Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Minor Semi Final 1st Leg Sydney FC 2-1 Newcastle

2007-01-31 | Aussie & Kiwi
1月26日 Sydney Aussie Stadium で開催された A League Minor Semi Final の 1st Leg はレギュラーシーズン4位に終わった昨年度の覇者 Sydney FC が 2-1 で先勝した。
ホーム Sydney FC は前節 Queensland Roar 戦でイエローカードを2枚貰い退場となった Ufuk Talay そしてDavid Zdrilic に替わってDF のMark Milligan, MF Terry McFlynn の出場停止があけてスタメンに。一方、前節レギュラーシーズン1位の Melbourne Victory を 4-0 と粉砕し、Final Series に進出を決めた Newcastle Jets は Victory 戦と同じメンバーでこの試合に臨んだ。 
試合は開始からホームのSydney が Jets を圧倒する。特にセンターハーフの Steve Corica が冴え好機を量産する。14分にはペナルティーエリアに Corica から Nikolai Topor-Stanlay にロブが入り折り返されたところを Alex Brosque が頭で押し込み先制。29分には絶妙のクロスが入り、 Mark Milligan が高い打点からヘッド1発、GK Ante Covic を破り追加点。この時間帯、 Jets のDF陣 Paul Okon, Jade North に対してハイクロスで勝負を挑み完全に制空権を奪っていた。 Okon も 177cm はあるのだけど。この Sydney FC の先制ゴールは Jets サポーターを失望のどん底に陥れた。なぜなら、今季 Jets は先制された10試合は7敗3分と勝ち星が無いからだ。その後も Jets ゴールに襲い掛かるホームの Sydney 攻撃陣。だれもが3点目は時間の問題と思われたが、結局ゴールを割れずに前半を終えた。
しかし、前半守備の要 Terry McFlynn が負傷で退場したのが響いた。後半に入ると主導権は Jets に。そして57分に投入された Milton Rodrigez が追撃のゴールを上げ 2-1 と1点差に。 Rodorigez はかつて韓国 Kリーグでもプレーし、コロンビア代表として2試合出場を果たした選手。勢いに乗る Jets は Sydney DF陣をゴール前に釘付けにする。上記下通り、Jets は先制された試合の逆転勝ちは無いが今季ここ Aussie Stadium では2点のビハインドを追い付いて引分けている。最大のチャンスは Joel Griffiths がペナルティーエリアで引き倒された時。しかし主審はノーホイッスル。試合後の両監督のコメントでは Jets の Van Egmond 監督が“ A League で優秀な主審の上位3名はマレーシアにコーチング会議に出席していてこの日の審判団は4番目以降だ。こんな大事な試合で何故最高級の審判団に笛を吹いて貰えないのか理解できない。”と不満を隠さないのに対し、 Sydney FC の Terry Butcher 監督は“この日のレフェリングは magnificent ( 素晴らしい ) であった“ と当然コメントの内容も異なる。
結局 Sydney は Jets の攻撃を凌ぎ 2-1 で逃げ切り、2nd Leg に臨むことになった。しかし、Newcastle から約3時間の列車移動で Sydney に駆けつけた Jets サポーターにも次のホームゲームに充分期待を持たせる試合内容と結果。次の試合を戦う上で大きな影響を与えられる後半の“アウェーゴール”がどう明暗をわけるだろうか? 2nd Leg は2月2日に Newcastle の Energyaustralia Stadium で行われる。

Man of the Match Steve Corica
33歳の Corica は2000-01 サンフレッチェ広島でプレーした他、1995 Leicester City (England); 1996-2000 Wolverhampton Wanderers (England); 2001-04 Walsall (England) でプレーしバルセロナ五輪、アトランタ五輪に出場し、オーストラリア代表として40試合出場を果たした。1995年2月にはシドニーでそして 2001年紺フェデレーションズ杯では豪雨の横浜で日本と対戦している。シドニーでの試合は 1-1 から決勝の2点目を決めている。
Jets 戦では2得点を御膳立てしただけでなく、68分にはFKを直接狙うが惜しくも Jets GK Ante Covic の好セーブに阻まれた。そしてボールが無い時は相手の中盤の真ん中を消す事に腐心した。しかし後半、McFlynn が負傷で退くButcher 監督は Corica のポジションを後方に下げた。それによって Jets の中盤はスペースを取り戻した。しかし Jets の van Egmond 監督はこの日の Corica のプレーについて “ Corica はスペースがある時に最高の仕事をする。前半の我々( Jets ) は最前線と最後尾が45m程度も開いており センターバックの二人が中に寄りすぎておりCorica に充分なスペースを与え仕事をさせてしまった。しかし、後半はコンパクトに、30~35m に保ちDFラインも修正させ Corica のスペースを消し、前半の様な動きをさせなかった。スペースを与えられた事により、 Corica は色々な選択肢を持つ事が出来た。”解説する。 しかし、 Corica の勝負強さは昨季の Final Series で2ゴールを挙げた事で証明済み。そのうちの1ゴールは Grand Final で Cemtral Coast Mariners を沈めた唯一の得点だ。

Terry McFlynn の離脱。
前半最後のヘッディングプレーで着地の際にバランスを崩し、鼠蹊部(足の付け根部)を痛め、この試合の後半どころか、今季の出場は絶望的となった。この負傷は Sydney のみならず、この Final Series を左右するかもしれない。今季はこれまで16試合、昨シーズンも21試合出場した 26歳の北アイルランド人 Midfielder の離脱も厳しいがBosque, Milligan はそれぞれ警告を1枚貰っており Grand Final まで最低でもあと3試合残している Sydney のバックアップの布陣はこころもとない。今季は Dwight York のシーズン中の移籍などもあり、現在の支配下選手は他球団の定員いっぱいの20名に対しはわずかに17名。そこに McFlynn の離脱で、シーズン中Butcher 監督も選手のやりくりに頭を悩ませてきたが事態は更に深刻だ。
Jets のキープレーヤー Nicky Carle を抑え込んだ Terry McFlynn が離脱したのは痛い。Butcher 監督は “ レギュラーシーズン最終戦のMelbourne 戦を看たが Newcastle は Carle 一人がチャンスを作る選手ではない。 McFlynn のポジションは Ufuk Talay がカバーするが、Nicky Carle のマークは中盤の選手にさせる“と語るが Steve Corica の任務はいかに。
“ゲームプランは前に Newcastle で 2-0 で勝利した時と変わらない。我々は優秀なFW選手が揃っているので引分けを狙う必要は無い。”と Butcher 監督は語るが、ゲームメーカーの Mark Rudan は“とにかく勝利を収めた事が大きい”と繰り返し“ 後半でさえもバイタルエリアへの侵入を制限させ、long range からの攻撃に収束させる事が出来た”と振り返りながらも、“ Sydney の控え選手は中盤選手がいない、FWばかりだ。 Jets にはDF, MF,そしてFW とバランスよく選手が控えている。”と分析する。 DF の Alvin Ceccoli の回復も絶望的だ。ニュージーランドU-20代表の Jermy Brockie はベンチ入り出来そうだが、彼は攻撃的な選手。守備体系をどうやって工面するのか? 来季の話になるが五輪予選の為に Ruben Zadkovich, Milligan がチームを離れることも頭が痛いらしい。しかし、レギュラーシーズン最終戦、アウェーの Queensland 戦、勝たねばならないチームのホームに乗り込んで戦い、見事引分けで切り抜け Final Series に進出したその経験がここで生きてくるかもしれない。

Newcastle を後押しする地元サポーター
1st Leg を 1-2 で終え、2nd Leg を 1-0 で勝かてば、続く Preliminaly Final に進出出来ると簡単に胸算用出来ない心中を語るのは Jets の Gary van Egmond 監督だ。 “ Sydney は守備も堅い。今季はこれまで22試合でわずか20失点、ゴールを挙げるのは容易では無い。しかも、直接対決では昨年9月11日にホームで 2-1 と勝利を指定来6試合2敗4分と勝星が無い。“我々は Sydney FC に勝たねばならない。しかし、Newcastle Jets は不幸に直面したときはこれまで切り抜けて来られた。”と van Egmond 監督は述べる。開幕7試合を終えて勝ち星が無かったチームを受け継ぎ Final Series へと導いたその自信か?かつてオランダでもプレーした事のある van Egmond 監督はその当時、オランダに残るかオーストラリアに帰るか悩み結局後者を選んだ。その事については“非常に後悔している。”と新聞のインタビューで応えている。しかし、神はまだ彼を見捨てないかもしれない。神だけでない、約25,000枚のチケットを Sold Out にした地元の熱狂的なサポーター達が彼を後押しするだろう。それは単に地元チームへのサポートと言うよりも近隣の大都市シドニーへの対抗意識も少なくないであろう。

ARIBA PERU は格下か???

2007-01-27 | Football 北米 南米 
韓国に敵前逃亡され、3月24日の今年最初の代表Aマッチの相手は南米のペルーにほぼ決定的だそうだ。マスコミ各社の表現を見るとこのペルーを“格下”扱いしている。本当に隔世の思いがする。

ARIIIIIIIBAAAAAAA !! PERUUUUUUUUU !! この叫び声を聞いたのは1978年ワールドカップアルゼンチン大会であった。2大会ぶりに出場を決めたこの大会でのペルーは1次リーグではオランダ、スコットランドそしてイランと第4組に入れられた。大会前の予想ではクライフ抜きとは言えオランダはシード国。もう一つの2次リーグ進出をスコットランドとペルーが争うと見られていた。しかし、スコットランドの優位をささやく専門家が多かった。16カ国しかワールドカップ出場枠が無かった当時、欧州第11
組1位のハンガリーと南米最終予選3位のボリビアとの直接対決の勝者に出場枠1つが与えられた。ボリビアは南米1次予選では当時常連であったウルグアイを破っての2次予選、プレーオフ進出であったが、このプレーオフでハンガリーがホーム 6-0 アウェー 3-2 と連勝した事から欧州では“ブラジル、アルゼンチン以外は格が落ちる”との見方があった。
そして当時のスコットランドは非常にタレント揃いでジョー・ジョーダン、マーティン・バッカンの Manchester United 勢、Liverpool の グレアム・スーネス、ケニー・ダルグリッシュそしてケネズ・バーンズ、ジョン・ロバートソンそして伝説のゴールを決めたアーチー・ゲミルらが Nottingham Forest の所属と欧州でもトップクラスのクラブの中心選手にスコットランド選手が並んでいた。
このスコットランド、ペルーの両国は1次リーグの初戦で激突した。開始15分にジョーダンが先制ゴールを上げるとスコットランドが主導権を握る。しかし、スコットランドはチャンスをものに出来なず43分にペルーのクエトに同点ゴールを許す。それでも後半17分にPKを得て追加点のチャンスを掴むがそこに立ちはだかったのはアルゼンチンからの帰化人GKキローガ。ドナルド・マッスンのPKを弾き出し絶対絶命のピンチを凌ぐと70分にはクビジャスが強烈なミドルを叩き込み逆転。76分にはまたもクビジャスがFKを直接決めて 3-1 とスコットランドを粉砕した。2得点のテオフィロ=クビジャスは前回ペルーがワールドカップに進出した1970年大会にも全ての試合に出場。1次リーグでは ブルガリア戦 ( 3-1 1得点 ) ,モロッコ戦 ( 3-0 2得点 ) 西ドイツ戦( 1-3 1得点 ) と大活躍で準々決勝に導いた。続くブラジル戦では 2-4 と敗れるもののここでも1得点を決め、この大会で全試合に渡り合計5ゴールを決めた“ペルーのペレ”と呼ばれた伝説の選手だ。
敗れたスコットランドはこの試合でグレアム=スーネスを使わず、他に明らかにフィットしていない選手を使った事で地元のマスコミはアリステア・マクロード監督批判が勃発。しかも、試合後はエースのウィリー・ジョンストンが薬物検査で陽性反応が出て失格処分に、続くイラン戦を1-1 で引分けずるずると空中分解に。
この試合で勢い付いたペルーは続くオランダ戦を 0-0 で引分け、1次リーグ最終戦のイラン戦では開始2分にベラスケスが先制するとクビジャスがハットトリック(うち2本はPK)を遂げ 4-1 でイランを圧倒。グループ首位で2次リーグに進んだ。しかし、2次リーグでは1次リーグで得点不足に悩まされたブラジルに 0-3 で完敗すると続くポーランド戦ではシャルマッフのヘディングに沈み、最後のロサリオでのアルゼンチン戦は 0-6 で粉砕され2次リーグは無得点12失点で終えた。しかし、8年前に続くベスト8進出は落胆させられる結果ではなかった。この大会でのペルーにはクビジャスの他に1970年大会でのレギュラー、チュンピタス。そしてボールテクニックの高いムニャンテらハイレベルの選手が揃っていた。しかしこれがペルーの世界での最後の栄光かもしれない。
続くスペイン大会でもウルグアイを破って南米予選を突破するが、カメルーン( 0-0 ) イタリア ( 1-1 ) ポーランド ( 5-1 ) と勝ち星を挙げられず1次リーグで帰国をする事に。クビジャスも3試合に出場したがノーゴールに終わった。この大会もあのアルゼンチン戦で6失点の喫したキローガがゴールを守っていた。他にも前大会経験者が合計9名もいたが、これ以降タレントが枯渇してしまったかのごとく、出場枠が拡がったにもかかわらず南米予選を突破できない。
1999年、日本が特別招待された COPA AMERICA の初戦でペルーと当たり 2-3 で敗れた事を記憶されている方も多いと思うが、その他のペルーの事で目立ったのは日系のフジモリ氏が大統領になったことと、そのフジモリ政権に反発する左翼ゲリラの日本大使館占拠事件程度か?
ワールドカップドイツ大会予選ではついにCONMEBOLではアウトサイダーと言われ続けていたベネズエラにホームで 0-0 アウェーで 1-4 と完敗し、9位に終わり最下位(ボリビア)を免れるのがやっとであった。 
そのチームにはPSV Eindhoven のジェフェルソン・ファルファン、Bayern Münchenのクラウディオ・ピサーロ、HSV Hamburg のホセ・パオロ・ゲレーロ、Newcastle のノルベルト・ソラーノそしてアンドレス・メンドーサ(昨シーズンまで Olympique de Marselle 今季の移籍先を誰か教えてください。)らがいたが3月24日の日本戦には彼ら(数少ない)欧州のトップリーグで活躍する選手達がやってくるだろうか??? 

1970年代後半にはブラジル、アルゼンチンに次いでウルグアイを抑えて3番手に着けた事もある強豪のペルーが30年経って日本から“格下”扱いされている事に月日の流れを感じる。それは逆に1982年ペルーで行われた女子バレーボールの世界選手権2次リーグで日本を破り(この時の日本は既に準決勝進出を決めていた)その6年後のソウル五輪準決勝でも大接戦の末、日本女子を破ったペルー女子バレーボールを育てた加藤明氏が天国で思った事と同じ思いを私はしているのかも知れない。 しかしオシム監督が言う様にペルーを格下扱いできるのかな??????とも思うが….

A League レギュラーシーズン終了

2007-01-25 | Aussie & Kiwi
A League 最終節 TOP 4 に残るのは?

1. Melbourne Victory 14 3 3 41 16 +25 45
2. Adelaide United 9 3 8 29 26 +3 30
3. Sydney FC 8 7 5 28 18 +10 28
4. Queensland Roar 8 4 8 24 26 -2 28
5. Newcastle Jets 7 6 7 28 30 -2 27

第20節を終えての今季の A League の順位は上位の通りであった。ここでA League 今季の A League の優勝チームの決め方を説明しよう。リーグ加盟8チームが総当りで3回戦、全21試合を行い、上位4チームにFinal Seriesへの出場権が与えられるが五輪のソフトボールでお馴染みの“ページ方式”が採用されレギュラーシーズンの成績の良かったチームにアドヴァンテージが与えられる。
まず3位チームと4位チームが Minor Semi Final をホーム&アウェーで対決し敗れるとその時点で姿を消すことになる。そして勝者は1位チームと2位チームが対戦するがホーム&アウェーで行われる Major Semi Final の敗者と Preliminary Final を行い Major Semi Final の勝者との Grand Final Match 進出を争う。しかしこの Preliminary Final は Major Semi Final の敗者のホームゲーム1発で行われる為に、またこの Grand Final Match は Major Semi Final の勝者のホームゲーム1発勝負で行われる為に Major Semi Final 出場権のある上位2位以内にどのチームも進出したいところだ。
しかし今季はMelbourne Victory が快進撃。開幕から対戦相手が1巡した第7節を終了し黒星無しの7連勝。どのチームも Victory には勝てなかった。続く第8節、ホームでの Adelaide 戦は星を落とし開幕8連勝はならなかったがその後も引分けを挟んで4連勝、3連勝と勝星を順調に重ね早々とFinal Series への進出をきめてしまった。そして残る3つの枠を最下位を独走する New Zealand Knight 以外が終盤まで争ったわけだが第20節を終わって上記の5チームにその出場権争いが絞られてきた。
そして最終節の4試合には全てがドラマに溢れていた。

1月19日 Newcastle Jets 4-0 Melbourne Victory ( Energy Australia Stadium )
この試合の Victory の勝利を誰よりも祈ったのは Sydneyと Roar のチーム関係者では無かったか?Victory が勝つとその時点で他の3試合の結果を待たずに Sydney FC と Queensland Roar のFinal Series 進出の4チームが決まる。当初、最終戦に臨む Victory が主力を休ませるのではと思われたが Kevin Mascat や Archie Thompson が名を連ねるなどほぼベストメンバー。しかし、最後のチャンスに燃えたのは地元観衆19,601人の大声援の後押しを受けた Jets イレブン。この試合が6試合目の出場となる22歳の Mark Bridge が36分に先制ゴールをあげると後半の立ち上がり6分間で( 48 M.Bridge 51 Covery ) 2得点を追加し試合を決め、最後は73分に Griffis がとどめの4点目を上げ地元サポーターは大喜び。守ってもDF陣が頑張り Victory の中盤 Muscat, Brebner に仕事をささず Victory 自慢の前線 Fred(今季4得点) Thompson ( 10得点 ) そして Allsopp ( 11得点 ) にチャンスを作らせなかった。( Victoryの今季総得点は41. 他に Mascut が7得点 )。この勝利でJets がFinal Series への進出を決めたばかりか、翌々日にアウェーで Central Coast Mariners と対戦する Adelaide United が敗れると2位に浮上し Major Semi Final で再度 Melbourne Victory と対戦する事となるが、結局Adelaideが 3-1 で最終戦を飾り Major Semi Final には進出出来なかった。しかし Jets は開幕7戦を3分4敗と大きく出遅れ、Theodorakopoulos 監督が更迭。その後を引き継いだ Gary van Egmond 新監督が見事にチームを立て直し、就任直後の3連勝を含む8つの勝ち星を重ね上位4位内に入り込んだ。 そしてVan Egmond 監督を更に喜ばせた事は警告を受けた選手がおらず、次の試合に出場停止選手を出さなかった事だろう。 一方の Victory は独走後の年明けから3試合2敗1分と勝ち星無し。そして最終戦の4失点、肝心の Major Semi Final に悪影響を残さねば良いのだが。

1月20日 Queensland Roar 1-1 Sydney FC ( Suncorp Stadium )
前日の Jets の圧勝により、いずれかのチームがお互いを消しあう最終戦となった。勝った方が Final Series に。ただ Sydney FC は前のブログでも書いたが今年に入って Sydney FC はサラリーキャップを破ったと言う理由で勝点3を減点されたのでこの順位となっている。だが得失点はそのまま生かされるので“勝点3の分”得失点差で上回り、引分けても次に進める。しかし Sydney は DF のMark Milligan, MF Terry McFlynn が累積警告で出場できない。その上怪我人が続出。 MF Ufuk Talay は何とか出場に漕ぎ着けたがDF Alvin Ceccoli は遠征に参加出来なった。そしてベンチには3人しか控え選手を置けないと言う苦しい台所事情。しかし先制したのはアウェーの Sydney 。13分に Alex Brosque が今季3得点目を決めたが Brosque は 2003年 FIFA U-20, アテネ五輪に出場そして A 代表、 Socceroo にも3試合選ばれている23歳の才能溢れる選手だが、昨シーズンは何とこの Suncorp Stadium で Roar の FW としてシーズン8ゴールを決めるなど活躍。彼の先制ゴールを見た観客席の地元サポーター達の心境はいかに?しかし彼らを勇気付けたのはその7分後の Bundesliga の ボルシアメンヘングラッドバッハでもプレーした36歳の大ベテラン Damian Mori の今季8ゴール目の同点ゴール。以降Suncorp Stadium に集った32,371人の大観衆の後押しを受けて Roar が攻め込むシーンの連続。60分に Mori が再び決定機を掴むが 31歳のSydney GK Clint Bolton が好セーブ。この Bolton も生まれは Queensland 州らしいが。その後も Roar の攻勢が続き81分には Talay が2枚目のイエローを受けて退場。残り10分を10人で戦わねばならなかったが何とか Roar の猛攻を凌ぎ2季連続で Final Series に進んだ。 Sydney の Terry Butcher 監督は“ Relief ( 安堵 ) は最も適切な言葉だった。ここに( Final Series )辿り着けたことが大きな安堵だ。我々は勝点32で2位であるはずであったがそうならなかった。であるからここに( Final Series ) これた事が嬉しい。今季の Sydney FC を象徴する様な最終戦.. 物事を最もハードな方法でこなさねばならなかった。 ”とコメント。 今季は監督就任も遅く、シーズン開幕直後にエース Dwight York がチームを去り、思うように勝ち星は伸びず最後はリーグからの処分で勝点3を剥奪される苦しいシーズンの末の Final Series 進出となった。 次の試合では Ufuk Talay は出場停止だが、DF のMark Milligan, MF Terry McFlynn らの出場停止が解け、DF Alvin Ceccoli が何とかベンチ入りできそうだ。選手時代は England 代表としてワールドカップに3大会(82,86,90年大会)に出場を納めた Butcher 監督だが、今季はチームを2連覇に導けるだろうか?

翌日、Central Coast vs Adelaide, New Zealand Knights vs Perth の2試合が行われ全日程が終了し、 Semi Final の組み合わせは下記の通りとなった。

Minor Semi Final Sydney vs Newcastle 1月26日 1st Leg 2月2日 2nd Leg
Major Semi Final Adelaide vs Melbourne 1月28日 1st Leg 2月4日 2nd Leg
左側のチームが 1st Leg をホームゲームで戦う。
面白そうなのは Adelaide vs Melbourne 。シーズン中に試合中のルーズボールを巡って Adelaide の Kosmin 監督と Melbourne のベテラン、元代表 Kevin Muscat が小競り合い。しかしこれも両者がA League の話題を呼ぶ為のパフォーマンスも含まれているのでは?と思われる。 Kosmin は70年代オーストラリアを代表するストライカーで当然当時は代表のエースストライカーであった。

それから最後の混戦を演出したのは最終戦の Perth Glory 戦を 2-0 の快勝で有終の美を飾った New Zealand Knights 。第17節を終えてわずか2勝だったのが現 New Zealand All Whites こと、代表監督である Ricki Herbert が指揮を執るや残りの4試合を3勝1分とし来季へ期待を持たせることに。
Perth Glory は7位に終わり、これで最西端( Perth Glory ) 最東端 ( New Zealand Knights ) の両チームが7,8位を占めることに。 この両者の移動距離の長さは決して有利には働かないだろう。

26日からの Semi Final が大変楽しみだが、この A League の盛り上がりをきっかけに、 Australia, New Zealand の両代表が強化されるのも… なぁ…. この尺度は3月の Asia Champions League で測れるかな?????

中学時代の思い出

2007-01-21 | Weblog
昨夜、9年振りに中学時代の同級生と酒を酌み交わした。彼は大学を卒業後日本最大手の運輸会社に就職し転職もせずにその会社一筋20年以上。昨年2月から本社に“栄転”。今や誰もが知る大手運輸会社のしかも本社勤務の課長さんだ。こちらは大学卒業後、最初に就職した会社が倒産し転職先では気に入らない上司が原因でまた転職と流転を重ね、8年前に4社目となる民間企業に根付きようやく係長になれたが、毎日上役に文句をたれたり、平気で遅刻をしたりといつ解雇されてもおかしくないスチャラカ社員を続け、周りと家族を心配させる毎日。しかし、ずっこけた我が社の将来性は限りなくゼロに近い。まぁ立派な一流会社であれば私の様な人間は採用しないだろうが。
久々の再会にどこから話しを始めて良いか判らない。しかし、今の生活や中学時代のクラスの女の子(いまはおばさんか?)の事等話題を重ねるにつれて次第に中学時代にタイムスリップして行く様な気がした。中学時代の彼はサッカー部員。前のブログでも書いたが私の通っていた高槻市立第九中学校サッカー部は、私が2年生の時と3年生の時に連続して全国大会に出るほどの強豪。そして全国大会には出られなかったが2学年上の先輩には後にU-20日本代表候補になる様な選手もいた。(私は中学を卒業してからその人の事を知った。)
大阪府高槻市は70年代からサッカーの非常に盛んな街で私が中学1年の時も全国大会への出場権を得たのは高槻市立阿武野中学。そこには後に我が母校京都西高校に進学し日本代表のゴールを守った松井清隆先輩がおられた。(しかし、後に阿武野中学は全国大会出場を辞退したとか?だれかご存知の方はご一報を。) 子供の時は原っぱや校庭では草野球よりも草サッカーに興ずる子供が圧倒的に多かった。当時、もう少しサッカーの施設が揃え、公立高校も多かった高槻市が市を挙げて強化に取り組めば静岡のどこかの市の様にサッカー都市としてもっと栄えただろうが、日教組色の強い高槻の教育者連中は平等平等、平均にしましょう、平らに耕しましょうと、そこらへんに力をいれさせなかった。 

はっきり言って中学時代の私はサッカーが大嫌いであった。それはサッカー部の快進撃にメガトン級のねたみを持っていたからに過ぎない。花形スポーツクラブと言えば野球部と連想されるが、中学の野球部は皆目弱く (それでも投手や主将はもててたなぁ)話題は99.99%サッカー部が独占していた。俺だって当時は水泳部で頑張って学校の誰よりも速く泳いでいたのに(当たり前か?)誰もすごいなぁと言ってくれない。1年上の先輩が全国大会に出場し、同級生達の全国大会出場が決まった時にサッカー部の顧問に“ちぇっ、おもんないなぁ”と毒づく最低な中学生であった。親父にも“人の成し遂げたことにけちをつける奴は最低な人間だ。”と叱られた。それは当たっていたが、“小学校の時俺にサッカーなんてさせてくれなかったじゃないか。”と心の中で叫んだ。 

そんな話をすると、友人は“俺は全国大会に連れて行って貰った。”“全国大会の試合に出たかったなぁ。”と言った。全国大会1回戦で千葉県の宮本中学に敗れ、彼はベンチにいて起用されなかったらしい。しかし、その後の近畿大会では決勝戦で起用され、決勝ゴールを決め近畿大会優勝に導いた。それは1年上の先輩でも成し得られなかった快挙だ。球技の様な団体スポーツの栄誉は個人にのみ与えられるものでは無いが、友人が言った“全国大会に連れて行って貰った”と言う意味は直ぐに解った。同じ学年には目茶苦茶にサッカーが上手い奴が二人いた。その二人は2年の時からレギュラーで全国大会も2年連続で経験したらしい。高校は共に摂津高校に進み、インターハイにも出て大阪選抜にも選ばれていた。そのうちの一人は超がつくほどサッカーが上手かった。サッカーだけでない、全てのスポーツ競技が上手くてしかも勉強も出来、更に技術や美術もこなせる“非の打ち所の無い”奴だった。大阪選抜では主将も努めていた。(1度京都高校選抜との親善試合を見に行った事があり、PKを蹴っていた。) 
自分の高校生活は灰色と言うよりも暗黒の時代で、楽しかった中学時代を思い出してはため息をつく毎日。高校になっても続けた水泳はさっぱり駄目でインターハイなんて夢の夢、全国大会に出ることがいかに偉大な事かがわかり、中学時代はあれだけ妬んでいたサッカー部であったが、むしろ母校のサッカー部が全国クラスだったことに誇りさえ感じた。また在学中にワールドカップアルゼンチン大会がNHKでテレビ中継された事もあり、サッカーに興味を持ち始めた。高校の時は彼と同じ中学と言う事で同級生や後輩たち(サッカー部員だけど)が彼の中学時代を訊ねてくるほど。そんな彼でも町でばったり会ったらきさくに声を掛けてくれ、けっして奢った所は無かった。憶えているのは3年生のときに全国高校サッカー大阪府大会での北陽高校戦で完全なオフサイドをゴールとされ試合に敗れて“腹立ったぞぉ。”と話してくれた時の事。高校2年の時も決勝戦で北陽高校に破れ、高校生活では“全国高校サッカー”には出られなかったとも言っていた。でもその口調は決して下品なものでなくさらりと不快感を残さない口調で別れを告げた。こちらは受験で進路を悩ましている時に彼の元には色々な大学から勧誘され本人も驚いているとも言っていた。後に彼が筑波大に進学した事も他の友人に教えて貰った。 あぁやっぱりあいつはすごい奴なんだなぁ。俺もあいつみたいになれないかなぁ?と思った。

大学に進学後、私は陸上競技部に入った。といっても体育系大学と異なりスポーツなんてまったく力を入れない大学。自身も入部当時は“全国クラス”になれるとは想像しなかった。しかし、元来走る事が好きだった私はとんとん拍子に記録が上がり、関西インカレでは優勝を争い、西日本インカレで上位入賞をするほどの選手になり、日本インカレ、中学時代に憧れ妬んだ“全国大会”が見えてきた。 そして国立競技場で開催されたインカレの出場権を得た。その時に思った。

“やっと追いついた。中学校のサッカー部に追いついた。あのすごいあいつにも追い付いた。”

それがとても嬉しかった。 そしてそのすごい彼にいつか会ってお前に追い付いたぞ、と言いたかった。近いうちに会えないかなぁ?と楽しみにした。 しかし、インカレから半年を少し過ぎた頃

“自殺したんだって.....” 

次に彼の近況を知ったのが上記の台詞だった。
信じられなかった。大学進学後サッカーを辞めた事は聞いて知っていた。だけどそれで私の中での彼の“偶像”はけっしてかわらない、いや、彼に近づいた自分を誇りにさえ思った自分を“引き上げてくれた”彼に何としても御礼を言いたかった。 
彼の自殺の原因を私は知らない。80年代中頃、日本サッカー界はプロ化なくして強化策無しの声はあったがプロリーグ発足を期待出来る状況では無かった。もし、プロリーグ発足が10年早ければ彼もあんな事にならなかったかもしれないなぁ、と酒を呑みながら友人と話したが友人は“いや、そこまでサッカーに執着する奴でもなかったから、いくら能力があっても次にやりたいことが見つかったらその時にプロリーグあってもそっちに行ったかもしれないぞ?”とも言っていた。実際にサッカーを辞めた後は芸術方面に進んでいたらしい。 

だけどこれだけは言える。自分が陸上競技で頑張れたのは彼や昨夜呑んだ友人達が中学時代にサッカーですばらしい快進撃を見せ付けてくれたおかげだ。また、前のブログでも書いたが1500mが早かった中学時代のバスケ部の友人も。要するに周囲の同級生達に恵まれたと言う事だ。 そして中学校時代のサッカー部の栄光がなければワールドカップも貯金をはたいて観戦に出かけるほど興味を持てただろうか?

そういう意味で俺は誰かにいい影響を与えたのかな?????

旧友と呑んだ時間はあっという間に過ぎ、近いうちにまた再会することを約束して家路についた。 あいつも白髪が増えたなぁ。 そして俺は体重が増えたなぁ。 次はいつ会ってどんな話をしようかな? 

次に会うときは課長命令で部下の女子社員を連れて来てくれ。一流会社なら美人ぞろいやろぅ….楽しみにしとるで。 やぱっり俺はいい影響を与えない人間なのかもしれない。

A League 最終節 TOP4 への激戦

2007-01-18 | Aussie & Kiwi
少し前ではあるが、アジアクラブ王者を決める Asia Champions League の組み合わせが決まり、日本から参加する浦和レッズが昨年度オーストラリア王者の Sydney FC と同組になった。Sydney FC は一昨年の世界クラブ選手権で来日しKAZUがゲストプレーヤーとして入団したクラブ。またワールドカップでオーストラリア代表と戦った事からオーストラリアサッカーに興味を持つ人も増えているようだ。この昨年度からスタートしたオーストラリアの国内リーグ、 A League は今週末に最終節を迎える。合計8チームで構成される A League はまず3回戦総当り21試合を行い上位4チームが“決勝トーナメント”に進出出来る。今季は Melbourne Victory が開幕から独走状態の14勝3敗3分 勝点 45 で既に1位が決まっている。次いでAdelaide United が勝点30 Sydney FC と Queensland Roar が勝点28で続き、5位の Newcastle Jets が最終節に望みをかける。 ファンにしては面白い、やっている当事者としては大変なこの混戦模様を造った大きな要因は2つある。 まず Sydney FC が A League の定めるサラリーキャップを破った為に勝点3を今年の1月初め第18節終了時点で減点された事だ。サラリーキャップとはご存知の通りに各球団、選手の年棒の合計はここまでという決まりで Sydney FC はこの上限を破っていたらしい。第18節終了時点での勝点は31 そこから勝点3を差し引かれ、尚も19節 New Zealand Knights 、20節 Adelaide United 相手に 0-1 で連敗。前節 Adelaide 戦は終了直前にブラジル人ストライカー、フェルナンドにゴールを許しその結果順位を逆転されてしまった。これで Adelaide は2位に浮上。そしてシーズン4位以内が確定しプレーオフ進出を決めた。Sydney FC にとってはこの勝点3の減点は本当に響いている。だが、この混戦の“もう一人の立役者”はこれまでダントツの最下位街道を驀進していた New Zealand Knights。 今季は開幕1勝1分けと出だしが良かったが、第3節で Melbourne Victory に 0-3 とホームで敗れるとそのまま8連敗。第11節の Queensland Roar 戦で 1-0 で勝利を収めようやく連敗を止めた後に引分けを2つ挟んで4連敗。しかし監督が現ニュージーランド代表監督の Ricki Herbert 氏が就任して初登場となった18節の Queensland Roar 戦でこれまでの低迷が嘘の様に 3-1 で快勝。それまで17試合で7得点しか取れなかったチームが Knights の A League 史上3得点も挙げての勝利にチームは勢いがつき、続く Sydney FC を上記の通りに 1-0 で破り、チーム史上初めて A League で連勝を飾る。第20節の Central Coast Mariners 戦は 0-0 で引分け3連勝はならなかったが、この引分けで Mariners はプレーオフ圏外に去ることになった。
まさに終盤の台風の目であった。この3試合の戦いで来シーズンのスポンサー集めに見通しがついたらしい。(と言うよりもスポンサー離れに歯止めをかける事出来た?) Herbert 新監督の構想では“もっと KIWI : ニュージーランド国籍の選手を増やしたいとの事だ。
最終節は1月19日金曜日に Energy Australia Stadium で Newcastle Jets が Melbourne Victory を迎える。この試合で Victory が勝てばその時点で現時点の上位4チームのプレーオフ進出が決まってしまう。しかし、この試合で Jets が勝つか引分けると、翌日 Brisbane の Suncorp Stadium で行われる Queensland Roar vs Sydney FC の結果により委ねられる事となる。 Sydney FC, Roar の亮チームのサポーターとしては19日の Victory の勝利を祈るかもしれないが、Sydney FC サポとしては最大のライバルである Melbourne Victory の勝利を願うのは意に反する事だ。 Victory の Ernie Merrick 監督は、外交上は火に油を注ぐようなコメントは控え Sydney の苦境に同情的だ。”とても面白い状況と思わないかい?“と地元紙のインタビューに応えながらも、”今季はドラマあり、論争ありの大変タフなシーズンであった。Terry Butcher 監督も選手達もこの状況下で大変なシーズンだっただろうに“とSydney に同情を禁じ得ない。 Victory は早々と Top4 入りを決めたので、プレーオフに向けて最近では控え選手を起用する事も。しかし最終戦を前に”監督としてはどの試合も勝ちたい。この最終戦も他の試合と同じ様に。“と、しかもプレーオフで Sydney と Victory が戦うほうが興行的に潤うと言う見られ方もある。 Sydney FC の Mark Rudan 主将は”メルボルンに声援を送る事を想像する事に頭を振る Sydney サポーターが多いだろう。それは意に反する事だ。もし仮に私が Victory のマフラーを持っていたならば首には巻かないがベッドサイドに置き Victory のゴールを願いそのマフラーに触れるだろう。彼ら Victory の選手達は最終戦の勝利を持ってプレーオフに臨みたいだろうに“と語った。 
Sydney FC は DF のMark Milligan, MF Terry McFlynn が累積警告で出場できない。そして DF Alvin Ceccoli MF Ufuk Talay が怪我で起用出来るかわからない。 Mark Milligan はオーストラリア五輪代表候補で起用はされなかったが昨年のワールドカップメンバーに選ばれた。2003, 2005 年のFIFA U-20 にも出場 2005年オランダ大会では日本戦に出場している。 Terry McFlynn は北アイルランドの選手でファイター的なセンターハーフ。すぐに警告を貰ってしまうが大事な最終戦を累積警告でフイしてしまった。Ufuk Talay は16歳でNSL ( National Soccer League 前のオーストラリアリーグ ) でデビューし 1995 年からトルコリーグに渡り名門ガラタサライでもプレーをし、サッカールーの Joship Skoko をして“代表選手としてプレーしていない最高の選手”と言わしめた選手。左サイドバックの Alvin Ceccoli は AEKアテネでもプレーしたがWollongong Wolves が1999-2000 NSLで優勝した時のメンバー。 最終戦でこれだけの選手達が抜けるのは厳しい。 
Sydney がもし連覇を果たすとその1ヵ月後に開幕するAsia Champions League でそのままの勢いで臨んでくるか、それとも疲弊して調子が出ないか? まずは金曜日の Jets 対Victory がどうなるのだろう?

はるかなる思い出 ハンドボール部に入りたかった日

2007-01-16 | Weblog
少し前の話になるが、昨年バンコックに商用で訪れた時にドイツのスポーツ週刊誌 Sports Bild を購入した。バンコックは今や世界中のバックパッカーのメッカ。スックンビット通りには白人の老若男女が目に付く。そしてこちらとしてはありがたいのは、現地のコンビニエンスストアーでドイツやイタリアそしてフランスにスペインの新聞や雑誌が手に入ることだ。ドイツサッカー週刊誌 Kicker 誌に有名なピンクの紙面イタリアのガゼッタデルソポルティボ紙。価格は Sports Bild 誌が定価1.20ユーロ( 約190円 ) が250バーツ( 約750円 ) おそらく現地人は買わないだろうが、こちらはこの程度ならと思う価格だ。 

そこで買った Sports Bild 誌12月6日号の後ろの方に気になる見出しが飛び込んできた。
“ Japaner wollen Kretzsche „ 直訳すると“日本人が Kretzsche を望む“ とでも言う意味か?
記事の内容は2008年に設立を目指す日本プロハンドボールリーグの看板選手にとドイツのハンドボール選手 Stefan Kretzschmar がオファーを受けているとの事。このプロリーグは 2012 年のロンドン五輪出場に向けて韓国等のライバルに対抗する為の強化策の為とこの記事には書いてある。Stefan Kretzschmar とは現在ドイツブンデスリーガ1部のチーム SC Magdeburg に所属するドイツと言うよりも欧州ハンドボール界ではカリスマ的存在の33歳の男子選手。 今のクラブとの契約が2008年で終わるのでその後に日本へと言うオファーを貰っているとの事。
(ハンドボールはまだまだ勉強中なので、 Kretzschmar の詳細はオイローパさんが開設するブログ、 Hurra! Handball in EUROPA をご参照ください。 http://blog.goo.ne.jp/europahand )
サッカー界で言うなら、70年代に学研の“学習”で見た “日本でプロサッカーリーグが設立され、ペレがやって来て釜本と対決する。”と言う初夢が現実となると言ったところかもしれない。 日本のハンドボールファンからすればKretzschmar の来日はともかく、日本でのプロリーグ設立自体、しかも2年後に、気配が感じられないらしい。そして記事にある Kretzschmar のコメントを見ると日本からオファーを提示されはしたが、74歳になる父親と、愛娘の事もありまだ回答はしていない様だ。 

1996年のアトランタ五輪で男子サッカーがメキシコ五輪以来28年ぶりにアジア予選を突破し、以降3大会連続五輪に出場しているが、他の球技は反対に凋落している。かつて金メダルも勝ち取った事のある男子バレーボールはそのアトランタ五輪から3大会連続アジアの壁に跳ね返され、1970年代まで五輪、世界選手権では3位以下になった事の無かった“東洋の魔女”こと女子バレーは五輪出場権を勝ち取ってマスコミが騒ぐ始末。NBAのテレビ中継などで競技人気の高まっているバスケットボール、男子は1976年モントリオール五輪以降五輪には出てこられず、アジア予選を突破して世界の舞台に出てこられたのは1998年の世界選手権だけ。ハンドボールでは女子は最初に五輪種目に採用されたモントリオール五輪には出場を果たしたが以降出場権は勝ち取れず、男子が最後に五輪に出たのは1988年のソウル五輪。以降は韓国の軍門に降っている。水球は大麻事件のあったロス五輪以降、ソ連邦崩壊でカザフスタンがアジアに回ってきたこともあり五輪にはご無沙汰だ。頑張っているのは女子のバスケットボール(1996年、2004年五輪出場)と女子ホッケー(2004,2008年五輪連続出場)そして最近新設されたソフトボールと野球程度だ。 先のアジア大会では男子は6位、女子は銅メダルを勝ち取った。しかし五輪に向けて視界は良くないようだ。五輪出場の為にはプロ化が必要とJリーグ設立前の日本サッカー界と同じような“スローガン”がハンドボール界でも渦巻いているのだろうか? だが本場欧州でも全てのプロ契約選手がハンドボールだけで生活費を賄えているのでは無いらしい。だとしたら日本では??そのありも協会はアイデアがあるのか?確かに今の選手達の中には所属先の実業団とプロ契約をしている選手もいるらしい。サッカーの日本リーグでも晩年はライセンスプロと言って、例えば木村和司なんかは日産自動車とプロ契約していた。最初の年棒は確か600万円だったかな?

年頭に放映されたテレビ番組“筋肉番付”にハンドボール界から出場した宮崎大輔を番組内で紹介されているのを看た。試合後のサイン会の様子やハンドボールをメジャー化したいという思いが伝わってくる。こういうデモンストレーションは選手個人に頼るのでなくもっと協会挙げて出来ないものか?Jリーグ発足後かつて宮崎県のハンドボール国体選手だったそのまんま東さんを広告塔に“Jリーグに続け”とハンドボール協会が宣伝に力を入れたことがあったが人気はそれほど上がらなかった。やはり五輪に出なければならないか?しかし今の川淵三郎キャプテンが80年代末に、プロ野球ニュースに出て“みなさんどうぞ、サッカーの日本リーグの試合に来てください。先着1000名様にサポーターマフラーをプレゼントしています。”とお願いしていた。そして無知な女子アナが“サポーターって何ですか?それ包帯ですか?”って訊いていた。川淵キャプテンにとってはさぞ屈辱的であっただろう。何故マスコミはサッカーを知ってくれないのかと。現在他の球技協会でここまでする役人はおるか? 
今の日本スポーツ界のレベルアップは何十年に一度生まれる天才の出現を偶発的に同時期に数人出て来る偶然を待つか選手個人の血の滲むような努力と犠牲でしか生まれないのだろうか??? 
そして今欧州で活躍する日本人ハンドボール選手は一人や二人ではないらしい。そして男子のみならず日本女子選手も頑張っているのだ。 2000年には沖縄出身の田場裕也選手がスペインのバルセロナでプレーし、その後もハンドボール列強のフランスリーグで活躍を果たし、昨年から沖縄にプロハンドチーム設立の為に尽力されているが、そういった事を、世に宣伝するだけでもハンド人気は上がると思うのだが。
また今月19日からドイツで男子の世界選手権が開催される。アジアからは韓国、カタール、クウェートが出場。残念ながら日本は出場権を獲得出来なかった。2005年チュニジア大会にはアジアを勝ち抜いて世界選手権に出場したのだが。

中学を卒業した私は高校に入ったらハンドボール部に入ろうと思っていた。私の出身地、高槻市は当時70年代後半から末期(今は知らないが)日教組が蔓延っていたおかげで高槻市内の公立高校で野球部を持つ高校は島本高校しかなかった。従って地元の公立高校に進学する野球部員のほとんどはハンドボール部に入部すると言っていた。その上、中学校の野球部は練習試合、公式戦で勝ったことが無いチームだったから高校に進学して野球を続けたのは一人だけであったが。体育の時間では1年の時から毎年ハンドボールがあった。そして3年の時私はゴールキーパーをやりけっこうシュートを止めたりして体育の先生から“おい、行けるぞ。”と言われてその気になったのだ。 しかし、進学した京都西高校にはハンドボール部は無かった。これが高校生活の躓きのはじまり。結局中学時代に続いて水泳部に入部(中学時代の水泳の戦績も悪くはなかったので。)したが、どの大会にでも決勝に残った事は無かった。たまに、“ハンドしたいなぁ”と思ったことも。卒業後付属の大学に進学したが、何と入れ替わりに大阪体育大学からハンドボールの先生が入ってきてハンドボール部が設立された。そんな殺生な…とショックだった。 しかし、大学に入って陸上競技で頑張って、その先生が話しかけてくれたりする機会にも恵まれ、“先生、何であと3年早く来てくれなかったんですか?”とか、大阪府の教員で形成されたハンドボールチーム“大阪イーグルス”の話をしてもらったりした。 そして先生と大学のカフェテリアで話しているところをクラスの女の子に目撃され“スポーツ選手同士が話しているみたいで格好良かった。”と言われた。(スポーツ選手なんだけど。) しかし、先生の話を総合すると身長180cmに満たなく、しかも決定的にてのひらの小さな私はハンドボール界に進んでも大成はしなかったと思う。でもスポーツを通じてようやくハンドボールにありつけた気がその時はした。だが1997年に熊本で開催された男子ハンドの世界選手権はBSチューナーが故障して満足に看られなかった、と言うよりももっと地上波でやれよと思った。同じ思いは昨年の世界バスケでも。
少子化とは言われるが、日本の子供人口は欧州よりも多いと思う。まだまだスポーツに触れていない子供がいるんじゃないかな? 子供たちよもっとスポーツを楽しもう。小学校5年生で身長が155cm近くある息子に親父の出来なかった夢を託す….. のは完全な親ばかだなぁ…… でも宿題はしたか??


宮崎選手のブログは下記まで。
http://blog.livedoor.jp/m_daisuke7

そしてかつてスペインのバルセロナでもプレーした日本人 田場裕也選手のブログは下記。
http://tabayuya.president-blog.jp

打倒関東ならず インカレ準決勝後半

2007-01-14 | 五輪 U-20, U-17
駒大、関大、選手交代無しで後半が始まった。エンドが替わった後半は関西大学が私の座っている前にあるゴールに攻め込んでくる番だが、果たして何度そういうシーンがあるだろう?前半はシュート1本だったがしかし、51分に関大が右サイドを突破し入れられたクロスを阪本が右足でうしろにすらした浮き球を櫻田がヘッドで狙うがわずかにバーを越える。後半から関大は両サイドを広く使うようになった。特に右サイドいっぱいに開いた木本敬介にボールが渡るとそこから可能性が見出せるようになってきた。左サイドは吉村修平が張り出す。55分にはサイドからボールを繋ぎ最後は北橋がミドルシュートを放つ。ボールキープも1対1で競り負けていた前半とは異なり、今度は駒大の選手がボールを取れなくなってきた。関大の選手はおそらく彼らのプレスのスピードに順応してきたのではないか?サイドを抉られじりじりとラインを下げる駒沢のDFラインに何度もGK山内から“下がるな”と声が飛ぶ。前半シュートを撃てなかった関大FW阪本、櫻田もゴール前で何度もボールを受けられる様になった。しかし、決定機をなかなか作れない。駒大DF廣井はタフな守りで、菊池は読みがよく最後の砦を守っている。さすが日本学生選抜。68分には久しぶりに駒大の攻撃を許し最後は巻にヘッドを撃たれる。ボールはファーポスト側に飛びポストの内側に当たって外に弾き出され、安堵する。3点差がついたらもうお手上げだ。しかし駒大の後半の決定的な場面はこれだけ。前半あれほど悩まされた駒大小林竜樹のドリブルも形を潜めてしまい、中盤からボールが前線に出なくなって来た。そして小林は74分に高崎寛之と交替してベンチに下がった。高崎も日本学生選抜経験者。グループリーグ初戦の高崎大学戦ではハットトリックを演じ、続く札幌学大学戦でも1点を決めて今大会、駒大では最多の4得点を決めている。しかし、準々決勝、福岡教育大戦は最後の3分にみの出場で、この日もスタメンを外れた。怪我でもしたのか? 高崎の投入で前線からプレスを強めようと言う方策か?そして同時に関大も吉村に替えて野洲高校出身の田中彰が投入された。第81回大会、野洲高校が初出場を果たしたときに2年生で出場したのではないかな? 田中は右HFに入り、左HFにいた吉村のポジションに右HFだった木本が入る2列目の布陣となる。そして更にボール支配率の上がった関大は79分に田中が右からシュートを放つがサイドネットに。点差は2点なのでまず1点はやく返したい。83分には北橋に替わりFW森曜平が投入され、最前線に左から阪本、森、櫻田と3人が並ぶ。85分に駒大ベンチは得点者のMF山崎に替えて竹内優を入れる。竹内は本来トップ下のポジションらしいがこの交替も前線からプレスを掛ける意図か?駒大も2点リードしているのだから大きくボールを回したりして関大の焦りを誘う様にすればいいのだが、そういう意図も見られない。この間に何とかゴールをと思うがゴールネットは揺れてくれない。ロスタイムに入り櫻田がシュートを放つがGK正面。そして右サイドを突破した田中のクロスを鄭鎮雄がヘッドで狙うがポストの上。そして無情のホイッスルが鳴り、関西勢はここで姿を消すことになった。 駒大はこれで3大会連続の決勝進出で14日日曜日の決勝戦では3連覇を狙う事に。 試合終了後、敗れた関大の為に3位の表彰式が始まるが、この時に流されたBGMが哀愁を帯びており関大の選手の涙を誘う。そして応援してくれていたスタンドに向かう。選手、そしてスタンドの試合に出られなかったサッカー部員、女子マネージャーの殆どが泣いている。4年生の特にスタンドで応援していた部員達の心境を察するとこちらも感傷的になってしまう。負けた悔しさより4年間の選手生活にこれでピリオドが打たれた事への涙だろう。殆どの大学、インカレに出られなかった大学はもっと早い時期にシーズンが終わってしまう。そして、一部を除いて殆どの4年生が春からは社会人となり、サッカーとは無縁の生活が始まる人が多いだろう。
後半は完全に関大が優位であったが今年も打倒関東はならなかった。ボールへの寄せ、スピード、そして1対1での激しさ。それらは関西には無いレベルなのだろう。しかし後半はそのプレシャーに順応出来ていた様であった。来年度はそこにどこまで近づけられるだろうか?
スタンドには次の試合に登場する早稲田大学と流通経済大学の部員や関係者達が入ってきた。私は競技場を後にした。関東勢同士の対戦には興味がない。しかし、ニュートラルな気分で観戦出来たかもしれないが。

それにしても二日前に終えた全国高校サッカーと比較してこのメディア、関心の少なさはどうだろう?今の大学サッカーの存在価値を表している。しかし、大学スポーツは不要なものではない。このレベルの底上げの考察を発信するのもジャーナリズムではないのだろうか?……

打倒関東なるか? インカレ準決勝 前半

2007-01-13 | 五輪 U-20, U-17
両校の校歌がまず流れる。地元スタンドの控えの選手達も共に“合唱”するが、やはり“地元”駒澤大学の方がここに来ている部員が多く声が大きい。この声援に負けないでくれと思う。11年前にもここ西が丘競技場でインカレの準決勝戦、駒沢大学対同志社大学の試合を見に行ったが、当時の駒沢には栗原圭介がおり翌年には東京ヴェルディに入団。今はヴィッセル神戸に所属するが、当時のメンバーは11人中、栗原を含んだ10人が桐蔭学園高校の選手。スタンドからは“よっ!! 桐蔭学園大学”と野次が飛んだ。今大会プログラムを見ると出身高校の隣にカッコ書きでJリーグのユースチームの名前が。クラブチーム上がりの選手もいると言うことで、これは11年前には無かった。

関西大のキックオフで試合が始まる。開始早々に相手ペナルティーエリア内に攻め込む。これは関大に良い結果が期待できそうかな?と思う。頼みは2トップ。今大会4得点の阪本晃司と3得点の櫻田真平にアタッキングゾーンで良いボールが入るかどうか。しかし前半に期待を持たせてくれたのは最初だけで、以降は防戦一方だった。立ち上がり駒大の選手でまず目についたのは18番の左HF小林竜樹。身長162cmと小柄だが、ボールキープ力があり運動量も抜群でどこにでも出てくるという感じ。ボールを持っている相手にもしつこく挑みよくボールを奪っていた。そして右サイドを原一樹が縦への力強い突破でどんどん切り裂いてくる。原は市立船橋時代は全国優勝を果たしており、昨年度はイズミールでのユニバーシアード代表に選ばれここでも優勝を収めている。そして駒沢大学はインカレ2連覇中だ。本当に羨ましい戦績。そして清水エスパルス入りが内定している。6分には真ん中やや右を原に破られ、逆サイドのHF田谷高浩に渡りピンチを迎えるが何とかコーナーに逃れた。そのCKをいったんはクリアーしたが、それをペナルティーエリア外から山崎健太にノートラップで強烈なショット。それがゴール右上角に突き刺さりあっさりと先制点を許してしまった。このクリアーボールを撃った山崎を全くフリーにしてしまっていた。その後も原、小林に右側(関大の左サイド)を破られたびたびピンチを招く。原は左のトップとされていたが、この試合では逆のサイドに出てきていた。そして長身182cmの巻佑樹が高さを生かしたヘッドで関大ゴールを襲う。巻佑樹はJEF千葉で日本代表の巻誠一郎の弟。昨年のユニバーシアードメンバー。卒業後はどのJのチームに入団するのかな?兄の方も2001年度、第50回大会で駒沢大が優勝した時のメンバーで北京ユニバーにも出ている。駒沢には他にもDF菊池光将、廣井友信、伊藤龍FW高崎寛之、そしてベンチ入りしなかったが東平大祐が日本大学選抜メンバーに選ばれた事がある。11分には原、小林と繋がれ最後は巻が。17分には小林が鄭鎮雄を振り切り右サイドを突破。中にクロスをあげると今度は原がそれぞれ惜しいヘッドを放つ。そして26分には原から巻に渡りまたも巻のヘッドが。一方の関西大はMF吉村修平だけだ選抜経験者。その個人差が出ているのかマークのずれも多く見られる。関大はボールを奪ってもすぐに周りを囲まれて次に繋がらず、頼みの前線、櫻田、阪本にボールが繋がらない。前半のシュートは波状攻撃からMF吉村修平が放った1本のみ。それも力なくGK山内達夫の正面に飛んだもの。ボールを奪うと駒大はすぐにダイレクトパスを前線に繋いで来るので関大は後退を余儀なくされ、後手を踏み続ける。こうなると相手の侵攻をファールで止めざるを得ない。29分には北島雄祐、32分には大家翼が警告を受ける。特に29分の北島のファールはペナルティーエリアのすぐ外でしかもゴール真正面の位置でFKを与えてしまった。このFKは原が大きく外してくれたがいつ追加点を奪われてもおかしくない展開。何とか1失点で逃げ切ってくれよと思った42分、ハーフウェーライン付近でボールを奪った駒大は縦パスを前線に送る。それを追った原が北橋を振り切ってゴール前に抜け出てフリーでシュートをまたも関大ゴール右上角に叩き込んで追加点を挙げた。北橋と競り合った時、原はかなり高く肘を上げて北橋の顔に入ったが審判からはノーホイッスル。これは関大にとっては非情な判定だろう。北橋は納得出来ないといった表情。関大の選手が彼を慰める。しかし2点差がついてしまった。ロスタイムに入ってもゴール前に攻め込まれ原がヘッドで落とした所を巻に撃たれたがこれは外してくれた。そして前半を終えるホイッスルが鳴った。控え室に引き上げる関大イレブンにスタンドの関大応援団からは“1点返せば行けるぞ!!”と声が飛ぶ。次の1点は先に取って貰いたいが、シュート1本に終わった前半を振り返ると心もとない。学生選抜メンバーを多く抱える駒大に対して1対1の場面では差が出ていた。そしてボールを受けたあと、早くてそしてきつい駒大のプレッシャーが襲ってくるがそれらの積み重ねが苦戦を招いている。そのスピードや個人差が関東と関西とのレベル差であろう。 後半は選手交代を含めて何か方策はあるのだろうか?………

第55回全日本大学サッカー選手権 大学サッカーの人気

2007-01-11 | 五輪 U-20, U-17
関東地方は今日も晴天。日中の最高気温は11度程度だけど無風で日差しが心地よい。全国高校サッカー選手権大会の興奮が冷め遣らぬ今日この頃、全国大学サッカー選手権、インターカレッジ、インカレの決勝トーナメントが開催されている。大学スポーツは競技種目によって存在価値はまちまちだが、サッカーに関してはこの10年、要するにJリーグが発足して以降急速に後退してしまったのではないか? 
私の記憶では最後に現役大学生で代表Aマッチを戦ったのはあの井原正巳(当時筑波大)が最後じゃないかなぁ?(もし知っている人がおられたらぜひ教えてください。) 80年代は大学生でありながら代表に名を連ねた選手は珍しくなかった。しかし1992年のバルセロナ五輪からプロアマを問わず23歳以下の大会とされてから優秀な大学生(年齢にもよるが)はまず五輪代表のカテゴリーに入れられる様になった。バルセロナ五輪予選に臨んだU-23代表は沢登が主将であったが、当時彼は東海大学の学生であった。だがそれ以上に1993年のJリーグ発足後、優秀な高校生達はすぐにプロチーム入りを目指す様になり、またプロ球団もユース組織が整備されるに連れて高校生達はそのままプロ契約の為のトップチームを目指す嗜好が強くなり大学サッカーはJリーグと高校サッカーの間でその存在価値がかつて程なくなりつつある。今般オーストリアのザルツブルグ入りが決まった元日本代表の宮本は同志社大学の学生でありながらガンバ大阪に“所属”しており大学サッカーの世界ではユニフォームの袖を通してない。しかし、大学サッカーはもはや“不要な”ものだろうか?
日本には今尚、学歴化社会と言うものが存在している。その賛否両論はともかく、存在している事は事実でそれは避けて通れない。優秀なスポーツ選手とて一寸先は見えない。不慮の事故で選手生命を突然絶たれるかもしれない。将来を嘱望されながら様々な理由で挫折していく事が多い。その際選手自身には何が残ると言うのだろう?そしていつかは引退をする日がやって来る。
私は大学卒業後、実業団に挑戦したがわずか2年で挫折して引退。今はサラリーマン生活を送っている。選手生活は精一杯やって何の後悔も無い。しかしこう言えるのもその後の人生を何とか過ごせているからで、それも大学卒業の肩書きが無ければこうは行かなかったと断言できる。いくら輝かしいスポーツ経歴を残せても、社会に出ようとした時に見られるのは年齢と学歴のバランスであって、選手時代の戦績では無い。従って”大学には進まずにレベルの高いプロにすぐに行け。回り道をするな。“と言う人々にはじゃぁ、あんたその人達の人生の面倒を見れるのかい?”と私はすぐに反論しよう。平山相太が国見高校から筑波大学に進学をした時には著名な評論家まで“何故プロに入らずに大学に行く必要があるのか?優秀な素質が勿体無い。”との批判が続出したが、果たしてこの人達は本当に平山自身の事を考えて発言したのだろうか?彼が大学を辞めたのは残念だが、みんなが“平山相太”になれはしないのは事実だ。そして大学サッカーのレベルを上げようと考える人達はごく僅かだ。そんな風潮が始まりだした時、1995年福岡で開催されたユニバーシアードでは決勝戦で韓国を破り初優勝を収めた。これは特筆すべき歴史事象であった。アトランタ五輪の前年、そしてフランスワールドカップの3年前の出来事だった。 

 ほとんどの学生スポーツがそうである様にサッカーも関東勢が優位だ。21年前の1985年大会では大阪商業大学と大阪体育大学が決勝戦で対戦。死闘は130分でも勝負が着かず(前後半45分。延長前後半15分。そして再延長10分)関西勢で優勝を分け合うと言う夢の様な出来事であった。しかしインカレで関西勢が優勝を果たしたのはこの年が最後。以降は関東勢の軍門に降り続けている。兎に角何でもいいから打倒関東を果たしてくれないものかと思い続けていたがアメリカンフットボールを除いて殆どの競技で関東勢の優位は揺るがなかった。ならば打倒関東は自らの手でと臨んだインカレは(サッカーじゃないけど)関東勢の強さを再確認させられるだけであった。 
 しかし、学生時代はサッカー部との交流も思い出の一つだ。私の母校のサッカー部は在学中に一時関西リーグの2部で2位に入り、1部リーグ入りを掛けて立命館大と入れ替え戦を戦うにまで至った時があった。残念ながら1部入りは果たせなかったが、同好会の様なレジャースポーツ的な仲良しクラブばかりの体育会の中でサッカー部は競技性を追求するクラブとして一目置いていた。そして次第に彼らとはお互いを認め合う仲となり、こちらが練習試合やリーグ戦を見に行く様に。そしてこちらが関西でも上位入賞を果たし全国レベルになって来るとサッカー部の“後輩達”が“先輩みたいに成りたい。”と行ってくれる様になった。こういうのを切磋琢磨するというのだろう。 
 またアルバイト先にも当時関西大学リーグ1部であった京都教育大学サッカー部の選手がいてすぐに親しくなり、試合を見に行く仲にもなった。そして彼からも関東勢のレベルの高さを聞いた事がある。
 今年も全国から24の大学がそれぞれの地域リーグで規定の順位内に入りインカレに進出して来た。そして4大学ずつ6つの組に分けられ総当りを行い上位1位校と2位の中で成績の良かった2校が準々決勝に進むと言う昨年末のアジア大会と同じフォーマット。リーグ戦は昨年末に関東のみならず、関西、東海地区で分散して開催され準々決勝からは西が丘、市原臨海競技場で開催され決勝戦は国立競技場で行われる。
今年はベスト8には関西からは関西大学と立命館大学が進出した。この2校は今シーズンの関西学生リーグの上位2校だ。昨年はこの2校と関西学院大が8強に残った。関学大は高校サッカーで準優勝した作陽高校のエース村井君が進学する。 毎年夏に大阪で総理大臣杯が開催されるが、昨夏は立命大が優勝を収めた。その立命大は、インカレでは早稲田大学に準々決勝で 1-4 と完敗。しかし関西大は関東学生リーグ3位の明治大学を 2-1 で降しベスト4に残った。明治大は今シーズン関東学生リーグでは後期10勝1分けと好成績を収め、その明治を試合内容ではかなり圧倒しての勝利だったらしい。 準決勝の相手は駒澤大学。関東リーグでは2位。そして過去のインカレでは同じ準決勝で 0-1 で敗れている。そしてインカレでは2連敗中の相手だ。今シーズンは明治大戦まで22連勝中との事。このまま連勝を伸ばして欲しいところだ。
 綺麗に手入れされた西が丘競技場のピッチ。1989年にはここでワールドカップ予選の試合が行われ日本がインドネシアを 5-0 で一蹴したがグランドコンディションが最悪で試合後“ここは本当にFIFA の査察を受けたのか?”とインドネシア監督に記者会見で言われてしまった。そしてそこに両校の選手が入場して来た… 続く

憧れの高校サッカー決勝戦

2007-01-08 | 五輪 U-20, U-17
前日、前々日とはうって変わっての晴天の下、第85回全国高校サッカー選手権大会決勝戦が国立競技場で開催された。今日は成人の日、お休みと言う事で観客席も満員。高校サッカーの決勝戦でスタンドが満員になりだしたのは昭和58年度大会あたりから。そのカードは帝京高校対清水東高校。連覇を狙う清水東は前年度の中心選手、長谷川、大榎、堀池の3選手が残り、それに加えてFWに武田がいると言う豪華メンバー。帝京も後に全日空から横浜フリューゲルスに入団し、一時は代表のエースストライカーでもあった前田がいた。
以降、ほとんどの大会の決勝戦は満員となっている。 80年代に入っても日本代表はしばらく低迷を続け、サッカーと言えば全国高校サッカーと連想する人が最も多かった。あの“うつむくなよ、振り向くなよ~♪”のテーマ音楽に乗って。従ってサッカーイコール高校生までのスポーツで、大学になってもサッカーやスポーツをしている連中は “スポーツ根暗” ましてや日本リーグの様に“社会人”にまでなってスポーツをする大人は“頭がおかしぃんじゃないの?”が世の、特に女性たちの反応。 現役でプレーする選手達でさえ身内や職場以外からはこういう見られかれ方をしていたので、ましてや日本リーグの試合観戦に出かけていた我々はどういう見方をされていたか想像出来るだろう。それが90年代、Jリーグが発足する直前まで続いた。ブラジルからKAZUが帰国しても状況はすぐに好転しなかった。スポーツを見下していた女性達が母親になり、サッカーの少年団や野球のリトルリーグに我が子を入団させ髪を振り乱し発狂しながら声援を(たまに悲鳴に聞こえる)を送るのを観ていると非常に滑稽だ。 

我が母校、京都西高校のサッカー部はかつて日本代表のゴールを守った松井清隆先輩が在籍したが、(私は少し話をした事がある。)それでも私が高校時代は京都府予選でも3回戦で敗れる程度であった。サッカー部には友人も多かったので何度かインターハイや京都総体の試合を観に行ったことがある。そこで感じたのは、対戦相手の公立高校、男女共学高校の華やかさであった。こっちは男子校、どうがんばっても黄色い声は飛んでこない。対戦相手校を応援する女の子や女子マネージャーなんかを遠くから見て“いいなぁ。うらやましぃなぁ。”と思ったものだった。 西京極競技場に京都府対大阪府の高校選抜の親善試合をサッカー部の友人に誘われて観に行った事もある。残念ながら母校のサッカー部からはメンバーは選ばれなかったが大阪高校選抜には中学時代の友人と1年後輩が3人出ていた。この試合には将来のJリーガーが二人いた。洛南高校の草木は高校卒業後ヤンマーに入団し日本代表にも選ばれ、Jリーグ発足後はガンバ大阪でもプレーをした。そして北陽高校に久高がいた。惜しくも癌で亡くなってしまったが、卒業後は松下電器に入団し、ガンバ大阪、セレッソ大阪でもプレーした。他に東山高校に田村と言う後に日本鋼管に入団した選手がいた。 中学時代の同級生の活躍はともかく、まだ改装前の古びた石段のスタンドには女の子がけっこう目についた。きっと選抜メンバーの彼女達だろう、とは一緒に見に行った高校サッカー部の友人が言っていた。なんだか同じ高校生なのにえらく差をつけられているような気がした。いや、差をつけられていたのだ。スポーツのレベルも、女の子も。大学に入学して陸上競技を始め結構頑張ったのだが、スポーツの競技レベルが上がれば女の子の注目を浴びるのと言う現象は高校生までという事がその時になって初めてわかった。

今年の全国高校サッカー選手権大会の決勝戦も多くの人の関心が寄せられたことだろう。 大会を通しても色々話題があった。晴天の下で行われた決勝戦は盛岡商が逆転で初優勝を飾った。試合終了後に勇退される斉藤監督がインタビューされ、ジ~ンと来た。昨年、同じ岩手県の遠野高校に次いでの決勝進出。これで岩手県もサッカー列強県の仲間入りか? 1点を先制され、PKを失敗する流れの中でよく逆転勝利に繋げたと思う。それは決勝戦が45分ハーフであったと言う事も寄与するだろう。そして2得点とも左サイドの突破から。特に同点ゴールは投入されたばかりの大山君が左サイドから切れ込み、そのクロスを最後はPKを失敗した林君が決めたもの。これで一気に盛山商の選手は生き返っただろう。逆転ゴールは40分。左サイドを今度は成田君が突破し、入れたクロスを準決勝を累積警告で出場できなかったFW東館君がスルーし、走りこんだ千葉君が決めた。この40分と言う時間。決勝戦が45分になった事が盛岡商に味方をした事になるが、斉藤監督が20km走を練習メニューに入れたりして持久力をアップさせた事が優勝に結び付けた。逆転してからも盛山商の運動量は落ちなかった。 敗れた作陽高校。野村監督は選手時代(鹿児島実業)に続いての準優勝であったが、まだまだチャンスはあると思う。エースの村井匠君が後半開始からプレーをしたが怪我で十分にプレー出来なかったのが痛かっただろう。それでも先制点は彼の見事なボールキープとミドルシュートの跳ね返りを桑元君が押し込んだもの。卒業後は関西学院大学に進学するとの事。関学大は関西では一番偏差値の高い私立大学。さすが文武両道選手。関西学生サッカー界を押し上げてくれぃ。 

今大会も前回も決勝戦には関東勢は残れなかったが、これまで関東勢の快進撃には少し不満を抱いていた。(別に私が関西人だからというわけじゃないが。)首都圏開催になり西が丘、駒沢の東京のみならず、駒場、さいたま、三ツ沢、などの関東一円で試合が行われるのだが、東京都の高校が入ったブロックが西が丘や駒沢で試合を行い、埼玉県の高校が入ったブロックが駒場、さいたまスタジアムで試合を行い、神奈川県代表の入ったブロックが三ツ沢で試合を行う。千葉県代表もそうだ。公平の為にも埼玉県の代表が三ツ沢で、東京の代表がさいたまスタジアムで試合をしてもいいのではないか?またこうした開催競技場の事情が関東勢優位を少なからず助けたのではないか? 

しかし、両チームの選手が涙に暮れる決勝戦はいつも感傷的になる。感涙にそして悔し涙に。そしてスタンドには多くの3年生が同級生や後輩たちに声援を送っていた事だろう。彼らこそ卒業後も競技を続けて欲しい。注目度は下がるかもしれないが、まだまだチャンスはあると思う。それに今はスポーツ選手の見られ方が飛躍的に良くなっているから。
甲子園に高校サッカー、全国大会でも地方大会でも敗れた方の選手達やスタンドに目が行ってしまう。

今はもうこういう大会は観戦するだけだ、小学校5年生の子供に期待するか?でもレギュラーになれるかなぁ…?

うつむくなよ ゴールキーパー

2007-01-07 | Weblog
仕事初めの翌日からは3連休。しかし今日は大変な雨。それも氷雨。最近の天気予報は本当によく当たる様になったと感心させられる。 お正月の定番の一つ、全国高校サッカー選手権大会も今年で85回目。私が子供の時はまだ大阪で開催されていた。そして昭和48年度大会は大阪代表の北陽高校が山野兄弟が地元大阪では大会前から話題を呼び見事全国優勝を果たした。決勝の藤枝東戦では1点を先制されたが2-1と逆転。そして同点ゴールを決められたかと思ったがオフサイドの判定で取り消されたがこの判定が非常に微妙で後に物議を醸し出した。この大会の5ヶ月前の全国高校野球でも大阪代表は北陽高校。今の阪神の岡田監督が内野手で出場していた。北陽と言えば先に高校野球でその名を覚えた。そして作新学院には怪物江川がいた。昭和51年度から首都圏の開催となり開会式と決勝戦は東京の国立競技場で行われることに。そしてあの“うつむくなよ、ふりむくなよ….君は美しい、戦いにやぶれても…” のテーマ音楽が始まり、この曲がテレビから聞こえなくなると3学期の始まりを告げる目安となった。首都圏開催以降優勝争いをするのは関東勢ばかりとなった。浦和南や帝京高校等関西での開催時代から優勝経験のある高校から古河一高校、武南高校。それに静岡勢も清水東、清水商が優勝するようになり、西日本勢ではようやく昭和60年度に島原商業が帝京と優勝を分け合う。そして当時島原商業の監督であった小嶺氏は国見高校に移り翌61年度には決勝戦で東海大一高校に敗れたが準優勝を収め、以降高校サッカーの優勝常連校だ。
高校サッカー球児達の憧れ、国立競技場のピッチには準決勝進出の四校しかプレーが許されない。今年は作陽(岡山)上村学園(鹿児島)盛岡商業(岩手)八千代(千葉)の選手達が国立に登場した。 今大会はPK戦が多いらしく、ここまで15試合が80分間で勝負が着かずPK戦に持ち込まれた。 巷ではストライカー不足とか言われているが、私はそれ以外の理由があると思う。確かにストライカー豊作とは思えないが。
この少子化のご時世、同時期に全国大会を行っている高校ラグビーは参加高校数が1000校を下回っているが、まだまだサッカー部を持つ高校は全国で4000校を超えるらしい。それにサッカーは今や日本人の間では1,2を争う人気スポーツ。自校の宣伝や生徒獲得の為にこぞってサッカーに投資をしている私立高校も増加しておりハード面では専用グランドを造ったり、野球部や他の球技部を押し出してでも練習スペースを与えたり。ソフト面では指導者をがんがん引き抜いて来たり(そして結果が出なければバシバシ解雇したり。)中学生、または小学校の高学年から有能な選手をスカウトしたり。完全にプロ球団並みだ。例えば福岡県代表の神村学園の竹元監督は鹿児島実業時代は全国大会準優勝経験者。他のスタッフも鹿児島実業や東福岡高校といった全国大会上位入賞校のOBだ。 それにこの少子化。限られた生徒数を多くの高校が取り合うのでレベルも次第に均等化されてくる。その上最近ではどこの街、地域の少年団でもしっかりとした指導者がついて基本をきっちり教えるので一時よくあった“地方格差”は激減している。昔は県庁所在地のある都市でしか立派な競技場がなかったものだが、今やどんな小さな都市でも規模の差はあれ1つはスタンド付きのスタジアムがあるのではないか?それでも名門校には部員が100人以上もいる。これは少し異常だ。せめて50人までだろう。高校生はまだまだ発展途上で伸びしろの多い世代。もっともっと試合経験を積ませる土壌が必要だ。

この氷雨の中、選手達は悪天候もなんのその憧れのピッチで存分にプレーをした事だろう。かつて私がインカレでフィールドの中から初めて見上げたスタンドや電光掲示板は格別なものだった。(とはいっても陸上競技なのでトラックから見た光景だけど) 第一試合の作陽高校対神村学園。前半24分に石崎君のゴールで先制。しかしその前にFKをDFと競り合いながら宮澤君がヘッドでゴールを狙い、GK矢野君がいったんはセーブしてそのこぼれ球を押し込んだもの。宮澤君はあの体制でよく頭に当ててしかもゴール方向にコントロールしたものだった。 神村学園は先制されてもベンチには攻撃的能力の高い選手が残っている。後半の選手投入からまだまだチャンスがあると思われた。後半開始から五領君、11分には中村君、18分には村田君が次々と投入される。また右サイドの遠藤君も縦に積極的に切れ込んでチャンスを作る。彼は種子島から中学時代に親元を離れて神村学園で寮生活をしているらしい。母親は学生時代陸上のインカレで200m, 400m そして 400m リレーで好成績を挙げたとの事。旧姓は何と言うのだろう?そしてどこの大学かな?母親がアスリートの場合子供がスポーツ選手になる可能性は高い。一緒にいる時間が長いので母親の影響は大きい。うちは家内がさっぱりスポーツ経験が無いので5年生の息子は….. 母は偉大だ。 しかし作陽も20分にエース、村井匠君を投入する。岡山県予選で膝を痛めて全国大会では満足にプレー出来ていないが、そのボールキープ力は他の選手との格の違いの片鱗をみせる。この村井君は勉強もよく出来て1日7時間も勉強する日があるとか。文武両道を行く選手だ。文部科学省の推薦高校生だろう。だがドリブルで抜け出したり、裏を取る動きでチャンスを演出したのはもう一人のFW小室君だった。後半35分にはペナルティーエリアの中にドリブルで侵入し相手DFそしてGKまでかわして決定的な場面を作るが神村学園DFが必死に戻ってクリアー。その小室君にキラーパスを送ったのは村井君だった。 神村学園も交代選手を中心に攻撃に出るがラストパスが作陽DF陣の網にかかりシュートに持ち込めない。そしてゴールネットを揺らせぬままタイムアップ。作陽が岡山県勢としては初めて決勝戦に進むこととなった。作陽高校のある地域は美作地区と呼ばれており、作陽の野村監督は“美作地区をサッカーの盛んな地域にしたい。”と語っておられたそうだ。 ここには美作女子大と言う陸上競技の強い大学があり(今も強いのかな?)ソウル五輪に槍投げで出場した松井江美という選手がいて彼女は美作高校出身であった。化粧をすればなかなかいい女であった。

準決勝の第二試合。この試合ほど“せっかくの国立競技場だから良いコンディションでプレーさせてあげたかった。”と思わなかった試合は無い。もうPK戦か?と思われたロスタイム。ロスタイム表示が2分と出た直後に盛岡商の林君がドリブルで右サイドを駆け上がる。ペナルティーエリアまで持ち込んで最後は粘ってCKを取る。CKではその林君が蹴るがその前にゴール前の八千代GK植田君や盛岡商のFWが映し出される。そして林君が蹴ったCKを植田君がパンチングを試みるがそれが真下に落ち自分の足にあたりゴールに転がり込んでしまった。パンチングをする前にどこに弾き出すか、すこし目を切ったかもしれない。そして雨でボールが滑ったのかもしれない。晴天なら難なくキャッチ出来たかもしれない。結局このゴールが決勝点となり盛岡が決勝進出となった。試合前は米倉(千葉)山崎(磐田)のJリーグ内定者の両君を擁する八千代が有利であったが、この氷雨が彼らの高速ドリブル、そしてボールテクニックを邪魔してしまい、逆に強豪武南高校をPK戦の末に破ったようなしぶとさを見せてきた盛岡商に味方をしてしまった。盛岡商は東館君が累積警告で出場停止。しかし、替わって出場した成田君がカウンターによくからむ。後半に風上に立った盛岡商が猛攻を仕掛けるが15分には中央で抜け出した成田君のシュートを八千代のGK植田君がファインセーブ。18分にも左サイドを抜け出した成田君からがゴール前にラストパスを出し、林君が飛び込んでいったが、またもGK植田君が体を張ってゴールを死守した。試合終盤になると、ようやく風雨が収まり始め、PK戦に突入かと思われた後半ロスタイムに、その悲劇が。 八千代の砂金監督は“こういう事はサッカーでは良くあること。”と植田君をかばったそうだ。勝利インタビューを受ける盛岡商斉藤監督。3回戦の武南高校戦後でも喉を押さえながらのインタビューであったが、喉頭がんで1年間療養されていたと、この試合後に知った。その苦しい間に斉藤監督を支えたスタンドで観戦されていた奥様が何度も映し出された。感動的だった。 岩手県勢は昨年の遠野に次いで2年連続の決勝進出。八千代は28年ぶりのベスト4であったが、またも決勝戦には手が届かなかった。28年前は、川崎フロンターレの関塚監督がこの八千代高校の選手であったはずだ。 
明後日の決勝戦。天気はどうなるだろう。 テレビでは何度も涙に暮れる植田君と失点シーンが映し出された(本当にしつこい程に。) でも明日からはうつむくなよ、ゴールキーパー。

箱根駅伝 あぁ自堕落な私....

2007-01-04 | 陸上競技
1月3日。目が醒めた時はもう復路の号砲が鳴っていた。先頭の順大、清野純一君は既に11km付近を通過。もうスタートしてから半時間は経過していた。“あらら、正月からご苦労なこっちゃな。”と呟きながら着替える。選手達はこの日の為に1年間、いや中には4年間必死に練習を積み重ねてきたのだ。かつて陸上競技に身を置いた私が自堕落しているに過ぎない。 外は昨日よりかは気温が高そう。そして何より無風状態。“これなら汗をたっぷりかけるぞ”とウィンドブレーカーの下には長袖のトレーナーを着込む。これで年末休暇は31日を除いて毎日走る事に。しかし、中々外に出られない。“1区の中継を見てから走ろう”と。現役時代は他人の走りなんてどうでも良かったのに。前日5区今井君の劇走で往路優勝を果たした順大。私の学生時代は全盛期。それはトラック種目も同じであったが、筑波大学にインカレで総合優勝をさらわれ連覇が途切れたのを思い出す。往路優勝は17年ぶりとの事、それは意外だった。この日の見所は2位以下の東海大、日体大、早稲田、日大あたりがどう追いすがるかと今年は10位まで拡大されたシード権争い。 6区を走り終えた小田原中継所では1位順大と2位東海大、皆倉一馬君との差は1分53秒。この区間で11秒離された。この山下り区間は今、順大の監督を務める仲村明氏が得意とした区間。確か1年生の時から走っていたと思う。彼は小柄だが市立船橋高校時代は5000mでインターハイ優勝をし、しかも全国高校駅伝では1区で区間賞も取っている。そして順大に進学し箱根駅伝4連覇のメンバー(4年の時は大東大が優勝)その後は富士通に入社しバルセロナ五輪では3000m障害に出場すると言う本当に羨ましい戦歴を持つ。(よく他人の戦績を覚えているなぁ、俺も)。彼が1年の時インカレの10000m走に出場したのを観た。(関西大や京産大の親しい奴等が出場したのでそいつらを応援していた。) 

勇みよく公園に駆け出したが、今日は気温が高く汗の出が早い。こりゃ、エンジンも早く掛かって昨日よりも走れそう。と思ったのが甘かった。5kmも過ぎれてもペースは上がらず、逆にばてが出てきた。結局昨日と同じ距離を走るのがやっと。汗だけはかいたからよしとしようと勝手に自分を納得させた。

帰ってテレビを点けると平塚中継所付近。順大、井野洋君がトップで現れる。だが追う東海大は7区で植木崇行君が区間2位の力走で差を1分25秒差まで縮める。10000m のタイムでは植木君の方が1分近く遅いのになかなかの力走。しかし順大は9区、10区に万全の信頼をおける選手を配置しているらしい。この区間にそういう選手を起用出来るのは本当に優勝を狙えるオーダーだ。だから8区で東海大は何とかしたい所。しかし順大との差は開くばかり。結局戸塚中継所では逆に差が2分8秒と開いてしまった。この時点でアクシデントでもない限り順大の優勝はほぼ決定的に。こうなってくると興味はシード権争いに向いてくる。6区を終えた時点では専修、中央学院、明治が10位以内におり、山梨学院大、神奈川大といった優勝経験のある大学や大東文化大、そして中央大の古豪が苦戦していた。前年11秒差でシード権を獲れなかった城西大も12位。そして前年王者の亜細亜大は順位を2つ下げ15位と大苦戦。7区に入ると、中央学院、専修、東洋大が7位グループを形成し、それを明治大が追う展開。平塚中継所では東洋大が少し抜け出し7位、以下中央学院、専修が争いながらなだれこみ、1分23秒置いて10位に中央大が浮上してきた。その後ろに城西、明治、山梨学院、亜細亜、大東大が1分以内に数珠繋ぎで入ってきた。8区に入ると中央大の森君、城西大の五十嵐君が並走。しかし五十嵐真吾君が区間2位の快走で森君を振り切り、中央学院、そして駒沢までかわして一気に8位に上がる。8区の区間賞は東洋大の北島寿典君で5位に押し上げる。この区間は先頭よりも中位争いが面白かった。9区に入ると城西、専修、駒沢が7位グループを形成。そして中央学院を抜いて亜細亜大が10位に浮上してきた。駒沢はここで順位争いをする様なチームじゃ無いと思ったんだけど。この区間は4年連続でここを走った順大の長門俊介君が区間賞。我が愛する母校、京都西高校の後輩、東海大の前川雄君もがんばったが差は3分20秒に。もう1000m 以上の差が開いているだろう。前川君は3年生ながら駅伝主将。来年もがんばってくれぃ。シード権争いでは亜細亜大の菊池昌寿君が区間2位の快走でチームを8位に押し上げる。そして中央大の徳地悠一君も区間3位の力走でチームを10位に押し上げシード圏内に入ってくる。そして城西が11位、中央学院が12位と順位を下げ。13位に山梨学院が続く。先頭を行く順大の松瀬元太君も快走に次ぐ快走で東海大の吉田憲正君をどんどん引き離す。そして日大の阿久津君が吉田君に迫る。吉田君の順大を追う力がなくなりつつあるのが目に見えてかわいそうになってくる。そしてシード権争い。中央、亜細亜、専修が8位グループを作り、それを11位で城西大が追う展開。まず専修大の木下君が抜け出る。これで専修は久々のシード権をほぼ手中に。そして一時は8位集団に30秒差に着けていた城西大の福岡功君がじりじりと後退しとうとう1分半の差に。表情を見ていても苦しそうだ。亜細亜大は“優勝校が翌年(アクシデント以外で)シード落ちする”というこれまでにない不名誉な事象は避けられそうだ。大手町のゴールには5区を走った主将の今井君をはじめ、順大の面々が揃う。女の子もいる、マネージャーかな?そして肩を組んで順大の校歌が始まった。そして松瀬君が優勝のテープを切り、歓喜の胴上げが始まった。仲村監督も映るが、老けたなぁ、と言うのが印象。2位には東海大を抜いた日本大学。そして東海大は3位。佐藤悠基君をはじめ、多くの選手が残るので来年は優勝を狙えるだろう。次々とゴールする選手達。城西大の福岡君は本当に申し訳なさそうにやってくる。そしてゴールイン後は座り込んでしまった。土下座をして謝っているみたいであった。挫折感を持って競技を辞めた自分はどうしても、歓喜をしている選手達よりも無念の表情を浮かべる選手達に目が行ってしまう。関西学連出身の私にとって箱根駅伝は完全な部外者。感動したのは80回大会オープン参加した日本学連選抜。5番目でゴールをしたが、アンカーの北海道大の片岡祐介選手が“日本学連選抜”と刺繍された襷を掲げてゴールインした時だけ。次に日本学連選抜がオープン参加したら何か差し入れに行こうと考えている。願わくは我が母校からだれか出てくれればいいのだけれど。

1年の時から毎年箱根に出場出来た選手もいれば、4年になって初めて箱根を走った選手もいる。そして4年間箱根を走れなかった選手。自らの選手能力を見限って裏方に徹したり、学連の方に転身したり。自分は学生の時はインカレや様々な大会に出場する機会に恵まれたが、実業団では裏方に回った。両方経験出来た事は今となっては素晴らしい経験と思い出だ。箱根駅伝だけでなく、同じ思いをしている学生やOB、OGもいるだろう。それが社会に出て役に立つとは思わない。しかし、それはかけがえの無い思い出に違いない。

最後に言わせてくれ。 がんばれ関西学連。高校生諸君。関西にいらっしゃぁぃ。

お正月目立つは関東学連ばかりなり

2007-01-03 | 陸上競技
ニューイヤー駅伝、天皇杯決勝戦の翌日もウィンタースポーツは続く。全国高校サッカー、全国高校ラグビー。
そして全国大学ラグビーに関東学生対抗箱根駅伝。学生時代に陸上競技の経験があると言うと必ず尋ねられるのは“箱根を走ったのですか?”それは学生時代にも幾度と無く受けた質問だ。陸上競技経験者ならまずそういう愚問は浴びせて来ない。その度に(たまには怒りを抑えて)“箱根駅伝は関東学生対抗駅伝で、私は関西学連所属なので箱根には出られないのですよ。” 私が現役時代の1985年度日本100傑を見ると大学生で28分台を出したのはわずかに2名。それも我が関西学連の京都産業大学の選手達。29分30秒を切ったのは更に4人しかおらず、そこにも京産大の選手が一人入っていた。この年の全日本大学駅伝ではその京都産業大学が全国優勝を果たし、我々の溜飲を大きく下げてくれた。当時、全日本大学駅伝は箱根駅伝の開催された後の2月に伊勢路で開催され、その年の箱根駅伝で優勝した順天堂大学は全日本駅伝には出場して来なかった。しかし、例え順大が出て来ても京産大が勝ったと思っている。1986年度からテレビ中継が始まり、今やお茶の間では正月の定番となっている箱根駅伝。その当時、アフリカ人留学生を擁して箱根路に参戦してきたのが山梨学院大学だ。この箱根駅伝のおかげでその大学名は全国に知られる様になり、関東の大学は次々に箱根駅伝に向けて長距離部を強化し始め全国の有望な高校生は箱根路に繋がる関東学連を目指すようになった。そして関西学連や箱根に関係ない大学が存在価値を示す全国大学駅伝は1988年度から11月開催になった。しかし、この駅伝大会も今や上位10校までが関東勢が占める。はっきり言って関西地方には20km走の練習が出来る様な所が少なく距離が長ければ長くなるほど不利になる。従って出雲駅伝が最もチャンスのある駅伝大会と考えるが。

午前8時に号砲がなり、出だしから東海大学の佐藤悠基君が格の違いを見せる。区間新記録の快走で2位東洋大の大西智也君に4分1秒の差を付ける。1977年、第53回大会で優勝した日体大は1区から首位を独走しての優勝だったが、この時の1区はその年の9月にソウルで1500mの日本記録を樹立した石井隆士先生だった。(この話を当時東海大の選手として参加した高校の先生から聞いた事がある。)2区では山梨学院大学のモグス君が最初の3km を8分3秒、5kmを13分30秒の驚異的なスピードで2位に躍り出るが後半は失速区間6位に終わる。満を持して徐々にペースを上げた早稲田大の竹澤健介君が区間賞を取り3位に上がる。東海大は伊達秀晃君は区間2位の好走で東洋大学との差を4分11秒に。東洋大も1区が2位。2区も区間3位となかなかの力走だ。だが3区では早稲田が順位を2位に上げる。駅伝の序盤は順位よりはタイム差が大切。早稲田大学は1区の阿久津圭司君が9位であったが2位東洋大とは32秒差。2区は竹澤君は先行する大学を目標に走ることによって区間賞を引き出し、そして3区では藤森憲秀君が区間3位の力走で2位に上がった。そして東海大の3区藤原昌隆君は区間18位と伸びず、2位早稲田は2分13秒差に迫る。しかし早稲田の4区本多浩隆君が区間14位と遅れ4位に後退。3区ダニエル君、4区中原知大君がそれぞれ区間2位の快走で日本大学が4区の小田原中継所で3位に浮上して来た。そして東洋大がまだ2位で粘っている。第4区は昨年から距離が18.5kmに短縮された。それが各大学微妙に影響しているか?だが4区の区間賞は順天堂大の佐藤秀和君。この区間10000m の持ちタイムが28分10秒と他の誰よりも優っているが、他の選手はみな29分台。短い距離のこの区間では比較的力の劣る選手が起用されるが、ここの他校ではエースクラスのタイムを持つ佐藤君をぶつけるあたり順大の試合巧者ぶりが伺える。2区を終えて戸塚中継所ではトップの東海大と6分36秒の差をつけられていた順大が4区を終えた小田原中継所では順位は5位ながら東海大との差は4分9秒になっていた。順大の5区は昨年山登り区間で5人抜きを演じた今井正人君は小涌園前を少し過ぎた15km程の地点で先行する東海大の石田和也君を抜き去りそのまま快走。昨年の記録を25秒上回る区間賞、区間記録で順大の2年連続の往路優勝に導いた。東海大は順大と1分42秒差の2位に踏み止まり復路に期待を残した。3位には5区を区間4位で3人抜きを演じた北村聡君の日体大。以降早稲田、日大、中央学院、駒沢、専修、山梨学院と続き序盤健闘した東洋大の往路は9位に終わった。昨年度優勝を果たした亜細亜大学は順大とは7分16秒差の13位と往路は出遅れた。昨年往路はトップ順大とは2分51秒差の6位からの追い上げ。しかも先行する順大、駒沢の選手にアクシデントがあっての逆転劇。今大会9区、10区に10000m28分台の選手を配置するが、逆転優勝は厳しいだろう。目指すはシード権獲得か? 一昨年まで大会4連覇を果たした駒沢大は復路もまだ5000m14分1桁秒台、そして13分台の選手が登場するが順大との5分32秒差をどう克服できるか?また予選会20km走1位の専修大、座間紅弥君は2区で区間5位。2位だった中央学院大の木原真佐人君は同じく2区で7位、3位の早稲田大、駒野亮太君は山登りの5区で4位と力走した。また関東インカレポイントの恩恵を受けて予選会を突破した国士舘は19位。18位国学院大にさえ5分16秒あけられた。予選会で涙を呑んだ拓殖大の為にも奮起を期待する。
4区まで独走だった東海大の往路2位は計算通りかどうかはわからない。しかし、1区で佐藤悠基を使ったのは少し勿体無かったか?1区は好位置につけて(勿論1位なら最も良いのだが)2区、3区で首位固めに入った方が後続に良くは無かったか? 楽しみなのは主将の前川雄君。我が母校京都西高校の出身なのです。彼を応援してあげてください。 さて、明日は何km公園を走れるかな? 

そして大学ラグビーは大阪体育大も京都産業大も敗れてしまった.... 来年こそはと思いながら20年近く待っているなぁ.....

新春 駅伝実力日本一 !!

2007-01-01 | 陸上競技
子供の時1月1日はサッカーの天皇杯の決勝戦をテレビ観戦するのが楽しみだった。親父がヤンマーディーゼルの社員で職場に釜本や吉村をはじめサッカー部の社員がいたので特にヤンマーが決勝戦に残った時は楽しみだった。ある年東洋工業に負けて同じ職場の人であろう同僚から電話が掛かって来て”ほんまにもう、あいつら仕事始まったらしっかりせぇって言うたらなあかんなぁ”と言っていたのを思い出す。Jリーグ発足前は天皇杯がサッカー選手の世間への存在価値を示すイベントでもあった。
そして21世紀を向かサッカーの天皇杯決勝戦も少し価値観が変わった様だ。
1月1日を国立のピッチで迎える。それが日本でサッカーをプレーする選手の至福と聞いた事があるが、今は陸上競技の長距離種選手達も上州路で走る事に誇りを感じると多くの現役選手達が思う事だろう。1月1日に開催日を決定したのは、冬場にマラソン、他の駅伝大会と開催が重ならない日程を探した結果と世間にインパクトを与える為で、1987年度の大会から開催日を1月1日に決められ、今やニューイヤー駅伝の名で正月の“定番”となった。(1988年1月1日に最初のニューイヤー駅伝が開催)日本テレビが前年、関東大学対抗箱根駅伝のテレビ中継を始めた事へのTBSの対抗策でもあった。 
私もこのニューイヤー駅伝には思い出がある。所属チームが東日本実業団駅伝を突破し連連続出場を果たしこの上州路に乗り込んできた。しかし私は補欠にも入ることが出来なかった。それにむしろ安堵感を覚えた。日本を代表するランナーに次々と抜かれる醜態を全国放送で晒されるのが怖かったからだ。まぁこんな調子だからすぐに挫折をしたのだろう。 今年の見所はコニカミノルタの3連覇がなるかと中国電力、日清食品、がそれを阻むか?そして旭化成の復活は。また自衛隊体育学校がどれだけトップ10に近づくかと陸上自衛隊第13旅団がどこまでがんばれるか?であった。 今年でニューイヤーとしては20回目となる実業団駅伝。本当に景気の波に翻弄されるのがその勢力図だ。自衛隊体育学校は数年間出場権を得られない時代があった。それはバブル景気に拍車が掛かったときに新実業団が設立または既存のチームがチーム強化の為に本社からの投資が計上され、主力選手達が引き抜かれていったからであった。当時は体育学校のみならず社会的に知名度の低い実業団から有望選手がよく引き抜かれ、陸上競技界では問題になっていた。しかし、バブルが弾け景気が後退すると運動部を廃部、休部する企業が続出。陸上部とて例外で無く、景気に左右されない自衛隊に選手が集まる様になり1993年度から14年連続でニューイヤー駅伝に出場している。また体育学校の選手達の待遇も良くなり、自衛隊の練成に長距離走を重視する様になった事から第13旅団や昨年記念大会の為に出場枠拡大の恩恵を受け滝ヶ原自衛隊が上州路に登場するようになった。滝ヶ原自衛隊は夏の富士登山駅伝で有名だ。
レースは昨年の気温零下1.5度と言う極寒の天候とは異なる穏やかな天候の中1区では予想通りムサシ(スズキ)ムワンギ(NTN) 、ダビリ( 小森コーポレーション ) の外国人ランナーが上位を独占。続いて3連覇を狙うコニカミノルタの松宮隆行が4位に続き、ホンダの石川が5位。そして何と自衛隊体育学校の室塚健太がトップのムサシと40秒差の34分56秒で6番目で2区に繋いだ。昨年は1区でトップのムワンギ(当時はJAL AGSに所属)から1分19秒遅れで32位と出遅れただけにこれは期待の持てるスタートだ。そして2区のエース松村真二も区間8位の力走。終盤やや追い込まれたが7位で3区に渡す。しかし、3区岩瀬真は区間31位で順位を15位に下げ4区谷末勝利も区間21位で順位を20位まで下げてしまった。5区の橘義明は昨年同区間を区間7位の力走を見せただけに挽回を期待したがタイムは昨年より56秒劣る区間24位で順位も1つ上げるに留まった。 一方の優勝争い。3連覇を狙う1区4位のコニカミノルタは2区大田崇が区間13位のブレーキで10位に順位を下げ、3区の松宮裕行は何と区間27位の大ブレーキで17位に転落してしまった。3区から主導権を握ったのは日清食品と旭化成。2区で6位の日清食品は3区でゲディオンが30分43秒の区間賞でトップに立つと4区では丸山が区間13位ながらトップをキープ。旭化成の4区白石賢一は区間4位29分41秒の力走で迫るが日清食品3区ゲディオンの貯金が大きくトップとの差はまだ1分6秒あった。それにしても外人パワーには脱帽だ。3区ではカリウキが区間2位の快走で豊田紡織は2位に浮上している。早い区間に外人ランナーを配置し上位に顔を出せばそれだけ宣伝効果も大きいと言う作戦、いや社の方針か?しかし、5区から昨年2位の中国電力がレースの主導権を握る。佐藤敦之が区間記録に17秒及ばぬものの区間2位の坪田を1分12秒離す45分14秒の区間1位で6人を抜いてトップに躍り出る。旭化成小島忠幸が区間5位の46分50秒。日清食品の10000m27分台の記録を持つ大島健太は区間22位の47分53秒。当面のライバル達をぶっちぎっての価値ある区間賞だ。そして尾崎輝人も33分49秒の区間賞でアンカーに襷を渡すが、彼のスタートからの疾走が勝負を決定付けた。あっと言う間に日清食品、板山学、旭化成足立知弥の視界から消え、結果的に取り残された二人が並走。その二人はお互い牽制し合ってしまい更に差を広げられることになってしまった。中国電力のアンカー尾方剛は落ち着いた走りで区間5位の走り。とはいっても区間賞の大塚製薬、井川重史とは5秒差の45分50秒。ゆうゆうと3年ぶり2度目の優勝テープを切った。優勝タイムは4時間47分2秒。昨年のコニカは4時間44分54秒だった。中国電力の坂口監督は“5区(佐藤敦之)まで3分以内の差なら大丈夫”とレース前に解説の瀬古利彦氏に語っていたらしい。坂口監督は早稲田大学出身で箱根駅伝優勝のメンバー。卒業後はヱスビー食品に進み瀬古利彦氏と共に実業団駅伝でも快走を見せた。そして5区の佐藤敦之も早稲田大学OB。さすが早稲田学閥。2位は昨年8位の旭化成。3位には昨年10位の日清食品。3連覇を狙ったコニカミノルタは4位。4区磯松大輔が29分37秒で区間2位。続く坪田も区間2位と追い上げたが前半のブレーキが痛かった。松宮兄弟はむしろ1区の松宮隆行が不調を伝えられていたが。昨年3位の富士通は序盤の出遅れが響き10位。自衛隊体育学校は6区横山大三郎が35分6秒の区間23位で22位に順位を下げた後アンカーの濱砂篤彦が区間12位の力走で17位に順位を上げてフィニッシュ。前年より順位を1つ下げ、タイムも2分7秒遅い4時間52分55秒。昨年の記録4時間50分48秒なら今年は10位富士通と並ぶのにと言うのは浅はかな“胸算用”だろう。昨年は出だしが区間32位と出遅れたところから徐々に先行するチームを抜き6区では濱砂が区間2位の快走を見せるなど追い上げての16位。今年こういう快走がもう1区間あれば順位はもっと良かったかもしれない。来年以降の課題だろう。そして第13旅団。1区と5区で区間36位になった以外の5区間では全て最下位の37位。5区の区間36位もホンダの選手が体調不良を起こした為。総合タイムも昨年より6分46秒も下回る5時間16分26秒。36位のNTT西日本とも11分52秒開いた。豊富な練習時間が強みのはずだ。来年は1つでも順位を上げて欲しい。
今夏の世界選手権、そして来年の五輪に向けてマラソンだけでなくトラックでも標準記録を突破してくる選手がもっと出てきて欲しい。とはいっても、私よりもずっとすばらしい選手ばかりなので口ははさめません。
俺ももっと練習すればこの大会に出れたかなぁ?いや、ぼろぼろに抜かれる醜態は晒したくなかった。だから辞めてしまったんだなぁ…. 明日朝、また公園をはしるぞぉ。体重落とすために。