Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

あと100日 Socceroo は?

2006-02-28 | Aussie & Kiwi
ここしばらくトリノ五輪ネタばかりでサッカーを題材にしたものの掲載が無く、読者の方からはお叱りの声を受けておりました。(誰も何もいってへんって??)お詫び申し上げます。
2月22日、アジアカップ予選の初戦にあたるインド戦を圧勝で飾った。小野のジーコジャパン通算100ゴールを挙げる等話題はあったがこの日はアジア各地で同様にアジアカップ予選が行われ韓国はシリアを 2-1 で退けた。インドも日本戦の前には香港に寄り香港代表と 2-2 で引分けたが日本に取ってはワールドカップに向けての強化試合はいえない相手であった事は否めない。
そこで気になるオーストラリア代表。本来はシード国であるべく力を持っているのだが昨年からAFCに新加盟しアジアカップ初登場。したがってノーシードでのエントリーとなった。そのおかげで?アジアカップでは Kuwait, Bahrain , Lebanon といったアジアの強豪と同組の Group D に振り分けられた。だが強豪 Bahrain と公式試合が組める事が6月のワールドカップに向けて強化試合の一旦になる。この試合にはMark Viduka, Harry Kewell GKのMark Schwarzer ら主力選手は参加しなかったがそれでも欧州組ではPetkovic (Sivasspor/Turkey ), Ante Covic (Hammarby/Sweden) Tony Vidmar (NAC Breda/ Holland ), Michael Thwaite (FC National/ Romania ), Jon McKain (Timosoara Politechnica/ Romania ), Ahmad Elrich (Fulham/England ), Luke Wilkshire (Bristol City/England ), Josip Skoko (Stoke/England ), (Excelsior/Holland ), Scott McDonald (Motherwell/Scotland) Archie Thompson ( PSV/Holland )と10名がこの試合にエントリーされた。

またPSV Eindhoven が Champions League の試合があった為にGuus Hiddink監督はこの試合には参加出来ず、Graham Arnold、Johan Neeskens 両コーチが指揮をとった。 Johan Neeskens と言えばCruyff 時代にオランダ代表のMFで活躍したスーパースターで74年西ドイツ大会ではブラジル戦で先制ゴールを。決勝戦では開始直後のクライフがヘーネスに倒されて得たPKを決めた選手だ。翌78年アルゼンチン大会にも出場。クライフを抜けた穴をよくカバーしチームを準優勝に導いた1人だ。79年から所属していた Barcelona から New York Cosmos に移籍。同年に日本にもメンバーの1人として来日した。あまり知られていないが、彼は当時から野球が好きで、一時はアメリカでプロ野球選手を目指していた事もあったらしい。バーレーンの首都マナマで行われたこの試合は開始からオーストラリアのペース。しかし35分、ワールドカップ予選で日本を苦しめた Hussein Ali のゴールでホームのバーレーンが先制する。これがバーレーン前半最初のチャンスだった。後半開始2分には再び Hussein Ali がチャンスを掴むがそのショットはポストを叩いた。そしてそれ以降は再びオーストラリアの猛攻が続き 53分には Skoko のクロスにThompson が合わせて同点に追いつく。Thompson はMelbourne Victory から直接Hiddink 監督によって PSV Eindhoven に引き抜かれた選手だが、 Champions League にはベンチ入りされない(とういか Hiddink 監督自らが決めたのだろうが。)為にこの Bahrain 戦に合流することに。そして79分、今度はSkoko がゴール上隅に叩き込み逆転。この Skoko は昨年ドイツで開催された Confederations Cup のドイツ戦でゴールを挙げた。87分には Bahrain ペナルティーエリア内の リバウンドボール に迫った Ahmed Elrich の突進を Bahrein DF Abdullah Marzooq が肘で阻止。マレーシア人レフリーは躊躇無く ペナルティースポット を指し, Elrich が自らそのPKを蹴り込み試合を 3-1 と決めた。 他にも代表デビューとなった Scot McDnald が好機を2度ほど逃すなどあと2~3点取れた試合だったらしい。 またこの日指揮を取った Arnold コーチは“国内組”Central Coast Marines 所属のDF Michael Beauchamp の出来を高く評価。ワールドカップメンバー 入りにアピールが出来た。どんな選手か要チェックだ。
バーレーンは欧州から時差2時間程度しか離れいない。オーストラリアに取ってはこの日の試合は結果よりも大変効果的な試験となっただろう。日本はアメリカに敗れた後フィンランド、インドに連勝したが、喜んでいる場合か?

注目のスカンジナビア対決 SUMOEN 達は...

2006-02-26 | 冬季五輪
トリノ五輪もいよいよ大詰め。残す種目は数種目。日本は荒川静香が金メダルを勝取りホット一息の諸氏も多いことだろうが、日本時間の今夜行われるアイスホッケーの決勝戦 Sweden vs Finland を Finland 国民520万人は祈る気持ちでテレビ観戦等を行うことであろう。もしスウェーデンが勝てばフィンランドは札幌、リレハンメルに次いで3回目の金メダル無しの冬季五輪になってしまう。フィンランドのアイスホッケー人気は大変なものであるが五輪での成績は1988年カルガリ大会での銀メダルを筆頭に 1994年 リレハンメル、1998年 長野と連続して銅メダルを得たが、金メダルは未だ無い。世界選手権では 1995年、決勝戦で隣国のホスト国 Sweden を破り初優勝を収めた。これは1992年にプラハで開催された世界選手権の決勝戦、ペナルティーショット戦で敗れた雪辱戦でもあった。以降 1998 年スイス大会では決勝戦で今度は Sweden に敗れて3年前の雪辱を果たされてしまい、 1999年ノルウェー大会でもチェコの後塵を拝し優勝はならなかった。当時のチェコは全盛期でこの年から3年連続で世界選手権優勝を果たす。そして1996年から 2005年の10年間、チェコは世界選手権優勝5回。長野五輪金メダルと隆盛を誇っていた。今大会でもチェコが優勝候補と私は見ていた。しかし準決勝では Sweden に 3-7 で破れ決勝進出はならなかった。トリノ五輪の男子アイスホッケーは開催国イタリアを含めた12カ国に出場権を与えられた。6カ国ずつ2つのグループに分けられ.A組に イタリア、カナダ、スイス、フィンランド、ドイツ、チェコがB組にはカザフスタン、スウェーデン、ロシア、スロヴァキア、ラトビア、アメリカがそれぞれ振り分けられ総当りの戦績で順位が決められ各組上位4カ国が準々決勝に。A組ではフィンランドが5戦全勝と圧倒的な強さで準々決勝へ。そしてスイスが健闘。強豪チェコ、カナダを破り2位に。3位はカナダ。そして4位にはイタリア、ドイツといった下位チームから確実に連勝したチェコが入った。地元イタリアはスイスとドイツ相手に引分、勝点でドイツに並んだが得失点差で最下位に。この種目イタリアは女子も最下位に終わり今後、五輪でのアイスホッケー開催国出場枠が議論されることになった。B組は2002年スウェーデン世界選手権で優勝したスロヴァキアが旋風を起こしロシア、スウェーデンを破り全勝で準々決勝へ。スウェーデン、アメリカを破ったロシアが2位。アメリカを 2-1 で破ったスウェーデンが3位。そしてアメリカが4位で続いた。カザフスタンは強豪ロシア 0-1 スロヴァキア 1-2 に食い下がったがアメリカに 1-4 で敗れたのが痛く準々決勝進出はならなかった。ラトビアはアメリカに引分けただけの最下位に終わった。準々決勝ではスウェーデンが1次リーグで健闘したスイスを 6-2 と一蹴。アメリカ ( 3-4 フィンランド) カナダ ( 0-2 ロシア ) の北米勢は揃って姿を消し、注目のチェコスロヴァキアビロード対決は 3-1 でチェコに軍配が上がった。準決勝ではかつてアイスホッケーの決勝戦でほとんどかならず直接対戦したロシアとチェコが揃って敗れた。フィンランドが 4-0 でロシアを降した直後の選手、応援団の喜びようは第二次世界大戦前にフィンランドが旧ソ連の統治下にあったという背景がある。決勝戦はスカンジナビア対決となったが五輪、世界選手権での直接対決は何とスウェーデンの4勝2分け。五輪でフィンランドがスウェーデンを上回ったのは1976年インスブルック大会と1988年カルガリ大会そして1998年長野大会のみ。スウェーデンは五輪では1994年 リレハンメル 大会で,世界選手権では7回優勝をしている。特に1991年フィンランド大会、1992年チェコ大会では連覇を収めている。1962年アメリカでの世界選手権で優勝以降80年代末にかけて旧ソ連、チェコスロヴァキアが優勝争いを繰り返す中、優勝こそ無いが、世界選手権では1963 1964 1967 1969 1970 1973 1977 1981 1986 と9回2位に入っている。しかし、カルガリ五輪でのフィンランドは銀メダルに終わったが決勝リーグ最終戦でソ連を破り五輪での連勝記録を14で止めた。今大会もアイスホッケーには日本が出場権を得られなかったのでこの種目の中継が少なく資料が集らないので展望が難しいが、準々決勝以降先制点を上げたチームが勝利を収めている。これがかぎになるかもしれない。今大会7試合中5試合を完封したフィンランドの守備か?決勝トーナメント2試合で13点の攻撃力のスウェーデンか?個人的には SUOMI 達に頑張って欲しい。それにしても地元開催枠で出場した以外の五輪では1980年レークプラシッド大会以来五輪の舞台に立てない日本。いつになったらそこに還ってこられるのだろう??…

韓国におけるトリノ五輪での日本選手の報道

2006-02-26 | 冬季五輪
日本列島は未だ女子フィギュアースケートの快挙の興奮が冷めない。しかしこの事情は隣国、韓国にとっては苦々しい出来事らしい。 これまで韓国は合計6個の金メダルを獲得し今や冬季五輪でのアジアの盟主であると自負し始めている。確かにショートトラックの韓国のメダルラッシュは今大会に限らずこれまでの五輪、世界選手権の韓国の成績をみると世界のトップであると自他共に認めることの出来る種目という事に異論をはさむ余地など無い。日本のメダル0更新が続く2月23日の朝鮮日報の日本語版では

“祝賀パーティーに沸く韓国、喪中の日本。”と見出しに続いて下記の様な行が、“韓国はイタリア・トリノから伝えられる冬期五輪の朗報にホクホク顔だ。しかし、隣国だが永遠のライバル日本は水を打ったように静まり返っている。 「3・1節(1919年3月1日に起きた3・1独立運動記念日)」を目前に控え、日本に対する感情が今更ながらに沸き起こる今日この頃、韓国のスポーツファンとしては日本の苦戦が特別なものとして受け止められるのは事実だ。日本は23日(韓国時間)現在、今回のトリノ冬期五輪で1つもメダルを獲得できていない。 トリノ冬期五輪の公式ホームページがリアルタイムにメダル集計にともなう国家別順位を紹介しているが、日本は順位表に名前すら挙げることができなかった。 (中略) 今大会では最も信頼を集めていたスピードスケート男子500メートルの世界記録(34秒30)保持者、加藤条治と長野大会の英雄だった金メダルリスト清水宏保がともにメダル獲得に失敗、もつれる展開となった。 このため、日本のメディアには悲痛な空気が漂っているほか、冬期五輪のニュースに重きを置かない雰囲気だ。云々と、

日本の不振が愉快でたまらないみたいだ。男子500mスピードスケートに言及したのはこの種目でキム=ガンソクが銀メダルを獲得したからだ。これまで韓国内のテレビ局はソウル五輪以降、五輪、アジア大会のメダル獲得数報道をする時は必ず日本の成績も紹介し、国民に優越感を齎していた。しかし、その優越感もアテネ五輪では感じられなかっただろう。トリノ五輪での意外な日本の不振は韓国マスコミには格好のネタだったらしい。しかしそれも女子フィギュアで終止符が打たれた。2月24日付けの朝鮮日報は荒川の快挙を賞賛”2004年の世界選手権優勝に続き、トリノ五輪の舞台で世界の頂点に立った荒川静香の演技には、イリーナ・スルツカヤ、サーシャ・コーエンも及ばなかった。“の行に始まり”小学3年の時にトリプルサルコウをマスターし、天才少女と呼ばれた。日本ジュニア選手権でただ1人3連覇(1994年・1995年・1996年)を果たし“と彼女の先天性、”荒川は大会の数週間前、伝説的な「チャンピオンメーカー」、タチアナ・タラソワ(ロシア)に出会ったことが転機となった。荒川はコーエンがコーチを替えた後タラソワに師事し、驚異的な成長を遂げた。2004年末に北京で開かれたグランプリファイナルではスルツカヤに次ぐ2位となった。 荒川は昨年12月にコーチをニコライ・モロゾフ(ロシア)に替えた。モロゾフは、コーエンのトリノ五輪用演技の振り付けを担当した人物。“となかなか詳しく報道。恐らく日本人以外の協力もあっての金メダルと言いたいのだろう。安藤監督や佐藤久美子コーチの名前は出てこない。でもこの種目、北朝鮮でさえキム=ヨンスクという選手を派遣しているのに、中国選手も最近は世界の舞台に出てきた。しかし韓国が選手を送らないのは何故だろう?日本に負けるのがいやなのか?それとも女性が肌を露に人前にでるなと言う韓国での教えなのか?この教え云々というのはかつて女子マラソン選手が出てこない土壌だと教えてもらったのだが。(北朝鮮も女子マラソンは結構強い選手がいる。)
その北朝鮮。1964年インスブルック五輪女子3000m でハン=ピルゥファという選手が銀メダルを獲得した。彼女がアジアの女子で最初に冬季五輪のメダリストとなった。当時北朝鮮は女子800m走で幻の世界記録保持者といわれていた金辛丹やイングランドワールドカップでサッカーがベスト8入りするなどスポーツでも北朝鮮に開けられていた時代であった。先週釜山アジア大会や大邸ユニバーシアードで話題になった美女軍団の一部が収容所送りになったらしい。60年代に北朝鮮スポーツ界を飾った花達はどうしているのだろう

日本人はスポーツの競技性を知らない?

2006-02-25 | 冬季五輪
「五輪は戦場」恩田祐一は言い切った。と、Yahoo Japan が特設している トリノ五輪コーナ―内のコラムを見つけた。非常に興味のあるコラムだった。彼、恩田祐一選手はクロスカントリー男子スプリントに出場。準々決勝第5ヒートで一時は2位まで上がりながらも競り合いで敗れ、最下位敗退した。「悔しさしか残っていない。五輪で上位に行く選手たちは、目や殺気が違う。僕に足りなかったのは、メダルへの思い。この悔しさは、五輪でしか晴らせない」との本音のコメントが伺えた。そしてその後のコメントをスポーツ界に直接携わる人はよく聴く事だ。「連盟やコーチも変わらないといけない。強化といっても、個人や企業任せ。具体的には何もしてくれていない。五輪イヤーだというのに、夏に国内合宿もなかった。冬に入ってからじゃ遅い。予算がないのは分かるけれど、皆で何とかしないと強くはならない。このままでは勝つ体制ではない。何かを変えていかないと。そのために僕が言えというなら、言う」。 スポーツは全てが積み重ねだ。五輪に出るまでのその過程がどれほど大変か?私が実業団時代に五輪を目指し、念願かなって五輪に出場した人も何人かいた。中には上位入賞、そしてメダルを勝取り、だが寸でのところで五輪出場を逃した人も多く観てきた。今からもう15年以上も昔の事だが。どうも日本はスポーツへの理解度はあまり進んでいない様だ。メダルを取ればいくら出すとか、五輪出場すればいくら強化費を支給するとかの話ではなく、国として施設を作るとか、遠征費を補助するとか、スポンサーを見つけてくるとかの努力が皆無だ。長野五輪のメイン会場となったエムウェーブが完成する前、日本には屋内の公式スケートリンクが無く、それすら知らない連盟役員もいた。岡崎らは“富士山の5合目に屋内リンクがあればなぁ”と何度も言っている。世界はそういう条件下のリンクで大会を開催している。シーズンが始まると選手たちが練習場を求めて海外に自腹あるいは所属先の企業の負担で出かけていく事をなんとも思わないのか??サッカーの例を取るとJリーグ発足前の時代そのままだ。全てが同じとは言わないがサッカーの成功を範と出来ないのか?
日本の役人は子供の頃ばかり勉強ばかりして運動神経の引きちぎれた連中ばかりだ。そういう奴らは運動神経の発達している人を妬みの対象でしか観ていない。まぁ無責任に無知なスポーツコラムを書いている輩もスポーツ経験、運動神経が無くのが多いが。五輪が終われば振り向かれない種目が山ほどある。かつて札幌五輪の複合競技で5位に入賞した勝呂選手は北欧では “ ユージ=スグロ” と言えばだれもが知っていたスーパースターだった。身近な所では競輪の中野公一もだ。彼が日本で有名になったのは世界選手権で5連覇を収めてからようやく。(私は1977年の初優勝の時から知っているけど)これが日本のスポーツを取り巻く環境だ。
スキーアルペン女子大回転のトリを飾ったのは、インドのネハ・アフジャだった。日本のスキー関係者の支援を受け、同国のアルペン競技女子選手としては、1988年カルガリー五輪以来、2人目の代表。ネハはコースアウトをすることもなく、しっかりと2本を滑り完走した。順位こそ最下位だったけれど、「今とても幸せな気分です。サポートしてくださった日本の方々には感謝の気持ちでいっぱい」と、五輪参加の喜びを語ったらしい。彼女はパキスタンとの国境付近で、常に紛争が絶えない、あのカシミール地方出身で当地で5歳からスキーを始めた日本のスキー関係者のサポートを得て、五輪参加の喜びを語ったネハ。こんな事まで民間に委ねている。中国にはいくらでも無駄に国民の税金を注ぎ込んでいるのに。毎年夏に中国役人から食欲と性欲を満たしてもらっている日本の国会議員さん達には日本の五輪の事を言ってほしくないなぁ。いっそ、北京五輪では紅星旗でも振って地元の人の顰蹙を買ってガス抜きの大役を果たして欲しいね。あぁ五輪の度に同じ原因で腹が立ってくる…..

五輪憲章は守られているのか?

2006-02-25 | 冬季五輪
荒川が劇的な金メダルを勝ち取る数日前、私的には少し期待していたジャンプの団体戦。日本は6位に終わった。優勝は個人ラージヒルの金、銀メダリストをそろえたオーストリア。2位は Finland 。点差わずか 7.4。距離にして約 4.5m 。一人当たり1m程度の僅差。3位には Norway 。2位と3位との差は 25.5 点。4位以下はドイツ、ポーランド、そして日本と続いた。スイスには勝ったのだがポーランドには僅か 1.3点。一人当たり約 25cm の差であった。日本はベテラン二人が意地を見せてくれた。3人目の2回目の試技で葛西の130m を上回ったのは Finland のアホネンのみ。しかし4人目の試技者でモルゲンシュテルン ( Austria ) が140.5m ハウタマキ ( Finland ) が 138m ヨケルソイ ( Norway ) 141m シュペート 134m ( ドイツ ) キュッテル ( スイス ) 136m 。岡部の 132m 大ジャンプも及ばなかった。3位 Norway と 6位日本との差は57点。飛距離では 51m。1人1回あたり約 6.5m ずつ差がついた勘定になる。ここで問題にしたいのはあの時のルール改正だ。小柄な選手は最高のパフォーマンスをしても、メダル争いには加われない。もはやスキージャンプは背の高い人たちだけが勝てる競技になってしまった。団体で金メダルを獲得したオーストリアの平均身長は182センチで、個人ラージヒル金のトーマス・モルゲンシュテルンは181センチ。それに比べて、団体6位の日本は平均身長が172センチ、エース岡部孝信はわずか165センチだ。スキージャンプでは、アプローチのスピード、空中で風を受けて浮力にするその表面積を考えると板は長い方が有利、その長さはルールで決められる。岡部は身長から76センチ長い、241センチのスキーを履かされているのに対し、モルゲンシュテルンは264センチ、身長から83センチも長い板を使っている。モルゲンシュテルンにならうなら、岡部は248センチの板を使ってもいいはず。長野五輪までのルールは、身長プラス80センチと、すべての選手に平等だった。岡部は245センチの板で飛んでいた。モルゲンシュテルンなら261センチになり、今より3センチ短くなる。現在は身長の146パーセント以内が、板の長さと決められるのだが、そもそもこの計算式は誰が何を根拠に生み出したのか、まったく理解できない。身長プラス80センチに、有利不利が生まれるかどうかは分からないが、日本が連勝するまではルール変更など提議されなかった。スポーツと言うのは定められたルールの中、練習で工夫、切磋琢磨して上を目指すものと考えているが、どうも欧州の連中はそうは考えていないようだ。彼らは日本製品が欧州市場に蔓延られる事を非常に嫌う。“欧州人は夏に1ヶ月程度休暇を取る中、日本人は三日しか休まず欧州市場に製品を売り込みに来る。だから労働時間を減らせ”と無茶苦茶な論理で日本政府に真顔で迫ってくる。欧州の人が日本製品を好んでくれるのはその性能、価格そして販売後のアフター体制が欧州企業では真似できないと言う事実は悔しくて触れられないのだ。彼らの倫理は“あの子は僕達が遊んでいる時に勉強をしているから成績が良い。それはアンフェアーだ。”と言っているのに等しい。この不思議なルール変更が行われている事をもっと世界にアピールせねばと思う。そういう意味では荻原健司氏がIOC選手委員選挙で落選したのは残念の一言。いや彼を入れたくなかったのかもしれない。私が不思議に思うのはJOCをはじめ関係者達が彼の選挙活動に全面的に支援をしたのかと言うことだ…..

プレッシャーに弱かったスルスカヤ

2006-02-24 | 冬季五輪
今朝行なわれたトリノ五輪の女子フィギュアースケート。日本期待の荒川が見事に金メダル。女子フィギュアーのメダルは1992年アルベールビル大会の伊藤みどりの銀メダル以来。金メダルは史上初の快挙。一番安心したのは五輪狂想曲を奏で続けたマスコミとそのスポンサー達だろう。特に女子フィギュアーのスポンサーをしていたロッテは最も安堵の息を漏らしたに違いない。浅田真央ちゃんの五輪出場に向けて陰から邪魔をしたのは彼らだとイタリアの地元紙に書かれていたぐらいだから。ただこれが日本人でなくアメリカ人であったらブッシュ大統領を初め世界的に圧力を替えて特例を認めさせていただろう。 荒川の金メダルの価値は計り知れない。冬季五輪では夏季五輪の男子100m競争に匹敵するくらい注目の浴びるくらいの種目。三流芸能人の声で賞賛することなどおこがましいくらいだ。この日の彼女の演技は華麗というよりも堅実。プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の流れに乗り、伸びやかに手足が動く。序盤のジャンプでは、3回転-3回転の予定を、3回転-2回転に抑え、後半の、イナ・バウアーから続く3連続ジャンプに勝負をかけた。そして手を離すY字スパイラルや、ドーナツスピンとビールマンスピンを組み合わせるといった、オリジナルの技を次々と開発。演技が終わってNHKの解説をしていた佐藤有香(リレハンメル五輪5位)は“これはメダルの色は何色かというよりもメダルを狙うと言う内容の演技ですね。”と、そして得点がでるとコーエンを大きく上回った。この時点でスルスカヤに大きくプレッシャーを与えられることに。残り3選手となったところで村主が登場。この時点で日本選手のメダル獲得が決まった。彼女の事を“ずーっと日本のフィギュアをひっぱってきた(というか復活させた-伊藤みどり.佐藤由香以来ずっと低迷してたので)人なので、なんとかメダルをとってほしいなー”と祈っていた人も多いだろう。私もミキティ人気の中で彼女こそ最もメダルをとって欲しいと願った人だった。演技の終盤のジャンプを決めると佐藤解説から歓喜の悲鳴があがり私はこぶしを握った。最後の連続ジャンプを決めると、思わず白い歯がこぼれた。締めくくりは得意の高速スピンで、演技が終わると、いつもと同じように、こみ上げる涙を抑えるように両手で口元を覆い、観客席を見渡して引き上げる。リンク脇で待っていた佐藤信夫コーチに「もう(足が)動かない」と息を切らせて抱きついた。しかしコーエンには届かずこの時点で3位。前回ソルトレーク大会での5位は上回るだろうと思ったが、荒川の金メダルよりも彼女の銅メダルを私は願った。 最後のスルスカヤ。前回の五輪では金メダルを盗まれた、開催国がアメリカで無ければ、あの9.11 テロが無ければ彼女こそ金メダリストであるべきだった。大会前は彼女の金メダルを私は願ったがこの時点では村主を上回って欲しくないと思った。序盤で予定していた3回転の後の2回転ジャンプの省略は“高さが出過ぎた為”と佐藤解説員が。続く3回転-2回転は回転不足で2回転-2回転に。それでも彼女の演技は金メダルに向かって行ったが直後の3回転ループでは転倒した。この時点で荒川の金メダルは決まったのだろう。演技が終わって彼女の得点は 114.74 荒川を下回ったが村主を上回ってしまい村主のメダルはならなかった。しかし、コーエン、スルスカヤが転倒するなか日本の荒川、村主は転倒しなかった。それにしてもロシアの選手は旧ソ連邦時代からプレッシャーに弱い。女子の体操など表彰台を独占する様な種目は強いが他国の選手との競り合いになると以外にミスを連発する。日本が体操全盛期も最後にソ連の選手がミスをしたことも。あのセルゲイ=ブブカも五輪、世界選手権では楽勝は無く、晩年は記録無しも。サッカーでも五輪での金メダルはメルボルン、ソウルの2回だけでミュンヘン、モントリオールは銅メダル。地元開催のモスクワ五輪も銅メダル。今回の荒川の金メダルにも当てはまるが一人でなく複数がメダルを狙える選手層でなければ金メダルは取れない。今回もスルスカヤは不運に見舞われた。ショートプログラムでみせた、バックのインサイドエッジからスリーターン(半回転のそれ自体は難しくないターン)して、そのままエッジチェンジせず同じ足で踏み切ったアクセルジャンプは、彼女以外ありえない。コーエンですらまず不可能だ。そして彼女のショートプログラムの滑走順がおかしい。もし彼女の滑走順が終わりのほうだったら、絶対彼女がトップだったはず。あのショートプログラムでの点数は、絶対滑走順のせいだ!低すぎる!とおっしゃる方も多いだろう。 しかしだからといって荒川の金メダルの価値が低いわけではない。彼女も2004年の世界選手権覇者。長野で13位に終わり、前回のソルトレーク大会では出場できなかっただけに喜びもひとしおだろう。 それからミキティ。 4年後真央ちゃんと一緒に表彰台を独占してくれぃ。 最後にこの日の日本人の通勤を快適にしてくれた彼女達の活躍とこれまでの努力に敬意を表します。スポーツはすばらしい

スキージャンプ 団体戦に向けて 大和魂を

2006-02-20 | 冬季五輪
現地時間の18日に行われたスキージャンプ Large hill、日本人選手は 岡部が8位、葛西が15位とNormal Hill よりかは好成績を見せてくれた。前回の個人では船木が Normal, Large 共に9位が最高だったので前回よりは成績が上回ったといえよう。しかし結果を出したのはベテランの二人。来年以降のこの種目に向けての世代交代そしてジュニアクラスの強化が急務だ。岡部は3位 Normal Hill の覇者Norway の Lars=Bystoel とは14点差。距離にして5.5m空けられた。岡部、葛西共に2回目128.5mの大飛行は2回目の5位。それだけに1回目の試技が悔やまれる。圧巻だったのは オーストリア 勢。優勝した モルゲンシュテルン は1回目2位ながら2回目 140m で逆転。 2位の コフラー も139.5m で応戦するが、着地でテレマークが入らなかった分、飛型点で差が付き モルゲンシュルテン に追いつけなかった。 両者の差は僅かに 0.1 。そればかりか、3位の ビストル とは16.1点の差がつき、飛距離では 15m の差がつくほど オーストリア 勢の圧勝であった。オーストリア勢 の優勝は 1992 年の アルベールビル 大会 ノーマルヒル の ベットーリ, ヘルバルト のワンツーフィニッシュ 以来。2年後 リレハンメル では ゴールドベルガー が Large Hill で、長野では ヴィドヘルツェル が Normal Hill で、それぞれ銅メダルを取ったが、 ソルトレイク では Large Hill で ホルンガッヒャー が5位に入ったのが最高で団体も4位に終わり メダル に手が届かなかった。 優勝した モルゲンシュテルン は五輪直前の Willingen 大会( Large Hill ) で2位に入ったが今季のワールドカップでは優勝は無かった。2位の コフラー はその Willingen 大会で優勝をしたが、それ以外では Engelber 大会で3位に入ったのが目に付くくらい。昨シーズン、表彰台はおろか20位以上の成績が1度あるくらいで昨年世界選手権では、Normal, Large 共に団体優勝した メンバー には入っていなかった。今五輪の Normal Hill は11位だった。この勢いで今日の団体でも金メダルをと狙っているだろう。Large Hill の成績がそのまま団体でだせれば オーストリア の金メダルは確実だがそうはかないかも。Large Hill では上位20位までに全選手が入ったドイツ、TOP10 に3名が入った ノルウェー にもチャンスは十分にある。特に前回はわずか 0.1 で Finland を抑え優勝を収め、今大会はメダルが無いドイツは相当な意欲で臨んでくるだろう。その Finland , Normal Hill 銀メダルの ハウタマキ は5位、優勝候補 アホネン は 9位、最後の種目にかけてくるだろう。Austria , Norway, Germany , Finland の4強に次ぐのがスイスと日本だ。スイスは前回の王者 サイモン=アマン の様な大砲はいないが 6位の キュッテル 以下 TOP15 に3人が入っている。キュッテル は Normal Hill でも 5位に入った。全員が特に、3番手、4番手の選手がもう一ランク上の飛行をすればメダルも夢ではない。 そして日本であるが、 Large Hill での結果を引用すれば上位2位の選手だけを比較すれば、 Austria, Norway, Finalnd についで4位になる。従ってスイス同様3番手、4番手、伊東、一戸に結果を出してもらいたい。特に Large Hill が得意なはずの伊東は1回目で TOP30に入れない失敗ジャンプで2回目に進めなかった。その雪辱を期待する。そして岡部、葛西が2回目に見せた様な大飛行を2回揃え、伊東が本来の力を発揮すれば十分に メダル が見えてくると思う。ここで大和魂を見せて欲しいものだ。さもなければ、メダルの期待はいよいよ女子フィギュアしか無くなってくる。日本男児よ女の子に重圧をかけたまま終わるのかい?? 欧州勢にもう一度ルール変更打合せの場を作ってやろうではないか?

フットサルをしました。

2006-02-18 | Half Time
本日は所沢でフットサルに参加しました。メンバーは会社の同僚が中心にその子供達に彼女、そして元社員。全員身内と言うことで和気あいあいと楽しめました。私のこのブログを見る人達は”サッカーやっていたときはどのこポジションでした?”と訊くのだが、私はサッカー未経験者(偉そうなこと書いてすみません)しかし、他のスポーツはバリバリにやっていたぞ、とここで言ってもなんともなんの効果なし。私より15歳以上も年下の若いサッカー経験者はやっぱりちがう。こちらのイメージは Pele や Maradona ( 古いか?)なんだけど技術と体力が... 男女混じってMIX で Game をするので、接触プレーには女の子相手や、子供相手のマッチアップは気を使います。でもこんなに楽しめたのも昨今のサッカー、フットサル ブームのおかげあと10年,15年はやくこんなブームが来てくれていたらなぁ?と思います。バリバリの体育会選手であった学生時代、スポーツに打ち込む私を女子大生達には”ネクラ”の一言で片付けられたのです。ワールドカップはバレーボール。サッカーは子供のやるもの、サッカー観戦なんてなんなのそれ??って殆どの同年代女性は言い放っていたなぁ。劇的に替わったのは J League がスタートした1993年でした。今のスポーツ少年達、スポーツを続けるんだぞよ。スポーツはいいぞ。けっしてネクラじゃないぞよ。とおもいつつ今日のユニフォーム等洗濯にいそしんだ私でした。あぁ明日は筋肉痛が....

ムーミン谷からやって来た Suomen は?

2006-02-18 | EURO Football
トリノ五輪の不振が続く中で今日はフィンランドとの試合が行われる。世界ランク46位は セルビア=モンテネグロ より1つ上で、スロヴァキア の1つ下だ。人によっては仮想オーストラリアともクロアチアとも言われているが、来日メンバー18名の中でDF トニ=カリオの 194cm を筆頭に長身選手が並び180cm以下の選手は5人だけ。さすが北欧という感じだ。今行われている冬季五輪種目(中でもアイスホッケー, ノルディック 種目 )や陸上競技の長距離種目が得意だ。しかし、サッカーでは欧州の激戦を勝ち抜いて世界の舞台に出たという記憶は私には無い。2003年の FIFA U-17大会のホスト国であったが、初戦の中国戦には 2-1 で勝ったものの、続くメキシコ、コロンビアに連敗し準々決勝進出はならなかった。特にコロンビアには 1-9 と完全に粉砕されてしまた。
ワールドカップ予選では Holland, Czech Republic, Romania ら7カ国中5勝1分6敗で4位。しかし5勝は全て下位の Macedonia, Armenia, Andorra から挙げたもので上位3カ国には Czech とのホームゲーム で 3-4 の激闘を演じたのが印象に残るくらいで6戦全敗であった。Finland と言えば、今でも中心選手は Sweden の F.F. Malmö で プレー する Jari=Olavi Litmanen 。かつて Ajax, Barcelona, Liverpool と言った Majour Club に所属した。今の F.F. Malmö も 1978-79 の Champions Cup では ファイナリスト だった。 そのハイライトは1994-95 での UEFA Champions League の タイトル。そして同年の TOYOTA CUP の優勝。しかし、 Litmanen 自身は両方とも途中で下げられ、優勝の瞬間はピッチに立てなかった。その鬱憤の半分は翌年の Champions League の決勝戦、41分に自身この大会9得点目で同点に追いついた時には晴らせのかもしれない。試合は結局PK 戦で Juventus の軍門に降ったが当時の ファン=ハール監督に率いられた Ajax は GK ファン =デルサール デ・ブール 兄弟、ダービッツ、カヌー、クライファート らタレンントが揃いその攻撃の中心は リトマネン であった。そして地元フィンランドでは天才の誕生にサッカーでも世界の舞台へと期待された。しかし 1995年3 月、地元 Helsinki で行われたロシアとの欧州選手権予選の試合で 0-6 と惨敗してしまう。それはスポーツの国際試合での敗戦だけではなかった。フィンランドは元々フン族というアジア系のフィン人が居住していたが、スウェーデンとロシアの2大勢力の相克場となり13世紀末にはスウェーデンの支配を受け時に公国とされた。1809年ナポレオン戦争の結果ロシアに割譲される。しかしその頃からフィン人としての民族意識が高まり19世紀末にからロシア帝政の抵抗が始まった。ロマノフ王朝が倒れた1917年には独立を宣言した。第二次世界大戦中はソ連-フィンランド戦争が起こる。1941年にドイツがソ連に参戦をするとドイツのいる(と言うよりもソ連に対する)枢軸国側についたが、その為に敗戦国となり、以降ソ連との“保護国”関係を保たざるを得なく中立政策を確立していった。そしてソ連邦崩壊後、1995年ようやくEUに加盟し、ソ連の亡霊から脱却出来たのだった。そのロシアに大敗したのだから国民の心境を察するのは容易だ。しかし今、携帯電話の大普及により NOKIA が世界でも屈指の大企業となり、財政は潤い始める。そしてかつての支配国、ロシアが原油バブルで空前の好景気に沸き、物流の窓口としての Helsinki Route が確立している。

今日の日本戦。ワールドカップ予選時の監督ユルキ=ヘリスコスキ氏から引き継いだロイ=ホジソン監督はかつて Inter Milan でも指揮を取った。来日メンバーで先のワールドカップ予選に出場、エントリー をされた選手は10名。DF トニ=クイバスト は9試合に出場したレギュラー格と言えよう。他には トニ=カリオ が5試合に出ているしかし、リトマネン を始め シェフキ=クチィ ( Blackbarn Rovers ) フォルッセル ( Barmingham ) の England 組や予選4得点の アレクセイ=エレメンコ Jr ( レッチェ ) は来日せず。11人がフィンランド国内リーグFinnish Veikkausliga に所属する。国内リーグは気候の影響もあり既に全日程を終えている。(7月頃に始まるらしい)他には Sweden Norway のリーグに所属しており、ダニエル=ショルンド は Budesliga の Werder Bremen に所属する。 日本はこの高い壁をどう破るのだろうか?でも今私はトリノ五輪の Ice hockey の SUOMI ( Finland の人は自国の事をこう呼ぶのです。)の方が気になるのです。

女性の輝きは三十路から

2006-02-17 | 冬季五輪
大会7日目が終わったトリノ五輪。まだメダルは無い。一番狼狽しているのはテレビ局をはじめマスコミの連中だろう。だがそんな中、日本列島がマスコミの煽るメダル無しの狼狽に影響され話題にも上らないが大会4日目のクロスカントリー女子団体スプリントでは8位に入賞する快挙。これは本当に歴史的なことなのだが。冬場に北欧やオランダに訪れた事のある人は心当たりがあるだろう。日本で週末や早朝草野球が行われる光景が珍しく無い様に、北欧などでは朝、通勤、通学の為に人々が普通にスキーで雪道を行くのが、子供達が氷上でかけっこの様にスケートで競争に興じているのを目にする。日本が野球でフィンランドやノルウェーに負けることが考えられない様に、彼らはつい最近まで 複合競技 や スピードスケート で日本に負けることなど考えたことも無かった。あるオランダ人が言っていた”オランダで一番有名な日本人は誰だと思う?スピードスケートの SHIMIZU だ。”と、当人の主観も有るだろうが、(私は当時 フェイエノールト にいた小野伸二を期待したが。)日本では4年に1度オリンピックの時にしか話題にされない清水が当地ではスーパースターだ。また昨日は女子スケルトンで英国のシェリー=ラッドマンが銀メダルを勝ち取ったがこれは今大会英国初のメダル。これまで英国は通算10個の金メダルを冬季五輪で勝ち取っている。日本は8個。その8個を上回る英国が今大会これまでメダルが無かったとは信じられるかい?極東の日本が北欧やアルプス麓諸国とメダル争いをしかもルールを変えられてまで演じるなんてすごいことだとは誰も思わない様だ。大会4日目の スピードスケート 女子500m 岡崎朋美の4位は掲揚ものだ。特に1回目の滑走はスタートダッシュ、コーナーリングそして最後の直線の伸びで見事なスケーティングで3位に。2回目はラストの伸びが少し足らず1回目4位の任慧に逆転され僅かの差で4位に終わったが彼女の長野五輪銅メダルを含む3大会連続入賞は他に誰がいた?ボニー=ブレア ( USA ) スーザン=アオフ,モニク=ガルブレヒト ( ドイツ ) カリン=エンケ ( 東ドイツ ) ら4名 World Class ばかりではないか。私の専門である陸上競技の例を上げてみよう。持ちタイムはナンバーワン でも五輪や世界選手権では勝てない選手を山ほど見たが、欧州等で開催されるグランプリレースは1発勝負。五輪、世界選手権は予選、準決勝と勝ち抜かねばならない。こういう大会で好成績を収めるには総合的な体力や筋持久力的が必要だ。五輪のレースでは恐らくWorld Cup を含めた他の大会の2倍、3倍の体力、精神力が要されるのだろう。岡崎にはこういうもに対処する力が備わっていたのだろう。男子の加藤が6位に終わったのもなにか関係有るかもしれない。男子500mは1回目も2回目も上位3名は順番の違いこそあれ結果メダリストで占められ、1回目の4位が及川、2回目の4位は清水であった。だが日本勢のみでなく、今回の500m では他の候補も芳しくなかった。ウォーザースプーン は9位に終わり、オランダのヤン=ボスは11位、連覇を狙ったフィッツランドルフは12位。 女子でも優勝候補の王曼利は2位、もう一人の候補選手 マリアン=ティメル はフライングで失格に終わった。世界の世代交代は想像以上に早いのかもしれない。男女の500mを見て感じたのは韓国勢の台頭だ。男子は李カンソクが銅メダル。80年代後半黒岩彰の ライバル ペ=ギテ ( カルガリー五輪 5位)でも成し得なかった快挙だ。女子では リレハンメル 五輪5位のヨ=スンヒ 以来、李相花が岡崎に次いで5位に入ったが李カンソクは1回目アウトスタートの同走の選手にクロスするときにやや進路を塞がれ、李相花も最後のコーナーでバランスを少し崩し二人ともそれが無ければもっと上位に行けたかもしれない。また中国勢の躍進も目を見張る。特に女子は王曼利、任慧が2位、3位を占めた。かつて喬葉波と言う世界でもトップクラスの選手がおりアルベールビル五輪では銀メダルだった。男子も于鳳桐が加藤の上を行く5位に入った。アジアの中でも3番手に落ちはしないかと心配させられる。だがこの日の岡崎そして優勝したロシアのスベトラーナ ジュロワ(彼女も34歳)2位の王(32歳)を見て言いたい。女性は三十路から輝くと。(但しこれは嫌味に受け取られるかな??)

男子は届かず。さて女子は スピードスケート 500m

2006-02-15 | 冬季五輪
大会4日目最もメダルに近いと思っていたスピードスケート男子500m。 及川の4位が最高で世界記録保持者の加藤は6位。長島は13位。ベテラン清水は18位に終わった。 米国誌Sports Illustrated が予想したとおり今大会は銅メダル2個、いやそれ以下に終わる可能性も出てきた。 Sports Illustrated でさえこの種目で銅メダルをよそうしていたのだ。日本勢だけではない Jerremy = Wootherspoon ( Canada ) も9位に終わった。優勝したアメリカの Joe Cheek は昨年の世界スプリント総合3位。そして韓国のキム=ガンソク が銅メダル。1992年のアルベールビル大会1000m キム=ユンマン(銅) 以来のメダルとなった。しかしアルベールビル大会のキムのメダルは多大なる幸運に恵まれた。当時屋外で行われたこの種目は強風が吹いており、キムの滑走の時のみ無風であった。今回のキム=ガンソクのメダル、韓国では大いに沸いているだろう。何しろ世界記録保持者の日本人に勝ったのだから。80年代終わり頃登場した大型の韓国人スケーター ペ=ギテ を思い出す。黒岩彰の良きライバルであったが、五輪でのメダルは届かなかった。加藤、清水らが何故メダルに手が届かなかったのだろう?思うに最近の日本人選手は 1000m で好成績を収められなくなった。500m, 1000m の両種目の総合ポイントで優勝を争う世界スプリント選手権。かつて黒岩彰が2回優勝している( 1983, 1987 ) 。2001年 Inzell での世界スプリントで清水宏保が総合2位に入って以来、この4年間日本人選手は3位以内に入っていない。 1998年長野五輪では清水は銅メダルを取っている。しかし2000年ソウルでの世界スプリント2日目で清水が1000mで2位に入って以来、同大会のこの種目で3位以内には入っていない。(2005年 Salt Lake City 大会初日の1000m で小林正明が3位に入ったがトリノ五輪には出場していない。)五輪と言う独特の雰囲気の中ではスピードの切れは鈍ることがあるので、スピードの持続性に優れている方が好成績が残せるのではないか?これは陸上競技(コンティはこちらが専門分野なのです。)から引用した理屈だ。100m の選手は 200m を200mの選手は100mか400mをそして800m 選手は 400m 或いは1500m のレースにも参加するがこういう種目を“補強種目”と呼ぶ。スピードスケート にも当てはまりはしないか?そう言う理屈では今夜の女子500m はどうだろう?過去世界スプリントでの総合優勝者はいない。2001年に三宮恵理子が総合2位になった。3位では1989年 Heerenveen 大会での橋本聖子、2003年 Calgary 大会の新屋志保美がそれぞれ入っている。しかし、この大会の種目別 ( 500m ) ではここ2年、大菅小百合 ( 2004年長野初日1位、2日目2位 ) 吉井小百合 ( 2005年 Salt Lake City 初日1位、2日目3位) 岡崎朋美が ( 2005年 初日3位、2日目2位) と好成績を残している。これは男子では見られなかった事だ。ライバル筆頭は中国の王曼麗、オランダの Marianne Timmer そしてドイツの Sabine Völker 。 Canada の 女王 Catrina Lemay Doan の様な絶対的な強さを持った選手がいないので各選手チャンスはあるが、やはり王曼麗が最も強敵だろう。しかし過去短距離では長野五輪の岡崎の銅メダルのみ。マスコミの異様な煽りに選手も我々も飲まれぬように……



日の丸飛行隊再浮上はなるのか?

2006-02-14 | 冬季五輪
現地時間の11日に行われたスキージャンプ Normal hill、日本人選手はトップ10内に一人も入らなかった。ノーマルヒル でのこの結果は1992年アルベールビル以来だ。優勝は Norway の Lars=Bystoel 。Lillehammer 大会の Bredesen ( Large Hill ) 以来の金メダルを母国に齎した。今季 World Cup では岡部が4位に入った1月4日の Innsbruck 大会で優勝したが、まさか Ahonen ( Finland ) らを抑えて勝つとは思わなかった。前回の Salt Lake 大会以降、世界では若手の台頭や Ahonen Hautamaeki ら Finland のベテランの巻き返し、そして Poland のAdam Malysz がやや停滞気味(今季 World Cup では未勝利 )で激戦の年であった。要するに絶対的な優勝候補がいないと言う事で日本人選手にもチャンスはあると見ていたのだが。2位には Finalnd の Hautamaeky 3位には1月21日、22日の World Cup 札幌大会に出場し Normal 2位、 Large で優勝した Norway の Ljoekelsoey が3位に入り、 Ahonen は6位、 Malyszは7位に終わった。前回2冠の Simon Amann ( Switzerland ) は本五輪には出場しておらずと言うよりも前回五輪以降姿を殆ど見せていない。 日本で最高位だった伊東大貴は18位。3位 Ljokelsoey とは21点離された。飛距離を比較すると9.0m 空けられた。やはり2本とも100m以上の距離を出さないとメダルは届かないと言うことか。元々ジャンプ競技は Norway の独断場であった。戦前は Norway にRuud=Birger と言うジャンプの神様と呼ばれる選手がおり、1932年の Lake Placid 1936年のGarmisch-Partenkirchen 大会で金メダルを連続して勝ち取った。その Birger に迫った日本人選選手がいた。1932 Lake Placid 大会で8位に入った安達五郎だ。小柄な安達の飛型に欧州関係者は驚いたと言われる。そして翌 Garmisch-Partenkirchen 大会では伊黒正治が7位に入る。金メダルの神様 Briger とは2.5m差しかなかったらしい。そして転倒をしてしまったがもう一人の参加選手龍田俊次は飛距離では Briger を上回っただけに悔やまれた。しかし当時伊黒、安達22歳 龍田21歳 もう一人の 宮嶋巌は20歳 で次回1940年に開催予定であった地元札幌五輪に大いに期待が寄せられた。しかし、ご存知の通り戦争は全てを持っていってしまう。戦後、敗戦国日本も様々な面で復興を果たすが冬季五輪のメダルは遠かった。しかし戦前から冬季競技の中で体の軽い日本人の特徴を生かせる種目と当時から関係者に期待されていた種目であった。 そしてついに1966年 Oslo での世界選手権。藤沢隆が2位に入る。2年前の Insbruck 五輪では複合競技に出場した
選手だった。この世界選手権1回目は4位につけ、その後天候が悪化。2回目の試技が行なわれるかのジュリー会議が開かれた。日本コーチ陣はひたすら打ち切りを願ったらしい。そうすれば史上初の五輪、世界選手権での入賞者が誕生する。しかし天候が回復し2回目が行なわれる。すると藤沢は大飛行を披露 Norway のWilkora に次いで2位に入った。しかし2年後の Grenoble 五輪では70m級で26位、90m級で18位とメダルには遠く届かない。時を同時にして後に日本史上初の金メダルをもたらした笠谷幸雄が出現する。しかしそれも長い道のりを経ての事だった。Insbruck 五輪では70m級23位、90m級11位。Grenoble 五輪では70m級23位、90m級20位に終わっていた。しかし1970年 世界選手権Vysoke Tatra 大会でついに 70m 級で2位にはいる。そして90m級では藤沢が6位に。その後の札幌五輪での快挙はここに記すまでも無い。だがその栄光の陰にはこれだけの積み重ねがあった。そして笠谷の快挙には藤沢といったライバルがあったから生まれたのは言うまでも無い。札幌五輪で日本人に独占された表彰台には戦後の先駆者藤沢の姿は無かった。1回目4位につけながら(1位~4位までを1回目は日本が寡占した)2回目の失敗で23位に沈んだ。しかし、報道陣で沸く試合後メダリスト達は彼を表彰台に呼んだ。藤沢を含めて日の丸飛行隊だった。 そして24年後の今。ラージヒル、団体で何とか巻き返しをはかるジャンプ陣に奮起を期待したい。。

男子短距離スケート陣 発進 !!

2006-02-13 | 冬季五輪
10日に開幕したトリノ冬季五輪。マスコミの期待するようなメダルラッシュはまだ見られない。しかしモーグルの上村愛子は少し気の毒な結果だと思う。それからジャンプノーマルヒルもトップ10内に一人も入らなかった。ノーマルヒル でのこの結果は1992年アルベールビル以来だ。今夜行なわれる男子 500m 。これでメダルを逃せばメダル無しの可能性も出てくる。確かに加藤条治は持ちタイム参加選手最高の世界記録 34秒30 を持っているが、五輪出場は初めて。長野の清水(金)カルガリーの黒岩彰(銅)は五輪を既に経験した後の快挙。女子の橋本聖子もメダルに手が届いたのは3回目の五輪。確かにサラエボの北沢欣浩(銀)リレハンメルの堀井学(銅)カルガリーの黒岩敏幸(銀)井上純一(銅)宮部行範(銅)らは初めての五輪でメダルを勝ち取ったが、当時の日本短距離陣は当時世界で最高の選手層と質を誇っており五輪日本代表に入ること自体が大変な競争だった時代であった。加藤をはじめ日本選手陣には上位独占の勢いを見せて欲しいが、悲観主義な私はサラエボ五輪での黒岩彰を思い出してしまう。前年Helsinki で開催された世界スプリント選手権で日本人初の総合優勝を果たし翌年のサラエボ五輪では金メダル候補を大いに期待された。しかし当日は雪が降りしきる悪天候。競技時間が順延されるなどの悪コンディションそして4組“アウト”スタートで力を出せず10位に沈んだ。レース直後中継アナウンサーの“この時点で黒岩4位。メダルの夢は無くなりました。”と言ったのを覚えている。しかし、後に登場したのが上記した北沢欣浩。見事に銀メダルを獲得。中継していたNHKアナウンサーは北沢のレース直後“やりました北沢。一発の北沢”と言うように100分の5以内に十数名の選手が居並ぶこの種目。五輪では一発屋が良いのかも知れない。しかし、北沢、黒岩の時代の前にもチャンスが無いわけでは無かった。1964年から1969年の6年間に渡って世界選手権王者の座を守った(1966年Oslo 大会だけ2位)日本人選手がいる。現在の短距離コーチ鈴木恵一氏だ。更に鈴木恵一の前に長久保文雄が1961 Gothenburg 大会で3位 1951年の Davos 大会では内藤進が Holland の Wim van der Voort, 西ドイツの Cronshey を抑えて優勝を収め翌年の Hamar 大会では青木正則が3位に入った。スピードスケート の世界は戦前は Norway, Finland の選手の寡占状態であった。戦後に入り Holland, USA そしてソ連が台頭してきて群雄割拠の時代に入ったがそこに“敗戦国”日本が狼煙を上げた。しかし五輪でのメダルは本当に遠かった。1952年 Oslo 五輪では 500m で青木が12位。長久保は Squaw Valley ,Innsbruckに出場したが Squaw Valley の500m 9位が最高。Innsbruck, Grenoble に出場した世界王者鈴木恵一はInnsbruck では5位、 Grenoble では8位に終わった。どちらの五輪か忘れたがレース前のアップの時にリンク上の小石を踏んでスケート靴の刃が欠けると言うアクシデントにも見舞われたらしい。また当時は 1000m 種目は無く、これがあればとも思われた。ピークを過ぎた1972年札幌五輪は19位に終わる。五輪では幸運に恵まれなかった鈴木恵一のミニドキュメントを数年前 EURO SPORTS Channel で看た。欧州でも名が通った選手だった。 この五輪は Holland の英雄 Ard Schenk の快走を覚えている。同年世界選手権3位に入った肥田隆行もメダルに遠く及ばず14位だった。札幌以降、少しの光明が見えてくる。1973年 Denventer の世界選手権で鈴木正樹が3位に入り翌年の Inzell では鈴木恵一以来5年ぶりの優勝を果たし、1976年の Innsbruck 五輪に期待されたが、500mで11位 1000m で19位に終わった。この様な積み重ねを経て黒岩彰時代に繋がり今日に至る。そして今大会、記録保持者の加藤、ベテランの清水。そして一発の及川、長島圭一郎らが王者Jerremy Wootherspoon ( Canada ) Erben = Wemmemars ( Holland ) らと相見えるが、前回明らかなフライングで星条旗の為に清水から金メダルを盗んだ Fritzrandolph には絶対に勝って欲しい。今五輪から500mは二日間に跨らず同日2本滑る事になった。これが金メダルのこれが吉と出るか凶と出るか。大吉と出ることを祈る。

2.10 日米対決から

2006-02-12 | 日本代表
2月10日 San Francisco Giants のホームグランドで行われたアメリカ代表とのテストマッチ。この 2-3 と言う結果に最も満足したのは米国農林省の牛肉輸出担当者(そんな担当者いればだけど)に違いない。米国産牛肉を輸入しない国は星条旗の制裁が下るのだと言いたいだろう。結果は1点差負けだけど、試合内容はもっと差がついていた。ただ米国は1月4日から始動を始めて昨日がAマッチ3戦目。米国のスタメンはChris=Klein 以外は29日のNorway 戦のスタメンでもスタメンで起用され、その Klein 自身も途中出場。日本は始動が1月29日。昨年の北朝鮮戦(2月9日)一昨年のオマーン戦(2月18日)の出来を考えれば今のコンディションは推して知るべし。試合開始から米国に押し捲られたのもまずはそこが原因だ。敵、味方のボールの反応や競り合いで後手を踏み続けたのがその苦戦の原因であった。開始5分までは日本も前線にボールが繋いだり加地がミドルを放ったりするが、以降は完全な米国のペース。11分 Dempsey の突破を三都須、加地が二人がかりでも止められずようやく ファウル で止めるしまつ。12分は Donovan の突破から、13分 Twellman のミドルと左サイドを突かれて、15分、今度は右サイドを突かれ クリアーボール を拾われてピンチを招く。両サイドをワイドに使われ空いた スペース に人が入り数的優位を保たれて防戦一方に。17分にはCKから Conrad のヘッドで合わされ、そのコースを Wolff が変える。最後は川口が神がかり的なセーブで凌ぐが、Conrad, Wolf 共にフリーにさせていた。19分にはDF Eddie=Pope の鋭いミドルが日本ゴールを襲うが川口の正面に。 Wolf, Pope 共に2000年のシドニー五輪で日本戦に出場している。21分には左からのスルーパスを受けた Twellman が22分にはCK から Pope がそれぞれ フリー で打たれるが奇跡的にゴールネットは揺さぶられなかった。しかし 23分、左からDunivant に ロングボール を入れられ Twellman が頭で落としてそのこぼれ球を拾った Pope がシュート。美技を連発していた川口もこれは止められずついに米国にゴールを破られる。米国はロングボールも正確で、ボールを受ける選手だけでなくその周囲のフォローも早く日本は ボール に触れない。その起点になるのはエースの Landon=Donovan 。前回のワールドカップでも非凡な所を見せ、 Bundesliga に渡ったがそこでは活躍できず現在は韓国の洪明甫も在籍した Los Angels Galaxy でプレーするが、海外組が増える中、今でも Donovan は米国代表の重鎮である。シドニー五輪の日本戦でも途中出場をした。27分には Donovan のFKから Conrad に、30分にも Donovan の右からの突破から Dunviant にシュートを撃たれてしまう。右に、左に現れる Donovan を日本DFも捕らえられない。また Donovan だけでなく Noonan Dunivant らの左サイド突破も顕著になってくる。そして38分に追加点を奪われる。Dunivant に左からのロングを Wollf, Dempsey, Twellman と繋がれ再び フリーの Dempsey に。そのまま Dempsey は難なく日本ゴールに蹴り込んだ。ここでもマークが不十分な為 ペナルティーエリア 内で良い様にボールを回された。その失点直前にも Dunivant にクロスを入れられ川口がキャッチしたが、ペナルティーエリア 内には米国選手が4人もいた。2点目直後も Dunivant のサイド突破から繋がれた Twellman に粘られ最後は Wolff に撃たれる。両サイドを制圧され、エース Donovan を自由にさせるので突破の糸口を掴めない。ようやく40分を過ぎて福西がやや中の スペース に切れ込み ボール が繋がるようになる。42分は福西が左サイドをドリブルで上がって コーナー を取るがこれが最初のCK。45分には小野が起点になり三都須に繋がるが最後は久保に届かなかった。 Zico 監督は後半から遠藤、久保を下げて巻、佐藤を入れて2トップに。そしてトップ下には小笠原を配して小野を ボランチ に システム 変更。1トップの久保は防戦一方の展開でボールを貰えずアピールの場も無かったのではないか?前線の枚数を増やして挽回を計るが、49分 Donovan のCK から 中澤のマークを振り切ったTwellman に3点目を入れられる。野球場での試合でピッチの状態が非常に滑りやすく日本選手は何度も足を取られ、足技の技術に優る日本には不利なピッチではあったが、ここでも中澤は足を取られた様であった。Twellman は先の Norway 戦の ハットトリック に続きここ4試合で4得点目。選手層の厚い米国FW争いに一躍名乗りを挙げることに。3点目後も53分に Dunivant が、54分には CK から Pope に連続して シュート を撃たれる。Zico は阿部、長谷部を投入。前線に巻、佐藤と ターゲット が2枚になり、長谷部の効果的な ドリブル が効き出しようやく ボール が繋がるように。そして60分三都須から右の小野に繋がりさらに右サイドを上がった加地に。加地の粘り強い ボールキープ から最後は巻の頭に合わせて2006年最初のゴールが生まれた。見逃せないのは相手DFを引き付けた佐藤の囮となった動き。これも2トップの効果。前半は ボール が取れても両サイドが押し込まれて後方に残され前線に出て来る枚数が少なく ボール が出せなかったがようやく中盤でボールが繋がり、前線に出るようになった。。67分 本山が小野に替わって投入される。小野もこういう展開で攻撃的な展開で ボール に絡めなかったが得点は彼の展開から。本山の投入で思い出されるのはシドニー五輪のアメリカ戦。延長に入り ドリブル の得意な本山はいつ投入されるかと思われたが、トルシエ は動かず、そしてPK戦で散った。本山の ドリブル は疲れの見え出した米国中盤に影響を与える。そして左から三都須の上がりがようやく出て来る。70分には小笠原のミドル、ペナルティーエリア内で佐藤、三都須が ワンツー で抜け出しあわやという展開が見られる。 Bruce Arena 監督も多くの選手をテストすべく交代 カード を切る。55分には次代を担うFWと言われる Edo=Johonson, 67分には MLS の ハワイ 出身選手 Brian = Ching 69分は Ben=Oresen が投入されるが、下がった選手が Wollf, Twellman, Dempsey と見せ場を造った選手達であったことも有り、日本が主導権を握る。73分には三都須のドリブルから阿部がミドルを。そしてCKから中澤が惜しいヘッドを放つ。何とか2点目をと願うがネットを揺らせない。ロスタイムに入り長谷部の スルー から巻が撃つが GK Hartman が コーナー に逃れる。そしてそのコーナーから中澤が足で押し込み1点差に迫った。中澤はこの日の日本代表の出場選手で唯一 シドニー 五輪のアメリカ戦に出場した選手だ。中澤の ゴール に日本からの応援ツアーに参加したサポーターそして在留邦人から大歓声があがる。彼らの為にもあと1点と思うもそのまま タイムアップ。今年の代表は黒星スタートとなった。やはりアメリカは進化している。コンディション の違いこそあれ個々の スキル、クロス、ロングフィードの正確さ。それに全体のバランスの保ちかた、従来日本がせねばならない事を反対しされてしまった。中澤のロスタイムでの2点目は Zico Japan の良き特色であるが、これが親善試合で無く、アメリカが逃げ切りに入っていれば生まれたかどうか? アメリカ戦を仮想オーストラリアと見たらしいが、スピード、バランス、規律はアメリカが上かもしれない。個々のスキルは Australia が上だろうが。この試合、Socceroo の Hiddink監督はどう分析するだろう?日本代表は2月にはあと2試合残っている。この結果よりも内容を問われるのはあと何試合あるのだろう。

トリノ五輪開幕 がんばれニッポン

2006-02-11 | 冬季五輪
イタリア北部のSeeie A の強豪 Juventus をホームチームの持つトリノ。この街で第20回冬季五輪が始まった。開会式はさすがイタリアと思わせる演出であった。日本選手団の旗手はスピードスケート代表の岡崎朋美。最近の日本選手団は女子選手が旗手を努めるのが恒例となっているけど風邪は大丈夫なのかな? 2月26日までの17日間に渡って15競技が繰り広げられるが日本はいくつメダルを獲得できるかな? 大会前からマスコミは史上最強の代表団とか10個以上獲得とか女子のフィギュアースケートは表彰台独占とか無責任で無知な事を言っているが子供のとき見た札幌五輪からの道程を考えると世間が考える様に簡単にはいかないと悲観的な考えしか思いつかない。確かにアテネ五輪は16個の金メダルを勝ち取った、だからといってトリノでもメダルラッシュと考えるのは早計だ。1972年、70m級純ジャンプ(ノーマルヒル)で笠谷が金メダルを史上初めて勝ち取る前は1956年、コルティナダンペツッォ のスキー回転種目で今や伝説となっている猪谷千春(現IOC 副会長というとても偉いポジションにいる)が銀メダルを勝ち取っただけであった。笠谷以降も 1976年インスブルック大会はメダル、6位以内入賞者無し、1980年レークプラシッド大会は70m級純ジャンプで八木が銀メダル、1984年サラエボ大会は男子 500m スピードスケートで北沢が銀メダル。1988年カルガリー大会では500m スピードスケートで黒岩彰が銅メダル。と金メダルに届かず、メダル数も2個以上は取れなかった。ようやく1992年アルベールビル大会になってノルディック複合団体で金メダルを20年ぶりに勝取り、フィギュアスケートで伊藤みどりが スピードスケート で黒岩が銀メダル(男子500m ) 井上(男子500m)と宮下(男子 500m )橋本 ( 女子 1500m ) で銅メダル と複数のメダルを勝ち取り大いに勇気を与えてくれた。以降、1994年のリレハンメル、そして1998年の長野五輪へと続いていくが日本の快進撃の前に立ちはだかるのは欧州諸国が結託して行うルール変更だった。自国が勝ち続けているときは何もしないのに、勝てなくなるとルールを変えてしまう。1994年リレハンメル五輪前のノルティック複合、1998年長野五輪後のスキージャンプのルール変更。これらは欧州というよりもスカンジナビア諸国を勝たせる為以外の何物でもない。それだけに前回、ソルトレーク大会のジャンプでスイスのシモン=アマンがノーマル、ラージ2種目制覇した時はザマァミロと思った。(本音は日本人選手に勝って欲しかったが)元々冬季五輪の優勝争いは欧州勢とアメリカ以外は及びでない時代が続き、そこに日本が割って入って来る種目が出て来た。確かにその背景には経済大国という事もあるが、それ以上に日本人独特の物事に対する探究心と技術力があった事を見逃してはならない。老舗の欧州勢の対抗策はルール変更とか、野球やソフトボールの様に競技種目から外したりとスポーツマン精神には乗っとっていない事。ただ外国語にはスポーツマン精神と言う単語は無いのかもしれない。参加選手はそれに打ち勝って頂きたい。市場経済の競争は歴戦の外国製品との競争に勝利を続けてきた我々ビジネスマンに任せて頂きたい。日本の力を世界に見せ付けてくれぃ。