Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

マーライオンの国から ロス五輪予選その2

2006-01-30 | Football Asia
タイ戦の次はマレーシア戦だった。この試合に勝てば、そして私はまだチャンスはあると期待していた。しかし、この試合も 1-2 で落としてしまう。試合の中継があったかどうかは覚えてない。試合結果は大学の図書館の新聞で知った。試合の様子の一部は第三戦のイラク戦のハーフタイム中にハイライトで紹介された。だがその第三戦のイラク戦、次のカタール戦に勝てばわずかだが望みは繋げた。開始2分に先制点を許すも、34分に原のヘッドで同点。しかし43分にはゴール前の直接FKから日本DFの壁が動いた間を抜かれて追加点を奪われ、後半は何度かゴール前に迫ったが挽回できずに3連敗が決り完全に五輪への道は絶たれてしまった。第二戦のマレーシア戦も2失点を喫した後に後半は攻めまくったが84分原のゴールで1点を還すのみに終わった。最終戦カタール戦も 1-2 で破れ4連敗と信じられない結果で日程を終えた。
4年間掛けてこの予選大会に臨んだはずなのにこの結果は何故だったのだろう? まず、最初にあげられるのはシンガポールの蒸し暑さだっただろう。私自身もこの時期に何度か当地を訪れた事があるがタイ、マレーシア、インドネシアと言った地域の4月の気候は地獄の様な高温多湿だ。1983年末から1984年に掛けての日本は異例の寒さで3月になっても私のいた京都は雪が残っていた。FW金田が11年後のインタビューで当時を振り返り“シンガポールの暑さにやられた”と悔しそうに振り返った。対戦相手国はタイ、マレーシアと言った“地元”とイラク、カタールの中東勢と“暑い”国々だ。タイ戦ではボール支配率はそう劣ってはいなかったが要所ではタイ選手の動き、運動量が優った様であった。この暑さは相当堪えたと思う。選手たちの白いユニフォームが汗でびしょぬれになっていたのがブラウン管を通じてもわかった。そして後で当時の森代表監督が語っていたが、コリンチャンズ戦から予選大会に備えて碓井、前田といったベテランを加えそれまで加藤久や金田、木村を中心に纏まっていたチームが混乱を招いてしまったらしい。ベテランの加入だけではない。前年に当時攻撃の軸であった尾崎加寿男がブンデスリーガの Almania Bielefeld に移籍してしまった事も“想定外”であった。1979年日本で開催された FIFA U-20 の日本代表主将で大会直後の New York Cosmos 戦で代表に抜擢されるなど期待の選手であった。モスクワ五輪予選には選ばれなかったが、1982年のアジア大会には名を連ね、代表では重要なポジションを担っていたその穴は大きかった。その尾崎が抜けた後、ニュージーランド、台湾と組んだ1次予選ではニュージーランドに連敗し、台湾にはホームで勝つもアウェーで引分け上位2カ国が2次予選に進出出来たのだが、危うく1次予選落ちするところであった。 それからピヤポンの存在を知らなかった事に象徴されるスカウティングの問題と大会直前になって一気にそれまで積み上げていたものが崩壊してしまった様に見えた。当時の代表はGKがベテラン田口そして坪田、DFには加藤久、安木、都並、の読売勢、MFには木村、金田、水沼の日産勢、FWは原、柱谷そして岡田らがいたが、第二戦のマレーシア戦以降は各試合得点の挙げたのは原だけであったが、それは原の高い打点だけからしか結果を出せなかったと言えよう。相手に相当研究されていたのではと思う。 だが暑さの問題とベテランを入れた事などの原因が半分以上は占めたと考えられる。事実、GKを松井、森下に替え、DFに石神、勝矢をそして西村、宮内といった守備的MFをロス五輪予選のメンバーベースに加え、引き続き指揮を取ることになった森監督の元、この“森ファミリー”は翌年のメキシコワールドカップ予選突破まであと1歩と迫った。先の2点さえ克服しておれば、結果はもう少しよかったかも知れない。今は五輪予選、ワールドカップ予選ではこの様な失敗はないだろう。それだけサッカーを取り巻く環境が飛躍的に改善されたと言うことだろう。シンガポールに来る度にこの悪夢が思い出されるが、今はもう思い出に替わっている。5ヵ月、わが代表がベストな状態でワールドカップに臨める事を願って止まない。

マーライオンの国から ロス五輪予選

2006-01-29 | Football Asia
1980年モスクワ五輪出場権を逃した日本代表は思い切って若返りを図る。その指揮を振るったのは若き日の川淵キャプテンであった。当時強化部長であった川淵氏は、新監督就任後間もなくクモ膜下で倒れた渡辺正氏の後任を自ら引き受ける運びとなってしまった。川淵氏は同年末に香港で行われたスペインワールドカップのアジア地区1次予選には1月程度前にドイツでのコーチ留学を終えたばかりの森孝慈を監督に据えるつもりであったが、時間も無いことから結局川淵監督、森コーチの体制で臨むことになった。その新生代表は平均年齢21.5歳と言う若さであった。それは4年後のロス五輪予選出場を目指しての事であった。このワールドカップ予選惜しくも中国、北朝鮮の後塵を拝し2次予選には進めなかったが、その4年の間にはインドのアジア大会で強豪のイラン、韓国を連破するまでにも力をつけるようになっていた。そしてこのロス五輪予選は珍しく多くのマスコミが取り上げ、かなり期待が持てる様な雰囲気があった。スポーツ雑誌 Number も代表GKの田口光久のインタビュー記事を掲載した。この雑誌は創刊時から愛読しているが、現役日本代表のインタビュー記事が掲載されたのは初めてと記憶する。だが、今から考えればどこに期待できる根拠があったのだろう?強いて言えば同年1月に当時ブラジル代表の中心選手であったドクトール・ソクラテスを擁したコリンチャンズに2勝1敗と勝ち越した事が根拠だったか?4年前のモスクワ五輪予選の事やその年の暮れのスペインワールドカップ予選の存在自身を知らなかったマスコミが大半だったのでは彼らがそんな雰囲気が勝手に作る事も仕方なかった。そしてその開幕戦。昭和59年4月15日。当時愛するジャイアンツは球団創設50周年目で、世界の王貞治を新監督に迎えたものの開幕10戦を終えても苦戦続きで1勝しか上げられずにいた。その溜飲をこの予選大会で下げて欲しかった。試合はNHKで衛星録画中継された。期待感を持ってテレビの前に座った私が失望感に覆われるのに時間はかからなかった。開始16分タイの選手が勢いに乗ったスピードで日本のDFをあっさり振り切ってドリブルシュートを決め先制点を奪われてしまった。その青いユニフォームのタイの選手こそ ピアポン=プォン 。彼に振り切られたの白い日本代表のユニフォームを纏ったのは菅又であった。そしてゴールを守っていたのは雑誌 Number にインタビューを受けた田口であった。そのインタビュー記事の中に“タイにはユース上がりで良いFWがいると聞いた”と語っていたのが当時21歳のピヤポンであったが、名前まで出てこなかった。いや田口だけでない、専門誌でさえピヤポンの名前は事前に報道されなかった。ピヤポンの先制ゴールの瞬間、あぁ田口が言っていたのはこの選手かと思い出した。だがこれでこの暑さは相当堪えたと思う。この暑さは相当堪えたと思う。終わらなかった。25分にはピヤポンのボールキープからチャロールが追加点を挙げた。ショックだった。信じられなかった。自分自身楽観はしていなかったがタイには負けないだろうと思っていた。また代表も初戦のタイに勝って弾みをつけようと考えていた。 だが時間はまだあった。日本も前半も30分過ぎからはボールが繋がり支配率も上がってきた。2点差ならまだ同点、逆転も可能だ。だが後半立ち上がり3分そして5分と連続ゴールを決めたのはタイであった。4点目はまたもピヤポンで中央からあっさりと突破されての失点だった。ピヤポンは72分にもPKを決めハットトリックを成し遂げた。そして得点の度にスーパーマンの格好をしたタイ人サポーターが狂喜するのが映し出された。彼の姿は1987年バンコックでのソウル五輪予選の試合でも見られた。後で知ったがタイのビール会社、シンハビールの社員で、東南アジアのサッカーファンでは有名なサポーターだったらしい。彼の音頭で、そしてピヤポン率いるタイのパフォーマンスは地元観客を魅了し、タイへの声援が増えて行った。日本首脳陣はこのサポーターはともかく、ピヤポンの事も全く知らなかった。この後の日本は柱谷、木村(PK)が得点を挙げたが勝敗には影響なく初戦を 2-5で失った。この試合を解説していた当時日産自動車監督の加茂周氏も“こんなはずでは”といいた感じの口調だった。 NHK の中継アナも“まだ3試合残っています。タイがこの後勝ち続けるとも限りませんし。”と言っていたが、私は“タイは勝ち続けるかわからないが、これまで負けたことの無いタイに勝てない様では残りの3試合も…”と悲観論しか思いつかなかった。そして実際にその通りになってしまった。そしてこの4年間の強化は何だったのだろう?と思い、その夜は本当に眠れなかった。

シンガポール マーライオンの国から

2006-01-27 | Football Asia
ジョホールのバスターミナル内にある出国税関でパスポートにスタンプを押してもらい、そのまま歩いて“停留所”に2.4 リンギット(約75円)の料金を支払い目的地、シンガポールの Bugis バスターミナル 行きのバスに乗り込む。バスが動き出して 2~3 分後、今度はシンガポール入国手続きの為に一旦下車せねばならない。エスカレーターで建物の2階に向かい入国手続きを。マレーシア、シンガポール、この両国の出入国税関は距離にして 1km も離れていないだろうが、設備や手続きの進め方を見るとこの違いは…と思わざるを得ない。入国税関の列はマレーシアパスポート、シンガポールパスポートそして諸外国のパスポート保有者に分けられる。以前は中国の旅行団体の後ろに就いてしまい、随分と待たされてしまった。ここを抜けて再び今度は “バスターミナル”に向かい先程下車したバスに乗ろうとしたが、係員に行き先を尋ねられ “ Bugis Bus Terminal “ と答えると、このバスにどうぞ、と先程とは違ったバスに。いいのかな?と思いつつも気温30度近くの中で待つのは御免とばかりに乗り込む。前日までの雨天続きが嘘の様な好天だ。数百メートルも走るとシンガポールの綺麗に舗装された道路と清掃の行き届いた街並みが。数キロメートル離れただけでこの違いだ。ここシンガポールは中華系が人口の7割を占め、他にはマレー系、インド系などからなる多民族国家だ。公用語はマレー語、中国語、タミル語そして英語の4つで、地下鉄の案内等もこの4国語が使われている。最近では子供達への英語教育熱が上がり、中国語と英語を流暢に話す小学校高学年の子供も少なくない。国民の殆どが19世紀以降の移民の子孫で第二次大戦後は英国の自治州となり1963年 にマレーシアの1つの州として独立したが1965年8月にはマレーシアから分離独立して共和国となった。元々はマレーシアのジョホール・リアウ王国の領地であったが、1819年に英国人ラッフルズ卿が王位継承紛争に介入してこの地を獲得5年後英蘭協定で英国領として国際社会から認知され、その頃から現在と同じ様に東南アジアの中継港として発展してきている。従って今でもここに荷を卸すときは関税が掛からない。( VAT 付加価値税は課税されるが )地理的にもマレーシア、インドネシア、ブルネイと言った周辺諸国の中心だ。ここの貿易高は国民総生産を上回るらしい。地元の新聞 Straits Times では日本の新聞では見られない東南アジア諸国の出来事を伝えている。これらの国々の通貨も街角の両替屋で簡単に現地通貨に換金出来る。また自国の通貨よりも安定感のあるシンガポールドルを保有する周辺諸国の人々も少なくない。国土が狭く、人口密度も高い為、自家用車にはかなりの税金が課せられるらしい。移動は地下鉄、バスが整備され人々の足になっているがタクシーも料金が安く、必ずメーターで走ってくれるので Carrefour や他の Shopping Mall の前のタクシー乗場には買い物を終えた人々が目に付く。また週末には地下鉄 ( MRT と呼ばれている。Mass Rapid Transportation の略らしい。) 内でも買い物袋を提げた家族連れを見かける。整備された幹線道路の脇には街路樹や植え込みの手入れや掃除をするタミル系の人々が、こういう人達も政府が雇い無職者を極力減らし、その労働者からも税金を徴収出来るようにと考えているらしい。この国の象徴とされるマーラインオン像の周辺には終日観光客一行が押し寄せるが、最近は中国大陸からの旅団が多い。その近くでは毎朝、法輪功の人々が中国政府の不当弾圧を訴えるなどの活動をしている。オーチャードロード の繁華街には日本の高島屋やISETAN も軒を並べる。ホテルも近代的なものからクラシックなものまで。中華街もあればインド人街そして川沿いに並ぶ屋台群そしてそこを訪れる欧州からの観光客も多く異国情緒に拍車がかかる。人口密度は日本の10倍と学校で習った記憶があるが、都心にも緑眩しい広々とした公園がいくつも有り、週末にはクリケットを楽しむ人々も。7人制のラグビー等の国際大会もけっこう開催されるらしい。2007年のアジアカップは東南アジア4カ国の共同開催であるが、シンガポールはその会場には選ばれていないのが残念だ。ただシンガポールが選ばれてしまえば、まずベトナムが落選しただろう。(他はタイ、マレーシア、インドネシア)。サッカーのワールドカップ予選、五輪予選もここで集中開催される事もあった。アルゼンチンワールドカップアジア地区1次予選、イタリアワールドカップアジア地区2次予選(一部の試合はマレーシアで開催)そして 1984年4月に開催されたロスアンゼルス五輪予選。あの時の五輪予選の悪夢を憶えている人もいると思うのだが。 つづく

テレマカシ マレーシア モスクワ五輪予選 その2

2006-01-17 | Football Asia
韓国と日本を先に戦わせてその戦力、戦術を分析し、そして星勘定を見ながら大会を優位に進めようと言う開催国マレーシアの作戦であった。しかし韓国は落ち着いていた。“日本には 2-0 で勝つ。それ以上なら尚良い”と関係者はコメントしていたらしい。前年の1979年、3月の東京での定期戦では5年ぶりの勝利を収めたが、5月のソウルでの定期戦は 1-4 で惨敗。同年のムルデカ大会でもBチーム相手に 0-1 で敗れた。当時この予選大会を報道するメディアは皆無でもちろんテレビ中継さえなかった。この大会の模様をどうしても知りたい私は考えた末、韓国のラジオ放送を聴く事にした。深夜なら日本にも電波が届いてくる。こう考えた私の思惑はまんまとあたり、試合の模様がよくわかった。サッカー用語は殆ど同じ、あとは日韓の選手の名前とポジションでその様子を伺うことにした。立ち上がり30分までは膠着状態、しかしPKを与えてしまい韓国に先制を許す。後で知ったがこのPKは日本には非常に気の毒な判定だったらしい。その後も日本のDFやGKの名前ばかりが出てきて、韓国FW選手の名前ばかりが出て来る。そしてアナウンサーがゴールイン!!と叫んで出て来る名前は韓国の選手ばかりであった。終了間際にゴールイン!との叫び声のあと“キムラ、タカハラ”とアナウンスされたので最後に日本が一矢を報いたことがわかった。日本は黒星スタートそして韓国はその後に地元マレーシアとの戦いに臨んだ。この試合もラジオで聴いていたが、ゴールイン!という後に続けられる名前はなんとマレーシア選手ばかりであった。そしてその後地元大観衆の歓喜の声援にアナウンサーの声が埋没する事もしばしば。韓国はさらにPKを失敗したり、自殺点を献上したりと良い所無くマレーシアに 0-3 で完敗してしまった。韓国がマレーシアに勝ってくれるものとばかりに想像していた私はショックであった。これで2位以内に入るにはマレーシアに勝たねばならない。しかし、勝てば得失点差で韓国を上回れる、そしてマレーシアなら決勝でも何とかなるのでは無いか?と思った。恐らく韓国でもそう思ったのだろう。しかもマレーシアは日本に負けても2位以内がほぼ確定する。だからこの試合も何と韓国のラジオ局は生中継をしてくれた。開始10分程でゴールインという声の後に当時のエースストライカーであった碓井の名前が聞えて来た。日本が先制したのだ。当時の日本代表はFWには永井、碓井の2枚看板に新鋭の横山、高原がいた。中盤には木村和司、金田、読売クラブの小見がいた主将は浦和レッズでもコーチを務めた落合だった。しかし試合が続くにつれてFW陣の名前が出てこなくなり、マレーシアFWの名前が出てくる様に。そして後半ついにジェームス=ウォンのゴールで追いつかれてしまった。それでも日本は追加点を取りにマレーシアゴールに迫ったのがわかった。40分過ぎにアナウンサーが絶叫をしたのを憶えている。それは攻撃参加した落合のフリーで放ったボレーシュートがクロスバーをわずかに越えた瞬間だと知ったのは、この試合の数週間後に発行された専門誌からであった。結局この試合を 1-1 で引分日本の五輪出場権はあと1試合残しているとは言え事実上無くなっていた。 そして決勝戦。今度はチームを立て直してマレーシア戦に臨んだ韓国であった。試合は 1-1 のまま後半も残り少ない42分。ゴールインというアナウンサーの声はマレーシアのエース、ジェームス=ウォンが決勝点を挙げた瞬間で、以降の残り数分間は意気消沈し魂の抜けた様な声でしか中継できない韓国の局アナの寂しげな声だけが、地元の大歓声をBGMにラジオから流れて来るだけであった。マレーシアが地元開催とは言え下馬評を大きく覆し、2大会ぶりの五輪出場を決めた大会であった。専門誌が伝えるところによると、韓国関係者の落ち込み様は本当に気の毒であったらしい。ドイツに渡った車範根をどうしてあと1年引き止めなかった?と物議も醸したらしい。私自身、韓国が破れるとは、日本が引分けたマレーシアに2度も敗れるとは思わなかった。韓国が世界の舞台に出るにはあと6年、メキシコワールドカップ まで待たねばならなかった。しかし、災難はマレーシアの方に起こった。前年ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した事に抗議する為、アメリカの音頭で西側の多くがモスクワ五輪をボイコット。そしてマレーシアもアメリカ等西側陣営に同調しこの五輪をボイコットしこれ以降マレーシアサッカーが世界の舞台に立てる日は未だ来ていない。プレミアシップのレプリカを着ている若者達の多くはこの快挙をしらないだろう。だが、“日本はサッカーが強い羨ましい”と言う。だれもが夢よもう一度と思っているに違いない。80年代に我々が世界の舞台を遠くから眺めていたように。

テレマカシ マレーシア モスクワ五輪予選

2006-01-17 | Football Asia
マレーシアの首都 クアラルンプール には立派な競技場が幾つか目に付く。1996年、アトランタ五輪予選に臨み28年ぶりに五輪出場を決めた思い出の競技場として憶えておられる方も。今はもう国際試合には使われなくなったムルデカ競技場と言うスタディアムがある。1990年代初めまではこの競技場でムルデカ大会と言うサッカー大会が開催されていた。ムルデカとはマレー語で独立と言う意味らしい。マレーシアはA代表とB代表が参加し、タイやインドネシア、シンガポールと言った東南アジア諸国のみならず時には中東諸国そして韓国も参加をした大会だ。70年代から80年代にはもちろん日本もよく参加していた。当時、代表Aマッチを組む機会が乏しい中この大会はアジア諸国にとっては貴重な大会であった。マレーシアが早くからアジアの中で国際大会を開催するなどリーダーシップ的な存在であったその背景には1954年、AFC アジアサッカー 連盟が設立された際、当時マレーシア首相であったサッカー好きのラーマン氏の尽力があった。AFCの本部はマレーシアの クアラルンプール にある。そして今のAFC 事務総長ピーター = ペラパン氏はマレーシア人だ。五輪予選や ワールドカップ予選等の試合をここで集中開催される事もあった。 ムルデカ大会での日本のハイライトは1976年、マレーシア代表に次いで2位に輝いた事だ。その後1979年大会は韓国、マレーシアに次いで3位になったことがあった。90年の大会にはエントリーをしたが当時はイラク軍がクウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発。安全の為海外渡航が自粛される中で、同大会の選手団の派遣も見送られてしまった。それ以降、この大会にはエントリーもせず、そして大会自身とうとう霧散してしまった。ムルデカ大会が盛況な70年代は当に マレーシアサッカーの最盛期であった。その時代、マレーシアの最高傑作と言われたソー・チン・アンは今でもASEAN 諸国史上最高の選手と言う人も。残念ながら2年ほど前に食道癌でこの世を去ってしまった。他にも後にオーストラリアに渡った ジェームス=ウォン 、アブドーラ=アリ と言った名前を聞くだけで頭を抱える韓国人サッカーファンは少なくないはずだ。日本がメキシコ五輪で銅メダルの金字塔を打立てた次のミュンヘン五輪予選は韓国での集中開催であった。誰もが日韓対決で雌雄を決するものと思われていたのに、マレーシアが日本を 3-0 そして韓国を アウドーラ=アリ の一発で沈め五輪出場権を勝ち取ってしまった。これには韓国関係者も言葉が出なかったらしい。そしてその8年後1980年3月にクアラルンプールで集中開催されたモスクワ五輪予選。下馬評では圧倒的に韓国優位であった。1977年ワールドカップ予選ではイランに次いで2位。1978年のアジア大会で優勝(北朝鮮と引分で共に優勝)1979年のムルデカ大会はBチームを派遣しながら優勝。その他アジア諸国との試合では殆ど敗れたことは無かったので(1979年東京での日韓定期戦では日本が 2-1 で勝利。これ以来東京国立競技場では日本は韓国に勝っていない)選手も車範根がブンデスリーガに去ったが、李栄武、趙広来、許丁茂、朴成華、朴商寅らタレントが揃い、誰もが韓国の東京五輪以来の五輪出場を予想した。日本の専門雑誌でも韓国にどれだけ食い下がれるか?と予想されていた。この大会には他にもフィリピン、インドネシア、ブルネイを加えて6カ国総当りで上位2カ国が決勝戦を行い、勝者がモスクワ五輪への切符を手にすることが出来た。大会プログラムは開催国の有利な様に組まれるものだが日本の初戦は何と韓国戦であった。続く

テレマカシ マレーシア

2006-01-17 | Football Asia
最低気温が氷点下まで下がった関東地方を後にして空路をシンガポールに。そしてそのままBugis Bus Terminal に直行し約1時間。国境を越えてマレーシアのJohour に入った。シンガポールから続く雨は止むどころか更に勢いを増し、Johour でタクシーが捕まるまで雨に濡れる事を余儀なくされた。マレーシアではJUSCOが既に10店舗以上あり、この Johour 地区にも3店舗ある。その中の最大店舗がこの1月にオープンし、連日訪問客で賑わっている。しかし現地に赴任している JUSCO の方に尋ねると“2週間もすれば今の半分くらいになるでしょう。いつもそうですから。”と冷静だ。むしろ1月12日の Grand Open に訪問する本社の御偉方の方が気懸かりだったそうだ。 Johour と言えば記憶に新しい方も多いと思う。1997年11月、ここで行われたワールドカップ予選でイランを岡野の劇的な Golden Goal で降し、日本サッカー界の悲願が達成された思い出の地だ。その年の夏にはFIFA ワールドユース大会が行われ当地で日本は準々決勝でナイジェリアに敗れた。 ここマレーシアでは人口約2,500万人、そのうちマレー系が65.5% を占め、華僑系25.6% そしてインド系7.5% そしてその他の民族が 1.3% という多民族国家だ。東南アジアで最初にムスリムに改宗したのはマラッカの王で、人口の多数を占めるマレー系は敬虔なイスラム教徒が殆どだ。JUSCO で働くマレー系の女性もみな頭からヌカーブで包んでいる。そして訪問客の殆どは華僑系だ。大きな ショッピングカート に食料品等を入れている。JUSCO や Carrefour といった外資系のスーパーは地元の人から見れば値段が高く、ここで Daily Foods 等を買えるのは殆どが中流階級以上の華僑系だ。中華系の客で賑わう売り場では品出し補充をしているインド系の店員達がいる。インド系の多くは英国の植民地時代、大農場の労働者として同じ英国領であったインドから連れて来られた末裔だ。当地ではマレー系、華僑系よりもずっと生活レベルが低い。ここマレーシアではフィールドホッケーがサッカーと並んで人気のスポーツだ。一時期はインド、パキスタンに次いで3番手の地位を守り続けオリンピックへの出場実績も。最近は韓国が台頭してきたので今後の巻き返しが課題らしいが“人工芝での練習場さえ増えれば”とは地元のファン達。その原動力になっているのがインド系の選手達だ。国内リーグの報道も地元新聞で紙面を大きく割かれている。インドからやって来た“外国人選手”がそのリーグを盛り上げており、代表入りを目指して帰化する選手達も。2000年に大阪で開催されたシドニー五輪最終予選で日本はマレーシアに 1-2 で敗れたが、そのマレーシア代表にターバンを巻いたインド系の選手が何人かいた。だが一番の人気スポーツと言えばサッカーだ。しかし今はここでも他の東南アジア諸国同様話題にあがるのは欧州のサッカーで、一番人気は Premiership だ。街には LivepoolやChealsea のレプリカシャツを着た人達が。中田、稲本そして中村俊輔の事を良く知る地元のサッカーファンも。しかしマレーシアサッカーに就いて話題を向けると殆どは“どうしてそんな話を?”と言われてうのはまだましな方。そんなの全く興味なしと言われる事が多い。だが若い世代は知らないのかな?マレーシアこそかつて韓国、日本が勝てない時期があり堂々五輪にも出場した事を。続く

近藤貞雄監督 安らかに

2006-01-04 | プロ野球
1月2日、夜のNHKニュースを見ていたら信じられない訃報が。“近藤貞雄氏逝去”。死因は呼吸不全。4年前、糖尿病を悪化させてその際腎臓炎を発症している事が発覚し自宅で静養していたらしい。昨年5月腎臓炎が再発し再入院され一時危険な状態にまでなったらしい。翌日早速近所のコンビニにスポーツ新聞を買いに。箱根駅伝が一面を飾る中、さすが東京中日スポーツはこの訃報をトップ記事で報道した。享年80歳だった。近藤貞雄氏と言うと過去何度も巨人と対決をしている。ロッテ投手コーチ時代は昭和45年の日本シリーズで。中日投手コーチ時代は与那嶺監督の元ジャイアンツのV10を阻止した。そして中日監督時代も昭和57年に巨人との接戦を制して優勝を。昭和60,61年には横浜大洋を率いた。平成元年から日本ハム監督を2年勤めたがその時はジャイアンツとの対戦は無かった。やはり中日監督を務めた昭和56年から3年間の事が強く印象に残っている。昭和56年と言えばジャイアンツは前年長嶋監督が解任され、王貞治が引退をし、新監督に藤田元司を迎え、東海大学から原辰徳が入団した。そして2位広島に大差を就けて4年ぶりにリーグ優勝を収め、日本シリーズも8年ぶりに制した年だ。だが序盤は近藤監督が就任したばかりの中日が首位を走っていた。この年結局中日は5位に終わったが新戦力の台頭が著しかった。投手では都裕次郎、小松辰夫、牛島ら若い投手陣が台頭しており、星野仙一はこの年巨人から5勝を挙げたが、翌年は引退。だがベテラン鈴木孝政、三沢がいた。そして台湾からやって来た郭源次、野手では捕手中尾、内野手では上川、宇野、田野倉、外野手には田尾、平野、またベテランでは谷沢、大島のジャイアンツのV10を阻止したメンバーがいた。コーチ陣も元ジャイアンツのV9戦士黒江が、そして投手コーチには権藤博。翌57年になると内野手にはケン=モッカが入団してきた。この年ジャイアンツも江川卓が全盛期、他にも西本、定岡、加藤と投手陣も充実。打撃では2年目の原が33本の本塁打を放ち、リードオフマンに松本、3割打者篠塚、そしてスイッチヒッターの助人ロイ=ホワイトがいたが若い都裕次郎や郭の快速球にてこずる試合が。そしてリリーフエース牛島を打てなかった。そして2強の争いは続き9月下旬、ナゴヤ球場での3連戦を迎える。下馬評では圧倒的にジャイアンツ有利。その初戦は原辰徳の30号3ランで幕が開けた。9回表を終わって中日先発三沢を攻略し 6-2 とリード。ジャイアンツのマウンドには江川がいた。しかしその江川に連打を浴びせて最終回に4点を奪い土壇場で追いつく。そして延長10回裏にはリリーフエース角を打ち込みサヨナラで初戦を劇的な逆転で先勝した。続く第二戦は巨人先発、西本の立ち上がりを捕らえ2点を初回に先制。原辰徳の本塁打等で同点に追いつくが、終盤谷沢の3ランで突き放し連勝。第三戦も大島の本塁打等で中日が2点を先制するが、巨人も連打で逆転、原辰徳の3試合連続本塁打で追加点を挙げ、守っても先発加藤初を受け継いだ前日先発の西本がぴしゃりと押さえ何とか3連敗は免れた。これで私は巨人の優勝を確信した。巨人は残り4試合、全て勝てば中日はのこり13試合中11勝せねばならかったからだ。しかし、巨人は失速、残り試合を1勝1分2敗しかできず、中日は最終戦130試合目で劇的な優勝を収めた。その時の無念さは今でも忘れられない。近藤監督の持論は敵将ながらわくわくさせられた。横浜で指揮を取る様になっても屋敷、高木、加藤と1番から並べてスーパーカートリオと名付けたり。勝つ為にはいかに管理野球を完成させるかという当時の潮流の中でより多くの野球ファン獲得に知恵を絞っていた。近藤監督にはジャイアンツの様な優勝を狙える戦力の球団を指揮させてみたかったと思うのは私だけだろうか?近藤監督自身も巨人軍に在籍した選手だった。昭和21年には23勝をあげながら翌年暮れには進駐軍のジープにはねられ右手中指の腱を切断し巨人を自由契約に。そして中日に入団し在籍7年で24勝。そして対巨人戦でも8勝を挙げた。だが巨人を相手に戦ってこそ近藤監督だったのだろう。昭和61年のシーズンオフに当時New York Mets で監督をしていた元巨人の助人デーブ=ジョンソン率いるメジャーリーグ選抜チームと対戦した日本プロ野球選抜チームの監督を近藤貞雄氏が勤めたがその時の表情を忘れられない。 近藤監督の言葉を借りれば、管理野球は管理されたモーレツサラリーマンが日本経済の高度成長の為に懸命に働いた昭和40年代にふさわしい時代の要請で昭和も60年代そして平成に入ると個性の回復、個性的な人材の需要が高くなりいつまでも管理野球を続けていてはとの危惧があったのだと思う。今のサラリーマン世界を見渡しても仕事にこれほどまでに重きをおくのは我々が最後の世代ではないかと思う。近藤監督はその先の世代をも見越していたのだろうか? また1人先日の仰木氏に続いて惜しい人が逝ってしまった。ご冥福を祈ります。

対戦相手 Australia その反応は?

2006-01-03 | FIFA World Cup
ワールドカップでは日本は初戦、6月13日 Kaiserslauterun で Australia と対戦する事はもう誰もが知るところだが、Australia ではどう思われているのだろう? 抽選会直後のマスコミの反応を見ると、まず優勝候補ブラジルとの力関係を計る記事が目に付いた。12月10日付けSydney Morning Herald 紙は “ Brazil? No worries, says Guus “ との見出しに始まり、 Brazil の1位は確実、2位で通過した場合は Group E ( Italy, Ghana, USA, Czech ) の1位と当たる事になるとの行から始まる記事が。“Australia が Brazil を含む Group F に組み入れられた時、 Hiddink は頭を抱えずにはいられなかった”しかしその否定形な body language は注視されるのですぐに肯定的な仕草を見せた“ につづき、”彼ら Socceroos 達 は Australia で私に ” no worry mate : 心配するな“と言う事を教えてくれそれが時にはリラックスし過ぎるのではと思わせるが、このチームはそんなに心配は無いという事が解った”とコメント。ずっと Brazil の事について言及されており、ようやく Japan の名前が出たと思えば“ 初戦がBrazil 相手であれば引分けられぬが、Japan 相手ではチャンスが有る”と。そして“正直、Australia, Croatia, Japan が Brazil に勝てるとは考え難い。従って第三戦の Croatia 戦に決勝トーナメント進出が掛かってくる”とのコメントから一気に Croatia に触れている。キャプテンの Mark Viduka ( Middlesbrough ) を初め、 Tony Popovis ( Crystal Pales ) , Zeljko Kalac ( AC Milan ), Josip Skoko ( Wigan ) , Jason Culina ( PSV Eindhoven ) , Ante Covic ( Harmerby : SWEDEN ) がCroatia 系の選手達だ。また Croatia 代表にもAIS ( Australian Institutes of Soccer ) 出身の Josip Simunic ( Herta Berlin ) , Ante Seric, Joey Didulica ( Austria Wien ) らも名を連ねそうだとの事。それだけ馴染みがあるので、難しい相手ではないと言いたいのだろうか? ただ Croatia 戦さえ何とかなれば決勝トーナメント進出へ視界が開けると言いたげだ。Hiddink もBrazil は3連勝。1勝1分けでグループ2位には充分な勝点を、とコメントしている。元々 Croatia とはテストマッチを組んでいたがこの抽選結果を受けてキャンセルが予想されるが、もうこの時点でオランダ、韓国といったかつて指揮を取った国とのマッチメイクの動きがあり、 England との対戦も予定出来るとか。これこそが Hiddink 効果である。だが Hiddink 自身、最も案じているのはチームの掌握であろう。彼が指揮を取ってから対戦相手はソロモン諸島との2連戦と最後の大陸間プレーオフの Uruguay との2連戦で実質ベストメンバーが揃ったのは Uruguay 戦のみだ。今後も主力の殆どが欧州でプレーするのでその召集と戦力の掌握が大きな課題だ。自身も PSV で指揮を取っているので同じ大陸でも頻繁に選手を見には行けまい。昨年から発足したオーストラリアの国内リーグA League は空前の人気を博しているが、そこから選手は登用するのか?また欧州組みとの融合は? Uruguay とのプレーオフに勝利を収めたが、Sydney での第二戦、フォサッティ監督が72分にエース アルバロ=レコバを引っ込めるという愚行が無ければ結果は判らなかった。だが Uruguay と渡り合ったことは選手に自信を齎すだろう。 一方、日本は予選では、最も厳しいアウェィでの Iran 戦で敗れている。 地元のマスコミは全く日本はノーマークだ。この国で海外のサッカーと言えば、England の Premiership。英国で発行されている British Football News がここでも同時発行されている。従ってどうしても欧州志向が強くアジア王者の日本は眼中に入らないというの理解出来るが、まさか日本サッカーの実力をラグビーのそれと同等に見ているのだろうか? Hiddink 自身、4年前の日本の好成績はあくまで地元開催の恩恵を受けてと切り捨てるが韓国を率いたHiddink の言葉では説得力もある。そして Hiddink には力強い見方が。それは大韓民国だ。今でも英雄視されている Hiddink の為ならどんな協力も惜しまないと公言してはばからない韓国はその裏には“日本をやっつけるためなら何でもしましょう”と言う思いが丸見えだ。ワールドカップは国家を巻き込んで闘わねばならない。かといってニュージーランドに何か訊いてもなぁ?? 大会まであと半年。まず主力選手が怪我をせずに6月を迎えることを願う。そして私自身は次回のオーストラリア出張も楽しみだ。