Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ワールドカップサッカー・アジア予選5

2005-01-31 | Football Asia
1990年代に入ると、東アジア地区のレベルアップの為にダイナスティ杯が始まった。中東諸国間ではガルフカップ、東南アジア諸国間ではタイガーカップと近隣諸国同士で切磋琢磨をする大会があるが、ようやく東アジア地域でもこういう大会が始まった。このダイナスティカップはマルボロー社がメインスポンサーになり1998年まで4回開催されたが、北朝鮮は第一回と第二回大会のみ参加。後の2大会は不参加。代わって香港リーグ選抜がエントリーするようになった。参加した大会では4か国(他には中国、韓国、日本)の中で3位(第一回)、4位(第二回)と成績は振るわなかった。しかし、大会自体はハイレベルの戦いが繰り広げられ、大いに盛り上がった。
1992年は広島で第10回アジアカップが開催され、本戦出場を収めた北朝鮮はまたも一次リーグは日本と同組となった。1980年に香港で開催されたワールド杯1次予選から12年間で公式戦4大会も日本と同組になったのだ。北朝鮮は日本と引き分けただけで準決勝には進めなかった。
多くの人がこの大会は日本が初優勝を収めたのを憶えていると思う。
そして記憶に残る、1993年10月ドーハで開催されたワールド杯アメリカ大会最終予選、北朝鮮代表は予想に反して一次予選を突破しドーハ行きの切符を手に入れた。これは日本、韓国には吉報であった。 2次予選の開催地を巡って中東諸国と日本、韓国との間で激しい議論が繰り広げられていた。北朝鮮の組ではカタールが有望視されていたが、北朝鮮の予選突破で、他に韓国、日本、中国が勝ち上がり、合わせて4カ国が東アジア諸国で占められ、2次予選の開催地をシンガポールかマレーシアに持ってこられるのではとの期待があった。
しかしながら、中国がイラクに破れ、2次予選はサウジアラビア、イラク、イラン、韓国、日本、北朝鮮と東西アジア3カ国ずつの顔ぶれとなり、悲願の初出場を狙うサウジアラビアの根回し、そして前回はマレーシアで開催されたとので今回は西アジアでの開催をという言い分が通りドーハでの開催となった。
初戦のイラク戦。2点を許しながらも、後半20分から14分間に3ゴールを叩き込み豪快な逆転勝ちで幸先の良いスタートを切った。しかし、残りの4試合を全敗、前回に続いて最下位で2次予選を終えた。既に代表はイングランド大会の英雄、朴斗翼にモントリオール五輪の時から率いられており、このドーハでは既に彼の指導法に異論を唱える者も少なくは無かったらしい。しかし、イングランドでの名声が彼の地位を代えることが出来なかった。
以降ワールド杯2大会連続してエントリーをせず、最近の他の国際大会での戦績においても、昨年行われた北京アジアカップの地区予選ではイラン、ヨルダンに連敗し、4か国中最下位に、2000年レバノン大会でも地区予選でタイに敗れて本大会まで進めなかった。1996年大会はエントリーをしていない。
2002年美女軍団の出現で話題を呼んだ釜山でのアジア大会でもベスト8止まりで、かつての強豪国の片鱗は全く見られない。
だがエントリーをしたワールド杯予選では今回で3大会連続(89年、93年に続く)の最終予選進出であり、ここ10年来の低迷していた代表とは異なると考える必要はある。
昨年静岡で開催された アジアU-17 大会では一次リーグで日本を、準々決勝で韓国を破って、決勝に進出。決勝では中国に敗れたが、3位のカタールと共に来年ペルーで開催される本大会出場を決めた。U-17 レベルとはいえ、1976年のモントリオール五輪以来の世界への扉を開いた。 
かつてメキシコ五輪で銅メダルを勝ち得た日本にアジアの戦いを勝ち抜いて次に世界への扉をこじ開けたのは1994年にアジアで優勝したU-17チームであった。
( 1979 年ワールドユース大会、1993年ワールドジュニアユース大会(U-17)は日本の地元開催により地区予選免除)

ワールドカップサッカー・アジア予選④

2005-01-29 | Football Asia
ようやくイングランド大会の10年後、楊成国らを擁してアジア予選を突破し臨んだ1976年モントリオール五輪で、ベスト8に進出した。(準々決勝では銀メダルのポーランドに 0-5 で敗れる。)
だが翌年から始まったワールド杯アルゼンチン大会予選にエントリーはしたのだが、組み分けでイスラエルが入れられると(他は、韓国、日本)何の前触れも無く棄権を申し出てきたて、3大会連続の棄権となったがその直後からすこしずつ、上昇を始める。
バンコックで行われたアジア大会、決勝で韓国と対戦をしたが、決着は延長戦に入ってもつかず、両国優勝となった。そして表彰式でどちらの国歌を先に吹奏するかを決めるコイントスで勝った北朝鮮選手団の喜びぶりが印象的であった。そしてこの年に行われたアジアユース選手権ではイラク、韓国に次いで3位に入り翌年日本で開催されたワールドユース大会への出場権をイラクが棄権した為に手に入れたのだが恐らく政治的な理由で本大会を棄権。日本にはやって来なかった。
1976年にバンコックで行われたアジアユースでもイランと優勝を分け合っており、80年代以降へ期待がもたれていたと考えられる。
だが1980年2月下旬にシンガポールで開催されたモスクワ五輪では期待されたが、地元シンガポールに敗れるなど6カ国中4位に終わり、その年末、香港で開催された中国、日本、香港、シンガポール、マカオが集って開催されたワールド杯スペイン大会の一次予選でも決勝で中国に破れ、二次予選進出はならず、結局本大会にはクウェートとニュージーランドが進出した。
70年代後半から80年代中期にかけて中近東諸国の台頭が顕著で、それに対抗できる東アジアの国は韓国しかなかった時期であった。
それでもニューデリーで行われた1982年のアジア大会、東アジア諸国で唯一北朝鮮がベスト4に進出した。準決勝のクウェート戦は激しい試合となり延長戦の末敗れたが、この試合後事件が起こる。判定に不満を持ったコーチ数人が審判団に掴み掛かり、最後は警官隊が入ってこの騒ぎを鎮圧せねばならなかった。 そして北朝鮮は2年間の対外試合禁止を言い渡される。この年のワールド杯スペイン大会にアジア代表として出場したクウェートに健闘しただけに残念な事件であった。
1985年2月、ワールド杯メキシコ大会予選が始まった。日本、シンガポールと同組になったが、この予選も日本の後塵を拝し前回同様2次予選に進めなかった。この大会は韓国が決勝で日本を破り8大会振りに本大会出場を決め以降5大会連続、本大会に進出している。
 1989年5月から始まったワールド杯イタリア大会予選でもまた日本と同組になった。直接対決は1勝(平壌 2-0 ) 1敗 ( 東京 1-2 ) であったが、香港戦を2戦とも引き分けた日本を押さえて同年10月マレーシアで開催された2次予選に進出した。しかし、1次予選を勝ち抜いた他の5カ国を相手にカタールには 2-0 で勝ち、予選を突破した UAE と引き分けたが、中国 ( 0-1 ) サウジアラビア( 0-2 ) そして韓国 (0-1) に破れ6か国中最下位に終わった。 この南北対決は1980年クウェートで開催されたアジアカップ準決勝以来であった(当時2-1で韓国の勝ち)。
80年代以降韓国の後塵を拝し続けてきたがアジア大会では以外に成績が良く、1986年のソウルでのアジア大会を棄権した以外、上記した82年大会と90年大会では成績が上回った。その90年北京大会準決勝でタイを破って決勝に進んだ北朝鮮の決勝の相手は韓国が有望視されていた。しかし、延長戦の末イランが韓国を破り、12年ぶりの決勝での南北対決はならなかった。決勝ではイランが北朝鮮を1-0で下して1974年以来16年ぶりの優勝を収め、2位が北朝鮮。韓国は3位に終わったのであった。  <つづく>

ワールドカップサッカー・アジア予選③

2005-01-28 | Football Asia
そして準々決勝のポルトガル戦。開始22分までに朴勝人、李東云、楊成国の連続ゴールで3得点を奪ってしまう。ポルトガルのシュートはGK(しかも素手だった)が早い動きで好セーブを続ける。観客はこの未知なる国に“ easy ! easy ! “ と声援を送る。しかし健闘もここまでであった。大会得点王のエウゼビオにPK2本を含む4連続ゴールで逆転を許し、終了間際にはアウグストにも追加点を喫し 3-5 で破れ大会を後にすることとなった。エウゼビオの4得点目の PKは微妙な判定であったがしかし、Goodison Park の観客はスタンドを去るアジアからのサッカー小国の健闘に暖かい拍手を送った。もし、対戦相手がエウゼビオの様な一人の卓越したストライカーの得点力に頼るチームでなければ、違った結果になっていたかも知れない。大会後欧州を訪問した日本人は地元の人から”貴方はNorth Koreaから来たのですか?あの大会はすごかったですね。“と声を掛けられたらしい。
この大会で北朝鮮が作った実績から FIFA は次大会からアジア、アフリカにそれぞれ出場枠を1カ国ずつ与えるようになり、この北朝鮮の快進撃は当時メキシコ五輪で銅メダルを勝ち取った日本の快挙と並んで韓国に焦燥感を与えることになる。だがこれ以降、北朝鮮サッカーは下降線を辿りだす。
自らがアジアの出場枠を確保しながら、本大会出場を果たしていない、というよりも前回の日韓大会までの9大会中、5大会もエントリーそのものをしないかった。イングランド大会直後の70年、74年、と連続してワールド杯予選を棄権している。その原因は60年代にサッカー界を支えた当時の朝鮮労働党副委員長、朴金が1968年に金日成主席と政治対立の末に粛正をされ、多くの選手、役員が粛清、野放されてしまったからであった。
イングランド大会の得点者、楊成国は8年後に平壌 4.25 チームのメンバーとして、また朴斗翼は代表監督として 1989年にそれぞれ来日をしている。しかし2得点を挙げた朴勝人は政治収容所に入れられたらしい。 アジア、アフリカ諸国のサッカー協会関係者はその収容所に足を向けて寝るのは心苦しいことなのである。  <つづく>

ワールドカップサッカー・アジア予選②

2005-01-27 | Football Asia
オーストラリア代表選手であった Johnny Warren のコメントは続く。
“初戦を 1-6 第二戦目も我々自身の進歩は感じられたが 1-3 で破れ、ワールド杯の出場などは儚いものだったと認識した。北朝鮮は技術も高く、規律も取れており何しろ全選手が Full Time のプロで軍人的な規律があり、我々はただのパートタイマーに過ぎなかった。我々のチームはこの予選の前に結成され、その最初の試合がワールド杯予選であった。この予選後に我々はカンボジア、マレーシア、香港とテストマッチを行ったが、この様なマッチメークは大切な予選前に行われるべきであった。当時の北朝鮮は我々に国際レベルのサッカーはどの程度かを教えてくれた。“ 
尚、この9年後、Johnny Warren に率いられたオーストラリア代表は韓国を破ってアジア、オセアニア地区代表として1974年FIFA WORLD CUP 西ドイツ大会に出場する。
そしてイングランドでの第8回FIFA WORLD CUP。当時も北朝鮮は東欧諸国等限られた共産圏諸国としか経済、文化の交流が無く、その上今ほどマスコミも発達しておらず、アジアからの出場は1954年の韓国以来であったが、その韓国は2戦2敗(対ハンガリー 0-9, 対トルコ 0-7 )で敗れておりアジアからの出場国などには誰も注目をしなかった。しかも大会の前に行った同じく大会出場国であったハンガリーとの親善試合では 0-7 と敗れていた。
第4組、ソ連、チリ、イタリアと同組に振り分けられた北朝鮮の本大会初戦のソ連戦は、0-3と完敗であった。アジアには未だワールド杯は早すぎると苦笑する欧州列強もいたであろう。だが三日後のチリ戦。初戦のイタリア戦を0-2と落とし、後の無い前大会ホスト国に対して先制点を許すも終了2分前に朴勝人(パク=スンジン)のゴールで引分ける。ワールド杯史上アジアの国が挙げた最初の得点、勝ち点であった第3戦のイタリア戦、試合の行われたミドルスブラの観客は殆どが北朝鮮の味方であったが、この日を最後に当地を後にすると誰しもが未だ思っていた。
しかし、北朝鮮の選手は臆すること無く勇敢に欧州列強であるイタリア戦に臨む。前半34分、イタリアMFブルガレリが自らの反則タックルで負傷退場を強いられると、次第に主導権を握っていく。当時のルールでは交代出場が認められていなかったので、イタリアは以降一人少ない人数での続行を強いられた。そして42分朴斗翼が当時の欧州屈指の名手ジャンニ=リベラからボールを奪い、そのままゴールを奪う。後半に入ってもイタリアを圧倒。最後まで主導権を握り続け遂にイタリアは2大会連続で一次リーグで帰国をすることになってしまった。対チリ、対イタリア戦共に対戦相手国より中1日ずつインターバルが長かったと言う日程の有利さがあったが、それ以外にも当時の試合のビデオを見ると対戦相手をはるかに凌ぐ運動量で空いたスペースに次々と選手が出てきて、細かいパスを正確に繋ぐその戦術は相手国にとっては脅威となった。この戦術こそ前回の日本、韓国がワールド杯で成功をみたその前例であると言えよう。同じような戦術でその30年前、ベルリン五輪で日本が優勝候補スウェーデンを3-2と逆転で破ったが、それを手本にしたのかもしれない。
大会前、ハンガリーには大敗したものの、同じく大会前モスクワでディナモモスクワを破った事が大会後明らかになるなど潜在能力を秘めたチームであったのだ。 <つづく>

ワールドカップサッカー・アジア予選①

2005-01-25 | Football Asia
Rising JAPANのブログへようこそ。

Mr.ヒロです。私は、このブログの編集者的な役割をおこなっています。実は、やたらにサッカー界やスポーツ界に詳しい友人(Mr.コンティ)がおりまして「ぜひ記事を書きたい!」と言われ、そのうちHPを作ろうと思っていたのですが、時間も無く、それならばまずはブログを! と、デビューすることとなりました。サッカーを中心に、スポーツの世界の雑学・裏話をちりばめながら、雑誌や新聞のマスコミでは書かないような記事を掲載していきたいと思います。という訳で、メイン筆者はあくまでもMr.コンティです。
それでは、まずは旬の話題。「Mr.コンティが斬る!ワールドカップサッカー・アジア予選」からスタートです。

●感動のFIFA WORLD CUP 日韓大会からはや3年近くが過ぎ2月9日からアジア各都市でFIFA WORLD CUP ドイツ大会、アジア地区最終予選が始まる。前大会はホスト国なので予選は免除。
1997年以来7年振りの地区予選から本大会出場を狙う。
2次予選B組に振り分けられたのは日本、イラン、バーレーンそして北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の4カ国。 はっきり言ってワールド杯の予選ほど厳しい国際Aマッチは無い。FIFA ランキングがどうであれ、例え日本が先のアジアカップで2連覇を果たしても4カ国に均等に50%ずつ予選通過の可能性はあると言えるだろう。
初戦の始まるまでの約3週間。日本の前に立ちはだかる対戦相手3カ国の分析をして行きたい。

I朝鮮民主主義人民共和国
昨年12月9日、クアラルンプールで行われた最終予選の組み合わせ抽選会。私がもっとも興味を持ったのは北朝鮮がどちらの組に入るかということであった。日韓両国がシードされたのでいやでもこの両国のどちらかと戦うことになる。韓国と同組になればその対戦はどこで行われるのか、ソウルで平壌で双方、対戦相手国を受け入れられるのか?日本と同じ組になった時、果たして朝鮮入りした選手団や報道陣はどのように扱われるのか?16年前と異なり日本人の一般サポーターの入国は許されるのか?
国交の無いこのミステリアスな国にはサッカー以外の点で非常に興味のある対戦相手だ。

北朝鮮のサッカー史とは??
この国のサッカーを語るに、絶対に避けられない歴史事象は万人が知っているであろう1966年イングランド大会でのベスト8進出だ。今から40年近く前のこの成績は当時の世界のサッカー勢力図でアジアの置かれていた位置を考えれば、前回の韓国のベスト4と同等と言える。
当時、本大会出場16カ国の中でアジア、アフリカで1カ国のみ出場枠が与えられた。これに抗議してアフリカ諸国は全て予選をボイコット。アジアでは2年後のメキシコ五輪出場を目標にしていた日本はワールド杯の出場がアマチュア規定に抵触し、翌年の五輪予選に出場出来ないことに危惧して、韓国も議論を重ねた末に棄権をし、この地域では15カ国がボイコットをした。韓国の棄権は当時の北朝鮮には勝算が全く見込めない為の決定であり、FIFAはこの韓国の決定にUS$5,000 の罰金を果たしている。
これでアジア、アフリカ 予選に参加したのはオーストラリアと北朝鮮の2カ国だけとなった。
この予選を当時のオーストラリア代表選手であった Johnny Warren は著書に以下の様に記している。
“政治的、経済的な理由から強豪国が相次いで棄権し、我々と北朝鮮だけがこの予選に参加する事になった。その予選はカンボジアのプノンペンで2試合行われることになり、我々は北朝鮮を倒しさえすれば世界の強豪とイングランドで戦えると夢見ていた。
だがカンボジアに到着した我々に当地の町並みや様子が、あたかも別の惑星に来たかの様な印象をもたらした。だが更に衝撃的だったのは対戦相手の北朝鮮の強さであった。
 <つづく>