Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Best is the Best

2005-11-29 | EURO Football
欧州での商用を終え帰国の道中に寄った Copenhagen 飛行場内のテレビに“Death George Best” の BBCの報道が映し出されたのは” Press and Book “ でお気に入りの雑誌と新聞を購入すべくレジに並んでいた現地時間の11月25日の午後1時過ぎであった。同日、25日付けの朝刊 Times では Cover Page には約半分を Best の顔写真に”主治医からもう余命幾許も無い、後1時間も生きられないと宣言された元 Manchester United のサッカー選手 George = Best の家族は昨夜彼の枕元に集まった“とのキャプション付きで掲載され、Reverse Cover Pageから7頁に渡り Best の特集記事が組まれた。前日24日付けの同 Times では同じく Manchester United の Roy Kean の引退記事に数頁を割いており、半頁に Best の主治医である Roger Williams 氏のコメントと彼自身の紹介が掲載されていた。 Roger 氏によると( Best は )ここ数週間,最も穏やかな表情になったがもうGeorge Best がこれ以上生き続けられる事は難しいと報道陣に答えたらしい。24日の BBC News の報道でも Bobby=Charlton, Sir Alex Ferguson らが見舞いに訪れたことを報道。かなり厳しい状況と報道されていた。その死因は重度のアルコール依存症から来る肝臓機能障害。74歳の主治医 Williams 氏は肝臓器分野の権威でもあり、5年前から Best を診察していた。最初に Best が West London にある Cromwell Hospital を訪れた際に受付嬢が彼に George=Best が来診している事を興奮気味に伝えられたそうだが、結婚暦が2度有り8人の子供がいて Sailing が趣味で最近 J92 Boat を購入した Royal Ocean Racing Club と Royal Yacht Squadron のWilliam 氏は(さすがは Times そこまで調べるか??) George=Best が誰なのかは全く知らなかったそうだ。William 氏は Best は常に私を Doctor と呼ぶほどに紳士であったとコメントしており、この病状も”多くの訪問者が一杯勧めるのを彼は断りきれなかった“と指摘。また2000年にはアルコールが死因となった人は 5,525 人であったのが、いまや年間 6,525 人にも登っていると。 その William 氏が出会うまで知らなかった George=Best こそ Manchester United の生んだ最大のスーパースターであったと認めるサポーターは少なくない。先日入手した The Unseen Archives Manchester United と言う写真集では歴代のどの選手、監督よりも多い28頁に渡って紹介されていた。Best is the Best と言う Phrase は当時のサポーター同士の挨拶替わりにもなったらしい。残念ながら私は彼の全盛期を知らない。あと4~5年いや3年生まれたのが早ければ日本代表の メキシコ 五輪の銅メダルと George=Best 観られたのにと思ったものだった。 1963年に 17歳で West Bromich Albion 戦でデビューを果たし、同年の Nottingham Forest 戦では初ゴールを挙げ 5-1 で大勝する立役者に。最も彼を有名にしたのは 1968年の Europe Champions Cup の決勝戦で Benfica Lisbon を破り England Club に初めて欧州王者のタイトルをもたらした試合であった。Manchester United 通算出場試合 466試合。通算得点は176であった。しかし、Tommy Dorcherty が監督に就任すると彼の自由奔走なせ性格が災いしチームを出る羽目に。次の所属先はなんと non League の Dunstable であった。そこでも試合になれば普段は200人程度しか集まらないチームに12,000人の観衆をもたらした。彼を気の毒に思ったのか直ぐにかつての僚友 Rodney Marsh のいたFullham FC が契約。だが直ぐ ”London を運転中に Drink Canada Dry の( ジンジャエールの宣伝)広告を見たので“と言う理由でアメリカに渡る事に。当時アメリカは NASL ( North America Soccer League ) と言う League があり、 1975年に New York Cosomos がサッカー界の神様 Pele を強引に口説き落として3年契約で復帰させ、後にItaly の キナーリャ 西ドイツの ベッケンバウアー、Hollad の ニースケンス, Brazil の マリーニョら当時の Big Name と契約、1979年には Johan=Crayff が Washington Diplomats に入団するなど世界でも話題になっていた。Best の所属は Los Angels Aztecs 。早速現地の Play Mate Girl の Linda Joinett と浮名を流す事に。”ここに来たばかりの時は Soccer って何だい?って聞かれたよ。でも今は George=Best って誰だい?ってきかれるのさ“と笑いながら英国のインタビューに答えたらしい。 引退後の彼の人生は現役時代とは対照的であったと言えるだろう。1984年には飲酒運転で警察に逮捕され、後にテレビの解説やイベントゲスト等で生計を立てていたが人前で話すことが不得手な彼には適職でなかったらしい。現役時代、英国人ではSusan George, Linda Joinett, Eva Haraldsted, , Best の歌を歌ったLucy, Toni Ceo, Jacky Glass, Silvia Hederhy, 元 Miss World の Mary Steven, アメリカ人ではHeidi Stillians, スウェーデン人のElisabeth Benson らとの女性関係が報道される様にピッチ以外でも Best はスターだった。当時 Jacky Charlton や Denis Law らが一週間に£500稼ぐところを Best は £5,000 稼いでいたと言われる。だがそれらの女性関係も2度目の伴侶 Alex Fursey を1984年に迎えることによってピリオドを打った。 だがアルコールグラスは放せなかったようだ。Alexは何度も夫がアルコールに溺れている姿に涙したと言う。そして上述した DOC. Roger Williams の初診察には彼女が付き添っていた。おそらく Best は現役時代、 当時のManchester United 監督の Matt Busby は彼の父親代わりの様に慕っていたのではなかったか?それ故にピッチ外での派手な生活も Busby の掌の中でのごとくに思っていたのか?それとも、サッカー選手になる前の貧しい暮らしが長かった事からピッチ以外ではまた貧乏暮らしになるのではとの不安に駆られ、それを紛らわしたかっただろうか? 
彼を知らない人は如何に彼がすばらしい選手だったかを知らないとTimes のコラムが述べるとおり、彼は Pele, Cryff , Beckenbauer そしてDiego Maradona らと並んで賞される選手であるべきだったが、所属代表チームであった北アイルランドは当時弱ワールドカップの舞台とは縁のない国であった。当時ある Bar で Bobby Charlton の写真の卵を投げつけたというエピソードも。5人目の Beatles とか欧州選手では南米並みのテクニックを備えたと言う様な賞賛ではワールドカップに出場したと言う実績には及ばなかったのか。だが George=Best が当時の Manchester United のサポーター達に最も愛されたと言う事実は変わらない。もう一度言わせてもらおう。Best is the Best と。

"OWEN" Shows why he is head boys

2005-11-22 | EURO Football
英国の一般紙は日曜日が休刊日になるところが多い。例えば Guardian や Daily Mirror 等がそうだ。であるから、日曜日も発行している Times ( on Sunday ) Independent on Sunday 等は売り上げを何倍にも伸ばしただろう。試合は34分に Chealse 所属の Hernan Crespo が至近距離から押し込んで先制。その5分後“ virtuoso performance : 巨匠の演技” を続けていたが Steven Gerrad の俊敏な絶好のクロスからのシュートをポストに当ててしまったRooney が Beckham のヘッドから受けたボールをサイドネットに突き刺し同点。52分には Walter Samuel のヘッドで再び 1-2 と突き放されたが敗色濃厚の86分には Michael Owen が Gerrad からのクロスを、そしてロスタイムには Joe Coles のクロスから3分間に連続してヘッドを決めて劇的な勝利の立役者となった。試合は Friendly match というよりも World Cup 等の公式戦さながらの激しさ。昨季Real Madrid でも出番が無く代表でもいい所が無かった Owen だったが Newcastle に移籍したその成果を代表のユニフォームででも出した。特に相手が Argentina , 1998年のワールドカップで St.Etienne の地で散った相手であったが、その試合では世界に名刺代わりにあの高速ドリブルでのゴールを披露。 Wonder Boy の名をさしめたが同じ Argentina 相手に歴史的な連続ゴールで復活の狼煙をあげた。Times は“今や Center Forward は点を取るだけではなく、またDFは守備に専念するだけでは不十分だ。”と御馴染みの批判的な下りからはじまった。Center Forward という今の Football では死後になりつつある単語を引用する所が Times の存在を守っている。(最近近所のサッカー少年にセンターフォワードと言ってもだれも解らなかった。まぁ3トップの布陣なんてこの20年ご無沙汰だから。), Sven-Göran Eriksson 監督をして“Owen は10分間眠っていられる、89分間でさえ。しかしゴールは生まれた。彼は眠りこけてはいない、静寂を保つだけで、すぐさま起き上がり爆発する。どんな試合でも Owen と Rooney が居れば勝利を手に入れられる。”と賞賛と自信を覗かせる。この試合に敗れれば、そして惨敗であればおそらく彼の姿はワールドカップでは見られなかっただろうが今のもう誰もそんな想像はしないであろう。 だが Eriksson 監督のコメントは的を得ている。この試合Owenの得点シーンを除けば才色を放っていたのは Rooney の方であった。だが Owen は言う“My game is not Wayne Rooney’s game,” “私の特徴はチャンスを見出したり、今ボールが何処にあるかを見たりそれが何処に出るかを見極めたチャンスを嗅ぎ付け、それを得点する事だ。他の選手は異なった特徴を持っていて、誰も私の様な特技を持っていない。“ 日本でこんなコメントをすれば無知なマスコミの格好の餌食になるだろう。だが Owenはこの試合で代表出場79試合目の通算35得点目。まだ25歳、Sir Bobby Charlton’sの持つ、 Garry Lineker が届かなかった代表通算記録49得点を遅かれ早かれ破るだろうとの事。だが Charlton の時代は今の様に代表試合が多かった訳でもないので簡単に比較する事は出来ないだろう。The Independent は“Wayney proved a man of the world : Wayney ( Rooney ) が man of the World を証明”との見出し。おそらくこの日ワールドカップ予選を含めて世界各地で行われた代表Aマッチのなかで最もレベルの高い Performance であったとの事であろう。だが Times はまだ Rooney は Owen の域には達していないと。その1つに Rooney のヘディングを挙げている。 Owen 自身、決して ヘディングの才能に恵まれてはいないが彼の左足同様に2002年当時 Liverpool の監督であったGérard Houllier の Lesson から 2002年 Anfield で行われた Paraguay 戦で結果を出し、それが先の Argentina 戦の連続ヘッドの成果に繋がっているとの事だ。あの Maradona もゴール前で大男に囲まれての中のヘッドもなかなかであった。 一方の 戦術とDF陣。まず Eriksson 監督は前線とDFをコンパクトに保つ戦術を適用。これはフルバックタイプの Gary Neville と Ashey Cole が不在の為。 Rio Ferdinand の後方で献身的に動くJohn Terry の登場は同じタイプのこの日は起用されなかった Sol Campbell にとっては脅威か? Eriksson 監督が Ferdinantd を使わない実験を試みなかったのは歴代の監督 Terrry Venables, Glen Hoddle が好んだ 3-5-2 system に固持するのか中盤の底として Ferdinand を起用するのか? Tottenham の Ledley King のプレーは Argentina の様な強靭なFW相手でも通用する Joe Cole の代役になることが証明された。 Steven Gerrad は本来 Cole のいる左サイドで起用され今年初めて Wayne Bridge が登場。45分間の与えられたプレーの中で試合前に Eriksson に勧められた Full Back の位置から前線に飛び出すことを忠実に守り、Paul Knochesky と交代した。また Frank Lampard は守備的な位置を保ち続け 攻撃の潜在性の披露と異なりJuan Riquelme の番人を務めた。これはこの試合の Big Surprising の1つでもあった。 一方の Argentina 先日の Manchester United 戦での起用を巡り揉めていた Mourinho 監督と和解したばかりの Hernan Crespo は切れまくっており21歳の Carlos Tedez と共に何度も Attacking Area に侵入を果たした。また Man Mark を好まない Riquelme は相対する Ledley King があまり密着しないので comfortable にプレーできただろう。それと Inter Milan の Javier Zanneti はボールの無いところでも随分と Rooney をチャージしていた。ここに彼の真骨頂があるのか? Diego Simeone の後継者は 1998年のSt.Etienne でEngland 相手にロスタイムで同点ゴールを決めた Zanneti で決まりか?  来年日本代表は Argentina か England と同じグループになる可能性が25% ある。この England vs Argentina の試合をテレビで見る限り1次リーグの突破は容易でない事を再確認させられた。

The day for England

2005-11-19 | EURO Football
先の11月13日から世界各地でワールドカップ予選の Play offが始まった。そして既に本戦出場を決めた各大陸の代表も強化に余念が無く、Aマッチも各地で繰り広げられた。当日は日曜日と言うこともあり、他のスポーツイベントも多く行われたが、当日はまさに “England の日”と形容されても過言でない。Cricket では Pakistanを、Rugby では Australia War rabies をそしてスイスの Geneva で行われたサッカーの A マッチは終了間際の Owen の連続ゴールで宿敵 Argentina を降した。この試合の二日前、英雄 Diego Maradona が兼ねてからAFA ( アルゼンチンフットボール協会 ) 会長 Julio Grondona 氏のワールドカップに向けての代表チームへの協力要請を同日のラジオインタビューで“今、代表に関わるのは Best では無い”とコメントしやんわりと否定。今だ同国では我々の想像以上にカリスマ的な存在であるのだろう。だが欧州、特に England では少し違うようだ。地元のサッカー雑誌 4-4-2 では“疑惑判定ベスト30”という特集記事が掲載され、1位は想像通り 86年メキシコワールドカップ時のあの “ God Hand “ でその所だけ全ページ大きな写真付きで解説されていた。Maradona の“母国”との対戦デビューは 1980年の Wembly Stadium での親善試合で England が Kennedy, Keegan 等のゴールで 3-1 と勝利している。この両国の対戦も色々な話題を残している。その発端は 1966年のイングランドワールドカップ、準々決勝での対戦で大いに荒れた試合を最後は England が制したが、他の準々決勝では西ドイツと Uruguay が同様に荒れた試合となり、欧州のマスコミが南米勢を “ Animal “ と称するその発端となった。これに対して南米勢も Brazil の Pele への悪質なタックルをファウルに取らないで何が Animal だと猛反発。こういう時は結束する南米勢も??と思われたが、欧州対南米間での激論の引き金に。1982年、軍事政権下で不況にあえぐ アルゼンチン はフォークランド諸島に軍隊を派遣しその地を “マルビナス諸島” と主張。しかしすぐさま”鉄の女” サッチャー女史政権下の英国が軍隊を派遣して アルゼンチン軍隊を撃退。“人の土地は簡単に取れないのよ”と言ったかどうかは解らない。そしてアルゼンチン軍事政権の崩壊に繋がる。以降 Maradonaの神の手、98年ワールドカップでの Beckham の退場、そして4年後札幌でのリベンジと話題は尽きない。
13日の試合が中立国 Geneva で行われたのも両国間の関係を考慮してか? この勝利で England はArgentina とは14戦中6勝目を挙げた事になった。 Argentina は England にこれまで3勝を挙げている。1986年の“神の手”、それから 1998年ベッカムが退場にされたフランスワールドカップ(ただし普通PK負けは(勝も)引分と記録するんだけどなぁ?? となるともう一試合はいつだろう??  続く

Die Erste Liebe vom Leipzig

2005-11-18 | EURO Football
Leipzig は雨だった。でもおかげでまだ気温は平年並みには下がらなかった。来年開催される FIFAワールドカップの開催地の中で Leipzig が唯一、旧東ドイツ領からの開催都市に選ばれた。旧東ドイツ都市からの開催と言えば Dresden が一時は有力視もされていた。ここにはかつて Dynamo Dresden と言う強豪チームがあり、統一直前の 1990-1991年の Europe Champions Cup では マシアス=ザマー を擁して ベスト8に進出したが、準々決勝での優勝した Crvena Zvezda ( レッドスターベオグラード ) 戦で敗退が決まると観衆は暴徒と化した。今回の Dresden が開催会場から漏れたのもそれが遠因になっているか? ドイツ統一後、旧東独チームの衰退は激しく、Dynamo Dresden は今2部の16位に低迷している。統一後、東独リーグ上位2チームがBundesliga に組み込まれ, Dynamo Dresdenと Hansa Rostok を含めた20チームで1部リーグが構成されたが Rostok は18位に終わり直ぐに降格。 Dynamo Dresden は14位に終わり降格は免れたが以降の順位は 15位,13位と常に残留争いに参加。そして 94-95 のシーズンは最下位に終わり、以降まだ1部昇格は果たしていないが替わって Hansa Rostok が再び 95-96のシーズン から昇格、そのシーズンにいきなり6位に。以降 97-98 も6位、03-04 は9位と一桁順位にまで上がり10シーズン1部 リーグ に残った後昨 シーズン は17位で降格してしまった。他の旧東独地区にチームでは01-02, から2シーズンEnergen Cottbus が 1部リーグでプレーをし今は2部の3位につけ来季の昇格を狙っているがこの Home Town も Leipzig ではない。Leipzig をホームにするクラブチームは今Bezriksklasse (日本の都道府県リーグにあたる)所属する Lokomotive Leipzig や SG Olympia 1896 Leipzig, SG Mo Go No Leipzigらがあるが、Bayern Munchen や Werder Bremen と相対するのはいつの日だろう。来年のワールドカップ以降、これらの チーム が立派な Leipzig Arena を本拠地にするのかしら?東独代表のハイライトは何と言っても 1974年の ワールドカップ西ドイツ大会。結果的に最初で最後のワールドカップ出場となったこの大会ではグループリーグの最終戦で西ドイツと対戦する。既に東西ドイツは2次リーグ進出を決めていた。ベルリンで行われたこの試合は Sparrwasser のゴールで東ドイツが勝利をものにする。だが収穫のあったのは敗れた西ドイツの方だった。この敗戦により2次リーグでは、Johan=Crayff 率いる Holland 、連覇を狙う Brazil とは別のグループとなり決勝戦への道を短くなだらかに出来た。もう1つは大会前から物議を醸した 1972年欧州選手権優勝の英雄 ギュンター=ネッツァー の起用だった。チリ、オーストラリアに連勝するもネッツァーの出番は無かった。東ドイツ戦では得点の入らない自国の試合振りに業を煮やした観衆が “ ギュンター!ギュンター!“と彼の出場を促す。そしてSchoen監督はネッツァーを送り出す。大歓声を受けてようやく地元ワールドカップのピッチに立ったネッツァーであったが、上述した Sparrwassr のゴールに西ドイツは沈む。これで Schoen監督の、ネッツァーの様な芸術家よりも、ボンホフ、オベラーツ、ヘーネス、グラボウスキーといった労働者タイプの有用性の証明を世論に示す事ができた。以降ネッツァーはベンチにも入れず、優勝の瞬間は観客席にいねばならなかった。だがスタンドから主将のベッケンバウアーに握手を差し出すその姿は紳士そのものであった。そして東ドイツは2年後のモントリオール五輪で Poland を破り金メダルを勝ち取る。しかし期待されたアルゼンチンワールドカップは シャヒナー、クランクル、ペッツィらを擁したオーストリアの前に連続出場を阻まれ、オーストリアは本大会でも38年ぶりに西ドイツを破ってしまう。1980年の欧州選手権予選、東ドイツは Poland, Holland と同じ組に分けられた。冷戦時代の欧州ではスポーツと言え東側諸国には気が使われた。当時の Champions Cup でもまず共産国同士で1回戦を闘ったものだ。それでもこの欧州選手権の組み分けは死のグループと言えた。3カ国の激戦が続き、最終戦 Leipzig での Holland戦を残して東ドイツが単独首位に立つ。Holland は74年のメンバーから Crayff, Rensenbring, Neeskens, Rep, Haan らが抜けたがアジア系の Simon=Tahamata, Chu=La Lin らが入ってきた。最終戦も激しい試合となり前半で東ドイツは2点を先制する。そして La Lin と東ドイツDF が乱闘を始めて退場に。Holland はいよいよ苦しくなるが、後半に何と3ゴールを東ドイツゴールに叩き込み翌年イタリアで開催される欧州選手権出場を決めた。しかし、その後 Holland が ワールドカップに再登場するのは フリット、ファンバステン、ライカールト の登場まで待たねばならず、それと入れ替わりにベルリンの壁は崩れた。今 Leipzig の街を歩く建物等いたる所に共産圏時代の名残を見出せる。中央駅はショッピングモールと化しているがこれは旧東独の特徴だ。他に改造できる建物が無いのだ。失業率も旧西ドイツ地区よりも高い。最近ここに設立された工場には雇用促進の為に国から補助が出ている。その制度に旧西ドイツ地区の人々は不満を隠さない。ここの工場で働く若い人は少ない。聞けば Berline や Frankfurt に仕事を求めて行く人が今も絶えないらしい。ここで働くおばさん達は英語を殆ど話さない。ロシア語なら結構話す。これも共産時代の名残だ。こちらも習いたてのドイツ語と知っているロシア語の単語を並べて話し掛けるとみな満面の笑みで会話の中心に据えてくれる。”結婚はしているのか?子供は?この後どこに行くのか?“これも共産時代の遺物だ。だが、こういった”財産“は永遠に残して欲しい

Socceroo ついに悲願達成 !!

2005-11-17 | Aussie & Kiwi
今朝のLeipzig 、雨は上がっていた。ここの Hotel には EUROSPORT Channel が映らない。当地時間の10時からワールドカップ予選の Playoff , Australia vs Uruguay の中継が予定されているらしいが、それを確認する術が無い。6月に欧州を訪れた時は番組表に何と Manama で行われた ワールドカップアジア地区予選 の Bahrain vs 日本が中継されると書かれてあった。にもかかわらず、テニスの試合を中継されて失望した記憶がある。朝8時前の Inter City Express に乗れば次の訪問先 Berline の常宿には確実に EUROSPORT が観れるのだが。結局私は日課のジョギングを済ませて10時前の ICE で Berline に向った。チェックインしたのは午前11時半。荷を解く前にテレビを点けると、予定通りに試合が中継されているではないか。あぁ後悔の嵐、ジョギングなんかするんじゃなかった、と本当はもっと早く起きれば良かったのだが。試合は83分を過ぎていたが 1-0 で Australia が リードしていた。しかし、このままなら前後半15分ずつの延長戦に突入する。だが延長戦になれば、Montevideo で無得点の Australia が不利だ。だが結局 3分の ロスタイムを使っても勝負は付かず決着は延長戦に持ち込まれた。その延長戦、開始1分 Australia が攻め込み CK を得るが空中戦は難なく Uruguay が制する。93分には今度は FKのチャンスから延長戦最初の シュート を Uruguay が放つがゴール枠は捉えられない。その直後に今度は Australia が攻め上がるがこの日5つ目の オフサイドを取られる。ここまで Uruguay は オフサイドは無い。ここで Hiddink 監督は LIGA ESPANOLA の ALAVES 所属、昨年の FIFA Confederations Cup で4得点を挙げた Aloisi を この日の得点者Bresciana に替えて投入すとその3分後Uruguay のFossati 監督 も 初戦では使われなかったMario Regueiro に替えて Fabian Estoyanoffを投入した。 Montevideo での試合同様 Estoyaoff は右サイドから好機を演出する。99分には Estoyaoff の突破から得た CK を繋ぎ最後はDario Rodriguez が全くのフリーで放ったヘッドは クロスバー を越えてしまった。 Uruguay はFW陣の高さやテクニックといった個人で打開できる能力を持つ選手が Australia はそういった選手は Harry Kewell 頼みでこの時間帯はそれがそのまま出ている。
100分にはMark Viduka と Dario Rodriguez が小競り合い。しかしここは注意だけに。その直後 Uruguaはまたも右サイドの Estoyaoffの突破から波状攻撃を仕掛けるが Australia も必死の守り。第1戦も同様であったが試合が終盤に入ると Uruguay に攻め込まれる場面が続いた。個人技で優る Uruguay FWに対応するのは数的優位や早い動きを保たねばならないが、スタミナ切れが起る終盤はピンチを招く場面も。しかしその直後 Kewell が左サイドを疾走、最後はDFが3人の係りで止める。102分には Emerton のミドルが炸裂するがわずかにクロスバーを越えた。延長後半の109分に、 Hiddink 監督は Skoko を Emerton に替えて投入。これで中盤のためが出来て Australia の攻勢が続く。113分は波状攻撃、115分は Skoko のミドルと惜しい場面が続く。一方の1ゴールを決めれば大きく1歩ワールドカップに近づく Uruguay も最後の力を振り絞る様に 116 分に Richard Morales がミドルを 117分には Estoyaoff がゴール前の混戦からヘッドで狙うが力なく GK Schwarzerが掴む。そして延長戦でも勝負はつかず、勝負はPK戦に委ねられた。ワールドカップの出場が PK 戦 で決まるなんて過去あったかしら?と記憶を巡らせるが…. だがここで PK 戦で勝敗と言うよりもワールドカップへの出場権を決めるのは本当に非情だ。PK戦の前に Australia の Schwarzer, Uruguay の Fabian Carini が抱き合ってお互いの健闘を誓い合う。だが若い Cariniには少し酷かな? Schwarzer は4年前から Australia Goal を守っている。 Australia は1人目 Harry Kewell が登場。この日は前半30分からの起用なので怪我で長期離脱からくるスタミナの心配は無いか?冷静に左隅に決める。一方の Uruguay はDario Rodriguez。右隅を狙ったライナーのショットは GK Schwarzer がストップ。第1戦から Schwarzer は本当に当たっている。 Australiaが以降 Neil, Vidmar と冷静に決めれば Uruguay も二人目 Gustabo Varela( 初戦はメンバー入りされず。 怪我のDiego Forlanの代わり第二戦に呼ばれた)、三人目 Estayanoff が決め、 Australia の4人目 Mark Vidukaが登場した。ここで決めれば Uruguay の4人目は外せない、かなり優位に立てる。しかし、タイミングを外して右隅をグラウンダーで狙ったシュートは右ポストの更に右を通過し外れてしまった。 86,000 人が詰め掛けたTelstar Stadium には静寂に包まれる。4年前の決定機を外した事がオーバーラップされるか?しかし、ここで再び Schwarzerが Zalaveta のショットを防ぎ、ワールドカップに王手を掛ける。5人目 は途中出場のJohn Aloisi Austrlia国民 2,000万人が見守る中、Carini の左側を破り、その瞬間4年前のリベンジを果たすと共に32年振りに再びドイツの地を踏む事に。 この試合と言うよりも Playoff の ヒーローは何と言っても GKのSchwarzerだろう。しかし献身的な守備を粘り強く続けた Lucas Neilも忘れてはならない。 そしてGuus Hiddink 1,2戦のスタメンの構成、交代選手の使い方は流石だった。そして恐らくこの試合を中継したであろう地元テレビ局 SBSに敬意を表すると共に昨年無くなった元 Socceroo の Johny=Warrenが存命ならと思えてならない。全ては積み重ねだ、その成果がこの試合であろう。 しかし、他国の結果にこんなに一喜一憂するなんえ私も典型的な日本人サッカーファンなのかもしれない。だが日本は既に本大会出場を決めている。恐らくこれを幸福というのだろう。最後にこの結果を報道した地元テレビ局のアナウンサーの言葉を引用して " Wellcome to Germany "

トリニダードトバゴ

2005-11-16 | FIFA World Cup
明日行われるPlay Off の第二戦で今回の全てのワールドカップ予選が終わる。おそらく?? 欧州では3試合、 Australia の Sydney, そして Bahrain の Manama 。その Manama には北中米地区第4位のTrinidad & Tobago が乗り込む。恐らくこの国の名前をこのワールドカップ予選で憶える人も多いだろう。  最初に私がこの国の名を知ったのは 1976年の Montreal Olympic の時だった。五輪種目で最も注目される 男子の100m に優勝タイム10秒06で金メダルを勝ち取ったのはトリニダードトバゴからのスプリンター、クロフォードと言う選手であった。彼が母国に史上初の金メダルをもたらした。しかも100mで、アメリカの選手や連覇を狙うソ連のボルゾフそしてもう一人の候補ジャマイカのクウォーリを抑えてだ。この時中継していた NHKのアナウンサーがゴール後に“トリニダードトバコ、トリニダートバゴのクロフォード1着”と叫んで、私はどちらの名前が選手の名前か判らなかった。この結果には米国陸上競技界は相当なショックだった。前回の Munchen 五輪でも同種目の優勝をソ連のボルゾフにさらわれ、2大会連続での敗戦となった。1980年の Moscow 五輪、米国はソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗議して出場をボイコットしたが、例えアフガン侵攻が無くても米国がこの種目には勝てなかったと断言する。何故なら当時欧州ではこの種目連戦連勝だった英国の アラン=ウェルズと言う選手がおり当然の様に Moscow 五輪でも金メダルをさらった。この種目でのタイトル奪回は Carl Lewis の出現を待たねばならなかった。陸上競技の話題はこれくらいにしてサッカーでもワールドカップまであと1歩まで迫ったことがあった。1989年、翌年開催されたイタリアワールドカップの当時出場枠が2つあった北中米地区、絶対候補のメキシコが前年のFIFA U-20 に年齢詐称をした選手を起用し出場停止となっていた。地区予選ではまずコスタリカが予選を突破。もう1つの出場枠を巡りアメリカとトリニダードドバコが激しく争い、最終戦を前にトリニダートドバゴが勝点でリードし、地元 Port of Spain にアメリカとの直接対決を迎え、この試合に引分けてもイタリア行きが決まるところだった。当日のトリニダードトバゴは建国記念日、スタジアムは国旗を彩った赤色のシャツ一色に塗られ、観客の誰もが自国のワールドカップ出場を信じて疑わなかった。試合は地元トリニダードトバゴが大観衆の声援を受けてアメリカゴールに迫る。だがアメリカはセンターラインを越すことすら出来ない。文字通りトリニダードトバゴの得点は時間の問題であると誰もが思った。しかし先制点はアメリカだった。後半初めて相手陣内に入り、Budesliga でもプレーした経験のあるカリギウリのループシュートがそのままネットを揺さぶった。それでもまだ時間もあり引分でも良いトリニダートドバゴには余裕があった。しかし、先制点にアメリカも自らを勇気付け、必死の防御を。ペナルティーエリア付近を7~8人で固める。そして遂にタイムアップ、その瞬間土俵際を徳俵でこらえたアメリカの選手達がグランドの真中で折り重なって号泣して喜ぶ姿が映し出され目前の光景を受け入れられない観客は静まり返った。だが誰一人取り乱すものはおらず、非常に紳士的にスタジアムを後にした。この観客にFIFAはフェアープレー賞を公式に与えた。試合後40年ぶりにワールドカップ出場を決めたアメリカの選手は“これは歴史的な事だ。スーパーボウルやワールドシリーズなんて問題にならない”と語った。欧州、南米以外にもサッカーは存在する。12日、Port of Spain のHasely Crawford Stadium での試合は後半にSalman Issa のゴールで Bahrain に先制を許したが試合開始から主導権を握ったのはトリニダードトバゴであった。開始7分にはAurtis Whitley が27mのロングシュートを放つが GK Ali Hassan の美技が阻む。14分にはCarlos Edwards が左サイドを突破しペナルティーエリア内に侵入するも再びAli Hassan がブロック。24分にようやくペースを掴みだしたBahrain は日本戦で自殺点を献上したMohammed Salmeen からのパスを受けたAl Gharrafa がトリニダードトバゴGK Kelvin Jack が弾き出す。Bahrain は昨年のアジアカップで得点王だった Ala’a Hubail がおらず同じく得点王のHussain Ali のワントップで厳しい。40分には Australia Sydney FC と言うよりもA-League のスーパースターDwight Yorke がヘッドを放つが三度目のAli Hassan の美技を引き出すに終わった。後半に入るとAlaa Hubail が投入される。その彼がチャンスを何度も作る、68分から5分間で4回のコーナーキックを得、73分にコーナーからTalal Yousef、Sayed Mohammed Adnanと繋ぎ最後は. Salman Issa のショットが決まった。しかしその3分後 England 生まれでEngland の Port Vale に所属するChristopher Birchall がロングシュートを Bahrain ゴールに捻じ込み同点とした。その後も大歓声を背にDwight Yorke, Stern John そして Russell Latapy の攻撃陣がゴールに迫るが逆転はならなかった。同点ゴールを決めた England 生まれのChristopher Birchall はこの Playoff の直前に代表入りした。そして Dwight Yorke はかつて David Beckham らと共に Manchester United でもプレーし Champions League のタイトルも勝ち取っている。ここまで書くと“何故貴方はウズベキスタンやトリニダードトバゴといった Bahrain の相手ばかり応援するのですか?”とお叱りを受けそうだが、ここは16年前にあと1歩と迫った、そして A-League のスター Yorke のいる、そして先日 横浜FCと契約を交わした Silvio Spann そしてArnold Dwirika が中国甲Aの広州に所属しており、こちらの方が東アジアになじみのある気がするのだ。またGary Glasgow 、Kelvin Jack (Dundee), Marvin Andrews (Rangers), Russel Latapy (Falkirk) Jason Scotland (St. Johnstone) らは Scotland で中村と相対することも(所属先では殆ど使われないからそれは無いかも??)西アジアの Bahrain よりは親近感を感じるのだが。

それ行け Socceroo その2

2005-11-16 | Aussie & Kiwi
決戦を明日に控えた Socceroo 達であるが、Duke こと Mark Viduka は本当にこの試合に全ての競技人生を賭けているのではないか?2本のシュートはバーをかすめ、直接FK は Fabian Carbi の美技を引き出しただけに終わった。4年前、決定的な好機を逸したその悪夢はまだ拭いきれていないであろう。また試合直後 Hiddink 監督は“私はこの結果に満足していない。前半は我々が支配していたが決定力に欠けた。そしてあのFKの時に緩慢になり失点を喫した。Uruguay は Sydneyでは守備的に来るだろうし、彼らは守り切る術を知っている。今日の結果には複雑な心境だ。”と語った。Lucas Neil コーチは“我々は良く闘ったがゴールを決められたはずだった。だが彼らを誇りに思う”また“何点か獲るチャンスがあっただけに得点出来なかった事は残念だ”とも Hiddink 監督に追随する様に付け加えた。  この試合 Hiddink 監督は所属先の Crystal Palace で殆ど出番のなかったTony Popovic をスタメンで起用しLjubo Milicevic. をベンチにおいた。また怪我からの回復間もないHarry Kewell ,Archie Thompson もスタメン入れたが Everton 所属のTim Cahill 、Marco Bresciano らはベンチスタートとなった。 またUruguay のFossati g監督も怪我で体調万全ではない Diego Forlan を起用する賭けに出たが開始 17 分、負傷のためベンチに下がった。 
試合は開始からアウェーの Australia のが主導権を握る。最初のチャンスは Australia だ。Viduka が3人のDFをすり抜けて最後に撃ったchip shot は GK Carini を破ったが僅かに Far Post をかすめた。Thompson とViduka は相手DFを翻弄しViduka のマーク役のDiego Lopez は苦心を重ねる羽目に。12 分には ゴール前25m のところで得た FK をViduka が直接狙うもGK Carini の美技に阻まれる。 Uruguay はロングボールを多用、しかし好機はInter Milan のRecoba からのFK頼りであった。Recoba の直接FKは Australia GK Mark Schwarzer, に容易に捕まれ、その後、再び Recoba のFKからのCarlos Diogo のフリーのヘッドは再びSchwarzer の正面であった。その後ようやくUruguay も中盤を支配する様になった。そして36分、 Rodriguez がRecoba からのAustralia から見て左サイドの位置で得たFKを頭で合わせて Schwarzer を破り待望の先制点を上げた。このFK、FC Basel 所属のScott Chipperfield がボールの無いところでCarlos Diogo の肩を掴んだと言うことでFKが与えられたがその前に Diogo が Chipperfield に何か言ったらしい。正に Uruguay らしさがでた得点だ。もしUruguay がワールドカップ出場を決めるような事になればMVPは Carlos Diogo だろう。 後半になっても Australia は好機を掴みつづける。再び Viduka からのクロスの合わせたChipperfield のショットはGK Carini を破るが数インチ、ポストを外れた。 そして Hiddink 監督は Thompson に替えてMarco Bresciano を投入しKewell を更に前線に配置する。そのBresciano がペナルティーエリアに走りこんでシュートを放つが僅かにクロスバーを越えた。
その数分後、今度はRecoba がロングボールに走り込み Australia DF を振り切り 最後は GK Schwarzer と交錯して倒れる。PKを強調するが主審のClaus Bo Larsen 氏はPKを認めない。Recoba は執拗に食い下がるが判定は当然変らない。しかし、Replay で映し出されたシーンでは Scwarzer は全く Recoba の身体に触れていなかった。 Fossati 監督は 63分Marcelo Zalayeta に替えて Fabian Estoyanoff を負傷の Diego Lopez に替えてGuillermo Rodriguez を投入した。 この選手交代は非情に効果的で Estoyanoff は( Australia 陣から見て)右に大きく開くことによりChipperfield の上がりを抑える働きをした。そして Uruguay が主導権を握る。 75分今度は Australia GK Schwarzer が決定的な仕事をする。左サイドに侵入したMorales の至近距離からのショットを左手一本ではじき出し追加点を阻んだのだ。その2分後 Jason Culina の30mのロングシュートはポストを掠めた。最後の10分は Uruguay はMorales の高さを狙う。Richard Morales は4年前の Australia 戦でも得点を決めているが、この試合は無得点に終わる。結局ホームの Uruguay が 1-0 で勝利を収めたが、満員のCentenario 競技場から上がった歓声は4年前とは少し異なるものであった。 試合後 Uruguay の選手達は飛行場に直行し Chile の Santiago 経由で Sydney 入りする事に。一方 Socceroo 達はQantas 航空のチャーター機で翌日に出発。4年前の Play off では、Melbourne での試合の翌日、 Australia, Uruguay の選手達が呉越同舟よろしく同じ Qantas の飛行機で Montevideo に向った。今度はSocceroo 達の Main 中の Main Sponsor である Qantas がチャーター機を準備。日本人旅客の間ではすこぶる評判の悪い Qantas の Aussie の Stewardess のおねぇちゃん達。しっかり選手達の面倒をよろしくね。それから Australia は累積警告で Sydney の試合に出られない選手がいない事も強みだ。Uruguay は攻撃機の柱Diego Forlan の出場が危ぶまれている。だが100戦練磨の Uruguay 彼らにどう挑むか?何度も訪れている Sydney にこの時期に行けないのが悔しい気がする。明日16日 Telstar Stadium 午後8時、運命のキックオフが。
しかし、こうやって他の国の予選を心配できるなんてなんて幸福な時代なのだろう?出場枠拡大に感謝だ。

Match Details
Uruguay 1 (Dario Rodriguez 37’)
Australia 0
Uruguay Line-up: Fabian Carini (gk), Diego Lopez (Guillermo Rodriguez 63’), Paolo Montero, Dario Rodriguez, Carlos Diogo, Pablo Garcia, Diego Perez, Alvaro Recoba, Diego Forlan (Dario Silva 17’), Marcelo Zalayeta (Fabian Estoyanoff 63’), Richard Morales
Subs Not used: Marcelo Sosa, Martin Parodi, Mario Regueiro, Sebastian Viera (gk)
Cautions: Dario Silva (23’), Dario Rodriguez (91’)

Australia Line-up: Mark Schwarzer (gk), Lucas Neill, Scott Chipperfield, Tony Vidmar, Tony Popovic, Brett Emerton, Mark Viduka (John Aloisi 80’), Harry Kewell, Vince Grella, Archie Thompson (Marco Bresciano 53’), Jason Culina
Subs Not used: Tim Cahill, Josip Skoko, Ljubo Milicevic, Zeljko Kalac (gk), Luke Wilkshire
Cautions: Scott Chipperfield (30’), Tony Vidmar (71’)

それいけ Socceroo !!

2005-11-13 | Aussie & Kiwi
昨日12日は世界各地でワールドカップ予選のプレーオフが開催された。そして既にワールドカップへの出場を決めている各国はAマッチを組み来年に向けての強化に余念が無い。ホスト国となるドイツはフランスと引分、2大会振りのオランダはホームでイタリアの攻撃に散った。イングランドは宿敵?アルゼンチンを終了間際のオーウェンの爆発で葬った。 私の最も関心の高い試合はウルグアイの首都モンテビデオはCentenario stadium で行われた ウルグアイ対アルゼンチン の一戦だ。オーストラリア は早々と オセアニア地区の予選を突破し、南米5位の相手を待っていた。その相手は10月12日の予選最終戦でアルゼンチンをAlvaro Recoba のゴールで降し5位に滑り込んだ ウルグアイ だ。この両国は4年前もプレイオフで対戦をしており、オーストラリアのメルボルンで初戦を 0-1 と落とした ウルグアイ が ホーム モンテビデオ で行われた第二戦を 3-0 で勝利を収め12年ぶりの本大会出場を決めた。歴代ワールドカップ優勝国は7カ国あるが優勝を収めた後に2大会連続で地区予選を突破出来なかった国はウルグアイだけではないか?それだけ弱体化が激しいのか?それとも最後に優勝したのが 1950年ブラジル大会と言う時代の流れに取り残されたのか?4年前ワールドカップ出場を決めた勝利の喜びに沸くお祭り騒ぎのモンテビデオである一般市民がオーストラリアからのジャーナリストの肩を抱いて、“オーストラリアには色々なスポーツがある。ここウルグアイにはサッカーしかない。12年もワールドカップに出場出来ないなんて考えれない。”と言い残しお祭りの雑踏に消えていったとの事であった。
だが、86年スコットランド、94年アルゼンチン、98年イラン そして前回の ウルグアイ と4度も他大陸とのプレーオフの軍門に下ったものの今回こそはAリーグの開幕でサッカー人気に火が点いた事もあり、もう簡単には引けない。これまでのプレーオフではイラン戦以外は欧州、南米も列強と当り分が悪かった、しかし欧州でプレーする選手が増え前回はウルグアイ相手でも後1歩にまで迫れるようになった。昨日の試合、Liverpool でプレーするエース Kewell は負傷から回復したばかりでまだ本調子ではないが、Midllesbrough の Viduka, Everton の Tim Cahill, Mark Bresciano, Vincenzo Grella の Parma コンビと各ポジション4年前を上回るものと思われる。また今夏の FIFA Confederations Cup では Alaves ( Liga de Espanola ) のAloisi がアルゼンチン、ドイツ相手に4得点を挙げており、攻撃力もかなり上がっていると思う。
昨日12日に行われた緒戦は地元の Uruguay が Recoba の FK からRodriguez ( Shalke 04 ) のヘッドで挙げた1点を守りきり勝利を収めたが、攻撃の柱Diego Forlan が20分で負傷の為 20分で退場し次戦への出場が危ぶまれている。 この8月から Guus Hiddink に率いられるオーストラリアは1点差のビハインドに自信を覗かせるが、Hiddink 監督は“アウェーゴールは脅威になる。1-2 の敗戦の方が良かったのだが”といたって冷静だ。この試合も何度かカウンターで相手ゴールに迫り、コーナーや、反則で止められたFKを得たりと好機を何度も与えのだが。
16日、シドニーの Telstar Stadium での第二戦、今度は 3-0 で勝利を収め3年前の反対のスコアーでリベンジを果たしたい。 

From Kaunas without Heart ?

2005-11-07 | EURO Football
中村俊輔の Celtic 入りで俄かに日本でも注目を浴び始めた Scotland Premier League 。Celtic も首位争いを演じており俊輔の活躍は毎週の楽しみである。その Celtic と首位を争っているのは例年と異なり Edinburgh を本拠地とする Hearts だ。開幕6戦全勝でトップを独走していたが先週の Hibernian 戦を0-2 で落し、Celtic と勝点で並ばれはしているが、ここ何十年に渡って Celtic と Rangers の Glasgow 勢にタイトルを独占され続けていた Edinburgh のサポーターにとっては興奮冷めやらぬ毎週末を迎えている事だろう。この Edinburgh と言う街は70年代の中期から日本でも大流行したアイドルロックバンド Bay City Rollers のメンバーの出身地だ。Bay Bay Baby, Saturday Night, Yesterday’s Hero と言った当時のヒット曲を思い出す人もいるのではないか?だが、この Hearts 今他の面でも Scotland Premier League の話題の中心にもなっている。ここのチームは今季からバルト3国の リトアニア共和国の富豪 Vladimir Romanov によって経営がなされ、早速本拠地の Tynecastleから出て行かなくて済む様に負債£2,000万の肩代わりをしサポーターの支持を取り付けた。その他にも戦力を整備する為に選手獲得の投資に惜し気もなく大金を投じ、今季は Rangers には勝利を収め、 Celticには引分ける等その効果は直ぐに現れている。しかし、このチームをリーグの“台風の目”にまで育てた George Burly 前監督が退任した10日後の10月31日に George Foulks 会長と Phil Anderton chief exective の解任を発表し、その両職の後任には何と息子の Roman Romanov を任命した。そして Roman は早速後任監督としてClaudio Ranieri , そしてSir Bobby Robson 氏との交渉を始めていると報じられているが、 Rainieri 氏とは金銭面で折り合いが着かないらしい。 この突然の会長、Chief Exective の解任に就いてRomanov 氏はスポークスマンを通じてBBC のReporting Scotland:と言う番組に “彼らはこの1年に渡って私が求めていることを出来なかった“とコメントしている。 また Foulkes氏は解任の10日前に Romanov会長が持ち株の保有率を 29.9% から55%に増やす為に新たに株を買い取りする事を認めたとコメントしている。この事から Romanov 氏がFoulkes 氏の解任のチャンスを伺っていたと勘繰られても仕方ないであろう。               Foulkes 氏はこのRomanov のコメントに激しく反駁する。 “Mr Romanov は既に筆頭株主として充分な事をして来た。これ以上 Owner として何が出来るのか?彼のポジションとしてすべき事を論じよう。1月には将来の選手獲得へ惜しみなく投資を行い、グランドを整備し,快適さを支配下においた。それらは私が行ったことであろう” とコメントしている。しかし、更に不可解なのはGeorge Burley 監督の解任とその説明がなされていないことだ。昨年4月まで半年に渡り Hearts を指揮した、このクラブの通産得点記録保持者でもあるJohn Robertson はこの“Romanov Revolution. “については批判的、だが一方のRomanov 氏は”眼中に無い“という内容のコメント。 このRomanov 氏の野望は 2007年までに Champions League で優勝することだそうだ。1979年に England の Nottingham Forest が2部から1部(今の Premiership ) 昇格、1部優勝、Champions Cup 優勝の3段飛びを実現させ、翌年連覇も達成したが、今の Champions League では少し?? かつてこのクラブの最後のタイトル1998 年Scottish Cup を制した時の監督Jim Jefferies 現Kilmarnock監督は Hearts に同情的なコメントを “チームは良いシーズンスタートを切り、良き監督を据え全てが順調に見えた。今年は絶好のシーズンに映ったが、この数週間で大混乱が蔓延り出した。”と。 それにしてもここで何故バルト3国の1つリトアニアの富豪なのであろう? 旧ソ連邦崩壊後、およそ50年振りに再独立を果たして15年目。独立当時はここの将来を危惧する人達も少なくなかった。モスクワのバブル振りと言い、15年間という時間はそれ程経済状態を変えてしまえるのか?それとも私の考えが遅いのかな??

アジア王者今夜決定 Asia Champions League

2005-11-06 | Football Asia
モスクワはそう寒くは無かった。10月23日あたりの到着時は寒くなり始め、その後直ぐに初雪が降るなどこれからどれだけ寒い目に会わねばならぬか?と心配はしたが今週にはいり最高気温は10度にまで達し降雪も見られなくなった。だがこれから気温も再び下がり始め、モスクワらしい天候になってくるらしい。そして私は更に寒い北欧に移動するのだが。
さて、その暑さとは無縁の中東では熱い戦いが今日5日、サウジアラビアの 都市Jeddah のPrince Abdulla Al Faisal Stadiumで行われる。その試合は Asia Champions League の決勝戦 アラブ首長国連邦 UAE の Al Ain とサウジアラビアの Al Ittihad のSecond Leg だ。10月26日にUAE の Al Ain の本拠地、Tahnon Bin Mohammed Stadium で行われた第1戦では 1-1 の引分に終わり、連覇を狙う Al Ittihad が2003年に決勝戦でタイのBEC Tero Sasana を降して優勝し2年ぶりのタイトルを狙う、かつてクウェート、オマーン代表を率いて日本代表とも対戦したチェコ人監督マチャラ氏が率いるAl Ain を1歩リードしている。勝者は12月に日本で開催される World Club Championship への出場権を得られる。下馬評でも圧倒的に Al Ittihad が優位だ。 予選リーグをシードされ、決勝トーナメントからの登場だが、1回戦は中国の山東を( 7-2 1-1 ) で準決勝では韓国の釜山アイコンズを ( 0-0 5-0 ) で圧倒し決勝に進んだ。準決勝後、敗れた釜山のIan Porterfield コーチから“中東の Manchester United “ と Al Ittihad は称されるほどであった。その原動力は決勝トーナメント4試合で18得点のFW陣だ。アフリカ、シオラレオーネから Mohamed Kallon, England Premiership Middlesbroughからカメルーン代表のJoseph Desire Job そしてブラジル人ストライカー Tcheco と国際色豊かなにタレント揃い。しかし攻撃だけではない、GKのMabrouk Zaid のこのタイトルに賭ける意気込みはただならぬものであろう。昨年中国で開催されたアジアカップではMansour Al Naje , Tariq Al Hargan に次いでの第三GKに甘んじ出場の機会はなかった。そして同年末に行われたAsia Champions League の決勝戦は負傷で欠場。チームの優勝をピッチで味わえなかった。今年は代表の正GKとしてゴールを守り出場した6試合では1ゴールしか許さず、韓国を抑えてグループ首位で4大会連続ワールドカップ本戦出場を決める原動力となり今年の AFC最優秀選手に同僚のDF 選手Hama Al Montashariと共にノミネートされている。他にもサウジアラビア代表DF で Al Ittihad の主将を務めるMohammed Noor らがおり中盤以降の守備力の安定度も他チームより秀でている。一方の2年ぶりの優勝を狙う Al Ain は3シーズンに渡りチームのエースであり Group League では4ゴールを挙げた、コートダジュール( 象牙海岸)出身のストライカーBoubacar Sanogo が Bundesliga のKaiserslautern に去り, 準々決勝の イラン の強豪PAS からもゴールを挙げた、AFC Champions League 通算54試合43ゴールを記録したブラジル人 FW Edilson も南米に帰ってしまったが すぐに補強されたナイジェリア人ストライカー のNwoha Onyekachi が山東戦ではハットトリックを決め, またInter Milan, AS Monaco にも在籍したもう一人のナイジェリア人 FW Mohamed Kallon が準々決勝のイランのPAS 戦で貴重なゴールを決めている。そして UAE の国際的なストライカーSubait Khater は現在5得点で大会得点王だ。だが Al Ain のマチャラ監督が強調するのはチームの勝負強さだ。それは準々決勝の強豪イランのPAS とのアウェィでの第二戦の事だ。初戦のホームゲームを監督曰くウズベキスタン人の不可解な判定で引分け、アウェィの第二戦も 1-3 と先手を取られたが終了10分前で追い付きアウェィゴールの差で準決勝進出を決めた。またホームでの決勝戦も終了5分前までリードを許したが交代選手のGharib Harib がPKを誘いそれをMohamed Kallon が決めてしぶとく引分けている。それに Al Itihad が対戦したのは”比較的力の劣る東アジアのチームのみ“との見解らしい。実力、下馬評では上回る Al Ittihad か勝負強さの Al Ain か?欧州だけが Champions League だけではない。アジアでもホットな戦いがある。それからこの試合は元々10月31日に予定されていたが、当日はイスラム教のラマダンの最中であり、Saudi Arabia Football Federation (SAFF) は早くから試合の延期を AFC に申し出ていた、しかし一旦はこの要求は却下され同日にヨルダン王国の首都アンマンでの振替開催が決まったが、Al ittihad 側の要求が通り11月5日に延期され地元の Jeddah で開催出来る事になった。この宗教的な事を考慮された決定は当然だろう。UAEの選手にもイスラム教徒は多いはずだ。やはり両者公平でベストな条件で試合をしてもらわねば。そして来年は日本のチームがここまで残っていてくれる事を祈るのだが道はワールドカップ予選よりも険しいかもしれない。