が起用される様になってから順位を上げついに3位に。J1経験チームとは言え今季は都並新監督の元、メンバーが固定せず苦戦も続いた。京都、福岡との直接対決で結果が出なかった事が今の順位を象徴している。最終戦も今季2敗1分の福岡相手にアウェーで苦戦は必至。勝敗を決めるのは高桑の神掛かりのセーブと監督采配。前節使われなかった財前、熊谷の起用は?成長著しい菅井はどう使われるか?都並監督は先制点を取りに行って後は守るのか?それとも守って守って最後に攻撃を投入するのか? だが仙台サポーターには強い見方が。甲府の相手は我が京都である。今季京都は対甲府戦3戦負け無し。西京極での最終戦を勝点100で締め括り以降J2には二度と戻って来ない事を私に約束して頂きたい。(もし京都が負けたら仙台サポーターの方達許してください。) だが甲府の頑張りはJ2を大いに面白くしてくれた。一時は解散も噂され、選手たちはコンビニでアルバイトをしていた年もあったのだ。こういうチームこそ近い将来J1に昇格して欲しい。 今年でJ League は13年目を迎えた。発足時に在籍した選手も数えられる程に。その前のJSL時代からまだ頑張っているカズや中山は本当に凄いと思う。しかし、プロリーグに間に合わなかった優秀な選手も沢山いた。我々の世代はそういう選手の存在を後世に伝える事だと思っている。もうあの低迷していた時代には戻りたくない。J League よ、これからもっ!!だ。

2011年 Rugby World Cup

2005-12-01 | Half Time
話が遡るが11月17日 IRB で6年後のラグビーのワールドカップの開催地の投票が行われたが残念ながら日本は決戦投票で敗れてニュージーランドが第一回大会以来24年ぶりの開催と決まった。実はこの開催地決定に就いては私はかなり楽観をしていた。11月13日付け Sunday Times 紙上に”Japan is the best choise to host the 2011 World Cup" と言う行で始まる Mr.Stephen Jones のコラムを見つけたからだ。では何故敗れたのだろう?もっとも南アフリカが決選投票に残れなかったのが欧州勢には驚きであったらしいが。そこにラグビーというよりもスポーツ以外の利権が絡む様々な要因があった。南アフリカ共和国に就いてはInternatioal Rugny Board ( IRB )Technical Report では Best host と記されていたらしい。ニュージーランド(以下NZ)はグリニッジ世界標準時間(英国の標準時刻でもある)+ 12時間というのが原因で試合時刻が欧州ではテレビ中継に良い時間とは言えないとか、競技場、インフラの整備が貧弱と言うことで不利と報道されていた。この開催地に就いては16の国と地域の代表の投票によって決められたがその投票者は以下のとおりだった。

立候補国  日本①、NZ②、南アフリカ②
各大陸協会 オセアニア① 欧州① アフリカ① アジア①
国別    アルゼンチン① カナダ① オーストラリア②
6 Nations スコットランド② アイルランド② ウェールズ② フランス② イングランド② イタリア①

上記の国、および地域の横に円で囲っている数字が投票数だ。従ってイングランドを始め列強国は1ヵ国で2票数を投票することになる。 第一回目の投票では立候補を除いた13の国と地域で投票され1番得票数の少なかった南アフリカが落ちた。Sunday Times の予想ではアフリカ協会、アルゼンチン、イタリア、そしてアイルランドからの支持が得られるとの事であった。アフリカ協会は述べるまでも無く、アルゼンチンは地理的な事から、イタリアは時差の関係からテレビ中継時間が最も良い時間に放映出来る南アフリカの支持と考えられた。だが南アフリカは第1回目で落ちた。それは恐らくフランスの支持を得られなかったからであろう。協会の Chief Exective, Mr.Francis Baron は日本を支持するとは表明していなかったがフランスは南アフリカか日本かどちらかの支持が予測されていた。 日本にはアジア協会とオーストラリアからの支持を取り付けたと。オーストラリアの支持はライバルのNZが開催地となっては優勝にマイナスが働くからだ。そしてコラムは不可解な IRB に提出された報告書にもコメント。 NZの競技場の事には触れられず、日本がかつて東京五輪や2002年の FIFA ワールドカップの開催を遂げた事を無視して”メジャーな大会を開催した経験が無い”と報告されていたらしい。そしてご存知の通り開催地はNZに決まった。当地 NZ に在留している日本人の方々はこの決定に現地の人々の感想は異口同音に" 率直にLuckey の一言に過ぎない”との事。まず決め手になったのは同国女性首相である Helen=Clark 自らが最後のロビー活動に陣頭指揮をふるった事。日本は森前首相を誘致団長に据えたが私は彼は適役ではなかったと断言できる。1998年のフランスワールドカップ前に当時首相であった森氏は日本選手団との会食で中田英寿に”日本はね韓国ではまだ韓国に勝った事がないんだよ。”と堂々と失言し中田が”それ誰に訊きました?”と尋ねると”川淵君が言っていたよ”と根拠の無い嘘か誤解を堂々と、すると中田は”僕達勝ちましたよ”とさらりとワールドカップ出場のきっかけとなった前年11月のソウルでの韓日戦の事を説明。それを聞いた森前首相の表情は永久保存版であった。まぁいくらラグビー経験者とは言えこんな人に旗振りを依頼した日本協会の人選は??だ。それと、All Blacks だ。11月20日の England 戦で勝利を収めるなど England, Ireland に遠征を慣行。8月にも British & Irish Lions が New Zeland に遠征するなど交流が盛んだ。しかも既に今後5年に渡って All Blacks が両国に遠征し続ける見返りに英国協会の得票を取り付けたと言われている。All Blacks のテストマッチは協会にとっては文字通りドル箱だ。 これは残念ながら日本には出来ない事だ。だが、ワールドカップの開催の本質を考えれば、ラグビーの世界的な普及を考えれば、日本が適切だと Times は述べており、今回の決定は前回大会がオーストラリア単独開催になったことへの同情も否めないとの事。 おそらく日本の企業がラグビーワールドカップのスポンサーの多く名を挙げるだろうが、もし彼らが”日本開催以外はスポンサーにつかない”と言えば満場で日本に決まった様な気もする。すこし日本はお人好し過ぎたのだろうここでも。ラグビーは少し専門外なので皆様のご意見をお待ちしております。