Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

全国高校サッカー選手権大会 隔世の思い

2010-01-24 | 五輪 U-20, U-17

録画していた決勝戦のビデオをようやく再生する事が出来た。この選手権が終わると3学期が始まってしまう…. 高校の時のそういう思いがよみがえる。

今年の選手権の決勝戦は青森山田高校と山梨学院大学付属高校。共に勝てば初優勝だ。関大一高との激戦を制して決勝戦に進出した青森山田は2年生ながら“超高校生”のボランチ柴崎君を始めGK櫛引君、CB中山君, 右サイドバック中島君、柴崎君とボランチを組む椎名君 FW 野間君の6人が昨年もレギュラー。柴崎君だけでなくGK 櫛引君の1年生からレギュラーだったのか、これじゃぁPK 戦でも苦戦するわけだわ.....
一方の山梨学院大付属は初出場。初出場で初優勝となれば1986年度の東海第一以来となるが青森山田相手に苦戦は免れまい、厳しい戦いとなった準決勝を勝ち抜き、昨年からの経験者が多いので青森山田の有利と私は予想していた。しかし山梨学院を引き入るのは67歳名匠横森監督。 韮崎高校等の監督を歴任した大ベテラン。晴れの舞台に選手の力を引き出す術は充分に持ち合わせた監督だ。
山梨学院、青森山田の校歌に続いていよいよ山梨学院のキックオフで決勝戦が始まった…

全国高校サッカーと云うと、関西人の私はいつも不公平を感じていた。
昭和51年度大会から首都圏開催となったこの大会、それ自体はいいのだけど、試合は首都圏各県で分散して行われるのだが常に東京都の代表校が入ったブロックは駒沢や西が丘で試合が行われ、埼玉県代表が入ったブロックは大宮競技場や駒場で行われ、神奈川県の代表校が入ったブロックが三ッ沢競技場で行われる等圧倒的に関東の高校に有利な会場の割り振り。千葉県の代表校が三ッ沢や駒場で試合を、東京の代表校が入ったブロックが大宮や西が丘で試合をしてもいいのではないか?と思って来たがそれは未だに変わっていない。 ある時専門誌がその件に就いて大会当局に問い合わせをした記事を読んだがその際の回答は“試合で使われる競技場は県営だから地元の県の為に使うのが原則…と云う回答にならない回答だったらしい。そのせいか、首都圏開催となってから6年連続で優勝校は関東の代表校( 1976 浦和南、77,79帝京、78,80 古河一、81 武南)だった。
それをストップしたのが1982年度あの“三羽ガラス”を擁した清水東高校だった。その時の決勝戦の相手が山梨県代表の韮崎高校で横山監督が指揮していた。
この時の大会を私は憶えている。大阪代表は摂津高校で、近所に住んでいた2学年下の同じ中学に通っていたサッカー部員が2人出場していた。摂津高校は残念ながらPK戦で神奈川県の旭高校に敗れたが関西の代表校では京滋(京都府と滋賀県)地区代表の守山高校が準決勝に進出。そこで当たった韮崎高校との一戦はまさに激戦。試合は1-1 ですすみ終了直前に韮崎高校はPKを得るがこの絶体絶命のピンチに守山のGKはこのPKを見事にストップし勝負は PK 戦にもつれ込んだ。残念ながら守山高校はPK戦で涙をのんだが、個人的には話題の多かった大会と覚えている。守山高校には後に大商大、日本鋼管、浦和レッズそして京都サンガで活躍し代表入りも果たした望月聡がいた。 私が大学時代、当時の守山高校のレギュラーの1人が入学して来て、結構色々話をしてくれた。
この大会で決勝進出を果たした韮崎高校はそれが4年間で3度目 ( 1979, 1981, 1982 ) の準優勝となった。

試合は私が劣勢を予想した山梨学院が開始から押す展開。横森監督は最初から飛ばして主導権を握れと指示したらしい。1分21秒には左SB伊東君がドリブルで突破しCKのチャンスを得るとショートコーナーで繋いで主将の碓井君がミドルを放つ。4分29秒にもボランチ宮本君がミドルを放つなど積極性を見せる。
青森山田も7分59秒野間君が左サイドを抉り中に入れるが走り込んだ柴崎君にわずかに合わない。9分40秒には相手のクリアーをそのまま成田君がミドルを放つがこれはバーの上。そろそろエンジンがかかり出すかと思うも 10分13秒には山梨学院、伊東君の素晴らしいスルーに走り込んだ佐野君がフリーで撃つがGK櫛引君がナイスブロック。そして11分、青森山田、遠藤君のドリブルを奪ったMF鈴木君がそのままふわりと相手ペナルティーエリア内にボールを入れるとそこに伊東君が走り込む。伊東君が横濱君がマークに入る前に後ろに戻すと碓井君がワントラップし椎名君と横濱君がマークに入る前に放ったショットがゴール右上隅に決まり先制点を挙げた。

    

開始から山梨学院、は中盤とDFラインの縦の動きが早くこの得点シーンも相手のカウンター攻撃に移るところを奪ったところから。そして再三見せいていた左からのサイド攻撃であった。両チームともこれまで今大会は常に先制ゴールを奪い試合の主導権を握って来た。青森山田は初めてリードを許す展開。しかも準決勝の関大一戦から3連続失点となった。
しかしこれで試合は面白くなると思った。だが相手ゴール前に迫るのは山梨学院ばかり20分には鈴木君から素晴らしいスルーが佐野君に通るがここはシュートまで持ち込めない。その直後青森山田はゴール正面で野間君にボールが渡るがあっという間に3人のDFに囲まれ後ろに下げられる。 山梨学院は一歩が早い上に少々距離があってもどんどんシュートを撃ってくる。 そして DF陣が前に出て来たところを2トップの伊東君、佐野君が裏を突いてくる。青森山田は相手左サイドの押し上げが良いので相対する遠藤君がなかなか前に出られない。関大一戦ではあれだけ出てこれたのに。椎名君は足の調子がいまいちなのか、この日は少しおとなし気味。
25分には左サイドの三田君からのクロスに野間君がDF関君と競りながら撃つがポストの左に外れて行く。 28分には中島君のドリブルから柴崎君が撃つがこれは相手DFに当たりGK松田君の正面に。さすがU-17 コンビだ。 
30分、山梨学院にアクシデントが。右サイドバックの井上君が怪我でベンチに下がらざるを得なく。 替って入ったのは3年生の渡辺君だった。 この時間を過ぎたあたりからようやく青森山田の攻撃が目立つようになる。MFの三田君と渡邉君が左右ワイドに開き更に両サイドバックのフォローが早くなった。 43分には中田君と競り合いながら走り込んだ野間君が突破しようとするところをGK松田君がエリアから大きく飛びだしスライディングを入れたプレーがファールそしてイエローカードが出され、いい位置で青森山田がFKを得る。 これを椎名君がゴール前に入れるが走り込んだ野間君と赤坂君にわずかに届かない。山梨学院がリードのまま前半が終わった。青森山田の同点ゴールは生まれるのだろうか….

  

後半に入って立ち上がりの48分、相手ボールを奪って繋ぎ三田君が粘って柴崎君に送りミドルを引き出すがボールはバーを越えて行った。後半は開始から青森山田が攻勢に出るかと思うが53分山梨学院、藤巻君のシュートがクロスバーを直撃する。 54分は佐野君のドリブル突破を中山君がたまらずファールで止めてFKを献上する。このFKを碓井君が直接狙うがGK櫛引君の正面に。56分、今度は青森山田がFKのチャンスを掴むが柴崎君のFKは壁に当たりそこから一気にカウンターを許す。最後は右サイドから平塚君がクロスを入れるが中島君が目いっぱいに伸ばした足に当たり中には入らなかった。 ゴール前には2トップの伊東、佐野の両君が迫っていた。

スタンドからは両校のサッカー部員を中心とした応援団からの大きな声援が飛ぶ。青森山田のこの日のスタメンは5人が2年生だが、スタンドには多くの3年生部員もいたと思う。それは山梨学院も同じだろう。高校野球やサッカー等の中継を見ていつも思うのだが学校に100人近くも部員がいる事は決していい事ではないと思う。最近はクラブチームに行く選手が急増するが、中高一貫の選手育成が出来る事ys指導者の事もさることながら部員数が適正であるということももう一つの理由かもしれない。 そして高校サッカーを取り巻く環境も激変していると聞く。 一昔前は高校選抜、大学生がユース代表、今のU-20 代表の中心だった。そこに日本リーグの20歳以下の選手が何人か混ざる程度だったが、当時の“会社事情”からなかなか社業を離れられない選手も多かった。 Jリーグがスタートし、Jリーグの下部組織が充実しそこから殆どの代表メンバーが選ばれる様になった。
ある時協会と少し関係のある人に“こう言った選手は学校生活をどうやって両立させているんでしょうか?”と訊いたが、返って来た答えは

 “行ってないんじゃないですか?” 

だった。訊けば通信課程を履修し高校卒業の“資格”を得る選手が多いそうだ。 そして“高校サッカー部員”でありながらその学校の通信課程を履修して単位をとらせる学校もあるらしい。 
矢板中央高校の様に高校総体が終わって受験に専念するために引退するのか、選手権の為に部活を続けるのか... という悩みや議論の方がずっと健全だと思う。
最近は体育課やスポーツ課を持つ私立そして公立高校が増えたが子を持つ親としてはちょっと心配になる話だった。 

青森山田はなかなかシュートチャンスが掴めない 68分 山梨学院は相手ゴール前でDF2人を引き連れヒールで戻したとところを碓井君がそのままミドルで狙うがGK櫛引君が防ぐ。 70分、リードしている山梨学院は佐野君を下げて U-18 代表の187cm2年生の加部君を投入する。 加部君はこれで全て途中出場を果たした事に。 その直後ゴール正面をドリブルで上がった加部君が右サイドの平塚君に送り再び中の伊東君に送られるが惜しくも合わない。 73分柴崎君のCKをGK松田君が弾くがこぼれ球を野間君が撃つがその強烈なショットは再び松田君がブロック。惜しい決定機だった。
73分青森山田ベンチは最初の交替選手星君を遠藤君に替えて投入する。これを機に青森山田が右サイドからの攻撃が活性化され攻勢に出る時間が続くが、ゴールが遠い。刻一刻と時間が過ぎる中、89分13秒、山梨学院は3年生の羽東を鈴木君に替えて投入する。羽東君は今大会2試合目の起用だが最後に3年生が入って私は“あぁ良かった。”と思った。 
45分を過ぎてロスタイムが4分と記される。この4分、両チーム感じ方は違うだろうなぁ…. 45分48秒後方から送られたボールが跳ねて長身の加部君が赤坂君と中山君の間を上手く長身の身体を使ってコントロールし最後は至近距離からシュートに持ち込むがここは櫛引君がファインセーブでストップ。同点ゴールの夢を繋ぐ。 
青森山田はボランチを椎名君の一枚にし柴崎君を前線に上げるが2人、3人と囲まれ中々ボールを出せない….. そして49分11秒、試合終了を告げるホイッスルが鳴り山梨学院が初出場初優勝を果たした。



青森山田は優勝へのプレッシャーが少しあったか….しかし上記した通りレギュラー選手5人が2年生。来年もチャンスは大いにあると思う。 

サッカーを続ける3年生もいれば辞める卒業生もいるだろうと思う。しかしベンチ入りできなかった選手こそ続けて欲しいと思う。 
柴崎君は鹿島アントラーズ入りが発表されたが高校はどうなるのだろう? 

多くの青森山田の選手達はロッカールームで悔し涙を流すだろう。そしてこのメンバーで戦える機会が終わった事を思うともっと涙が出るだろう。他校の選手達と同様に。
しかし全国優勝を果たした山梨学院の選手達も卒業時はそう思うのだ。

だが彼らに言いたい。 そう思える機会があったことが素晴らしいことだ。

これからの人生の方がずっと長い。だからこの日が君たちの支えになるのだ。

   

 

 


残念。決勝進出ならず。しかし最後は走り勝ったぞ……. 青森山田対関大一高

2010-01-19 | 五輪 U-20, U-17
1月9日 青森山田高校 2-2 ( PK 3-2 ) 関大一高

快進撃を続けてくれる関大一高の決勝進出の最後の関門は13年連続15回目の出場となる青森県代表の青森山田高校だった。
青森県代表と云うと最近は青森山田高の活躍がもう定番となりつつある。
昭和41年度に高校スポーツ界は色々改革があった。夏に全国高校総体、いわゆるインターハイが開催される事となり高体連の要請でサッカーもその中に入る事となった。文部省次官通達で高校生の全国大会は国体を除き年1回とされた事から冬の選手権は“選抜方式”となり参加チームも16に減り、総体の1位2位、国体ベスト4、各地区の推薦チームが出場する事となった。そしてそれまで50年近くに亘り大会を主催してきた毎日新聞が手を引く事となった。
しかし5年後昭和46年度、都道府県、地区予選制が復活し文字通り全国高校選手権大会が復活した。だが昭和59年度、第62回大会以前は今の様に各都道府県に1校出場枠が与えられておらず、大阪府こそ1校割り当てがあったが北奥羽地区に入れられた青森県は岩手県と出場枠1を競っていた。
北奥羽地区は、五戸高校(青森県,昭和 46~49 年度 54,55,57年度)と遠野高校(岩手県 50~53年度)そして盛岡商(昭和57,58 年度)の3校で出場権を分け合っていた。( 昭和57年度は記念大会だったので各県1校ずつ出場。)昭和61年度大会、青森県代表の五戸高校がベスト8に進出した時、少しセンセーショナルだったのを覚えている。そして今や各都道府県の力が均一化された事により県名で強弱を判断できる時代では無くなった。

青森山田高校は今大会優勝候補の一つ(と、私も思っていた。)ボランチの柴崎君と左サイドバックの中島君は10月にナイジェリアで開催されたFIFA U-17 大会のメンバーに選ばれまだ2年生の柴崎君は3試合全てに出場を果たした。そしてもう一人のボランチ、椎名君は 2011年 FIFA U-20 コロンビア大会に向けた現在の U-18 に選ばれている。だが最も注目されるのはやはり柴崎君だろう。1学年上の椎名君とのボランチは今大会の出場校の中でも群を抜いていると言われている。今年の AFC U-19, 来年の FIFA U-20 さらに2年後のロンドン五輪に向けて日の丸を背負う選手の一人ではと思われる。
そして2トップも得点力があり野間君が2得点、成田君が3得点、それぞれ今大会決めている。準々決勝えでは強豪の神村学園を 4-0 で粉砕した相手に北陽高校以来の大阪勢36年ぶり決勝進出を目指すには何とも厳しい相手。これだけタレントの揃ったチームにどうやって戦いを挑むのだろう….. と準々決勝戦に続いてまたも悲観的になってしまった。 

前半  序盤のチャンスを生かせず 連続失点を喫する 

スタメンは両チームとも準々決勝戦と同じメンバー。 関大一高が勝てるとすれば準決勝から試合時間が45分ハーフとなり、相手よりいかに走り続けられるか…と思った。しかし立ち上がりは関大一高の走力を警戒したか、青森山田は相手の出方を伺っているような気がした。 2分23秒、右サイドで梅鉢君が粘りを見せCKを得た関大一は、そのCKがファーサイドに流れフリーの小谷君に。しかしこれ以上ない決定機に驚いたのか?小谷君のヘッドはポストの左に外れてしまう。 ただ1メートル弱前の無人のゴールに流し込めば先制ゴールだったのに、本当に惜しいチャンスだった。ビッグチャンスを逸した関大一だったがその後も青森山田ゴールに迫りシーンが続く。8分43秒に得たCKから攻撃参加した右サイドバックの横川君が青森山田DF中島君とGK櫛引君の間からヘッドで落とし小谷君が再びシュートに持ち込むが得点には至らない。関大一高は準々決勝まで7得点のうち5得点がセットプレーから。ゴールエリア近くからの久保開立君のロングスローにも期待が掛かる。
15分50秒、小島君からボールを受けたエース久保綾佑君が放ったシュートはGK櫛引君がパンチでクリアー。そのこぼれ球を拾った久保開立君がGKの位置を見てループ気味にシュートを放つが惜しくもクロスバーを越えた。16分55秒今度は2列目の三浦君が右サイドを上がった濱野君に送りそのままドリブルシュートを放つがここもGK櫛引君がファインセーブでCKに。そのCK、ファーサイドの小谷君が中に折り返し横川君からパスを受けた久保綾佑君が放ったショットはまたもGK櫛引君がストップ。 立ち上がり、劣勢が予想された関大一だったが、小島(右)、横川(左)の両サイドの両君の上がりが早く良いリズムで攻撃を続けた。 
何とかこういう時間帯に先制点が欲しいなぁ…と思うも、優勝候補の青森山田は20分過ぎから徐々に押し返す。 2列目右サイドの遠藤君のドリブル突破から起点となり、成田、野間の2トップの両君のボールキープが目立つ。そして椎名君、柴崎君のボランチの2人が徐々に高い位置でボールを受ける様になって来た。 特に柴崎君は完全に別格といった感じで彼のところにボールが入ると何か決定的な事が起こりそうな雰囲気だった。関大一高MF陣の位置が徐々に下げられて来た。
そして30分24秒、成田君が右サイドからペナルティーエリア内にドリブルで切れ込んで来る所を、マークに入った小谷君のタックルがバックチャージと取られPKを与えてしまった。 納得のいかない表情の小谷君だったが、成田君のドルブルの加速が早く結果的にバックチャージとなってしまった。そのPKを野間君が右隅に決められ先制を許してしまった。 ここまで関大一は5本のシュートを放っていたが青森山田はこのPKが2本目のシュートだった。

   


この先制点で青森山田は一気に優位に立つ。 中盤の人数が多くなり関大一はどうしてもロングボールが増えてくる。ワントップの久保綾佑君はCBの中山君か赤坂君にしっかりとマークされている。何とかこのまま持ち堪えてくれよ、と思う中39分29秒、中盤で梅鉢君からのパスをインターセプトした椎名君がそのままドリブルで上がってくる。そして右サイドの方にボールを出すがそれが関大一高DFに当たり自分のところに戻って来て再びドリブルで上がってくる。小谷君がマークに入る直前に撃ったミドルがそのまま関大一高ゴールに吸い込まれ追加点を奪われてしまった。
自ら出したパスが相手DFに当たり良い位置にこぼれてきた幸運はあったが、やや前に出ていたGK堅根君の位置をよく見ての技ありのミドルだった。 

     

藤枝明誠戦では30分過ぎからの連続ゴールで主導権を握った関大一だが、この試合では連続失点を喫してしまった。目の前でミドルを撃たれた小谷君の悔しそうな表情が映し出される。 先制となるPKを献上したプレー、そして開始早々のビッグチャンスを逸したシーンを思い出したのかもしれない。 しかし、まだ試合は終わっていない、最後に走り勝ってくれ、と呟いた。
完全に主導権を握った青森山田は大きくサイドチェンジを見せる様になる。40分には遠藤君が濱野君と横川君をかわしてドリブルシュートを見せる。そのプレーぶりに解説の都並氏が“まさにリトルガンバの遠藤ですね。”と称賛。
よしわかった。卒業後は京都サンガに入団してくれ。(関係ないか??)

44分濱野君が右サイドで相手選手と交錯して倒れて立ち上がれない。 結局そのまま井村君と交代することに。スタンドから声が飛んだが軽く手を振ってベンチに向かう井村君は悔しそう。だが仲間の挽回を祈った事だろう。関大一高にとってはまさに弱り目に祟り目の展開となり前半が終わった。 

終了直前怒涛の猛攻 そしてPK戦  ほんまにようやった、おおきにやでぇ

2点のビハインドを追掛けるべく後半が始まった。 テレビのレポーターによると関大一高の佐野監督は選手達に

“これで負けたと思った奴は今すぐ青森山田ベンチに行って負けましたと頭を下げてこい!!まだ終わっていないぞ!!”と檄を飛ばしてピッチに送りだしたそうだ。 

そうだ、まだ時間は45分もある。時が経てば経つほど走力に勝る関大一高の有利になるのだ、と勝手に私も勇気づけられていた。

関大一は交代出場の井村君を2列目右に置き、三浦君は負傷退場した濱野君のポジションだった真中に入った。エースの久保綾佑君を含めばんばん攻撃に絡んでくれよ、と願う。
しかし、試合巧者の青森山田は後半ワンタッチでボールをスペースに出し関大一の運動量をかわす様な動きを。49分には成田君からボールを受けた野間君がミドルを放ち、51分には中島君からのパスを受け成田君が水田君、横川君がマークに入る前にドリブルシュートを撃つ。なかなかシュートに持ち込めない関大一ベンチは三浦君を下げ2年生の浅井君を入れて久保綾佑君と2トップにするが、それでも相手ペナルティーエリアが遠い。 58分には柴崎君が成田君とのワンツーで抜け出て三田君にスルーを通す。三田君はDFを引きつけ中に送ると野間君がフリーでスライディングシュート体勢に入る。 あぁ !! やられた!! と思うがシュートはジャストミートせずゴールには至らなかった。 
前半は攻撃面で目立った青森山田自慢のボランチ、柴崎、椎名の両君は後半は守備面でその威力を発揮し関大一の攻撃を分断する。 攻守に渡り効果的な動きをするこの二人にオーストラリア代表のボランチ、 Jason Culina と Vince Grella の2人を思い出した。( 関係ないか??)
走力があるとはいえ、2点のビハインドがあっては相手も“余裕を持って” 守備に人数をかける。青森山田のワンタッチ、ツータッチのパス回しに関大一はボールが奪えない。 このパス回しに見られる“阿吽の呼吸”は現在のピッチ上5人の選手を含めた登録メンバー9人が青森山田中学出身という“中高一貫教育”の恩恵かもしれない。関大一高も“中高一貫”だけど、青森山田とはその趣は異なる….
早く1点返してくれ、1点差になると大きく展開は変わる..と切実に願う。 75分に浅井君がようやく中島君と競りながらドルブルシュートを見せてくれたがゴールネットには届かない。 あぁ、ゴールが遠いなぁ…と思った直後の76分、青森山田ベンチは散々手を焼かせてくれたMF遠藤君を下げてくれた。 確かに後半は彼が目立つシーンは減ったが。
替って投入されたのは2年生の橘君。前の所属が野洲高校となっていた。何か事情があったのかな…
81分関大一高ベンチはCBの水田君を下げて3バックにし2年生の小畑君を投入し井村君との2トップに替え、久保綾佑君はトップ下のポジションに。 残り時間10分を切り最後の走力を振り絞って..と思った矢先、三田君に右サイドを突破され中に入れられたところを野間君にダイレクトで撃たれた。しかしその弾道はポストの左に外れて胸をなでおろす。 時間は刻々と過ぎるが関大一高のゴールシーンがなかなか生まれない。せめて1点返してくれよ、と思いだした89分、右サイドを久保開理君が上がり中の久保綾佑君に送るがシュートを撃てずにボールがこぼれそのこぼれ球を拾った久保綾佑君が横川君とのワンツーで抜け出ても一度中に入れる、そこに三浦君が入るが相手DFともつれる様に倒れてボールがこぼれる。それを拾った久保綾佑君がマークに入った中山君と椎名君の間を縫って放ったシュートがゴール右隅に決まり、関大一高が1点を返した。久保綾佑君のこれぞエースと思わせる強引なシュートだった。 

     


ワールドカップを前に今日本代表の攻撃陣に欲しいのは彼の様なゴールまでのプレー、シュートだ。かつては釜本邦茂氏が見せた様に。そしてKAZU 、ゴン中山、全盛期の高原。 関大一が一矢を報い、これで彼らも大阪に胸を張って帰れるだろうなぁ…( そうでなくても充分に堂々と帰阪出来るのだけど。) と思ったが、選手達はそうではなかった。 
俄然トップギアーに入った様にまさに押せ押せの展開となった。青森山田の選手達はリードしているのに明らかに動揺をしているのがわかる。そして焦りからファールが目立つ。そこで得たFKはGK 堅根君が蹴り、フィールド選手のほぼ全員がペナルティーエリア内に入る。 
そして91分22秒ドラマが起こった。 相手のファールで得たFKを堅根君が放り込む、それを拾った浅井君のシュートはCB 中山君に当たりこぼれ球を拾った小島君が放った低いライナーのシュートはファイサイドのサイドネットの内側を揺らし関大一が同点に追いついた。 
国立競技場に何とも形容しがたい歓声が湧き上がる。最後まで足が止まらなかった関大一高イレブンのその労が報いられた瞬間だった。

こうなりゃぁ、36年ぶりの決勝進出じゃ、大阪に優勝旗を持って帰ったれぇぇぇ っと叫んだ………

共にGKが2年生同士のPK戦は見応えあった。残念ながら36年ぶりの偉業は達成できなかった。 

    


だけど関大一高の選手、関係者達の御蔭で久々に熱のこもった高校サッカーテレビ観戦となった。私の中では何年経っても忘れられない劇的な試合だったと思う。 

スタンドで応援する選手達を含めた全ての部員、高校生達にこの試合を糧に素晴らしい未来が開けてくることを願った。

無念… 36年振り決勝進出ならず。しかし胸を張って帰阪してくれぃ !!

2010-01-18 | 五輪 U-20, U-17

終了直前、怒涛の攻撃で奇跡の同点劇を演じ、PK戦に持ち込んだ大阪代表の関西大学付属第一高等学校。しかしPK戦はファインセーブを連発する青森山田高校GK櫛引君の前にゴールネットが遠い。4人目を終わって2人のPKが止められ 2-3 とリードを許していた。
そして青森山田5人目赤坂君がボールをセットする。彼が決めれば関大一高の敗退が決まる。しかし長い助走から赤坂君が撃ったボールはゴールポストに当たりそのまま左に外れて行った。関大一高応援団から大歓声が上がる。私も拳を握った。
しかし次に蹴る梅鉢君が外せば青森山田の決勝進出となる。だが決めれば反対にこのPK戦で関大一高が優位に立てると思った。
梅鉢君がアップになる。ちょっと不安そうな表情。気になったなぁ…目がゴールの左側を何度か見る。こっちに蹴るのかなぁ…. 前の横川君は右側に蹴って決めた。しかし最初の小島君と2番目の久保君は左に蹴って止められている。PKはまず入るものと素人は思うのだけどこういう舞台では難しいだろうなぁ…梅鉢君が助走から蹴った方向は左側。すると櫛引君がまたもドンピシャのタイミングで右側に横っ跳びでライナーの弾道をブロック。この瞬間青森山田高校の決勝進出が決まり、大阪勢36年振りの決勝進出の夢が潰えた。

しかし大阪出身の私は本当に久し振りに地元高校がここまで躍進してくれて例年以上に大会を大いに楽しめた。関大一高サッカー部そして関係者に本当に感謝しなければならない。

1月5日 関西大第一 4-1 藤枝明誠 

関大一高が勝って大阪代表校が全国高校サッカー選手権大会で準決勝に進出するのは私が中学生の時以来32何年振りになるのかぁ…試合前にこう思った。
32年前、病院に入院中だった私は北陽高校が準決勝で東京代表の帝京高校と激戦を演じていた試合を当時入院中だった私は病室のベッドの上で他の入院患者さん達と共にテレビ観戦していた。
北陽は優勝した帝京高校に 0-2 で敗れた。帝京には後に日本ユース代表、そして日本代表にも入った宮内聡がおり、同様にユース代表とフル代表にも選ばれた浦和レッズでもプレーした名取篤が1年生で出場していた。余談だがとんねるずの木梨憲武氏も当時帝京サッカー部1年生だったらしい。
北陽高校には後に読売クラブに入団したGK 中村和哉がいたと思う。野球では何度も全国優勝しているのに何故かサッカーで勝てない大阪代表校…毎年比較的早く姿を消していたなぁ….

今大会、大阪代表は関西大学第一高等学校。私の高校時代は偏差値の高い男子校と云うのが印象。付属中学から入学した友人もいた。大学時代、関西では屈指の長距離選手が関西大学にいて彼は付属の関大一高出身だった。しかしサッカーの強豪と云う印象は無かった。だが今大会で出場は既に3回目。時代は流れているんだなぁ…と思った。

首都圏開催になって以来、大阪勢は特に関東勢には弱かった。1979年度大会から4大会中3大会、初戦で神奈川県代表の旭高校と当たり1敗( 1981年度 清風 )2PK負( 1979年度北陽、1982年度摂津 ) 。北陽高校は帝京高校に5連敗 ( 1977, 1984, 1985, 1987,1994 ) 我が故郷から参戦した高槻南高校は浦和市立 ( 1983 ) 古河一 ( 1986 ) に連敗。だが1993年度に2回戦で強豪市立船橋を“アウェー”でPK戦の末に降した時は非常に嬉しかった。
関大一高も神奈川県代表の逗葉高校と田中達也を擁した帝京高校の関東勢に連敗中だった。しかし今大会は2回戦で茨城県の鹿島高校、3回戦では優勝候補の千葉県、八千代高校の関東勢を連破しての準々決勝進出。関大一高が大阪代表の存在感を見せてくれて嬉しかった。

続く準決勝進出を賭けた対戦相手は静岡県代表の藤枝明誠高校。静岡県代表と云うよりも藤枝と言えば一昨年の大会で準優勝を果たし、かつては中山雅史が在籍した藤枝東高校が有名。
1973年度、大阪代表の北陽高校が藤枝東高校を破り全国優勝を果たしたが、この試合は藤枝東高のゴールがオフサイドで取り消されれた判定が疑惑の判定と言われ大会後物議を醸した。

http://blog.goo.ne.jp/conty1ban/e/59b0b663e5f1131c5ce40325ab94aa63

それ以来、大阪勢が全国大会で好成績を納められないのは藤枝東の呪い、と私は勝手に決め付けている。

藤枝明誠は2回戦で強豪国見高校を 4-1 と圧倒している。サッカー処の静岡代表。しかも藤枝から、そして国見を破っている…..大阪代表の快進撃もここまでか….と試合前には勝手に悲観的な思いしか描いていなかった……

前半 関大一高先制!!

藤枝明誠のスタメン2日前に行われた3回戦の岐阜工業戦と同じメンバー。
今大会は1回戦からの登場なので6日間で4試合目となるがDF 増田君以外は全選手が4試合連続スタメン。そろそろ疲労が出てくる頃。それが関大一のつけどころか?だが静岡県大会の決勝戦で負傷し、選手権ではまだ出番のない藤枝明誠のエース小川君がようやくベンチ入りを果たす。エースがどこで投入されるか….
3回戦で優勝候補の八千代を破った関大一もメンバーを替えずにこの試合に臨んだ。だが関大一は2回戦からの登場なのでこの試合が3試合目。

開始45秒、藤枝明誠 MFの飯塚君が右からクロスを入れるがこれは2年生GK樫根君がキャッチ。さすが全日本ユースベスト8。関大一はインターハイ大阪府予選ではベスト32で敗れたので選手権の大阪府大会ではシードされずそこから勝上がって来た。だが関大一は特徴である豊富な運動量を生かす。両サイドで相手選手が持つと素早く2人、3人で囲みこんだり、素早い1歩の出だしで藤枝明誠にボールを上手く持たせなかったり繋げさせなくする。 4分には久保綾祐君が左サイドでドリブル突破し入れたクロスにMF濱野君がシュートを放つ。12分41秒には久保開立君の得意のロングスローから放たれたシュートは GK 甲斐君の正面。17分30秒には久保綾佑君がエースらしくドリブルシュートを見せる。テレビ解説によると静岡と大阪の選手権での対戦はこれまで9試合あり静岡の5勝4敗らしいが最後の対決は何と32年前、大阪勢が最後にベスト4に進出した北陽高校が初戦で浜名高校にPK戦で勝利を収めた試合。この30年間の戦績を見て大阪勢が静岡勢と対戦する前に敗れて直接対決が実現しなかったと言えるだろう。
22分藤枝明誠MF 辻君のドリブルを梅鉢君がフォールで止めてFKを与える。そのFKを右に流し藤原君が放ったミドルはわずかにバーの上を越えたがこれが藤枝明誠最初のシュートだった。ここから藤枝明誠はワントップの安東君への寄せが早くなり関大一ゴール前に迫るシーンが続く。 28分には安藤君がヘッドで落としたころを大山君がDF2人の間から放ったシュートはGK樫根君が右に倒れ込んでセーブ。29分には左サイド鈴木君がドリブル突破、三浦君のマークを振り切り入れたクロスは僅かにゴール前の安東君に合わなかった。これが合っていれば周りに2人のフリーの藤枝明誠の選手がいたので決定機となるところであった。
主導権を奪われそうな関大一であったが、30分に待望の先制ゴールが決まる。
濱野君からボールを受けた久保綾佑君がスルーを出し三浦君が撃つがここはGK甲斐君がクリアーしCKに。そのCKを中央から小島君がヘッドで藤枝明誠ゴールに捻じ込んだ。久保綾佑君の動きにDF2人がつられ小島君をフリーにしてしまった。 

     

先制ゴールの興奮が残るなか32分、関大一が追加点を挙げる。久保開立君のロングスローを三浦君がヘッドで藤枝明誠ゴールに押し込んだ。その前に関大一小島君と競った藤枝明誠 DF増田の頭に当たったボールが三浦君の前に弾んだという幸運にも恵まれた。関大一にとっては願っても無い展開となった。

35分藤枝明誠ベンチはMF飯塚君に替えて2年生の松村君を投入する。1回戦の徳島商戦以来の出場だ。それでも関大一は三浦君、梅鉢君が連続でミドルを放つなど主導権を渡さない。中盤で相手ボールをよく奪うシーンが目立つ。だが終了直前、藤枝明誠はFKのチャンスを得る。このFKは相手DFに当たるが、こぼれ球をカウンターに持ち込まれそうになる前に辻君がインターセプトしそのまま約40mの位置から放ったロングシュートが関大一ゴールの右上隅に決まり1点差とした。
そしてそれと同時に、前半終了のホイッスルが鳴った。
リードされているとは言え藤枝明誠にとっては最高の時間帯でのゴール。関大一にとってはリードしているという実感が吹き飛ばされた瞬間だっただろう。

走り勝って 32年ぶりの大阪勢 Semi Finalist !!

後半、両軍ベンチは選手交替は無かったが、42分入ったばかりの松村君が下がりスピードで定評のある阿部君が入った。松村君は39分、クリアーボールを顔面に受けそのまま目を痛めてしまったらしぃ。 この交替は藤枝明誠ベンチにとっては誤算だっただろう。この時間で交代枠が1人となってしまった。いつエースの小川君が投入されるのだろう…
こういう展開だと次の1点をどちらが奪うかによって戦局は大きく左右されると思った。立ち上がりこそ藤枝明誠がボールを支配するが43分にスローインから繋いで久保開立君がシュートに持ち込んでからは関大一高の攻勢が続く。 44分には久保綾佑君がロビングボールをCB藤原君と競りながら放ったシュートはGK甲斐君がストップ。48分には久保開立君がドリブルシュートを放つがこれはサイドネットを直撃。55分にはカウンターから左サイドでスルーパスを受けた久保綾佑君が中に入れ梅鉢君が撃つがここはDFがブロック。そのこぼれ球を拾った小島君が中の和田君に送るがその前にDF山本君がヘッドでクリアー。 
藤枝明誠は時間が経つにつれ球離れが悪くなるがそれは関大一高の選手の戻りやマークが早くボールの出しどころがなかなか見つからない為。交代出場の阿部君が右サイドを何度も突破するが関大一DF陣の戻りが速く充分なフォローが出来ない。それに足に不安のあるFW安東君の動きに切れが無くなって来た。相当足が痛いんだろうなぁ….. 関大一高より1試合多く戦ったその疲労が徐々にのしかかってくる時間だったのかもしれない。 
そして62分、関大一が欲しかった追加点を挙げる。左CKに囮となった横川君が飛び込みそして久保綾佑君がDF2人を引きつけファーサイドにフリーでいた小島君にそのまま渡り頭で押し込んだ。

         

これで関大一のベスト4が一気に近づいた、と思うも相手は王国静岡県の代表校。まだ18分残っているので次に失点し1点差にされると… そしてベンチに控える小川君がいつ投入されるか気になった…
しかし70分、大山君に替って最後に投入されたのはDF登録の長身の向田君だった。最前線においてターゲットとなるのだろう。しかし中々関大一DF陣を破れない。77分には少し位置を下げた安東君が右サイドからミドルを放つがゴールには至らない。このまま関大一が逃げ切りかと思った78分右サイドからの崩しに最後はエース久保綾佑君が正面から今大会初ゴールを決め、勝利を決定付けた。 73分と74分には連続でシュートを放ちDF八木君、GK甲斐君に止められたエースがついに決めたゴールだった。

     

藤枝明誠の選手達の落胆は隠せない。時間はまだ残っているが得点差の方が多い。奇跡が起こってもここから追い付く事は考えられない。だが選手達は最後まで必死にボールを負う、中には涙をこらえながら走る選手も。その姿が印象的だった。 

そしてホイッスルが鳴った。勝って32年振りの大阪勢ベスト4進出を決めてくれた関大一高には本当に感謝の気持ちで一杯だった。藤枝明誠のエース安東君が倒れこんで立てない。相当脚が痛いのだろう。関大一高の選手何人かが彼に肩を貸す。
素晴らしいシーンだった。感動した。

スタンドには多くの部員や生徒達ら応援団が陣取る。
3年生もたくさんいるんだろうなぁ….と思った。彼らの為にも頑張っているのはどこのチームの選手も同じだ。

そしてチァーガール達の姿も。あぁ男子校だった関大一高も共学になっているのか。俺の母校も男子校から共学になっている。何でもっとはやく共学にならんかったんやろう….( 関係無いか??)

この次は36年振りの決勝進出を果たしてほしいと思った。 準決勝戦に続く…… 

   


12.June 2010 England の初戦はアメリカ

2010-01-03 | Weblog
上の写真を観て今多くの England サポーター達は苦笑を浮かべる事だろう。
ワールドカップ史上最大の番狂わせと言われた1950年ワールドカップブラジル大会の England 対 USA の試合後の有名な写真だ。担がれているのは殊勲の決勝ゴールを決めた“アメリカ代表選手”の Joe Gaetjens 。
England が最も気にする初戦のアメリカはワールドカップではこの試合以来の対戦となるが 60 年前の試合はどういう試合だったのだろう…

1950年ワールドカップブラジル大会 England 対 USA

第二次世界大戦が終わって初めてワールドカップに出場した England は当時でも世界最強 “ King of Football “ と言われていた。世界最高の選手 Stanley Matthews らを擁しての戦後5年間の戦績は23勝4敗3分。そして対する米国は選手全員がとてもサッカーでは生計を立てられないセミプロと云うよりもアマチュア選手。学校の先生。街馬車の騎手、郵便配達そしてレストランの皿洗い等を生計の足しやむしろ生業としていた。2年前のロンドン五輪ではイタリアに 0-9 で惨敗したがその時のメンバーは1人も入っていなかった。当時の五輪では週に20ドル程度を“稼ぐ”選手でも“アマチュア”とは認められず五輪には出場できなかった。誰がどう考えても England が負ける相手では無かった。
England は初戦のChile を 2-0 で破り、米国はスペインに 1-3 で敗れた後の第二戦だった。米国はスペイン戦から選手を2人替えて、England は初戦と同じメンバーで第二戦を迎えたが England は Matthews を初戦に続いてベンチに温存した。それでも後に England をワールドカップ優勝に導いた Alf Ramsey ら世界屈指のタレントが揃っていた。試合前米国のBill Jeffrey 監督は報道陣には“ We have no chance “ とコメントしていたらしい。

前半37分アメリカ先制 !!

コイントスで勝った England がキックオフを取った。開始90秒Stanley Mortensen の左サイドから Roy Bentley にクロスが送られ最初のシュートが放たれたが GK Frank Borghi が弾き出した。そして以降予想通りにEngland の猛攻で試合が進み最初の12分で6本のシュートが飛んだがそのうちの2本はポストを叩き Borghi のセーブもあり得点は許さなかった。25分にアメリカはようやく最初のシュートを放つがこれは England GK Bert Williams に防がれた。
その後も England の猛攻は続き30,31,32分に立て続けにシュートに持ち込むが Stan Mortensen が放った2本のシュートがクロスバーを越え、Tom Finney が放ったヘッドはまたも Borghi に弾き出される等ゴールを割れなかった。
そして37分。 Walter Bahr がゴール前約20mのところから England ゴール前にボールを入れると そのボールを受けようとGK Williams が右に動くが長身の Joe Gaetjens が間に割ってヘッドを放つとそのまま England ゴールネットを揺らし劣勢であったアメリカが初戦のスペイン戦に続いて先制ゴールを挙げた。
England は終了間際に Tom Finney がシュートに持ち込もうとするも撃つ前に前半終了のホイッスルが鳴った。

England 猛攻及ばず アメリカが歴史的勝利 !!
後半も England の猛攻で試合が再開し54分、59分には決定機を掴んだが59分の Mortensen の直接FKが GK Borghi のセーブに防がれる等得点に至らない。 アメリカが後半に最初のシュートを放った時間は74分でそれだけだった。
そして82分、Mortensen がPA付近で Charlie Colombo に倒されホイッスルが鳴る。 England の全選手がペナルティーキックと思ったがイタリア人の Generoso Dattilo 主審はFKを与えた。 そのFKから Jimmy Mullen がヘッドでゴールを狙うがまたも Borghi が指先で弾き出し決定機を防いだ。そしてそのまま England はゴールを奪えずアメリカに歴史的な完封負けを喫した。 
“判官贔屓”の地元ブラジル人観客はグランドに雪崩込み殊勲の Joe Gaetjens を担ぎあげた。 地元での初優勝を願うブラジル人は England の敗戦を祈ったとも言われている。
この試合の結果報道を見た England の多くの人々が新聞社に “ 1-0 でアメリカの勝ではなく 10-0 で England の勝利のタイプミスだろう“ と抗議した事は有名な逸話だが、この時の Top News は 同日 England の Cricket チームは初めて West Indies チームに敗れた事であった。 
またアメリカではこの大会にジャーナリストを1人しか送らず、しかもその St. Louis Post-Dispatch 紙の Dent McSkimming 氏は有給を取って自腹でブラジルに来ていたらしい。そして彼の報道を掲載するメジャーな地元紙は1社だけだった。

敗れた England は1次リーグ最終戦のスペイン戦に Stanley Matthews を起用するなど選手4人を入れ替えて臨んだ。この試合に2点差で勝てば Final Round 進出 ( この大会はグループ首位のみが Final Round に進出 ) の可能性もあったがアメリカ戦敗戦のショックのせいか 0-1 で敗れてしまい1次リーグで大会を後にした。 
そしてアメリカは続くEngland 戦と同じメンバーで最終戦のチリ戦に臨んだ。前半に2点を失ったアメリカは後半開始早々に Frank Wallace, John Souza の連続ゴールで追いつくもその後3連続失点を喫し大会を終えた。 
この時のアメリカ代表の出場メンバーは8人がアメリカ国籍の選手であったがゴールを決めた Gaetjens , Ed Mcllvenny, そして Joe Maca の3人はアメリカ国籍では無かったが市民権を得る意思を持っていた事からメンバーに入れたとアメリカ連盟は説明し同年12月2日にこの選考は(当時は)間違いが無かったという事を FIFA のヒアリングで明らかにした。

当時1940年代後半から50年代初旬にかけて、アメリカ合衆国にとって Soccer とは今にも壊れそうなものだった。全国土をカバーする “ 全国リーグ “ は存在せず東海岸地区と西地区では移民の影響の強い Chicago と St.Louis のみで行われていた。 選手達はセミプロで週40時間働いて日曜日に開催される試合に臨んでいた。 Walter Bahr は体育の教師として週にUS$50稼いで週末の試合でUS$25 を得ていた。Gino Pariani は週に2回近所の空き地で練習しており暗くなると車のライトのもとでボールを追いかけていた。
当時の”ハイライト“は各リーグの勝者が集って行われる “ National Challenge Cup “ と欧州のオフシーズンの夏季に渡米する欧州のクラブチームとの Exhibition Match であった。1946年と 1948年には Liverpool 、1949年には Newcastle, Scotland 代表、 Inter Milan , Manchester United と Besiktas は1950年に渡米しそれぞれ全米選抜チームと対戦した。 そして Joe Gaetjens は1950年5月に渡米した Besiktas との試合に全米メンバーとして出場し 3-5 と敗れたが3ゴール全てを決めた事が評価されワールドカップメンバー入りとなった。(ただある文献によればこの試合は 0-5 で敗れ、彼は出場しなかったとされている。)
当時の選考は”公平を期す“為に東西両海岸のチームから8名ずつ選ばれた、とメンバーの Walter Bahr は語った。  

Capello 自身、優勝候補として臨んだ1974年ワールドカップ西ドイツ大会でイタリア代表が予選を含めて2年間ゴールを許さなかったがワールドカップ初戦、格下のハイチに Emmanuel Sanon に先制ゴールを許すなどいいところなく1次リーグで敗退したがその苦い思い出を“お粗末な体調の結果”と帰結している。
そして アメリカは今や世界ランク14位( England は9位)で1950年とは比べ物にならないくらい躍進をしている。最近のワールドカップでの実績も2002年大会ではポルトガルを相手に開始35分の間に3連続ゴールを挙げ決勝トーナメント進出を収め、2006年大会ではイタリアと激戦の末勝点1を得ている。
2008年 Capello の指揮の下 England は Wembley にアメリカ代表チームを迎え John Terry, Steven Gerrard のゴールで2-0 で勝利を収めたが油断は大いに禁物と常に Capello は警鐘を鳴らしている。昨年の FIFA Confederations Cup では北中米地区代表で出場しスペインを破り決勝戦ではブラジルを大いに慌てさせた実績を持つ。そしてそれが南アフリカで行われたという事が彼らの自信を深めている。

ワールドカップブラジル大会以降 England はアメリカと親善試合8試合を行っており7回勝っているが、1993年6月9日、地元ワールドカップ開催を翌年に控えた名将 Bora Miltinovic 率いるアメリカ代表は Boston 近郊に England を迎え 2-0 で43年振りの勝利を収めた。そして England は欧州地区予選を突破できなかった。

“私は常にもし決勝に進出したいのならば全てのチームを破らねばならないと言っている。まず最初の3試合をこなせねばならない。そして全てのゲームが容易ではないそれはワールドカップはプレッシャーの中で行われる特異なものであるからだ。 私はアメリカチームを尊敬しているそしてここでのスペイン戦を観戦した。彼らはどうプレーすべきかを知っているなぜなら既にここ南アフリカで試合を行っているからだ。 しかしスペインがここに来た時はトップコンディションではなかったことも頭に留めておかねばならない。我々は全ての対戦相手を敬うが全ての試合に恐れを持って試合をする事はない。” Capello はこう手綱を締める。
そして50年前の試合を述懐した England の Tom Finney は”我々は素晴らしいチームだった。当時は世界最高のチームと言う人もいた。弁解は出来ない。当然のことだった。我々はただ自分達の自己満足に敗れたのだ。“ という言葉を残している。

Landon Donovan は David Beckham の表情をよく見たかった。カメラは女優の Charlize Theron を捕えていたので Donovan はEngland がアメリカとの対戦が決まった瞬間の Beckham の表情をよく見られなかった。
ワールドカップの組み分け抽選の時、Donovan はアメリカでテレビ中継をそして Beckham は Cape Town のステージの上にいた。そしてその瞬間はカメラは Beckham を捕えてはいなかった。
“その瞬間 Beckham がどんな表情をしていたか見られたらなぁ…と思ったがこれは面白い事になる、と私が考えた事と同じ事を彼も思っていただろう。”
Donovan は語っている。今は Beckham と Donovan はいい関係を築いているが、かつての事をご存じの方も多いだろう。
”メディアがこのゲームを面白おかしく取り上げるのは確実だ。しかし私は大変楽しみにしている。明らかに我々の任務はそういう事を遮断してチームの事を按ずるだけだ。 しかし England との最初の試合は大変エキサイトなものだ。“

Bob Bradley アメリカ代表監督は組み分け抽選後こう述べた。
“アメリカが England と対戦する事は両国間にとっては大変な興味で偉大な TV イベントとなるだろう。 米国選手が多くプレーする Premiership は米国でも人気となっている。偉大なチームと試合をするときは常にハードでタフな試合になる。Wayne Rooney の様な選手がピッチに現れる時は注意を払わねばならない。 そしてそういう選手と争う準備をせねばならない。大変なバトルとなり大変な対戦相手となる。England はハードにタフにプレーするので我々はそれに備えねばならない。こういうトップチームを観た時、最初の試合で England と試合をするという事はビッグなチャレンジでエキサイトなチャレンジだ。 我々はハードワークをするチームで、フィールドで必要なメンタルを兼ね備えている。 攻撃と守備とのバランスを常に取り続けて来た。 我々は4年間で進化を続けて来たチームだ。 Confederations Cup では我々の必要な準備の全てを手助けてくれた。”

中心選手のFW Charlie Davis が自動車事故で大会出場が危ぶまれるが Confederations Cup で準優勝を収めた事は自信になっている。そして現在の中心選手達の所属先は下記の通りだ。

Howard (Everton), Guzan (Aston Villa), Hahnemann (Wolves), Spector (West Ham), DeMerit (Watford), Beasley (Rangers), Dempsey (Fulham), Johnson (Fulham), Altidore (Hull City) Starting XI: Howard, Spector, Bocanegra (Rennes), Onyewu (AC Milan), Bornstein (Chivas USA), Bradley (Borussia Monchengladbach), Holden (Houston Dynamo), Donovan (LA Galaxy), Clark (Houston Dynamo), Casey (Colarado Rapids), Davies (Sochaux)

多くの選手がPremierを始め欧州でプレーする。そして MLS 全日程を終了したDonovan も今年から ワールドカップ前まで Everton でプレーする。 

  


最後に60年前アメリカに奇跡の勝利をもたらした1人、 Joe Gaetjens の事を調べてみた。彼はアメリカ国籍を持っておらずハイチ国籍の選手だった。 1947年ハイチ政府から奨学金を得て New York の Colombia University に会計学の勉強の為に留学をしていた。父親はベルギー国籍をもっており母親はハイチ人だった。しかしそれほど裕福でなかったので政府奨学金を得ての留学だった。そして滞在費を稼ぐ為にドイツレストランで皿洗いのアルバイトをしていた。
前年メキシコで開催された北中米地域の予選時にはメンバー入りしておらず最終的にメンバー入りしたのは上述した Besiktasa 戦、またはチームがブラジルに出発する数週間前に F.A. 選抜チーム ( Stanley Matthews, Nat Lofthouse らがいた)と非公式に試合を行い、その時のパフォーマンスが認められたとも言われている。 

大会後 Gaetjens はアメリカ国籍を取得せず England 戦の次の Chile 戦を最後にアメリカ代表としてプレーする事はなかった。 ワールドカップ後は渡仏しフランスの名門Racing Club de Paris そして Troyes でプレーし、故郷ハイチに帰った。 
そして次のワールドカップスイス大会の北中米地区予選のハイチ代表メンバーに選ばれた。そして Port au Prince でのメキシコ戦に出場し 4-0 で敗れている。そして引退しドライクリーニング屋を経営するようになった。

しかし1964年7月8日、悲劇が彼を襲う。当時ハイチは 1957 年に大統領に就任した Papa Doc Francois Duvalier が前年から憲法を停止し、終身大統領を宣言したまさに独裁恐怖政治に入ったばかり。 市民を恐怖のどん底に陥れた秘密警察 Tonton Macoutes は片っ端から反体制者を逮捕し死刑を敢行してきたが Gaetjens にもTonton Macoutes の手が伸びて来た。彼自身は政治色の無い人間であったが彼の両親がDuvalier の政敵だったLouis Dejoie の支持者だった。そのおかげで Gaetjens は政府奨学金が得られたらしい。Duvalier が大統領になるや否や母親と兄弟は逮捕され国外追放となっていた。 そして投獄2日目に Gaetjens の姿が確認されたがそれが最後の姿だったらしい。彼が収容された Fort Dimanche 刑務所は投獄された何千人もの無実の人達が処刑されていた。
Duvalier の独裁政治は彼が心臓病を患い1971年4月に死亡する3か月前に当時まだ19歳だった息子の Jean-Claude Duvalier が大統領職を世襲して1986年失脚するまで続いた。そして Gaetjens の兄弟がようやく帰国出来るようになり彼を探したが、” Fort Dimanche 刑務所に収監されたものは全て処刑された。“と伝えられた。 Haiti 政府は 2000年に Gaetjens の功績を称え彼の記念切手を発行した。しかし遺族たちは Gaetjens の死にを明らかにするようにキャンペーンを行っているが未だ政府から正式な回答はないらしい。  

         

2006年4月(ちょっと古いか)現在、当時のアメリカ代表メンバーの中で Walter Bahr, Gino Pariani, Harry Keough, John Souza そしてファインセーブを連発した GK Frank Borghi が存命とのことだった。

歴史を掘り返してみるのもワールドカップの醍醐味だと思う。

今年6月どの試合後でもいいから、誰でもいいから日本選手の誰かがこういう風に担がれて、後世に語り継がれるような試合が演じられることを心から願う......