Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

思い出の街  Zurich

2011-04-26 | Half Time

商用で欧州を回っております…

Zurich の地を初めて踏んだのはもう 21年も前だ。
あの時はまだ前の会社にいた時で結婚前だった。 ルーマニアの首都ブカレストに出張を命ぜられそこに単身赴いた。とはいってもその時の会社はBucharest に駐在事務所がありそこには日本人の駐在部長もいた。
既に独裁者チャウセスクが倒されて10カ月が経っていた。 いやまだ10カ月しか経過していなかった。
革命後初めて同国で開催される国際見本市に出展参加をしたのだけど、当時共産圏で開催される見本市は外貨獲得手段として延々と1週間近く行われる。 今とは異なり輸入に最も大事なそして大切な外貨を使える最終決定権を持つ地元輸入公団のエライサンが各出展社ブースを転々と周り最後の“商談”を行うのだけど、既に前倒しでお互い担当者同士で筋書きを作っているのだ。 
私が最後にもう10%まけてくれと云うけど断っても良い、だけど(決定権を持つ)上司があと5%何とかならないかと言うのでそれで手を打ってくれ。 Protocol は全て準備して持参するから…..
要するに最後に最高責任者が出て来て数パーセント引かせた、彼に花を持たせたという筋書きを作っておいて実際にその通りに“商談”を行い、最後はめでたく“締結”をしてそして“儀式”である乾杯を行う…帰る前には準備しいたお土産を手渡しもう一度固い握手を。そして担当者とは“上手くいったね…” とばかりに目を合わせる….
これを1日数回1週間以上行うのだ….
紳士的な Director もいたけど、とんでも無いもの多かった。 特に当時の私の様な“雛っこ”は格好の標的となる。“日本の歌を1曲歌ってくれ。”とはまだ可愛い方。 懐から瓶を取り出し、“おいそこのヤング、一杯あおって見せてくれ。”と火の様に強いウォッカを一気飲みさせられるのだ。 これを断ると本当に注文が延期されることもあるらしいが実際にはどうだったのだろう…
まだ若かりし頃まさにこういう場面に遭遇し最後は立ち上がれずホテルまで駐在所長の肩を借してもらってやっとたどり着いた思い出もある。
そして明らかにお土産目的の輩も多かった。 まぁお土産と言っても西側のウィスキーや煙草が主だった。 
そして女性の Director には日本製のパンストが人気あった。 共産国家は女性の Director も少なくなく彼女達の御機嫌を取るには子供の為のお土産が効果的だった。 ある時は adidas の靴を買う様に命ぜられた事もあった。 
だがもっと驚いたのはいきなり若い女性の写真を見せられて“私の娘です。あってくれませんか?”と言われたことだった。 普段は強烈に値切って来る怖い女 Director も素顔は娘の将来を案ずるお母さん。若い時、俺の容姿は2枚目だ… と勝手に思っていたけど、当時日本人はみな金持ちで日本人と結婚すれば西側社会と自由に往来できる…と思う東側の人達は少なくなかった。 それに対日感情の素晴らしく良いポーランドでは歴代の駐在所長達は美しいポーランド人女性と結婚していた。そして駐在期間が過ぎると皆会社を辞めてポーランドに留まった。当時はまだ独身だったので本当にそういう“お見合い話”が何度も持ち寄られた。でも最後まで誰とも会わなかったしそれで良かったと思っている。
だけど最後の“商談”を待っていたにも関わらず Director が現れなかったり、契約書にサインをしながら帰国後も 支払いの為の信用状が最後まで開設されなかったり色々あった。後に駐在所長から、欧州の奴らにひっくり返された、あいつらはテレビくらい簡単に贈るからなぁ….と憎々しげなテレックスを受け取った事も….
しかしその反対もあった。 完全にあきらめていた商談が突然決まったので至急納期の打ち合わせをされたし..そういうテレックスも受け取った。最後に駐在所長や現地スタッフが骨を折ってくれたのだった…..

見本市のもう一つの“楽しみ”は見本市当局から派遣される“コンパニオン”達。 さすがに選抜された綺麗どころが揃っていたが、すごいのは美貌だけで頭の中身も。英語だけでなく更にドイツ語そしてフランス語等を話せる現役の大学生ばかりだった。その上専攻は機械や化学等の理科系も少なくなかった。 彼女達の日当は全て見本市本部に外貨で前払いしてるのだけれど実際に彼女達の手元にはその何分の1でしかも現地通貨で支給されるだけだった。 しかし皆流暢な英語を話すので仕事以外の“コミュニケーション” もよく取れた。
しかしここで出るのは民族性。 地元の女の子と見本市時間が終わってもよろしくやるのはまずドイツ人。 経験が豊富なのか“良く慣れて”いて隣の出展社ブースの女の子まで誘い出す。 と言っても当時の東側諸国では行くところはホテルのディスコかレストランしかないので数少ないホテルでそのドイツ人達とホテルのレストランで鉢合わせと云う事もよくあった。 それに女の子達にも地理的な事からドイツ等の欧州人の方が人気があった。
よく駐在所長から“お前は独身なんだから日本を代表して声を掛けろ。”と本気で命令されたけど、見本市時間終了後は一緒に参加したメーカーさんの夕飯のアテンドや本社への連絡、大体雑務が多かったけど、等の作業でとても女の子と食事….なんて出来なかったなぁ…

20年前ブカレストで開催された見本市。 当時外国人が宿泊できるホテルは本当に限られており、恐怖政治が終わった反動で外国人を狙った犯罪が絶えなかった。 この見本市期間中も幾つものホテル部屋が荒らされ、一緒に出展していたメーカーの方の部屋も荒らされ、財布とパスポートの入ったブリーフケースが盗まれた。
そして私も….. 長かった見本市もあと残り2日間と気を抜いたのがいけなかった。 貴重品を入れた鞄を隠すのを忘れて机上に置いたままで掛けてしまったのだった…….

ここからパスポートの再発行の手続きから滞在ビザの再発行さらに帰りの航空券の手配等、一つの物語が出来る思いをしてやっとの思いでブカレストを脱出してたどり着いたトランジット先が Zurich だった。
当時ブカレスト~東京間は直行便は無かったので(今でも無いと思う ) スイス航空でチューリッヒ経由で帰国したのでけど、当時は1泊分のトランジットバウチャーを往復のタクシーチケットと共に支給してくれた。




空港から街中に向かう時に車窓からの眺めを見て “なんて進化した街なんだろう。まるで子供の時見た SF 映画の様だ。”と本当に感じた。何の事は無い西側では当たり前に点灯している街灯や街の明かりが本当にそう見えたのだ。当時のブカレストの夜は本当に真っ暗だった。 ホテルに就いて当たり前に出る暖かいシャワーや簡単に手に入るコカコーラが本当に有難く感じた。
テレビでは Europe Champions Cup の結果が報道されていて、Napoli が CSKA Moscow と対戦した試合のダイジェストが映し出された。当時 Napoli に所属していたマラドーナが何度もドリブルで切れ込んでいくシーンがあった。4か月前のワールドカップでは怪我で万全の体調では無かったらしいがこの時の方がドリブルに切れがある様な気がしたけど、更に半年後、あんな形で欧州を後にするとは思わなかったな…..

そしてぐっすり熟睡して翌朝朝食時に飲んだカフェオーレが何とも言えないおいしさだった……
東側の壁が崩れ出して東西の経済差そして一般市民の生活水準の差を身を持って感じた日だった….
翌日搭乗機が成田空港に近づいた時にそれまでのすったもんだの珍道中を思い出し涙が出そうになった事を今でも覚えている…….

それから10年が経って会社も替って再び今度は商用でチューリッヒを訪れる機会に恵まれた。
丁度シドニー五輪の男子サッカーの初戦、日本対南アフリカが行われた日だった。今の様にインターネットがそれほど発達していなかったので何とかネットカフェを見つけて情報を得たいと思っていたらテレビのニュース(CNNだったかな?)でまさに日本戦がダイジェスト付きで報道された。先制点を許したシーンを見た時は身が凍りつき、高原の同点ゴールが映し出された時はものすごい安堵感に包まれそして逆転ゴールを見た時は歓喜の大声を上げた。

そして今、何度も来ているチューリッヒの物価の高さには少し閉口するがスーパーでは手軽に寿司を売っている時代になった。それでもチューリッヒの中央駅は大昔と変わらない、70年代にリリースされたピンクパンサーのあるシーンでクルーゾー警部がチューリッヒ中央駅に降り立つシーンがあるが駅の外観は今と全く同じで感動したものだった。1954年に開催されたワールドカップスイス大会のダイジェストフィルムの中にも中央駅が映し出されるが今とはあまり変わらない。 
そしてパスポートを盗まれてから20年以上も経った俺も中身は変わらない,進歩していないと思う…
周りはどんどん変わっているのに。1990年、ワールドカップはイタリアで開催されたけど当時と今では本当に日本代表を取り巻く環境は変わった、いや進歩した部分が多いんだと思う。

でも俺自身は… やっぱりこれからも進歩していかないか...


竹島問題 

2006-04-23 | Half Time
竹島が日本の領土になったきっかけはアシカだった。竹島にはかつてアシカが多数生息していて、1903年、隠岐島の人が皮革をとるためのアシカ猟を始め、翌年になって、この島を日本の領土に編入して自分に貸与するように明治政府に申し入れ、これをきっかけにして、明治政府は、ここが無人島でどこの国のものでもないことを確認したとして、1905年1月、日本の島根県に所属させることを閣議決定した。
これを受けて当時の島根県知事は、竹島を島根県に編入する告示を出しました日が、2月22日。その9か月後の1905年11月、日本は韓国(当時は大韓帝国)の外交権を握り、日本が大韓帝国を属国としたのだ。そして1910年には、日本は大韓帝国を日本の一部とした。これが「韓国併合」。この後、日本が第二次世界大戦で敗北するまで、朝鮮半島は日本の領土であった。韓国の人にしてみれば、「日本は朝鮮半島を植民地にする戦略の一環として、韓国の領土である独島を奪った」ということになる。今になって島根県が「竹島の日」を制定すると、韓国では、「日本は再び朝鮮半島に対する領土的野心をむき出しにした」という受け止め方をする人が多い。第二次世界大戦で敗れた日本は、朝鮮半島を放棄するが、このとき、竹島まで手放したかどうかが問題になった。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が、1946年1月、日本政府の行政権が及ばない島々を列挙する指令を出したとき、その中に竹島が含まれていたからだ。ただし、このとき同時に、これらの島々が最終的にどこの国のものなるかを定めたものではないということも書いてあり、最終的な決定は別に定めることになっていた。ところがその後、連合国軍として、竹島について方針を出さなかったため、韓国は、「これで竹島が日本のものではない(つまり韓国のものである)ことが決定している」と解釈する。1951年9月、日本は連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、日本の独立が回復しました。この条約の中で、日本の領土について、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄することが書かれる。放棄する島に竹島が含まれていない。これを根拠に、日本は「竹島は日本が放棄していないのだから日本領だ」と主張している。これに対して韓国は、「名前が出ている島は単に例として挙げられただけであり、竹島の名前が例示してなくても、日本が放棄した朝鮮の領土に含まれる」と主張し、さらに「韓国はサンフランシスコ講和条約の締結国ではないので、講和条約に関係なく自国の判断で領土を決定できる」と、無茶苦茶な主張を繰り返す。更に1952年1月、当時の韓国の大統領李承晩は「隣接海洋主権」を一方的に宣言。韓国周辺の海域は韓国の領海であるとして、韓国周辺の海域に「平和線」を引き、「この線の中は韓国の領海だ」と主張した。日本はこの線を“李承晩ライン“と呼び、この線の内側に竹島が含まれていた。つまり李大統領は、「独島は韓国の領土だ」と一方的に宣言したのだ。これ以後、李ラインの内側に入った日本の漁船は、次々に拿捕(だほ・捕まること)され、中には韓国側から銃撃を受けて死亡する漁船員も出たのだ。韓国政府は日本人なら何人殺してもかまわない。殺せば殺すほど株を上げるという考えは既にこの頃から存在した。また、1954年になると、韓国は竹島に警備隊を常駐させ、灯台も建設。海上保安庁の巡視船が近づくと、銃撃されることも起きるようになった。それ以来、日本政府としては、外交交渉で解決をはかるという方針をとり、韓国による竹島の実効支配が始まった。

日本はその後、国際司法裁判所に提訴することを求めるが、韓国はこれを拒否。国際司法裁判所は、国家間の紛争を扱う国連の組織だが、独自に調停に入ることはせず、紛争当事国の双方が了承して初めて審理に入る仕組みになっている。要するに韓国が土俵に立つ事を拒み続ければ裁判は始まらないと言う事。日本が提訴を提案しても、韓国は、「独島は韓国の領土であり、領土紛争など存在しない」と主張して、提訴を認めないのが現状。こうして、韓国による実効支配の実績が積み重なっていくことになる。第二次世界大戦後に韓国が建国された後も、日本と韓国の間には国交は無く、国交を結ぶための交渉は1951年から始まった。この日韓交渉では、日本の植民地支配について日本が韓国に賠償金を支払うかどうかが大問題になり、竹島問題は棚上げされてしまった。竹島までも議論することになると、日韓交渉が行き詰まることは目に見えていたため、それを避けたのだ。交渉の過程で、日本の外務省の首脳が、「竹島が日韓交渉進展のために邪魔になるのなら、いっそのこと爆破してしまえばいい」と発言したこともあった。1965年、日本と韓国は日韓条約を締結。日本は韓国に賠償金を支払わない代わりに、「独立祝い金」を贈ると共に、韓国の経済発展のための経済協力に資金を提供することで話がまとまったが、竹島問題は、棚上げのままであった。こうして、とりあえず竹島問題は棚上げしたまま、日韓は関係を深められたが、竹島周辺の海域では、その後も緊張状態が続き、韓国は竹島を独島という領土だと主張しているので、竹島周辺海域も韓国の領海や排他的経済水域だと主張している。排他的経済水域というのは、領海ではなく、他国の船が自由に往来できるものの、漁業や海底の資源採取などの経済活動をすることは、その国の許可がなければできない水域のこと。竹島は日本と韓国の両方が領土だと主張しているので、竹島周辺の海域も、双方にとって領海であり排他的経済水域ということになる。そこで島根県の漁船が竹島周辺の海域で漁業をしようとすると、韓国の漁船と漁場を奪い合いになったり、韓国の警備艇が来て追い出されたりするということになり、このため日本と韓国が話し合った結果、日韓双方の漁船が、相手方の排他的経済水域でも漁業ができるという日韓漁業協定を結んだ。当時の世相は200海里問題が強く有り、アメリカの様に魚を食わない国が日本叩きの一環として領海を広げる流れが強くあった。しかし当時日韓の間での竹島をめぐっての争いはひとまず棚上げした上での“大人の”解決方法だった。しかし、それでも島根県の漁船は、自由な漁業ができないことが多く、困った漁業関係者の声を受け止める形で、島根県の条例ができた。せめて日本国民に竹島のことを知ってもらい、北方領土と同じように返還運動を高めようという狙いだった。日本では島根県の人たちが何とか日本国民に知ってもらおうとしていたが、韓国では、学校教育で必ず「独島はわが国の神聖な領土」と教え込まれ、小学生の中でも”日本は侵略国家“と思う子も多い。 

あれは3年前のニュージーランド出張の時だったが、空港から市内に向うバスの中で韓国の中学生3人組みと一緒になった。彼らの1人は流暢な英語を話した。その子が私に”お金を払うから携帯電話を使わせてほしい“と頼んできた。勿論私は快く無料で好きなだけ使わせてあげた。彼は物凄く喜んで Thank you を連発そして You are very kind !! といってくれた。そこで私は All Japanese are kind !! というと随分受けて彼ら3人と楽しく20分程のバスの旅をした。きっとその子達も小学生時代から日本人は侵略人という先入観を刷り込まれていたのだろう。バスを下車したとき、子供達の先生が待っていた。そして私の事を(携帯を貸した事等)教えたのだろう。先生は両手で私に握手を求めてきた。 個人レベルだと本当はこの様にみんなと仲良くできるのだけど…… 続く

豪州にて 韓国の人々と

2006-03-26 | Half Time
実は?先週初めより商用でオーストラリアを廻っています。日本がWBCの決勝戦を戦ったのも、愛する母校が本日東海大相模に惜敗したのも、そして京都パープルサンガがまだ勝利を挙げていないのも結果や経過を知るだけなのです。 ここオーストラリアはアジア系の移民が大変多い。最近は中国大陸から来た人々が目に付くが、数でもここでの生活ぶりでも圧倒するのは韓国系の移民達だ。取引先でも韓国系はかなり多い。仕事以外でも日韓の事について話す事も。会う人全てに最初に言われたのは WBC の事だった。会う人全てが“日本はどうしたんですか?2回も負けた韓国に、3回目は快勝して、キューバも破ってしまった。”そして私は言うのだ“ただ Lucky だったに過ぎない。同じ大会で同じ相手と3回も対戦するなんて有り得ない。3回目の対戦があったから勝つ事が出来た。”とそして“韓国は何処がダメだったのか?”と訊かれる。彼らはオーストラリアでは試合の様子が生で見られない。翌週にレンタルビデオで廻って来るのを待つしかない。“打撃陣が今一つだった。李鍾範、李承、崔熙渉 の3人以外からは打点の可能性が低かった。それに機動力にも欠けた。しかし朴賛浩を始め投手陣は良かった。それだけに準決勝の日本戦で具成晟が怪我で使えなかったのは痛かっただろう。さらに良かったのは守備だ、ショートの朴鎮万、ライトの李晋暎らのファインプレーはすごかった。そして金寅植監督は Gentleman だった”と私は英語で語った。ここにいる韓国人とは英語で話せる。いままで幾多の事を話すことが出来た。韓国語や中国語が出来ればもっと多くの人と色々話せるのだがといつも思う。そして例のイチロー報道にも私は“あれは韓国にではなく、全ての対戦相手が”今後30年は手が出せない云々“と日本向けに記者会見したもの。おそらく韓国の新聞が発行部数を伸ばしたいから韓国向けの発言にしたのだろう”と言うとみな爆笑していた。“(韓国の)新聞記者ならそれくらいはするよ”とも。だが当地にいる韓国系移民の大会の総評は概ね満足との事。プロ野球の歴史が50年も長い日本にまだ勝てるとは本気で思っていない様だった。 それよりもアメリカに勝ったこととアメリカ人審判の酷さの事をよく指摘していた。 朝鮮日報紙でも下記の様な朴賛浩のコメントが。

朴賛浩(サンディエゴ) は23日、メジャーリーグの公式ホームページ(MLB.com)とのインタビューで日本のWBC優勝についてコメントした。「韓国が(準決勝で)日本に負けた時は悔しかった。だけどそれよりも私にはもっと大きな意味があった。私は日本に優勝してほしかった。韓国はできなかったからね。アジアのためにも日本の優勝はとても嬉しかった」と語った。

またイチローの現地での評判も紹介していた

「開拓者は野茂英雄だった。しかし、日本人野手初の大リーガーとしての成功例はイチローだ」
ESPNのコラムニスト、ピーター・ゲモンスが23日(以下韓国時間)、イチロー(32/シアトル・マリナーズ)に対する特別な賞賛をつづった。 ゲモンスはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を通じて見た「イチローの独特な偉大さ(Ichiro\'s unique greatness)」という見出しのコラムを通じ、イチローと日本プロ野球に対する考え、ひいてはアジア野球に対する再発見を書き下した。 ゲモンスは、WBCの大会期間中の試合前後にグラウンドやダグアウトで自分が見たイチローの姿を日本野球の独特さと結合させ、「大リーガーが模範とするに値する点」と指摘した。 コラムの要旨は「イチローは日本出身で、大リーグでも日本野球のプライドを失っていない。それだけでなく、必要に応じて米国野球に同化しながらも、自分だけの独特なスタイルを確立している」というのだ。
ゲモンスは1つのエピソードを紹介した。キューバとの決勝戦の後、日本人記者の1人がイチローに「National Baseball Hall of Fame(野球の殿堂)に選ばれれば、その感想を日本語でコメントするのか、それとも英語でコメントするのか」と聞いた。イチローは「多分スペイン語にすると思います」とかわした。イチローは英語が上手だ。スペイン語はソリアーノから学んだ。そして、ソリアーノには日本語を教えた。 ゲモンスは「WBCをきっかけにアジア野球が正当な評価を受けなければならないだけでなく、米国の野球文化に取り入れられるに値する」とコメントした。 イチローが初めて大リーグに進出した時、日本国内では「イチローが日本野球を裏切った」とする情緒が広がった。しかし、「今大会をきっかけに、日本国内の否定的な感情はすべて消えた」というのがゲモンスの説明だ。 ゲモンスは「大リーグでイチローの姿を見られるのは、私たちに与えられた特権だ。イチローほど独特なスタイルを持った選手はいない」としながら、「野球の殿堂に選ばれた時は、日本語、英語、スペイン語のすべてで感想を語ってもらえればと思う」という言葉で締めくくった。

だがイチローがアメリカに渡った時は誰も日本野球を裏切った等とは思わなかっただろう。それとも李承が日本に渡ったときに韓国人は彼を裏切り者扱いしたのか? 確かに宣銅烈の時代は少しあったかもしれないが。 オーストラリアの韓国人達は李承が今年東京ジャイアンツでどんな活躍を見せるか楽しみであるとも言っていた。趙成民は残念ながら今一つだったが、その後の韓流ブームでチェ=ジンシルが彼と結婚していた事(後に離婚したが)も話題に出したら、受けた。 そしてイチローのバッティングフォームを真似た。場所は人気の韓国レストラン、お客は皆韓国系の中だ。すると他の席の子供から拍手とブーイングと笑いが漏れた。個人同士ではこんなに仲良く出来るのに。思わず苦笑してしまった。 いつか北朝鮮の人と話せればね。でもその時はにぎやかな場所でお願いしたい。何を話すかはその時でなければわからないだろう。

フットサルをしました。

2006-02-18 | Half Time
本日は所沢でフットサルに参加しました。メンバーは会社の同僚が中心にその子供達に彼女、そして元社員。全員身内と言うことで和気あいあいと楽しめました。私のこのブログを見る人達は”サッカーやっていたときはどのこポジションでした?”と訊くのだが、私はサッカー未経験者(偉そうなこと書いてすみません)しかし、他のスポーツはバリバリにやっていたぞ、とここで言ってもなんともなんの効果なし。私より15歳以上も年下の若いサッカー経験者はやっぱりちがう。こちらのイメージは Pele や Maradona ( 古いか?)なんだけど技術と体力が... 男女混じってMIX で Game をするので、接触プレーには女の子相手や、子供相手のマッチアップは気を使います。でもこんなに楽しめたのも昨今のサッカー、フットサル ブームのおかげあと10年,15年はやくこんなブームが来てくれていたらなぁ?と思います。バリバリの体育会選手であった学生時代、スポーツに打ち込む私を女子大生達には”ネクラ”の一言で片付けられたのです。ワールドカップはバレーボール。サッカーは子供のやるもの、サッカー観戦なんてなんなのそれ??って殆どの同年代女性は言い放っていたなぁ。劇的に替わったのは J League がスタートした1993年でした。今のスポーツ少年達、スポーツを続けるんだぞよ。スポーツはいいぞ。けっしてネクラじゃないぞよ。とおもいつつ今日のユニフォーム等洗濯にいそしんだ私でした。あぁ明日は筋肉痛が....

Just Like Starting Over

2005-12-09 | Half Time
12月8日。この日は何の日と訊かれて即答できる人達の世代は二つに分けられるかもしれない。1941年の同日(現地時間は7日)に日本軍が真珠湾を攻撃し太平洋戦争の幕開けとされた日。それから1980年の同日(日本時間は9日)元 Beatles のメンバー John=Lennon がDakota の郊外で Mark David Chapman と言う精神異常者の凶弾に倒れた日だ。当日 John は遺作となった久々の Album “ Double Fantasy “ の Recording の帰りであった。共に Studio から出て来た妻の Yoko は何かを食べて帰ろうと言ったが、John は当時5歳の息子 Sean が寝付く前に帰りたいと、そのまま帰途に着こうとした午後10時52分、M.D. Chapman に ” Mr.Lennon “ と声を掛けられ、振り向いたころを彼が撃ち放った5発の bullets に“I’m shot !!” と叫んで倒れた。その銃声を聞き付けた Doorman が飛んで来て時、そこに佇んでいた Chapman は銃を落としてそれを蹴り飛ばした。 Doormanが
”何をしたか解っているのか?“ との叫びに ”John=Lennon を撃ったんだ。“と応えたと言う。Chapman は Honolulu で就いていたガードマンの職を離れて New York にやって来て John を撃つ前に Yoko に”殺人予告“の電話を入れていたらしい。John が倒れ、Yoko達駆けつけた一団は、救急車を待たず Roosevelt 病院に駆け込んだが凶弾に倒れた15分後の午後11時7分、出血多量で帰らぬ人となった。病院に運ばれる間、医師の問いにはうなり声を上げたらしい。 Yoko は直ぐにはJohn の死は受け入れられず警察官に “ 彼は大丈夫だと言って”と取り乱しながら詰め寄ったとの事。また Chapman は現場から連行される前に持っていた“ライ麦畑で捕まえて”を捲っていたらしい。私はこのニュースは当時高校に登校中にあるサラリーマンの読んでいた朝刊で知った。私の年代の Disadvantage のひとつとして物心が付く前にメキシコ五輪でのサッカーの銅メダルと Beatles の全盛期が存在していたと言う事がある。あと4~5年早く生まれていればこの両方の歴史的事象は見られたはずだった。私が Beatles に興味を持ったのは解散後5年以上が経過した中学時代であった。Beatles が解散後でも、影響力はまだ大きく彼らのサウンドを聴いて衝撃を受けた中学生は多かった。日本代表のワールドカップ出場と言う夢は叶ったが、Beatles がいつの日か再結成をしてくれないか?と言う夢は実現しなかった。しかし私は当時どちらかと言えば Paul McCartney の方に興味があった。それはおそらく解散後の活動の違いがあると思う。Paul は Album “ Wings Over America “ のリリースに見られる通り、”コンサート活動“にもいそしんだか、彼の作品はヒットチャートの上位にランクされる事が多かく、知る限りでも Silly Love Song, May be I’m Amazed, Mull of Kintyre , With a little luck, 等が英国、米国( Billboard Magazine ) で1位になった。80年代以降は Michael=Jackson や Steavy = Wander らと Duoを組んだりとした。またソロ活動直後に発表した McCartney, RAM 等もよく好んで聴いた。一方の John=Lennon はヒット曲を作ると言うよりも、自分の芸術を磨くと言った気がしてならなかった。ソロ活動開始後 リリース された Number では Imagine と言う世界的に有名になった曲はあるが、それ以外のシングルタイトルを言える人は多くは無い。そして皮肉な事に遺作となった Double Fantasy が最も売れた Album であり、そこからシングルカットされた Just Like Starting Over が最初の Billboard 誌の1位となった。もし彼が凶弾に倒れなかったら?と言う人も少なくない。1998年にリリースされた Lennon Legend は130万枚売れたが今年10月に発売された “ Working Class Hero “ は18万枚の売り上げの後にチャートから消え、 Double Fantasy の前、1975年2月に発表された Rock “N” Roll の今年発売されたリバイバル版は32,000枚しか売れていない。だが1981年2月に Ringo Star との Collaboration 作品が決まっていたのでもしそれが発売されたらきっと売り上げは悪くなかったと思う。事実、彼の死を偲んで Beatlesの元メンバー3人が手掛けた All Those Years Ago ( George=Harrison が Vocal ) は全米、全英共に1位となった。 だが彼の価値は営業的な数字で計られるものでは決して無い。きっとBeatles 時代の晩年から自分の芸術に没頭をしたかったのだろう。その思いは Yoko=Ono との出会いによって拍車がかかったのではないか?彼を知る人々はその代わり振りを “ Before Yoko “ “ After Yoko “ と区別できると語った。今日 AFN のNews を通じて彼女のインタビューを聴いた。Beatles 世代の何割かは”Yoko の出現が Beatles の解散を早めた“と言う人もおれば ”いや Manager のBrian Epstein の謎の死だ“と言う人もいる。Beatles が全盛期であった1960年代の英国はどうだったのだろう?それは今でもたまに思う。もう彼らの様なグループは出てこないと断定出来るのは時代の違いから来るのかもしれない。最近は英国人でも “ Beatles は Classic ”と言う人も。私もそれだけ年輪を重ねたのかな?

2011年 Rugby World Cup

2005-12-01 | Half Time
話が遡るが11月17日 IRB で6年後のラグビーのワールドカップの開催地の投票が行われたが残念ながら日本は決戦投票で敗れてニュージーランドが第一回大会以来24年ぶりの開催と決まった。実はこの開催地決定に就いては私はかなり楽観をしていた。11月13日付け Sunday Times 紙上に”Japan is the best choise to host the 2011 World Cup" と言う行で始まる Mr.Stephen Jones のコラムを見つけたからだ。では何故敗れたのだろう?もっとも南アフリカが決選投票に残れなかったのが欧州勢には驚きであったらしいが。そこにラグビーというよりもスポーツ以外の利権が絡む様々な要因があった。南アフリカ共和国に就いてはInternatioal Rugny Board ( IRB )Technical Report では Best host と記されていたらしい。ニュージーランド(以下NZ)はグリニッジ世界標準時間(英国の標準時刻でもある)+ 12時間というのが原因で試合時刻が欧州ではテレビ中継に良い時間とは言えないとか、競技場、インフラの整備が貧弱と言うことで不利と報道されていた。この開催地に就いては16の国と地域の代表の投票によって決められたがその投票者は以下のとおりだった。

立候補国  日本①、NZ②、南アフリカ②
各大陸協会 オセアニア① 欧州① アフリカ① アジア①
国別    アルゼンチン① カナダ① オーストラリア②
6 Nations スコットランド② アイルランド② ウェールズ② フランス② イングランド② イタリア①

上記の国、および地域の横に円で囲っている数字が投票数だ。従ってイングランドを始め列強国は1ヵ国で2票数を投票することになる。 第一回目の投票では立候補を除いた13の国と地域で投票され1番得票数の少なかった南アフリカが落ちた。Sunday Times の予想ではアフリカ協会、アルゼンチン、イタリア、そしてアイルランドからの支持が得られるとの事であった。アフリカ協会は述べるまでも無く、アルゼンチンは地理的な事から、イタリアは時差の関係からテレビ中継時間が最も良い時間に放映出来る南アフリカの支持と考えられた。だが南アフリカは第1回目で落ちた。それは恐らくフランスの支持を得られなかったからであろう。協会の Chief Exective, Mr.Francis Baron は日本を支持するとは表明していなかったがフランスは南アフリカか日本かどちらかの支持が予測されていた。 日本にはアジア協会とオーストラリアからの支持を取り付けたと。オーストラリアの支持はライバルのNZが開催地となっては優勝にマイナスが働くからだ。そしてコラムは不可解な IRB に提出された報告書にもコメント。 NZの競技場の事には触れられず、日本がかつて東京五輪や2002年の FIFA ワールドカップの開催を遂げた事を無視して”メジャーな大会を開催した経験が無い”と報告されていたらしい。そしてご存知の通り開催地はNZに決まった。当地 NZ に在留している日本人の方々はこの決定に現地の人々の感想は異口同音に" 率直にLuckey の一言に過ぎない”との事。まず決め手になったのは同国女性首相である Helen=Clark 自らが最後のロビー活動に陣頭指揮をふるった事。日本は森前首相を誘致団長に据えたが私は彼は適役ではなかったと断言できる。1998年のフランスワールドカップ前に当時首相であった森氏は日本選手団との会食で中田英寿に”日本はね韓国ではまだ韓国に勝った事がないんだよ。”と堂々と失言し中田が”それ誰に訊きました?”と尋ねると”川淵君が言っていたよ”と根拠の無い嘘か誤解を堂々と、すると中田は”僕達勝ちましたよ”とさらりとワールドカップ出場のきっかけとなった前年11月のソウルでの韓日戦の事を説明。それを聞いた森前首相の表情は永久保存版であった。まぁいくらラグビー経験者とは言えこんな人に旗振りを依頼した日本協会の人選は??だ。それと、All Blacks だ。11月20日の England 戦で勝利を収めるなど England, Ireland に遠征を慣行。8月にも British & Irish Lions が New Zeland に遠征するなど交流が盛んだ。しかも既に今後5年に渡って All Blacks が両国に遠征し続ける見返りに英国協会の得票を取り付けたと言われている。All Blacks のテストマッチは協会にとっては文字通りドル箱だ。 これは残念ながら日本には出来ない事だ。だが、ワールドカップの開催の本質を考えれば、ラグビーの世界的な普及を考えれば、日本が適切だと Times は述べており、今回の決定は前回大会がオーストラリア単独開催になったことへの同情も否めないとの事。 おそらく日本の企業がラグビーワールドカップのスポンサーの多く名を挙げるだろうが、もし彼らが”日本開催以外はスポンサーにつかない”と言えば満場で日本に決まった様な気もする。すこし日本はお人好し過ぎたのだろうここでも。ラグビーは少し専門外なので皆様のご意見をお待ちしております。

ブレイクタイム

2005-05-11 | Half Time
サッカーファンの皆様、ご無沙汰しております。
Mrコンティはただいま執筆中です。近日中にUP予定ですので、しばしお待ちください。
Wカップアジア予選北朝鮮戦はバンコク開催になりましたが、無観客試合とは!
ある意味では歴史的なこと。その時代にいることが感慨深い感じもします。TV観戦が楽しみですね。  Mr.ヒロ