Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

オーストラリア大陸から“お騒がせ Legend “

2011-06-19 | Football 北米 南米 

先週末から商用でオーストラリアに。今年2回目の豪州大陸だが前回はここに滞在中に東北太平洋大震災と津波が発生し家族の安否がわかるまで非常に落ち着かない一晩を過ごした。
そして今回….チリで火山の大噴火が起こりそこから噴出された火山灰は気流に乗り太平洋を越えてニュージーランド、オーストラリア間のタスマニア海峡に迄影響を及ぼす事に。 そして水曜日の早朝Perth にいたわたしに地元顧客から電話が入った。 “空港が閉鎖されているぞ。いつのフライトだ?大丈夫か?” 実はこの電話を貰うまで火山の大噴火の事は知らなかった。今回の(今回も??)出張は早寝早起きの生活を繰り返し夜はテレビも見ず熟睡をしていた。まぁ UEFA Champions League も終わり欧州がシーズンオフに入り試合の中継が無いからだけど…それに A-League もオフ中だし…
こうなるとすぐにでも Up Date な情報が欲しくなる。だけど誰に聞いていいかわからない。在留邦人の御客もみな
“え??どこの火山が爆発したのですか??”といった回答ばかり。
近所の Travel Agency で訊ねると実際にキャンセルが相次いでいるらしいが翌日はどうなるかはわからない。結局のところ適切な判断を降すには空港に行かねばならないと言う事だった……
そして仕事を終えて航空会社のサイトを見ると翌日搭乗する予定のフライトはキャンセルされ同日の夕方のフライトをようやく サイトを通じて確保出来たのだった。
果たして翌日。 私のフライトはなかなか Perth に飛んで来てくれず2時間半程度遅れての離陸。目的地の Brisbane 空港でレンタカーのカウンターが空いていた時は涙が出そうだった。そうして予約していたレンタカーを運転し Gold Coast のホテルにチェックインしたのは午前4時近かった……救いは Gold Coast の天候が良かった事だった…
そしてテレビのニュースを見て少し驚いたのはこういう状況で確かにニュージーランド方面に飛ぶフライトは全て見合わせられているもののその他の航路ではカンタス航空は多くの欠航が出たがVirgin Blue はほぼ定刻通り飛んでいたフライトが多かったらしい。
Virgin Blue の責任者がインタビューで“カンタスの決定に私がコメントする立場ではないが、 Virgin Blue は飛行の安全を最優先させる中でフライトの運行を決めている。”と応えていた。 
映像では足止めを食った乗客が空港内で困惑している様子が映し出されていた。そしてメルボルンで緊急手術の必要な幼子が特別機か何かに乗せられるところも….. 総じて言えばこの件に就いてはカンタスはまたも大顰蹙をかっている…..
それにしても何千キロも離れたところの火山の影響がここまで有るとはなぁ…..

5月末。オーストラリアの地元紙に気になる見出しが…

Argentinian players given drugs before Socceroos clash, claims Maradona



“ 彼らはコーヒーに何かを入れた…..”

アルゼンチンのTV番組 The Football Show で英雄マラドーナが 1994ワールドカップアメリカ大会のプレーオフのオーストラリア戦の前に選手達が薬物を与えられていた事そして当時その事を Julio Grondona 現FIFA の副会長は知っていたと告発するコメントを発したのだ。

“何故いつも行われるドーピングテストがオーストラリア戦で行われなかったと思う?

いつもは10の使用禁止薬物が提示されるのにアメリカに行けるかどうかのオーストラリア戦に限ってそれがなされなかった。それは愚かな事で Grondona はそれを知っていた。オーストラリア戦の前に起きた事は我々に speedy coffee を与えられたと言う事だ。彼らはコーヒーの中に何かを入れた。だから我々はより多く走れた。“
このコメントに対して Grondona は静寂を維持している。
かつての英雄マラドーナのコメントに就いては色々伏線が取りだたされている。
まず昨年のワールドカップ終了後アルゼンチン協会会長の Grondona がマラドーナの監督更新契約をしなかった事に端を欲し79歳になる Grondona に対してマラドーナが高齢を指摘し“( 32年間も)会長職に留まる彼をこれ以上会長にしておくのは適切でない。”というコメントを公の場で発しそれに対して Grondona 会長が “ 私は高齢だが至って健康である。“と応じた。その一連の続きと見られている。

“ドクターから与えられたものは何であれ飲用した。ワールドカップに行く為ならオレンジジュースだって飲んだだろう。 私が言いたいのは Grondona があたかも私が直面した様にfootball が薬物に侵された事を知らなかったという態度を何故取るのかと言う事だ。”

マラドーナはまた遠まわしに Grondona 会長はCristina Fernandez 大統領の保護下にありそれは AFA が管轄する国内リーグ戦の放映料が無料になっている為だとほのめかしている。
“私は大統領に Grondona を解任する様に頼んだ。我々は変わらねばならない。そして Grondona の蛮行を示した。なぜなら彼は既に年老いて彼の時代は過ぎているからだ。もし政府が彼を指示し続けるならそれは誤った行為だ。”
Anibal Fernamdez 内閣議長は政府は Grondona を特別に保護してないと語っている。

Maradona and doped Argentina paid us compliment: Wade

このマラドーナの発言に驚愕のコメントを発したのが当時彼のマーク役の御鉢が廻って来た Paul Wade。

“そのコメントを聞いた時、本当にショックだった。だけど一風変わった褒め言葉だ。彼らは本当に我々にワールドカップ予選で打ち負かされる事を恐れていた。 彼らは驚くべきプレッシャーにさらされていたのを憶えている。アルゼンチンでの第二戦の前に当時の大統領が”もし我々が翌日の第二戦で敗れる様な事になればその日は国民が喪に服す為の日となるだろう。“と語っていた。
“私はチームの皆が彼について疑いを持っていたと思う。なぜならあんな短期間で相当の減量をこなしたからだ。だから常に何か推測があった。しかしチーム全体で何かを服用していたとは今でも大変な驚愕だ。しかし薬物の服用も考えられるだろう。彼らは比較的 football 後進国での初戦に臨んだ。 もし我々が彼らを破っていたらどうなっていたか想像できるかい?”
そして同様にプレーオフに出場した Robbie Slater はマラドーナのこの“告発”を“唖然とさせる事。”と述べている。
“私は何かしら失望感そして侵害感を感じる。あの2試合は我々オーストラリア選手達にとって大切なものだった。なぜなら世界中から注目を浴びたからだ。” 

この試合の模様は日本でも放映されたかわからない。オーストラリアに仕事で関わる様になって猛烈に観たいゲームの1つだ。しかし当時専門誌で報道された模様ではアルゼンチンが “ オーストラリアの Alex Tobin の自殺点で” やっと ”オーストラリアを降して “何とか” ワールドカップ出場権を手に入れたと言う事だった。 このプレーオフはあのドーハの悲劇のあとに行われたがその時思ったのが“出場枠がアジア、オセアニアでひとくくりにされていなくて良かった….韓国もサウジアラビアも日本もオーストラリアに勝てないだろうな….”という事だった。
まさかオーストラリアが AFC に加盟するなんて夢にも想像出来なかった時代だった。
Paul Wade, Robbie Slaterだけでない、当時アルゼンチン戦に出場した Aurelio & Tonny Vidmar 兄弟、Graham Arnold Frank Farina 達はこのマラドーナのコメントに就いてどう思っただろう….


Maradona mates deny knowing about drug use

しかしながら身内(かつてのチームメイト)からは異なるコメントが。

“試合の数日前から薬物コントロールに従事する事は知っていたがこの時はそれほど重要視していなかった。我々はただ試合に集中していたしかし Diego が言った様にコントロールが無かった事は事実だ。”こう語ったのは当時の MF Hugo Perez 。Perez はもうずっと昔の事を正確に思いだすのは困難と話しているが選手達は水かコーヒーを飲んでいた事は憶えているとの事であった。

DF の Jose Chamot は 地元 Libre 紙に“ それが禁止薬物なら例えコントロールされていなくても違法な事なのだろう。私はそんなもの必要では無かった。遠征時にたまにビタミン剤を与えられていた。しかしそれ以上のものは無かった。もしチーム全体の走力を上げるものがあったのなら私は参加しなかった。”
また DF Jorge Borelli は地元紙に “ Speedy coffee なんて飲まなかった。ただ紅茶とソフトドリンクを飲んだだけだ。“と語った。

マラドーナは前にも試合中の”薬物使用“に就いて地元テレビ番組で有る事を話していた。
それは1990年イタリア大会でのブラジル戦。アルゼンチンサイドが準備したピッチサイドに置いた飲料水ボトルの中に睡眠薬を忍ばせて置いた云う事だった。当時ピッチサイドに置かれた飲料水は敵味方関係なく自由に飲んでいた。今でもボールアウトになった時に相手の選手が飲んでいるボトルを貰って飲んでいる選手もいるが。(だいぶ減ったけど。) 
マラドーナが試合中にあるアルゼンチン側が準備したボトルに手を伸ばすとベンチから“それは飲むな。”と言われ、後にそのボトルに入っている飲料水を飲んだブラジルのシーラスのパフォーマンスが落ちた事を話していた。
そのボトルには睡眠薬が入っていたと後で言われたとテレビ番組で話していたけどその件に就きブラジル側から事実確認を促す抗議でも有ったのだろうか…..




Australians pour cold water on Argentina's claim of 'speedy coffee' deal

1993年ワールドカッププレーオフが行われた当時のオーストラリア協会の役員達はアルゼンチンサイドから述べられた当時試合前ドーピングテストが行われなかったのは2国間に協約があったからだと言うコメントを真っ向から否定した。
Julio Grondona  AFA会長は Buenos Aires 紙のインタビューの中で試合前のドーピングテストに就いて故意的に見過ごされたがそれはオーストラリア協会 Australian Soccer Federation との同意の上だ。というコメントを残した。
しかし 1993 年当時の ASF Chief Executive で現在 NSW General Manager の Ian Holmaes 氏は何も協議はなされ無かったと否定している。

“私は絶対の自信を持って云う事が出来る。いかなるアプローチも私にも協会の役員にもコーチ陣にも、この類の問題に従事できたであろう彼達に行われなかった。 我々はこの種の決めごとがあったなんて絶対に同意できない。自分の子供に誓ってもこんな事に加担していない。いかなるレベルに於いても間違った事だ。”

薬物検査はいかなる方法でも試合前には決して議題には上がらなかった。“この様に語った。
当時の ASF 会長だった John Constantine 氏はいずれかの試合で薬物検査が行われたか記憶になく何か行われた訳ではないとも主張している。

“我々は何も隠す事が無い。そしてもしそのような提案が私のところにくれば同意する余地などない。マラドーナの出場に就いては充分に色々な憶測があった。かれは既に1991年に出場停止処分を受けており、それ自信が2試合とも薬物検査をすべきであったと示唆している。もし何らかの事が動いていたなら私も知っていただろうが何も無かった。” 

もしこの件の真相が明るみに出れば最も失うものが多いのは FIFA vice-president の職に就いているJulio Grondona, AFA 会長だろう。だがマラドーナの話が事実なら、これはマラドーナの為に行われた事ではないだろうか? 
1993年 9月5日リバープレートでアルゼンチンはコロンビアに 0-5 と歴史的な惨敗を喫しこの試合を家族とともにスタンドで観戦していたマラドーナが代表復帰を発表しオーストラリアとのプレーオフに臨んだ。
初戦、コロンビア戦からわずか8週間後の10月31日 Sydney Football Stadium で4万人の観衆を集めた試合は 1-1 で引分け、11月17日にアルゼンチンはオーストラリアを降しワールドカップ出場を決めた。
確かに自ら激しいトレーニングをこなし減量をしたのだけど8週間でこれだけ…とは当時だれもが思っていた。
翌年ワールドカップでマラドーナが薬物使用で1次リーグ最終戦のブルガリア戦から出場停止処分を受けた事を知る方も多いだろう。 このブルガリア戦を私は駐在先のルーマニアの首都ブカレストでテレビ観戦していた。そして当時横浜マリノスでプレーしていたメディナ=ベージョが途中出場を果たした時は本当に嬉しかった。 まだ木村和司、水沼らが所属していた横浜マリノスが私は好きだったからだ。 
Round 16はルーマニア戦。 マラドーナ抜きのアルゼンチンはハジ、ラドチョイ、ポペスク、ペトレスク、ドミトレスク、ベロデディッチらを擁するルーマニアに 2-3 で敗れた。この時のブカレストの街は本当に大騒ぎだった。
画面に何度か映し出されるスタンドで観戦していたマラドーナが印象的だった……

相変わらずお騒がせのスーパースターだけど Paul Wade が言っていた様に少しオーストラリアがスポットを浴びた瞬間かもしれない?? 

そして6月16日付けのオーストラリア紙の片隅にまたもマラドーナの名前が。だが今度は彼が“被害者”の様である。
中国の web Portal Site SINA 社と The 9 Limited 社が開発した Wining Goal と言うポータルサイトゲームでマラドーナのイメージをベースにした選手をマラドーナの許可なしに創造したとのことでマラドーナ側は 2,000 万人民元 ( 約2億5,500万円 ) を要求しているとの事。 中国側はある中国の代理人を通じて許可を受けていたと思ったといつも通りに言い訳にならない釈明をしているがマラドーナ側はこの“謝罪”を受け入れる気はなく徹底的に係争するとのことだった。
それにしてもこのインタネットゲーム、 Wining Goal と言う名称自体、日本が開発し世界的に販売されている Wining Eleven
のパクリじゃないのかなぁ….. Wining Eleven にマラドーナは出ていたかな…..??


ARIBA PERU は格下か???

2007-01-27 | Football 北米 南米 
韓国に敵前逃亡され、3月24日の今年最初の代表Aマッチの相手は南米のペルーにほぼ決定的だそうだ。マスコミ各社の表現を見るとこのペルーを“格下”扱いしている。本当に隔世の思いがする。

ARIIIIIIIBAAAAAAA !! PERUUUUUUUUU !! この叫び声を聞いたのは1978年ワールドカップアルゼンチン大会であった。2大会ぶりに出場を決めたこの大会でのペルーは1次リーグではオランダ、スコットランドそしてイランと第4組に入れられた。大会前の予想ではクライフ抜きとは言えオランダはシード国。もう一つの2次リーグ進出をスコットランドとペルーが争うと見られていた。しかし、スコットランドの優位をささやく専門家が多かった。16カ国しかワールドカップ出場枠が無かった当時、欧州第11
組1位のハンガリーと南米最終予選3位のボリビアとの直接対決の勝者に出場枠1つが与えられた。ボリビアは南米1次予選では当時常連であったウルグアイを破っての2次予選、プレーオフ進出であったが、このプレーオフでハンガリーがホーム 6-0 アウェー 3-2 と連勝した事から欧州では“ブラジル、アルゼンチン以外は格が落ちる”との見方があった。
そして当時のスコットランドは非常にタレント揃いでジョー・ジョーダン、マーティン・バッカンの Manchester United 勢、Liverpool の グレアム・スーネス、ケニー・ダルグリッシュそしてケネズ・バーンズ、ジョン・ロバートソンそして伝説のゴールを決めたアーチー・ゲミルらが Nottingham Forest の所属と欧州でもトップクラスのクラブの中心選手にスコットランド選手が並んでいた。
このスコットランド、ペルーの両国は1次リーグの初戦で激突した。開始15分にジョーダンが先制ゴールを上げるとスコットランドが主導権を握る。しかし、スコットランドはチャンスをものに出来なず43分にペルーのクエトに同点ゴールを許す。それでも後半17分にPKを得て追加点のチャンスを掴むがそこに立ちはだかったのはアルゼンチンからの帰化人GKキローガ。ドナルド・マッスンのPKを弾き出し絶対絶命のピンチを凌ぐと70分にはクビジャスが強烈なミドルを叩き込み逆転。76分にはまたもクビジャスがFKを直接決めて 3-1 とスコットランドを粉砕した。2得点のテオフィロ=クビジャスは前回ペルーがワールドカップに進出した1970年大会にも全ての試合に出場。1次リーグでは ブルガリア戦 ( 3-1 1得点 ) ,モロッコ戦 ( 3-0 2得点 ) 西ドイツ戦( 1-3 1得点 ) と大活躍で準々決勝に導いた。続くブラジル戦では 2-4 と敗れるもののここでも1得点を決め、この大会で全試合に渡り合計5ゴールを決めた“ペルーのペレ”と呼ばれた伝説の選手だ。
敗れたスコットランドはこの試合でグレアム=スーネスを使わず、他に明らかにフィットしていない選手を使った事で地元のマスコミはアリステア・マクロード監督批判が勃発。しかも、試合後はエースのウィリー・ジョンストンが薬物検査で陽性反応が出て失格処分に、続くイラン戦を1-1 で引分けずるずると空中分解に。
この試合で勢い付いたペルーは続くオランダ戦を 0-0 で引分け、1次リーグ最終戦のイラン戦では開始2分にベラスケスが先制するとクビジャスがハットトリック(うち2本はPK)を遂げ 4-1 でイランを圧倒。グループ首位で2次リーグに進んだ。しかし、2次リーグでは1次リーグで得点不足に悩まされたブラジルに 0-3 で完敗すると続くポーランド戦ではシャルマッフのヘディングに沈み、最後のロサリオでのアルゼンチン戦は 0-6 で粉砕され2次リーグは無得点12失点で終えた。しかし、8年前に続くベスト8進出は落胆させられる結果ではなかった。この大会でのペルーにはクビジャスの他に1970年大会でのレギュラー、チュンピタス。そしてボールテクニックの高いムニャンテらハイレベルの選手が揃っていた。しかしこれがペルーの世界での最後の栄光かもしれない。
続くスペイン大会でもウルグアイを破って南米予選を突破するが、カメルーン( 0-0 ) イタリア ( 1-1 ) ポーランド ( 5-1 ) と勝ち星を挙げられず1次リーグで帰国をする事に。クビジャスも3試合に出場したがノーゴールに終わった。この大会もあのアルゼンチン戦で6失点の喫したキローガがゴールを守っていた。他にも前大会経験者が合計9名もいたが、これ以降タレントが枯渇してしまったかのごとく、出場枠が拡がったにもかかわらず南米予選を突破できない。
1999年、日本が特別招待された COPA AMERICA の初戦でペルーと当たり 2-3 で敗れた事を記憶されている方も多いと思うが、その他のペルーの事で目立ったのは日系のフジモリ氏が大統領になったことと、そのフジモリ政権に反発する左翼ゲリラの日本大使館占拠事件程度か?
ワールドカップドイツ大会予選ではついにCONMEBOLではアウトサイダーと言われ続けていたベネズエラにホームで 0-0 アウェーで 1-4 と完敗し、9位に終わり最下位(ボリビア)を免れるのがやっとであった。 
そのチームにはPSV Eindhoven のジェフェルソン・ファルファン、Bayern Münchenのクラウディオ・ピサーロ、HSV Hamburg のホセ・パオロ・ゲレーロ、Newcastle のノルベルト・ソラーノそしてアンドレス・メンドーサ(昨シーズンまで Olympique de Marselle 今季の移籍先を誰か教えてください。)らがいたが3月24日の日本戦には彼ら(数少ない)欧州のトップリーグで活躍する選手達がやってくるだろうか??? 

1970年代後半にはブラジル、アルゼンチンに次いでウルグアイを抑えて3番手に着けた事もある強豪のペルーが30年経って日本から“格下”扱いされている事に月日の流れを感じる。それは逆に1982年ペルーで行われた女子バレーボールの世界選手権2次リーグで日本を破り(この時の日本は既に準決勝進出を決めていた)その6年後のソウル五輪準決勝でも大接戦の末、日本女子を破ったペルー女子バレーボールを育てた加藤明氏が天国で思った事と同じ思いを私はしているのかも知れない。 しかしオシム監督が言う様にペルーを格下扱いできるのかな??????とも思うが….

新大陸の挑戦 N.A.S.L. ~ワールドカップへ

2006-02-10 | Football 北米 南米 
NASL チームが敢行するシーズンオフの世界行脚は他のチームも Cosmos 程の規模では無かったがほぼ恒例だったらしい。Washington Diplomats も Cruyff がいた 1980年に来日した。リーグ創設時から加盟していた Dallas Tornado は19カ国を巡回し45試合を行い、その様をある選手は „ beer and non-stop sex all the way „ と表現した。だが湿ったピッチ、凍て付く様な冬の昼下がりでの試合や練習をして来た数年を経てやって来たアメリカはパラダイスと Norman Piper が言った様に、欧州の全盛期を過ぎたスター達には文字通り良き新大陸だったのかもしれない。しかし、興隆は長続きしない。1978年にチーム数が 24 に拡大されたのを峠に経済的な問題から合併等でクラブ数は減少の一途を辿る。そしてMISL ( Majour Indoor Soccer League ) と言う室内サッカーリーグが設立され、人気も選手も引き抜かれ, NASL はますます先細りになり 1984年には9クラブだけが残った。 N.A.S.L. は決勝戦を3試合制にするなど人気回復策を施すが効果は全く無く、1984年10月3日、Chicago Sting がToronto Blizzard を破り優勝を収め、N.A.S.L の歴史が幕を閉じた。 やはりバスケットやアメリカンフットボールの様に得点の入る競技で無いサッカーは米国人の間に根付かなかった。室内サッカーが一時人気スポーツだったのもアイスホッケーの様に攻守の切り替えが早く得点シーンが多いからだろう。N.A.S.L. も独自のオフサイドルールを制定したり、得点数によって加算されるボーナス勝点制を導入したり工夫をしたが還って欧州、南米の“本場”から来た選手達の混乱を招くだけだった。そして外国人選手主導の NASLサッカーはアメリカ人には根付かなかった様だ。 だが5年後の1988年の FIFA 総会で1994年のワールドカップ開催地にアメリカが選ばれた。投票日が7月4日と言うアメリカ独立記念日で、それ自体が出来レースと言えた。国内全国リーグの無い国が開催国になるのは異例中の異例だが当時権力の絶頂にあった FIFA アベランジェ会長の“強い要望”もあり、ほぼ無風の決定でもあった。だが1970年代の日本の様に全く世界の舞台から遠ざかっていた訳ではなかった。女子サッカーでは80年代から世界でもトップクラス。そして1984年のロス五輪ではアメリカは1次リーグで敗れたが、アメリカ戦以外でも競技場は満員御礼であった。地元開催が決まった翌年にはイタリアワールドカップ北中米地区予選最終戦でトリニダードドバコをアウェーで降して40年ぶりの出場を決める。だがこの時はメキシコが前年に行なわれたユース大会に年齢詐称をして出場させた選手がおり、出場停止中であったがこの決定自体がアメリカを出場させる為の FIFA の策略と言われている。US サッカー協会は1994年のワールドカップ開催前には全国リーグを設立すると約束していたが、結局 Major League Soccer のスタートは1996年であった。 その後、出場枠の拡大はあるが5大会連続ワールドカップ出場を果たす。そして日本はシドニー五輪の準々決勝でアメリカにまさかのPK 負けを喫した。おそらくアメリカのサッカー選手達は” Majour League Base Ball, NFL,NBA, NHL など何するものぞ、サッカーこそ Global Sportsと思いながら日々精進している事だろう。先述したトリニダードドバコとの試合後、選手全員がセンターサークル付近で抱き合い、大人の男がこれだけ泣くのかと思うくらい号泣するアメリカ選手達が印象だった。試合後ドイツでもプレーした事のある中心選手 カリギゥリは” これは歴史的な事だ。ワールドシリーズ、スーパーボール なんて問題にならない“とコメントしたのも頷ける。NASLからワールドカップを4回経験しアメリカも進化している。 1978年、ラグビーのオーストラリア代表 Wallabies が来日した時に、当時の監督が“どうすれば日豪間の体力差を埋められるか?”と日本人記者の質問に質問され、真顔で”これからはオーストラリア牛肉をもっと輸入すべきだ“と答えた。 10日の試合後はアメリカ側に “ 日本人は牛肉摂取量が足らないのでは?”と嫌味を言われない様なパフォーマンスを期待する。そしてZICO にコメントしてもらいたい “ Sushi is wonderful “ と。

新大陸の挑戦 N.A.S.L.

2006-02-10 | Football 北米 南米 
North America Soccer League N.A.S.L. この名前を憶えている人は少なくないだろう。 Pele, Beckenbauer, Cruyff, George=Best, Neeskens 60~70年代にかけて世界で名を馳せた選手達が晩年に“新大陸”を目指した時期があった。だが後になってBobby=Moore, Eusebio, Gordon Banks, Geoff=Hurst, Brian=Kidds, Mike=England, Trevor=Francis, Gerd=Muller, Sam= Alladyce …. 彼らがみな N.A.S.L. に在籍した選手達だと言うことは知った。1966年イングランドで開催されたワールドカップは初めて開催国以外にテレビ中継され、米国でも NBC が中継し“サッカーリーグ設立”にスポーツプロモーター達の興味をそそった。だがFIFAの後ろ盾のあった United Soccer Association と National Professional Soccer League との間で折り合いがつかず2つの別の団体でのスタートとなった。結局予算の問題で翌年に両団体が統一され N.A.S.L. の発足となった。しかし球団経営は難航。1969年のシーズンは5チームのみのリーグ戦であった。サッカー途上国としてのエピソードも少なくなかったらしい。ある試合ではレフリーがバスケットの様にボールアウトになる度に時計を止めるので都合2時間くらい試合が続いたり、また他の試合では引分を嫌う米国人の為にサドンデス方式にされたシーズンでは延長戦が86分も続いた試合もあった。テレビ中継では何度も試合中にCFが入るのでその間にゴールが入ることもしばしばだったらしい。その創設時の混乱期を乗り切ったのはウェールズ系のコミッショナー Phil Woonsam の辣腕ぶりに寄る所が大きい。その後徐々にチーム数が増えたり、オーナーが変ったりそしてフランチャイズの移動があったりして1975年には20チームの所帯になった。そして同年、New York Cosmos が引退していたサッカーの神様 Pele を口説き落とし3年契約を締結させる。Cosmos は1971 年にNASL に加盟するが Woonsam が、世界的に有名なレコード会社 Warner Communications を説得し Cosmon のスポンサーに。それが無ければ Pele の Cosmos 入りは無かった。Pele のデビュー戦はかつて New York Times に“古生物学時代の岩や土の塊が残された”と酷評されたそのピッチを試合開始直前に芝の禿げた部分を緑色にペイントして廻ったらしく、ハーフタイムには Pele の足が緑色になっていた。しかし、神様 Pele の入団によってリーグも Cosmos 中心に廻り出し、俄然 NASL 人気は Heat Up。Cosmos は Warner の後ろ盾の元に Beckenbauer をはじめ、Carlos=Albert, Chinaglia らが入団。77年に引退後は Neeskens(Holland ) , Eskandrien ( Iran ) らが入団。そして 80年には Washington Diplomats に Johan=Cruyff が入団する。 また、 George=Best が在籍した Los Angels Aztecs には Elton=John が出資者の1人であった。Philadelphia Furies には Rick Wakeman, Peter Frampton, Paul Simon らが出資者でもあった。そしてN.A.S.L. の当時の興隆にはサッカー好きの当時国際政治界では最も有名なキッシンジャー補佐官の存在もあった。彼がいたからワールドカップをアメリカで開催出来たとも言われている。辣腕プロモーターやスポンサーだけで無く政治の後押しなくして成功は難しい。Pele 人気のエピソードとして、ある日 Hollywood でファンの集団がそこに居た Robert=Redoford に気付かず Pele の後を追っかけた事も。また世界各国から Cosmos 応援ツァーが企画され、シーズンオフにはスター軍団Cosmos は世界中で親善試合を続けた。日本にも 1976, 1977, 1979 年に来日している。特に 1977年、Pele SAYONARA Game in Japan と命名され日本代表との試合は同年6月に代表から引退を表明していた釜本の代表引退試合も兼ねた。国立競技場でのこの試合は5万人以上の観客が集り、それまで累積されていた日本サッカー協会の赤字が全て完済されたと言われた。我が尊敬する Australia の Jhonny=Warren の自叙伝にも Cosmos の来豪誘致とその成果が記されるほどの人気でもあった。欧州以外ではEurope Champions Cup よりも知名度はあったのではないか?だが人気だけでなく実力も伴っていた。Pele の引退後ではあったが 1979 年には New York で Maradona, Pasarella, Ardiles らのいた Argentina 代表とも相対した。試合は終了直前 Pasarella のFKで Argentina が 1-0 で勝利を収めたが、当時の世界王者が試合に応じる程のチーム力でもあった。

新大陸の挑戦

2006-02-08 | Football 北米 南米 
懸案になっている米国産牛肉の輸入問題。こちらの本音はいつになったら吉野家の牛丼が拝めるのか?だ。だが当分期待出来なさそうだ。アメリカの政治家の発言を聞いていると丸で日本が間違っている様だ。韓国を始め米国産牛肉の再開に応じた国ばかりなのに日本だけが言う事を聞かないとばかりに。盗人にも三分の理と言う諺が有るが、確かにアメリカ人は誰も狂牛病に感染をしていない。松井もイチローもステーキを食べているが問題は無いし病気になった在留邦人はいない。だが検査基準の観念に隔たりがあるのは仕方ないとして100歩譲っても杜撰な検査体制は受け入れられない。日本は米国を良きパートナーと思っているようだが米国は日本を Friend とは見ていないだろう。家来か舎弟が関の山。米国の政治家が言うように ATM 程度にしか思わないだろう。戦争に敗れた、戦後はアメリカの進駐から始まっただけに北朝鮮の拉致問題等を見ると日本はアメリカの後ろ盾が無ければ何も出来なくなってしまった。グローバル規模で競うものでは五輪のメダル争い等アメリカを凌げるものは数えるほどだ。そんな中サッカーは敗戦国日本とてアメリカに勝てる数少ないものだ。いやだったと言えるか?過去形にした理由はここ10年間のアメリカサッカーのレベルアップだ。前回のワールドカップではベスト8で日本を上回った。1次予選では初戦のポルトガル戦を制し、決勝トーナメントでは同じ北中米地区の雄メキシコを破り、蔚山で行われた準々決勝のドイツ戦も敗れはしたがハイクロス一本の単純なドイツに比べて多彩な攻撃を見せたのはアメリカだった。1-0 とリードされた後CKから バーハルター のシューとは カーン を破ったが フリンクス がきわどいところでクリアー。しかし、フリンクス の手にも当たった様に見えた。そして今大会、アメリカはあわやシード国か?言う勢いだ。(ただこれは物議を醸している FIFA ランキング によるところが大きい)。日本代表は2月10日、San Fransisco に乗り込み米国代表とテストマッチを行うが、それに先駈け1月29日にはCalifornia Carson でノルウェーを米国は 5-0 と粉砕した。欧州地区予選ではプレーオフでチェコに敗れて本大会出場はならなかったノルウェーだが、この日のアメリカ戦に出場した選手の中でチェコ戦にエントリーされた選手はGK Espen Johnsen と DF の Brede Hangeland の二人だけ。GK Johnsen は第二GKで出番は無かった。代表クラスの多くはPremier でプレーする選手なのでこの時期に遠征には参加出来なかったのだろう。一方のアメリカ、5点差の勝利は北中米地区以外の代表での対戦では1992年4月の中国戦以来。そして欧州代表相手に5点差以上をつけたのは史上初めてそして5得点以上の試合は史上11回目。この試合の MVP は3得点を挙げた代表12 Caps の Tawellman でここ3試合で4得点を挙げたことになる。米国代表選手の3得点(ハットトリック )は史上9人目。シュート数24本、そのうち枠内に飛んだのが13本のアメリカに対してノルウェーはシュートが2本のみに終わった。この日の米国GK Kevin Hartman は代表では Kasey Keller , Dempsey Clint に次ぐ3番手であるが、アピールの機会さえなかった様だ。米国代表は他にも Jimmy Conrad, Eddie Pope, Frankie Hejduk, Clint Dempsey, Santino Quaranta, John Wolf そして前回大会でも活躍した Landon Donovan らワールドカップ予選に招集、出場した選手が名を連ねた。 ノルウェーとて小間落ちのメンバーではホームとは言え負けないのが今のアメリカ代表だ。ノルウェー戦の一週間前にはカナダを迎え0-0で引分たが、1998年から代表を率いる Bruce Arena 監督の心中は10日の日本戦の結果をひとつの物差しにするつもりだろう。日本戦には Beasley ( PSV Eindhoven ) Gibbs ( Feyenoord ) Bocanegra, Macbride ( Fulhum ) Reyna ( Manchester City ) ら欧州組みは合流するかは不明だが本当に選手層は厚くなった。その一旦を担うのがエース Landon Dnovan が活躍の舞台とする国内リーグ、Major League Soccer の充実ぶりだ。MLSの結果は Die Kicker, Le Football 等欧州専門誌に J リーグの結果よりも詳しく掲載される。
そのアメリカにもかつて世界から注目を浴びた国内リーグが存在した。

南米予選 オーストラリアとの対戦相手は??

2005-10-12 | Football 北米 南米 
本日10月12日、世界各地で開催されるワールドカップ予選で更に3カ国の予選突破国が決まり、11月のプレイオフを経て参加32ヶ国が出揃う。南米予選では前節の予選5試合でパラグアイ、エクアドルが前回に続いての連続出場を決め、あとはオーストラリアとのプレーオフに臨む1ヶ国を巡る争いになった。
最終節を残して5位争いはウルグアイが勝点 22 でコロンビア、チリを1勝点リードしている。最終戦はホームモンテビデオにアルゼンチンを迎える。ここモンテビデオではウルグアイは滅法強くアルゼンチンとてここ50年程勝星を挙げていない。アルゼンチンを破れば、他国の結果に関係なくプレーオフ進出を決められる。前回に続いて2大会連続でオーストラリアとのプレーオフが実現するかもしれない、が今のアルゼンチンとの力の差を鑑みれば勝点3を上げる事は容易ではない。しかも、ここ20年間では3度モンテビデオにアルゼンチンを迎えたが黒星こそ無いが3引分で勝利は無い。最後にアルゼンチンから勝利を挙げたのは 1989 年ブラジルで開催されたコパアメリカ以降16年間10試合無くこの間5敗5分だ。
そうなるとチリ、コロンビアにチャンスが訪れる。チリはホームにエクアドルを迎える。1962年地元開催のワールドカップで3位に入賞以来3大会南米予選を突破したがその間未だ勝利が無い。1974年の前回のドイツでのワールドカップでは1次リーグでオーストラリアと対戦し 0-0 で引分けている。対戦する エクアドル は勝利が期待できるが得失点差で –4 と苦しい。しかも何故か試合開始時間が他の2会場よりの早いのではないか? 
こうなると、アウェィながら既に予選突破を決めているパラグアイとの対戦を残すコロンビアに最も可能性が残るか?チリとの直接対決も 0-0 1-1 で五分。そして得失点差が +7 で(ウルグアイは –6 ) この点では ウルグアイ チリ よりも優位に立てる。
かつて南米はアルゼンチン, ブラジル, ウルグアイの3強時代が続いた。本大会出場国数が拡大された82年以降に入ってもパラグアイ、エクアドルが本大会に進出する事は考えられなく、誰も期待はしていなかった。しかし、結局返上になったがコロンビアは 1986年の地元開催を目指して強化は続けており、パラグアイは1979年のコパアメリカで優勝して以来、ワールドカップにも顔を出すようになった。
その反面70年代に旋風を巻き起こしたペルーは80年代以降、82年スペイン大会に出場した以外は目立った成績は無く、先に行われた地元開催の FIFA U-17 では1次リーグで消えた。

どこが5位になっても個人的には Socceroos を応援するのだが…..

ブラジル、アルゼンチン BRICs その2

2005-07-07 | Football 北米 南米 
前回のワールドカップでは9人がそして今回のコンフェデ杯には19名の選手が6カ国の欧州クラブチームに所属していたが、ワールドカップが前回ドイツで開催された1974年のブラジル代表選手団22人の中で欧州のクラブチームに所属していた選手は一人もいない。 1978年の地元開催に向けてチーム作りを手掛けた当時のアルゼンチン代表のメノッティ監督は当初国内の選手のみでチームを構成しようと考えた。(結局は英雄ケンペスをスペインから呼び戻す事になったが)当時の南米諸国の選手は一旦国外に出てしまえば代表には呼ばれないという不文律みたいなのがあった。アルゼンチン大会後、主将の ダニエル=パサレジャ が インテル=ミラノ に移ったが、多くの選手が地元に残ったのは、欧州クラブチームが出すオファーはそれほど魅力的なものでなかったらしい。それだけブラジル、アルゼンチンの貨幣価値が欧州と変わらなかったのだ。その後、欧州でのサッカーのビジネス化に伴う選手の流通は周知の通りだ。 だが今、様相が変わるかもしれない。2002年、債務不履行で国家財政が破綻したアルゼンチンはその後2年連続で経済成長率が8%を超える復興ぶりだ。その原因は国際商品市況の急上昇で主輸出品目の農作物等の第一次産品の価格が高騰し、特に大豆関連品目は8割も上がり以前4年間の落ち込み分を完全に回復すると見られている。またブラジルの方も農畜産物、鉱物資源の価格が上昇していることから輸出が拡大、内需も自動車市場が快活で景気は急上昇中だ。また鳥インフルエンザ問題で世界第三位の収穫高を誇る鶏肉の特需も後押しをしている。好調な輸出を担っているのは両国からの一次産品を買い漁っている中国である。欧州統合で反対に経済的な伸びが停滞する中、もし南米市場がこの様な伸びを続ければ、将来はサッカーのビジネスの舞台が欧州から南米へシフトされるかも?と考えるのは早計か?だが、EU統合が経済的な事由で足並みが揃わない中、好調な経済発展を見せている BRICs 諸国(Brasil,Russia,India,China)の一つであるブラジル、オランダでユースチームが優勝したアルゼンチンがその経済の発展ぶりを背景にチーム力が更に急上昇し、地元のドイツをはじめ欧州勢は歯が立たなくなるかも知れない。これからは経済誌からも目が離せない。

ブラジル、アルゼンチン BRICs

2005-07-06 | Football 北米 南米 
色々な話題を提供してくれた コンフェデレーションズ杯 はブラジルが南米決戦に圧勝し優勝を飾った。来年のワールド杯では48年ぶりに優勝杯が大西洋を渡るかもしれない。スポーツの興隆はその地域での経済状況が大いに係わって来る。サッカーは今や巨大ビジネスと化し、世界中の一流選手が欧州のサッカービジネスにその商品として集められていると言っても過言でない。それも大陸別に見ると欧州市場が経済的に発展している事と、サッカー文化が欧州で根付いている事は皆が知るところだ。1980年代初旬まで旧共産圏諸国が何度かワールド杯で上位に進出した。古くは1954年のマジックマジャール こと ハンガリー。そして レフ=ヤシン のいた頃の旧ソ連邦(62年、66年ベスト4)、チェコスロバキア ( 76年欧州選手権優勝 ) ポーランド ( 74年,82年3位) クラブレベル では86年ステアウア=ブカレスト 91年 レッドスター=ベオグラードが チャンピオンズカップ の タイトル を勝ち取った。これは一重にスポーツを国威掲揚の最良の方策と捉えた社会主義体制が生んだ産物で、一流スポーツ選手は特権階級であり、それがこの上ない モチベーション となったのは言うまでも無い。
だが共産体制が崩壊後、かれらへの特権は霧散し、かわりに自らが商品となり西側諸国に輸出され、代表国家レベルでの好成績は欧州選手権のチェコとアメリカ大会でのブルガリア意外は見られなくなってきた。
1920年代、ウルグアイが五輪で2連勝し、地元開催の第一回ワールドカップでも優勝を果たした。その裏には欧州勢の関心の低さが上げられるが、当時欧州諸国は第一次世界大戦を終えたばかりで経済的に停滞しており、南米諸国は羊毛の輸出や当時開発されたばかりの冷凍コンテナーのおかげで可能になった牛肉の輸出で経済的にはるかに欧州諸国より潤っていた。事実ワールドカップ誘致に当たってウルグアイは大会参加選手団の費用を負担する準備があると公言していた。

アルゼンチン対ブラジル 2強対決!!

2005-06-29 | Football 北米 南米 
2002年6月13日、リオでサンパウロテで花火と大歓声があがったらしい。前回のワールド杯、アルゼンチンがスウェーデンと引き分け目出度く1次リーグでの敗退が決まった瞬間であった。同様の事はその4年前ブラジルが決勝戦でフランスに 0-3 で敗れた直後に ブエノスアイレス や ロサリオ でも起こったのでは?と容易に想像できる。世界中どこでも隣国同士は仲は悪いのが常だ。領土権や文化圏を巡っての紛争は絶えない。だがこの両国は少し赴きが異なる。政治、経済的な対立も戦争も両国間には無縁であった。しかしサッカーに関してはどちらも譲らない。ワールド杯の出場権を巡って両国が直接競い合うと言う事は無かったが、問題はどちらも”我々こそが南米大陸で最も優れたサッカー大国”と譲らない事だ。だがアルゼンチンは少し分が悪い。大西洋に面していることから欧州からの移民が多く、他の南米諸国の様に土着のインディオや白人に連れてこられた黒人が少ない。だから南米諸国からは”自分達を欧州民族の末裔と自慢している”と嫌われる。サッカーの歴史で見ればこの大陸に最初に伝道されたのはアルゼンチンで1867年に英国系のスポーツクラブがブエノスアイレスに設立されたのが発祥だ。1930年ウルグアイで開催された第一回のワールド杯では決勝でウルグアイに敗れて準優勝に終わったが2年前のアムステルダム五輪の決勝でも再試合の末ウルグアイに 2-1 で敗れている。だがワールド杯よりも歴史の古いコパ=アメリカを重要視していたアルゼンチンは翌34年にアマチュアチームをイタリアに派遣して以降は3度の棄権(1938,1950,1954 )と予選落ち1回(1970)を経て1974年西ドイツ大会までの3回出場した本大会ではベスト8が2度だけの戦績でペレの登場により3度優勝したブラジルとの差がはっきりと付いてしまった。だがアルゼンチン人に言わせれば神様ペレも黒人の多いブラジルを揶揄した”マカッコ(サル) "の一人で彼の生涯通算1000ゴール以上の偉業も”草サッカーやビーチサッカーの得点も含んでだう?”と笑いの対象に。しかし1978年、地元開催のワールド杯。当時軍事政権と共産組織との争いが絶えなかったアルゼンチンでもワールド杯期間中は悲願の初優勝を勝ち取るために手を組み一時休戦に。その甲斐があってか?延長でオランダを3-1と破りライバル、ウルグアイ、ブラジルと同様ワールド杯優勝国の称号を得た。その大会、ジーコらがいたセレソンは無敗で3位に終わりブラジル国民は悲しみに暮れた。そしてアルゼンチンにはあのスーパースター、ディエゴ=アルマンド=マラドーナが現れる。ブラジル人からすれば”クスリ漬けの太った醜い小男”も彼の活躍で再びアルゼンチンは世界王者に戴冠される。そしてセレソンが再び王者の美酒に酔ったのは3度目の優勝を果たして24年の歳月を待たねばならなかった。その間にライバル、アルゼンチンは2度世界王者に。その間、ブラジルは忸怩たる思い出マラドーナのドリブルを観ていた事であろう。そして8年後、王国ブラジルが5度目の優勝に酔いしれた横浜の夜を覚えている日本人そしてブラジル人は多いことであろう。今夜対決する南米の2強のいずれかが来年48年振りにワールドカップを大西洋横断させる可能性のある国だろう。