Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

試合後 グラウンドの2階にて

2006-11-25 | Aussie & Kiwi
2階にあがると室内は薄暗かったが、テレビや映画で見たことのある本物のスポーツパブの雰囲気であった。最近のパブみたいに大きなスクリーンこそ無かったが。日本にあるみせかけのものとは違った本物の雰囲気だ。天井からはニュージーランドはもとより、世界中のクラブチームのマフラーがぶら下がっていた。特に目を惹いたのはクロアチア代表や Hajduk Split やDinamo Zagreb そして Rijrka のクロアチアもの。この地域はクロアチアからの移民が集っている、と教えてくれたのはAuckland でプレーをしていたと言う先程の人だ。この人も幼い頃家族でニュージーランドに移り住んで来た、との事。さっそく今年のワールドカップでのクロアチア戦の話をした。もちろんその試合はテレビで見ていたらしくフランス大会と比較して日本が随分進歩していたと言ってくれた。そしてドイツにもクロアチア系の移民が多いので多くのクロアチア人が駆けつけたはずだとも。私も隣席はクロアチア人だった事、そして試合後はお互いに抱擁を交わした事、そして物凄く扱ったことや川口がPKを止めた事等に話が咲いた。そしてその試合で憶えたクロアチア国歌の知っている小節を口ずさんだら、周りの知人達に“この日本人はクロアチア国歌を歌っているぞ”と紹介してくれた。そして1人、また1人と入場者が増えて来た。目を移すと何とさっきまでプレーをしていた Auckland City FC の選手達だ。私達の近くには岩本が座って日本人女性を通じて?地元の人と談笑していた。先程の後方タックルとは随分様相が違った。そして子供達がペンとプログラムを持って選手達の間を廻ってサインを貰っている。岩本の近くに来たが、相手が日本人なので声を掛けられない。そこで私が“すんませ~ん。この子達にサインしたってください。”と言うと“はい。良いですよ。”と子供達のプログラムにペンを走らせた。こちらで更に現地人と話をしていると、“あそこにいるのは All Whites ( ニュージーランド代表 ) の監督 Ricki Herbert 氏だ”と教えてくれたので早速サインを貰いに…. こころよくサインや記念撮影を引き受けてくれ、彼の方から“日本人ならルーファーを知っているだろう?”と話題をふられた。Rufer Rynton こそニュージーランド史上最高の選手と言われ、奥寺と共に Werder Bremen そしてジェフユナイテッドでもプレーをした。http://www.wynrs.co.nz/page/wynton_rufer.html
そして“私は ZICO とも対戦したよ。”と。Herbert 氏自身も当然この1982年ワールドカップスペイン大会にも出場している。そして今でも憶えているのはワールドカップでの先に3点を取られて2点を取り返し、最終的に2点を追加されたスコットランドとの壮絶な試合。その前のワールドカップ予選でのアウェーでのサウジアラビア戦の 5-0 の勝利。こちらも興奮していたので上手く伝わったかな?と そして今回の Auckland City FC がニュージーランドサッカーの良いプロモーションになればと結んでいた。 
やがて一緒にビールを飲んだ地元の人達が帰ることに。“またここに試合を見に来てくれ”と言われ、硬い握手を。岩本の契約は7週間だが、それ以降でも時間が許せばと思う。世界中どこでもサッカーはあるのだ。室内をひとまわりしていると岩本の仙台時代の写真が。その横に日本でのキャリアが紹介されている。そして何人かの選手達からサインを貰った。御礼と“ See you in Japan “ と挨拶も忘れずに。そして肝心の岩本が帰り支度を始めている。飛んでいってサインを貰おうとすると、ここで少し話をした邦人の方が”テルさん。少し待ってください。“と引き留めてくれた。”京都のサポーターの方です。“と付け加えてもくれた。非常に礼儀正しくサインをしてくれた。”サンガのユニフォームでゴールを決めてくれた試合をスタジアムで見ましたよ。怪我に気をつけてください。“と言うと、これまた礼儀正しく”どうもありがとうございます。“と一礼し、外の車の方に向っていった。岩本を引き留めた邦人の人にもう一度御礼を良い、ここの従業員にタクシーを呼んで貰い私も帰途につくことにした。タクシーを待っていると、背の高い選手が誰かとビールを片手に話している。対戦相手の Team Wellingotn のGK Bannatyne だ。彼にもサインをと声を掛ける。そして”ここだけの話、あれはコーナーキックですか?”と訊ねると彼は即答で NO と首をふった。日本と対決する日を楽しみにしています。というとにっこり笑って頷いてくれた。
ニュージーランドはFIFAランキング131位(2006年11月現在。日本は47位。なぜかウズベキスタンが45位) しかしたかがニュージーランドと言うなかれだ。日本がアジアの高い壁の向こうから世界を眺めていた時に既にワールドカップ出場を果たしているのだ。 12月10日豊田スタジアムでAuckland City FC はアフリカチャンピオン、エジプトの Al Ahly と激突する。Al Ahly は昨年に引き続き連続出場だ。実力的には最も劣ると思われる Auckland だが、そこは何が起こるかわからないサッカー。非常に楽しみになって来た。 そして岩本輝雄。このチームでプレーをした後、どこに行くのだろう? また新たなキャリアを始められればと思う。 雨はすっかり上がり青空が広がっていた。

Auckland にて イ・ワ・モ・トッ ! テルオッ !!

2006-11-22 | Aussie & Kiwi
ハーフタイム中にベンチにいる選手達はボールを蹴ったりして身体を動かす事を知ったのは日本リーグの試合を見る様になってからだ。これが高校生くらいなら監督、顧問の先生の話を聴く様にとのことであろう。岩本がボールを蹴り出すかなと思っていたらゴール裏に待機していた日本人と話を始めた。そしてそこにもう1人日本人が加わり記念撮影まで始めた。後で最初に話していた人は現地の彼のコーディネーターである事がわかった。そしてこの様にハーフタイム中でも写真を撮ったりサインをしたりとは現地ではあまり珍しい事ではないらしい。そして岩本は他の控え選手と一緒にボールを蹴り出した。気の毒なのはアウェーのWellington の選手達。彼等のコートの半分は地元の子供達のミニゲームと言う“ハーフタイムショー”に占領されてしまった。岩本の背番号53番は随分重たい重たい様に思えたが、これは故障した右足首のリハビリの為にNHKの企画で東海道五十三次を踏破したことに因んでつけた番号らしい。本当にサッカーが出来る状態ではなかったらしい。前節の試合Christchurch遠征に帯同せずに当地の邦人の人達はがっかりしたとの事。この試合も出番はあるかな?後半開始時には両チーム選手交代はなかった。今度は開始から Auckland が押す展開。48分には Gordon のクロスに Jordan があわせるがGKがブロック。11分には右から Mulrooney が上げるが中に居る2トップの Young と Jordan は僅かに届かない。この右のMF Mulrooney は England の国籍だ。12月の FIFA Club World Cup の出場権を勝ち取った事で話題になっている Auckland City FC だがこのチームはセミプロのチーム。とうよりも New Zealand Football Championship 所属8チーム全てがアマチュアチームと言える。選手全員は他に何か仕事を持っていると思われる。そんな中 Auckland City は昨年設立されたらしく、2004-05, 2005-06 と連続優勝を果たしている。そして今年5月地元開催の Oceania Club Championship で優勝を果たした。

http://en.wikipedia.org/wiki/Oceania_Club_Championship_2006#Match_Schedule

タヒチのパペーテで行われた昨シーズンのこの大会にも Auckland City は出場したが優勝した Sydney FC と今年の決勝戦を戦った AS Pirae に1次リーグで破れ準決勝には進めなかった。 もし今シーズンもA League で優勝したSydney FC がいたらどうなっていただろう? 
後半から Wellington ゴール裏に観戦の場を移したが横で日本人女性が熱心にビデオを回して試合の動きや岩本の動向を映している。あまりに熱心にビデオ撮影しているので、声を掛けられなかったが、その向こう側から現地の人が色々彼女に話しかけ、応対しているの聴いて判ったが彼女も岩本のコーディネーターの1人らしい。その望遠付きのカメラのおかげでベンチの岩本がコーチの指示を受けユニフォームに着替えているのが判った。そろそろ登場かと思ったとき、 Wellington の右サイドバック Birch が怪我の為 Smith と交替した。このSmith もかつては New Zealand U-20 にも選ばれた。 そしてその2分後、地元サポーター達からの拍手に送られて岩本が登場した。ポジションは左MF。身長180cmでKIWI の選手達の中に混じっても見劣りしない体格だ。サンガ時代の岩本へのテーマ曲と最後に"イ・ワ・モトッ!!テルオッ!!”と叫んだ事を思い出す。まさかここでは叫べないが。早速左サイドから来たボールをワンタッチで右サイドの味方に早いパスを出し、周囲をうならせる。他の選手との違いは攻撃面だけでなく守備面でも能力を発揮し、相手ボールになってもボールを追う事だ。そしてワンタッチで局面を変えるなど、格の違いを見せる。そしてCK のこぼれ球をペナルティーエリアのやや外から半身の態勢でシュートを放ちながらも球道はおしくもポストをかすめたがしっかりとゴール方向を捕らえ、観客からは拍手喝采だ。一方の Team Wellington 、後半は良い所が無い。 Auckland の右サイドバック All Whites にも選ばれた実績もある Jonathan Perry が効果的に上がってくるので前方の攻撃陣4人と ボランチの間が開いてしまいボールが繋がらず防戦一方。GKが代表の Bannatyne でなければあと1~2点は入っていただろう。そして試合もこのまま終わろうかと言うロスタイム、右コーナー付近でボールをキープした Wellington のDFの後方から岩本が激しくタックルを入れた。審判は直ぐにホイッスルを鳴らす。DFは怒りを露に、しかし岩本は淡々とした表情。すると主審がレッドカードを岩本に見せる。すると踵を返した岩本はそのまま控え室に直行した。そしてその数秒後にホイッスル。終了直前に彼がなぜあんな無用な反則を犯したのか判らない。さっき日本人女性に話しかけていた地元の人も同じ事を私に尋ねてきた。後日彼の公式ホームページを見ると“こちらの選手は直ぐにボールに来なくて足に来る”と書かれていたので、その前に何かされたのかもしれない。 その地元の人に彼はどんな選手だったか?とか訊かれて話が弾むと、その人の仲間がやって来た。その仲間はかつて Auckland ( どこのチームかは訊きそびれたが) でプレーをしたらしい。そして一緒にビールを飲もうと誘われた。グランド内にある控え室の2階がパブの様なつくりになっていて、そこで話をしようと言う事だった。 そこには…….

Auckland にて 岩本を観た !!

2006-11-21 | Aussie & Kiwi
来月10日から始まるFIFA Club World Cup 。今年も日本人選手が参加する。岩本輝雄。かつて我が愛する京都パープルサンガにも所属し、1998年のシーズンには試合に敗れたとは言え国立競技場での浦和レッズ戦でゴールも決めてくれている。(私の記憶が正しければ。) 1993年代表がドーハで散ってから、ファルカンが代表監督になって何度か召集されたものの広島アジア大会で韓国に敗れ、代表監督が加茂周氏に替わってからお声が掛からなくなったのを憶えている。もしこの大会が日本以外で開催されたら昨年のKAZUの様に Auckland FC に岩本輝雄が加入する事があったかはわからない。ただ私が知りたいのは何故彼が必要とされたかだ。その回答を得られそうな貴重な機会に遭遇できた。
11月18日、ニュージーランドで一番の大都市 Auckland 。私を乗せた機体が Auckland に到着した時は雨が降っていた。初めて乗った Air New Zealand は満席にも関わらず快適であった。少なくとも Qantas よりかはサービスも客席のすわり心地も断然良く感じられた。 本当はシンガポール経由のルートを模索していたが何故かさっぱり空席が無く。東京からの直行便を余儀なくされ、その上週末のフライトは満席。金曜日の出発となってしまった。税関を抜け市内までバスに乗り、ホテルにチェックイン出来たのはフライト到着からわずか1時間半後であった。 部屋に入り地元紙に目を通す。目的は欧州遠征中の ALL BLACKS の動向だ。England 相手に歴史的勝利を収めただけでなく France をも連覇し今年の Tri Nations から絶好調。英国 TIMES 紙は早くも 1987年の第一回ワールドカップを制した時とのメンバー比較までしている。地元紙も次の France 戦も期待出来るような内容だ。他の紙面に目を通すと当日 午後3時からAuckland City FC の試合があるとの事。これは思い掛けない行であった。外はまだ雨が降り続いている。しかしここまで来てこの幸運に巡りあえたのだからと自分を納得させつつ外出の身支度を始めた。

ホテルから出てもまだ小雨模様であった。ホテルのある Down Town からタクシーで約20分。試合が行われる Kiwitae Street グランドに到着した。立派なピッチコンディションであったが、観客席はせいぜい100人程度が収容出来るくらいか?それでもゴール裏やタッチライン沿いには熱心な地元のサポーター達が。そして岩本効果?か日本人も多く目に入る。時刻は3時少し前なのに試合が始まる気配が無い。心配になって地元の子供に“何時から始まるの?”と訊ねると“3時半”と教えてもらった。これも雨の影響かな?ピッチに目を移し岩本を探すとすぐに彼を見つけることが出来た。すると遠目に目があった気がしたのか?彼が右手を高く上げた。周りを見回すとそれに応じる日本人も居ないのでもう一度彼を見るとまた右手を挙げてこちらを見ているので、私も右手を顔のところまで上げて振った。本当に私を見てたのかな?やがてストレッチからボールを使った練習そしてシュート練習が始まる。 ゴールのすぐ後ろでその練習を見られるので迫力はすごい。ただ岩本が撃つ番になるとあまり良いクロスが入らない。大丈夫かなここのウィングは?(今はウィングと言わないか?) 岩本はなかなかウィンドブレーカーを脱がないのでこれはベンチスタートかな?と思っているとやはりそのとおりだった。両チームの選手達がロッカールームに消えていく。その間に地元の人達が声を掛けて来る。質問内容は決って TERU こと岩本の事だ。驚いたことに彼が京都サンガでプレーしていたのを知っている地元の人がいた。敷地内の片隅でTシャツなどのグッズを売っている人とも話が弾む。“日本に来ますか?”と訊くと“Off Course “ と応えた。彼に見所の選手を教えてもらう。何しろまったく予備知識がないものだから。New Zealand Football Championship は8チームがホームアンドアウェー総当りでリーグ戦を行い今シーズンはこれまで6試合を終えて Waitakera が1位。 Auckland City は3位でこの日対戦する Team Wellington は4位だ。 上位2チームが来年のオセアニアクラブ選手権に出場出来る。最も力のあった New Zealand Knights が昨年から A League に参加してしまったのでリーグのレベル低下が心配されているらしい。 試合開始の3時半近くになると雨もすっかり上がった。選手のスタメン発表がアナウンスされ、両チームの選手が控え室から出て来た。

この日の対戦相手Wellington は長身190cm の Peter Halsted が1トップで2列目が2人その下に1人と前線にダイヤモンドを形成する。その下にボランチを2人置き、DFラインは4バックだ。Auckland は3バック。その前に左右1人ずつを大きくサイドにおいて2トップの下に3人の2列目を配している。監督が先週降りて今は監督不在でコーチが指揮を取っているらしい。こういう環境の変化は新加入の岩本に悪影響を与えないか心配になる。試合は開始からアウェーの Wellington が優勢に進める。2分には長身の Halsted がゴール前で競って落とした所を Barbarouses がシュートを放つが GK Nicholson がセーブ。Barbarouses はまだ16歳のNew Zeland U-17 の主将。Wellington はトップの Halsted をめがけてこぼれた所を2列目の Barbarouses や Graham Little が詰める。Little はベテラン35歳。167cmと小柄だがドリブルも上手くベテランらしくポジショニングもボールの受け方も1日の長がある。14分にはあわやのミドルシュート、15分にはドリブルからグラウンダーのシュートを逆サイドに放つ。そこにHalsted が走り込むが僅かに合わなかった。Wellington は ボランチ Wilson、Eager の押し上げが早いのでゴール前で数的優位が保てる。Eager は未だ17歳だが既に N.Z. U-20 にも名を連ねており今年はオーストラリア U-20 チームとの試合で勝利した試合にも出場している。来年、カナダで日本と対戦するかな?ラグビーで有名なニュージーランド、サッカーでも1対1の局地戦はあたりがすごい。体のぶつかる音が聞こえてくるが、選手達は何ともなさそうだ。Auckland は相手ゴール前に近づくほどボールが繋がらなくなる。選手間でも約束事云々より兎に角ドリブル突破にチャンスを見出そうとしているが、そこまでテクニックの高い選手は見あたらない。 Wellington が攻撃に転ずれば何か可能性が見られる。Wellington は25分、ゴール正面でFKを得る。5人が壁を形成するが、Patrick の放ったシュートは壁を破ってゴールに。しかしGK Nicholson がセーブをして得点を許さない。 Patrick はかつてのリーグ得点王だ。攻撃では良い所がなかった Auckland であったがこの時間から左サイドバックの Dean Gordon が積極的に上がるようになり左から攻撃の起点が作れる様になった。24歳のGordon はロンドン生まれの24歳。かつて England の U-21 で13試合出場経験がありミドルスブラ、コベントリー等にも在籍し昨シーズンはキプロスの Apoel Nicosia でプレーをした。ようやく28分に Gordon のドリブルからチャンスから Jordan ( 2トップの右 ) がナイスクロスを入れるが中の Great Young には Wellington MF Birch がしっかりとマークに着いておりシュートを撃たせない。Young は南アフリカ国籍の35歳。同国代表歴もありベルギーの Ghent でもプレーしたベテランだ。マークに着いた Birch は27歳のMF。かつては U-17 にも選ばれた。しかしまだ試合は中盤でボールをつなげる Wellington が優位に進める。36分には Birch がミドルを放つが惜しくもバーを越えていく。Auckland はロブを入れる様になるが GK Phil Patterson が落ち着いてケアーする。スタンドのAuckland サポーターからはブーイングが飛ぶが、それを笑顔でかわす。 Patterson は195cmの長身でニュージーランド代表 All Whites のGKだ。今年セビリアとの試合もゴールを守った。だが彼を驚かす事が起こる。 40分競り合いのこぼれ球が Patterson の前に跳ねて来る。そしてそれをわざと取らずにゴールキックとしたつもりが主審はCKの判定。これには Patterson も怒りをあらわにするが判定は変らない。そのCKを Auckland MF Jonathan Smith が頭で落とし、走り込んだ Gordon が Wellington ゴールに蹴り込み Auckland が先制点を挙げた。このゴールに怒りを爆発させた Patterson はボールを拾い上げると大きく前に蹴り出してしまった。よくイエローが出なかったものだ。 こうなると Auckland の動きが俄然良くなる。 ゴール直後、スコットランド国籍のBrayan Little の左からのクロスから Young が放ったシュートはGK Patterson の正面。そして右サイドの Coombes からのクロスはゴールポストを直撃する。 そして前半終了の笛が鳴る。Auckland サポーターの前を控え室に向う Patterson が走り過ぎるが大変なブーイングだ。今度はPatterson も振り向きもしない。 岩本はピッチの中をゆっくりと駆け出した…… つづく

日韓中戦 昌原の試合で あのカップルは誰?

2006-11-20 | 五輪 U-20, U-17
洪明甫”監督代行“は朴主水に代わって白智勲を投入した。前半日本ゴールを脅かし続けた朴主水を外してくれたのは多くの選手をテストしたいからか?と思っていたら後で朴は風邪で体調を崩しておりプレーもこの試合を休もうか?とも思っていたらしい。 このコンディションで、う~ん。さすが代表レベルだ。韓国の英雄、洪明甫はかつてベルマーレでもプレーをし、その時に日本の反町五輪監督とは試合前のストレッチ等のパートナーだったらしい。そして井原コーチとはもう語る必要が無いだろう。しかし、両監督、コーチには試合中そんな感情に浸る暇はないだろう。 後半、日本のメンバー交代は無かった。前半35分あたりからボールが繋がるようになりようやくペースが掴みかけてきたのでもう少し様子を、と言う反町監督の判断だろう。監督の”入れろ!入れろ!“の声が響く。それでも韓国は60分スローインを受けた李根鍋が田中(大宮)を振り切りクロスを入れ、中では梁東が柳楽を振り切ってシュートを放つがGK松井がセーブ。 昨年のFIFA U-20に出場した松井も所属先の磐田には川口がいて五輪チームでは大分の西川がレギュラーを張るので実戦でのプレーが少ない。しかしこの試合では時間を追う毎に安定感を見せており、また西川が怪我をしたのでこの間にアピールをしたいところだろう。先制を喫したときは大変な悔しがり様だった。そして日本が徐々に攻撃の形を構築出来るようになった。62分、左サイドからのロングフィードを右サイドで受けた水野がドリブルで姜敏寿を振り切りシュート。サイドネットを揺するに終わったが水野の突破が目立ってきた。そして65分、逆襲に出た相手ボールを奪った柳楽から5本のパスを繋いで上田(磐田)に渡り、さらに左サイドを疾走する渡辺に出し、渡辺が入れたクロスは走り込んだカレンにドンピシャのタイミングで合い、日本が同点ゴールを挙げた。しかし、カレンは淡々と余り喜びを表わさない。レプレイで見るとカレンはこの絶好のクロスを空振りしており、右から詰めた安泰垠の頭に当たってゴールに吸い込まれていったものだった。 五輪チームでのレギュラーを狙うカレンにとっては何とか結果を出したかっただろうが。 しかし安の右には谷口(川崎)が詰めており安が触らなければJリーグで10得点を挙げている谷口が何とかしていただろう。それよりも、この攻撃は永久保存版の素晴らしい build up であった。そして日本は1対1でも韓国選手に競り勝つ様になって来た。このチームでも選手の順応性はさすがと思わされる。そして韓国はロングボールが更に多くなるが2列目以降のフォローが遅れがちになり始めた。71分、反町監督は田中に替えて前田(広島)を入れて2トップ気味にし、細貝を最終ラインに入れた。72分に韓国は金勝龍のFKがフリーの梁東を目指すが梁は空振りをしてくれた。76分、洪明甫監督代行はセットプレーで日本を苦しめた金勝龍に替えて長身195cmの沈愚燃を投入すれば反町監督は反対に169cmの高校生、乾貴士を渡辺に代わって入れる。日韓共に監督の思惑が感じられる交代であるが、残り10分になって再び動きが良くなるのは流石韓国だ。81分韓国はCKを姜敏寿に合わせる、完全にフリーだ。そこに谷口が慌ててマークに寄るがGK松井も出てく来てゴールががら空きだ。そこに一瞬早く姜が頭で合わせ無人の日本ゴールにボールが飛ぶがクロスバーを直撃し姜は天を仰ぎ日本イレブンは胸を撫で下ろす。 日本も乾のドリブルでチャンスを作ろうとするがシュートには至らない。韓国の執念はすごい。85分には李根鍋のドリブルから最後は呉章銀が、86分には白智勲がミドルレンジからあわやのシュートを放つ。87分にはカレンを下げて津田(流通経済大)を入れて前線でのボールキープを期待するが、91分には白智勲が左サイドを突破し中にいる梁東に入れ、フリーでシュートを撃たれるが松井がセーブ。 結局4分あったロスタイムが過ぎても両国得点は生まれず、1-1のドローに終わった。 翌日の日刊スポーツなどはこの試合内容に”O・Gドローが精一杯“”日本U-21 五輪険し…”ふがいない戦い 云々“と悲観的な行しか載せないが、彼等は一度このメンバーと韓国のメンバーを比較する事を薦める。確かに前半は受身になり後手を踏む事が多かったがそれを後半には修正してくるところは評価すべきだ。
一方の朝鮮日報ではかつて“日本キラー”であった趙広来氏の解説が寄せられている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/15/20061115000050.html

朴主水の攻撃力はやはりU-21レベルでは突出している事、金勝龍のFK等のプレースキックは今後の大きな武器になりうる事、そして李昇、李根鍋の右サイド攻撃を評価し、後半集中を欠いた事が日本を勢いづかせたと適切な論評を残した。

それからたまにテレビに映し出されたカップルは韓国のテレビタレントのキム・ギボム、Ara(コ・アラ)でハーフタイムにはグランドに降りて観客に出演するドラマの紹介までしたそうだ。これはこの試合を中継するSBSが新作ドラマの宣伝の為に企画したもので地元サッカーファンに“やりすぎ”ひんしゅくをかったそうだ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/15/20061115000041.html

でも日本も前科がある。日韓定期戦最終戦となった(来年から復活するらしいが)1991年の試合は長崎で開催されたがこれは長崎~東京に就航した航空会社がスポンサーになった為で、ハーフタイム中はこの宣伝が流され続けたらしく、更に日韓定期戦はずっとNHKにて全国中継されたがこの試合は地元局のみの中継で当時の数少ないサッカーファンからは大顰蹙の日韓戦であった。 

あれから15年。来年から復活する日韓定期戦も含めてこれから各世代でどんな対決を繰り広げるのだろう?また韓国でサッカーを観戦したくなってきた…

日韓中戦 昌原の試合で さすが朴主水

2006-11-20 | 五輪 U-20, U-17
11月14日、韓国の昌原で行われたU-21の日中韓3カ国対抗戦。韓国ではどういうのだろう?韓中日?韓日中。最近の外交の流れから言うと前者だろう。これに北朝鮮が加わって4カ国対抗ならもっと面白いのだけど。 日韓の五輪チーム対決で忘れられないのが1992年3月マレーシアで行われたバルセロナ五輪アジア地区最終予選だ。日韓両国に加えて中国、カタール、クウェート、バーレーンを加えた6カ国総当りで上位3カ国が同年行われたバルセロナ五輪への出場権を獲得出来た。両国は共に1勝1敗1分後の第4戦で激突した。日本はバーレーンを 6-0 で破っており得失点差で優位に立っていた。この韓国戦に引き分ければ大きく1歩バルセロナ五輪に近づくはずだった。試合は韓国が押す展開。しかし日本も石川康(ヴェルディ)を中心にDF陣が攻撃を凌ぎ、主将の沢登(東海大)らが時折チャンスを創るなど 0-0 で進んだ。中継していた NHK のアナウンサーが何度も“日本引き分ければバルセロナ五輪に大きく近づきます。”と連呼する終了間際、アナウンサーが“シュートーォォォォォォ”と叫んだの韓国のシュートでそのシュートォォがゴールを守る下川(ジェフ)のゴールネットに突き刺さってしまった瞬間だった。ロスタイムはまだあった。当時の横山五輪監督はそこでテクニシャンンの藤吉(ヴェルディ)を投入するも挽回できず、痛い敗戦を喫した。“()内の所属は当時のもの。“僅かな望みがあった最終戦は既に出場を決めているカタール。しかしこの試合も 0-1 で敗れまたも日本はアジアの壁に跳ね返されてしまった。この五輪から年齢制限が設けられたことから代表の世界への挑戦はワールドカップのみとなり、果たして私が生きているうちに日本が世界の舞台にたてるだろうか?と思った予選であった。3年後の1995年1月、翌年のアトランタ五輪予選に向けてチーム造りを始めた西野五輪チームはオーストラリア国際大会に出場し韓国と対戦する。ここでも日本は 0-1 で敗れるが試合内容は小倉、前園らを擁した日本が圧倒しておりこの3年間の進歩を見せ、以降の五輪チームの進撃はここに記すまでもないだろう。 あれから3大会連続でアジアの壁を突破している。2年後の北京五輪出場に向けてどんな強化を進めていくのだろう?この五輪予選はオーストラリアの加入、そして中東勢の巻き返しも考えられ過去3大会の様に容易には進まないと思う。
昌原での韓国戦、日本はカレン=ロバート以外はほぼ2軍メンバー。カレン自身も“なんで俺がこのチームに?”と違和感を感じなかったか?しかし、“2軍”と言っても昨年オランダで開催されたFIFAワールドユース大会出場メンバーでこの試合の遠征に召集されたのはカレンの他にも Gk松井、MF 水野、DF柳楽 FW前田の計5名。
2軍というのは失礼で予備軍と呼ぶべきか? 一方の韓国は朴主水、李根鍋、金勝龍、そして白智勲らオランダユース組4名を含むほぼベストメンバー、朴主水、白智勲は今年のワールドカップメンバー。 開始から”予備軍“の対戦相手に発奮したのか、韓国が日本ゴールに迫る。 38秒には早くも逆襲から右サイドを金昌洙に破られ渡辺がファールで止める。そのFKから朴主水がフリーでヘッドを放つがGK正面。その1分後にも右サイドを破られ最後はファーサイドの朴主水が再びフリーで撃つがクロスバーの上を越えて助かる。しかし5分、あっさりと先制を喫してしまう。ロングフィードを李根鍋が拾い、右サイドの李昇に繋ぎ中に入れられるとそんこには走り込んだ李根鍋が、千葉(新潟)がなんとかコーナーに逃れるが、金勝龍からのコーナーに走り込んだ朴主水に合わされゴールを破られてしまった。朴には柳楽(福岡)が着いたが先に身体を入れられてしまった。日本もその直後にスローインを折り返しから本田(法政大)がシュートを放つが力なくGKに転がる。9分には韓国梁東にフリーでシュートを撃たれるがGK松井(磐田)がブロック。その2分後に日本はサイドチェンジから始めて攻撃らしい形が出来右から再び本田のシュートまで繋いだ。だが韓国は12分に李昇がドリブルシュート、その直後も朴主水がフリーでシュートを放つ。共にロングフィードを受けてスピード溢れる突破を見せしかも日本DF陣を振り切ってのシュートだ。韓国はロングボールを入れてきて日本DFを下げさせる。そこにFW陣が力強い動きで入ってくる、まだ集散も早いので日本の4バックそして細貝(浦和)、2列目の水野(JEF)渡辺(名古屋)らまで守備に腐心するのでワントップのカレンが孤立してしまっている。前線にボールが渡ってもカレンのボールキープ頼みでフォローも後方からやってくるので遅く日本は形が作れない。韓国は日本の左側を執拗に突いて来る。千葉も梁東、李昇の突破を反則で止めざるを得ない。そしてFKを蹴る金勝龍が絶妙の位置に落としたり、直接ゴールを狙って来るのでGK松井も左右に忙しい。何とか韓国のシュートミスにも助けられて日本は1失点に抑えることが出来た。 この日の昌原は気温7.9度。日中はまだ20度を越す日本と比べると選手は寒さで体が動きづらかったかもしれない。 しかし、スタンドも日韓戦(韓日戦?)にしては寂しい入りだ。中には制服姿の女子高生も目立つが、この制服は日帝時代の習慣と一掃されないのかな?日本の朝鮮人学校の様にチョゴリにしないのかな?と考えていたら後半が始まった。 

AFC ユース大会閉幕 またいつかどこかで...

2006-11-19 | 五輪 U-20, U-17
現地時間の11月12日に閉幕した AFC ASIA YOUTH CHAMPIONSHIP 残念ながら日本ユース代表は決勝戦で北朝鮮にPK戦で破れ今年のU-17とのアベック優勝はならなかった。 これで日本は何度目の準優勝だろう?6度目だ。北朝鮮の優勝は1976年バンコック大会以来30年ぶり2度目。このチームは一昨年の AFC U-16 大会のメンバーが主体となっておりこれで U-16, ユース大会と連続してアジアを制覇したことになる。となれば次はロンドン五輪か?この決勝戦での対戦は昨年11月熊本で行われた同大会1次予選での直接以来3回目。今年のWBCでの日韓対決では無いが同じ相手に3連勝はよほどの実力差が無ければ難しいだろう。しかしこれまで次の段階、FIFA U-20 ではアジア勢の中でも日本が一番成績を残しているのではないかな?

1995 カタール大会 ベスト8 日本 1次リーグ シリア、カタール
1997 マレーシア大会 ベスト8 日本 ベスト16 UAE 1次リーグ 中国、韓国、マレーシア
1999 ナイジェリア大会 準優勝 日本 1次リーグ 韓国、サウジアラビア、カザフスタン
2001 アルゼンチン大会 ベスト16 中国 1次リーグ 日本 イラン イラク
2003 UAE大会  ベスト8 日本UAE ベスト16 韓国 1次リーグ サウジアラビア ウズベキスタン 
2005 オランダ大会 ベスト16 日本 中国 シリア 1次リーグ韓国

負け惜しみかも知れないがアジアで優勝出来なかったその悔しさが次のFIFA U-20 の原動力にもなっているのではないかな? だが今回の決勝戦では北朝鮮の方が“執念”を見せた結果となってしまった。
特にGKのユ・クワァン・ミンは登録ではまだ17歳。2年前は15歳で FIFA U-17 に出場している。今後彼を含めたこの世代が五輪、そしてワールドカップ予選で日本を含めたアジアの強豪に立ちはだかる事は間違いないだろう。 しかし日本もまだまだ発展途上段階だ。 この大会にはチームの重鎮であるCB福元洋平が大会直前の怪我で万全ではなかった。しかし彼がプレーする事自身が脅威的であった。来年のFIFA U-20に向けて怪我の回復振りが心配されるが。そしてイタリアに渡った森本貴幸もいる。昨年11月の1次予選の時から7人の選手が入れ替わっているが、今大会で活躍した選手もまた選出される保証は無い。北朝鮮も9名が入れ替わっている。この世代はタレントぞろいなのか? そしてヨルダン。2004年中国でのアジアカップ準々決勝での壮絶なPK戦を憶えている人は多いだろう。サッカー好きのフセイン国王は来年カナダに出掛けるのか? 
決勝戦は多くの韓国人が北朝鮮を応援していた。同じ民族と言うのはわかるが大極旗を打ち振るのはちょっと北朝鮮の選手達に失礼では無いかな?まぁ北朝鮮国旗なんか打ち振ろうものなら帰国後なんらかの事情聴取もあるだろうから。 でも露骨に日本を毛嫌いするのはさすが韓国のマスコミ。準決勝で日本に破れ、大会3連覇が途絶えた事がよほど悔しかったのか、朝鮮日報では決勝戦の見所という記事の中で下記の様な行を掲載している

近年、北朝鮮と日本は政治的に敵対している。数年前から北朝鮮拉致問題で騒がしかったうえに、最近そこに北朝鮮の核問題まで重なった。よって、両チームが対戦すれば、激しい戦いとなるのは必至。互いに決死の覚悟で試合に臨む。昨年のワールドカップアジア最終予選で日本は、平壌で行われた北朝鮮対イラン戦での観客騒動を理由に、第3国無観客試合を成立させている。この過程で両国は、サッカーをめぐって激しい非難合戦を繰り広げた。 両チームの特殊性を離れ、これまで北朝鮮と日本は、同大会で韓国に徹底的に押さえ込まれており、(11回優勝)今回はそのうっ憤を晴らす場となりそうだ。北朝鮮は30年ぶり、日本は初の優勝を目指す。北朝鮮は、1976年の大会でイランとの共同優勝に輝いており、1990年の大会でも準優勝を果たしている。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/11/20061111000027.html

昨年のワールドカップ予選開催地を巡って特に誰も激しい非難を浴びせただろうか?またこの期に何故韓国に徹底的に押さえ込まれている事を引き合いに出してくるのだろう?

しかし選手同士はそうは思っていないようだ。 愛読するサッカー紙 エルゴラッソにはこの試合のレポートと共に、表彰式後、日朝の選手達が仲良く握手を交わし健闘を称えあっている写真が掲載された。 これからも両者は何度も相対するだろう。私も彼等がいつの日か自宅近くのさいたまスタジアム2002でプレーする事を楽しみにしている。そして試合後は昨年北朝鮮代表チームが夕食を楽しんだ、私の行き付けの焼肉屋に来て欲しい。
その節は私も押しかけるのでサインをしてください。 

Old Firm 伝統の一戦で

2006-11-19 | EURO Football
中村俊輔の Celtic 入りで日本でもすっかり有名となった Old Firm Derby。サッカーでは同じ市にフランチャイズを置くチーム同士の戦いを Derby Match と呼ばれることを知らない人は少ないだろう。アメリカメジャーリーグではシリーズと呼ぶ。 Yankees と Mets の試合は Subway Series と呼ばれるがこれは両方の球場が地下鉄で行き来できるかららしい。 日本では伝統の阪神巨人戦があるがこれはむしろ東京対大阪の代理戦争の意味合いがある。大阪で育った小学生の頃周りが阪神ファンばかりで巨人が阪神に破れた次の日はどれだけ学校に行きづらかったか?しかし関東の人に言わせれば“関西弁でジャイアンツを応援する”私には違和感を感じざるを得ないらしい。 
今シーズン最初のScotland Premier League の Old Firm は9月24日に Celtic Park で行われた。この2チームの対決は単なるサッカーのみならずCeltic はカソリック、 Rangers はプロテスタントとこの地域に根付いている“宗教代理戦争”も担わされている。従ってこれらのチームでプレーする事自体、プロテスタントかカソリックかの踏み絵の様な時代が最近まで続いた。Rangers は 1976年 FIFA とマスコミのプレッシャーによって遂にカソリック系の選手にも門戸を広げることを公式に発表したが結局1989年のシーズンまで状況は変らなかったらしい。この試合までの両者の直接対決では Rangers 147勝 Celtic 133勝 引分91。しかし両チームの力は突出しすぎておりこれまで91のリーグタイトルと63のカップ戦タイトルが両チームで独占され続けていた。この10年間でもリーグタイトルを5回ずつ分け合った。19世紀の産業革命ではグラスゴーを中心に工業化が進み大英帝国発展の原動力を提供した背景もあり、スコットランドの中では経済的な勢力も突出しており、両者のタイトル独占も理解に時間を要しない。しかし昨シーズンはリトアニアの大富豪Vladimir Romanovの投資によりRnagers から勝利を挙げ、Celtic とは引き分けるなど2位に食い込んだ。これはここ10年見られなかった快挙だった。しかし今季は11月18日現在5位に甘んじている。

監督としては Old Firm では“先輩”にあたる Celtic の ストラカン監督は就任前の Rangers のポール・ル・グエン監督と“既に” 会っていたとの事。時はワールドカップの真っ最中の6月で場所も Berlin Olympicstadion のクロアチア対ブラジル戦。でもストラカン監督はその前の日本対オーストラリアを見てくれなかったのかな?ストラカン監督は“両者には勝者か敗者かしか存在しない。”としながらも” Old Firm の様相はここ20数年で変ってきた。かつてのような必要以上の熱気、殺気はなくなりつつある”。ともコメント自らはマンチェスターユナイテッド、リーズ、コベントリーでプレーするもスコットランド時代は Sir Alex Ferguson の指揮する Aberdeen で活躍し、その前には Dundee FC でプレー。体格に恵まれないながらも運動量とパスセンスで Scotland 代表にも選ばれ当然ワールドカップにも出場している。だが彼の実力の証明はスコットランドサッカー協会殿堂入りと並んで引退後“右目が殆ど見えなかった”と言う事実がわかったと言うことに勝るものは無い。

昨シーズンの Old Firm デビューでRangers に破れて洗礼を浴びたストラカン監督だが、今年は Old Firm デビューとなるル・グエン監督の周囲が騒がしい。 Rangers Supporter 達はFWに Dado Prso, Kris Boyd または Fillip Sebo の誰を選ぶかで話題を呼んでいる。 Prso は Croatia のFWでワールドカップの日本戦で何度もゴールに迫ったので憶えている人も多いだろう。Kris Boyd は昨シーズンのリーグ得点王(じゃなかったかな?) Fillip Sebo はシーズン開始1ヶ月前にAustria Wien から£180万(約3億7千万円)で移籍してきたが前節の Hiberinian 戦でようやく出場を果たしゴールを決めた。 Old Firm 前までRangers は何と3勝3分け1敗と波に乗れない。それだけに Old Firm で結果を出して以降のリーグ戦に繋げたいところだ。 
“Old Firm は経験無いが、選手時代( France Saint-Etienne ) にはLyon と対戦し Local derby の経験はある。またLyonでのコーチ時代もそうだった。Paris Saint German でのコーチ時代も Olimpique Maeseille と対戦している。同じ街の Derby とは異なるがこの両チームの戦いはフランスでは特別なものだ。そしてPSGのコーチ時代の 1995年に Celtic Park で Cup Winner’s Cup の試合を行った経験がある。試合は PSGが 3-0 で勝ったが Celtic Supporter が醸し出す偉大な雰囲気を憶えている”と記者に答えると “それでは同じスコアーで?”と訊かれ“ 1-0 で充分”と応えている。
Croatia のPrso はCeltic Park で勝利を収めた貴重な Rangers の生き残りだ。2005年2月のこの勝利は過去15回 Rangers が Celtic Park で戦った中で唯一の勝ち星だ。 “2004年8月の最初の Old Firm では終了間際に Alan Thompson のゴールで破れたがその時の心境、次のOld Firmに賭ける意気込みを今の選手達に語った” とPrso は述べた。ワールドカップでの中村の印象は語らなかったのかな?“Old Firm で勝っても、負けても何もきまらない。しかし、こういう Big Game は大変な経験になる。選手はみな Big Game でプレーをしたいもの。”

しかし、この Old Firm で起用された Prso も Boyd もゴールを挙げられなかった。ご存知のとおり結果は 2-0 で我等が中村俊輔のいる Celtic が快勝。 Rangers はこれで2連敗だ。日本では中村ばかりがクローズアップされた Old Firm だが、この試合のヒーローは後半、チームの2点目を決めたケニー・ミラー。今シーズン、 Wolverhampton から移籍してきて、プレシーズンマッチを含めて16試合目でこの貴重なゴールを決めた。彼のゴールはポーランド人FW Maciej Zurawski を外してまで起用を決めたストラカン監督を安心させるもので“Kennyのプレーはストライカーが得点できないときにどうするべきかを示すもの”と手放しの喜び様。 また Real Madrid から移籍してきたスウェーデン人FWグラッベッセンの先制ゴールを Déjà vu とル・グエン監督は頭を抱える。これは今シーズン Phil O’Donnell ( マザーウェル ) Christian Kalvennes ( ダンディーユナイテッド) Franz Wright ( キルマーノック)そして Chris Killen ( ハイバーニアン)と同じ range から決められていると表現。そしてシステムを試合開始時は 4-1-3-2 だったのを後半 3-5-2 に替えてから主導権を握ったので“最初からのこのシステムでいっていれば”と後悔気味のコメントを残す。 事実ストラカン監督も後半は劣勢に立たされたがDF陣がよく頑張ったと。 しかしストラカン監督の気になるのはこの試合を負傷で出場できなかったヘネフォール・オフ・ヘッセンリンクの復調具合だ。 Old Firm の後は Champions League の Kobenhaven 戦が控えている。
そして NAKAMURA の文字はこの試合に関してはあまり観られなかった。 続く….

Celtic (4-4-2): A Boruc 7 — P Telfer 7, G Caldwell 8, S McManus 8, L Naylor 6 — S Nakamura 6 (sub: E Sno, 71min 4), N Lennon 8, T Gravesen 7 (sub: S Pearson, 84), A McGeady 9 — J Vennegoor of Hesselink 6, K Miller 8 (sub: M Zurawski, 78). Substitutes not used: D Marshall, S Maloney, B Balde, D O’Dea. Booked: Vennegoor of Hesselink.
Rangers (4-1-3-2): A McGregor 8 — A Hutton 5 (sub: L Sionko, 61 5), J Rodriguez 5 (sub: G Rae, 80), S Papac 6, S Smith 5 — B Hemdani 8 — C Burke 7 (sub: L Martin, 64 3), B Ferguson 6, C Adam 6 — K Boyd 6, D Prso 7. Substitutes not used: L Robinson, K Svensson, F Sebo, T Buffel. Booked: Martin, Hutton. Gravesen 35, Miller 74
Referee: D McDonald 9. Attendance: 59,341

Celtic Champions League 初戦 対 M.U.

2006-11-12 | EURO Football
今やすっかり“ドル箱”のトップ商品となった UEFA Champions League 今となっては Europe Champions Cup と呼ばれていて殆どの日本マスコミが関心を示さなかった時代が懐かしい。 1978-79 の Champions Cup の準決勝では 1FC Köln の奥寺が Nottingham Forest の同点ゴールを決め、1981-82 の決勝戦では絶対有利と見られていたルンメニンゲを擁する Bayern München が Aston villa に破れ、1985-86 の決勝戦ではルーマニアの Steaua Bucuresti がPK戦でバルセロナを破り日本人に“ルーマニアのスポーツはコマネチだけでは無い”とアピールした? 1987年欧州王者になったポルトガルのFC Porto は年末に TOYOTA CUP で来日し豪雪の中、国立競技場で激戦を演じた事を憶えている人は多いだろう。翌年は PSV Eindhoven が決勝戦で Benfica Lisbon をPK戦で降し、その翌年オランダトリオ(フリット、ライカールト、ファンバステン)を擁するAC Milan が優勝し前年西ドイツで開催された欧州選手権でオランダが優勝したことも重なり Oranje 旋風が欧州を席圧していた。 どうも歳をとると昔のことばかり思い出す。しかしそれは歳のせいばかりで無く Champions League の肥大化により印象に残る試合が少なくなった事もある。要するにご馳走が多すぎて食事の後ただ美味しかったと言う印象だけが残り、何が美味しかったかと言う事まで記憶に残らなくなってきた。
しかし今年の Champions League は久し振りに開幕前から楽しみな大会となり、進行具合も気になる。総じてワールドカップ直後の大会はそうだ。ワールドカップで活躍した選手達の新移籍先やクラブシーンでの活躍を追いかける楽しみがある。 今年はジダンが引退し、セリエAの“黒い霧”(この意味わかるかな?)でイタリアのビッグクラブが謹慎処分中。そして南米勢では目だった移籍が無かった(あくまでも私個人の興味上で)ので4年前の様にはならなかっただろうが、それでも今大会は中村俊輔( Celtic ) 稲本 ( Galatasary ) らが欧州戦線に参戦しており、そして10年ぶりに Champions League に復活した私が好きな Romania の Steaua Bucuresiti らがおり非常に興味を持って開幕から見ている。

9月13日、私は商用でメルボルンにいた。昨シーズンダントツの強さでScotland Premier League を制した Celtic 。この日は2年ぶりに“リーグ戦”から登場し、その初戦を Manchester United と対戦する。今や中村俊輔の加入で日本ではチームの動向が手に取る様にわかる。(正確に言えば中村の一挙手一挙動 ?) それでは地元の評判はどうなのだろう?     

9月12日、Old Trafford での Manchester United 戦という非常に難しい試合を翌日に控え Celtic の ストラッカン監督は“我々は世界屈指のワールドクラスの選手達と戦おうとしている。国際レベルは忘れよう、そんなもの測ることが出来ない”と言い放った。“ 9月9日にホームで Thottenham Hotspurs を1-0 で降し開幕4連勝中の相手にしかもそのホームであるOld Trafford に乗り込んで試合に臨もうとする指揮官も”もし Manchester United の選手が English Premiership で試合をし、(Champions League 等の)国際試合に臨めば 試合時間の90% は Premiership でのプレーよりもレベルを下げて試合が出来る。“とコメント。要するに Manchester United の選手達の90%が Celtic の選手の最高レベルだと。特にルーニー、ライアン=ギグス等を相手にせねばならないGKアルツール=ボォルツを始めウィルソン、コールドウェル、マクマナナス、ナイラーら若いDF陣を安ずる。 ”我々のDF陣4人はACミランの様に平均年齢36歳とは異なり平均年齢25歳と今回の Champions League の出場クラブでも若い方だ“と話しながらも”我々も(9月9日に)それまでリーグ開幕5試合負けなしでしかも昨年12月以来ホームでは負け知らずだった Abadeen を 1-0 で破っている“と
そしてプレシーズンマッチでは当地 Old Trafford で 0-1 と破れているがその試合後に契約を交わしたオランダ人FWのヘッセルリンクとデンマーク人MFグレーべセンの2人がチーム力を大幅にアップさせているともインタビューに応えている。だが Celtic サポーターの間で最も話題となったのはこの遠征にポーランド人FWのズラフスキーを外しチェコ人MFヤロシック、北アイルランド人MF ナイル=レノンそしてFW ショーン=マロニーを帯同させた事だ。
MFの選手を多く選ぶのは理解できるが昨シーズンのリーグ最優秀選手とは言え夏の間怪我でトレーニングが満足に出来なかったマロニーをこの大一番に何故ズラフスキーを外しでも連れて行くのか?ということらしい。

一方の Manchester United はアムステルダムで開催されたプレシーズントーナメント LG Amsterdam Tournament で退場を喰らったルーニーとポール=スコールズがこの Celtic 戦から合流する。

9月14日。メルボルンで視た朝のスポーツニュース。中村俊輔のフリーキックで私はその日の仕事に使うエネルギーを充分すぎるほど充填できた。ワールドカップではオーストラリアDF陣から足の親指の爪が剥がれるほどがんがん削られたのに、エジプト人主審は警告も出さず、オーストラリアの新聞は“ブラジル人監督ジーコのお気に入りナカムラがブラジル人譲りなのはマリーシアを使おうとする事。しかしこの日はマリーシアも不発に終わる”と皮肉られたがこのシーンを視てくれたかい?と叫びたくなった。昼間には取引先の在留邦人であるTさんから“中村視たか?あのフリーキック”と電話があった。 しかし試合結果は 2-3 と黒星スタート。 2001-02 のシーズンのグループステージの初戦、当時監督を務めるマーティン=オニール氏に率いられた Celtic はユーベントスにトリノで同じスコアーで破れ、結局3勝3敗でセカンドグループステージに進めなかった。勝敗を分けたと言われるグレーべセンのギグスへのミスパスから決勝点を許したが、そのゴールを決めたのが前半31分にライアン・ギグスがハムストリングを痛めて退場を余儀なくされた緊急時にピッチに入ったノルウェー人FWのオーレ・グナー・ソルシャー。1997年ノルウェーの Molden FK から United 入りした、1998-99 の欧州王者に輝いたときからのメンバーだ。そして彼の父親はノルウェーのグレコローマンスタイルの五輪選手で彼自身子供のときレスリングしていた。余談だが1998年ソウル五輪レスリング、グレコローマンスタイル 52kg 級でノルウェーのヨン・ロンニンゲンが日本の宮原を破って金メダルを勝ち取ったがそれがノルウェー史上最初の五輪(もちろん冬季じゃないよ)金メダルだった。
だがギグスは本当にセルティックGKボルツに引き倒されたのだろうか?これに対してストラカン監督は“あれは審判のミスだ”と試合後語っている。だがミスと言えばセルティックMFグレーべセンにとってこの試合は悪夢だろう。先の3点目のみならず、39分の2失点目のゴールもUnited MFキャリックにボールを奪われそこからスコールズに繋がれ最後にサハに決められたもの。 こういう試合ではどう攻略するかと言うよりもいかにミスを減らして相手のミスを引き出すか?が勝利への近道かもしれない。
ベンフィカがコペンハーゲンで引き分けたので Celtic は最下位スタートとなってしまった。 次はホームで Kobenhavn を迎える。 その試合を含めて NAKAMURA の活字が何度地元紙に躍るかな…..




アジアユース決勝進出 さぁ豊臣秀吉だ

2006-11-12 | 五輪 U-20, U-17
9日午後10時少し前、今夏購入した自慢の液晶テレビをBS朝日に合わせる。結婚以来16年間使い続けていた最後の電化製品、21型のカラーテレビがついに買い替えの時期にさしかかり、今年も予想外に低かった夏のボーナスを叩いて購入したのがこの液晶テレビ。カラーテレビを下取って貰う際に“結婚したときに買い揃えた思い出の品がどんどん無くなるね”と感傷的な台詞を吐いたのは私の方で、家内は“そうよ。時は流れてどんどん変って行くのよ。あんたもかわんなさいよ。”と返されてしまった。お前も変わったなぁ。
しかし新しいテレビのおかげで民放のBS放送を視れてインドのコルコタ、バンガローで開催されている AFC アジアユース選手権が楽しめる。と言っても私の好み番組の優先順位は家庭内で最下位。しかもこの日は帰宅が午後9時前だった。とんねるずのみなさんのおかげでしたが終わってようやくこちらがテレビのリモコンを握れるようになりチャンネルをBSに。するとPK戦の真っ最中であった。日本時間の午後7時半から中継が始まっているのでこの時間までやっているのはPK戦にまでもつれ込んだからだ。丁度4人目の森島が決めて 2-0としたところだった。続く朴玹範はGK林の反対を突いてゴール左隅に決めた。これは何と韓国が始めて決めたPKだった。日本は5人目の森重が決めれば決勝進出がきまるところだったが、GKのほぼ正面に蹴ってしまう。韓国5人目ペスンジンが決めて同点に追いつく。本当に韓国は勝負強いししぶとい。日本はサドンデスに入った6人目青木が決め。韓国6人目崔淳のキックを林が左に飛んでストップ。この瞬間アジアユースでの韓国戦の連敗を5でストップした。これまでアジアユースでの直接対決は地域予選の試合を含めて23回対戦した中で日本ユース代表が勝ったのはたった2回。通算成績は日本の2勝4分(PK戦で1勝2敗)17敗。その2勝も川口能活らを擁した1992年ソウルでの1次予選と1994年中田英寿らが活躍したジャカルタで開催されたアジアユース1次リーグ戦。90年代に入るまではA代表以上にユース代表は歯が立たなかった。そして1972年から通算15回に渡って開催された日韓定期戦では対戦成績が日本の3勝10敗2分けと全く相手にならなかったがその“前座”として行われた学生代表の対戦で日本が韓国学生代表に勝った事は無かった。年代別の戦績ではA代表以上に相手にならなかったことがよく判るが、逆にユース、学生代表がこれだけ勝てないのではA代表で勝てるわけなどなかったのだ。韓国との力の差が激的に縮まったのは1993年から発足したJリーグ効果と見る人は多いが、私はそれだけとは思えない。1992年、上述したアジアユースでの初勝利(結局その4ヵ月後UAEで行われたアジアユース本大会準決勝で崔龍朱らのいた韓国に敗れてワールドユース出場出来なかったのは有名な話)そして2年後のジャカルタでの勝利。それから両国の学生選抜が相対するデンソーカップでの日本学生選抜の優位(今年は3月26日さいたまスタジアム2002で開催され日本が 4-2 で勝利)等代表予備軍の強化も見落とせない。 そしてその強化の賜物と言えるハイライトが2003年UAEで開催されたワールドユースでの逆転勝利だ。日韓史上初めて FIFA 公式大会で直接対戦したこの大会の決勝トーナメント1回戦。崔成国に先制点を許すも坂田(横浜Fマリノス)の連続ゴールで歴史的な勝利を上げた。昨年6月オランダで開催されたFIFA U-20 大会決勝トーナメント1回戦でモロッコに破れて以来この大会に向けてユースチーム造りが始まったのだが、この1年5ヶ月で4度韓国ユース代表と対戦し2勝1PK勝ち1敗とまずまずの対戦成績。前回アジアユース準決勝でのPK負けを含めて連続5試合この大会で勝ち星は無かったが、今回はチャンスだと思っていた。しかし、準々決勝までの4試合、日本はバンガローで戦い準決勝になって初めて1700km離れたコルコタに乗り込むことに。対戦相手の韓国はずっとコルコタに居座り続け、しかも1次リーグは対戦相手に恵まれた(ヨルダン、インド、キルギスタン)確かに準々決勝は優勝候補の定評があったオーストラリアであったが。 日本は目標であったワールドユース大会出場権獲得の準決勝進出を既に果たした後でモチベーションの問題が無くはなかった。DF柳川は準々決勝が終わると所属先のJ1昇格戦線にある神戸が故障者続出と言う理由で韓国戦を前に帰国している。(柳川は第二戦のタジキスタン戦で後半の25分から出場。第3戦のイラン戦はフル出場している)

しかし、韓国のマスコミはこの日本戦をかなり楽観視していた。
まだ準決勝も始まっていない11月8日付けの朝鮮日報では、イラクを2-0で降しベスト4に進出した北朝鮮を引き合いに出し早くも1990年以来、南北朝鮮が優勝を争いを演ずるのではとの期待を寄せていた。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/08/20061108000043.html

翌日10日付けの同紙でも今回の韓国ユースは史上最強で日本は格下との見出しが

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/09/20061109000056.html

文末には今大会既に2ゴールを挙げている森島・柏木・河原そしてサウジアラビアとの準決勝で後半に交替で出場し、決勝ゴールを決めた青木にも警戒が必要と結んでいたが、ゴールを決めたのが森島と青木だった。
そして自国の敗戦のリベンジはどうやら決勝戦で日本と相対する同胞に賭けているようだ。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/11/11/20061111000027.html

上記の記事には最近の核開発問題や拉致被害者問題にも言及しているがそれらの問題は日朝間のみでなく、いやむしろ韓国の方がもっと身近な問題ではないのかな?

学生時代、八坂神社から清水寺へ抜ける道を当時付き合っていた歴代の女性とよく歩いた。ここは静かでそして古都の雰囲気がよく醸し出されている私の好きな路だった。そして道中豊国神社門前に“耳塚”と呼ばれる史跡がある。ここは鼻塚とも呼ばれ、豊臣秀吉が行った1592年~98年、文禄、慶長の役、所謂朝鮮出兵の時、討ち取った朝鮮、明国兵の耳や鼻をそぎ持ち帰ったものを葬った塚と言われている。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。当時は戦功の証として死体の首を持ち帰るのが常であったが、日本まで距離があるために首の代わりにかさ張らない耳や鼻を、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬けにして持ち帰ったとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B3%E5%A1%9A

秀吉の朝鮮出兵は朝鮮半島の侵略と韓国人は学校で習っているらしいが目的地は朝鮮半島でなく、当時中国を治めていた明王朝であった。その通り道に朝鮮半島があり結果的に多くの朝鮮人が犠牲になった。だがこのとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる.また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、 (ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある。

しかし、この出兵は結果的に慶長の役勃発の翌年に秀吉が亡くなり撤退に。この戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、豊臣政権の基盤を危うくする一方、諸大名中最大の石高を持ちながら、関東移封直後で新領地の整備のために九州への出陣止まりで朝鮮への派兵を免れた徳川家康が隠然たる力を持つようになった。五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がって行き、1600年の関が原の戦いを経て大坂冬の陣、夏の陣へと繋がりやがて徳川幕府設立となる。関西人の私としてはこのまま大阪に実権が留まっていてくれればなぁ、と何度思ったことか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5

1965年12月29日。日韓交渉が妥結されたが、交渉のテーブルに着いた当時の李承晩大統領は日本側の役人(当時は大平さんだったかな?)に“加藤清正が退治したので韓国には虎はもういません”と言ったとか?

今は平和な21世紀。歴史認識、歴史問題と提起する左翼、韓国マスコミの人々に言わせて貰おう。
次は北朝鮮に勝って豊臣秀吉の成し遂げられなかったアジア統一を達成しよう。

がんばれニッポン。

痛快ワンツーフィニッシュ メルボルンカップ

2006-11-11 | Aussie & Kiwi
6月のワールドカップでは Socceroo に痛い痛い忘れられない逆転負けを喫し、多くの日本国民が落胆させられたが、今度は“日本”がオーストラリア大陸でその名誉を回復した。11月7日、日課?となっている Australia の新聞の WEB SITE を覗いていると日本人がアップで写し出されている写真が。前日11月6日、オーストラリア第二の都市メルボルンで開催された競馬の Melbourne Cup で日本調教馬であるデルタブルースとポップロックが見事なワンツーフィニッシュを決めた報道であった。この2頭は共に滋賀県の栗東・角居厩舎に所属しデルタブルースは菊花賞に勝った事があるらしい。デルタブルースに騎乗した岩田康誠騎手がメルボルン入りしたのは何とレース前日との事。そしてデルタブルースに続いたポップロックには Damien Oliver 騎手が騎乗。レースは残り1ハロンでこの両日本調教馬が並びそのまま後続を降り切りマッチレースとなった。レース直後に鞍上の岩田騎手は優勝を確信し、下馬した直後に角居調教師ら厩舎の関係者を見るや否や号泣を始めたらしい。 Very happy, vary happy… biggest win ever と知っている限りの英語でインタビューに答えたらしい。 
今年で146回目を迎えたメルボルンカップでオセアニア州以外の馬が優勝したのは1993年の Vintage Crop と 2002年の Media Pazzle の2頭のみでいずれもアイルランド馬。2002年 Media Pazzle に騎乗したのが今回ポップロックに騎乗した Damien Oliver そして 2003年から 昨年までオーストラリア馬の Makybe Diva が史上初の3連覇を果たした。Makybe Diva は2005年に日本の天皇賞にも出場し7着に終わっている。
この快挙にはある伏線があった。デルタブルーとポップロックは前月の10月に Caulfield Cup に出馬し3着(デルタブルー)7着(ポップロック)に終わっているがこれで“オーストラリア大陸”に順応しだしたらしい。そのレースに勝ちメルボルンカップでも優勝候補に上げられていた Tawqeet は最後尾争いの馬群に沈んだ。そしてメルボルンカップの前に第4Rで騎乗で岩田騎手が騎乗できたことも大きい。このレースは着外に終わり、しかもレース後は通訳を通じて地元アナウンサーにその騎乗を酷評された事も聞いた。しかしこの騎乗でコース形態や馬場状態を把握し、本番での完ぺきな騎乗につなげた。 このレースの結果は英国の老舗紙 TIMES でも “ Japan one-two leaves Melbourne Stunned “ との見出しで報道され、その記事内容には先月パリで開催された凱旋門賞に出走したディープインパクトの事や、“何人かのオーストラリア人はこれらの日本馬は(このオーストララリアに)順応してほしくなかっただろうなぜならこれが日本馬進出になりうるだろうから”とか “日本馬の快挙”がメルボルンカップをよりグローバルなレースにするだろう“”例えディープインパクトやハーツクライの功績が日本のサラブレッド産業の世界的な関心を高めてはいるがわずか1年前から参加を始めたばかりのこのレースの上位独占は大変な快挙である“と得意の皮肉をこめたメッセージも込められている。 
このメルボルンではこのメルボルンカップレースはオージーフットボールのグランドファイナル、テニスの全豪オープンにならんでその競技の権威もさる事ながら当地では年中行事となっている一大イベント。その“国民的”イベントの主役を日本の競争馬が上位を独占したのだから痛快と言わずに何と言えばいいのだろうか?ワールドカップでの敗戦で現地在留されている邦人の方々の名誉をこれで回復してくれた。私自身も次回のオーストラリア出張が非常に楽しみで仕方が無い。しかし、この快挙の主役達は本当に紳士的だ。角居調教師は通訳を通じて“我々にこの快挙の機会を与えてくれたオーストラリアに感謝の意を表わしたい。そしてこの偉大な結果は地元Racing Victoria Club とそこの人々のサポートによって成し遂げられた”とコメントを残した。
日本のマスコミはこの偉業を凱旋門賞の100分の1以下にも満たない程度の報道をしないが、この我々に勇気を与えてくれたこの快挙に携わった人々に敬意を表します。


AFC ユース大会 好調東アジア勢

2006-11-05 | 五輪 U-20, U-17
ASEAN 勢は殲滅されたが、日本を始め東アジア勢は全てベスト8に進出を果たした。準々決勝の組み合わせは日本対サウジアラビア、韓国対オーストラリア、北朝鮮対イラク、そして中国はヨルダンと対戦し勝った方が来年カナダで開催される FIFA U-20 大会への出場権が与えられる。1970年代末、イランが台頭して以来アジアの勢力図は中近東諸国が優勢を占めるようになり1984年ロス五輪ではアジアからの代表3カ国はカタール、サウジアラビア、イラクと中近東勢で占められてしまった。その後韓国がアジアの盟主として君臨するようになったが勢力図では中東勢に対抗できたのは東南アジアを含めても韓国だけであった。それが1990年代に入り日本がJリーグの旗揚げをきっかけにアジアのトップクラスに躍り出た事から東アジア勢が中東勢と対抗出来る様になった。そして今大会の準々決勝の結果は今の勢力図を測ることが出来る一つの定規になるかもしれない。そんな中、日本と同居するグループCではイランが北朝鮮に破れ一次リーグを突破できなかったのは中東勢に取っては痛手であろう。 北朝鮮は日本に破れたあと中1日おいて初戦のタジキスタンを 3-1 で破ったイランと対戦。この強豪を 5-0 と粉砕してしまう。北朝鮮は日本戦のスタメンからメンバーを2人替えて来た。FWのパク・チョルミンとDFのイ・ヨンチョルを起用した。一方のイランはタジキスタン戦と同じメンバー。試合は立ち上りから北朝鮮の速攻が冴える。2分には左サイドを駆け上がった主将のキム・クムィルが入れたクロスをイ・ヨンチョルが頭で合わせて難なく先制。10分にも再びキム・クムィルがイランがジョン・チョルミンとの間にいたイランDF3人の間を“糸を通すような”スルーパスを入れそのままイランゴール右隅に蹴り込んで追加点。イランDF陣は北朝鮮のプレッシャーの前に最終ラインに6人、7人と選手が釘付け、その上このピッチコンディションではバウンドもままならずイランGKハギギ-を悩ました。17分にはモエウダッド・プーラーディーがグラウンダーのシュートを放つがポスト右に僅かにそれる。25分、今度はジョン・チョルミンがチャンスを演出しキム・クムィルが3点目を。ブラジル人のオリデイラ,イラン代表監督は34分に早くもアリ・アミルに替えてサマン・アガ・ザマニィを入れて中盤を厚くするが、後半に入っても北朝鮮の攻勢は変わらず47分に波状攻撃からイランGKハギギが至近距離からのショットを2回続けてセーブしたが3回目にキム・クムィルに押し込まれて4点目を喫した。そして77分には交替出場のリ・ファンリョンに5点目を献上し良い所無く惨敗を。ヨ・トンソプ北朝鮮代表監督は“初戦のイランの試合を近くで観察し徹底的に分析をした。そして初戦と異なった戦術を取り入れそれが功を奏した。DFでは長身DFのアルハミスとチャマナラそして相手MFカリリとグーダルゥジィを特にマークした。”と試合後語った。イランは続く日本を 2-1で破った。試合終了の瞬間は大喜びのイラン選手達だった。同時刻にスタートした北朝鮮対タジキスタンが0-0 のままだったからだ。しかしロスタイムに北朝鮮はジョン・チョルミンのゴールで勝利を収め得失点差で日本と共にベスト8進出を決めた。 北朝鮮は昨年ペルーで行われたFIFA U-17 でベスト8に進出。その時のメンバーが12名も含まれている。そして2年前静岡でAFC U-16 大会で日本戦を戦ったメンバーのうち9名が今大会メンバー入りしている。 北朝鮮チームのエースはロシアリーグのKryliya Sovetov でプレーするMFのチェ・ミョンホ。もちろんFIFA U-17ペルー大会に出場し3得点を挙げている。しかしそれ以上に北朝鮮の選手が国外でプレーしていたとは驚きだ(在日朝鮮人選手の例はあるが。) しかし今大会は怪我のため3試合でスタメン出場は無く3試合全て交替途中出場で出場時間も通算で40分だ。次の世界大会進出がかかったイラク戦ではどの程度出場機会があるだろうか?
参考までに日本はDF内田篤人と青山準の2人だけが2004年のアジアU-16大会に出場している。そして中国は2005年ペルー大会、2003年フィンランド大会に連続して FIFA U-17 に進出しているが、その大会を経験した選手は2名ずついる。 2005年大会の FIFA U-17出場選手は現在18歳以下。そして今大会は19歳まで出場資格がある。日本ではこの1歳の年齢差が非常に大きく、その1年に多くのタレントがいるのだ。北朝鮮の場合はどうなのだろう?2005年のペルー大会のメンバーが秀でているのか?それともこの世代に少数英才教育を施し、世界の舞台にと考えているのだろうか?
AFCユース大会といえばタイで開催された1976年、信じられないような事が起こった。1次リーグ、日本は地元タイ、北朝鮮と同じ組になり、3カ国とも2戦2分けであった。大会開始前、勝点、得失点差で3カ国が並べば準々決勝進出の上位2カ国は抽選で決めると規定されていたのだが、大会当局は突然再試合を行うと通達してきた。これはもう3試合行えば収益が上がる事と、地元タイ。そして当時強豪で人気の高かった北朝鮮を準々決勝に進出させる為であった。日本選手団はこの決定に怒りの“棄権”を決めたが、大会当局は“ならば宿泊費は負担できない。罰金を含めた違約金を支払え(約750万円)と通達してきた。”当時の日本サッカー協会は金が無くこんな“大金”は払えなかった。そして再試合が行われた。日本は強豪北朝鮮相手に 1-0 で勝利を収めるが続くタイに 0-3 で破れる。そしてタイは北朝鮮に“予定通り”2点差で破れて日本を除く両国が準々決勝に進出した。そして北朝鮮はイランと優勝を分け合った。タイではサッカーは人気スポーツの1つ。アジア大会でもサッカーだけ試合数を多くして収益を多く上げようとする。この事を思い出すたびにタイには絶対に世界への路を与えてはならないと思ってしまう。 11月7日に来年のカナダ行きを賭けてサウジアラビア戦に臨む日本ユース代表選手達は先輩達がスポーツマンシップにあるまじき振る舞いの犠牲にあった事を、その悔しさを晴らす思いでピッチに立ってもらいたい。 がんばれニッポン。

AFC ユース大会 ASEAN 諸国の挑戦

2006-11-04 | 五輪 U-20, U-17
インドのコルコタ、バンガローで開催されている AFC ユース大会 は1次リーグの全日程を終え、日本を含むベスト8が出揃った。
その顔ぶれを見るとほぼ予想通り。今回 ASEAN 地区から出て来た3カ国、タイ、ベトナム、マレーシアは残念ながら1次リーグで全て姿を消した。 これら3カ国は来年のアジアカップのホスト国(もう1つのインドネシアは予選J組でタイに破れて本大会出場出来ず。) ベトナムとマレーシアは共にグループDに組み入れられ、初戦で相対した。試合は開始11分、マレーシアDFバクティアルがベトナムのティン・クゥアン・ヌグイェンからのクロスをヘディングでクリアーしようとしたがそれを自陣のゴールに入れてしまい自殺点を献上してしまうが、前半ロスタイムにモハド・キリル・ムヒメーン・ザンブリの得点で同点に追いついた。しかしヴェトナムはティン・クアン・ヌグイェンが63分に逆転ゴールを決め、そのままベトナムが1点のリードを守って勝利を収め、グループDに同居するサウジアラビア、イラクへの挑戦権を手に入れた。かつては“東アジア王者”で韓国、日本を破って五輪に出場をしたマレーシアであったが、マレーシアユース代表のK・ラジャゴパル監督は2点目を喫してから3人の攻撃的な選手を投入するも同点ゴールは生まれなかった。今大会はシャフィク・ラヒムとモハド・ブニャミン・ウマール(共に膝前十字靭帯の再建手術からの復帰)、K・グルサミー、ファルデリン・カディル(共に膝の負傷)らが怪我から復調したものの、ハルディ・チャールズ・パルシ、モハド・アリフ・ファズリー・サイディン、モハド・ファウジ・アリッフィンのDF3名、モハド・ヌラリフ・ザイナル・アビディン(MF)、そしてストライカーのモハド・ザクアン・アドハ・アブドゥル・ラザクの5選手が大会直前に代表から怪我のためチームから離脱したのが痛かったとコメント。一方のヴェトナムは2002年カタール大会から3大会連続で本大会に進出。東南アジアでは今やタイに次いでナンバー2の地位にある。今大会の目標はベスト8。あわよくば来年のカナダ行きの切符をつかみたいところだったが続くイラク戦は厳しい戦いを強いられた。 バンガロールで行われた試合、イラクU-20代表アブドゥッラー・アブドゥル・ハミド監督は国情から来る準備不足を何度も嘆いてはいたものの、第1戦では強豪サウジアラビア相手にモハマド・ハルカードの試合終了間際の同点弾によって2-2で引き分けた。ベトナム戦ではハメード・アケール、ラフィド・モハメドそしてモハメド・マンソウルが先発に起用された。 一方、この試合に勝ってベスト8進出に向けて大きく前進したいベトナムは、マレーシア戦の先発MFトラン・ヴァン・ホンに替えてヌグイェン・ミン・コンを起用しイラク戦に臨んだ。試合は地力に優るイラクが華麗なパス回しと豊富な運動量でヴェトナムを圧倒。11分、ハルカードのクロスをベトナムゴール前でムハマド・ウサマが合わせ先制ゴールを突き刺した。 イラクはその後も13分、25分に決定機を掴むがヴェトナムGKビン・タン・ヌグイェンがピンチを凌いだ。そしての5分後にはベトナムがカン・ヌグイェン・ヴァンが左サイドのスペースを突破し、パワフルなシュートを放ったが、ボールはイラクゴールのわずかに左上にそれた。 そして36分、イラクはハルカードのパスを受けたクシェンが追加点を上げてリードを広げた。後半に入ってもイラクの攻勢が続くが ベトナムは74分、カイ・ヌグイェン・ヴァンがイラクペナルティエリア内でモフディーに倒されPKを得てそれをカイが決めて1点差とした。バーレーン人のアブドゥルハメード・エブラヒム主審はモフディーにイエローカードを出した。しかし81分、クゥオン・ヴォ・フアンの自陣ペナルティエリア内でのミスパスを拾ったイラクのクシェンが楽々とゴールを決めてイラクが 3-1 で勝利を収めた。それでも第3戦のサウジアラビア戦にはベスト8進出を賭けて臨んだ。サウジアラビアのジルソン・ヌネス監督は第2戦のマレーシア戦(2-0で勝利)と同じメンバーで、そしてベトナムのロン・レ・トゥアン監督はストライカーのヒエプ・プク・ヒュンと中盤のディエウ・ヌゴク・ヌグイェンを起用した布陣でこの試合に臨んだ。ヴェトナムは開始13分にPKを献上してしまいアルアルビシ・ユファイン。アリに先制ゴールを許し苦しい立ち上がりのヴェトナムはその後も防戦一方。終了間際にはナシル・アル・セリミのCKからゴール前の混戦となったところをモハメド・アル・ビシが押し込まれて2点目を献上し万事休す。 これで準々決勝の日本の対戦相手はサウジアラビアに決まった。試合後のヌネス監督は“日本は強豪でインターバルも我々より1日長い”とコメントしながらも準々決勝の日本戦には“自信がある”との言葉で締め括った。その要因とするのはセットプレーからの攻撃でこの日はCK7本のチャンスから1得点決めたがマレーシア戦の2得点は共にセットプレーから。日本はサウジのセットプレーには要注意だ。ヴェトナム得意のショートパスは劣悪なインドのピッチコンディションでは生きなかったか?中東の列強に対して最後は体力差で押し切られた感じだった。
そして東南アジアの雄、タイは初戦のUAE戦を劇的な勝利を収める最高のスタートを切った。
前半のUAEの猛攻を無失点に凌いだタイは後半開始早々の47分にダンダが先制ゴールを上げる。後半に入って別人の様に見違えたタイ、というよりもダンダがUAEゴールに迫り立て続けに2度決定機を掴むが追加点はならなかった。そして82分、UAEのジャケ・ボンネヴァイ監督はモハメド・アル・シェッヒに代えてイブラヒム・アリを投入。この交代が当たって89分にイブラヒム・アリが同点ゴールを決めた。その時のダンダの心境はどうだっただろう?しかし、彼を救ったのは後半ロスタイム、終了間際のドンチュイのヘディングシュート。このゴールでタイがUAEから貴重な勝ち点3を手にした。
タイのパヨン・クンナン監督は「我々がUAEにプレッシャーを与える1点目を取れたのはラッキーだった。この試合で勝ち点3を取れる最後の最後でのゴールを決められたことを嬉しく思う。」と語った。
落胆を隠せないUAEのジャケ・ボンネヴァイ監督は、1点のビハインドから立ち直るのが難しかったとし、「ミスによって1点を先行された。その後自身をなくしかけていた選手たちが立ち直るのは難しかった。同点には追いついたものの、集中力を欠いてしまい、勝ち点3という大きな代償を払うこととなった。」と語った。
続く11月1日に行われた第2戦は初戦の中国戦を0-1 と失ったオーストラリアが相手。もう星を落とせないオーストラリアは開始から強い当たりでタイゴールを襲い、ナサン・バーンズの2ゴールなどで3-1 でタイを退けた。
A-League Adelaide United 所属のバーンズは26分と後半ロスタイムに得点、そして32分にはQueensland Roar 所属のダリオ・ヴィドシッチがPKによる1点を決めた。タイはスッティヌン・プコンが39分に1点を返すにとどまった。オーストラリアは22分、エースストライカーのブルース・ジテがタイのMFクリアンクライ・ピムラトを蹴とばして退場と以降10人で戦う苦しい展開となったが、最後は実力がそのまま出た様だった。このジティも Adelaide United 所属。今大会、AFC ユース大会初出場のオーストラリアはメンバーの中でA League 所属の選手が5人。そして Kaz Patafta がポルトガルのベンフィカ、 David Williams がデンマークの Brondby に所属し、他の多くはAIS ( Australia Institute of Sports ) の所属。ここはオーストラリアのスポーツ育成機関とでも言おうか、多くの世界レベルの選手を産出しており、先の女子のバスケットボール世界選手権で優勝を飾ったオーストラリア代表チームの多くはここの所属だ。 オーストラリアのアンジェ・ポステコグロウ監督は “退場が出てもパニックに陥らず、肩を落とさなかった。その直後の先制ゴールがリズムをよくした”と語り、 “我々はファンタスティックな2得点を挙げ、私は今日の勝利を嬉しく思う。80分間を10人で戦ったが、選手たちは素晴らしいファイティングスピリットを見せた。”と続けた。タイのパヨン・クンナン監督は「今日はアンラッキーな日だった。我々は数的優位を生かせず、ストライカーはフィニッシュの精度にかけていた。」と言葉少なに語った。最終戦の相手は既に2勝を上げている中国。昨年のFIFA U-17 では北朝鮮と共にベスト8に進出を果たしたがこの大会にエントリーされているメンバーで 2005 FIFA U-17 大会に出場したのは2名のみ。この試合引分でもベスト8進出が決る中国は前半32分にシュ・デーンがその4分後、バイ・レイからのクロスに合わせてゴール前からヤン・シュがシュートするも得点には至らなかった。勝たねばならないタイは前半終了間際にアナウィン・ジュジェーンがシュートを放つと中国GKワン・ダレイが弾き、チャイナロン・タトンがリバウンドに合わせようとしたがショートミス。両チームとも得点無く前半を折り返した。後半に入って73分前のUAE戦で2得点を挙げたワン・ヨンポがジャン・イェに代わって投入されピッチに現れてからわずか5分後に30ヤードの位置から強烈なボレーシュートを放ち決勝点を挙げた。 タイのパヨン・クンナン監督は「この大会では運が無かった。選手たちは非常によくプレーしたが、決定機を生かせなかった。」と述べた。もう1つのグループCの試合はオーストラリアがUAEを 2-0 で降し、準々決勝は韓国とあたる事になった。本大会に進出したASEAN 3カ国。この中から何人かの選手が来年のアジアカップそして五輪予選に出て来ることだろう。ASEAN諸国もかつての様な“草刈場”に甘んじる事は無くなったが、東アジア、中東諸国と比較するとまだあと1歩という感が否めない。来年のアジアカップではホスト国のどこかがベスト8に進出出来るだろうか…. 続く