Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Polska in Scotland

2005-08-31 | EURO Football
ここ最近日本のマスコミがスポットを当てる欧州のサッカー事情は NAKAMURAのいる Scotland だ。先々週の Old Firm , そして先週は俊輔が初ゴールと話題は事欠かない。地元誌でも Nakamuraは Topicを提供してくれる有り難い存在らしいが、Celtic でもう一人話題になっている外国人選手がいる。今季 Poland の Wisla Krakowから£220万でやって来た Maciej Zurawskiだ。Rangers 戦の前では ストラッカン 監督がスタメンから外すと言う“冒険”に出るかと噂され、実際にスタメンから外されたが、翌週の Dunfermile Athletic戦では2得点を挙げ現地紙の見出しを独占した。現在 Scotland Premierには4名のポーランド人選手が活躍するが、当地でポーランド人選手の奔りと言えば 1989年 Legia Waszawaから£50万で Celtic にやってきた Darius Wdowcyzk それから2ヶ月ほど経ってやってきた PolandのGeorge=Best こと Dariusz Dziekanowskiの二人だ。二人は好対照であり何かと比較されたらしい。華やかだったのは Dziekanowskiの方で、同年 UEFA 杯のPartizan Beograd 戦で4ゴールを上げチームを 5-4と勝利に導いた。 Wdowcyzk の方は当時 Poland 代表の主将を務めていただけあって、その人望が人気で有った事であろう。
しかし、当時の Polandは凋落の一途を辿っており、ワールド杯、欧州選手権は本大会に進めずにいた。Polandの最盛期は何と言っても 70年代から80年代前半の時期だ。ミュンヘン五輪金メダル、モントリオール五輪銀メダル。そして74年西ドイツワールド杯はイングランドを破って予選を突破し3位。続くアルゼンチン大会でもベスト8。そして集大成は82年のスペイン大会の3位だ。ミュンヘン五輪からの10年間はほぼ同じメンバーが中心となって様々な大会に臨めた。 GKはトマシェフスキー, ムイナルチク DFはゴルゴン、ジムーダ、ルバンスキーFWに主将のディナ、ラト、シャルマッフ、そして スーパーエース ボニェク。彼らの非凡さは数字にも現れており、ミュンヘン五輪ではディナが、モントリオール五輪ではシャルマッフ。西ドイツワールド杯ではラトが得点王。そしてスペイン大会ではボニェクがベルギー戦でハットトリックを含む5得点で得点王のロッシに次いで2位。東欧にPOLAND有りと言わしめた時期であった。スペイン大会後徐々に Polandサッカー界も門戸を広げ出し、ムイナルチク、ボニェクらが西側諸国に旅立った。特にムイナルチクは 86-87 Champions Cup で優勝した FC Portのメンバーでもあった。しかし、86年メキシコ大会を最後に世界の舞台から遠ざかってしまう。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを勝ち取り、ユスコビャック が得点王 ( 7得点、これはメキシコ五輪の釜本と並んで五輪の得点王記録) に輝くなど将来に期待されたが欧州の予選を勝ち抜けなかった。その嘆きは1981年に若手主体で日本に遠征し4試合を無敗で ( 0-2, 2-4, 1-4,0-3 ) Lessonをした相手に1996年2月、香港のカールスバーグ杯で0-5 と敗れた時に最悪になった。その5年後、ウクライナ等を押さえて16年振りに世界の舞台に立つ事が出来たが、その立役者 オリザベテはアフリカからの帰化人選手であった。1995年から Poland League にアフリカ系の選手が登場する様になったが市場経済導入から5年を経てようやく自国リーグの“プロ化”が定着してきた事に寄与する。かつて2軍メンバーを擁しても一蹴した相手にホームで 0-2 と敗れる様になったのは日本が強くなったのと Poland が弱くなった象徴だ。 来年のワールド杯。日本は早々と突破を決めた。果たして Poland は? 中村と Zuwarski がドイツで対決するだろうか?

Socceroo in Premiership

2005-08-25 | Aussie & Kiwi
今週のプレミアの話題にオーストラリア人選手の話題を見つけた。
コンフェデレーションズ杯の ドイツ戦であの オリバー=カーン から2得点を挙げた Josip Skoko が今季から Premiership 入りした Wigen Athletic FC と2年契約を交わした。オーストラリア 代表の中盤を担う29歳の Skoko はこれまで Hajduk Spilit ( クロアチア ) KRC Genk ( ベルギー:かつて鹿島の鈴木も在籍した ) と欧州の クラブ を経験している。プレミア 開幕後の契約締結に就いては、 Work Permit ( 労働許可 ) がようやく降りたからと考えられる。(やはりこれは重要か?)
怪我で長期離脱していた Middlesbrough の Duke こと Mark Viduka は先週のアウェィでの Birmingham City 戦で今季初出場。いきなり2得点を挙げ チームに今季初勝利をもたらした。Steve McClaren 監督は “ 彼が fit すれば Premiership では彼に優る選手はいない“と賞賛。 Viduka は今回、1997年 メルボルン MCG での悲劇、2001年 モンテビデオ の敗戦を経て3回目のワールド杯予選に臨む。モンテビデオ での ウルグアイ との プレーオフ 第二戦では決定的な ヘッド を外したことを今も悔いているらしい。
6月の コンフェデレーションズ杯では準決勝には進めなかったが Viduka, Kewell 抜きで
ドイツ から3得点、アルゼンチン から2得点 を挙げた。新生 Socceroo は9月にソロモン諸島とのオセアニア地区最終予選に臨むが、ヒディング 新監督は Skoko, Viduka, Kewell そして Blackburn の Emmerton, Middlesbough のGK Schwerzer らも招集をし、11月の南米5位国とのプレーオフに向けて始動を始めた。 74年大会以来、32年ぶりに再び オーストラリア 国旗がドイツの地に翻るであろうか? 

Old Firm NAKAMURA

2005-08-20 | EURO Football
今日20日 Iborx 競技場で Old Firm こと Glasgow Derby が行われる。これはご存知の通り Protestant ( Rangers ) vs Catholic ( Celtic ) の宗教代理戦争?とも言われており欧州での屈指の好カード。そこに日本の Nakamura が出場する。今は宗教抗争的な意味合いは薄いらしいがそれでもこの日だけは Grasgow を二分する一日となるらしい。しかし、勝利がより必要なのは ストラカン 監督であろう。Celtic は昨季は最終戦で Rangers に優勝をさらわれ、今季開幕前の Champion League では早々と姿を消している。一方の Rangers は3回戦で スロベニア の Anorthosis を破りそうで、次のラウンドが見えてきた。それだけに Celtic こそ、Derby での勝利だと。だが、Rangers に無くて Celtic にあるその大切なものこそ 66-67 シーズンの欧州チャンピオンズカップで勝ち取ったタイトルだ。リスボン で開催された決勝戦ではい イタリア代表として ワールドカップに3度出場した名 DF ファッケッティ 率いる インテル を 2-1 で破った。その立役者は伝説の ウィンガー Jimmy=Jhonston 彼はスコットランド代表としては目立った活躍は無く 74年ワールド杯ではメンバー入りをしたがピッチ立つ事は出来なかった。しかし、Celtic が1966年から9連覇した時のメンバーで今でもサポーターから愛されている。 今回のこの伝統的な Derby で地元で最も注目されているのは中村では無いようだ。それは Celtic の ストラカン監督で、かつての Tema Mate であった Rangers Alex McLeish 監督との”対決だ”それは ストラカン監督が今回 "Derby dabut " であることも手伝っており、" 5年前当時 Rangers の監督であった Advocaate ( 後にオランダ代表監督 )がその Derby Debut の開始28分でFernando Ricksen を替えたように、ストラカン監督が Poland では King of Stricker ーとされている£270万で移籍してきた Majiec Zurawski に同様な事をするのか?”と言うことが話題になっているとか? だが、この試合後、地元紙に NAKAMURA の大きな見出しが躍っている事を願う。

準優勝おめでとう

2005-08-20 | 京都西高校
京都西高校のみなさん。準優勝おめでとうございます。本当におめでとう。良くがんばってくれました。ここまで来たら優勝を、と言う気持ちは皆さんが他の誰よりも強く持っていた事でしょう。悔しかった気持ちもみなさんが最も強く感じているところだと思います。 
しかし、私はおめでとうございます。胸を張って母校に凱旋してくださいとしか言えません。そして感謝の念も。君達の人生はこれからです。そして今日の事が今後大きな糧になるはずでしょう。
学校および野球部関係者の方々もお疲れ様でした。スポーツは薄い紙を一枚一枚丁寧に積み重ねて、高い目標に向う様なものです。これまでの道程に敬意を表します。そしてこれからもそのたゆまぬ努力は続けられる事でしょう。

しかし、最後に解ったことは、関東の人って本っ当に関西がお嫌いなのですね?昔、東北地方を訪問したときに正面から”関西人は嫌い”と多数の方に言われた事もありましたが、今日の試合で京都西高校がそういった人間の標的にされるのは許せない。 ここはスポーツに敬意を表し決勝戦を戦った駒沢大苫小牧高校とわが母校の両者に拍手を送ると言うマナーを勉強してもらいましょう。


京都西高校 決勝進出 !!

2005-08-20 | 京都西高校
本当に大変な事になった。我が母校京都西高等学校が何と今夏の全国高校野球選手権大会の決勝戦に進出したではないか。私は野球部出身では無いが、高校時代は同校水泳部に所属。野球部の連中とも親しかった。在校生時代はあと少しのところで甲子園出場はならなかった。その悲願達成は私が卒業して大学生をやっていた時の1984年選抜大会。1回戦は快勝したが2回戦では桑田、清原擁するPL学園に完敗した。それから20余年、途中甲子園から遠ざかった時期もあったが、全国大会の決勝戦へ進出するようになった。ターニングポイント は3回戦関西戦の上田君の打席だ。といっても9回の彼の適時打ではなくその前の打席だ。8回表、4-10 とリードされていた西高は無死満塁とチャンスを掴むが後続2者が討ち取られ二死満塁。ここで上田君が代打起用された。0-3 となった後、相手投手も踏ん張り 2-3 と上田君を追い込む。通常ここで打者は打ちに出たいところだが、上田君は四球を選び押し出しで1点を返すと言うよりも次につなぎ、同点への連打を導き出す。満塁とはいえ、6点差。心理的には圧倒的に相手投手有利の場面であるが、よくボールを見極めてくれた。そして西高はその試合を大逆転でものにし、彼の選んだ四球から決勝までの道が繋ったと言える。
はっきり言って京都西高は抜きん出たスーパースターはいない。こういった選手がいないと全国制覇は容易ではない。決勝戦の駒大苫小牧戦での苦戦は必至だ。しかも苫小牧は大阪桐蔭に競り勝っての決勝進出だ。京都西高の数少ない advantage は”ここ40年近く、夏の大会での連続制覇が無い”というジンクスだ。だが、京都西高校の誇れる所は、私学でありながら露骨な選手獲得を行っていないということだ。あくまで、正門から試験を受けて下さい、というスタンスだ。 
だが気に入らない点を一つ。昔は京都西高校と呼ばれていたのに今は”京都外大西”と。これは京都外国語大学の事だが、私が高校時代は受験戦争のまっただ中。しかし、京都西高の偏差値は高くは無かった。(といっても救いようのないパーチクリン高校でもなかったが)私が3年生の時に大学側は”大学のレベルアップを計りたいので、西高からの付属枠を減らしたい”と通達してきた。確かに偏差値60以上の京都外大にとって付属の偏差値途上高は邪魔であっただろう。 私は結局付属の恩恵を受けずに必死に勉強をして外大に入たが、入学後の大学職員の西高蔑視は想像を絶するものであった。
その後、西高は関係者の努力が実り、甲子園に出場したり偏差値が上がったりそして他のスポーツ、弓道(元々全国クラス)水泳(五輪選手を輩出)陸上(今冬の駅伝は京都代表候補筆頭)空手(卒業生に世界選手権3位がいる)と全国クラスになり知名度も上がった。すると大学側は突然付属大学風を吹かしはじめ、学校名に外大の名前を入れさせられるようになった。私も大学時代は体育会(サッカーでも水泳でもないが)に所属し、全国クラスの選手にそして卒業後は実業団(2年で挫折)にも挑戦した。しかし学生時代。大学からの援助は皆無。 まぁ大人なんてこんなものさ。
しかし明日の決戦に臨む選手達そして野球部員全員にはこう言いたい。悔いの無い一日を送ってくれぃ。例え敗れても、今夏の事はかけがえのない思い出になり、後の長い人生の糧となるであろう。在校生は思いきり応援してあげてくれ。力の限り。俺も応援する。そして母校の発展をねがってやまない。

ウズベク か クウェートか?

2005-08-17 | FIFA World Cup
今夜行われるアジア地区ワールドカップ予選。唯一消化試合でないのが、ウズベキスタンの首都タシュケントで行われる ウズベキスタン VS クウェート のゲーム だ。3月のクウェートシティーでの試合ではホームのクウェートが 2-1 と手堅く勝利し、2勝点リードしているクウェートは引き分けさえすれば バーレーン との Play Off となるが、アウェーのパフタコール競技場での試合の厳しさは覚悟している事であろう。個々の能力ではウズベキスタンが秀でていると思う。 Lokomotive Moscow 所属のGK Alexey Polyakov, MF Vladiir Maminov,DF Oleg Pashinin は所属先の都合で出場出来ない(Pashinin は協会が交渉中だが)しかしエース シャツキフ は所属先の Dynamo Kiev が早々と Champions 杯で敗れたので?合流する。かつての重鎮 カシモフ はメンバー入りせず。これは3週間前から指揮を取る様になった Bobby Houghton 監督の選択か?この Houghton 監督は スウェーデン のマルメFC を1978-79 欧州チャンピオンズカップの決勝まで導いた実績がある。そして何より心強いのは パフタコール競技場に詰め掛ける 50,000 人の観衆だ。 対する Kuwait も6月の韓国戦の惨敗を受けて監督がルーマニア人 Nihai Stoichita に交替した。かつては名門 Steaua Bucharest の監督を歴任した。 クウェートサッカー 協会会長 Sheikh Ahmed Al 氏もこの試合への”投資”は惜しみなく、オーストリア、スイス でキャンプを張り、UAE, カタール エジプト を招いて4カ国トーナメントを開催。しかし、UAEには 1-1 の後PK戦で破れ、カタール には 0-1 で敗れた。 そしてその後ドイツ、ギリシアのクラブチームと3試合を行うが戦績はいまいち。ブンデスリーガ2部の アーヘンと 2-2で引き分けた後、何と ギリシア の3部チーム Vyzas Megaron とスコアレスドロー。そして1部リーグの強豪 PAOKサロニカ には 0-1 で敗れた。この5試合で勝ち星無し、しかも無得点試合が3試合と不安を募らせるだけの結果となった。ウズベキスタン、クウェート、共に監督はこの試合から指揮を取る。
ワールドカップのチケットの売れ具合を見ると国別のパックになっているTeam Specific Ticket ではクウェート分は日本同様売り切れ、しかしウズベキスタンはまだまだ余っている。クウェートが敗れればウズベキスタンのT.S.T.が一気に売れてくるか??

中東2強対決....は中止

2005-08-16 | Football Asia
日韓両国と並んで既にワールド杯本大会への出場を決めている中東の強豪、サウジアラビア とイラン が マレーシア で予定していた練習試合が中止されたとの事。両国は共にアウェーでの最終戦を残しており、その途中で マレーシア に立ち寄り合宿を張っていた。その際、8月11日に クアラルンプウール の Cheras 競技場でお互いに練習試合を予定していた。しかし、インドネシア で発生した山火事の影響で空気が汚染され、とてもゲームを行える状態で無いとの事で中止が決定された。マレーシア 全土に日本の有名な スーパーマーケット JUSCO が10店舗以上あるが、その中の1店舗がこの Cheras 競技場のある Selangor 地方の Klang Valley にある。
しかし、こういう ゲーム が組まれる事自体、共に予選通過済みとは言え中東諸国のしたたかさが伺える。日本と相対するイランは国内組で メンバー構成されるが、あるサッカー専門誌で所属クラブで戦力外通告を受けたので、合流するのでは?と書かれている、HSV Hamburgの MF マハダビキァ だが、彼は先週の Biefeld 戦に 68分から途中出場している。高原は出場出来なかったが。 それよりも私は一方の サウジアラビア の方が謎のベールに包まれている不気味なチームだと思う。アジアの列強の中では北朝鮮に次いで スカウティング の難しい国ではないか? 12年前のあのドーハでのアメリカワールド杯予選。初戦の サウジアラビア の メンバー を見て驚いたのは前年広島で開催されたアジア杯の決勝戦の日本戦に出場した途中交代出場した選手を含めた12名の中で先発に起用されたのは エース の オワイラン を始め5名だけで、アジア杯にはエントリーされていなかった GK アル=デアイェ のファインセーブに驚嘆し、後で調べるとアジア杯メンバーから12名も入れ替えてこの予選に臨んでいた。
アジア杯のメンバーでは日本に勝てないと踏んだのか?それともアジア杯は捨石で明くまでも最終目標はワールド杯一本であったのか?
どんな事情があったかは不明だが、アジア杯時は マルティンス監督であったが、ワールド杯予選時は ホセ=カンディート監督に替わり本大会では ホルヘ=ソラリ 監督に。監督が替わる度に選手構成も変わるのだろうが半分以上も替わるのは??参考までに本大会には予選時のメンバーから7名が入れ替わった。 だが、アジア杯にはメンバー入りしていなかったがワールド杯予選では日本戦にスタメン出場した(途中交代で下がったが)代表キャップアジア最多の 142 を誇る砂漠のペレと呼ばれた伝説のストライカーアジア屈指の マジェド=モハメド=アブドラー がワールド杯のメンバーに入りオランダ戦のスタメンに名を連ねた時は感激の思いが込み上げて来たのを思い出した。 

Johnny Warren

2005-08-15 | Aussie & Kiwi
2002年秋、彼の著書 "Sheilas, wogs & poofters" を手にした。彼のサッカー人生と当時のオーストラリアのサッカー事情を描いた自叙伝でカンボジアで行われたイングランドワールド杯予選での北朝鮮戦の事、その試合に向けて準備らしい準備が行われず、予選敗退が決まってから何試合か遠征試合が組まれたりとか、以降8年に渡り悲願のワールド杯出場権を手にするまでの道程や70年代終盤、ニューヨークコスモスの親善試合を誘致した時の事やその試合の様相。そして所属クラブSt.George Budapestの一員として日本に遠征した時の事も書かれている。その以前にオーストラリア代表選手として対戦した日本代表のエース Kunishige=Kamamoto の名前が出てきたのには驚かされた。Sheilas とはオーストラリア英語の俗語で娘と言う意味。wogs, poofters とはある地域で白人を蔑称する意味である。それは当時オーストラリアにおいて全く人気の無かったサッカーで後ろ指を差されながら世界の舞台を目指した当時の様子が濃縮されている様に思う。読んでいて感じたのはJリーグ発足前の日本に類似していると言う事で、異なっているのは彼はワールド杯に出場し、日本はプロリーグ発足後にその悲願が達成されたという事だ。
また、Ray Baartz と言う Johnny Waren と共にワールド杯予選を戦い、遂に韓国を破って出場権を手にしながら直前のウルグアイとのテストマッチで頚動脈を負傷し、本大会に出場出来なかった、当時のマット=バスビー,マンチェスターユナイテッド監督から契約を熱望されながら故郷に残した母親一人を置いて George=Best,Denis=Law そして Bobby=Charlton とプレーできないとオーストラリアでのプレーを決めた選手の事を取材する記事を偶然目にした。 どこの国にもサッカーはある、欧州、南米のみでは無いと改めて認識した。彼らの意思を継いで今年 Socceroos が予選に臨む。

オーストラリア HYUNDAI A-LEAGUE

2005-08-15 | Aussie & Kiwi
先日まで商用で訪れていた南半球のオーストラリア,ニュージーランドでの人気スポーツと言えば大抵の人々はまずラグビーを思い浮かべるだろう。現地にはラグビー留学に来ている邦人の学生や社会人も多い。オーストラリアではラグビーと言えば二つの異なったルールの元に League と Union と言う団体がある。日本でも人気のあるラグビーは Union と言われている。またオージーフットボールと言うラグビーより更に激しい球技も有り、丁度メルボルンのチームの練習に参加していた日本人の事を地元メディアも取り上げていた。それらの球技に次いで人気のあるのはクリケットでイングランド、インドといった旧英連邦諸国とのテストマッチのテレビ中継もよく目にする。但し私は全く解らないが。サッカー人気はそれ以降の4番手、5番手と言ったところで、ゲームソフトでもPlay Station 対応の "Rugby ( Team を造ろう?)"や"Cricket ( 監督をしよう?)" が販売されているが、サッカーものは皆無だ。オセアニア州は他の地域と異なり、経済的にもオーストラリア、ニュージーランドが突出しすぎており経済的な面以外でも、特にサッカーでは近隣諸国との切磋琢磨と言う事が不可能だ。従ってサッカーでは最も後進な地域と言わざるを得なく、既に承認されたが、オーストラリアの熱望するAFC入りも理解出来る。ただ、今年からこの地域ではある改革が始まる。これまでオーストラリア国内のプロサッカーリーグ N.S.L. ( National Soccer League )から韓国の現代グループがスポンサーになり HYNDAI A LEAGUE が発足する。これは7つのオーストラリアのクラブチームとNew Zeland Knight と併せた8チームで始まる新プロリーグだ。隣国ニュージーランドを入れるの Rugby Union の SUPER12 に追随してか。(但しSUPER12には南アフリカ共和国も入っている。)開幕は8月26日の新リーグ、日本にも馴染みの選手が。まず Sydney FCの監督はあのリィティーことリトバルスキー氏が指揮を取り、年末にはオセアニア代表として世界クラブ選手権の為に来日する。 また優勝候補 Perth Glory の中心選手 Hiroyuki Ishida はかつて清水、ベルディ、そしてシンガポールでプレーをした。豪州に渡り Perth Glory, Olympic Sharks そして再び Glory と既に当地には3年以上在籍する。かつて Liverpool で活躍した Steve MacMahon 監督の信頼も厚い。なぜなら石田は更に欧州にステップアップを考え、プロ選手として何をすべきかを理解しているからだ。たかがオセアニア地域とは言うなかれだ。日本が世界の舞台を遠くから見ていた70年代から80年代にオーストラリア( 1974年西ドイツ大会 )ニュージーランド( 1982年スペイン大会 )に既にアジア・オセアニア地区代表でワールド杯に出場している。そしてオーストラリアサッカーを語るに忘れてはならない選手がいた。それは昨年11月惜しまれて亡くなった元サッカールー(オーストラリアでは代表選手の事をこう呼ぶ。サッカーとカンガルーとの造語らしい。)Mr.Johny=Waren だ。

プレミアは中国がお好き?

2005-08-13 | EURO Football
先月人民元が米ドルに対して2%切り上げられた。これはアメリカの様に一般衣料品、日用品を中国製品に頼っている中国製品最大の輸入国には深刻になる前兆だ。例えば米国ではこれらの生産が中国からの輸入製品によって地元製造業が絶えてしまっている。これからもっと人民元切り上げが続き、中国製品が高くなれば値上がりした製品を買い続けねばならなくなる。米国が強く要求した人民元の切り上げはこの様な状況を招くだろう? さて、先週中村俊輔がCELTICで好調なデビューを飾った。8月9日付けBritish Football Week 紙の Scotland 欄ではトップに中村の事が取り上げられており”セリエAから£250万でやって来る価値のある日本人”とコメントされている。ストラカン監督の”数多くの日本人が彼の今日のプレーを楽しみしていただろう”とも。さて、そのCeltic, 中国からトライアルトレーニングに参加していた上海申花の Du Wei との契約を考えているとの事。ただ、Du Wei はこの2年間で中国代表Aマッチの4分の3以上出場していないので労働許可書問題があるが。 Celtic はDF陣の補強として、Birmingham City's の Martin Taylor と Newcastle のNikos Dabizas にも興味があるとか。そしてギニア代表の Bobo Baldé は Olympique Marseille へ移籍がほぼ決まった。これは昨シーズン移籍を希望する彼を留意する条件であったもので、今回のフランス行きでは移籍金は発生しない。Celtic は昨夏北米に遠征し親善試合を行った際のギャラ£13万を、その遠征を企画したマッチメーカーが更生法を申請したのでまだ受け取っていないらしい。
会長は来年ワールド杯終了後アジアツァーを計画しているらしいがその為にも Du Wei は欲しいところだ。イングランドプレミアには中国人選手が3名在籍しており、曲波もスカウトされた(労働許可書問題で契約に至らず)。そしてかつて范志毅がこの日対戦した Dundee United にいた。どうもイングランド、スコットランドのプレミアではアジアと言えば中国選手のことらしい? Dundee United はベテランのサッカーファンなら憶えているだろう。1979年のキリンカップで来日し、決勝戦で先日までベルディ東京の監督を努めていたアルディレス率いるトッテナムに敗れて2位となった。最後に Sheffield United 韓国の19歳ストライカー San Lee と契約するらしい。徴兵はどうするのだろう?

Times の記事から

2005-08-12 | EURO Football
① Cole and Mourinho lose appeals コール、モウリーニョ監督上訴棄却
Chealsea の Andy Cole とMourinho 監督の罰金支払いに就いての判決に就いての上訴が棄却。その替わりに罰金は£75,000 ずつに減額。当初Premier League's independent commissionから Coleは£100,000, Mourinho監督は£200,000 の罰金を言い渡されていたが二人がその“罪状”を是認した事を鑑み減額が決められたとか。確か記憶では何かの試合中で民族差別的な野次を飛ばしたので罰金が言い渡されていたと記憶するけど、いつの、どの試合でどんな事を言ったのか?忘れてしまったので誰か教えてください。

②Anelka no longer an option  アネルカにオプションなし
Newcastle United のFreddy Shepherd会長はトルコの Fenerbahce のFW Nicolas Anelka 獲りに敗北宣言。熱望していたレアルの Owen も Offer に興味を示してそうに無いのでこれでスーネス監督は開幕5日前にしてまだ攻撃陣が整備出来ないとか。
今季限りで引退を決めているシアラーに最後の花道を飾らそうとチームのみならず応援するマスコミもあるくらい。Inter TOTO で Deportivo に敗れ、シアラーの写真入りで早々と欧州の舞台から退場することを嘆いていた。また Owen にしても“何故どこのPremier チームも彼にアプローチしないのか?いつまでもスペインのベンチに放置するのか?”とコラムまで。でも Owen 自身が母国への帰国には興味ないのかな?来年はワールド杯だよ。 あの Season Ticket は名作だったなぁ。

③ Ferdinand denies £100,000 a week claims ファーディナント週給£100,000要求の噂を拒否。
薬物使用で謹慎中のManchester United のファーディナントが週給£100,000要求したと言う噂を本人は拒否。既に月曜日に4年契約を結んだ。“人は私が週給£1200,000要求したが£100,000で妥協したと噂しているが”と地元の Manchester United TV のインタビューで応えたもの。“もし私がファンなら他人が言われたり、書かれたことを全て忠実に反応するよ”ともコメント。週給2000万円か??噂になると言うことはそれだけの価値が有るのでしょう?サラリーマンでは噂にもならない。

中田英寿, Big Sam confirms talks NAKATA

2005-08-11 | EURO Football
本日、日本人を驚かせるニュースが。先日のNAKAMURAのCelticの旋律デビューも束の間、我等が NAKATA の Bolton Wanderers 入りが濃厚との事。昨年は過去最高の6位でフィニッシュし UEFA Cup の出場権も得ている。しかし、引退選手を含め昨シーズン終了後9名がチームを離れたのに、New Recruit は Loan の選手を入れてわずか3名。Liverpool からの El-Hadji Diouf はまだ最終締結はしていないとか。Big Sam こと Sam Allardyce 監督はこのUEFA杯をきっかけに欧州での名を更に馳せたいとの事。中田と中心選手の一人MFの Giannakopoulos とのコンビが早くも楽しみとか?ただもう一人のMF22歳のリバプール生まれ Kevin Nolan といかにして起用されるのか?? 昨シーズンに長期契約を結び、自身(そしてチームも)初めての UEFA杯に並々ならぬ闘志を燃やしているおり、同じリバプール生まれの新コーチで元代表チームのコーチでもあった Sammy Lee の入団で気をよくしているので開幕前の同じ中盤選手の入団に不協和音を招かねば良いが.....

東アジア選手権シリーズ 私の選んだ日韓戦ベスト5 その2

2005-08-07 | Football Asia
④ 後半逆転 海外で韓国に初勝利
1982年11月25日 インド ニューデリー アジア大会 日本2-1 韓国
同年3月ソウルで行われた日韓定期戦で 0-3 と完敗した日本。この年の目標は年末にインドで開催されたアジア大会であった。その初戦、強敵イランを 1-0 と破り続く南イエメンも逆転で3-1 と下す。一方の韓国はイランに敗れており、日本に勝たねばならなかった。韓国には現ユース代表監督の朴成華や張外龍、趙広来、李泰昊、崔淳鍋、朴景勲らがいた。前半から韓国は総攻撃をかけ、21分に姜信蔓寓のゴールで先制するが、日本も加藤久、越田、都並、田中孝らが応戦し最小失点に抑えると後半は木村和司、金田を中心にカウンター攻撃に。58分に岡田武史のクロスに原が合わせて同点とすると3分後に再び岡田が風間八宏からのパスをそのまま持ち込み韓国DFに手を引っ張られながらミドルシュートを韓国ゴールネットに突き刺し一気に逆転。手堅く守って後半勝負という森監督のゲームプランの勝利であったが、日本選手のテクニックとボール回しに韓国選手も及ばなかった。日本はこれで12年ぶりにアジア大会のベスト8に進出、準々決勝では優勝したイラクに延長戦で敗れるが、初めて私が今後に期待を掛けられると感じた大会であった。当時もちろんテレビ中継は無く、大会期間中NHKが毎晩放送したアジア大会ダイジェストでこれらの得点シーンを見た。これが日本以外で韓国から挙げた初勝利の試合という事を知ったのは数年後であった。

⑤ 韓国戦15年ぶりの勝利
1974年9月28日 東京国立 第三回日韓定期戦 日本4-1 韓国
公式発表での観客数はわずか12,000人その半分以上が在日の人達であった。それまで日本は韓国に2勝を上げただけで、最後に勝利を挙げたのは1959年のローマ五輪予選まで遡らねばならず、釜本が代表入り以降でさえ韓国には勝てなかった。しかしその鬱憤を晴らすかの様に釜本が2ゴールを挙げ韓国を 4-1と粉砕した。もう一人の立役者はブラジルからの帰化人選手ネルソン吉村こと吉村大志郎。そのフブラジル仕込みのボール捌きに韓国DFも翻弄され守備陣が崩壊していった。釜本は2年前の第一回日韓定期戦でも2ゴール( 2-2の引分け)しており韓国戦は通産で7得点挙げている。これはもちろん史上最高で続くのは永井良和、三浦知良、ゴン中山が3得点で、改めて釜本の偉大さが認識される。当時はメキシコ五輪組が釜本の他にGK横山、森、渡辺三男そして長沼健監督自身も残っていた。韓国も定評の高かった金鎮国、後に香港のプロに移った金在漢らがいたが世代交代という大きな課題を抱えていた。この敗戦をきっかけに韓国は若返りを図り、李栄武、朴成華、崔鐘徳、許丁茂そして車範根といった才能溢れる若手の時代が到来し日本は再び韓国に勝てなくなる時代が続いた。そしてこの試合が3年後に代表を引退した釜本が代表で韓国に勝てた唯一の試合となった。

たった今、日本が韓国戦11勝目を挙げたニュースが伝わってきました。はやく帰国してこの試合を見たいです。やったぜ日本。 ニュージーランドからでした。

東アジア選手権シリーズ 私の選んだ日韓戦ベスト5 その1

2005-08-07 | Football Asia
① ワールド杯予選でついに韓国を破る
1993年10月25日 カタール国 ドーハ ワールド杯アメリカ大会予選 日本1-0 韓国
韓国は1勝2分、日本は1勝1敗1分で迎えた第三戦。韓国がこの試合に勝てば3回連続本大会への出場を決める試合だった。そして国民の誰もがそう信じていた。韓国は初戦のイラン戦を 3-0 で破った後はイラク、サウジアラビアと引分け、特に終盤のスタミナ切れは顕著であった。日本はサウジに引分けた後、イランに破れて早くも崖淵。しかし、不調の高木、福田に替わって長谷川、中山が起用され北朝鮮を 3-0 と一蹴しこの大一番に臨んだ。当時サンフレッチェでプレーした廬廷潤が開始直後縦パス1本で抜け出て決定機を迎えるがGK松永が防ぐ。すると後の韓国は防戦一方に。ラモスが故意的に引き気味のポジションを取ったのでそれにつられてマークの辛弘基が上がったままになりその空いたスペースに北澤らが侵入し主導権を握る。そして60分、ラモスのスルーパスが吉田に渡りそのクロスからのゴール前のこぼれ球をカズが流し込み待望の先制点が。以降も韓国は運動量が更に落ち危なげない内容でアジア地区予選としては1959年のローマ五輪予選以来、ワールド杯予選では初めて韓国から勝利を挙げた。試合後カズ、都並を始め何人かの選手は感涙にくれたが、有名なドーハの悲劇で三日後には逆に悔し涙を。そして死地から蘇ったのは韓国であった。今でもマスコミは韓国戦後に涙した選手を詰るが、当時の日韓の歴史を知る人であれば涙を流さずにはいられない。残念だったのはもう1点取れるチャンスが何度かその後にもあった事だ。そしてこの試合以来私は多くの韓国人に“日本のサッカーの躍進が羨ましい”と言われた。

② 日本戴冠 もう韓国は恐るに値しない
1992年8月29日 中国 北京 ダイナスティカップ 日本2-2 韓国 ( PK 4-2 )
この大会も前回同様テレビ中継はされなかった。しかし明かに日本サッカー界を取り巻く雰囲気は違っていた。5月のキリンカップではアルゼンチン、アイルランドには共に 0-1と連敗したが、試合内容は互角に近かった。翌年のプロリーグスタートに向けてようやくサッカーとサッカーファンが市民権を得ようとしていた。しかし、韓国関係者は“日本の鼻柱をぺしゃんこにしてやる”と自信満々であった。グループリーグの初戦の韓国戦は硬さが目立ち 0-0のドローで対韓国戦6試合連続無得点となってしまったが韓国を完封したのも1977年ワールド杯予選以来19試合ぶり。これでDF陣が自信を持ち、続く中国、北朝鮮を連覇し、決勝戦で再び韓国との対戦となった。雨脚の強い北京工人体育場、パスワークを身上とする日本には不利なコンディション。32分には鄭在権にボレーを決められ先制を許した。しかし後半になると雨脚も止まりピッチ状態もよくなると日本がリズム良くボールを回せる様。67分万を持してラモスが投入されるとさらに日本が攻勢に出るが韓国もボール際がしつこい。そして83分、中山のパスを受けたラモスのスルーで北澤にそして再び中山の前に見事なパスワークが。それを中山が韓国ゴールに叩き込み遂に同点。そして対韓国戦の得点は1985年に木村和司が伝説のFKを決め手以来7年ぶりの得点であった。延長に入っても韓国を圧倒。101分には都並が2枚目の警告で退場になるがその5分後、再びスルーで抜け出た高木が捻じ込み逆転。だが韓国もその直後のキックオフから速攻で繋ぎ最後は金正赫が押し込み同点に。決着はPK戦までもつれ、韓国は二人が失敗日本は最後のキッカー北澤が決めて戦後AFCが設立され最初のアジアのタイトルを勝ち取った。MVPはカズ、得点王は4得点の高木。そして技術、戦術全てが韓国を上回り、もう韓国は恐れる相手で無く、逆に韓国が日本の足音におびえる様になった。

③ ソウルで2勝目 日本蘇生
1997年11月1日 韓国 ソウル ワールド杯フランス大会予選 日本2-0 韓国
正直に言ってすがる思いがあった。韓国は既に予選突破が決まっていた。車範根監督よ日本に勝たせてくれ、次々回はワールド杯を共催するではないかと。9月の東京での韓国戦を逆転で落として以降カザフスタン、ウズベキスタン、UAEと3試合引き分けが続き、この試合に敗れれば最悪の結果が。だが日本代表が韓国入りすると韓国側も異様なまでに警戒態勢を敷いた。前週東京でUAEと引分けた後一部のファンが暴れ出し、この試合にも日本から1万5千人のサポーターが駆けつけていたのでその再発を恐れたのだ。試合当日もその緊張した雰囲気は続く。ピッチの内外に多くの警官隊が派遣された。その雰囲気は日本に味方したと思われる。韓国もスタメンは洪明甫が累積警告で出場出来ない以外はベストメンバー。しかし試合開始直後から日本が攻勢を仕掛け、名波、相馬、呂比須そして再び名波と渡りそのまま押し込みわずか1分で先制。その後も中盤以降が落ち着かない韓国陣内への侵入が続き36分には呂比須が追加点をあげる。後半韓国も攻めに転じるが秋田を中心としたDF陣も良く凌ぎ、70分には劣勢の中平野を投入し中盤を厚くする積極策が当たりそのままタイムアップ。そしてソウルでは2勝目。韓国は崔龍朱、高正云が怪我で退き交代枠を使い果たした後も柳想鉄が怪我でそして80分にはカズに密着マークの崔英一が2枚目の警告で退場するなど終盤はいい所が無かった。これも既に予選通過を決めた後のモチベーションの上がらない難しい試合だったからかもしれない。この後日本はカザフスタン、そしてイランをジョホールバルで破り悲願のワールド杯出場を決めた。一方の韓国はこの試合を境に下り坂。本大会も途中で車範根監督が更迭されるなど惨敗に終わった。

東アジア選手権シリーズ 韓国側から見たベストゲーム??2

2005-08-07 | Football Asia
④やっぱり強かった韓国 
1991年7月27日 長崎 日韓定期戦  日本0-1韓国
対韓国戦4連敗中で3試合連続無得点。しかし、カズ、ラモスらが代表に加わり、6月に行われたキリンカップではタイ代表を破り、リネカー率いるトッテナムを 4-0 と粉砕し初優勝。これまでの代表とは違う次元のものを感じさせた。日本はこの試合に向けてパルチザンベオグラードと親善試合を2試合こなして臨んだであった。そしてプロリーグの発足も決まっていた。一方の韓国はメキシコ、イタリアのワールド杯に出場し、もう対日本戦にモチベーションも上がらない、しかもリーグ戦終了直後で出場辞退を申し出る選手もいたらしい。勝てるチャンスと誰もが思った。この試合は日本航空がスポンサーとなり東京-長崎間就航記念を名目に長崎で試合が行われ地元局以外はテレビ中継がされなかった。だが韓国はしたたかであった。昇り調子の日本をここでしっかり叩こうと崔淳鍋、曹敏国、具相範らを復帰させイタリアワールド杯メンバー中心で臨んで来た。そしてラモス、カズを徹底的に密着マークし決定機を作らせない。キリンカップでブレイクした北澤もやや遠慮気味。そして60分崔淳鍋からのクロスからの好機を最後は河錫舟が決めてそのまま手堅く逃げ切られた。期待されたが終わってみれば連敗も連続無得点記録も悪くなっただけでまた韓国に勝てなかったという失望感だけが残った。試合後韓国関係者は“我々に追いつくには100年かかる”と安堵の嘲笑を残して帰国した。だがこの試合以降、日本が生まれ変わることになる。


⑤韓国のラジオ放送局で聴いた五輪予選 
1980年3月22日 モスクワ五輪予選 マレーシアクアラルンプール 日本1-3韓国
当時のマスコミは五輪予選の事を誰も知らなかった。もちろんテレビ中継も無い。何とかその状況を知りたいと考えたのが夜のラジオ放送であった。試合は韓国のラジオ放送も聴ける日本時間の夜中に行われる。ならばその中継を聴こう。どちらが得点したかは判るであろうと。そしてその目論見は当たった。ラジオ中継は画像が無いのでアナウンサーも細かく、選手名を出して実況する。試合は日本のDFやGK瀬田の名前が良く出てきたので韓国が優勢と判った。フリーキック、スローイン等の用語は同じだ。日本は小見が今大会に選ばれ中盤に入りその小見が30分にPKを与えてそれを許丁茂が決めて先制を許す。後の報道によるとこの判定は微妙であったらしい。そして徐々に韓国は支配を広げ趙広来が2点を追加し 3-0 とする。日本は2月にハンガリーからウペシティードージャを招待し6合親善試合を行い、4得点を挙げた横山と碓井、永井といったベテランと組ませるが実況では名前が出てこない。試合終了直前にアナウンサーが“ゴールイン”と叫び直ぐに“キムラ、タカハラ”と日本選手をアナウンス。これは最後に高原が一矢報いたゴールであった。この予選の結果は新聞の片隅に小さく載せられるだけであったが、大会予選中はずっとこの放送のおかげでマレーシアが韓国を破るのも、日本がマレーシアと引分けたのも誰よりも早く知ることが出来た。当時の韓国は車範根がドイツに去った後であったが、李栄武、崔鍾徳、朴商寅ら選手がおり史上最強の花郎チームと呼ばれ、予選突破が期待されたが、苦手マレーシアの前に再び夢を断たれた。そしてマレーシアもソ連軍のアフガン侵略に反対する西側のモスクワ五輪ボイコット政策に同調し、モスクワ五輪を辞退した。