Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

東アジア選手権シリーズ 新生 朝鮮民主主義人民共和国代表チーム

2005-07-31 | Football Asia
日本に居ないので今日から始まった第二回東アジア選手権の経過がわからないが。今大会も欧州各国のシーズンオフ時に開催される訳ではないので、参加国はエース級の欧州クラブに所属する選手を使えない。しかし、ただ1ヵ国、朝鮮民主主義人民共和国だけは国の事情からベストメンバーを組めるはずなのだが。Up Date なこの国のサッカー事情を良く知る人は恐らく国外にはいないであろうが、発表されたメンバーを見ると何か不透明な感じが拭えない。まず監督がユン=ジョンスから選手としての国際的な実績は皆無だが指導者としては15年以上の経験があるキム=ミョンソンに替わった。彼の指導者生活を送ってきたリ・ミョンス体育団と言うのも馴染みが無いが、発表されたメンバーを見て驚かされたのが、ワールド杯予選ではエースであったキム=ヨンスを始め多くの選手が所属していた平壌 4・25 体育団からわずかに日本戦で得点を挙げたナム=ソンチョルら2選手が選ばれただけで“鴨緑江体育団”“平壌体育団”から6人ずつ“機関車体育団”“李明水体育団”から5人そしてJリーガー安英学、李漢宰の2人の構成となっている。能力の高かった キム=ヨンス、ホン=ヨンジョは召集されず彼らの他にも優れた選手がいるのだろうか?ならば、何故ワールド杯予選に呼ばれなかったのか? おそらく前監督がかつて所属した平壌4・25 体育団中心のメンバー構成で予選を臨んだが結果が出ず、新監督も含めて今度は平壌4・25色から脱却したかったのではなかったか? その背景には共産体制独特の政治的なしがらみがあると想像する。
今後北朝鮮サッカー界は年末から始まるアジアカップ予選に照準を合わせるらしい。だが選手を若手に切り替えるでもなく、同年齢層でチームを組んだところを見ると政治的な色合いは拭いきれないと思う。
若手を使うなら日本、韓国を破って世界への切符を勝ち取った U-17 や11月から始まるアジアユース一次予選のメンバーをもっと入れれば良いのに?? 
今ウェブで結果を知った 前半に許した失点を最後まで追いつけず 0-1 の敗戦だ。 ホンと、このチームでワールド杯予選に臨まれなくて良かった?? 

東アジア選手権シリーズ 中国の黄昏 アジアの壁

2005-07-31 | Football Asia
その名は容志行。日本の釜本と並んでアジア屈指のFWと言われているが、当時の中国事情から彼のプレーが取り上げら得れる事は殆ど無かった。しかし、1978年アベランジェFIFA新会長が中国サッカーを視察。その人気とレベルの高さに驚嘆したと言う。そしてFIFA復帰へ腐心し20年ぶりに復帰。スペインワールド杯の予選エントリーは締め切られていたが特例を持って認められ何と抽選で日本と同組に振り分けられた。1980年12月香港で開催されたワールド杯一次予選で日本は1次リーグで中国と対戦。開始6分、この容志行のロングシュートが決まりそのまま逃げ切った。中国は決勝で北朝鮮を3-2で破り2次予選に。2次予選でも順調に勝ち点を伸ばし本大会出場権をほぼ手中にしたがニュージーランドが最終戦のサウジアラビアとの試合でアウェーながら5本のシュートをゴールに叩き込み勝ち点、得失点で中国に並んだ。プレーオフの会場は当初香港が予定されていたがニュージーランド側の“香港だと中国のホームと同じ”という抗議でマレーシアのクアラルンプールに変更された。そこでニュージーランドに 1-2 と破れ、本大会への出場権は両手から滑り落ちてしまった。 1987年東京で雨の中で行われたソウル五輪最終戦、3週間前の広州での敗戦を“血の教訓”とした中国は日本を徹底的に研究しつくし、アウェィながら 2-0 で勝利を収め五輪出場への出場権を勝ち取った。しかしソウル五輪では西ドイツ0-3 スウェーデン 0-2 と連敗。最後のチュニジアとは0-0 と引き分けて勝点1は記録したが無得点で大会を後にした。それから14年後、名将 ボラ=ミルティノビッチ に率いられ遂にワールド杯本大会に進むが、ここでも3連敗無得点で帰国した。
中国代表の五輪、ワールド杯予選の戦い振りの印象は一言“取りこぼし”だ。1985年のワールド杯1次予選の最終戦はホームで香港に、1989年のワールド杯最終予選でも終了直前にカタールに逆転を喫し、1993年の1次予選でもイラクに破れそして今回のワールド杯予選。24年前に遡ってのアジア地区予選でもそうだが格下に敗れ予選突破出来無い事が目立つ。その原因は選手間のコミュニケーション不足から来る戦術の不徹底からではないかと言われている。それは国内に存在する南北間の対立で、例えば広州で試合をしている時に遼檸省の選手が多いと例え代表だと応援に力が入らない。だがそれよりも他国よりプロ化が遅かったことも原因と考えられる。サッカーに必要な駆け引きや経験がまだ少ないと思う。戦後日本は対中国戦9勝6敗3分けだが、1992年のダイナスティ杯から、プロリーグが日本に誕生して以降だと日本の6勝1敗1引分だ。特筆すべきはアジアカップでは日本には4連敗中。その上韓国からはまだ勝ち星を挙げたことが無い。それは五輪チームでも同じでアテネ、シドニー、アトランタ、バルセロナと五輪予選でも韓国には6連敗中だ。 この東アジア選手権で欧州組抜きの韓国相手に初勝利を上げられるかも注目だ。


東アジア選手権シリーズ 中国の黄昏 中華人民共和国建国

2005-07-30 | Football Asia
戦前の中国は清王朝を倒して設立された中華民国であった。その中華民国とは6度対戦しているが、1939年の極東選手権で引き分けた以外は全敗。1940年代になる満州事変、日華事変を経て混乱の時期に入り親日派であった汪兆銘政府が中華民国と認められ、そのチームとの対戦が中華民国との公式試合とされ、紀元2600年奉祝東亜競技大会や満州国十周年健祝大会などで対戦しそれぞれ勝利を収めているが真の中華民国代表とは言い難かった。戦後、中華民国が韓国と共にアジア代表で五輪に出場し1回戦でトルコに 0-5 と敗れた。その後毛沢東の共産党と蒋介石の国民党との間の争いが更に激化、1949年に毛沢東率いる共産党が天安門で新中国、中華人民共和国の設立を宣言。一方の国民党は台湾に逃れて中華民国の継続を宣言。それぞれが中国大陸、台湾は自国の領土と主張した。当時の蒋介石国民党は日本統治時代の建造物や個人財産を一方的に没収し世界一裕福な政権であった。それは我々祖先が当地に永年かけて築いた財産に他ならない。しかしながら、反共政策を採るアメリカの支持を受けた中華民国は国連安全保障理事国の常任理事国となるなど国際世界での地位を確保して言った。そして日本を含め多くの西側諸国がそれに同調し共産党政府は孤立していた。今中国が常任理事国であるが、それは当時の蒋介石政権が米国等に後押しされての事で、今の共産政権とは異なる国が選ばれただけだ。しかし、サッカーの世界では北京、台湾でそれぞれ統括されている両サッカー協会の存在が認められ、1957年スウェーデンワールド杯予選では中国代表がインドネシアと予選を行い敗れている。 1957年、当時北京政府と国交が無かったが日本代表は招待を受け中国に遠征。中国代表との試合は組まれなかったが人民解放軍チームの八一隊(代表選手になった賈秀全がガンバ大阪に移籍する前に所属した事もある)や上海、瀋陽、北京市のチームと7試合対戦。2勝1敗4分に終り帰国後は、中国選手の技術高さが報告されたらしい。当時は文革前で穏健派の劉少奇主席、周恩来首相が実権を握っていた時代で、外交活動も活発していたが、翌1958年のFIFA総会では台湾問題で脱退を表明してしまった。そして中華人民共和国代表チームと対戦することが出来たのは1975年香港で開催されたアジアカップ予選で、この時日本は0-1 で敗れている。日本が始めてアジアカップにフル代表を送った大会とされているが、エース釜本はこの大会には怪我のせいか参加していない。当時中国はFIFAを脱退中だったがAFCには所属しておりこの大会には問題なく参加していた。その中国に伝説の名選手がいた。

東アジア選手権シリーズ 中国の黄昏 1

2005-07-30 | Football Asia
先週、人民元は11年ぶりに2%切り上げられた。日本ではあまり話題になっていないが今、欧米では安価な中国製の縫製品が年々跋扈しており当地のその分野の経済を駆逐している。縫製関係は昔仕事でかじっていたのでそのあたりの事情はよく分かる。特に米国では中南米、欧州では旧共産圏の人件費の安い地域に生産をシフトするために投資をして来たのに年々夥しい中国製品が入ってきてはその投資も無駄になる。米国の様にQuotas を与えていても西側から見れば人件費が0に近い生産地からくる製品は年々“値下がって”やって来ている。だから縫製品に限らず中国製品の氾濫は自国産業の構造を壊しかねない。それが地球的な見方だが、日本だけは“13億人市場の確保”とばかりに中国政府には及び腰だ。2%の人民元切り上げで日本の100円ショップにはこれから影響が出て来るだろう。第一、13億人分も中国に市場など在る訳が無い。貿易にビジネスに関わった人間なら直ぐに判る。先の平壌での観客暴動に比べれば昨夏のアジアカップで我々同胞が北京で受けた仕打ちなどは政府筋でもっと強く抗議声明を出すべきなのだが。
問題は日本の国会議員が毎夏に北京に視察旅行に行き、全ての欲求を満たして貰いお土産まで持って帰っているので、欧米諸国の様に強く物が言えないのだ。
だがサッカーの関しては少し気の毒だ。日本、韓国の東アジアのライバル達がワールド杯出場を決めたのに自分達は1次予選でまさかの敗退。最終戦を前に“勝ち点が同じならプレーオフをさせてくれ”とFIFAに正式に依頼するあたりは中国的な発想だが、彼らのサッカー好きを知る限り判らない気もしない。
戦後中国がサッカーの世界の舞台へ出て来たのは1948年のロンドン五輪、1988年ソウル五輪、そして前回のワールド杯の3回だ。 だが世界の大会では勝ち点1は挙げたが得点は未だ挙げていない。
しかしながら、日本代表が最初に対戦した国家代表は1917年東京で行われた極東大会での初戦、中華民国戦でこの試合、日本は 0-5 で敗れている。それ以降、日本は中国(当時は中華民国)に勝つ事を目標にしていた。日本は1984年5月に大宮で行われたキリンカップで加藤久のPKで1-0と中国を下したが何とこれが最初の勝利であった。そこには過去の歴史的な背景がある。

あぁ ストラカン監督

2005-07-30 | EURO Football
今週初めから商用でオーストラリアに来ている。こちらの人気スポーツと言えば、ラグビーそれも2種類ある Rugby Union と Rugby Leagu。Union の方が世界的に普及している方の Rugby だったと思う。それから特にメルボルンで人気のある Aussi Football。 そしてクリケット。サッカーは5番手以降だろう。そのサッカーも記事になるのはプレミアシップの話題ばかり。確かに Liverpool には代表のエース Hurry Kewell そして ミドルスブラ には “ Duke” Mark=Vidukaがおり、代表クラスは殆ど、プレミアか First Division でプレーしている。何人か前に Australia 代表主催のテストマッチをロンドンで行ったことも。
だが、地元オーストラリアのマスコミの良い所は、オーストリラリア選手の提灯記事ばかりで無く、英国のサッカー事情を万遍無く伝えている所だ。7月29日のスポーツ欄のサッカー記事のトップは先日の Celtic の Championship での大敗記事だ。” Nightmare start for Strachan. ストラカン悪夢の始まり“の見出しが。この敗戦でこれまでコンスタントに欧州のカップ戦にある程度駒を進めていたのに、今季は欧州カップ戦抜きでシーズンを戦わねばならないのでその収入源の心配を。ストラカン監督のコメント”まだショックを拭いきれない。開始30分後はなす術も無かった。誰もこの日の出来を忘れられないだろう。0-2 とされた後に3トップにシステムを替えるギャンブルに出たが何も変わらなかった。ファンには返す言葉も無い“と。中村俊輔の名前は紙上には見られなかった。他の記事では早くも当地 Bratislava まで出掛けたサポーターから退任要求が出ているとか。だがチームの Official Sight はまだ強気で” Bratislava Artmedia が出来て我々が出来ない訳が無い。今度は Glasgow で5-0 だ”と。今日30日 Celtic は Premiershipの開幕戦 Motherwell 戦に臨む。 他では噂されている Chealsea のシェフチェンコ獲得の噂については Chelsea 側の 中盤選手を物色中とのコメントで打ち止め。 日本に遠征中のReal Madrid の FIGOはポジションが保障されないのなら移籍を考えると。インテルと Liverpool が興味を示しているとは。ジュビロ磐田を 3-1 で下したことも書き落としていない。また同じく日本遠征中の Manchester United は微震のあった東京国立競技場で鹿島に 1-2 で敗れたと。朝鮮日報はこの試合で日本のラフなDFとGKに英雄、朴智星が怪我をさせられたと。一方タイ、バンコックに遠征していた Manchester City は Darius Vassell が£200万(約4億円)でAston Villa から完全移籍。また Joey Barton がバンコックのホテルで Everton のファンと口論になり事件を起こしたことについて8週間分の給料の罰金をチームから果たされたたしい。 Everton と Manchester City はタイサッカー協会が主催するBangkok でのトーナメントに招待され当地に滞在していた。Evertonには李鉄 City には孫継海 といった中国代表選手がいる。が東アジア選手権には合流しない。

あぁ Celtic が

2005-07-29 | EURO Football
中村俊輔の移籍で一躍スポットが向けられた Scotland の名門 Celtic がChampions League の第二ラウンド、アウェィ Bratislava に乗り込み Artmedia に 5-0 と一撃を喰らい、早くも中村の Champions League 出場に赤信号が点り出した。地元の The Herald 紙によると£750万(15億円)の” notoriously prudent 悪名高い補強はグループリーグへ進出するための支出だったが、今や負けてもUEFAカップにも回れないこの敗戦に耐えねばならないと。3得点を挙げたJuraj Halenar,はStrachan監督の今季最初の“competitive game 真剣勝負”を恐怖のどん底に陥れたと。また新DF陣では俊輔の前、6人目の新契約選手Southampton からの移籍選手Paul Telfer のみが及第点で Bayern Munchenへの移籍話もあったBobo Baldé's が大敗の責任であると。GK は先日の Leeds 戦に使われた Artur Boruc でなくDavid Marshall が起用されたがなす術無く5失点。Mo Camaraは明らかに”ill-equipped 整備不良” でMoravcik 監督の起用が当たったVascak に良い様に置いて行かれた。Maciej Zurawski's と John Houton の中盤は相手にとって取るに足らない中盤で、怪我から復帰したAlan Thompson は相手に影響を及ぼせず、Stilian Petrov とNeil Lennon は動きを完封された。極め付けはChris Sutton が開始16 分で味方の Neil Lennon とぶつかってしまい頬骨を負傷し退場した事だ。Jérémie Aliadière はストラカン監督が Zurawski を2004/05 player of the yearであった Hartson のパートナーに選んだのでベンチにおかれたのだが、その二人も何も出来なかった。及第点のTelfer はわずらわしい仕事を完璧にこなしたが Bratislava Artmeida の Vascak はCamara の ポジショニングと判断の悪さを露呈させた。Paul Telferはストラカン監督が Coventry で指揮を取る前年に同チームにやって来て2001年、ストラカンがSouthampton に遷る時に後を追った。今回もストラカンが彼を連れて来たと言えるが、33歳の Edinburgh生まれの Telfer がいなければ今頃どうなっていただろう??DF陣が安定せねば攻撃も精彩を欠くのかこれで攻撃陣は4試合連続無得点だ。 ホームでの第二戦で奇跡は起こるのか?最も祈願しているのは日本の Pay TV では??
かつてカズが Genova に移籍した際にルーマニア代表DFのダン=ペトレスクを外国人枠の兼ね合いで放出したが、それでディフェンスが安定せず、苦戦を続けSerie Bに降格してしまった。その降格はカズが直接の原因ではないが遠因にはなったと言えるかもしれない。 チームが俊輔にフィットするか、それとも俊輔がフィットせねばならないのか? 先行きは甘くはなさそうだ。 頼むから怪我だけはしないでくれぃ

人気のセ 実力もセ?

2005-07-28 | プロ野球
オールスター戦が終わり、プロ野球のペナントレースも後半戦が始まっている。我が愛する巨人軍は選手を大幅に若手に切り替え首位の阪神相手に1勝1敗。一昨年からタイガースにはめっきり弱くなっているだけに、少なくともこの3連戦、宿敵には勝ち越して欲しいものだが。2002年末に松井秀喜がメジャーリーグに去り、阪神が星野監督を迎え金本、片岡らの選手をFAで獲得。星野流の意識改革が功を奏し若手を中心に戦力が活性化し、ジャイアンツはさっぱりタイガースに勝てなくなってしまった。それがここ2年低迷している原因だ。“ダメ虎”と言われていたタイガースが文字通り猛虎軍に変身したのを見てうらやましく思う。関西育ちながら筋金入りのG党の私はタイガースに敗れた翌日は学校に行くのがどれほど辛かったか。しかし当時のジャイアンツはV9の真っ最中で最後は日本一になり川上監督が胴上げされ、一人優越感に浸っていた。そんな当時、真夏の祭典、オースルターは楽しみの一つで、王、長島、田淵のクリーンアップに江夏、堀内、高橋一三の投手リレーと巨人、阪神両選手が同じチームでオーダーを組むのを楽しんで見ていた。
江夏が9者連続三振に討ち取った時もその13年後江川が8人目まで連続で三振を取った時もテレビで観た。 だがチームとして勝つのはパシフィックリーグが多かった。V9当時(65~73年)はパの17勝8敗2分け。74年、83年、87年はセを3タテ。子供の時はオールスターでしか見られないパリーグの選手もいた。そしてパのエース達は王、長島には目をむいて相対してきた。しかし90年に2年連続20勝投手のジャイアンツ斉藤雅樹を7連打で打ち込むなど2連勝して以来、91年からの14年間ではセの18勝11敗4分け。今年のオールスターもセが連勝。通算成績もパの73勝63敗8分けとなり、勝敗も10差に迫った。それは93年オフより導入されたFA、ドラフト逆指名制度に寄るものが大きいと思うが、私は昔から実力のパに疑問を感じていた。人気のセ、実力のパと当時から言われて来たが、子供心に本当にそうかな?と思っていた。何しろ日本シリーズではロッテ、阪急、南海とジャイアンツには歯が立たなかったから。実力のパを垣間見たのは西武ライオンズが82年から94年の13年間で日本シリーズ優勝を8回成しえた時期と西鉄が巨人相手に日本シリーズで3年連続勝った昭和30年代初期の時期であろう、と述壊するのはジャイアンツファンのおごりか?? 

NAKAMURA スコットランドへ その2

2005-07-27 | EURO Football
“弱きを助け”過ぎが原因かもしれない。 74年大会はアフリカの ザイール から2得点しか挙げられず、78年大会は エース ウィリー=ジョンストン が違反薬物使用で第二戦以降失格となりイランに 1-1 で引き分け、しかも スコットランド の得点は相手の自殺点。82年大会でもニュージーランドに勝ったが2失点を喫し( 得点は 5-2 ) 3大会連続で得失点差で2次リーグに進めなかった。その原因は守備に難点がある、と言うよりもサポーター達の醸しだす独特の雰囲気に載せられて中盤から前の選手に守備の意識が無いからと皮肉られていた。1995年のキリンカップで来日した スコットランド相手に0-0 と日本は引き分けた。当時の スコットランドは 来日メンバー を別にすれば翌年にはイングランドで開催された欧州選手権の本戦に出場し、3年後のワールド杯フランス大会にも出場するなど今よりもチーム力はあっただろう。そのスコットランドと引き分けるのだから本当に70年代の頃と比べると隔世の思いだ。
彼らが弱体化しすぎたのか、日本が強くなりすぎたのか?その証明は中村がしてくれるであろう。
最後に一言。私はスコットランドの国歌 Flower of Scotland が好きだ。これをバグパイプで演奏されたらたまらない。1989年、日本ラグビーは秩父宮でスコットランド代表相手に歴史的な勝利を収めたが、試合前の国歌演奏のセレモニーで何と日本側はイングランドの国歌 God Save the Queen を演奏したのだ。相手に対する心理戦なら失礼極まりないし、知らなかったでは無知を曝け出しただけであった。これが理由で棄権されても致し方が無いハプニングであった。その3年後商用で欧州を訪れたとき偶然 ヒースロー 空港で5カ国対抗戦の遠征最中であった Scotland チームと売店で一緒になった。 そして選手の一人にその事を詫びると、何人かは苦笑いをしていた。そして一人が “ Unfortunately “ と。試合結果か、国歌の事か?それ以上は訊けなかった。 中村の移籍を機会にネス湖のネッシーばかりでなくスコットランドの事を勉強してみようと思った。

NAKAMURA スコットランドへ

2005-07-26 | EURO Football
中村俊輔の Celtic 入りがようやく締結した。スペイン行きが有望視され、Celtic が参入。そしてブンデスリーガ の ボルシアメンヘングラッドバッハ も名乗りを上げた Nakamura の争奪戦にケリが就いた。個人的にはブンデスリーガの グラッドバッハ へ行って欲しかったが。Celtic はチャンピオンズリーグの出場権がある。それが決め手になったか? だが水曜日 アウェィで行われるArtmedia Bratislava.とのチャンピオンズリーグ戦には中村は出場せず、 Premiership の初戦がデビューとなる見通しだ。Celtic 側も日本市場を視野に入れてか移籍金を£270万(約5億4千万円 : 3年契約)まで上げた。Chief Exective の Peter Lawwell氏も中村の日本での人気に期待していると。つい1週間前にDFテルファを迎えたばかりで今年新監督 ゴードン=ストラッカン 体制になり中村で7人目の新契約選手だ。だが昨シーズン終了後に9人の選手が退団している。このチームの今の問題点は得点力。23日に行われた Leeds United とのプレシーズンマッチはNeil Lennon, Chris Sutton, John Hartson , Stilian Petrov ら レギュラークラス が不出場であったせいか、0-0 と引き分け、成果は怪我で長期離脱していた Alan Thompsonの復帰で、試合の見所と言えば ポーランド人 GK Artur Borucのパフォーマンスぐらいだったらしい。これでシーズン前とはいえ3試合連続の無得点。水曜日のチャンピオンズリーグのゲームに不安を残すことに。それだけに中盤でゲームメークの出来る彼への期待は並々ならぬものだ。事実 ストラッカン監督 は彼に Confederation’s Cup でのパフォーマンスをここで見せてくれることに期待しているとの事。
Scotland と言えば、前回のワールド杯には欧州地区予選で敗退し、ドイツから ベルティ=フォックツ監督を迎えて臨んだ今大会も殆ど予選落ちが決まっている。 74, 78 年大会は英国4協会の中でただ1ヵ国本大会に進みイングランドに替わって英国協会のエースとまで言われた。ジョー=ジョーダン、マーチン=バッカン、ケニー=ダルグリッシュ、そして マーチン=ストラッカン と母国イングランドを凌ぐタレントが揃っていた。だが決勝トーナメントには進めず、90年大会で旋風を巻き起こした カメルーン 代表の ジョジ=ミラ に“欧州代表の中には5大会連続で決勝トーナメントに進めない国がある。アフリカ諸国にもっと出場枠を”と言われてしまった。その原因はどこに ??? 続く

KAZU 完全移籍にプロフェッショナリズムを見た

2005-07-20 | 京都サンガ J-League
KAZU こと三浦知良の横浜FCへの完全移籍が発表された。パベル新監督の構想外となりここ5試合ベンチ入りさえも果たせなかった事を見ればこの移籍には納得が出来る。そして彼をあくまでも構想外とベンチ にも入れなかったパベル監督の徹底した決意にもプロ意識が伺える。横浜 FC でのカズの契約年棒は 3500万円とも 6000 万円とも言われているが、そんな事は関係ないと思っているだろう。まだ自分はやれるんだという事を他の誰でもない自分自身に証明する為にその居場所を見つける事が重要であっただろう。現在横浜FCは11位。J1昇格を目指すと コメント しているが。現在2位のアビスパとは勝点で17差が。だが残りがまだ22試合もあるところがJ2の面白いところだ。かつてヴェルディに在籍時代、藤吉ら後輩達に”試合に出れるのであればどんどんよそのチームへ移籍する事も考えろ”とアドヴァイスしたらしい。今まさに彼はそれを地で行っている。38歳、そこまでしがみつきたいのか?という人もいるだろう。だが38歳まで現役のプロスポーツ選手でいられる実力を持つ選手が何人いた?サッカーに限らず。カズブランド?それに何千万も払う価値があるからブランドだ。12年前 ドーハ での ワールド杯予選。何人が今でも現役だろう? KAZU がブラジルから帰国したのはJリーグの始まる3年前だ。同年秋のアジア大会で代表は惨敗し彼は人目もはばからず悔し泣きにくれた。だが帰国後再開された JSL では自分の力でサッカーをメジャーなスポーツにしようとする姿には共鳴せずにはいられなかった。今 JSL を経験した選手は何人いる?そしてJリーグ開幕。後は私がわざわざ述べる必要はないであろう。だがこれだけは言わせてもらう。彼こそ真のプロフェッショナルだ。スポーツ選手の価値判断は色々あるだろう。だが最も大切なのは後人に井戸を掘り、なおかつ長く現役を続けることでは無いか?
欧州でプレーしたりワールドカップに出ることだけが判断価値では無いという事を再確認させられたのは私だけだろうか?
 

ヴィエラ アーセナルを去る

2005-07-18 | EURO Football
7月15日付けのフランスの有名紙、 Le Monde のホームページを見ていたら、ビッグニュースが掲載されていた。1996年から9シーズン、プレミアシップの名門、Arsenal に在籍したフランス代表の主将、 Patrick Viera が イタリア の Juventusに電撃的に移籍する事になった。13日水曜日にユーべ会長の Alessandro Moggi 氏がロンドンに飛び秘密裏に進めた交渉は3日間で締結し、その契約内容は5年契約。移籍金は 2,000 万ユーロ 。支払いは3回に渡って分割で支払われ、契約締結時に1,000万ユーロ、2006年7月14日までに 500万ユーロ。3回目は2007年7月14日までに 500万円ユーロが Gunners に支払われるが、これも為替リスクを伴わない通貨統合が現実となった現在ならではの条件でもあろうか?。 またフランス代表主将のビッグトレードの移籍金締日がフランス革命記念日の7月14日となっているのも何かの縁か? 
今回の Viera の移籍は Capello 監督自らが熱望したらしいが、この因縁も興味深い。
Viera はロンドンに行く前に1年 AC Milan に在籍していた。そのシーズン Milan の指揮をしていたのはFabio Capello であった。その Capello 監督の下、前年 Juventus に奪われたスクデットを取り返したが、Viera がそのタイトル奪還に貢献したとは言えなかった。(だから移籍したのだが。)同シーズンは ロベルト=バッジオ がJuventus から Milan に移籍した事が最大のトピックであったが、今回の Viera の移籍も同様の事が言えるであろう。 
これで Juvenus はDavid=Trezeguet, Lilian Thuram とフランス代表3名を配する事になったが全てが黒人選手だ。だが、昨年の欧州選手権、ギリシャに敗れた準々決勝では Viera だけが出場できずにベンチからチームの敗戦を眺めねばならなかった。98年、地元ワールド杯で優勝して以来、随分とアフリカ系の選手が増えた。実際昨年の EURO でも白人選手は GK Barthez, MF Pires, DF Lizrazu くらいだ。1978年、将軍 ミシェル=プラティニ を擁して12振りに本大会出場を決めた フランス 代表には ボルドー に所属する DF 選手 マリウス=トレゾール という黒人選手がいたが他は白人選手ばかりであった。身体能力の高いアフリカ系の選手が台頭してくる中でチーム力がアップしてくる。そして時には心無い民族的な野次がスタンドから浴びせられる。
ヴィエラがライバルチームのサポーターから心無いブーイングを浴びない事を心から祈る。

アイルランド ダービー?その2

2005-07-15 | EURO Football
アイルランド は元々 ケルト 系民族の居住する独立の島国であったが、12世紀に イングランド が侵入して島の大半を占領し服属させた。だが決定的な影響があったのは17世紀の クロムウェル による収穫で、その結果 イングランド 人は プロテスタント 優位の体制を強制し、アイルランド人は局品の農業労働者として プロテスタントに支配される カソリック という構造が出来上がってしまった。 1800年の合同法により イギリス 連合王国に翌年併合されたが19世紀には民族主義的な運動が展開し、ついに1922年南部 26州が事実上独立し第二次大戦後の1949年に英連邦から離れた。一方 イギリス 連合に残った北部 アルスター 地方の6州には スコットランド から大量に プロテスタント が流入し、元々いた カソリック系は弾圧を受け、アイルランドに逃れたりした。従って アイルランドは カソリック系、北アイルランドは プロテスタント系。最近はおとなしいが IRAアイルランド共和軍は北アイルランドに在する少数 カソリック の為に武装闘争を続けていると言うのが簡単な縮図だ。アイルランドは1973年に EC加盟が認められ、世界各国から独立した国と認識されるようになったが、当時はまだまだ イギリス連合に所属する北アイルランド の方が経済的にも高く、サッカー の方も北アイルランドの方が優位であったがその裏には アイリシュ系の イングランド や スコットランドの選手が北アイルランドに"代表キャップ" の為に編入されたと言ういきさつがある。また1988年ブルガリア、スコットランド、ベルギーとの激戦を制して初めて晴れの舞台、欧州選手権に進出した アイルランドも同様の事があったらしい。この ジャッキー=チャールトンに率いられた代表は初戦で母国 イングランド と対戦 バーンズ、ベアズリー、リネカー の繰り出す猛攻を凌ぎホートンのゴールで 1-0 と破ってしまい、世界を驚愕させた。そして1990,1994年と連続してワールドカップ本大会への出場を果たすが、その欧州予選では2大会とも北アイルランドと同組であった。本大会でも共に1次リーグを突破し、決勝トーナメントに駒を進めた。かつての北アイルランドにせと今のアイルランドにせよ代表クラスとなれば選手一人一人はイングランドのクラブチームに所属するレベルにあるのでその戦跡も理解できる。
来週 チャンピオンズリーグ は 2nd Leg が行われるが、かつての欧州王者、ルーマニア の Steaua Bucureciti がGlentoran か Shelbourne かを待っている。 

アイルランド ダービー?

2005-07-14 | EURO Football
欧州では早くも チャンピオンズリーグ が開幕した。まだ AC Milan や Chelsea と言った ビッグネーム は登場しないが、プレミア5位 に終わったが特例を持って出場が認められ昨季の欧州王者 Liverpool はこの ラウンド からお目見えだ。チャンピオンズカップ時代を含めて以前は前年度王者は参加資格があったのだが。ここから勝ち上がって2連覇を達成するとなるとこれは歴史的な事だ。 さて昨日終わった1回戦の 1st Leg 興味を惹いたのは ベルファスト で行われた北アイルランドのGlentoranとアイルランドのShelbourne の一戦だ。結果はアウェィの Shelbourne が2-1で勝利を収め、翌週のホームでの2nd Leg に弾みをつけた。ホームの Glentoran が敗れるあたり、今の代表のランクを如実に現している。アイルランドはFIFAランクは16位。前回のワールド杯でもロビー=キーンらの活躍などご記憶の方も多いだろう。そのキーンの親戚 Jason Byrne は Shelbourne に所属するエースストライカーで代表に招集されたことも。ワールドカップ予選では Group 4 に組み分けられ、3試合をのこして現在勝ち点13で首位。9月にフランス、10月にスイスとライバルとホームでの直接対決を残しており連続出場に視界も悪くない。一方英国4協会に所属する北 アイルランド は60年代中期から10年以上に渡って Machaster United で活躍した大スター Geroge=Best がいた。そして 1958 にはイングランド、スコットランド、ウェールズと揃って本大会に出場しベスト8に。1982年はホスト国スペインを破り、後に Machaster United でも活躍した当時17歳の Roy Whiteside は最年少出場記録を樹立。大会で3得点を挙げた後に ウェストハム に移籍した アームストロング,オーストリア 戦で2得点の ハミルトン 等優秀な選手がおり、英国4協会に北アイルランド有りと知らしめた。翌86年大会にも本大会出場を果たし1次リーグで敗退したが 当時41歳、アーセナル や トットナム にも所属したGKの Pat Jinnings が大会最年長記録を記録した。(後にカメルーンのジョジ=ミラに更新されたが。)しかし、現在はFIFAランクは114位と低迷しており、来年のワールドカップも絶望的だ。両国のサッカーでの地位関係が決定的に入れ替わった事象は 1988年、ジャッキー=チャールトン に率いられた アイルランド が欧州選手権西ドイツ大会に見参してからであった。  続く

中央アジア発キエフ経由プレミアシップ行き

2005-07-12 | Football Asia
来年、ワールドカップ が開催されるので今シーズン の欧州各国の リーグ戦は開幕が早い。従って欧州移籍市場もはやくから動きが見られ、最近では チャンピオンズリーグ で活躍した ミラン の クレスポ が レンタル 元の チェルシー に戻り、その穴を埋めるべくミラン は コンフェデ杯で活躍した アドリアーノ の起用を重視した ライバル の インテル が放出した ヴィェリ を受け入れる事に。欧州王者の リバプール は ジェラードの移籍希望を一転翻意させ留意に成功した。だが私が気になっているのは ディナモキエフ に所属する旧ソ連邦はウズベキスタンの大スター、マキシム=シャツキフ に プレミアシップ の ウェストブロミッチ が食指を伸ばしていると言う ニュース だった。稲本 ファン にも気になる ニュース だが、これが実現すれば中央アジアから初の プレミアシップ選手誕生だ。昨シーズン、所属先の ディナモ=キエフ での彼の活躍ぶりを見れば考えればこの スカウト もうなずける。シャツキフと言えば2000年のアジアカップでは当時22歳ながら背番号10番を背負い、ウズベキスタン 代表チームの ワントップを務めた。この時 ウズベキスタン は 1次リーグで我が日本代表と当たり 1-8 で大敗している。だが,シャツキフ は昨年のアジアカップには合流しなかったせいもあり、この2年間で同国Aマッチ22試合中9試合しかプレーしておらず、英国での労働ビザ取得条件である最近過去2年間での4分の3以上の Aマッチ 出場の条件を満たしていない。かつて宮本恒康もこれに引っかかり移籍話が纏まらなかった。だが、シャツキフに関しては既に"海外"ウクライナでプレーしており、この条件を必ず クリアー せねばならないとは限らないらしい。ウズベキスタン と言えば旧ソ連邦解体以前の全ソビエトリーグ時代には、首都の タシュケント を ホーム とするパフタコールが一部に所属していたが、チバーゼ、シェンゲリアらのいたグルジア共和国の様にソ連代表に選手を輩出するほどではなかった。この パフタコール は昨年の アジアカップには代表に12名送り込んでいた。そして彼らの本拠地 パフタコール・スタディアムで8年前日本代表が ワールドカップ予選を戦った。連邦解体後1994年の広島でのアジア大会で優勝を果たしたが、その時のエース,カシモフ はその後 フランスワールドカップ 予選で日本と対戦し昨年の アジアカップ でも中心選手でもあった同国の重鎮だ。この時から ロシアリーグ の ウラディカフカス に所属しており今でも ウラディカフカス の中心選手だ。今や35歳の カシモフ にはもう欧州の クラブからはお声は掛からないが、19歳の代表選手 イリヤス=ゼツラエフ は トップチーム では無いが ユーベントス に所属している。8月17日、ウズベキスタン は ワールドカップ出場をかけて クウェート を ホーム、パフタコール 競技場に迎える。ワールドカップを キャリアアップの場と捉えて欧州への ステップアップ と考えているであろう彼らのそのハングリー精神が、連邦崩壊後旧ソ連邦ではロシア共和国以外が未だ成し得ていない ワールドカップ へと自国を導くかもしれない。

ブラジル、アルゼンチン BRICs その2

2005-07-07 | Football 北米 南米 
前回のワールドカップでは9人がそして今回のコンフェデ杯には19名の選手が6カ国の欧州クラブチームに所属していたが、ワールドカップが前回ドイツで開催された1974年のブラジル代表選手団22人の中で欧州のクラブチームに所属していた選手は一人もいない。 1978年の地元開催に向けてチーム作りを手掛けた当時のアルゼンチン代表のメノッティ監督は当初国内の選手のみでチームを構成しようと考えた。(結局は英雄ケンペスをスペインから呼び戻す事になったが)当時の南米諸国の選手は一旦国外に出てしまえば代表には呼ばれないという不文律みたいなのがあった。アルゼンチン大会後、主将の ダニエル=パサレジャ が インテル=ミラノ に移ったが、多くの選手が地元に残ったのは、欧州クラブチームが出すオファーはそれほど魅力的なものでなかったらしい。それだけブラジル、アルゼンチンの貨幣価値が欧州と変わらなかったのだ。その後、欧州でのサッカーのビジネス化に伴う選手の流通は周知の通りだ。 だが今、様相が変わるかもしれない。2002年、債務不履行で国家財政が破綻したアルゼンチンはその後2年連続で経済成長率が8%を超える復興ぶりだ。その原因は国際商品市況の急上昇で主輸出品目の農作物等の第一次産品の価格が高騰し、特に大豆関連品目は8割も上がり以前4年間の落ち込み分を完全に回復すると見られている。またブラジルの方も農畜産物、鉱物資源の価格が上昇していることから輸出が拡大、内需も自動車市場が快活で景気は急上昇中だ。また鳥インフルエンザ問題で世界第三位の収穫高を誇る鶏肉の特需も後押しをしている。好調な輸出を担っているのは両国からの一次産品を買い漁っている中国である。欧州統合で反対に経済的な伸びが停滞する中、もし南米市場がこの様な伸びを続ければ、将来はサッカーのビジネスの舞台が欧州から南米へシフトされるかも?と考えるのは早計か?だが、EU統合が経済的な事由で足並みが揃わない中、好調な経済発展を見せている BRICs 諸国(Brasil,Russia,India,China)の一つであるブラジル、オランダでユースチームが優勝したアルゼンチンがその経済の発展ぶりを背景にチーム力が更に急上昇し、地元のドイツをはじめ欧州勢は歯が立たなくなるかも知れない。これからは経済誌からも目が離せない。