Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Socceroos バーレーン戦直後の報道から

2009-01-25 | 夏季五輪

Pim’s Socceroos do it again

Pim Verbeek は前任の Guus Hiddink よりもパスポートを示す回数は増えそうだ。 Verbeek は終了間際の幸運によって結果を掴んでいる。
Hiddink の下でもオーストラリアは劇的なシーンを演じている。 最も劇的なのはワールドカップで日本を 3-1 で退けた最後の3連続ゴールでこの大会のクロアチア戦の貴重なゴールもそうであった。 Lucky Guus と名付けられた男はロシアを EURO2008 のベスト4に導き、本選出場の驚きの裏付けを証明した。今や Verbeek は Hiddink のパワーを受け継いでいる様だ。
Soceroos 達はマナマでのバーレーン戦を DF ラインのエラーから Mark Bresiano のゴールで勝利に持ち込み予選3連勝中だ。 昨年6月はイラク相手にホームで 1-0 で辛勝し、3月には昆明で中国相手に貴重なドローを演じた。
“ おそらく少しだけ Guus 時代の要素が Pim には残っている。 彼も幸運を持っているが我々は最初の2ゲーム( ウズベキスタン、カタール )は良いゲームをした。 我々は自分の幸運は自分で作った。
2007年に Verbeek が就任した時には “ Pim Who ? “ と多くの人が訊いたが、そのオランダ人はオーストラリアを南アフリカ 2010 に導く適任者として民衆に革新させるだろう。 バーレーン戦の勝利で Verbeek 監督の通算成績は8勝3分2敗となった。
Another three points makes nine as Pim’s lucky number come up

最後の笛が鳴り Australia がBahrain から勝利を掴み取った瞬間、内気に見える Pim Verbeek は週末に Lottery Ticket を買う事を薦められた。

“私は Unhappy とは言えない。 Very Happy だ。この3勝点に。何故なら今日の我々は勝点3に値しないからだ。タフなゲームだった。全くゲームをコントロール出来なかった。 勝点1でも充分だった。もし勝点3を取れのなら幸運な勝利と言わざるを得ない。 これは良い警告だ。次の日本戦はこうは行かない。 我々は良いパファオーマンスが必要だ。 そしてこれはこの試合の肯定的な事だ。 ”

彼は自分のチームがボール支配、テンポのコントロールが出来ず、チャンスを創ったり、1対1で敗れていた事を嘆いた。 バーレーンはゲームを支配していた。 彼らは早く運動能力にまさり判断が良かった。決定力の低さが Socceroos を突き離せなかった。

“我々はもっと良いチームだと思うが、この日はそれが出来なかった。ゲームをコントロールしたり、コンパクトに保ったりボールを簡単に失わなかったり、ポゼッションをキープしたりする代わりに、我々は主導権を与えてしまい、バーレーンに自信を付けさせてしまった。 しかし我々はこういうゲームが出来て良かった。 素晴らしいゲームをして敗れるより悪いゲームをして勝つ方がよっぽどましだ。 我々はそれを学んだ。 なぜなら最初の2ゲームが良すぎたので人々は簡単な予選と考えていた。しかしワールドカップに行くには今日の様に楽では無いと言う事だ。 我々はもっとやれたはずだ。 出来は良くなかった。 次はもっと良くやれる、と選手達が行った事が今日の我々のチームの良かった所だ。 勝点1でも充分だったのに勝点3も得た事は大きい。 バーレーンはこrまで対戦した3チームの中で最も強かった。 Bad Game を勝利する事も良い事だ。

    


Embarrassing , but we’ll take it says Neil Soceroos

主将 Lucas Neil 、MF Tim Cahill, そしてただ一人普段のパフォーマンスを披露したGK Mark Schwarzer ら主力3人はかろうじて勝点1を取れればそして勝点3なんて全く思いつかなかったと最後のゴールで1-0 で勝った試合後に語った。 
Neil はこの試合の成果を “殆ど困惑したもの”、 一方 Schwarzer はパファーマンスは不可解だと、何度もオーストラリアに勝利をもたらした事のある Cahill はほとんど何もできずオーストラリアの出来る事はこの試合の事は忘れ、勝ち取れなかったはずのものが手に入り次の日本戦に備える事だ、と語った。 
得点者の Mark Bresiano はもう一人の“自分達の得たものは当然とすべきでは無い”と主張する一人であった。

“我々は今夜は Very Lucky であった。バーレーンは我々を苦しめた。 彼らは多くのチャンスをつくり、敗れるべくして敗れたのではない。そして我々は最後のすうびょうで勝利を幸運にも得た。しかし血の誓約を手にした。” 

Tim Cahill は “ それはシンプルだ。勝ち点3を手にしてページをめくりそれを忘れる。 1年前のオーストラリアならここで 1-0 で敗れただろう。 それは我々が必要とした前向きのサインだ。 9勝点6ゴール0失点。 もしあなたがそのスコアーを見たなら我々の思い通りであった。” 

Lukas Neil はチームメイトにこう話す。 ” この日の勝利にはほとんど困惑している。 バーレーンのゲームだった。彼らは全てを我々につぎ込み、もっと多くを入手すべきであった。 ラストの5分、私は無失点に抑えそして勝点を得られればそれで良いと思った。 バーレーンの選手達が与えた印象はメンタルを強くし Good Professionalism は何も今夜はうまくいっていない事を知った。 しかしそこでは持ち帰るものがあり、疲弊をした。 しかしより大きな事は9ポイントを得ていることだ。 我々は二日間で充分な準備をし、試合前には全てを正しく行い全て上手く行っていると我々は言っていた。 我々はお互いによく準備運動をし身体は切れていた。 我々は素早く動きたかったが理由は何であれ天候が災いした。 我々はうまくは出来なかった。固いピッチにパスが回らなかった。 しまいには我々を悩ます問題の解決が見つからなかった。 ここに隠されたメッセージがある。 もし本命との対決で無い時は他の者との対戦がある。 我々はより多くのアイデアやゲーム中の解決策を早く見つける事を身につけねばならない。 まだ勝者が全てを持って行った通り次のゲームは素晴らしい気持ちで迎えられる。 もし我々が日本戦で敗れなければアウェーで1勝しかしていない事になる。おそらく Guus 時代の古い要素の一部が Pim に同様に幸運をもたらしたのどう。 しかし、自分達の幸運は自分で作らねばならない。 そして我々は最初の2試合を良く戦ったので今夜また好運が産まれたと思っている。” 

Schwarzer は語った。 “ それは多分長い長い期間の中でも最悪のゲームだった。 私はそれが何故かわからない。 チームの誰も説明できない。 しかし最終結果を見て、それが 1-0 だった。 いつか思い起こすだろう。 後の教訓の一つとして思い起こすだろう。 長い長い期間の中でアウェーで最も悪いゲームだった。 しかしまだ 1-0 で勝った。 バーレーンには残酷で我々には至福であった。” 


   

バーレーン戦のオーストラリアのメンバーは下記の通り。

Mark Schwarzer (GK), Lucas Neill, Tim Cahill (Mile Sterjovski 86’), Jason Culina, Luke Wilkshire, Josh Kennedy, Harry Kewell (Brett Holman 71’), David Carney, Chris Coyne (Jade North 68’), Carl Valeri, Mark Bresciano

Subs not used: Mile Jedinak, Bruce Djite, Shane Stefanutto, Michael Petkovic (GK) 警告: Coyne

11月19日、バーレーンの首都マナマで行われたバーレーン対オーストラリア戦は、ドーハでのカタール対日本戦のキックオフ前に終わっていた。 後に録画で放映されたこの試合を見たが、結果を知らずに見たならこの試合はバーレーンがいつ得点を挙げるだろうと思える試合であった。 
バーレーンは 今回のワールドカップ予選にまだ出場していないMF Mohamed Ahmed Hubail, FW Husain Ali Ahmed Abdula の2選手を起用。そして前のカタール戦で出場停止であった、 DF Mohamed Hussain Hassan, MF Fauzi Muharak Aaish が戻って来るなどメンバーが入れ替わりこのオーストラリア戦に賭けていたと思われる。 しかし最も目立ったのは 長身のDF の Sayed Mohamed Ardan Hussain 。オーストラリアの Josh Kennedy に仕事をさせなかったばかりか、攻撃参加しでもその存在を見せつけた。

 

エース Kewell は動きが悪く71分に退き、McDonald そして Craig Moore の怪我( Moore は睾丸部の癌が見つかった。) の離脱に急きょ、 Mark Milligan と Jade North を招集した。選手達は Moore のシャツを着て試合前日の練習を行った。

   

しかし結果は 1-0 、終了間際の Bresiano のゴールもバーレーンDF陣のわずかなミスから。 
そのミスを勝利に結びつけるところはさすがオーストラリアだ。 

Pim Verbeek 監督はかつて愛する京都サンガのコーチ、そして監督も務めた。 あのシーズンはコーチとして就任しJ2に降格していくサンガを途中から監督として引き継いだが降格を引き留める事は出来なかった。しかしオーストラリアの監督に就任し幸運も続いている様だ。 特に昆明で行われた2008年3月の中国戦。終了間際に与えたPKを“守護神” Schwarzer が防いで勝点1を死守した。 
6月のイラク戦も Kewellのヘッド一発で勝利を得たが、試合内容はイラクが圧倒していた。 ここでも Schwarzer の好守が冴えていた。

オーストラリアの選手は暑さに弱いのが特徴だ。それは白人の特徴そのものとも言えるだろう。 2007年の Asian Cup , 3次予選で唯一の黒星であったドバイでのイラク戦。 そしてマナマでのイラク戦…….
2006年のワールドカップでも先にバテテいたのはオーストラリアの方だったが........

そういう意味では2月11日の横浜での試合は日本のホ-ムアドヴァンテージ はどこまで効果があるのだろうか?少なくとも天候のハンディは負わせられないだろう。むしろシーズオフの選手が多い日本代表の方がこの時期に大一番を迎える事から “引き分けでも良し” とせねばならないか? だがこの上位2チームの直接対決で引き分けられるのが下位の3チームが最も嫌がる結果ではないだろうか……..

11月の試合で日豪揃ってアウェーで勝ち星を挙げたが日本は快勝、オーストラリアは辛勝。 この“教訓”が2月のお互いに重要な試合にどう出るだろうか………..

でも2月11日は気温が上がっていて欲しいなぁ…….. オーストラリアはまだワールドカップの3連続ゴールのイメージをもっているのか...... 


ある国の ”売春婦” 問題 

2009-01-24 | Weblog

Ex-Prostitutes Say South Korea and U.S. Enabled Sex Trade Near Bases
(元売春婦は語る韓国とアメリカは基地周辺の性産業を可能にした。)

  

氏(写真女性)は韓国のアメリカ軍基地の近くで売春婦として働いていた。その行為はアメリカと韓国の当局には認められていた。

韓国は何年にもわたって戦争中の最も醜い出来事に対してどれほど責任を負うのかどっちつかずの態度をしている日本政府に対して抗議を続けてきた。それは韓国人女性が日本帝国軍隊に仕える為に売春宿で働くために奴隷にされた事だ。

 

29歳の時の 氏。80歳になる今は福祉施設で酸素マスクを使用して生活している


今、韓国の元売春婦グループが自国の元指導者達のある職権乱用を告訴している。それは彼女達を北朝鮮から韓国を守る米軍の兵士と SEX をする事を促し続けた事だ。 彼女達はまた1960年代から80年代にかけて性産業を手掛けた韓国政府と米軍が共同で過去に売春婦達が原因で米軍大隊が性病にかかる事が確実に起こらない様に検査や治療をする施設を建てていた事も告訴した。
その期間中、米軍当局や韓国政府が彼女達を力づくで売春婦にした事は取り上げず、韓国自身の歴史を重視する事を拒みながら日本に補償を求める韓国政府も偽善にも非難を浴びせた。
“私達の政府は米軍の為の巨大なポン引き組織だった。” 元売春婦の一人58歳の Kim Ae Ran は最近のインタビューでこう答えた。

この問題の専門家達は、韓国政府はアメリカ軍が撤退してしまうのではと言う恐怖にかられ、とにかく引き留めようとしていたと言う部分もあったのではないかと見ている。
しかし売春婦達は、政府も彼女達を経済的にあえいでいた朝鮮動乱後10年間の韓国経済を輝かせる“商品”として見ていたのではないかとほのめかす。
元売春婦達は、政府は彼女達自身を “売り込む”事が容易に出来る様に英会話とエチケット教室のスポンサーになったりしたばかりか、官僚を派遣し当時の韓国では欲しくてたまらなかったアメリカドルを稼いでいると称賛してまわったと語った。
“政府の官僚達は出来るだけたくさん私達を G.I. 達に売らせようとしていた。私達を”ドルを稼ぐ愛国者“と称賛していた。”  Ms. Kim はこう語った。
専門家たちはアメリカ軍もまた共にいわゆる“ Camp Town ”の周辺の性商売の管理に加担していたと言っている。なぜならそれは性病の蔓延を危惧したからだ。ある女性達は、最も過激だった事は60年代から80年代の間、米軍憲兵達と韓国政府の役人が病気を蔓延させている原因と考えられた女性を探しに定期的にクラブに踏み込んできた事だと語っている。彼らはそういった女性達を番号札を使って選び兵士達により安心して自分たちのセックスパートナーを選べるようにされていた、と彼女達は語っている。
韓国の役人達は感染の疑いのある女性達を連れ出し窓に鉄格子のはめられたモンキーハウスと呼ばれていた監視付きの小屋に押し込めていた、とも彼女達は言った。そして彼女達は病気が治るまでそこで治療を受けさせられていた。
補償と謝罪を求める元売春婦達は自分自身を第二次世界大戦中に日本人によって売春行為を強いられた事に同情を得ている、いわゆる “慰安婦” と自分自身を比較している。 売春行為が自発的なことか強制されたことかどちらであれ、自分達は政府の政策の犠牲者だと彼女達は言っている。

” もしこの議論は政府が共謀してこの様な基地の街の売春婦を支持していたのかとどうかなると、そのとおりだ、韓国政府とアメリカ軍が共にかかわっていたと言える。“ 
こう語るのは1997年にこの様な女性達の事を描いた Sex Among Allies ( 同盟間のSex ) の著者Katharine H.S. Moon である。
韓国の女性問題を取り扱っている男女平等省 (Ministry of Gender Equality )は元売春婦達の告訴についてのコメントを避けている。 この件に就いて非合法な人権侵害や売春を支持したり容赦をしたりしない“と公式声明を出しているソウルの在韓米軍当局も同じだ。
New York Times は米軍基地付近の売春宿で働いていた元売春婦8名にインタビューをした、そして韓国とアメリカの書類資料を再び調べてみた。 その文書にはまさに、スナップ写真が多かったが当時の売春婦達を支持する何かの証拠が記されていた。彼女達は何十年にも渡ってその起こった事をふと思い出す。
別の考え方をすれば彼女達の申し立ては驚きではない。 何十年にもの間韓国も米軍も基地周辺での売春行為を黙示を続けていた、たとえ売春行為が韓国では非合法であっても。 バーや売春宿が世界中の基地周辺がそうである様に、米軍基地の近くに軒を連ねている。しかし元売春婦達は一般市民の彼女の支持者達のほとんどはどれだけ深く政府が基地周辺街での商売に深くかかわって来たかを知らないと語っている。
元売春婦達は前の政府役員から彼女達の要求に就いて支持を受けている。 テレビのインタビューで政府の役人でアメリカ陸軍の高官と連絡窓口と認められているKim Kee Joe 氏は “ 例え我々が積極的に売春に従事していなくても、我々は特に政府高官達からそれが国にとってそんなに悪いことでは無いと何度も強く彼女達に教えて来た。” 
議会の記録謄本によると同様に少なくとも韓国女性の何人かは売春行為をある程度必要だった行為と見ていたとほのめかしている。
1960年代のあるやり取りの中で売春婦を送る事を養成するのは同盟の兵士達が“自然に必要なもの” に応じるためで彼らの米ドルを韓国で無く日本で使われる事を防ぐことになると二人の国会議員が政府に促している。 
当時の内務相役人の Lee Sung Woo 氏は、政府は “売春婦の供給”そして “娯楽施設 ” の改善をアメリカ大隊の為に施してきたと答えている。
キム氏と Ms. Moon は性病の管理は二つの政府の管理するところであったと言う元売春婦達の主張に帰還する。  
彼らはアメリカ政府の発表は特に韓国にとって脅威に聞こえた。それは1969年に当時のニクソン大統領が在韓米軍の撤退政策の発表によって駐留者が減らされると言われた時であった。
“ある発案が作られたが、それは基地周辺を駐留者達の周辺は住み心地良くさせて、そこを離れたがらない環境を作ると言う事であった” Mr.Kim はテレビインタビューで答えた。 
Welleseley 大学教授の Ms.Moon は1970年代の韓国高官とアメリカ軍将校との間で性病が広がらない様にする為にお互いの役割の範囲が話し合われた。 
その話し合いでは病気にかかった売春婦を隔離し治療を受けた事を確実にし政府は売春婦達を登録し医療受領の証明書を持たせようとした。そして1976年のある報告では登録されていなかったり医療検査でひっかかった売春婦達を共同で急襲し逮捕していたとの事であった。

今日基地の街はまだ存在するが韓国経済も発展しフィリピンから来た女性達がいまはとって替っている。多くの元売春婦達が基地周辺街の中心から離れた所で人里を避けて暮らしている。 その多くは貧しく、そして何人かは自分の産んだ混血児を海外に養子に出し、その思い出にさいなまれている。
自分の姓だけを名乗る事を条件に話に応じてくれた71歳の Jeon 氏は1956年に18歳で戦争孤児となり空腹が北朝鮮との国境付近の基地の街 Dongduchon にこさせたと語った。 彼女は1960年代に息子を出産したが息子はアメリカに渡った方がましな生活を送れると確信し息子が13歳の時に養子に出した。約10年後に今は米軍の兵士になった彼女の息子が母親を訪ねてやって来たが、彼女は息子に自分の事は忘れる様に言った。 
“私は母親失格です。” Jeon 氏は語った。 “私は彼に頼る資格は無い。自分の人生を考えれば考えるほど、私の様な女性達は我が国とアメリカとの間の同盟の最悪の被害者だと思う様になる。 
振り返れば私の身体は私のものでなく、政府か米軍のものであった。”

  

顔を覆っているのは米軍基地の近くで元売春婦であった 氏韓国の Pyoengtaek と言う街の部屋の一室で。

以上の記事は今年1月7日付の New York Times に掲載されていた記事だ。
最近仕事が忙しくてようやくアップできた........

記事はいきなりありもしない”従軍慰安婦”が存在していると言う前提で始まっているのが気に入らない。 職場の先輩が ” New York Times は朝日とつるんでいるからこういう事書かねばならないんでしょう?” と教えてくれた。また
 
” 
2006年12月 「北朝鮮による日本人拉致問題について、本来の拉致問題解決に焦点を絞らず、北朝鮮中国に対する日本国民の嫌悪感をあおり、そうした世論を憲法改正問題などの政治的問題にも利用しようとしている」とする記事を掲載、後日、日本政府はこの報道を問題視し、中山恭子首相補佐官(拉致問題担当)の反論文を同紙と、記事を転載した国際紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに投稿、後者へは26日付で掲載されたが、ニューヨーク・タイムズ紙は拒否している。”

以上の様に wikipedia に説明されていた。

”従軍慰安婦”問題はさておき、この記事が出たあとに朝鮮日報や中央日報のサイトを見たけど同様の記事は見当たらなかった。いつもは New York Times に韓国の事が掲載されたらすぐに紹介するのに。 日本語版には載らないのかな?

第二次大戦中確かに日本陸軍は”慰安所”の女性達から兵士が性病を貰わない様に ”定期診断” を施していたらしいがこれを”日本軍の関与”とか”日本政府の関与”と解釈されると、上述した韓国の”元売春婦”達も同じ様に韓国政府に”抗議する権利” はあるという事になるだろう。 
You Tube で元日本兵が ”大隊が移動する時に慰安婦達も一緒に移動させた。”と語ったシーンを抜粋し,
あたかも日本軍が彼女達を ”連れまわした。従軍させた。” 動かぬ証拠の一つとしていた??
一緒に移動したのは彼女達を敵から保護するため、置いて行って、敵に捕えられることを危惧したと思えないのかね??

今から10年以上も前にあるドキュメンタリー番組を見た。それはソウルと釜山を結ぶ高速道路上で
 ”ベトナム戦争” に従軍した元韓国兵達が韓国政府に対して”補償”を求めるデモを行っていた。
なぜここでデモが起きているかも説明された。 外貨が無く、また外貨を得る為の輸出産業も乏しかった韓国はベトナム戦争に韓国兵士を派遣し彼らがアメリカ政府から貰う米ドルベースの給料を強制的に韓国ウォンに両替させて得た外貨がこの高速道路建設にも使われたらしい。 
この高速道路は元兵士たちが命がけで稼いだ米ドルで建設された、なのに政府からは恩給どころか補償も何もなかったらしい。
ベトナム戦争と言えば、韓国政府が派兵をした見返りの一つに韓国から多くの移民をアメリカ政府は受けることともしたらしい。
また西ドイツに炭坑夫や看護婦が派遣され彼(または彼女)らの給料も貴重な外貨だったらしい。 

朴正煕氏が大統領になり1965年に日韓交渉を妥結させ総額8億ドルの日本による供与及び貸付けを受けることとなった。当時の韓国の国家予算は3.5億ドルだったらしい。この供与、貸付けにより1961年には国民一人当たりの所得が80ドルで最貧国のひとつにすぎなかった韓国経済が発展していくのだが、その以前には上述の売春婦やベトナム軍従軍兵士、さらに炭坑夫、看護婦が ”貴重な外貨” を稼いでいたのだ。
朴正煕時代に青春を過ごした韓国の人達からは当時の貧困ぶりを聞いたことがあった。 日本もこういう時代があったのかもしれない。

でも元売春婦が言うように”慰安婦”よりも自国の”元売春婦”の事を政府は考えてあげた方がいいのではないかなぁ...... でもそれは内政干渉になるか.......


Harry Kewell Interview Talking Turkey トルコを語る

2009-01-21 | 夏季五輪

Craig Foster オーストラリアは現在世界ランク28位にいますがこれは史上最高の順位です。選手としてさらにランクを上げ続ける為にはどう言う事が必要だと思いますか?

Harry Kewell 私は後にも先にもワールドカップだと思う。TOP30 から TOP20, TOP10 に進むのは選手自身をワールドカップのトップレベルでプレーをする為他にならない。 

C.F. 数多くのオーストラリア人選手が将来的には A-League に戻り自分の選手生活を終えたいと言っておりますが、それについてはどう思われますか? 

H.K. 多くの海外に出ている選手達は “私は必ず帰国をする‘と言う。 しかし私はそれがいつになるかは具体的には… 私には考えがあるが… ある時は帰国して自分の選手生活を終えたいと思うときもあり、またある時はそうではないだろうと思い、またある時はそうなるだろうとも思う。自分の考えの中には自分のしたい2つか3つのオプションがある。しかし、どこでそれがおこるのか?いつなされるのかはわからない。 しかし私はここオーストラリアで選手生活を終えたいなぜなら一般のオーストラリアの人々やオーストラリアのサッカーに何かを還元したいからだ。 彼らは私に多くのサポートをしてくれた、私は帰国してただ子供達の為に自分の選んだチーム、また自分を必要とするチームでフットボールを行い自分が引退をする前に何かを与えたい。  
C.F.  いつあなたは引退を考えていますか?どれくらい選手生命を残していますか?
H.K.  私はこの2~3年間怪我でほとんどまともにプレーしていなかった。 だからまだ少し長くプレーをしていいたい。おそらくあと5年~6年くらいは。 

C.F. トルコへ渡る前に長い間 England におられましたが、この2カ国間の国内リーグの違いは何でしょうか?文化やフットボールのスタイルの違いはあるでしょうか?

H.K.  技術的には同じだ。同じフットボールをしている。 あなたが云うように大変素晴らしいチーム ( Galatasaray ) に所属している。ディフェンスだけが異なる。 England では例え攻撃中でもディフェンス陣は自分の任務を知っている。 トルコでは誰もが攻撃に参加したがる。 重要なゲームでは彼らは心を入れ替えて守備にも腐心する。 他の試合では自分の持ち場を離れてしまう。そしてたまにはセンターハーフよりもボールを持って上がってしまう。それは大変なフラストレーションだ。 彼らはみな偉大な選手達でフットボールを知って言る。 大きな違いはない。 

C.F.  Galatasaray ではどんな役割を担っていますか? コーチはあなたに自由を与えていますか?それとも決まった任務はありますか?

H.K.  特に任務はない。 私は再び左から右に動いてプレーしている。 そして若い選手がそこにはいる。  Arda Turan はファンタスティックな選手でかれは右から左に動いてプレーしている。我々はたまにポジションチェンジを行っており、それが相手ディフェンスにとって頭痛となることを期待している。 

C.F.  どんなプレッシャーがありますか?そこでは England 時代と同じ様なものですかそれともそれ以上でしょうか?

H.K.  期待されていることは勝つ事だ。 2位は許されない。 Galatasaray に2位は存在しない。 ファンは2位を受け入れない。球団社長もそして選手達でさえ。 我々が出たすべての試合で勝たねばならない。 すべてのゲームで勝たねばならない。 たまにはいいプレーができないこともある。出た試合常に勝てる訳ではない。 たまには引き分けで良しとせねばならない。 しかし彼らのフットボールに対する熱狂ぶりとそれを愛する文化が引き分けを許さない。 

C.F.  トルコ国内での状況を教えてください。 あなたの家族はまだ England に住んでおられると伺っております。 どうやってこの問題に取り組んでいますか? それはほとんどの時間、家を空けているからでしょうか?ある時は合宿で、ある時は欧州の遠征で。

H.K.  私は家族を England に残してきたことは最善策だと思っている。 私たち家族はそこにいて物事をうまくやっている。例えば最後のアウェーでの UEFA Cup のゲーム為に火曜日(12月3日) にドイツにむかい木曜日まで帰ってこれず、再び金曜日に(トルコリーグの)アウェーゲームに出掛けて月曜の朝まで帰ってこれない。 我々はそんなことをほとんど毎週続けている。 毎週2試合プレーしている。 家族にはトルコで生活するのは難しい。 他の選手達も家族を連れてきておらずここで選手の家族を見るのは稀である。 それに子供達に就いてもこれが最善の生活だ、子供達には学校生活があるし彼らは England のいい学校に通っている。私の妻はよくやってくれている。 

C.F. あなたはここにやって来て素晴らしい仕事をしています、あなたはピッチに戻りゴールを量産し代表チームでもよくやっています。 怪我を負ってから背負っていた重荷を下ろせましたか?

H.K.  私には新たなスタートが必要だった。 Liverpool と同じ様な偉大なクラブ、偉大なファンがベースでそれらすべてが。そこから抜け出して何か他のことを経験する必要があった。 それはゴールデンチケットであり本当にフットボールがただその通りに素晴らしくありサポートは天文学的にファンタスティックでクラブはフットボールに必要な設備をすべて兼ね備えているところに行って何かに挑戦する必要があった。そしてそれは完璧なチャレンジですべてのことを忘れられた。 ここでは私は新聞は読めないが何が書かれているか分からないのでそれはいい事である !    

  

C.F.  あなたは2006年ワールドカップに出場しました、だからそこがどういうところかを知っています。 今我々は2010年大会に出場しようとしています。それは素晴らしいことです。 オーストラリアが2018年のワールドカップ開催国となることについてどう思われますか?

H.K.  私はオリンピックから見て取れると思う。私は多くの人々が直接かかわれたかというとそうではなかったと思う。しまし今日人々は今でもシドニー五輪を最高の五輪の一つと思っている。我々にはスタディアムがあり、設備があり、スペースがあり人々がいる。そしてオーストラリアは多文化の国だ。オーストラリアには多くのサポーター達がやってくる必要はない、すでにそこにいるからだ。 我々はワールドカップの核になるものをもっている。 私にはオーストラリアに開催権利が与えられない理由が見つからない。 しかし多くの政治が開催権争いに介在する。しかし彼らが光明を見つけてその権利をわれわれに与えてくれることを期待している。 我々はワールドカップを完璧にこなす土壌がある。

このインタビューは昨年12月20日にオーストラリアの新聞に掲載されていたものだ。
2006年の ワールドカップ 以降これといった活躍を見せられなかったオーストラリアのエースストライカー Harry Kewell は Liverpool を離れ今シーズンからトルコの Galatasaray Istanbul  に移籍し途中数試合怪我で離脱をするも、往年の輝きを取り戻しつつある。 
UEFA Cup では初戦のギリシアの Olympiacos 戦で決勝ゴールを挙げるなど Benfica 戦以外の3試合に出場しかつての同僚、チェコのFW Milan Baros と共にチームの Round 32 進出に貢献。
トルコリーグでのGalatasaray は12月21日の Besiktas 戦に 4-2 で勝利しこれで4連勝して Winter Break に入った。トルコリーグはSivasspor, Trabzonspor が同勝点で首位に並び、勝点1差で Galatasaray が3位さらに勝点1差で Fenerbache が4位につけている。 リーグ再開初戦となる1月24日のゲームは首位を行く Sivasspor とアウェーでの試合となる。
UEFA Cup の Round 32, アウェーのBordeaux 戦は2月18日だ。

  

Kewell は2006年のワールドカップ、2007年 Asian Cup で日本と対戦しているが私は彼が存在感を示せているとは思えなかった。 ワールドカップは怪我から回復したばかりで、アジアカップの時も怪我で約1年間ブランクがあった事と高温多湿の東南アジアの気候のせいでパフォーマンスはさっぱりだった。
バンココックでのイラク戦は現地で観戦したが本来の動きがさっぱり出来ておらずがっかりさせられた。
しかし今回はコンディションも悪くなく、サッカーのシーズンである冬場の試合なのでこれまでのように日本DF陣はEasy に抑えることは考えにくいかもしれない。
昨年6月、 Brisbane でのイラク戦では試合内容は押されていながら貴重な決勝ゴールを決めてチームに勝利をもたらした。

2000年地元開催のシドニー五輪では Kewell は怪我の為に最後にメンバーから外れた。この時の Olyroos はOver Age に Stan Lazaridis , Joship Skoko そして Mark Viduka が入り、他にも Bretto Emerton, Lukas Neil, Vince Grella, Marco Bresciano そして Jason Culina といった2006年ワールドカップの主力メンバーそして次のワールドカップでも中心となる選手達がメンバー入りしていた。しかしそれでも大会では初戦 Melbourne Cricket Ground で行われたイタリア戦に 0-1 で惜敗し続く Nigeria に 2-3 で破れ1次リーグ落ちが決まると最終戦は格下とみられていた Honduras にも 1-2 で敗れ3連敗で五輪を終えてしまった。
その3年前、あの MCG の悲劇のメンバーには Kewell をはじめ、Brett Emerton Craig Moore, Mark Viduka そして GK の Mark Schwarzer ら今の中心選手がスタメン出場していた。私の尊敬する Johnny Warren がこの時のメンバーを " Young Gun " と名付け以降の躍進に期待を寄せていたのだった。

現在オーストラリア協会、FFA は2018年か2022年にワールドカップ開催を目指している。当初はニュージーランドとの共同開催も視野に入れていたが”異なった連盟”との共催は却下の恐れがあると単独開催に一本化している。
しかし2002年に日本と韓国でワールドカップが開催されているので”アジア連盟”に所属するオーストラリアに開催資格が回って来るか不安らしい。
しかしそういう意味では同時期に今度こそ単独開催を目指している日本の方がさらに不利になるのではないか?それとも2002年に”共同開催”の事実を作り上げた”欧州連盟”がその”補償、補填”の為に日本単独開催を推してくれるだろうか?
次回の単独開催までに自分がまだまだ身体が動いている事を祈るよ......

 

 


Pim Verbeek インタビュー 日本は我々よりプレッシャーを感じている

2009-01-19 | 夏季五輪


Q : ワールドカップ最終予選はパーフェクなスタートを切りましたが、もし人々が既に当然我々は予選通過の安全ラインに到達したとみたとすればあなたはそれに憤りを感じますか?

Pim : いやそれは感じない。それは現実的では無い。まだ強豪を相手にせねばならない。私の見る限り、選手達は横浜で日本と戦うのを非常に楽しみにしている様だ。そしてわれわれはウズベキスタンとの大切な試合をシドニーで迎える。その時我々はどこまで来てあとどのくらいやらねばならないかがわかるだろう。

Q : あまりにも最終予選がうまく運び過ぎて驚いてはいませんか?

Pim : これまでのところ、我々が消化したスケジュールは完璧にこなしてきた。なぜなら我々はなるべく早く予選を終わらせたかったからだ。もし我々が日本にもウズベキスタンに対してもそれが出来れば我々は良い結果が得られるだろう。 

Q : 横浜には勝点9をバッグに携えて行く事が出来ますがそれはよりリラックスさせてくれる要素でしょうか?

Pim そうは思えない。日本戦はリラックスなどは出来ない。なぜなら彼らがどれだけいいチームかを我々は熟知しているからだ。 かれらは大変いいチームでコンビネーションフットボールをしており選手個人が高いクオリティーを持っている。しかしそれでも我々は日本相手にいい仕事をできる。

Q : 通常、日本は大変尊敬出来る対戦相手であるが最近ん彼らはオーストラリアに就いて何か言っているようであるが?

Pim 私はいくつかの引用文を読んだ、しかし私が日本や韓国にいた時の経験から時々翻訳が違っている事がある。 だからそんなに気にしていない。私は Okada-san をよく知っている。彼はファンタスティックな人物ですぐれたコーチだ。彼は決して我々を憤慨させる様な事を言う人では無い。彼はただゲームをプレーしているだけだ。 

Q : ワールドカップ以来、日豪の直接対決には特別な感情があるのだろうか?

Pim : それはないと思う。メディアが感じるだけだ。 日本の選手達はただワールドカップに行きたいだけだ。そしてただホームゲームで我々に勝ちたいだけだ。 故に我々よりもプレッシャーが大きいと言う事だ。 OK 我々は勝ちたい。しかし必ず勝つ必要はない。より大きなプレッシャーは日本にある。彼らはホームでのウズベキスタン戦では問題があったがそれはプレッシャーからだ。だからそこに興味がある。 

Q : これまでの予選の試合をみるとカウンターアタックが主体であったが日本戦でも同じなのだろうか?

Pim : カウンターアタックフットボール?おいおい私はオランダから来たのだよ?愚問はやめてくれないかぃ?とは言わないけど…. カウンターアタックフットボールとは何だぃ? Manchester United はカウンターフットボールと言うのかい?1トップしてむだからと言う理由で? ジャーナリストに質問してもいいかな?もし我々がJosh Kennedy, や Mark Bresciano, や Harry Kewell そしてTim Cahill らを起用した時にカウンターアタックフットボールをしているかい?何人で攻撃している?3人?4人?5人? 、少なくとも5人の選手で攻撃をしている。それが最善のバランスと思う。 

Q : あなたは1ストライカー、2ストライカー、異なったシステムを採用する事も….

Pim : それは常に同じ選手を起用できるわけではないからだ。もし Harry Kewell を起用できるなら、Harry Kewell を使えない時とは異なったプレーをする。もし Josh Kennedy や Scott McDonald を起用できるから2トップを起用し、Scott が使えないなら1トップに1センターストライカーを起用するだろう。 

Q : Mark Viduka に就いてはどうでしょう?日本戦には間に合いますか?

Pim : Viduka はそこにはいないだろう。 もし彼が万が一フィットしてプレッシャー無しに日本戦に起用できるのならばそれは大きな大きな驚きだ。 我々は Viduka にUzbekistan 戦 ( 4月 1日 ) に完璧にしてくれればと思う。そして Josh Kennedy を起用できそうなことは Happy なことだ。そして Tim Cahill , Scott McDonald も 。もし彼らのうちの一人でもベンチに置いておければ、 Viduka の心配をする必要はないだろう。 もちろん Mark Viduka が完璧にフィットする事は常にチームにとって何か特別な事だ。

Q : 上位2チームが ワールドカップ の出場権を得られるがオーストラリアはどのポジションで終わるのでしょう?

Pim : 君達は常に No.1 を望むが優先すべきは予選を通る事だ。予選通過が最も重要で多くの人達はそれを忘れている。 

Q 2強争いでしょうか?

Pim : 我々は常にウズべキスタンが危険なチームと考えて来た。そして彼らはまだレースに残っている。忘れてはいけない。私はウズベキスタンとアウェーで戦うより日本とアウェーで戦う事を好む。そして既にウズベキスタンとのアウェー戦は既に終えて勝ち点3を得ている。 日本はまだウズベキスタンとのアウェー戦を残している。だからまだウズベキスタンは全てが可能だ。 私は同様にバーレーンにも印象付けられた、彼らが日本との初戦で 0-3 から 2-3 にまで追い上げた。それは彼らがいかにメンタル的に強いかと言う事だ。 彼らも同様に驚かせる事が出来る。まぁ待ってみよう。このあと2試合が大変重要だ。

Q 日本戦の前にアジアカップ予選がインドネシアで行われますがそれは妨げにはなりませんか?

Pim : もちろんタイミング的には良くない。インドネシア戦はA-League の最終節が終わった直後に行われる。それは1つのチームがチャンピオンになり祝杯をあげるだろうからだ。そして必ずそのチャンピオンクラブから2~3人の選手がインドネシア戦に選ばれるだろう。それは彼らにとってはビッグチャレンジだ。なぜならインドネシア戦は偉大なゲームだからだ。韓国代表と共にジャカルタに行った事があるがそこにはファンタスティックなスタジアムが有り、ファンタスティックんばファン達がいた。その様なところでゲームをすると言う事は選手達にとってボーナスだ。 

Q : ジャカルタでの試合は3試合出場停止の1試合目となります。あなたのキャリアーの中でスタンドで観戦せねばならないと言う事は初めてでしょうか?

Pim : そうだと思う。 しかし私にはファンタスティックなスタッフ達がいる。だから完全に Arnie ( Graham Arnold コーチ ) とHenk ( Henk Duut コーチ )に任せられる。 そんなにそばにいねばならない訳では無い。 ロッカールームに居られないがしかしそれはOKだ。 これまで全ての試合でおおくの信用を得て来た。何故なら我々は勝ち続けているからだ。 しかし我々は常にすべてのスタッフとそれをやり遂げて来た。だからその時も私は階段を上がってArnie と Henk の決定に任せる事が出来る。 

Q : あなたはAsian Cup 予選は A-League の選手達に任せると言っていました。しかしその前に数人の候補選手、たとえば Jade North と Sasa Ognenovski が韓国のクラブに移籍する事になりましたが、それはあなたの準備そして彼らの選択決定にいい影響を与えますかそれとも悪い影響でしょうか?

Pim : 私は K-League をよく知っている。それはまた異なったプレースタイルだ。その boys にはそこでやっていくには楽なことでは無い。 なぜなら言葉やフットボールへのアプローチの違いそして特にトレーニングの違いがあるからだ。しかし K-League は断固として A-League よい良い訳では無い。 サラリーはいいだろう。ただそれだけだ。私は選手達には欧州でプレーしてもらいたい。少なくとも言葉の面ではまだ楽だ。 しかし私はアジアに行く選手達をまだ見続けるだろう。 それが彼らを選ばないと言う理由にはならない。 

Q : クラブを替ると言う事に就いて言えば Jason Culina の A-League 入り( Gold Coast united 入り ) に多くの議論がありますが、このニュースに対してあなたの最初のリアクションは何でしょう? 

Pim : 私の最初のリアクションは “ Don’t do it, それをするな、1年待て、彼にはまだ PSV でプレーして欲しい。より高いレベルでプレーし、より高いレベルでトレーニングを続けて欲しい。その一方で選手達が可能な限りプレー出来る事が選手達の幸福であるべきだ。  Jason から聞いた話では、彼は PSV での状況は不幸であり、何か全体的に新しい試みが彼の夫人に、家族にそして彼自信に必要であった。そして Gold Coast は彼に大変良いオファーを提出した,これまでのところ A-Leagueにとって彼のカムバックはファンタスティックだろう。

しかし代表チームにとってはそうでは無いでしょう?

Pim : 代表チームにとっては、我々は待たねばならない。 私から見れば、彼は1年待てただろう、そして彼は私がそう考えている事を知っている。 しかしもし彼が幸福ならば、彼は良いパファーマンスでチームにとってファンタスティックであるだろう。 正直に言って私の第一印象は否定的であったがその後 “ 私は Jason はとても良いと知っている。“、そして彼は準備が出来ているだろう、という考えだ。 

Q もし彼の移籍がまだ高いレベルのリーグでプレー出来る他の何人かのキープレーヤーにオーストラリアに帰ってくることへの奨励の一つとなった時にどう思いますか?
Pim : 選手達には世界のベストリーグでプレーしていて欲しい。特にワールドカップの為には。 A-League から高いレベルにステップアップするのであればそれは大きな前進だ。それは選手達による。 たとえもし Jason がそこし下がっても替えはまだ偉大な選手だ。

Q 最後に、あなたはこれまで自分の時間を楽みましたか? 一般大衆からそしてメディアから何かサポートは得られましたか?

Pim : もしあなたが勝てば多くの友人を得られる。 最初から我々は予選を通ってほしいと願う人々の偉大なサポートを得ている。そして彼らは私といて happy だ。 メディアに就いては私のきいたり確認した限りでは私達はカウンターアタックサッカーを遂行している事になっている。 私は時々失望する。  私はまだ今だ考えている、ホームでのカタール戦でどれだけカウンターアタックサッカーを展開したか? ウズベキスタンとのアウェーゲームでは試合のほとんどをコントロールしていた、 オランダ戦、南アフリカ戦の最初の75分間…. しかしそれはファンタスティックな挑戦だ。自分の決定した事に1秒たりとも後悔した事はない。 選手達と仕事をする事は良い事で、A-League の興隆を見ることはここにいる事をファンタスティックにする。 私の得たい事の全てはワールドカップで、そこでは可能な限りのベストパフォーマンスをもたらす事が出来る。 

  


約3週間後に迫ったワールドカップの大一番である日豪戦。 
今だに2006年ワールドカップでの痛恨の逆転負けの印象がまだまだ強く残る。翌年の Asian Cup では勝ったがそれはPK勝ち。オーストラリアでは中継されなかったせいか、日本がハノイでオーストラリアを破ったことを知る人は意外に少なかった.......

代表監督としてはやはり主力選手が欧州に点在して事が選手選考、そして掌握に難をきたすところだろう。それでも Kewell, Kennedy, McDonald, Bresciano, Cahill.....
彼らがどこまでコンディションを上げてくるか..... そして Neil や Culina, GK Scwarzer... 
彼らの状態もどうなって来るだろう......

ワールドカップ最終予選はオーストラリアが首位で日本が勝点2差で2位につけている。共にホームゲームが1試合でアウェーが2試合を消化したが、日本はさいたまスタジアムでウズベキスタンと引き分け、その分勝ち点で差が付いている。

2月のオーストラリア戦は日本が勝たねばならない試合。オーストラリアは引き分けで万々歳といったところか?なかなか本心を語っていると思う。
Asian Cup では高温多湿の状況下であった。このときの Socceroos はこの気候に苦しみとても前年世界でベスト16に、そして優勝したイタリアを苦しめたチームとは思えないまったく別のチームであった。 
2月の横浜では本来の動きができるであろう。しかも欧州はシーン中だ。 そして J-League はシーズンオフ中........

Verbeek 監督は Asian Cup では韓国代表を率いて日本をPK戦で破った。最も彼は最後までベンチにいなかったけど........ 1次予選ではインドネシアで戦うなど、次回のアジアカップに向けてでもその経験は大いに生かされそうだ。 
それにしてもかつて指揮を執った韓国の国内リーグのことをここまでよく言うなぁ.....
この発言は韓国でどの様に報道されるのだろう? まぁだから彼はあっさりと韓国を後にしたのだけれど。  Jade North, Sasa Ognenovski ..... いつでも J-League に来ると良い。今オーストラリアドルはこの4ヶ月で日本円に対して約40%暴落している。いま日本円を稼いだらお得だぞ.....

カウンターフットボールといわれるのを随分と嫌っているようだが、これまでの戦績を見ると3次予選と最終戦のカタール戦を除けば快勝とは言えない試合内容。 FW 陣がそろって万全の状態で臨んだことが皆無に近く少なくとも”1トップ”に頼るといった試合は続いた。 もちろんそれはカウンターフットボールではないのだが。  日本戦では選手がどれだけ揃ってくるだろうか......

あと3週間、日に日に不安と期待が高まるのは日豪のサポーター達に共通したことだろう。  


英国紙が報道した FIFA Club World Cup Vol. 5

2009-01-13 | EURO Football

12月22日 Wayne Rooney Strikes gives Manchester United world domination

日曜日の朝の様に穏やかに昨日 ( 12月21日 ) 横浜で世界王者の戴冠を受けた。ほぼ後半突入後すぐから CB の Nemanja Vidic が退場となり10人でのプレーを強いられたが初めてエクアドルのチームとして Copa Libertadores で優勝を果たした Liga de Quito にリードを許す事無く Wayne Rooney の一撃で勝利を得た。
この大会はそれは彼がたとえ自分のスピード狂には似合わない車を副賞とした大会のベストプレーヤーに与えられる Gold Ball を受け取った時に Rooney の為の大会となった事が確認された。とにかく Rooney が必要なのはもっとモダンな輸送車であるが彼のベストワークは相変わらずでいかなるリムジンよりも素早く走り抜けた 
それはまたもゴールを挙げ今大会108分の出場時間で3得点を決めた事になった事や相変わらず傲慢なるまいではなく、彼のプレーが United を2008年に世界征服を達成させたと言う事だった。

   

一度だけUnited は左サイドバックの Patrice Evra が置いて行かれた事があったがそれをカバーしたのは誰だったのか? Rooney であった。Vidic が退場になった後にCBの Jonny Evans を投入するためにベンチに下げられたCarlos Tevez は気の毒であったが現実的には Manchester United の監督である Sir Alex Ferguson はFWを外してこのフォーメーションにする他はなかった。決して Englishman にはなろうとしなかった。 Cristiano Ronaldo はまだトリックを使って日本の観衆に嘆息をつかせていたあたかも花火を見せているように。しかし73分にまさにワールドクラスの技術でゴールを決め今季の Manchester United のスターの座を射止めたのは Rooney であった。

Michael Carrick が Ronaldo にボールを回しそこから Rooney に送られたパスを彼は完璧な低い弾道のショットがGK Jose Cevallos を破りゴールに隅に突き刺さった。

  

メンタル的に Ferguson はそれまでPKの準備をしていた。なぜならもし United が11人の Liga de Quito を破れないなら10人では充分に対抗しきれないと思ったからだ。 Rooney がその状況を変えた、素晴らしい選手がそうした様に。 “我々は耐えなければならなかった。そして Wayne か Christiano が何か特別な事をする事を願った。” Ferguson はそう語った。時にはもっともシンプルな事が最善だ。

エクアドル側に就いては失望をしたと言わねばならないだろう。 Boxing Day にはもっと野心を兼ね備えた Stoke City と対戦すると多くの傍観者に思わせた。これは少し不公平だ。 Liga de Quito は自分達が不利であると言う事を受け入れゲームプランを練った。彼らは守備に専念し Alejandro Manso と Claudio Bieler こそたまに United に危機を与えたが中盤はそれにリンクせず専守を貫いた。
“かれらは本当にプレーをしたくなかったんだ。攻撃に転じても4人しかそれにからまず、ついに殻に閉じこもり続けた。” Manchester United の GK Edwin van der Sar はこう漏らした。

“我々はもっとすぐれた南米のチームと対戦した事がある。彼らは Gamba Osaka のゲームメーカー Yasuhito Endo 程の選手がいなかった。” Ferguson は語った。
そうだ、いなかった。 Endo こそここで United が相対したベストプレーヤーだった。

しかし Liga de Quito が攻撃にイマジネーションを欠いたが 89分の Manso のロングシュートは試合を決める為には Van der Sar の素晴らしいセーブを必要とした。 “我々はここのはるばる勝つ為にやって来たそしてそれは我々に踏み切り台になるだろう。 チームのスピリットが今日の試合を勝たせた。敗戦を喫した選手達と帰国の途に就くのは厳しい、しかし勝利を手にした。勝つべくしてかったのだ。そしてクラブも我々もそこに行きつく。はじめから言っていた通り人々はこのトロフィーに刻まれた名前をみてもらいたい。そして今後30年間にも。 私はまだそこを見てないが明日ゆっくりと誇りを持ってみる事だろう。” 

主導権を握っていたのは United であったが彼らを窮地に立たせたのは自身であった。48分に Vidic が Bieler と交錯して倒れた時にアルゼンチン人の顔を押さえつけて立ち上がったのが Vidic であった。それは残忍と言うよりもむしろ不機嫌であったがいったん Bieler が自分の任務を終えるとウクライナ人の Ravshan Irmatov 主審は予想通りにレッドカードを取り出した。そして United に狂乱じみた調整を残した。 それは後半の間ずっと静寂をもたらした。 United はそのときありふれたチャンスをものに出来ないという呪いが United や Rooney, Tevez そして朴智星を普段以上に打ちのめすと思われた。 思い通りにならないことに、決定機は先に Liga de Quito に訪れた、そしてフルバックの Jairo Campos は恐らくまだなぜあのようなフリーで至近距離からの絶好機をミスしてしまったのだろうと後悔しているだろう。 しかし彼のしたことは United にとっては幸運であった。 エクアドルのチームは一旦リードを奪うと最後までそれを守る術を知っていそうであったからだ。

    

しかし彼らに無かったのは Rooney の様な選手だった。個人で1分で試合を決めるそして次に最も規律を重んじる選手を。 2004年の欧州選手権以来彼が活躍したのは2度目だ。そして代表監督の Fabio Cappello にとって Rooney は欠かすことの出来ない選手である。 Rooney は大舞台の選手であり Ronaldo は大会の2番目に良かった選手に与えられる Silver Ball を手にカメラの前で満喫していた。彼は自分がこの大会では輝いていないことを解っていた。

    

“シャワー室から出て来たときに携帯電話を見ると友人達の ” Congratulation !! 君は世界王者だ“ と打ってきたメールがあった。それらは私を感激させた。” Rooney は言った。 “ 我々は勝つためにここに来た。そしてそれが出来た。 彼はそれを簡単にやって遂げたように見えた、恐らくそうであったとおりに。 

Liga de Quito (4-4-1-1): J Cevallos 6 J Campos 6 R Calle 6 N Araujo 6
D Calderón 6 N Reasco 5 W Araujo 5 P Urrutia 5 L Bolaños 5 A Manso 6
C Bieler 7

Substitutes: P Ambrosi (for Calle, 76min), P Larrea (for Reasco, 82), R Navia (for Bolaños, 87).
Not used: A DomÍnguez, D Viteri, A Obregón, A Delgado, E Vaca, D Vaca, I Chango.

Manchester United (4-2-4): E van der Sar 8 Rafael Da Silva 6 R Ferdinand 6
N Vidic 5 P Evra 7 Anderson 6 M Carrick 7 Park Ji Sung 6 W Rooney 8 C Tévez 6 C Ronaldo 7 Substitutes: J Evans 6 (for Tévez, 51min), G Neville (for Rafael, 84),
D Fletcher (for Anderson, 87).

Not used: T Kuszczak, D Berbatov, R Giggs, Nani, P Scholes, D Welbeck, J O’Shea, D Gibson, B Amos. Next: Stoke City (a).

DF のNemanja Vidic が Claudio Bieler を肘打ちして退場になったのは 1968年 Club World Cup の全身の Estudiantes との Intercontinental Cup を思い出させた。 アルゼンチンでの第1戦は Nobby Stiles が退場となりEstdiantes が 1-0 で勝利を収めた、 Old Trafford で行われた第2戦は George Best と Jose Hugo Medina が終了間際に退場となり試合は 1-1 で引き分け Estdiantes がトロフィーを勝ち取った。


“We have played against better South American teams,” Ferguson said. “They had nobody even as good as Yasuhito Endo, the playmaker from Gamba Osaka.” And, no, they did not. Endo was the best footballer United faced here…….

上記の文が遠藤を称賛していた文章の原文だ。
1995年、日本代表がウェンブリーで England 代表と試合を行った。結果は 1-2 で惜敗したが、取引際にイギリス人に日本代表の健闘を称える電話をもらった。多くの日本人が聖地ウェンブリーで声援を送っていたことも教えてくれた。自分の父親くらいの年齢の人で一度 World Cup England 大会の話をして貰った事もあった。 この時は海外に駐在をしていてだいぶ後になってビデオで試合を観たが、試合翌日には Guarian を買ってこの試合の報道記事をしっかりと読んだ。そして試合前には KAZU のアップ写真入りで” 日出国のストライカー”と紹介された記事があった。 その時、70年代からの日本サッカー界の長足の進歩を確認できたが、この記事を読んでさらに大きく前進したように思えた。

決勝戦の Manchester United は選手を何人か入れ替えてきた。4日間で2試合というスケジュールを考えれば、アジアと南米のチームを相手することを考えれば妥当なスタメンの割り振りかもしれない。
かつて愛する京都サンガに所属した朴智星がスタメン出場したことはうれしかった。でも日本人選手が欧州のビッグクラブでレギュラーでプレーする日はいつ来るのだろうか??
前年の KAKA そして今大会の Rooney と一人で何かをできる選手がいることは本当に大きい。
世界各地で繰り広げられているワールドカップ予選。 England はこれまで4戦全勝。その原動力はすべての試合にスタメン出場を果たし5ゴールを挙げている Rooney だ。
対戦した相手はアンドラ、クロアチア、カザフスタン、ベラルーシ。あとウクライナとはまだ対戦をしていない。4月1日、ホームでのウクライナ戦で勝利をあげられれば本戦出場に大きく前進できる。
ただ参加国拡大に伴い、かつての様にポーランドやイタリアと一騎打ちの地区予選というようなことはないのでまず本戦出場は堅いと思う。  それでも昨年のEURO2008は予選でおちたいてなぁ.....

釜本邦茂選手以来日本にはそういうストライカーが..... と言われてもうどれだけの月日が経つのであろうか....... いっそ鹿児島城西高校の大迫君に期待する方が早いかもしれない。

今年はこの大会はテレビで見られるのだろうか? そのためにはJ-League のチームにアジアを勝ち抜いて貰いたい。  



 



 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup  Vol. 4

2009-01-12 | EURO Football

12月20日 Wayne Rooney relishes chance of world crown

Wayney Rooney はManchester United のストライカーとして、2列目として幅広く活躍し続けてきたが今や Stretford End のサポーター達の為に新曲を作ろうとしている。
“今週横浜に我々をサポートしに来くれた人達は “ Champions of England, Champions of Europe “ と歌うだろうが日曜日 ( 12月21日)の試合後には3行目に “ Champions of the World “ と付け加える事が出来るだろう。それは素晴らしい事だ。” Rooney は語った。 OK それは Leonard Cohen でなく Wayne Rooney であると言う事がポイントだ。

世界王者と言う言葉は Manchester United をReal Madrid が選手の供給源と見た時にいかに Unitedが自信を Football の先駆者であると測ったり、自覚させたりするものである。 Club World Cup は真冬のさなかに開催されるなにかであると見られる – 少しリーグは突発的な第39節をほのめかすが – United の選手達がその感覚に気付けば気付くほどこのタイトルは勝ち取るものと言う事が明らかになる。
結局は “ 世界王者の 称号と書かれたメダルに価値を感じないスポーツマンはいるのかという事だ。

“私が United に入団した時、このような大会が私の心を横切る事はなかった。もちろんその時の明確な目的は Premier Leagueでのタイトルであり、Champions League でのタイトルであった。そしてそれから Club World Cup への挑戦権が得られるのでその時は考えられなかった。 勝利のメダルをそろえる野望はある。私は既に Champions League, 2つの Premier League タイトルそして Carling Cupと Community Shield のタイトルをそれぞれ勝ち取った。今シーズンの初めには European Super Cup のタイトルを逃し大変失望した。そして、これまで 2回 FA Cup のタイトルを逃している。だから Club World Cup のタイトルは是が非でも欲しいタイトルだ。何故なら次はいつ挑戦できるかわからないからだ。”

  

United の選手達が初日の時差ボケから惰性的な雰囲気が抜けてそして世界王者のステータスを見据える事に真に熱中するさまを見る様になった移り変わりを興味深く見て来た。 
その部分的な事は常に大陸間での試合を重要視すし、準備不足の Liverpol が1981年東京で Flamengo に敗れた様に United が国際舞台の大会で当惑る事を許さない Sir Alex Ferguson によって回避されている。しかし Football が世界的になるにつれて控室の外国人選手達の声やその選出達の大陸の知識が重要となり、そしてトーナメントが英国ではこの試合が行われる最も価値のある名誉が低く見積もられている。 Liverpool が2001年に Bayen Munchen との European Super Cup 戦に臨む前に Gerard Houllier は England の選手達に League Cup の決勝戦は大変重要だと選手達は監督に教えたのでこのタイトルを真剣に取りに行った。なのでフランスでは Super Cup のトロフィーは大変重要な事を教えこの試合に臨み Liverppol は 3-2 で勝利を収めた。
“オランダではオランダのチームが出まいがこの大会はテレビ中継される。 Ajax のメンバーとして1995年に TOYOTA CUP に勝った時は大変うれしかった。私は代表のメンバーとして世界王者になった事がなかった。しかし私は自分の任務を果たした。” GK の Edwin van der Sar は言った。

明日の対戦相手は初めて Copa Libertadores に優勝したエクアドルからやって来た Liga de Quito だ。監督に Edgardo Bauza はアルゼンチンでは有名だったDF選手で310試合で80ゴールを決めた選手だ。それはストライカーとしてでも胸を張れる。そしてドラマを演じようとしれいる。大会が終わればチームを去ると言う。 “我々は World Kings になる事が出来る。我々は既に世界のベスト2に入っている。それは大変満足のいくものではあるが更に上を求めている。” 準決勝での敗者同士で行われるガンバ大阪とメキシコの Pacchucaの  間で行われる3位決定戦、信じられない準々決勝での敗者間で行われたプレーオフに勝って5位となった Adelaide United らの順位を決めた Bauza の議論を別にすれば、彼らが Copa Libertadores の決勝戦でブラジルの Fluminense を破った事は詳細に値する。
“私はかつてフランス代表としてエクアドルと戦った事があるので Quita がどれだけいい選手達かがわかる。もし世界王者になりたければ周到な準備が必要だ。”United のDF選手である Patrice Evra は語った。
DF のGary Neville はいつもの様に最も現実的だ。 ”我々はこの大会を自国やクラブレベルでさえ重要とはみなしていない。しかし同じ様な考えではいけない。イタリア人やスペイン人がこの大会で勝った時の様子を見てみればどれだけ大きな大会であるかがわかる。“ Champions of England, Champions of Europe Champions of the World. それともどうやって The Club Wolrd Cup を案じる事を止めて愛する事を学ぶのだろう。

  

12月21日 Ecuador’s shock troops determined to spring another surprise

灰色のものを恐れるのは Manchester United のほうである。
12年前 Southampton に 1-3 で敗れた試合のハーフタイムでグレーのシャツを変えた時以来かれらはグレーのストライプのユニフォームを使うのをやめた。 Liga de Quito にはそのようなジンクスは無い。 彼らの新しいユニフォームはグレーのストライプがある。快進撃を続けた Copa Libertadores では他の鮮やかな黒のユニフォームを使っていた。 LDU ( Liga Deportiva Universiaria de Quito : 彼らはフルネームで称される事を望む )は番狂わせを狙う。 Liga de Quito が Fluminense を倒すまでエクアドルのクラブが Copa Libertadores に勝ったことはなかった。 United は恐らく Club World Cup の優勝候補であるだろう、しかし Sir Alex Ferguson は対戦相手が驚愕をもたらすチームである事を知るだろう。 
Copa Libertadores の決勝戦の初戦で Fluminense は高地のQuito で 2-4 で敗れた結果に満足していた。対戦相手の高地でのホームアドヴァンテージが奪われた Fluminense のホームでLDU はリードを守れないと思われたからだった。第二戦に臨むブラジル人達は37歳のGK Jose Cevallos を老いぼれた最終ラインと称したのだった。しかし Fluminense は 3-1 でしか勝てなかった。 Copa Libertadores の決勝戦ではアウェーゴールルールは無かった。従って最後の一戦は Cevallos に勝る PK 戦にまでもつれ込んだ。その決定的瞬間は Thiago Neves が時間をかけ過ぎてボールをセットしたショットに相対した彼がまもるそのゴールに訪れた。 Neves がボルをゴールにけり込んだが主審はやり直しを命じた。そしてふたたび Neves は集中をし GK Cevallos がどちらかに飛ぶことを予測し真正面に蹴り込んだが Cevallos は動かず屈辱的に難なくそのショットは止められて Liga de Quito は PK 戦を 3-1 でものにした。 

  

Liga de Quito のよりどころはすぐに監督の Edgardo Bauzo と要約出来る。 
”我々は Copa Libertadores では優勝候補ではなかった、しかし対戦相手が次に進むためには我々を倒さねばならないと選手達に言い続けた。 Bauza は選手時代にそうした様に対戦相手に対抗する。彼は現役時代 El Paton – Big Foot – と呼ばれておりセンターバックながら技術的な要素も兼ね備え108の生涯ゴールを決めている。そして1990年のワールドカップイタリア大会には代表メンバーにも選ばれた。
Bauza は試合後チームを去る事になる。もし彼が万が一勝者としてそうなるならがハンケチが必要とされるだろう。彼のハードなイメージと異なり彼は Copa Libertadores のトロフィーを勝ち得た後に泣き出してしまった。

     

Bauza だけが Quito を辞めるのではない。何人かの選手達は海外でプレーする野心をもっており、 Club Word Cup は欧州に行くチャンスを勝ち取るものと見ている。 Copa Libertadores の英雄 Jofee Guerron は既に Getafe に移っている。
スペインは Bauza のアルゼンチン人ストライカー Al ejandro Manso と Claudio Bieler にとって最も希望する目的地である。 

 

 

Luis Antonio Valcencia のWigan Athletic での成功は Liga de Quito のエクアドル人選手にとって Premier League でのプレーを考えさせているだろう。 23歳の幅広いプレーヤー Luis Bolanos は選ばれると思われる。 Balanos は 印象的な水曜日の準決勝戦、2-0 で降したメキシコのPacchuca 戦では2点目を決めている。そのゴールはLiga De Quito のチームワークと組織力が集約されていると言われている丁寧なフリーキックから生まれている。 Pacchuca の支配率は64%であった、しかし彼らがビルドアップする際にはプレスを感じそしてカウンターアタックを食らった。 

 

“ Liga de Quito の守備は強固で相手ゴール前では非常に危険だ。典型的な南米のチームだ。" Ferguson は語った。これは半分正しい。 Manchester United と世界王者の間に立ちはだかる彼らは他の南米のクラブよりもずっと難しい相手だ、しかし彼らも他のチーム同様 Manchester United を恐れている。

1995年の TOYOTA CUP の試合がオランダで報道されたとき、日本のサポーター達はハーフタイム中に弁当を広げ Rice Ball をほうばり始めた、と付け加えられており、地元サポーターのゲームに対する”興味の低さ”ぶりが紹介された。しかも数人の子供達がお弁当を食べている写真付きで。 
欧州ではハーフタイム中に”食事”をする習慣は少ない。しかし私が鮨を食べ始めた時は周りに人が集まってきた...... 観客は概ね男性か家族連れがほとんどだけどどんなに寒くてもハーフタイム中には売店に殺到しビールを求める。列を作る”習慣”もないのでそこは修羅場だ。殺到する場所はあとトイレだけど........

中学の時に海外放送を聴くことがはやり私もそれにはまった。今でも時間さえあれば...とは思うのだけど。南米大陸からはエクアドルの HCJB が日本語放送を行っておりよく聴いたものだった。その時はエクアドルがワールドカップに出場するなんてまず考えられなかったが、それは日本も同じだった。

LDU の Edgardo Bauza 監督は19歳の時にアルゼンチンの名門 Rosario Central のトップチームにあがり1982年のシーズンまで6シーズンで310試合に出場し80ゴールを挙げた。そして1990年メキシコのCD Veracruz に所属している時にワールドカップメンバーに選ばれた。背番号は5番だったが出場機会はなかった。 しかし指導者としてもここまで能力を発揮するとはさすがだ。
Pacchuca 戦ではボール支配率は低くても 2-0 できちんと結果を出すところは南米の強豪の証明。試合後の Pacchuca の監督、選手達の落胆ぶりをみるとよほど自信と相手の Name Value を量って試合に臨んだことだろう。

大ベテランのGK Jose Cevallos は1998年ワールドカップフランス大会予選からエクアドル代表歴があり、今でもワールドカップ予選ではエクアドルゴールを守る。残念ながら2002年大会は出場機会がなかったが、来年の南アフリカ大会への出場を目指す。
欧州行きがうわさされる Luis Bolanos もエクアドル代表として目下南米地区予選を戦っている。 

欧州勢に”クラブ世界一決定戦”の舞台に興味を持って引っ張り出させるためには欧州大陸以外のクラブがこのタイトルを取り続けることがこの好ましい。
その一番手として毎年南米勢には期待しているのだが。
今年はどうなるのだろう
........                                           
      次回に続く 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup Vol.3

2009-01-10 | EURO Football

12月18日 Sir Alex Ferguson turns to old guard for Machester United in  Club World Cup

Sir Alex Ferguson は自分の崇高なベテラン選手達を近い将来徐々に削減していくこと述べていたその一方で東京の多くのSFお宅の期待を損ねないその冷徹な言葉でロボット的なその人間のついた嘘は結局人々の心を打つことを発見したことはいい事だ。  England のクラブチームとしては初めて Club World Cup のタイトルを Manchester United に狙わせる Ferguson は本日(12月18日)の準決勝、ガンバ大阪戦では Gary Neville, Paul Scholes そして Ryan Giggs に出場を与える機会を見つけた。  そこには現実的な理由も選出の背後にあった。 United は4日間で2試合をこなした後は長旅の後に地元に帰って Boxing Day に Stoke City との試合が控えており、 Ferguson は疑いも無くアジア王者のガンバ大阪には若い最強のメンバーで臨む必要は無いと見積もっている。そこには生齧りの感傷があるのだろうが、現在の Manchester United の成功を築いた選手達が Ferguson の望みを確実にするために Nissan Stadium ( 大会のメインスポンサーは TOYOTA であるが、競技場はネーミングライツの関係で Nissan Stadium と呼ばれる ) のピッチに送られる。
Scholes, Neville そして Giggs らはもしガンバ大阪を破ればおそらく日曜日の決勝戦には出てこないだろう。しかしそれは Old Trafford を変えるチャンスのサインだ。
世界のメディアが伝える Scholes に替わって Ferguson の隣に座る人物は創造的なインテリジェンスを持った United のCentral Midfielder のMichael Carrick だった。United に21シーズン在籍した Giggs は朴智星にとって替わられ、 Nani が左ウィングのポジションを占める。
今も United の主将であるNevile は最も頭を悩ますところだ。例えもし Rio Ferdinand が Premier League トロフィーを掲げる姿がみられて、England 代表でのポジション確保が Ferguson を安心させ、もし仮に右サイドバックのポジションを若い18歳 Rafael Da Silva が有能でなければ。
この3人の選手は United の中では“黄昏”の選手達であることは疑いない。  Ferguson の心は決まっているがそれにもかかわらず、彼ら歴史を作った男達は長年勤めた副官のごとくこの任務を遂行しようとする姿には敬意を払える。

“彼らを再び今回の様に見られる事は難しいだろう。 Ryan は21年ここにいて Paul と Gary は19シーズン目になるそしてWes Brown は我々と13年ここにいる。これは完全に例外的なことで我々は大変ラッキーだ。全てのクラブが選手達とこうなることを臨んでいるだろうが今日の自由契約ではこれ以上見られるとは思えない。 Rafael が国際試合で抜けた時を除けば私のベストメンバーだ。 この大会のように12人もベンチに選手を置いておけることは安心させてくれる。 Premier League でも同じようにしたいのだが。国際的な選手をスタンドに置くことは恥ずかしいことで、それを告げることさえ私は恥ずかしい。彼らとて試合には出たい。しかし若い選手達が台頭してきても彼らは素晴らしいプロフェッショナリズムを発揮してくれる。彼らの行為が勇気付けられる。 Gary Neiville と West Brown を観てみれば彼らは England でも最高の右サイドバックの選手だとわかる。しかし、今は少し問題があるのでブラジルからやってきた Rafael を今は起用している。かれは言葉がわからないが Football は解る。全ての選手達が彼をサポートする。  Gary Neville が右サイドバックでインパクトを見せた時、多くの彼と同じ年齢の選手達がチームにいた。それは兄弟だった。私は Gary を England 代表でも使い続けるだろうがゲームに出ない彼を Fabio Capello が起用することは難しいことだ。私は Gary を知っているが Fabio はそうではない。彼の問題は理解できる。
Paul Scholes に就いては彼の能力を測るのは容易ではない。なぜなら彼は全てにおいて常に良いからだ。先週の Aalborg 戦で彼の幅広いプレーは我々の試合に秩序をもたらす。彼はファンタスティックな選手で、私にシーズン当り 12~15ゴールをもたらしてくれた。今はそれが出来ないが他に彼のインテリジェンスとポゼッションコントロールはといった強さをもたらしてくれる。
Giggs は同様に国際舞台ではベテランの選手でここ東京で1999年に Palmeiras を破った試合では Man of the Match に選ばれた。 
Ferguson の大会への尊敬のコメントは続けられる。 Ryan Giggs は Club World Cup のトロフィーは最も入手し難いもとと語る。なぜなら UEFA Champions League で勝たないとこの大会に出られないからだ。 

   

“それらを全て成し遂げても更に南米王者を破らねばならない。彼らもまた我々が成し遂げたことをやってきたのだ。我々が Palmeiras を破った時、監督はこのクラブはまだ世界王者になった事がないと念を押してくれたので集中することが出来た。そして今は更に大会は大きくなった。世界王者になると言うことは Manchester United を違ったクラブにするという事だ。歴史、数々の成功、 Busby Babe, ミュンヘンの悲劇、偉大な選手達、クラブ、 Sir Alex のもとでの勝利。それら全てを合わせると膨大なものになる。他のどこにも魅惑されたことは無いそれらは地元の選手達に還元されるものだ。 私や Gary Neville の様な選手はどうすれば United の選手となれるかをわかっている。そして若い選手達のよき模範となる。 United でプレーすることは異なったことだ。それを伝えていくのは次の世代の選手達による。” 

    

12月19日 Wayne Rooney’s two-goal salvo takes Manchester United into World  
              Club Cup Final

不思議な民族、それは日本人。彼らは我々の最も野性的な想像を超えた創案を引き出す事が出来る – MP3 トイレに醤油のでる箸 – しかし彼らはシンプルなコーナーキックと中盤からのスルーパスは止められなかった。もしそれで出来ていたなら、 Manchester United は決勝戦に進めなかっただろう。

カーボンコピーの様な Ryan Giggs からのCK からの2得点で試合は前半で決まったと思われた。しかし後半息を吹き返したアジア王者のガンバ大阪に対しては72分に交代出場した Wayne Rooney riposte ( フェンシング用語で防御から攻撃に移ること) が必要となった。 欧州の征服者のエゴにとって幸運だったことに、ガンバ大阪は Giggs のCKへの抵抗の試みと同様に Rooney の動きを取り扱う事が出来なかった様に見えた。スコアーを見ると恐らくその通りであっただろう。

United の監督Sir Alex Ferguson は試合前は日本の Football の大きな前進に就いて話し、単にホスト国に優しいだけではなかった。 ガンバは United に追いつけなかったのだろうか – 後半彼らが 2-1 としたその直後に Rooney がすぐ2点差に突き離し、ガンバの最後の2ゴールは 5-1とされてからのものであった – 彼らのプレーの中には。特に彼らのゲームメーカー Yasuhito Endo の素晴らしいパスワークなどまとまった印象付けるものがあった。
3失点を喫したものの Ferguson は GK のEdwin van der Sar を自分の Man of the Match とされた。 それ以外は18分間ピッチに入った Rooney であった。火曜日夕方の練習中の負傷に為に Ferguson はスタメンで彼を起用するリスクを回避した。 Rooney に替わってベンチに下がった Carlos Tevez は自分の存在が Rooney の登場によって弱められた様に見られる。
Rooney がピッチに入るや否や全ての United の攻撃がゴールに結び付いた。自分達の持っている全ての方法では無かったが最後の17分間で両チーム3ゴールずつ合計6ゴールが生まれた。 Ferguson は束の間ナーバスになった事を認めたが3点目の Rooney のゴールで勝利を確信した。 もう一人の交替選手 Darren Fletcher のパスが送られたがやはり最後に決めたのは England の FW の攻撃の動きが Fergason を満足そうに話させた。
“見てみたかい? 彼は2回動きを見せた。横に動いて下がり、横に動いて下がった。そして選手としての選手としての決定的な仕事をこなした。我々は彼を本格的な No.9 に育てようとしている。シーズンの多くをそのポジションで使おうとしている。なぜなら彼の動きや強さそして突出したもとは大変重要だからだ。”
確かにこのカメオは, Rooney は引き気味のポジションでターゲットマンをサポートする方が向いていると信じた人々は機知に富んだ答えであった。

“ Wayne は投入されて我々に機動力を与えた。数年前で彼は穴に落ちた選手,( スペースを必要とする選手 ) と言われたが、今や今や中盤を疾走するセンターフォワードだ。彼はより Alan Shearer に近くなるだろう。しかし Shearer はゴールを狙うマインドをもっているが Rooney はチーム道徳の考えをより持っている。しかし今や彼はチームの No.9 だ。そしてもし私が Centre Back として彼と相対したならば他の選手と相対するよりもずっと深い位置を取り彼のペースやポジションチェンジと同じスピードで位置を変えるだろう。彼の様な強さとパワーをもった選手に密着するのは難しい。“  ティームメイトの Gary Neville は言った。

Tevez はハードワークをこなした。いつものように。
しかし前半の United のリードは殆ど彼によるものでなく右コーナーフラッグからの Giggs の正確な CK からだ。28分 Cristiano Ronaldo のショットが阻まれえたCKから Giggs は完璧な弾道でマークから外れた Nemanja Vidic の頭に合わせた。このときガンバのDF陣は Ronald に気を取られていた。
   
前半終了間際には全く同じCKの弾道が今度は Vidic にマークが集中していてマークが甘くなっていた Ronald のヘッドに合わされた。
   
後半が始まる前には United はゲームを収束させる為には Rooney の助けなど必要とするはずではなかったが最終章になり両監督は喜んだり悔しそうにしたりするふりをする。ガンバは対戦相手に煙に巻かれる間に最後は大胆になってきた。 Masato Yamazaki が Endo からのパスを受け、Rio Ferdinand を振り切りゴールを破り J-League のチームをすぐ手の届くところに押し上げた。
殆どその後のキックオフの直後に Rooney は抜群のボールコントロールで二人のセンターバックをかわしてゴールを決めた。その二分後には Nani の左からのクロスに Flecture が頭で合わせて4点目、そして Giggs のスルーパスを受けた Rooney が5点目を決めた。 スコアーは日本人を酷く打ちのめしたが United が本当に攻撃全開を始めたことを疑うものはいなかった。 Rooney の投入をより引き立てたのは Michiro Yasuda が Neville からPKを勝ち取り、Endo が印象的にクールなPKを決め、Hideo Hashimoto の素晴らしいシュートが敗北の尊厳を演出した事だった。

  

“ Wayne は世界で最高の No.9 だ。 彼はこのポジションを担うどの選手よりもより多くの道具を備えている。彼にはただゴールを決める時間が必要なだけだ。決勝戦のある土曜日(12月21日)はガンバが許したほど Liga de Quito の選手達は “時間”を与えないだろう。故に彼は United が完全に任務を果たす為に5ゴールも必要にならない事を望んでいるだろう。“ Ferdinand は語った。  

  
Gamba Osaka (4-3-1-2): Y Fujigaya — A Kaji, S Nakazawa, S Yamaguchi, M Yasuda — H Hashimoto, Y Endo, T Myojin — Lucas — R Bando (sub: S Terada, 84min), M Yamakazi. Substitutes not used: N Matsuyo, T Futagawa, Roni, T Shimohira, S Kurata, T Takei. Booked: Yamaguchi.

Manchester United (4-4-2): E van der Sar — G Neville, R Ferdinand, N Vidic (sub: J Evans, 68), P Evra — C Ronaldo, Anderson, P Scholes (sub: D Fletcher, 67), Nani — R Giggs, C Tévez (sub: W Rooney, 72). Substitutes not used: Park Ji Sung, M Carrick, D Welbeck, Rafael Da Silva, J O’Shea, D Gibson, T Kuszczak, B Amos. Booked: Rooney.

Manchester United はこれまで何度来日したのだろう?そして日本のチームと何回”親善試合”を行った事があったのだろう? 
1989年8月初旬、既にワールドカップイタリア大会のアジア予選で敗退の決まっていた日本代表は Everton と Manchester United を招待し”対抗戦”を行った。日本代表は約1か月前にイタリアワールドカップのアジア地区1次予選で早々と敗退していた。なのに7月にはブラジル代表との”記念すべき”Aマッチを含む南米遠征。そしてこの試合。さらにアルゼンチンのボカ・ジュニアーズとの”親善試合”が組まれるなどその当時でも”何で今更...." と思ったものだった。8月4日に行われた Everton との試合は水沼貴史のゴールで先制するも後半に3失点を喫し敗れ、3日後神宮球場で行われた Manchester United の試合も 0-1 で敗れた。その後日本代表の試合は1年後、北京で開催された第1回 ダイナスティカップ までなく,このUnited 戦
が水沼の日本代表の最後の試合となってしまった。
Manchester United には当時 Barcelona から戻ってきた Mark Hughes, Neil Webb そして Bryan Robson らがいた。そして指揮をとっていたのは Alex Ferguson 。 私は当時まだ独身で会社が神宮球場からそう遠いところにはなかったので仕事帰りに試合観戦に立ち寄らなかった事を今でも後悔している。
Neiville は開幕戦はベンチ入り出来なかったが Villareal との CL戦、そして Chelsea 戦はフル出場を果たした。しかしその後はベンチから外れる試合が続き12月10日の Champions League の AaB 戦では久しぶりにスタメン出場を果たし77分間プレーした。この試合には Gyggs はスタメンで45分間、そして Scholes は後半からそれぞれ出場を果たしたがこの試合は消化試合でもあった。 大会直前の Tottenham 戦では Gyggs, Scholes は揃って69分から投入され Neiville はベンチ入りするも出番は無かった。 Scholes は開幕戦の Newcastle 戦こそフル出場を果たしその後も9月17日の C.L.  Villareal 戦を除いてスタメン出場や途中出場を続けたが10月4日の Blackburn Rovers 戦でベンチで外れてからは故障のせいかベンチ入りも出来ず AaB 戦でようやくピッチに立てた。
Gyggs は3人の中では最も出場機会に恵まれ開幕戦ではスタメン出場を果たし10月18日の WBA 戦、10月25日の Everton 戦そして11月22日の Astonvilla 戦でフル出場を果たした。しかし他の試合では交替出場が多く今季はかつてほど長い時間ピッチに立てていなかった。
ガンバ戦では”3人揃い踏み”が観られると言う幸運に恵まれたが、それが Ferguson 監督の指摘する”決勝戦に向けての主力温存”といわれるとちょっと.......と思ってしまう。

多くの日本国民あ楽しみにしていた Club World Cup での Manchester United 戦は
”壮絶な”ゴールの応酬のであったが、恐らく前半に United が2点を入れたので後半ガンバが1点を還すことが出来て、 1-5 まで点差が開いたのでガンバの2点目、3点目が決まったと言えると思う。 惜しむらくは前半の先制ゴールのチャンスであった播戸のシュート、そして 1-3 とされた後の遠藤の直接 FK を GK van der Sar にストップされた事。 Ferguson 監督が彼を " Man of the Match " に挙げ様とした事もよく理解できる。私が最もうれしかった瞬間は橋本のゴールが決まった直後に van der Sar がゴールポストを蹴り上げて悔しがったシーンだった。
しかし試合内容を”善戦”と感じるガンバの選手は皆無だった。 Rooney が登場してからの10分程度しか彼らは本気を出さなかったと思っただろう。
だがUnited も幸運があったと言えるはずだ。3人目の交代選手Rooney がピッチに入る準備をしてた時に山崎のゴールが決まって 2-1 となった。山崎のゴールが決まる前から交替の準備をしていた選手が Rooney 以外の選手であったなら行方はどうなっていだか.....?

  
United の選手達の目には J-League はどの様に映ったんだろう?事前にリネカーに何か訊いたのかな?? 
しかし、試合終了後 Rooney を初め殆どの United の選手達はユニフォームの交換に応じた。それは United の選手達がガンバの選手達を対戦相手と”認めた”からだろう。遠藤は青のユニフォームのまま試合後のインタビューに応じそのままロッカールームに消えていった様だったが後で誰かと交換したのかな...... 2002年ワールドカップではブラジルの選手達は誰も中国の選手達とユニフォームを交換しなかった。 それにしても MP3 トイレとはなぁ.....

ガンバの選手達は試合のスコアーに浮かれる事はなく続く Pachuca 戦をものにし、勝利で日程を終えた。そして1月1日には天皇杯決勝戦に勝利しACL出場権を手に入れた。これはもう一度世界への挑戦をと思わせた彼らの野望であると信じたい。
    続く                             


英国紙が報じた FIFA Club World Cup Vol 2

2009-01-08 | EURO Football

12月17日 World Champions tag attractive to Sir Alex Ferguson and Manchester United

もし Mancheste United が Premier League のタイトルを守りたいならば、何人かが言う様に、極東から西に向かうべきだ。 チームの監督であるSir Alex Fergason まだその事を聞いていない。日本で開催される Club World Cup に欧州代表として参加する事を要望された運命よりもむしろ、今回、彼の指揮するチームでは最も強固な守備陣に与えた自分の望みが大会が翌年 UAE に移る翌年には魅力の無くなるものになる事を危惧したり嘆いたりしている。
他の多くの傍観者と異なり Fergason は常に大陸間の大会の渦中にありそれが Football または Manchester United の歴史の一部である事を認めている。彼は1999年 Felipe Scolari が率いる Palmeiras を今は無き TOYOTA CUP で破り、England のクラブチームの中ではは一人彼が国際大会のトロフィーを勝ち取った事がある現役監督として留まっている。
そして1968年 England のクラブチームとしては初めてこのタイトルに臨みアルゼンチンの Estudiantesde la Plata に敗れた事を思い出させた。 それ以来England の Football が軽蔑と敗北を同じ物差しで混同した。失礼な Liverpool は 1977年と1978 年に、そして Nottingham Forest は 1979年にこの大会に現れず更に3大会に渡って敗北が続いた。 Nottingham Forest は1980 年にウルグアイの Nacional に、 Liverpool は 1981年にブラジルの Flamengo に1981年には Aston Villa がウルグアイの Penarol に敗れた。Fergason の野望が United をEnglish 王者から欧州王者そして世界王者に進行させた。彼は馴染みのない7チームのエントリーと摩訶不思議な予選システムを取り入れ、忙しい週末にManchester United のゲームを組み込むと言った飢餓的に再びこの大会を組織したFIFA の支援を受けているわけでは無い。この環境下では Fergason には大会の美徳を強調する事により Club World Cup に実直さを貸し与えさせる事となる。

“大会参加の核心は30年に渡って人々がレコードブックを見た時に Mancehster United World Champion と振り返ってくれることを望んでいることだ。これはクラブが求めている事で勝つことが重要だと言う事だ。トロフィーというものはクラブに名声を加える。”と彼は述べた。 “異なった相手とプレーする事は我々に害を及ぼさない、これはエキサイティングな事だ。しかし我々のここに来た最大の刺激はこれが世界選手権と言う事だ。12月に Premier League のタイトルは勝ち取れないが世界王者にはなれる。だから終始一貫してこのタイトルを狙う。確かに Premier League が進行しているのにここに来たと言うハンディは負わねばならない。しかしそれは成功には付きものである。我々は European Cup に勝ったからここに来たのだ。だから翌年も Abu Dhabi にやって来たい。何故なら我々はまた欧州王者を目指しているからだ。私に言わせてみれば、言うまでもなくここに来た事が今 Premier League で起こっている事よりも重要性にまさる。” 

Fergason はこの大会の重要性が高まる事のみを見ている、彼が全ての世界規模のクラブゲームを拡大させる過激な提案に眉をひそめる事には興味を持って留意していた。懸案となっている国際大会のゲームにより Premier League のクラブチームが“第39節”を受け入れる事に就いては苦行を表した。
“もし国内プログラムを見ればそれは不可能だと思う。 第39節目を行うことなど考えておらずそれを施行すべきでないと信じている。”と Fergason は述べた。

  

Manchester United は 横浜で初戦のアジア王者ガンバ大阪戦に向けて最終調整を行った。 Fergason は23人の選手団とここにやって来た。従ってガンバ戦は次の南米王者、エクアドルの Liga de Quito と メキシコの Pacucha 戦の勝者との試合に向けてやや駒落ちのメンバーで臨むと思われる。

12月17日 Why the Club World Cup is one big mess 

FIFA はそれを Club World Cup と呼ぶ。しかし Manchester United が東京に到着した現地時間12月15日月曜日の午後4時には既に帰国しているチームがあった。
ほぼ大会から締め出されそうで, ここしばらくワールドカップには御無沙汰でかつてはこの地域では最強であったがアジア連盟への飛び入りが認められたオーストラリアが抜けたオセアニア連盟のチームと、そしてより驚くべき事にアフリカ連盟所属のチームはほぼ1週間前にもう姿を消していた。
そしてこの混乱した大会には特にかつての England のストライカーで今は新聞のコラムニストである Stan Collymore にとっては二次的な大惨事の被害もあった。Manchester United が日本で失望に直面している時に彼は大会前のリサーチ不足粗末な支持と変則的な日程に罪を感じている。

“ エジプトの Al Ahly の様なチ-ムが勝ち上がってくるだろう。彼らの国内でのゲームはタフで今大会でもベストクラブとなり得るだろう。” と書いていた。
これらの貴重な解説は Collymore の考えが紙上に載る2日前に Al Ahly がメキシコの Pachuca に敗れた為に Bookmaker を大いに失望させる事となった。
ここは他人の不幸を喜ぶところでは無いしかし、そこは神の好意なく半数以上のスポーツライターがFIFA の大会開催の論理が話されようとした時に行ったところだ。

例えば 日曜日(12月14日)にガンバ大阪に敗れたAdelaide United の登場を例にとってみよう。彼らはオーストラリアからやって来た。彼らはオセアニア連盟の代表であった。しかし違う。ソロモン諸島等を破って大陸王者となったわびしい New Zealand の Waitakere United がそうであったが、 Manchester United 一行が Heathrow 空港でチェックインする3日も前に Adelaide United に敗れたためそう思われるのだ。
オーストラリアがアジア連盟に所属する事を2006年1月1日より許されたという事実を除けば、 Adelaide United がオセアニアでは最強のクラブチームだ。故に彼らは Asia Champions League を戦った。ならば彼らはアジア王者として日本に来たのか?それも違う。ガンバ大阪がアジア王者で週末に今シーズンのACLの決勝戦同様 Adelaide を破って勝ち上がってきた。ならばなぜ Adelaide は登場したのだろう?
なぜなら FIFA が開催国、今回は日本だがーのチームは Club World Cup に出場できると主張をしたからだ。そういう意味ではJ-League 王者の鹿島アントラーズが登場してもいいのだがガンバ大阪がアジア王者になった時に7チームの出場枠に日本から2つのチームは多過ぎると考えられたので鹿島アントラーズの替りに Adelaide のエントリーがオーストラリアのチームなのに許された。面白く素敵なジョークではないか? まず最初にFIFAが開催を試みた開放されたクラブの大会は滑稽であった。2000年にブラジルで開催された Club World Championship は2つのブラジルチーム間で決勝が行われ南米王者を決める Copa Libertadores に勝ったことがない Corinthians の優勝で終わった。彼らはただ開催国の王者として参加が許されたにすぎず Vasco da Gama が1998年の Copa Libertadores 覇者として出場を果たした。 1999年6月28日に Copa Libertadores で優勝した Palmeiras は FIFA を大いに悩ませる事は無かった。 Palmeiras は Corinthians と同様 Sao Paulo のチームで FIFA は Rio de Janeiro をベースとした地元の興味を惹きたかったので同市の北部にある Vasco da Gama をノミネートした。徐々に明らかになった事は Manchester United の参加は、たとえ他に何か方法がありそうだったが、その年の FA Cup を棄権する必要があったことだった。しかしこの9年間で最も明らかになった事は FIFA はその経験から何も学んでいない事だった。少なくとも 2000年の大会は出場数正しかった。偶数の参加チーム数はシンプルな進行をもたらした。企業イメージを変えた Club World Cup は特殊な数の7チームで構成されている。 FIFA の役員達は誰も算数の授業に注意を払わなかったのだろうか?  

Club World Cup は喜びを与えるもので Football Season 最大のハイライトで名声がありエキゾチックで決まった期間に開催の名誉を各大陸に回すために持ち回りで開催すべきものだ。必要な6つの出場クラブ数、各大陸王者の6チームとで開催都市の2つの競技場だ。 England だけなら少なくとも6個所開催できる。
まず開催地の問題から考えよう。もし FIFA が地元の無関心を恐れるなら大会は参加資格のある各大陸王者の地元を持ち回りで開催すればよい。従って今年の場合なら、持ち回りの順番にもよるが、大会はマンチェスターかキト(エクアドル)カイロ(エジプト)大阪(日本)パチューカ(メキシコ)またはオークランド(ニュージーランド)のいずれかになる。遂行できないだろうか?5つか6つのケースなら可能だ。 Manchester は問題無い。 Old Trafford と City of Manchester Stadium がある。
一方大阪にはワールドカップでも使われた50,000 人収容の長居競技場があり更にガンバの本拠地 Expo’70 ( 万博競技場 ) は21,000 人の収容が可能だ。それがだめなら36,000人収容の室内野球ドームもある。オークランドにはクリケットやラグビーで使われる47,000人収容の Eden Park があり、ラグビーリーグで使われる 30,000 人収容の Mount Stadium もある。 エクアドル王者の Liga de Quito は55,000 人収容のスタジアムを持ち、別個に近所の Olympic Stadium があるがこれはライバルの El Nachional の本拠地でエクアドル代表がここで試合をする時はコンスタントに 40,000 人は観衆が集まる。Cairo International Stadium には 71,000 人の収容能力があり近くの Cairo Military Academy Stadium は30,000 人をやや下回る。(すぐに増設され2倍の集客がある。) 残った Pachuca だがここは同じ Hidalgo 州には地元 30,000 人収容のEl Stadio Hidalgo 以外は競技場がない。しかし60マイル離れたメキシコシティーには巨大な50,000人収容の Azteca Stadium がある。我々はそこまで行ける。

開催地問題は片付いた。 大会フォーマットは早急に改善せねばならない。我々のルールでは参加出来るには大陸王者のみだ。6つのチームを3つずつ2つのグループに分けて総当たりでグループリーグを行い、各組1位チームのみ決勝戦に進める。そうすれば各チーム最低2試合多くても3試合を12試合日に渡ってこなす事となる。最初の試合は火曜日と水曜日に、第二節は土曜日と日曜日に最終節は火曜日か水曜日に。そして決勝戦は土曜日に。何とシンプルなのだろう?
シードは三つに分かれ(オセアニア/アフリカ、アジア/北中米、欧州/南米 )それぞれ最上位にシードされたチームが消化試合を生まぬように常に最後に試合を行う……
FIFA の最善策が殆ど彼らからすれば気ままな手配に過ぎないのではManchester United の 監督 Sir Alex Fergason と選手達らがClub Word Cup は勝利に値するものと断固として心に秘める事は容易でないだろう。現実的にはクラブ世界一になる事は素晴らしい挑戦だが実際にはこの大会でタイトルをとってもその通りとは考えにくい。 Fergason は1999年東京で Palmeiras を Intercontinental Cup で破った時でも自分のチームには充分な名声が与えられたとは考えていない。そして彼は正しい。しかし誰の責任だろう? FIFA は普遍的にクラブトーナメントの実直さを与える機会を策略によって価値を下げる事によって取扱いを間違っている。

翌年の大会は Dubai で開催され、現在 UAE League で首位を行く Al-Jazira が大会に組み入れられる事を楽しみにしている。 しかし 偉大な大会の権威が無礼に取り扱われたFIFA の失敗がある一方、大会に興味のない欧州クラブの横柄さはしばしば Intercontinental Cup の価値を蝕んできた。
前の Liverpool の主将であった Graham Souness は1981年東京でブラジルの Flamengo と対戦する時にこの試合は功労賞であることと怪我をしない様にと言われたと嘲笑う。 Liverpool 対 Flamengoと言う2つの世界でも屈指の偉大なチーム同士の戦いは、大会により敬意を払っていた南米王者の Flamengo が当然の結果を示した。おそらくそれは Liverpool が全くいい処なく Man of the Match に選ばれた ZICO や Junior を擁した Flamengo に 0-3 で敗れた試合後の Souness の自己弁護に過ぎぬかも知れないが。欧州王者が南米王者に敗れた時の言い訳としては大変便利な言い訳がある。それはただ効果の欠乏と言う事だ。そんな馬鹿な話はない、世界でも最高峰のプレーを披露するチームならもう少し出来るだろう。

United の今後五日間の日本に勝つ為にやって来たと言う振る舞いはここに来るまでの長旅の価値があり、称賛されるであろう。 United の選手達は手強いエジプトの Al Ahly との対決を逃れる事が出来たがもっとも奇怪な対戦はもはや Club World Cup のピッチにはいない。チューリッヒの事務所に座りシンプルでスタイリッシュであるべく素晴らしい世界レベルのフットボールのイベントをより困難に、より当惑させそして破壊させようとする。それでは最初から始めよう。まず7チームでどうやってやるんだい? Sepp 君、何もないよ。

  

第一回 TOYOTA CUP を楽しみにわくわくしながらテレビ観戦したことを良く憶えている。月に2回発行される雑誌でしか見れなかった選手達がテレビで見れる。特に2年連続で欧州王者に輝いた Nottingham Forest のプレーに期待していた。
結果はウルグアイの Nacional Montevideo がビクトリーののゴールで 1-0 で勝利を飾った。当時趣味でよく聴いていた BBC の日本語放送を通じてこの試合が地元でどの様に報道されるかも楽しみだったが、地元ではこの試合があった12月は現在の Premier League と異なり”冬休みフ中”であるということがかなり強調されていたらしい。TOYOTA CUP 自信があまり興味をひきつける大会ではないと考えられたのだろう。最初の5大会、南米勢がタイトルを勝ち取り続けたばかりか、欧州のチームが大会初ゴールを挙げるのに4年掛かった。
かつて”名誉ある孤高”を守り続けた英国であるが、この Club World Cup に対しても Ferguson 監督の”孤軍奮闘”ぶりが解る気がする。ガンバや REDS がいくら健闘してもその事を三日と憶えてくれる欧州人は皆無かもしれない。

こんな話をかつて欧州の人と話したことがあったが彼は私を慰めるようにこう言った。”私の国では自分がサポートするクラブチーム以外は全く興味を示さないサポーターばかりだ。自分のチームのことなら何十年分のデータが頭に入っているが、人によっては World Cup の事も憶えていないものだ....."

この話をしてもらった時に私は少し安心した。
そして言われた”来年 World Cup が開催されるのはどこだったっけ?日本は出られのか? ” 
そして答えた”日本と韓国の共同開催ですよ。” 

でも我々も人のことは言えない。今年と来年、どれだけの人が Club World Cup のことを語るだろう? 日本のチームが出なくてもテレビ中継どこかでしてくれるかなぁ....           続く 


英国紙が報じた FIFA Club World Cup VOL.1

2009-01-08 | EURO Football

12月14日 Manchester United :It's Red Planet 

企業イメージを変える事は究極の無意味をもたらし事も。郵便局が Consignia と名前を変えた事によりGood Service の良識は道に迷ってしまい、 Coca-Cola は New Coke という旗のもとに殆ど崩壊してしまった。両社は共に名前を元に戻した。その一方で Magic Trick となり得る事もある。UKTV G2 は単に社名を Dave と替えただけで英国視聴率ランクを29位から10位に上げた。
FIFA は World Club Championships からClub World Cup に名前を変えた事で大会が Consignia よりもDave になる事を望んでいる。 Manchester United は World Club Championships に出場するのはブラジルで開催された2000年以来。
この時は欧州からは Real Madrid と Manchester united の出場が強いられた。
Rio de Janeiro で開催された当時の大会には世界から8つのクラブが出場。その中で大陸王者の称号を持って出場したのは4チーム。優勝した Corinthians は国際大会で優勝した事の無かったチームだった。
Manchester United と Real Madrid という大会を彩るチュームはこの大会にいやいややって来た。 Manchester United は F.A. の要請により 2006年ワールドカップの開催権を勝ち取る為にブラジルにやって来た。そして日程変更を繁雑にさせない為にそのシーズンの F.A. Cup からの辞退を余儀なくされた。 Fergason 監督は当時のブレア首相に他の国会議員を黙らせる様に電話で依頼した。 
主力選手達もこの大会参加に不快を感じていた。
“我々は理解出来なかった。 League Cup も始まっており3回戦まで進んだのに何故F.A. Cup を辞退せねばならないのか?”  Ryan Giggs は語った。
Roy Keane は “ F.A. Cup , それにまつわるもの全てを失った。  Wembley で民俗音楽に乗ってトンネルをくぐり、 Royal Box にまで登ってメダルを受け取る。 それらすべてが…… “  後に自書に記している。
議論は彼らが Ipamena Beach のホテルにチェックインした時から始まっていた。
チームはぞっとさせられる一連の起こりに悩まされ続けた。
Real Madrid には大会が始まるまで毎日記者会見が催されたが Manchester United には選手達を激高させる様にそれが1回だけしかなかった。そして Community Project の一環であった リオのスラムの見学は参加8チームの中で一番最後に充てられ地元報道陣の間で彼らは “ お高くとまった“とか ”むっつりとした“ と報じられたので初戦の Necaxa 戦では地元サポーター達からブーイングで迎えられた。
その Necaxa 戦は殆ど惨事と言えるもので David Beckham のハイタックルにレッドカードが出されて以降の47分間を10人で戦い、試合終盤に Dwight York のゴールで何とかあまり知られていないメキシコの Nexcaxa と引き分ける事が出来た。
続く Vasco da Gama 戦も惨事であった。 Gary Neville の二つの失策で 3-1 で敗れた。尚も悪い事に United の Martin Edward 会長がその敗戦前夜に娼婦を部屋に連れ込んだとの騒動に巻き込まれた。リザーブメンバーで臨み South Melbournen を 2-0 で破ったUnited の最終戦は意味のないものであった。
この大会は大変低調なものでFIFAは以降5年間開催をする事はなく歴史的な国際大会トヨタカップに併合され日本に移された。
Necaxa 戦は巨大なマラカナスタディアムで灼熱の中8,000人の観衆の前でキックオフとなった。この大会を Real Madrid のメンバーとして出場した Steve McManaman は “ Manchester United や Real Madrid の様なクラブは参加した全ての大会でトロフィーを勝ち取る事を目指し旅行気分で出かける訳では無いが、この大会の運営が良かったとは思えない。私が覚えているのは暑さと FIFA が派遣した人々がいたるところにおり全てのホテルで躍起になっていることだった。地元ブラジルのチームが登場する時はファンは真剣になるがブラジルのチームが相手でない試合は10人程度の観客の前でプレーをしていた。”

   Corinthians 2000

McManaman は今シーズンの Manchester United の状況を良く理解しており日本側がブラジルよりも緩和した状況を提示したとし、 United が2試合しかプレーしないトーナメントにしても、好ましくない影響が Premier League に出て来ると分析している。 1999-2000 のシーズン United はリオデジャネイロに乗込むまで Premier League のタイトル 争いの好位置につけていたがシーズンが終わると Chelsea と Liverpool の後塵を拝した。 United がブラジルから帰国した時 Liverpool が差をつけていた。そして試合日程に上手く乗じた。 Fergason のチームが1月14日から3月4日の間に12試合こなせねばならなかったのに対し Liverpool と Chelsea は8試合しか日程が無かった。
“ Real Madrid は2000年のシーズンには多くの試合で敗れた。ブラジルからスペインに戻った時は殆ど最下位の順位で以降順位を上げる事はなかなか出来ず最終的には5位でシーズンを終えた。“  McManaman は言った。 “今回 United は遅れを取り戻すべくプレーをしようとするだろう。彼らはただ試合を先送りさせるだけで無く長旅を終えるとすぐに最も難しい時期クリスマスと年末年始の期間に遭遇する。トウキョーでは常に Premier League で何が起こっているかが気になるだろう。” 
Fergason は UEFA CUP 以外にまだ勝ち取っていないトロフィーを掴むチャンスだと言う事を強いられるであろう。 彼は 2000年のシーズンに選手達に動機付けをした“自分達が世界一だと証明したくはないかい?”という同じ質問を用いねばならないだろう。木曜日(12月18日)の Manchester United の相手は Adelaide United を破るであろうガンバ大阪になりそうだ。攻撃の観点からみるとガンバ大阪は守備的に来るだろう。 Copa Libertadores の王者 Liga De Quito が日曜日( 12月21日) の決勝戦の相手となりそうだがその前にエクアドルのチームは北中米王者のメキシコの Pachuca の挑戦を受けねばならない。
Cristiano Ronaldo マニア達は地元にも増えている。彼は David Beckham, Ronaldinho, Roberto Carlos と言ったセットボールのスペシャリスト同様、そのセットプレーが多くの日本人の間で人気を博している。日本のあるFootball writer は 2002年の Beckham 程では無いが Ronaldo は今や Ronaldinho や Kaka と同じくらいの人気がある、 と述べている。

12月16日 Sir Alex Ferguson sees no future for 39th game
Sir Alex Ferguson は今シーズンの“第39節”についてはありえないとし Manchester United はそういう日取りも取れないと主張した。 United の監督は今 明日から2試合せねばならないClub World Cup 出場の為に日本に滞在中で Wigan との試合は延期されている。細かくて読みづらい日程には他にも Champions League や国内の2つのカップ戦が含まれているが第39節目の施行については考えられないとの事。
“第39節目を行うことなど考えておらずそれを施行すべきでないと信じている。私はそれを好まない。我々の国内のリーグ戦の日程を見てみればそれはカップ戦と調整されているので不可能である。”と述べた。
Fergason のチームは木曜日 ( 12月18日)にガンバ大阪と相対し恐らく日曜日(12月21日)にはエクアドルの LDU Quito とのゲームとなるだろう。 “ 異なった相手とのゲームはなんら害を及ぼさない。“ 指揮官は言った。 “まず、ここに最初に来た1989年と比較すると日本の Football は進歩を遂げたのは明らかだ。技術的にも組織的にも長足の進歩を遂げている。Football について、日本は若い国だが進歩を続けている国は素晴らしい選手を輩出する。”
Fergason は United が Club World Cup を軽んじ無関係なものと思われている事を否定した。
“これは真剣な挑戦と捉えている。England では我々と同じ考えを持っていないようだが。1960年に欧州王者が南米王者と対戦し世界一をきそうようになり4年前までそれが続いた。しかし世界は進み、日本や韓国、中国の様な新興国が力をつけてきた。したがってこういった大会には各大陸からバランス良く参加するべきだ。 ここでは困難があることは確かだが設備等は素晴らしく今や12時間のフライトも快適に過ごせる。30年間の間 Manchester United は世界王者だったんだと振り返ってもらえる。これが我々の求めていることでありそれ故にこの大会に勝利し、勝利が重要に値する。”
Fergason は選手達のフィットネスの仕上がり具合を見て Asia Champions League で Adelaide United を降し勝ち上がってきたガンバ大阪との試合のメンバーを決める。 GK のBen Forster は 練習中の指の怪我でチームから離脱することになった。

12月17 Dimitar Berbatov out of Club World Cup Semi-final against Gamba Osaka 

Dimitar Berbatov は明日( 12月18日)ニッサンスタジアムで行われるガンバ大阪戦は欠場するであろう。そのブルガリア人ストライカーは日本へ向かうフライトの機中でウィールスにかかり、到着ご一度も練習に参加できていない状態である。 Wayne Rooney もまたトレーニング中の打撲で今日のトレーニングに合流できるかは不明。 “ Berbatov は良くない。 Rooney は火曜日の練習中に打撲をしたが試合には間に合うと期待している。“ Fergason 監督は語った。Cristiano Ronaldo, Paul Scholes, Gary Neville そしてRyan Giggs らは大丈夫だろう。予想されるスタメンは下記の通り。

Van der Sar, Kuszczak, Amos, Neville, Evra, Ferdinand, Vidic, O'Shea, Evans, Rafael, Ronaldo, Anderson, Giggs, Park, Carrick, Nani, Scholes, Fletcher, Gibson, Rooney, Tevez, Welbeck

2000年リオデジャネイロで開催された FIFA World Club Championship は翌年にはスペインで12チームが集って行われることとなっていた。大会前に出場する事が決まっていたジュビロ磐田はグループリーグで Real Madrid と対戦することになっていたが、 FIFA のマーケティング会社 International Spot and Leisure 社が破綻したことで大会自体が霧散してしまった事を覚えている方は多いだろう。
1887 年8月13日、Scottish Cup 王者の Hibernian F.C. が FA Cup 王者の Preston North End に "挑戦”した事が最初と言われている。そして翌年は同様に Scotland の Renton F.C. が West Bromwich Albion との間で覇が競われたがこれが”クラブ世界一決定戦”の始まりとされている。しかし当時は英国でも国際大会は home International が最重要視されクラブチームで最も大切だったのはF.A. Cup の様なカップ戦であった。
FIFA 主催のクラブ世界一決定戦は 1951年 ブラジルのリオデジャネイロで行われたが、当然ながら欧州と南米の間のみで行われた。この試合にはFIFA 会長 Jules Rimet 氏が Vice President を現地に送り2試合が行われ大会名は"Taça Rio" と名付けられ、サンパウロの Sociedade Esportiva Palmeiras が Juventus Torino FC を破り世界王者に輝いた。2000年に再びリオでクラブ世界選手権が開催された背景はこの試合があったのかもしれない。
1960年から南米と欧州のがホームアンドアウェーで一騎打ちでクラブ世界一のタイトルを争うようになった。1962,1963年には神様ペレを擁した Santos が大会連破を果たしたが欧州勢のモチベーションが上っていたとは言い難かった。特に England  勢は 1977年から3大会連続 ( 1977, 1978 Liverpool , 1979 Nottingham Forest ) Europe Champions Cup を制しながら Intercontinental Cup は棄権を続け、1980年 TOYOTA CUP がスタートしてようやく European Champions Cup 1979-80 を制した Nottingham Forest が出てきた。
1968年 Macnester United が欧州王者として Intercontinental Cup に出場しアルゼンチンの Estudiantes La Plata と対戦した。 Old Trafford で行われた第二戦では終了間際に George Best と Jose hugo Medina が退場になる激しい試合であった。 Estudiandes にはチーム史上屈指の名選手と言われた Juan Ramon Veron がいて MF には後にアルゼンチン代表を World Cup Champion に導いた Carlos Bilardo らがいた。そして Sir Matt Busby に率いられた United は Best の他に Bobby Charton, Denis Law 、 GK Alex Stepney  ミュンヘンの悲劇を経験した Bill Foulkes, 後に United のコーチを務めた Brian Kidd らを擁していたが 1分1敗で "世界王者”の称号は入手できなかった。
しかしながら England 勢のみならずクラブレベルの世界大会に興味を示すチームは皆無に等しいのは今も変わりなく、 Club World Cup 2007 で浦和REDSが AC Milan 相手に”善戦”したことを憶えている人は欧州にどれだけ居るだろうか?また AC Milan が2007年世界王者の”戴冠”を受けたことそしてこの大会に参加した事を憶えているミラニスタはどれだけ居るだろうか.......

  

12月14日付けの新聞ではその時点でまだ対戦相手が決まっていなかったのでガンバ大阪のことが少し紹介されていた。そこには Yasuhiro Endo の名前があった。そして Adelaide United の事も。しかしかつてブラジル代表のロマーリオがゲストプレーヤーとして”存在”していたことは述べられていたが今もブラジル人選手が居ること意外は何も詳しく述べられていなかった。

Football はまだまだ欧州だけのものなのかもしれない 
  続く