Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

6月19日 ボンからハンブルグへ

2006-06-26 | FIFA World Cup
この日は目覚時計よりも早く目が醒めた。 Sport Park までジョギングをする。前日は走らなかったせいか?それとも気温、湿度が前日より高かったのか?発汗量がすごい。それとも歳かな? 部屋に帰ってシャワーを浴びて帰り支度を始めるが汗が引かない。結局ボン中央駅からICEに乗るまで汗は拭いても拭いても止まらなかった。 この日は北部の港町、ハンブルグに移動だ。 乗り込んだICEは1等でもパソコン用の電源が少ないタイプのもの。それでも何とか電源を使える席を確保する。しかし列車はゆっくりとしか走らない。この日はハノーバーで乗り換えねばならない。そこでも乗り継ぎ時間は8分しかない。この当たりが欧州での長距離列車の泣き所だ。日本の新幹線の様に東京~博多間約1,200km を毎日、何十本ものICEや EURO STAR の2倍以上の営業定員を載せた列車が予定時間通りに運行すること自体が奇跡なのかもしれない。
ハノーバーには20分遅れで到着した。しかし、到着30分遅れの Hamburg Alotona 行きのICEが到着してきたので首尾よくそれに乗り込むことに。この列車は満員でコンパートメントに乗り込んだ。そこには老婦人が2人と男性が。全てドイツ人だが、男性はドイツ中をワールドカップしているという事なので話が弾んだ。カイザースラウテルンでの日豪戦を観戦したそうだ。失点するまでの日本の組織力にはドイツも見習うべきと賞賛。それに彼はバイエルン=ミュンヘンの長年のファンで1974年、 1990年に来日している事やさいたまシティーカップで浦和レッズと Exhibition Match をすることを知っていた。それに奥寺や尾崎、車範根の事も。本当に驚いたが、よく考えれば驚くのは彼の方だった。それらはブンデスリーガのチームに関する事でそれを極東の島国の人間が知っている事が驚になる。 それに昔のワールドカップの事やカイザースラウテルンの競技場名、フィッツ=ヴァルターの事に話が及んだ。そのヴァルター主将が活躍した1954年のワールドカップ、御婦人に“貴方はこの試合をラジオで聴いていたのではないですか?”と訊ねると。“もちろん”との回答。“ Aus, asu, asu. Das Spiel ist aus. Deutcheland ist Weltmeister „ と私が言うと大いに受けた。これはハンガリーとの決勝戦終了にアナウンサーが叫んだ有名なフレーズで、”日本人でも知っているのか?“とご婦人が目を丸くする。
港町ハンブルグには予定より数分はやく到着する事に。中央駅から徒歩5分程度の所にある仕事でいつもお世話になっているGさんのお店に荷物を置かせて頂く。Gさんは当地で8年以上お寿司の持帰り店を営んでおられる。今年に入り更にもう1店舗開設をされた。実はこのワールドカップでは家族での観戦を予定しており、家族ともどもGさん宅にお世話になる予定が、結局私1人となってしまった。そして余ったチケットでGさんと観戦しようと思ったのだがお店が忙しいので、ここの女性従業員のTさんと彼女のポーランド系ドイツ人の彼氏と3人で観戦することにした。Tさん達がお店に来て一行はAOLアリーナを目指す。街中はウクライナのサポーターで一杯だ。第二次世界大戦後、ドイツにいたロシア系ドイツ人の多くがスターリンの指示によってソ連に連れて行かれたが、ソ連邦崩壊後その多くがドイツに帰ってきたらしい。またソ連軍の手を逃れてここに定住を続けたロシア人の多くは地理的な事もありウクライナ系が多いとの事。私としてはアジア代表のサウジアラビアに頑張って欲しいところだ。初戦のチュニジア戦は終了直前に同点ゴールを喫したが、ウクライナと引分ければ決勝トーナメントへチャンスは出て来る。一方のウクライナはここで勝点を上げられないと初戦のスペイン戦を 0-4 と大敗しているので星勘定が苦しくなる。中央駅のUバーンホームに行くとそこでプラカードを持った係員が“赤、黄ゾーンのチケットを持った人はこちら、青、緑ゾーンのチケットを持った人はこちらの列車”と色分けをしている。混雑を避ける為にシャトルバスの発着駅を分けていたのだ。昨シーズンまで高原が所属していた HSV Hamburg の試合がある時はここまでしない。まぁHSVの試合の時は駅から歩く人も多いから。Tさんの彼氏は家族と共にポーランドの KATOWICと言う街からドイツに渡って17年が経つとの事。子供の時からHSVのファンらしい。昨シーズンの成績には満足しているが、バルバレスをレーバークーゼンに放出したのは良くないと。今シーズンから Emirates 航空がスポンサーに付き潤沢な資金が当て込めるが、大金で有力選手を買いあさる事はして欲しくないと。それでも昨シーズンは移籍期限ぎりぎりに Ajax のエース、デ=ユングを引っ張ってきたりと補強には随分と金をかけた。高原の出番は少なかったが。 その彼氏は70年代~80年代初期のポーランドの快進撃を知らない。1974年大会から4大会連続出場。その間3位が2回。他の2回も一次リーグは勝ち抜いている。五輪でも金、銀が1個ずつ。彼は“もう少し早く生まれたかった。今大会、2次リーグには行けると思ったのだが。”と。 バスを降りてまずボディチェックのゲートに向うが歩道から車道に降りられないようにフェンスが張られており遠回りをせねばならない。Tさんには“チケットには名前が明記されているのでなるべくパスポートは見せない様にしてくださいね。”とお願いする。そして彼女から彼氏にも。ボディチェックを抜けて、入場門に向うがここは100m足らずの距離だ。無事に入場完了と思いきや、Tさんの彼氏が入場ゲートで捕まっている。しかもIDカードを手に。どうやら身分証明提示を要求され、チケットに明記された名前と違う事が判ってしまったらしい。彼女が慌てて飛んでいく。しかし、係員は落ち着いて“ No problem. Within 5 minutes he will return“ と優しく我々に応える。そして無事に彼はチケットを片手に還って来た。2人とも安堵の嘆息を漏らす。彼は自分が身分証明の提示を求められた事に少し納得がいかない表情。チケットを見ると手書きで彼の名前が書かれていたものが。元々息子の名前が書かれており、試合終了後は息子への記念にチケットは返してもらう事をお願いしていたのでTさんは”本当にすみません。こんなことになって。“と謝る。しかし、ここは皆無事に入れたので良しとしましょう、と応えた。客席はカテゴリー1だがまたも2階席。しかし前から2列目なので、チェコ対ガーナ戦よりはよく見える。Tさんも彼氏も、良い席をありがとうございますと。 着席後間もなく雨が降って来た。この”AOLアリーナ“は観客席上がすっぽりと屋根に覆われているので降雨が始まってもよく解りづらい。それだけ観客には見やすい競技場だ。 雨だとサウジアラビアには不利だろう。早く雨が止む事を祈るが。 スタンドには青と黄色の2色のウクライナ国旗が至る所で打ち振られる。そしてゴール裏の一角には緑のサウジアラビア国旗を振る集団も。サウジアラビアと言えば厳しいイスラムの戒律だ。街中には宗教警察官がおり、ムスリムでなくても外出女性がアバヤと言う黒いベールで全身を覆われているか?お祈りの時間に商店やレストラン等が閉められているか?厳しく取り締まるらしい。そして宗教上の理由でアルコールは厳禁だ。観光ビザが存在しないので外国人の入国が限られている。従ってこの国の素性を Up Date に知ることは容易ではない。それがサウジアラビアの advantage でもあるらしい。 その雨はすぐに上がり、両国選手の入場を迎える。その直前に1979年のグロリア=ゲイナーの全米No.1 ソング I will survival がかかる。今の両チームの心境を表したナンバーだ。 しかし、初戦のスペイン戦を 0-4 で落としているウクライナの方が緊張する試合であろう。その間隙を突いてサウジは勝点1以上を稼ぎたい所だ。そうすれば12年、3大会ぶりの決勝トーナメント進出が見えてくる。ウクライナはスペイン戦の先発メンバーから5人を替えてきた。4バックの最終ラインは左サイドのネスマチュニー以外は全て替えて、ティモシチュク、フシンのスペイン戦では中盤で起用された選手を最終ラインに配備。2トップこそ、ボロニン、シェフチェンコは替わらないが中盤は総換えであった。70年代から80年代中ごろにかけてソ連代表の中心選手であった俊足”100m 10秒台“ 1978年にはソ連代表として来日経験もある元ウィング、オレグ=ブローヒン監督は超攻撃的な布陣を敷いて来た。一方のブラジル人パケータ監督率いるサウジアラビアは、チュニジア戦のアル=カフタニの1トップから、MF登録のアミーンを入れて2トップに。そしてトップ下にはヌールを置いて、ベテラン、アル=テミヤトをベンチに置いた。そしてベテラン、サミ=アル・ジャバーはこの日もベンチだ。サウジアラビアは全てが国内リーグに所属する選手。昨年度、AFC Champions League で優勝したアル=イテハドから7人、アル=ヒラルから9人は選出されているが、FWを外国人選手に頼るアル=イテハドからは守備の選手が多く、攻撃の選手はアル=ヒラルが多い。何とか先制点を挙げて、逃げ切って欲しいと願う。 つづく


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