Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

あぁ栄冠は  夏の1勝を目指して。 高校野球県大会から  2

2014-07-27 | Weblog
部員数は相手高校の半分くらいかな?いやスタンドにいる部員も入れると4分の1に足らないかもしれない。
だけど今年は昨年よりも皆元気にダイヤモンドに散った。そしてその前にも丁寧にグラウンドに一礼する事も忘れなかった。 昨年からどれだけ彼らは成長したんだろう・・・・今年に夏はそれを見たかった。 



八潮南 2-1 鷲宮
この日は前の日と異なり曇り空。絶好の観戦日和だ。いや選手達にとっても恵みの天候になったかもしれない。
なのに球場に到着した時はもう試合は7回裏の鷲宮高校の攻撃だった。 さすが高校野球、試合の進行が速いなぁと感心する場合ではないんだけど・・・・ 
スコアーボードを見ると1回裏に鷲宮が先制し、その直後に同点にした八潮南が3回にも得点を上げて逆転。そのまま試合は 2-1 で八潮南リードのまま進んでいた。 あぁぁぁぁぁ。こんな好ゲーム。なんでもんと早くここに来なかったんやろう・・・・ この日も後悔をしてしまった。
鷲宮高校は県立高校ながらプロ野球選手を3人 ( 高橋功一:元日ハム。 西谷尚徳:元楽天。 増淵竜義:日ハム) 輩出している“名門”だ。 それだけ埼玉県のレベルが高いという事か?昨秋と今春の大会は共に初戦で強豪花咲徳栄と当たり敗れている。 八潮南も県立高校であるが昨秋の県大会ではベスト8に進出した。現チーム力では八潮南がやや上か・・・・





7回裏は2番の青山君が倒れて鷲宮高校はこの回も無得点に終わった。 後でわかったけど青山君はこの日は2安打を放っていた。
8回表の八潮南の攻撃は4番の上口君から。八潮南としてはこの打順で何とか追加点を。 鷲宮としても1点ビハインドのまま次の3番からの好打順で迎えたいところだっただろう。 
マウンド上の鷲宮・橋本君はストレートが冴え4番の上口君、次の安君をショートゴロに打ち取る。そして6番の川村君は橋本君のストレートが良いと見たのか初球のカーブに手を出したが打球は三度遊撃手の飯塚君の前に転がりこの回は3人で攻撃を終えた。
8回裏の鷲宮の先頭打者は投手の橋本君から。 背番号は8番だ。しかし初回からマウンドに立っている。鷲宮の背番号1番は岡戸君でこの試合は1塁に入っていた。マウンド上の八潮南先発の川村君は背番号10番だ。 もう一人町田君と言う投手がいるらしいが彼が背番号1番か? 川村君は橋本君に対してストライクが入らない。 0-3 となり4球目は変化球をぶつけてしまった。 1点差の終盤で先頭打者に0-3 から変化球を投ずるとは自慢の変化球だったか?それが結果的に死球となり出塁させてしまたったのだから八潮南バッテリーとしては痛かったと思う。
続く4番の青木君は初回に適時打を放っている。しかし初球に送りバントを決め橋本君を2塁に送る。 ここは高校野球だ。
だけど5番加藤君、6番江原君もこの日ヒットを1本ずつ打っていた。 
川村君は加藤君に対し 1-2 と追い込み最後はストレートで三振に切って取る。 その間に2塁走者の橋本君は3塁に進んだ。 これでバッテリーはストレートを中心の組み立てとなるか? 6番の江原君は背番号18番の2年生だ。 0-1 から江原君が一振りしたバットから打ち返された打球は外野に飛ぶが右翼手塚越君が掴み同点に追い付く事は出来なかった。
やっぱりストレートが冴えていたのか・・・・

最終回の表。八潮南の先頭打者大塚君は 1-2 からストレートを打って1塁ゴロに倒れる。 続く塚越君の代打に2年生の背番号16番の浜口君がバッターボックスに立つが 1-2 と追い込まれてセカンドゴロに倒れた。
鷲宮バッテリーとしたら次の小林君を仕留めて最終回の攻撃には早く繋げたいところだ。 しかし小林君は 2-2 とされてから見事な粘りを見せる。 きわどい外角高めの球を見送り 3-2 となる更にストレート2球そしてカーブをファールにし9球目の外角高めの変化球を見送り四球を選び出塁をする。 打席にはこの日2安打1打点の高垣君が入る。 高垣君もフルカウントとなり最後はレフト前に弾き返す。鷲宮ベンチにとってはいやな気になっただろう。 小林君の粘りが効いてくるかなと思う。
だがマウンド上の背番号8番橋本君はここも踏ん張り2番の黒田君をセンターフライに打ち取った。
スタンドの鷲宮応援団からは安堵の大歓声が上がった。 



そして鷲宮最後の攻撃を迎える。 延長戦にならないかな・・・と少し期待したけど、先頭打者の岡戸君は初球に手を出しショートゴロに倒れる。 初球攻撃が悪いとは言わないけれど・・・・・
鷲宮ベンチは次の三宅君の打席に背番号13番3年生の松尾君を代打に送る。 しかしマウンド上の川村君は初球インコース、2球目をアウトコースに投じたちまち 0-2 と追い込む。3球目のインコースのストレートに手が出ず見送りの三振に倒れてしまった。 そして9番飯塚君に背番号10番3年生の島村君が代打の打席に入る。 しかしここでも川村君のストレートが走り初球、2球目を外角に投じ 0-2 と追い込む。 3年生で代打で出て来たのだからバットを振らないと・・・・と島倉君に心中で応援するが3球目はずばりと投げられたストレートに手が出ず3球三振に討ち取られ、接戦にピリオドがうたれた。
ストレートが速かったのかな・・・・・・ 
最後に代打で打席に立った3年生2人はこの打席を一生忘れないだろうなぁ・・・・






大宮北 10-0 幸手桜

何度でも言わせてもらう。 甲子園だけが高校野球ではない。県大会での初戦突破を目標にする高校。いや選手権の都道府県大会に出場する事自体を目標にする球児もいる。それも高校野球だ。
昨年、ここでその思いを強くした。 そして今年、再び彼らを見る事が出来た。 その姿を見たくてここに来たとも言える。

幸手市に昨年幸手商と幸手高校が統合してスタートした高校がある。それが幸手桜高校だ。昨年夏もここで彼らの試合を見る事が出来た。与野高校と対戦した。結果は 0-7 で7回コールド負けであったが試合に慣れて来た終盤はファインプレーも見られ、1,2年生が主体のチームでこれからどれだけ成長が見られるだろうか?と少し楽しみに思った。



試合前練習に臨む選手達を見た時に彼らの成長を感じた。 まずグランドに向かって整列してきちんと一礼し、散って行った選手達の殆どスポーツ刈りであった。ただ私はスポーツ刈りを強制する日本の高校スポーツには反対だけど。
ノックを受ける姿も気合がしっかりと入っている。これは期待できるかな?と思った。
対する大宮北高は県内でも屈指の進学校らしい。 今春の大会では初戦で浦和学院と当たり 0-9 で敗れたけど序盤は失点を許さず良い試合だったらしい。 スタンドにも多くの同校の生徒、父兄が来ていた。 



対する幸手桜の方は今年もほぼ皆無。昨年は何人か同級生らしき生徒が来ていたんだけどなぁ・・・・ もっと応援にきてやれよと思う。ならば俺が応援するぞと座る位置をバックネット裏から3塁側の内野席に移った。 だけど5分もしないうちに雨粒がぽつぽつと落ちて来た。これはたまらんと少し上の段の屋根が掛かる席に移動した。 そこの方が見易かった・・・・



先攻は幸手桜高校。試合開始のサイレンが鳴り終わらぬうちに先頭打者の菅野君が初球に手をだすものの打球はセカンド米村君の前に転がり1塁に送球されてアウトとなった。 2番の沢田君も初球に手を出す。打球は外野に飛んだがイージーなライトフライに倒れた。 2球でツーアウトかぁ・・・・と思った。3番は窪田君。昨年は2安打を放った。しかしこの打席はマウンド上の那須君のアンダースローにタイミングが合わないのか空振り三振に終わった。
那須君は今春大会で浦和学院打線相手に5イニングを連続で無失点に抑えた実績を持つらしい。 そのアンダースローはなかなかタイミングを取り辛い、更に変化球も切れがいいみたいだ。これはバットに当てるのは難しそうだ。
ならば失点は極力抑たいなぁと思った。 
幸手桜のマウンド上は昨年マウンドに上がった窪田君ではなくて奥野君。昨年はセカンドを守った。
私のすぐ後ろにご婦人が二人観戦しておられた。私はずうずうしくも声を掛けるとこの幸手桜高校の御父兄さんだった。
彼女達に尋ねると窪田君は秋に肘を痛めたらしく以降左腕の奥野君が主戦投手になったらしい。それからライトを守る永恵君は昨年捕手だった永恵君の弟君でお兄さんは今春卒業をしたとの事であった。 
今年の幸手桜のメンバーは1年生が永恵君を含めて3名。 3年生が3番の窪田君を含めて2名で残りは2年生との事であった。




マウンド上の奥野君、先頭打者の米村君を歩かせてしまいしかも盗塁を許してしまう。 昨年も四球で出しては簡単に盗塁を許すと言う悪循環を見たけどこの試合もしょっぱなから突かれてしまった。 続く中野君はセカンドフライに打ち取るも3番山本君も 0-2 と追い込みながら歩かせてしまった。4番の新井君を1塁ゴロに打ち取り2死にこぎつけた。5番の大谷君を打ち取り初回を無失点に抑えれば・・・・・と思った瞬間、初球をレフト前に弾き返され走者2人を還された。
これに気落ちしたか奥野君は続く山岸君にもレフト前に打ち返され、8番青柳君にぶつけてしまい満塁としてしまった後に8番吉澤君にもセンターに弾き返され更に2点を献上。9番の那須君はレフトフライに何とか打ち取ったけど初回から4点のビハインドを背負う事になってしまった。 打たれた事よりも3番の山本君を 0-2 と追い込みながら歩かせたのが痛かったのではないかな・・・・・



2回表幸手桜の攻撃は4番の3年生武田君からだ。 昨年も武田君は2安打を打っている。この打席の武田君に期待をした。しかしアンダースローの那須君に打ちにくそう。結局ショートゴロに倒れた。続く奥野君も那須君の変化球とストレートにタイミングが取り辛く見逃し三振に倒れた。二死走者なしとなり6番の徳里君が打席に立つ。昨年は3打席無安打だった。しかしこの打席は見事にライト前に打ち返した。 スタンドからは拍手が起こったけど続く永恵君は空振り三振に倒れた。



2回裏、大宮北の攻撃も初回に続いて1番から。 余り失点しないでくれよ・・・と思ったけどこの回の奥野君はカーブがよく決まっていた。先頭の米村君をセカンドフライに打ち取り続く中野君はセンター前に打ち返されたけど、3番山本君の打席時に
はうまく牽制球で盗塁を試みる中野君を刺し、更に山本君もライトフライに打ち取り3人で攻撃を抑えた。
よしよしやるじゃないか、と拍手を送る。 そして先頭打者の斉藤君がライト前に運び出塁した。 流れは良くなったぞ、ここから・・・・と思うが9番の塚田君はピッチャーゴロ併殺に倒れ、1番の菅野君は快音を残したけどレフトライナーに倒れた。
だけどこの回の打球は鋭かった。那須君の球を捕えたかな?との印象をもった。
3回の大宮北の攻撃に向かう奥野君は前の回同様カーブが良く決まり先頭の新井君、続く大谷君を打ち取り2死を取る。
おぉ、良いぞ良いぞと思ったけど6番、前の打席ではレフト前にヒットを打った山岸君にはカーブをセンター前に打たれて出塁を許し7番の青柳君にもカーブをねらわれると打球はライト永恵君の頭を越える。山岸君が長躯1塁から生還し5失点目を許してしまった。 続く前の打席で適時打を放った吉澤君はセンターフライに抑えたが痛い5失点目であった。カーブを打たれたかあ・・・と思った。



4回表の幸手桜の攻撃は上位打線2番の沢田君からであるが那須君の投球をまた捕えられなくなっていた。沢田君、窪田君が倒れ4番の武田君が打席に入る。 那須君の投球にタイミングが合わない。そして弱いゴロが内野を転がるがそれが幸運となり1塁に生きた。3年生の武田君、次の打席もあるかな・・・・と思った。そして続く奥野君は空振り三振に倒れた。
4回裏、昨年も投げた窪田君がマウンドに上がった。昨年は結構いい球を投げていたので肘の故障があったとはいえこのマウンドも期待をした。 しかしストライクが入らない。先頭打者の那須君を歩かすと続く1番米村君の時には暴投で進塁を許し、米村君にはレフトにタイムリー打を浴び早くも失点を許す。続く中野君はサードゴロに打ち取るも3番山本君、4番新井君に四球を与え、5番大谷君はショートゴロに抑えるも6番山岸君にはこの日3本目のヒットをライト前に飛ばされ合計4点を献上し 0-9 となってしまった。 この回だけで2安打3四球更に5盗塁を許してしまった。
球にスピードはあったけどコントロールが定まらなかった。 こうなるとコールド負けの心配が現実味となってくる。昨年よりも事態は悪くなっているではないか・・・・



大宮北は5回表から2年生の左腕渋谷君がマウンドに上がった。先頭の徳里君がエラーで出塁する。 続く永恵君、斉藤君が内野ゴロで倒れるが徳里君は3塁に進む。9番塚田君に期待がかかる。 バッテリーエラーでも良いから徳里君が生還しないか・・・と思う。そしてフルカウントになった。しかしカーブに着いて行けず塚田君は三振に倒れてしまった。
今年もホームインが遠いなぁ・・・・・
5回裏のマウンドに窪田君が向かう。 もしこの回1点でも失えばそれで終わりだ。 先頭の吉澤君をストレートで歩かせてしまいさらにこの試合9つ目の盗塁を許す。 だが渋谷君をフルカウントから空振り三振に討ち取り代打の白石君をセンターフライに打ち取る。あと一人だ。次の攻撃は1番からだ。3巡目になるから何とかなる、と思うも中野君にセンター前に打ち返される。二死だから二塁走者の吉澤君はスタートを切っており悠々ホームを踏んだ。



あぁ今年もコールド負けか・・・・・



昨年は7回まで持ったけど今年は5回までだった。 窪田君の調子は今一あったかもしれないけど登板させたのは3年生になった彼への温情だろうか・・・・そういう起用も良いと思った。



新チームはどうなるのだろうなぁ・・・・・

埼玉県大会はその後、浦和学院、聖望学園がはやばやと敗退した。 そして今日は決勝戦を迎える。 春日部共栄か、市立川越か。
だけど私の楽しみはまた来年の越谷球場にもある。 高校生達の卒業後にも幸あれ、と心の中で叫んで球場を後にした。

あぁ 栄冠は・・・痛恨のさよなら押し出し四球・・・・ 高校野球埼玉県大会から 1

2014-07-22 | Weblog
塁上は全て埋まっていた。しかしアウトカウントは2つ。マウンド上の庄和高校2番手投手高橋君の投じた球が高く外れて押し出しの四球となってしまった。すると大宮武蔵野のダグアウトから選手達が一斉に出て来た。そして後方の応援団からも大歓声が。
選手達がホームプレートを挟んで整列を始める。 あれれ・・・・ あぁぁ~そうかぁ。この押し出しで7点差となり7回裏だったのでコールド勝ちが成立したのだった。 あぁ・・・それでさっきの回庄和高校の選手は無理な走塁を繰り返したのかぁ・・・・・



今年も始まった全国高校野球選手権大会埼玉県予選。全国大会もそうだけど各都道府県の大会も立派な選手権と思っている。昨年はこちらに越してきて15年目でようやく越谷市民球場に観戦に来ることが出来た。
今年は台風の影響で順延された試合もあったけど、7月12日、13日の両日現場観戦に機会に恵まれた。

山村学園 6-2 春日部東
野球場に到着した時は7回表の春日部東の攻撃中だった。あぁなんでもっと早く出てこなかったんだろう・・・・いつも思ってしまう。
打順は下位打線だったけど塁上にはランナーが二人いる。 そしてタイムリー安打が生まれた。 これで 2-5 と3点差に追い上げた。 しかしマウンド上の山村君は後続を何とか絶ってそれ以上の失点は許さなかった。 
この日は朝から気温も湿度も高かった。 フィールド上はどうだったのだろう。もっと暑かった事だったと思う。
7回裏、山村学園は下位打線から始まり得点を上げられなかった。こうなると8回表3番関根君から始まる春日部東は追い上げの流れが、と思った。 しかしこの回から登板した3番手の山村君は3番からの打線を3者凡退に切って取る。
そして8回表の山村学園は2番からの好打順だった。 先頭の森廣君がヒットで出塁する。そして続く金子君が初球、送りバントを決めて森廣君をスコアリングポジションに送る。 春日部東バッテリーとしてはここは森廣君を還したくないところだ。 最後の攻撃は7回に連打を見せた6番から始まる。 しかし山村学園4番内田君がライト前に弾き返す。 だが春日部東、右翼手仲井間君の素晴らしい返球で2塁走者の森廣君はホームに還れなかった。 
塁上には走者が1塁と3塁にいる。 マウンド上の高橋君、5番田中君を迎えてここは踏ん張りどころだ。 田中君の強烈な打球がサード阿葉家君の前に飛ぶ。 きっとホームに突入した森廣君が気になったのだろう。打球を前に落としてしまう。 ホームは間に合わず打者走者を封じるべく1塁に送球する。 山村学園には大きな6点目が入った。 気落ちしたのか高橋君は6番打者の堀田君にぶつけてしまい2死ながら1,2塁となってしまった。 
だけど高橋君は最後の踏ん張りを見せる。7番佐々木君をフルカウントまで粘られながらサードファールフライに打ち取った。 フライを取った阿葉家君が必死に走って打球に追い付いた。 6点目の原因を作ってしまった事に責任を感じていたんだろうなぁ~・・・・

最終回、春日部東ベンチは先頭打者の関君に替わって代打の山崎君を送る。しかしマウンド上の山村君はストレートを続けてたちまち 0-2 と追い込む。そして3球目もストレートを当時、山崎君は打ち返すものの打球は投手山村君のグローブに収まり1塁佐々木君に送られまずワンアウトを取った。 打者走者の山崎君はヘッドスライディングを見せたのだけど。 山崎君は3年生だった・・・・
続く7番仲井間君はそのままボックスに入る。 そしてフルカウントからストレートをセンター前に打ち返した。  2-2 からの微妙なコースを良く見逃した。 
だけど4点差にしてもらったばかりの山村君は余裕があるのか、次の8番木下君を高めのストレートとカーブで 0-2 と追い込み最後は外角高めの速い球で見逃し三振に切って取る。 



あと一人だ。 春日部東ベンチは3年生の阿部君を代打に送る。 最後の打席になるかもしれない、悔いのないように・・・・と。
しかし、阿部君も山村君の快速球についていけず見逃しの三振に終わった。





山村学園はこの勝利が野球部創設7年目で夏の大会初勝利だったそうだ。 スタンドにあれだけ部員がいるのに今年が初勝利だったのかぁ~とむしろ不思議に思った。
敗れた春日部東高校。 あの公務員五輪ランナー川内優輝、そしてプロ野球界ではロッテマリーンズの加藤翔平が卒業生だ。
県立高校なのにやるなぁ~と思った・・・・・・ 
それにしても暑い。 水筒の中のアルカリ飲料はもう底を突いてしまった・・・・・・



大宮武蔵野 8-1 庄和
第二試合が始まるまでに昼食を食べた。 第二試合は県立高校同士の対戦となった。 大宮武蔵野高校は女子生徒が7割を占めているらしい。それでも浦和レッズユース所属で U-19 日本代表の茂木力也、オリックスの佐藤達也が同校のOBだ。
そしてチアーダンス部は全国レベルとの事。そのせいか?AKB48の子島陽菜、島崎遙香が同校のOBらしいけど二人ともチアーダンス部だったのかな?
スタンドでも彼女達チアーダンス部と思しき女子部員が応援の中心だった。



一方庄和高校は目立ったOBはいないけど今春の県大会では強豪花咲徳栄に敗れたものの1-2 と善戦した。それが選手権に向けての自信になるか?と期待した。 第1試合同様に好ゲームを期待したんだけど・・・・・



初回、武蔵野・吉田君、庄和上野君の立ち上がりはよかった。 吉田君はストレートが良く、2番荒川君、3番重田君を連続で空振り三振に討ち取った。 先頭打者の佐藤君を後藤匠君のファインプレーでサードファールフライに打ち取った事で勢いが付いたのかもしれない。  上野君は変化球が冴えた。 先頭の斉藤君を 2-2 から2番吉場君を 0-2 からカーブで見逃し三振に討ち取った。 これは投手戦になるかな?と期待したがその期待は2回にちょっと崩れ出した。
吉田君は3番から始まる庄和打線にストレートを捕えられた。3番高橋、4番渡辺竜也の両君は打ち取ったもののいずれもストレートを鋭くライトに打ち返された。 そして6番上野君、7番竹川君にストレートをセンター前に弾き返される。 変化球がさっぱりストライクにならずストレートでカウントを稼ぎに来たところを打たれた。それでも2死1,2塁から迎えた坂入君を変化球で 2-2 として最後はストレートで空振り三振に討ち取り失点は許さなかった。
2回裏、上野君もストライクが入らない。 4番武富君、5番三野君を連続で歩かせる。初回に決まったカーブが入らなくなっていた。そして5番中山君にはストレートを打たれてレフト越えの2塁打を許した。 ただ武富君が盗塁に失敗していたのでまだこの時点では得点は入らなかった。 武富君の盗塁を見ると高校野球、明日なきトーナメント戦の戦いだなぁと思う。
だが大宮武蔵野は下位打線が打点を挙げる。 7番岩田君のセカンドゴロの間に二野君が生還し先制点を挙げ、続く吉田君のあたりはショート重田君の前に。重田君は焦ったのか打球を落としてしまい高山君がホームイン。2点目を許し、打者の吉田君も1塁に生きた。早くもマウンド上に内野陣が集まった。

 


更に9番加藤君のストレートを捕えた打球は右中間に飛ぶ。 二死なので1塁走者の吉田君はスタートを切っており3塁もまわる。だがうまく打球に回り込んだ右翼手の荒川君から中継の竹川君を経て返球され吉田君はホームで憤死してしまった。 見事な守備、中継だった。 庄和は上野君が捕まえられたが好守で2失点に抑えた。 
だけど投手の吉田君を走らすかなぁ・・・・・とも思った。



だがマウンドに戻った吉田君はストレートが冴え出した。3回には3者凡退に切って取り、4回は先頭打者の繁田君にライト前に打ち返され、味方エラーなどで2死満塁となるも、最後は坂入君をストレートで見逃しの三振に。 坂入君は前の打席で三振だった・・・・ 5回も味方エラーで走者を出すも、その佐藤君の盗塁を刺すなど3人で庄和の攻撃を仕留めた。
一方の上野君、ストレート、変化球共にコントロールが定まらないものの3回は守備が良く3番宮本君を併殺打で打ち取り、4回は2死を取りながら中山君にストレートをセンター前に弾き返され、岩田君にはぶつけてしまい、8番吉田君を歩かせ2死満塁とするも前の打席でヒットを許した加藤君を 1-2 からカーブを引っ掛けさせてセカンドゴロに打ち取った。 吉田君の打席でカーブが暴投となっていたのでここでよく追い込んでいたとはいえカーブを投げられたなぁと思った。
5回裏。 大宮武蔵野は先頭打者、前の打席から代打でそのままレフトに入った北村君が 2-2 からのストレートをセンター前に弾き返し盗塁を決めると続く宮本君に三遊間を破られ北村君が生還。3点目が入った。 そつのない攻撃と感心する。
これ以上点差を拡げられたくない庄和はここで上野君を下げて左翼を守っていた高橋君をマウンドに上げ、右翼の荒川君は左翼に回り上野君が右翼に入った。 
右翼から左翼に回った荒川君が投げると思ったんだけどなぁ・・・・ 



しかし高橋君はストレートが早い。後続の武富、二野の両君を打ち取り失点を抑え次の3番からの味方の反撃を待つことに。 
3番重田君は前の打席に続いてライト前に打ち返し出塁を。続く高橋君はバントで送る。前の打席も高橋君はヒットで出塁した繁田君をバントで送った。4番打者に2打席連続で送りバントをさせる巡り合せに不運を感じたか。こうなると後続が大切だ。 5番渡辺竜也君はピッチャーゴロに打ち取られるも続く上野君は幸運なセカンド内野安打。打席には7番ながら1安打1四球の竹川君がボックスに入る。 吉田君はストレートで 0-2 と追い込むが3球目のきわどいカーブを見送り、4球目のストレートをライト前に弾き返し1点を還した。 更にランナーが二人残る庄和ベンチは3年生の岡田君を代打に送る。 
しかし今度は吉田君が踏ん張り岡田君をセカンドゴロに打ち取った。 庄和としてはもう1点返したかっただろう・・・・

ようやく1点を還した庄和の守備となったけど、今度は2番手高橋君の踏ん張りどころだ。 しかし前の回から登板してストレートの速さを見せた高橋君だけど今度はそのストレートがストライクにならない。先頭のこの日2安打の中山君を歩かせ、続く岩田君は送りバントをきっちりと決める。 更に吉田君にはレフト前に弾き返される。何とか中山君のホームインは留まらせたが9番加藤君も歩かせてしまう。 打順はトップに戻り1番の斉藤君が打席に。これまで3三振の斉藤君であったがこの打席はセンターに打ち上げ、3塁走者の中山君をホームに還す犠牲フライを記録する。 これでまた3点差となってしまい、打席には2安打の北村君が入った。
本来はこの北村君がエースらしく背番号1を付けていた。 スタメンの中では1番の斉藤君と2番吉場君が1年生でレギュラー選手4人がベンチスタートだったみたいだ。 それでこれだけ主導権がとれるのか・・・と後で思った。
高橋君、二死なのだから何とか北村君を打ち取って・・・・と思うも高橋君のストレートを打ち返した北村君の打球はセンター佐藤君の頭上を越えて行った。 そして走者2人が還り、北村君は3塁に達した。 
これで5点差に拡がってしまった。 大宮武蔵野の応援席は大いに盛り上がり、さっきまで元気だった庄和の応援団は静かになってしまった。 高橋君は何とか続く宮本君をショートゴロに打ち取りこの長い攻撃を終えた。 カウントを悪くしてストレートを置きに来るところを痛打されてしまったなぁ~・・・・・







リードを拡げられた庄和の攻撃、先頭打者は代打の3年生小林君。しかし吉田君のストレートの前に空振り三振。 トップに戻って佐藤君がセンターの前に打ち返して出塁する。ここは打順も良くなるのでランナーを溜めて・・・と思うとスタートを切った。おいおいと思うも三野君からの送球が早く盗塁は失敗に。 ここは走るところかなぁ~~? 思わず声を上げてしまった。 佐藤君は脚に自信があるのか?それともベンチのサインか前の打席も相手エラーで出塁したが盗塁を試み失敗をした。 
続く荒川君はこの日まだ3打席無安打。 ストレートを打ち返すがあまり飛ばない。しかしこれが幸いしたか、1塁後方のフェアーグラウンドにポトリと落ちる幸運なヒット。しかし何と荒川君も1塁ベースを蹴って2塁を伺う。 右翼手の宮本君から送球が送られ2塁寸前で荒川君は敢え無く憤死となった。 荒川君はしばらく立ち上がれない。 仲間がよってようやく立ち上がり守備に就くべくベンチに戻った。次は2安打の重田君だったのに。 スコアリングポジションで彼を迎えたかったのかなぁ~…..



7回裏の大宮武蔵野、先頭打者の武富君がセンター前に弾き返す。そして続く三野君は送りバントで武富君を2塁に進める。そして中山君は前の打席に続いて四球を選ぶ。 まだ高橋君のコントロールは・・・・。だが7番岩田君には外野に大きな当たりを打たれるが今度はセンター佐藤君が追いつき2アウトとなる。 このまま何とか無失点に抑えて、8回、9回の反撃を・・・と思うが続く吉田君には前の打席に続いて三遊間を破られる。そして武富君の生還を許した。 0-2 と追い込みながらカーブを打たれた。
外すつもりだったのかな?庄和内野陣がマウンド付近に集まる。 2死まで取りながら、しかも0-2 と追い込んでいたのになぁ・・・



これでがっかり来たのか高橋君は続く加藤君を歩かせてしまう。 そしてまだ無安打の斉藤君が打席に入る。
初球は高く外れる。これは危ないなぁと思う。 そしてボールスリーとなってしまった・・・・・

あの“暴走”は何とか1点を還さないと7点差以上が付いてコールド負けが成立するからという懸念からだったのか・・・・と気が付いたのは試合終了が成立した瞬間だった。
立ち上がりから考えればこんな点差になるとは思わなかった。 安打数を比べると大宮武蔵野の10安打に対し、庄和は7安打。しかし与四死球が吉田君は1四球だったのに対し、庄和投手陣は8四球1死球もあった。これではちょっと・・・・
でもメンバーの中で2年生が11人もいるらしい。 来年どうなるか少し楽しみに思った。

その後山村学園は3回戦で大宮東に 2-4 と惜敗し、大宮武蔵野は市立川越に 0-9 でコールド負けでそれぞれ夏の大会を終えた。

またそれぞれの高校と越谷球場で会える事を願った。

埼玉県民の期待を背負って.... 浦和学院 10-11 仙台育英 10.Aug. 2013

2013-08-18 | Weblog
6回に入り初回に50球以上も投げた小島君の投球数早くも100球を越えた。打席にはこの試合これまでストレートを打ち返して2安打している1番の熊谷君に回ってきた。 3塁上にはこ高めを空振りし 2-2 とされるも136㎞の外角低めをレフトに打ち返したこの回の先頭打者7番馬場君が、2塁には 2-1 からスライダーをセンターに打ち返した加藤君がいる。 この時センター山根君からの返球がピッチャーズマウンドの横でイレギュラーバウンドしてそれたので1塁走者の馬場君が3塁まで進み、打者走者の加藤君まで2塁に進んだのだった。 2年生エースの小島君は続くこの日先発投手で途中から右翼手に回った鈴木君に替わり代打に送られた小野寺君をセカンドゴロに打ち取っていた。
打順は1番に還って熊谷君は1-2 から 136km のストレートをセンターに打ち上げる。 犠牲フライとなるだろう、1点は仕方ないとしてもこれで2アウトと誰もが思った瞬間、信じられないことに飛球は山根君のグローブに当たらずグラウンドにポトリと漏れ落ちてしまい、2走者が生還し4点あったリードが2点になってしまった。 更に打った熊谷君は2塁まで進んだ。 薄暮の一番フライが捕り辛い時間帯だった。 それとも山根君は2塁走者を3塁に進めたくないと焦ったのかな?
これで一気に元気づいた仙台育英打線は続く菊名君が独特の構えで 1-1 から 135km のインコースのストレートを上手く肘を畳んで振りぬき1塁後方に落ちる2塁打を放ち熊谷君を迎え入れ1点差とし、3番長谷川君は10球目のストレートをセンターに打ち返すタイムリー安打を放った。  長谷川君は前の2打席は凡退したがこの打席では 0-2 と追い込まれながら小島君自慢のクロスファイヤーそしてカーブ、スライダーを見極め、ストレートは反対方向に打ち返してファールにするなど粘りの打席で同点タイムリーに結びつけた。 
4点あったリードが一気に無くなってしまった浦和学院ベンチはまだ投球練習をしている3年生投手山口君をマウンドに送らない。
埼玉県大会5回戦から4試合連続完投している小島君が降りればそれで勝ち運が一気に遠のいてしまうという事か? 浦和学院応援団の祈るような表情が映し出される。
そして打席には4番上林君を迎える。今大会屈指の注目の対決だ。 だがここで小島君は踏ん張る、これまで無安打2三振に抑えていた大林君を初球139km のインコースストレートでファーストフライに打ち取り、5番水田君を1-2 から137km のストレートで空振り三振に切って取り逆転は許さなかった。 しかし私は小島君が4失点を喫したことよりもこの暑さの中またこの回だけで30球以上投げたことが心配だった。 それにしても仙台育英打線は半端じゃないなぁ~と感じた。
だけど上林君は埼玉県出身なんだなぁ~。浦学のスカウトはどうして彼に気付かなかったのだろう。

浦和学院が川越東を 16-1 で降し、今年の選手権出場を決めた時、マスコミは一斉に史上8校目の春夏連覇の可能性を報じだした。 そして地元埼玉県では悲願の埼玉県勢初の選手権優勝を大いに期待した。だけど“確率”の問題から言うと春夏連覇は難しいのでどうかな?と思った。
それよりも私が子供の時から埼玉県は高校野球界では東京、神奈川、千葉に並んで列強の部類に入ると思っていたのでまだ選手権で優勝校を出していないこと自身が驚きだった。
1993年第75回大会で春日部共栄が決勝戦に進出し兵庫県の育英高校に 3-2 で敗れ準優勝を収めた時と(この時の埼玉県大会の決勝戦の相手が浦和学院だった。) 1951年第33回大会で熊谷高校が平安高校との決勝戦で4-7で敗れたのが最高成績で、準決勝に進出したのが上尾高校 ( 1975年第57回大会 ) 浦和学院 ( 1986年第68回大会 ) 市立浦和 ( 1988年第70回大会 ) の3回。春夏連覇というよりも選手権優勝が埼玉県高校野球界の悲願であった。



昭和50年から選手権では埼玉県に1校出場枠が与えられるようになった。それまでは戦後、埼玉県は南関東代表に与えられた1校の出場枠を昭和33年の第40回記念大会まで千葉県代表校と争っており千葉県の壁を破ったのは3回だけだった。
第41回大会から千葉県に出場枠が1校与えられたことにより山梨県の代表校と西関東代表を競うようになった。 そして昭和36年、37年41年に甲府工業が甲子園に進出した以外は全て埼玉県勢が全国大会に進出していた。(昭和38年、43年、48年は記念大会で1県1校の出場枠が与えられた。)

8月10日。 この日の埼玉県は前日に続いてものすごく暑かった。午前7時前、愛犬の散歩から帰った時でも既に30度を越していた。湿度もかなり高くこの日はどんな1日になるかと思った。最も暑いと言われる熊谷市でさえ最高気温40度には届かなかったけど埼玉県各地で38度を越える事がニューステロップにも流れていた。 地元越谷市も38.8度にまでなっていた。
第4試合に地元浦和学院が登場する頃はもう少し気温が下がるかなと思った。この日は第1試合から結構打撃戦が続き、試合時間は予定より長くかかっていた。だから第4試合のプレーボールは午後4時半を回っていた。 それだけ気温も下がり、ナイターに入ると投手有利になる。 浦和学院の小島君には有利に働くと予想したけど…..
春夏連覇というよりも埼玉県民の願い、選手権制覇を担う浦和学院の初戦の相手は仙台育英高校だった。 今大会屈指の1回戦好カードとなったけど、仙台育英と聞いて強豪とすぐに連想出来る様になった事に隔世の思いがする。仙台育英は野球だけでなく駅伝では男女ともに全国制覇を収める強豪校。サッカーも強い。 こうなれば野球でも全国制覇を狙う戦力だ。



しかし宮城県大会決勝戦は先発投手馬場君が撃ち込まれて柴田高校に5点を先制される苦しい試合。それをひっくり返すのだから恐れ入るのだけど、やはり打線のチームかな?と思った。 先発投手は鈴木君と馬場君が3度ずつ先発し鈴木君が 23回 1/3 馬場君が 25 2/3 投げていた。 そしてどちらかと言えば鈴木君の方が投球内容は良かった。その鈴木君が先発だった。ただ二人とも右投手だったので浦和学院ベンチからすればどちらが先発でも同じ印象ではなかったか? 驚きは県大会決勝戦で2安打1打点を放った小野寺君がスタメンを外れて県大会では4回戦石巻西校戦から出場のない川島君がスタメンでライトに入っていた事だった。

仙台育英注目の先発投手は背番号1番の鈴木君だった。宮城県大会決勝戦の先発が馬場君だったからローテーション通りか、それともこの試合では2番手鈴木君の方が投球内容が良かったからか。 
浦和学院先頭打者の竹村君は初球135㎞のストレートにバットを出してショートフライに倒れた。試合開始のサイレンがなり止まないうちのワンアウトだった。 先頭打者が初球から手を出して凡退するシーンを野村克也氏が見たらなんて言うだろう、と思った。
続く服部君は2-2から 129km のスライダーを引っ張りサードゴロと思ったけどサード加藤君が弾いてさらに悪送球で服部君にワンベースが与えられ2塁に出してしまう。3番山根君は埼玉県大会 ,292 だったけど準決勝、決勝では連続してヒットを放っており選抜では5割以上を打っている。 2-2 からインコース136km のストレートを強振すると打球は左中間を真っ二つに割る2塁打となり服部君が先制のホームを踏んだ。埼玉県大会準決勝戦では好投手聖望学園の長谷川君から2安打を放ったすが主将と思わせられる打球だった。
県大会ではその熱戦となった準決勝の聖望学園戦以外は2回までに先制をして試合の主導権を握ってきた浦和学院、相手の失策からとはいえ見事な先制点だった。 マウンド上の鈴木君、打たれる前のアウトコースに投げた外角へカーブを見送られたのが痛かったか。
仙台育英はさっそく背番号18番檜森君を伝令送る。  それが効いたかマウンド上の鈴木君は選抜では3試合連続本塁打の4番高田君をライトファールライ。 5番木暮君をショートゴロに打ち取り失点を1に抑えた。 この強打打者二人に対してはカーブ、スライダーの変化球が効果的に見えた。

先制を許した仙台育英は先頭の熊谷君が2-2 から外角ストレートをライトに鋭く打ち返し出塁する。 県大会では2割に満たなかった熊谷君だったけど、さすが仙台育英、さすが全国大会と思った。 さぁ小島君ここはどういうピッチングをと思うがストライクが入らなくなってしまった。2番菊名君には 2-1 から外角変化球が暴投となり熊谷君が難なく2塁に進まれ後はストライクが入らず歩かせてしまい、3番長谷川君にも 0-2 から投じた外角変化球がまたもワンバウンドの暴投となりストレートの四球となり無死満塁としてしまった。 左投手の小島君であるが持ち味のやや横手から投げるストレートが左打者にはうまくコントロールできない上に変化球がさっぱりストライクゾーンを通らない。 県大会準決勝、決勝でも立ち上がり安定しなかった。
そして強打者4番長谷川君が無死満塁で打席に入った。 注目の対戦だ。初球は140㎞のストレートで空振り以降3球は全てストレートで1-2と追い込むと4球目は内角引く目に落ちるボールで見事に空振り三振に討ち取った。 前の2打者とは見違える投球内容。 5番の水間君にも初球をストレートで空振りさせたが2球目を水間君にぶつけてしまい同点にされてしまった。
更に6番小林君には1-2 と追い込みながら粘られて最後は135km のきわどい外角ストレートを見極められてまたも押し出しで得点を許し逆転されてしまった。 小島君のスライダーがすべてボールとなりきわどいストレートをファールにした小林君の粘り勝ちだった。
仙台育英ベンチは7番川島君に早くも代打を送る。打席に送られたのは阿部君。 宮城県大会では5試合に出場したがヒットは無かった。選抜でも打席に立った2年生。ここはスライダーが決まり最後は高めの138km のストレートを振らせて三振に討ち取り2アウトにこぎつけた。 ここで小島君は落ち着きを取り戻すかと思われたけど8番の加藤君にも追い込みながら最後はストレートが2球続けて高く外れてこの試合4つ目の四球を与えて3つ目の押し出しとなった。 
小島君は気落ちしたかここから連打を許す。 9番鈴木君には初球カーブでストライクをとるが2球目の同じ様なカーブをレフト前に落とされ更に2点を追加される。ストライクが入らない小島君がカーブでストライクを取ろうと同じカーブを続けたのが痛かった。1番に還って熊谷君は厳しいコースをファールで粘られ10球目をセンターに打ち返されこのイニング6点目を許した。
ベンチ横では早くも背番号11涌本君がピッチング練習を始めた。 だけどこんなに早く小島君は下せないだろうなぁと思った。
この回11人目の菊名君にもストレートが外れ 2-0 となったが3球目を打ってくれてセカンドゴロに倒れて長い長い初回の仙台育英の攻撃がやっと終わった。浦和学院ベンチ、応援団にとっては悪夢のような小島君の立ち上がりだった。



甲子園には浦和学院の校歌が流れる。アルプス席の応援団はどういう心境で校歌を歌ったのだろうと思った。
そして仙台育英右翼の守備には川島君の代打阿部君でなくて2年生の首藤君が入った。 

2回裏の仙台育英。小島君の立ち直りを期待した。先頭打者の長谷川君をベースカバーに入った時に落球し出塁を許したが、続く4番大林君を今度は変化球主体で最後はインハイのストレートで2打席三振に切って取った。これで調子を取り戻したか後続も打ち取った。 5点リードを許しているが何とか浦学打線爆発をと願った。

3回表の先頭打者は1年生の津田君。 選抜ではセカンドは3年生の贄君だったが埼玉県大会4回戦春日部高校戦で負傷を負い以降1年生の津田君が抜擢されている。約半年前まで中学生だった1年生が選抜優勝校のレギュラーになるのだから恐れ入る。 その津田君、県大会は .214 だったが0-1 から132㎞のストレートを叩くと打球は左翼頭上を越える。津田君は余裕のスタンディングダブルだ。打順がトップに戻り竹村君が初球内閣ストレートがユニフォームを掠る“幸運”な死球で出塁し無死1,2塁と反撃の狼煙を上げることとなった。 
続く服部君は県大会序盤は下位打線だったけど贄君の怪我の後は2番に上がり決勝戦の川越東戦は3安打。 この打席では3-2 から粘って136㎞のストレートを詰まりながらもライト前に運ぶ。 これで満塁と思うとこの回から川島君に替わって右翼の守備に就いた阿部君が後逸してしまい津田君が生還し打った服部君は2塁に進んだ。( 記録は2塁打 ) 
そして仙台育英の佐々木監督は右翼手の阿部君をベンチに下げて同じ2年生の首藤君をライトに入れた。 厳しいなぁ~と思った。

マウンド上の鈴木君は3番山根君を歩かせて満塁としてしまう。 4点リードしているからまだ動揺する場面でもないんだけどなぁと思っているとバッターボックスに4番高田君が入った。初球ストレートでストライクを見逃した後の2球目外角低めの変化球が捕手の小林君が捕れないほどのワンバウンドになり3塁走者竹村君がホームを踏み2点を返して 3-6 とした。尚も2,3塁に走者が残るもここは鈴木君が踏ん張り4番の高田君を変化球で三振に討ち取る。 この試合は両チームとも4番打者は無安打だった。
1死を取られたが5番木暮君が 3-2 から136km の低めのストレートを左翼フェンス直撃の2塁打を放ち2者を迎え入れ1点差に詰め寄る。外角カーブで 1-2 と追い込んで4球目137㎞の外角ストレートがきわどく外れたのが痛かった。 
1点差に迫られた鈴木君は続く7番西川君に 0-1 から126㎞の落ちる球を叩かれると打球は左中間を真っ二つに割る。木暮君が同点のホームを踏む。こうなると鈴木君の替え時がと思う間もなく続く小島君が初球をライトに打ち返し西川君が逆転のホームを踏み、ホームへの返球の間に小島君は2塁に進む好走塁を見せる。アルプス席の浦学応援団は狂喜乱舞していた。

仙台育英ベンチは鈴木君に替えて馬場君をマウンドに送った。打順は一巡して津田君に回って来た。 津田君に対して馬場君はストライクが入らずストレートで歩かせ、続く竹村君の2球目、カーブがワンバウンドの暴投となり小島君が3塁に進む。そして2-2 から落ちるボールが高く入り1,2塁間を破られ小島君が還り 8-6 とリードを広げた。 1-2 から自信を持って投げた139㎞のストレートが僅かに外に外れボールとなったのが痛かった。 更に服部君には詰まりながらも0-1 からセンター前に運ばれ追加点を許し3点リードとされた。服部君はこのイニング2本目のヒットだった。仙台育英バッテリーは次の山根君の打席で 1-1 から盗塁を許すが鈴木君は山根君を139km のストレートで三振に討ち取りこの回9失点目は何とか防いだ。 
馬場君の派手なガッツポーズが目立ったけど、主審が注意しなければいいなぁと思った。 埼玉県大会ではあまり見られなかった1イニング7安打の集中打だった。
浦和学院打線は4回にも西川君の適時打で追加点を挙げればリードを貰った小島君は3回から3イニング連続で三者凡退に仙台育英打線を打ち取った。 これで浦和学院ペースで試合が進むと思ったんだけど。

同点に追い付いてからは仙台育英のペースだった。7回裏には四球と野戦で無死1,2塁のピンチを招くが8番加藤君の初球。バントの構えから捕手西川君が2塁走者の小林君が飛び出したのを見逃さず2塁に送るとランダウンプレーで刺し、更に2塁に走った1塁走者の馬場君も刺して一気にアウトを二つ取った。 このプレーを見ているとサードの高田君の走者の追い込みのうまさが目立った。 
だが小島君は1番の好打順から始まる8回裏には更に大ピンチを招く。 先頭打者の熊谷君に1-2 と追い込みながら135㎞のストレートをセンター前にライナーで弾き返されるこの日3本目のヒットを許し、菊池君にはストレートが高く浮き歩かせてしまい長谷川君にぶつけて無死満塁としてしまう。 変化球がまたコントロールできなくなっていた。ここで打席にはこれまで4打席無安打2三振の4番上林君を迎えるもう投球数は160球を越えている。
だけどここから小島君の圧巻のピッチングが披露される。上林君にはすべてストレートで攻めて 1-2 から138㎞のインローのストレートでこの試合上林君から三つ目の三振を奪うと宮城県大会では.524 だった5番水間君を得意のクロスファイヤーで追い込んで最後はアウトコースのストレートで空振り三振。 そして小林君も1-2から138km のストレートで空振り三振に討ち取った。 ナイター照明に灯が入り投手には有利な状況となっていたけど無死満塁から後続の3人の打者を12球すべてストレートで三者連続三振に切って取る素晴らしい、全盛期の江夏を髣髴する様なピッチング内容だった。 
さぁ2年生が力投いているんだ、決勝点を挙げてやれ!とテレビに向かって呟いた。 しかし仙台育英2番手の馬場君も140㎞のストレート、ワンバウンドをしても空振りさせる120km 代のフォークで5回以降1安打しか許さない。 
9回表、先頭の木暮君が空振りの三振に倒れた後、斉藤君がしぶとくセンター前に落として出塁する。 埼玉県大会の聖望学園戦では最終回決勝の3塁打を放った斉藤君のこの試合初ヒットだった。 しかこし続くこの日2安打の西川君は2-2 からアウトローに138㎞のストレートを投げ込み見逃し三振に切って取られる。 馬場君この日8つ目の奪三振だった。
そして打席には小島君が入る。 ここはくさい所を突いてわざと歩かせるか?と思ったけど 1-2 からストレートを強振し強烈な打球が飛ぶが遊撃手の熊谷君が左に倒れ込んで打球を抑えた。
173球を既に投げている小島君は9回のマウンドに上がる。 先頭の馬場君を三塁ゴロに打ち取り次の出さ刃加藤君に初球を投げた後に右脚を痛めたらしく何度も屈伸を繰り返す。 それでもよくならない。ベンチからは水分が渡される。 そして拍手に送りだされるようにマウンドに再び戻った。 何とかこの回だけでも…と願うけど、1-2 から外角のストレートを加藤君に逆方向になるライトに打ち返される。打球はぐんぐん伸び何とか斉藤君が追いついたけど球に力が乗っていない様に思えた。 
続く小野寺君には 明らかに軸足に力が掛からない投球が続きレフト前に弾き返された。 だけど宮城県大会決勝戦2安打ながらこの試合スタメンを外された小野寺君も意地があったと思う。
ここで浦和学院、森監督は小島君に替わって山口君をマウンドに送った。 小島君182球の熱投だった。拍手に送られてベンチに戻った小島君だったけどベンチに戻った瞬間にこらえきれなかった思いが爆発したようだった…..だけど彼の将来を考えればこれ以上は投げさせられないだろう。 それに彼をここまで引っ張らざるを得なかった事がこの試合の結果につながったと思う。
マウンドの上の山口君は埼玉県大会では3試合に登板し先発したのは3回戦の川越初雁戦のみ。 今年の選抜では2試合に登板し3イニング投げた。 春季関東大会では決勝( 4-1 前橋育英 ) 準々決勝 ( 6-3 山梨学院 ) と完投勝利を収めている。 既に2死なので打席の熊谷君さえ抑えられれば…と思った。 
しかし悪い予感も。昨年の選手権3回戦、先発したのは1,2回戦で完投した3年生の佐藤君では無く何故かこの時2年生だった山口君が先発。2回3失点でマウンドを降りて、2番手に起用されたのがこの時1年生だった小島君だった。 小島君も3回投げたが3点を失い3番手佐藤君が3イニングを1安打に抑えたので何故佐藤君を先発させなかったのかな、とこの時思ったものだ。

この試合これまで3安打の熊谷君に対し、山口君は140㎞代のストレートを投げ込む。 2-2 からの6球目の変化球が低く外れる。その前に144㎞のストレートをファールされたので変化球を投じたのか。 7球目外角高めに投げた144㎞のストレートが真ん中に入って来た。熊谷君がバットを一振りするとライナーの打球がレフトフェンスに飛ぶ。







左翼手の服部君が打球を拾って、中継の竹村君に。竹村君は試合後新聞紙上で語った“間に合ってくれ”と捕手の西川君に返球したが長躯1塁から走り込んだ小野寺君の脚が早くホームを駆け抜け、試合終盤でも気温が34度あった文字通り熱戦、激戦、そして激闘に終止符が打たれた。





両軍合わせて21得点入ったけどスクイズによる得点は無かった。 スクイズの機会は少なくは無かったけど。

史上8校目の春夏連覇そして埼玉県勢初の選手権制覇はこの瞬間に消えた。 
これで仙台育英は結構上まで行くだろうなぁと思ったけど次の対戦がこれまた強豪の常総学院だった。浦和学院が仙台育英に例え勝てても次は常総学園かぁと思った。そして仙台育英は常総学院に 1-4 で敗れた。

翌朝早朝、駅前のスーパーマーケットに買い物に行った帰り、浦和学院の応援バスが前を通った。 生徒達は遠路を終えて地元に到着した為か安堵した表情だった。 野球部の3年生達はこれからどこかに遊ぶに出かけるんだろうなぁ~。
まだ甲子園は熱戦が続いている。 埼玉県ではもうすぐ秋季大会が始まるんだろうなぁ~。 

またどんなドラマが待っているんだろう。そしてこの暑さはいつまで続くのだろうか……




夏の甲子園もうすぐ開幕。だけど県大会も面白かった。

2013-08-04 | Weblog

最終回。スコアは 1-16 。どう考えても、奇跡が起こっても逆転は考えられない。 それでもスタンドからは熱心な声援が送られる。前の打席でヒットを放っている中村航太君が先頭打者のボックスに入る。たちまち 0-2 と追い込まれるが3球目を打ち返した打球はショート竹村君の頭上を越えて左翼手服部君の前に落ちた。マウンド上の小島君が先頭打者を出すのはこの試合4回目だ。川越東ベンチはここで途中からセンターに入っていた2年生の堀川君に替わって背番号17番、3年生の関口君を代打に送る。 今大会3度目の打席だ。 初球のインコースのやや低めをうまく上から叩いて続く。 打った瞬間に手応えを感じたのだろう、関口君は走り出した途端に右手を高く上げた。代打で出た高校生活最後の打席で小島君からヒットを放ち、良い思い出になっただろう。そして人生の支えになるに違い無い…こう思った。 



川越東ベンチは更に2塁走者中村に3塁ベースコーチをしていた3年生の兵頭君を代走に送り、打席には8回からマウンドに上がったエースナンバーを付けた3年生の渡邉大樹君に3年生の染野君を代打に送る。 4番手として登板した背番号1番の渡邉大樹君は2イニングを無失点に抑えた。 
染野君は初球を引っ張るもサード高田君の正面。ベースを踏んでセカンド津田君に送球しファーストの木暮君に送られる。トリプルプレー、というよりもゲームセットと思ったけど間一髪染野君の脚が早かく2死にはなったけどランナーが一人残った。
大量リードされ、先頭打者が出塁したのでじっくりと投球を見るという手もあったのだけど、代打で出た3年生の関口、染野の両選手の初球打ちはここでは攻められないなぁ~と思った。 
そこが高校野球なのかもしれない。

打順が1番に戻り前の打席でライト前ヒットを打っている2年生の渡部君が打席に入り、ここも1,2塁間を抜き小島君からこの試合2本目のヒットを奪った。 浦和学院の小島君との対戦は来年も続く。より強くリベンジを誓うのは2安打を喫した小島君か、決勝戦で勝てなかった渡部君だろうか….
2死ながらランナーを二人塁上に置きこの試合最初のヒットを初回に放った3年生の高梨君が打席に入る。最後の打者になりたくないだろう、次の3年生の小寺君に回したいだろう、それともまだ出番がないベンチにいる3年生に act bat のチャンスを創りたいか…. しかし0-1 から打った打球はセカンド津田君の前に転がり万事休す。 浦和学院が春夏連覇に向けて1歩前進した。

決勝戦がこんなに大差がつくとは想像できなかったなぁ~。
やはり準決勝戦が一番の山場だったんだろうなあ~…….

7月下旬、取引先の方から携帯に連絡が入った。“土曜日、大宮に行かれますか?” その方は聖望学園野球部OB。現役時代は残念ながら甲子園の土を踏む事は出来なかったけど御嬢さんがマネージャーとして甲子園にチームと帯同し、ベンチ入りをされたらしい。 事実上の決勝戦になるかもしれないですね、ご一緒させてくださいと答えた。 でも選抜優勝を果たした浦和学院相手に自信は無かったらしい……

7月26日、この日も埼玉県は暑かった。 運動公園内に入り県営大宮球技場に近づくにつれて人通りが多くなる。そして球場の切符売り場の前は長蛇の列。 さすが準決勝戦ともなると違うなぁ、と思う。さらに真夏の球宴という大会プログラムも販売されていた。 




球場内に入ると観客席はほぼ満席。 ここでも準決勝戦と2回戦の違いを感じさせられる。 取引先のKさんに電話を入れると放送席の横の日陰のところで立ってみているとのことでそこに向かう。 球場全体が見渡せ、直射日光も避けられるのでなかなかいい場所だった。 
“スポーツ御宅”の私はさっそく両チームのこれまでの戦績をまとめたものを見せる。まぁ仕事だとここまで下調べなんかしないけど、好きなことは…

“やっぱり、寺田、田畑はよく打っていますね~。“前の市立川越戦で本塁打を放った二人を指して言った。 
そしてこの日の先発は準々決勝で完投した川畑君でなくて長谷川君だった。それをKさんに尋ねてみると
”小島は対浦学戦連敗中なんでよ。“と教えて貰った。 昨年の選手権埼玉県大会決勝戦、そして昨年埼玉県秋季大会準決勝でも両校は対決しいずれも浦和学院が勝利を収めている。 その時の聖望学園の先発投手は小島君。いつも全国大会一歩手前でたちはだかった浦和学院相手に今年こそとの思いは小島君をはじめ聖望の選手達は強かっただろう。
ベンチ入りメンバーの中でもサードの中村郁人君以外はみな3年生との事だった。
対する浦和学院はベンチ入りメンバー20人のうち1,2年生が3人ずつ入っている。
投手の小島君もその一人だ。

4回戦の途中まで出場していた1塁手の案随君に就いてKさんに尋ねた。草加西戦で怪我をしたらしい。以降は背番号17番の高橋君が1塁を守っている。 今のメンバーの特徴は地元“飯能市”の中学から4選手が入っている事らしい。他にも埼玉県下から9人。東京都から練馬、東村山の沿線組2人を含めて4人と強豪私学ながら“地元色”が強いメンバー構成だった。ただ投手の川畑君は滋賀県出身だけど。 
浦和学院は12人が県外選手。まぁ8人の埼玉県下選手の中でも朝霞、上尾、富士宮、東浦和といった通学県内の選手もいるけど…..

ここまでの5試合、聖望学園はのべ15選手を起用しているけど浦和学院は12人。
“けっこう浦学はがちがちで来ていますね。”とはKさんの印象。 聖望学園は3年生ばかりだからかなぁ…..
浦和学院の中心選手達は当然の様に選抜優勝メンバー。 贄君が怪我でスタメンから外れているけど、彼の穴埋めを担うのは何と1年生の津田君だ。 半年前まで中学生だった選手が….と感心してしまった。

今年の選抜では浦和学院が優勝を果たしたけど、平成20年は聖望学園が準優勝を果たしている。その年の選手権は第90回記念大会だったので埼玉県からは2校出場枠が与えられたけど、出場を果たしたのは浦和学院と本庄第一。

平成11年聖望学園が選手権に初出場を果たした時の埼玉県大会の決勝戦の相手が既に4回選手権に出場経験があった浦和学院だった。 そしてこの時の聖望学園に現在阪神タイガースの中心選手鳥谷がいた。両校は本当に良いライバルなんだなぁと改めて感じた。

先攻は浦和学院。準決勝の埼玉平成戦では2安打を放った先頭打者の竹村君がアンダースローの長谷川君から 3-2 までボールをよく見て右翼前にヒットを放ち出塁する。続く服部君は蕨戦から2番に入っている。
早くもバントの構えを見せるが1-2からバントを失敗し 2-2 後の5球目、エンドランがかかっていたのが外角低めを空振りし、スタートを切っていた竹村君が2塁で刺され、無死1塁から2死走者なしとなってしまった。 
背番号12番の捕手の岩本君が取ってから良い送球をセカンドに送った。 元々1塁手だったらしい。聖母学園としてはここは3人で終わらせたかっただろうけど平成埼玉戦では4打席無安打だった主将の3番山根君が 0-2 からライト前に打ち返してまたもランナーを出した。しかし4番高田君が3-2 から高めのストレートで空振り三振に討ち取られ初回先制は成らなかった。4番の高田君、蕨戦、埼玉平成戦とヒットが無いのが気になった。だけどさすが浦和学院打線は長谷川君に初回から20球投げさせた。

後攻めの聖望学園、マウンド上には浦和学院エースの小島君が。これまで連敗中の小島君相手に先制が奪えるか?準々決勝までのチーム打率は 0.348 これは浦和学院の 0.301 を上回ってはいるが。 

先頭の清水君が初球を打ってセカンドゴロに打ち取られ、2番笠原君が1-2 からレフト前に打ち返し出塁する。 これで笠原君は今大会6試合連続ヒットだ。 
“彼の構えを見ていると本当にぶっ飛ばしそうですね。”とKさんに話す。空振りが2回あったけど当たれば飛んでいきそうな空振りだった。 Kさんは“笠原はものすごいパワーヒッターで体格はすごくて筋肉隆々”と教えて貰った。
元々投手として入学したらしいけどバッティングを買われて野手に転向したとのこと。やはり、良い選手はみなエースで4番かぁ、と思った。そして笠原君も地元飯能出身の選手との事であった。

初回の小島君は笠原君にヒットを許したことに動揺したのか前日本塁打を打っている続く寺田君にはストライクが入らず 3-1からの4球目が高く外れ歩かせてしまう。 捕手の西川君がマウンドにより内野陣が集まる。そして浦和学院ベンチは早くも背番号9番、3年生の久保君を伝令に走らせる。

打席には4番中村君が入る。ここまで19打数7安打 .368 であるが前の市立川越戦はノーヒットだ。“送りますか?撃たせますかねぁ” Kさんは少し首をひねった。 初球、2球目とバントの構えから 1-1 となり3球目はバットを思い切り振り、打球は緩い投手ゴロになり結果的にランナーを送ったことになった。
2死ながら2,3塁となり打席には、 5番高橋君が入る。栄北戦、市立川越戦とまだヒットが無い。結局ショートゴロ守備妨害に倒れ絶好機を逸した。 2塁走者の寺田君とショート竹村君が交錯したけど、聖望学園にとってはちょっと不運な打球に見えた。

2回表、浦和学院は先頭の木暮君が 1-1 からライトにライナーのヒットを放つ。 6番斉藤君がボックスに入り、一旦長谷川君がセットポジションにはいろうとするとベンチからタイムが掛かった。 “替えるのかな? 替えますね。” K さんが呟く。エースの川畑君が早くも登板となった。“長谷川君はベンチに下がりましたね。” “川畑で大丈夫かな?浦学に勝っていないから。” K さんが少し不安顔になる。 しかし川畑君は後続を3人で打ち取る。圧巻は斉藤君のバントを投手フライに打ち取ったストレートだった。

浦和学院が2回まで得点を上げられなかったのは今大会初めてだった。

2回裏、マウンド上の小島君はまだ調子が上がらないのか先頭打者の田畑君に 1-2 からの外角高目をライトに運ばれる。 
田畑君は市立川越戦では本塁打を放っている。“彼は色々な大学が狙っているんですよ。” Kさんがそういう逸材だと教えてくれた。 7番の吉田君は初球をきちんとバントを決めて田畑君を2塁に送る。だけどこのバント処理、ちょっと小島君とサードの高田君がお見合いをしそうで危なかった。小島君は後続の岩本君と川畑君を打ち取り得点を許さなかった。 しかしけっこうきつい打球を飛ばされていた。 

両校序盤は無得点ながらもランナーをスコアリングポジションに進めていたけど、打者が2巡目になると途端にヒットが出なくなった。
長谷川君が3,4回と死球でランナーを出すも内野陣が共に併殺打で後続を断てば、小島君はストレートが冴えて来て3回から6途中まで打者12人に対し無安打5三振の快投。 サウスポーが右打者に有効な“クロスファイヤー”が効果的に決まっていた。

そして外野席が解放された。



“これは次の1点が試合を左右しますかね。“ ”その1点が試合を動かすでしょうね。“と言う会話をKさんと交わすほどだった。 
6回裏聖望学園の攻撃は2死から4番中村君、5番高橋君が連打を放つ。そして中村君が3塁に進む。 高橋君は落ちる球を見逃してカーブをうまくレフト前に運んだ。その前にベンチから何やら指示が出たけどそのことだったのかなぁ?3塁にランナーを進めるのは3度目。 そして田畑君がバッターボックスに入った。
“ここは見どころですね。”   だけど軍配は小島君に。初球、2球目とストレートでストライクを取り、3球目外角の変化球に田畑君はバットが付いて行けず空振り三振に切って取った。

7回表、今度は浦和学院が好機を掴む。川畑君が先頭の高田君を歩かせると続く木暮君が初球送りバントを決め高田君が2塁に進む。 2回以来の2塁走者となったが川畑君が踏ん張る。 後続の斉藤君はストレートで、西川君は変化球でそれぞれ三振を奪い得点を許さなかった。 川畑君は斉藤君を迎える前にスパイクの紐を結びなおすなどして“主導権”を握り続けたのは見事だった。 

8回表、またも聖望学園がチャンスを掴む。 先頭の左打者吉田君が初球、内角高めのストレートを叩くと打球はぐんぐん伸びでライト斉藤君の頭を越えてワンバウンドでフェンスに。 吉田君の見事なスタンディングダブルであった。 そして8番岩本君が初球、送りバントを決めて1死3塁とチャンスを広げ打席に投手川畑君を迎えた。 最初の打席では打ち取られたがセカンドライナーの打球は鋭かった。 
“スクイズありますかねぇ?” K さんは“小島君から点を取るのは難しいから….”と言われた。

小島君はサウスポー。3塁走者の動きは見えない。 浦学バッテリーはバントの構えから入る川畑君に初球は内角にボール球。2球目はアウトローにストレートでストライク。 よくこの場面、アウトローでストライクを取れたなと思った。3球目は釣り玉の様な高いストレートだけど川畑君は振らない。4球目のストレートを川畑君は強振して1塁後方にファール。これで2ストライクになりスクイズはやりにくくなった。そして5球目、バントの構えから強振すると鋭い打球が快音を残して飛ぶが前進守備のセカンド津田君の正面に。 観客席から溜息が漏れた。 



2死となったがまだランナーは3塁にいる。そして打順が1番の清水君に戻る。 清水君はこの日そして市立川越戦でもヒットが出ていない。
小島君の初球、ストレートはファール、2球目もストレートで空振り、たちまち追い込まれる。サードランナーの吉田君がスパイクの紐を結びなおして間を開ける。 3球目アウトコースのスライダーは見送り、4球目インコースの変化球も見送った。 浦学バッテリーとしては振って欲しかっただろう。 そして5球目。インコースのストレートを強振すると打球は詰まってセカンドの前に落ちる。 津田君がうまくさばいて何とかピンチを凌いだ。 清水君必死のヘッドスライディングだったんだけど…..

8回表、今度は打者小島君がレフト前に弾き返し2回以来のヒットで出塁し、続く津田君の送りバントで2塁に進むが後続を川畑君に討ち取られれば、8回裏は小島君が2番から始まる聖望打線を三者凡退に打ち取り9回表を迎えた。

3番の山根君から始まる好打順。広島出身の山根君の母親がスタンドで応援している事を後で知った。その山根君は 0-1 から川畑君の 101球目をレフト前に打ち返し出塁をすると4番高田君をバッターボックスに迎える。 しかしここは手堅く送りバント。高田君は1度は失敗するも 1-1 から送りバントを決め山根君を2塁に送る。続く木暮君は最初はライト前ヒットを放っているが投手が川畑君に替わってからは、死球、送りバントだ。 2-1 から引っ張った打球は3塁線沿いに飛ぶがサード中村君の正面に。ランナーは進めずアウトカウントが1つ増えた。 2死2塁になり聖望ベンチは背番号2番、中島君を伝令に走らせる。 マウンド上に輪が出来る。 この回を凌げば9回裏サヨナラがあるかもしれない、後攻めが有利になってくる。

次打者の斉藤君はこの試合まだヒットが無い。初球は外に逃げる変化球をバットに当ててファールにした。そして2球目の構えに入るが2塁に疑投をして間を取る。浦和学院の応援団のボルテージが上がる。そして小島君が投げ込んだインコースの低めを斉藤君がしばき上げる様にバットを振ると打球は右中間に深々と飛ぶ。 
山根君が生還し待望の“先制点”が最終回に入った。

私が好きだった往年のジャイアンツとロッテで活躍した山本功司のバッティングを見ているみたいだった。

殊勲の斉藤君が3塁塁上でガッツポーズを取る。 浦和学院応援席は狂喜乱舞している。 隣のKさんが天を仰いだ。






“まだわかりませんよ。3塁ランナーをホームインさせないようにしないと。1点ではわかりませんよ。”と声を掛けた。
川畑君は次の西川君をショートゴロに打ち取り追加点を許さなかったけど、本当の痛恨の1球と感じただろうなぁ。

走って右翼の守備に就いた殊勲の斉藤君に浦和学院応援団から“リョースケ~!リョースケ~!”と歓声が飛ぶ。“プロ野球みたいですねと”Kさんに言うと苦笑いを。 “小島はまた浦学に負けるんですか…” いやいや、まだわかりませんよ….といったけど。

9回裏の聖望学園は前の打席でヒットを打った先頭の高橋君がセカンドフライに打ち取られ、続く田畑君が死球で出塁する。 そして前の打席で2塁打を放った吉田君がボックスに入る。吉田君はバントの構えからヒッティングに切り替えるが小島君はストレートで 1-2 と追い込む。それでも吉田君はバントの構えを崩さない。 
しかし 2-2 から小島君の投球を外野に飛ばすが服部君が左に走って打球を掴む。
2死となるがまだランナーは2塁に残っている。この日ノーヒットの岩本君に巡るがそのままボックスに。代打はいないのかなぁ…そしてマウンド上には内野陣が集まった。伝令も走ったのかな....

初球、2球目とアウトコースにストレートでストライクを取る。3球目の変化球はバットに当てる。そして最後は高めのストレートで空振りを誘い激闘に終止符が打たれた。 

“残念でしたね。” “いえいえ。お付き合いいただいてありがとうございました。” こう言い残してKさんは立ち去った。おそらくOB会の人達とこれから….. “月曜日に注文書を入れますから。” こういったときは仕事の顔に少し戻ったみたいだった。

グラウンドでは森監督のインタビューが始まっていた。 川畑君の投球内容をしっかりと称えていた。あぁ紳士なんだなぁと感じた。



暑さで第二試合を観戦する元気は無く、すぐに帰途に就いた。家に帰り、決勝戦の相手は川越東になったことを知った。

川越東かぁ…よく打つから今度は打線が奮起しないとなぁ, と思った。 そして試合内容はその通りになった。

決勝戦はテレビで見た。 表彰式を見ながら、甲子園だったら準優勝おめでとうだけど、県大会だったら優勝と準優勝は天と地ほどの差があるんだなぁ…..と思った。

だけどこれだけは言える。 これからの人生がもっと大事だ。 まだまだいろいろな事がある。 あの年の夏が良かったなぁ~と永遠に振り返るような人生にするなよ… と。


あぁ栄冠は…… 第95回全国高校野球選手権埼玉県大会から

2013-07-27 | Weblog

今日、土曜日は会社が休みなので終日自宅にいたけど、終日クーラーは入れずに済んだ。 最高気温は31度程度だったらいいけど涼風がほぼ終日吹く7月中旬にしては快適な1日だった。

先週末は月曜日が海の日だったので3連休だった。 ここに引っ越してきて15年が過ぎたけど、ようやく初めて高校野球の埼玉県大会の観戦をすることが出来た。 そうようやく、毎夏見に行きたい、行きたいと思い続けて。
高校野球となると甲子園球場で開催される選手権や選抜大会が国民的行事の一つとして関心を寄せている。 しかしここに出てこられる球児はほんの一握り、ここに出て来るまでに様々なドラマがあるのは誰もが知るところだ。

高校時代を京都西高校で暗黒の日々を過ごした私であるが、3年になった時は同級生達が力を付け秋の近畿大会に進出した。
私は滋賀県の皇子山球場に応援に行ったけど大阪代表の上宮高校に敗れ選抜まであと一歩及ばなかった。

そして翌年の夏は本当に甲子園の銀傘を野球部でない私でさえ大いに期待した。改装前の西京極球場に同級生達の応援に駆け付けたものだった。しかし東宇治高校に惜敗を喫し、夢は叶わなかった。その東宇治高校が当時列強だった京都商業を決勝で破って甲子園出場を決めたのは驚きだった。

大学に進学すると更に何故か母校への愛好心が加増大し西京極球場や宇治黄檗球場に何度か応援に行った。 その際比較的ヤンキー系だった同級生数人と再会しなんだかうれしくなった事を思い出す。 そして大学在学中に遂に母校、京都西高校は選抜、選手権に進むこととなり甲子園の土を踏む事となった。大学進学後には陸上競技をしていた私は母校の進撃に大いに奮い立たされた。
甲子園に応援に行ったときはまだ高校で教鞭をとっていた先生達が親切にもアルプス席の入場券をくれたり京都までの移動バスに乗せてくれたり、更に高校時代はほとんど話したことが無かったヤンキー系や野球部員だった同級生と再会して本当に良い思い出になった。

春日部工業 6-2 大宮開成

この日は午前6時でも気温が30度以上に達する猛暑日だった、自宅から自転車で約半時間を掛けて越谷野球場に到着した時はもう第一試合は4回表に進んでいた。 先攻の春日部工が 2-0 とリードしていた。そして1死から9番井出君がヒットで出ており打順は1番の左打者川田君にかえっていた。 下位打線がチャンスを創り上位打線に繋ぐという理想の展開だった。
春日部工ベンチはここは送りはせずに強硬策。それに応えた川田君はライト前に弾き返し1,2塁とチャンスを広げると2番の石井君がインコースを叩き打球はライトを越え2者を還す3塁打となった。 これでリードは4点となった。

更に大宮開成の先発投手田中君は続く鳥海君を歩かせ。4番の染谷君にはぶつけてしまい満塁とピンチを広げる。 変化球のコントロールに苦しんでいたみたいだったが彼に限らず高校生は変化球でストライクを取れるかどうかで大きく違ってくるらしい。
春日部工は満塁で追加点のチャンスだったけど後続が早打ちをしてこのイニングに5点目は取れなかった。 大宮開成としてはちょっと助かったのではなかったか。
前のイニングには強硬策が功を奏してその後は裏目に出た春日部工だったが5回表は先頭打者の清田君がセーフティーバントで出塁すると8番繁田君が初球んい送りバントを決め大宮開成内野陣を揺さぶる。続く出井君はまたも初球を打ってショートゴロに倒れるが1番の川井君は前の打席とは異なりレフトに流し仕打ちも1,3塁としこの打席でもチャンスを広げ、前の打席で3塁打を放った石井君を迎える。 しかし石井君の打球はやや強めの内野ゴロとなり、ショートの吉田勇君がしっかり回り込んでボールを掴んでセカンドにトスをしてここは田中君が踏ん張り打ち取ったかに見えた…がセカンドの野崎君が送球を落としてしまい、5失点目を喫してしまった。 気落ちしたか田中君は続く鳥海君にも1-0 からレフトに弾き返されたけど4番染谷君が 1-2 から打った強いゴロは今度もショート吉田勇君が回り込んで今度は1塁に送球して何とかピンチを凌いだ。大宮開成にとっては失策からの痛い失点だった。

しかし痛い失点は次の回も喫してしまう。 大宮開成は6回から田中君に代打を送ったことから2番手投手志賀君を投入した。
緊張のせいか先頭打者の渡辺君を歩かせる。 続く芳賀君はきっちりと送り、更に続く7番清田君がセンター前に弾き返される。
攻守を見せていた吉田勇君は打球が走者と重なり追いつきながら取れなかい不運もあったけど。 続くスクイズを敢行した8番の繁田君の打球はフライトなり志賀君がしかっかりとキャッチし2死にこぎつけた。 続く9番出井君の打席 0-2 から1塁走者の清田君が飛び出し牽制球で刺されそうになるがそのランダウンプレーの間に渡辺君が先にホームを踏み春日部工に6点目が入った。
何故先にホームに泣けなかったのだろう…得点が入る度に春日部工業の応援スタンドからの声援ボルテージが上がってきていた。



一方の大宮開成打線はなかなか春日部工先発の清田君を捉えられない、というよりも早打ちが目立つ。早打ちが悪いというわけではないが4回から6回まで相対した11人のうち4打者が初球打ちだった。 4回裏には6番片岡君が粘って四球を選ぶなどじっくり見ればもっと活路も見いだせると思ったんだけど。 ここでも目立ったのはショート吉田勇君。 6回裏には先頭打者としてセンター前にうまくストレートを打ち返していた。
7回表、2イニング目の志賀君は9番から始まる春日部工打線を3者凡退に切って取る。 センターの吉田啓君、セカンドの野崎君が良い守備を見せていた。 この回の大宮開成の守備には観客から拍手が起こった。

両チームの応援はそれぞれ野球部員が中心となっていた。 その応援団は春日部工の方が圧倒的に多かったけど、声量は大宮開成も決して負けてはいなかった。その中には3年生はいたんだろうなぁ~。

7回表の好守でリズムを掴んだか大宮開成打線がチャンスを掴む。 エラーと石神君が選んだ四球で2死ながら1,2塁とする。

先頭の片岡君から佐藤君、代打の高島君までまたもや3者連続初球攻撃だったが9番の石神君はよく粘って四球を選んだ。
そして打順は1番の吉田啓君が打席に立った。吉田啓君は2-1 から清田君の投じたカーブをうまくライト前に弾き返し2塁走者の佐藤君をホームに迎えいれた。 そして攻守に亘って冴え渡っていた吉田勇君が打席に入る。 これは楽しみなシーンと思うも清田君は吉田勇君の肘にぶつけてしまった。 
吉田勇君はかなり痛そうにしていたけど心中はチャンスが拡がったと思ったのではないかな…ただ後続の落合君は1塁ファーストフライに打ち取られたけど。

8回表も大宮開成はファインプレーが生まれる。3番手下城君から春日部工先頭の鳥海君が投手強襲安打で出塁し代走の阿部君が 1-2 から盗塁を決め、途中から4番に入った里津君が 1-2 からライト前に痛打する。しかし右翼手植村君が素晴らしい返球で神戸君の生還を阻止。 このプレーにはしばらく拍手が止まなかった。

そして試合は 6-1 のまま9回裏を迎えた。マウンドは8回から2番手川田君が登板していた。前の回は3者凡退に切って取ったが最終回、先頭打者の佐藤君が 0-1 からサードゴロに打ち取られる…と思ったけどゴロがベースに当たり幸運なヒットとなり先頭打者が出塁する。 この試合途中からサードに入った神戸君、打球が緩かったのでベースの前で捕球態勢に入らないと…

続く下城君は 0-2 となるも以降ストレート、カーブ、で2-2 とし最後はスレートで空振り三振に。 続く石神君はサードフライに倒れ2死となってしまい、前の打席でタイムリーを放った1番の吉田啓君を迎える。 この打席でも吉田君は見事に右中間に打ち返し1塁走者の佐藤君が長駆ダイヤモンドを駆け抜け躍り上がってホームを踏んだ。 




そして吉田勇君に打順が回る。 これは最後の面白い、いや最後にならないかもなぁと期待したけどバッターボックスには背番号20番の増田君が代打に送られた。 吉田勇君は前の打席で受けた死球のせいでまだ肘が痛むのか、それとも増田君は3年生なのか….増田君は結局三振に切って取られて試合が終了した。 増田君渾身のフルスイングだったんだけど....

サイレンが鳴り試合終了の整列、あいさつが行われる。 握手はしないんだなぁと思った。 ある時雑誌で試合終了後の握手を禁じる県大会があると読んだことがあったけど…..
そして熱心に声援を送っていたスタンドから両校がお互いにエールを送り、スタンドから大きな拍手が湧き上がった。



試合中は暑さを忘れて観戦していたが試合終了と共にどっと暑さを感じ、これはたまらんとばかりに涼と飲料水を求めて球場の外に出た。 アルカリ飲料を飲みながらしばし日陰伝いに球場周辺を歩いていると試合を終えた選手達が外に出て来ていた。 大宮開成の選手達が殆ど泣いているのを目にして立ち止まってしまった。 その涙きっといい思い出になるよ、と思いながら。

春日部工業の選手達はみな笑顔だ。 その笑顔続くと良いね、と思った。 するとAKBみたいな女の子たちの大集団がやって来た。それは次に試合を控える与野高校の Cheer Gils 達だった。 県大会のインターバルは短い、はやく戻らねばと足早にスタンドに向かった……

 

与野高校 7-0 幸手桜

高校野球も歳とともに見方は変わってる。小学校の時は今の様に家庭用のゲーム類があるわけでも無かったので世の野球少年達はプロ野球や高校野球を熱心に見ていた。そしてよく地元高校の勝ち進み具合や話題の選手の事などを話題にしていた。

中学になると純粋な野球少年達は甲子園を夢見て野球部に入部する。私は髪を短くしたり練習中大声をわぁわぁ上げるのが嫌だったので野球部には入らなかった。 同級生達の野球部のレベルはと言うと練習を一生懸命する割にはさっぱり弱く、練習試合を含めて一度も勝った事がなかったらしい。 高校に進学しても野球を続けたのは1人しかいなかった。でも野球部は女の子には人気あったんだよなぁ~。

高校に進学すると完全に高校野球の見方が変わった。 男子校に通う自分はアルプス席に女の子がいればそれだけで羨ましく思い、甲子園球場と言うよりも全国大会でプレーすることがいかにすごいことなのかを痛感させられ、同時に高校野球への興味は一気に薄れていった。

それから30年以上が過ぎた。 今や息子が高校生になるとまた見方が違ってくるのだった….

この日の第二試合が始まる前、そんなことは何となく思い出さされる様な雰囲気だった。 
与野高校は試合前の練習では多くの選手達がノックを受けたりキャッチボールをしている。スタンドもベンチに入れなかった野球部員達にブラスバンドそしてCheer Girls 達まで揃っている。もちとん父兄さん達も少なくない。 

 

そして幸手桜高校の練習が始まったのだが、グランドには10人の選手が散って顧問の先生がノックを始めた。 
与野高校の練習風景とはえらい違いだった。たった10人の選手がノックを受けるのだけど、全員が野球経験者とは言い難かったなぁ。 
未経験者でなければこの4月からボールを握り始めた1年生か…..
違いはグランドだけではない。スタンドに目を向けるとクラスメートか親御さんか10人ほどの“観客”が見られるだけだった。 
これを見た時、複雑な心境になった。まさか目の前では超一方的な展開になるではないだろうかと….. だから心の中で“頑張れよ!”と幸手桜高校ナインに声援を送った。

その幸手桜の先行で試合が始まった。 1番が見逃し三振、2番が当たり損ねのキャッチャーゴロ…これを見た時は悪い予感が更に増大した。 しかし3番窪田君、そして4番武田君が非常に鋭い打球で打ち返す連続ヒットで出塁する。続く永恵君はサードゴロに討ち取られたが連続ヒットを見せられた時はスタンドがちょっとどよめいた。

こうなると今度は守りの方も“予想以上”を期待する。先発マウンドの窪田君はさっきはヒットで出塁した。彼は間違いなく野球経験者だろう。 与野高校先頭の加藤君を歩かせ、続く井上君には送りバントをきっちり決められ1死2塁となりクリーンアップへ。 3番日野君の当たりは討ち取ったと思われたが内野の連携が悪く1塁に生かしてしまい1,3塁となり、更に4番大塚君の打席で 0-2 から日野君に楽々盗塁を許し、大塚君にはセンターに犠牲フライを打たれて先制を許した。 続く小山君はセカンドゴロに討ち取ったけど経験差が露骨に守備に現れた。続く2回裏の守備でも内野安打と失策から2点を失う。ランナーを出してもきっちりバントで送ったり2点目を決めた9番高橋君のスクイズも見事だったけど、失点は守備に拙さからだった。 
更に3回には1死から4番大塚君にセンター越えの3塁打を許すと続く小山君の打球は遊撃手高橋君を襲い内野安打となった。そして追加点が入った。この守備は仕方が無いとしてその後もエラーと言うよりもランナーが1塁にいると2塁盗塁は完全にフリーパス。その直後に与野ベンチはきちんとバントで送ったり更にエラーで3塁まで進塁を許しスクイズやタイムリー安打を喫して追加点を許す。 3回を終わった時点では 6-0 となっていた。得点が入る度にブラスバンドの奏でるコンバットのリズムに乗って Cheer Girls 達が節度あるパフォーマンスを見せる。 
グラウンドもスタンドもちょっと一方的になってきたなぁ~と思いだす。

それでも3回裏は 0-6 とされ尚も1死1,2塁のピンチに9番高橋君の当たりはサード新井君を襲ったがこんどはきっちりキャッチ。サードベースを踏み、1塁に送球し見事に併殺で猛攻を断った。 このプレーには拍手が沸きあがった。 確かに打球をキャッチしたと言うよりも打球がグラブに入ったと言うあたりだったがそのあとのプレーは見事だった。

先発村上君の前に沈黙、とうよりも力負けが目立つ幸手桜打線だったが4回表は3番窪田君から始まる好打順。今度はレフトに引っ張り塁に出ると続く武田君もレフト前に打ち返し無死走者1,2塁とした。 武田君は柔道部か相撲部かといった体格であったが試合前練習を見ているとファーストミットのさばきは経験者であると思わされた。そしてこのバッティングを見るとそれは確信することが出来た。だけど後続は続かなかった。2死を取られた後の7番菅野君の打球は鋭いサードライナーだったんだけどなぁ~。

4回裏も守備の乱れから与野高校に追加点を許す。 先頭の加藤君がこの日2つ目の四球で出塁するとあっさりと盗塁を敢行する。2塁への早急がそれ3塁まで進めるとバッターボックスの井上君がきっちりとスクイズを決めて7点差とした。 井上君はこの日2つ目のバントを決めた。 そして与野高校はこの試合7得点中スクイズで3点を挙げた。

5回表、何とか1点を返して点差を詰めて試合を9回まで持たせたい幸手桜は2死から1番新井君がセンター前に弾き返し出塁する。 窪田君、武田君以外の選手からついにヒットが出た。 続く沢口君が出塁すれば3番窪田君に繋がる・・・だが甘くは無い投手ゴロに討ち取られた。 

5回裏、マウンド上の窪田君は途中から左翼に入った先頭打者の斉藤君をショートゴロに討ち取る。続く代だの山田君には左翼前に運ばれ8番佐々木君がきちんとバントでスコアリングポジションにランナーを送る。 さすがだと思うがここは窪田君が踏ん張り続く高橋君をセカンドフライに討ち取り、この試合初めて与野高校のスコアーボードに0が点灯した。 ベンチに引き上げる幸手桜ナインに拍手が送られる。  

6回表は2安打の窪田君から、さぁ1点還そうと期待が高まるがこの回から当番の2番手小山君の前に期待のクリーンアップが押さえられてしまった。 窪田君はつまり気味の左翼フライ、鋭い打球を飛ばしていた4番武田君、そして続く永恵君も連続三振に討ち取られた。 あぁ選手層の違いが~と、期待の大きかった分残念な気持ちになった。

それでも6回裏、マウンドに上がった窪田君は1番から始まる与野打線を3者凡退に切って取り味方の反撃を待つ。 この時もベンチに走って戻ってくる幸手桜ナインに拍手が送られた。勿論私も。

7回表、この回得点が入らないと幸手桜のコールド負けになってしまう。先頭の奥野君、前の2打席は空振三振であったがこの打席は小山君のストレートを引っ張り見事に右翼前に打ち返す。 先頭打者が出塁し続く菅野君はこれまでノーヒットだが共に当たりは痛烈なライナーだった。しかし初球に送りバントを決め菅野君を2塁に進める。 まずは1点を、まだまだ試合を続けるぞと言うサインだ。 しかし反撃もここまで続く塚田君の打球は外野に飛んだが右翼フライ。そして9番、徳里君はセカンドゴロに倒れ試合終了のサイレンが鳴り響いた……..

試合終了後、与野高校応援団からはしっかりとエール交換の為の声援が幸手桜側に送られる。 幸手桜からは誰もエールの返答を送られはしないことは解っていたんだろうけど。 この行為にスタンドからはよりいっそうの拍手が沸いた。

スタンドで声援を送っていた与野高校の野球部員達がグラウンドに降りて整備を始めた。そうか、勝ったチームが整備をするんだなぁ…
この中には3年生もいたのかな… 

球場外に出ると幸手桜の選手達が出てきていた。主将の永恵君が新聞社の取材に涙をこらえながら答えている。数人の選手が涙を流していた。 この光景を見て少し安心した。 この試合の為に頑張ってきたんだなぁ….と思った。

父兄の一人が“メンバーを組んで試合に出られて本当に良かった。”と語っていた。 幸手桜高校は今年4月に幸手高校と幸手商業が統合して開校した高校と後で知った。 春季大会は1回戦で杉戸高校に 0-14 で負けたらしい。それに比べれば進歩だろう。

“5回を過ぎてからペースを掴んできたのに残念でしたね・”と声をかけると、丁寧に御礼を言われた。

甲子園だけが高校野球ではない。 ここで1勝、いや試合をすることを目標にするのも高校野球だ。ある時期からそういう考えも持てる様になった。 




この日観戦した試合の勝利校、春日部工業も与野高校も次の試合に敗れて4回戦進出はならなかった。
だけど与野高校が3回戦で対戦した川越東は今年の埼玉県大会は準決勝に進出している。 幸手桜戦で先発投手だった村上君はその川越東相手に延長12回まで熱投の激戦の末 2-4 の惜敗だった。 

今日見たこの日が今大会越谷市民球場で行われた最後の試合だった。 来年、またここでどんな熱戦、ドラマが繰り広げられるだろう。

それにしても新設に作られていたミストシャワーは役に立ったのかな…


ロンドン五輪 日英サッカーメンバー決定…  物議を醸す男子の選考

2012-07-10 | Weblog
7月2日、日本サッカー協会はロンドン五輪に臨む男女18名ずつの代表選手を発表した。
女子はワールドカップ優勝メンバーで構成され、23歳以下という年齢制限のある男子五輪チームは前回に引き続き今回も選手選考結果に物議を醸す事になった。

大迫、原口の落選
発表された男子メンバーは下記の通りであった。 

GK 権田 修一(23)(FC東京) , 安藤 駿介(21)(川崎)      
DF★徳永 悠平(28)(FC東京) ★吉田 麻也(23)(VVVフェンロ) , 山村和也(22)(鹿島)
鈴木 大輔(22)(新潟), 酒井 宏樹(22)(ハノーバー), 酒井 高徳(21)(シュツットガルト)
MF 清武 弘嗣(22)(ニュルンベルク) 村松 大輔(22)(清水) 東慶悟(21)(大宮), 山口 蛍(21)(C大阪)     
    扇原 貴宏(20)(C大阪) 宇佐美貴史(20)(ホッフェンハイム)
FW 永井 謙佑(23)(名古屋), 大津 祐樹(22)(ボルシアMG) 斎藤学(22)(横浜M)杉本健勇(19)(東京V)

北京大会では起用されなかった Over Age が2名、徳永と吉田が選ばれた。 他に村松、宇佐美がアジア地区予選の出場暦がない。村松は2次予選のクウェート戦で1試合途中出場を果たしたが最終予選には出場暦は無かった。 Bayern München に所属していた宇佐美はドイツ滞在の為か召集もされなかった。彼らだけではなく4年前同様にアジア地区予選時にはレギュラーで出場暦の乏しい選手が選抜されるという選考結果が気になる。ポジション別に見ると下記の様になる。

GK
権田の選考は誰が見ても予想できたこと。安藤が五輪予選同様第二GKに選ばれたが、2年前のワールドカップの事もあるので本番直前までまだ誰が五輪でゴールを守るかは確実ではない。 
北京五輪予選では最終予選の開始時は山本海人が起用されていたが第五戦で西川周作が起用され最終戦のサウジアラビア戦でも西川がゴールを守り、五輪でも西川が3試合ともゴールを守った。西川は代表の第二GKにまでなっているが山本海人は今シーズン所属先の清水ではまだJ-League では出番が無い。何とか奮起してほしい。

DF
北京五輪では最終予選フル出場だった青山直晃がメンバーから外れた。青山は2009年9月のヤマザキナビスコ杯で大怪我を負って以来満足に試合に出場出来ていない。今シーズンから完全移籍した横浜FMでもまだ1試合2分間しかJ-League の試合に出場していない。まだ26歳、奮起してほしい。そして北京五輪予選ではレギュラーのCBだった伊野波も北京五輪にはなぜか選出されなかった。しかし伊野波は今や代表のCBのポジションを奪おうかという選手。次のイラク戦には起用されるかもしれない。 
長友、森重直人そして吉田麻也が予選では召集暦すら皆無なのに北京五輪メンバーに選抜された。 そして安田理大も4試合ベンチ入りを果たしたが起用されなかったのに選ばれた。安田、森重は“黄金世代”と呼ばれた FIFA U-20 2007 のメンバー。長友は五輪予選時、まだ明治大学の学生であったが五輪前にはFC東京でぐんぐん頭角を現していた。 その後の長友、吉田の活躍を見れば選考は間違って無かったのかもしれない。
今回は左SB比嘉(横浜FM)濱田(浦和)ら予選ではレギュラーだった選手が外れた。 比嘉はタレントが豊富なサイドバックのポジションで Bundesliga で香川に次ぐ著名日本人選手となった酒井高徳が五輪メンバーに浮上して来るにつれて厳しいかと思われた。
濱田は選ばれると思ったんだけど、吉田麻也、SBもCBも出来る徳永ら over age 選手が選考された為に外されたのかもしれない。そして比嘉、濱田ともに所属先では出場機会が少なかったことも寄与したかもしれない。比嘉は1試合14分のみの出場時間。 山村も鈴木も所属先ではレギュラーだ。 しかしこれから両名は代表を目指してがんばってほしい。

MF
4年前に続いてサプライズ選考結果のあったポジション。ただ日本はこのポジションには候補選手が多すぎるから最後に選手を絞るのはいつも難しいと思う。 北京五輪では青山敏弘(最終予選3試合スタメン)、水野晃樹(6試合スタメン)家永昭弘(2試合スタメン、2試合途中出場)そして柏木陽介(5試合スタメン1試合途中出場)ら4選手がメンバーから漏れた。家永は最終予選最後の2試合には召集されず、五輪前には怪我をしており、水野は Glasgow Celtic に移籍が決まっておりそちらへの合流に気を使われたのかもしれないが青山と柏木の(当時)サンフレッチェコンビの落選は本当に驚きだった。 
北京五輪では本田圭祐、梶山陽平、本田拓也、谷口博之そして香川真司がメンバーに選ばれた。 本田圭祐は五輪予選でも5試合スタメンフル出場という実績があったが、梶山は最終予選最後の3試合には召集されず、本田拓也も第4戦のカタール戦は累積警告で出場停止となりその後の2試合も召集されていなかった。 また谷口、香川も北京五輪予選には召集されていなかった。 香川は予選時はまだ18歳であったが 2007 FIFA U-20 には既に出場しており五輪前は所属先のセレッソではほぼフル出場のレギュラー。その後の活躍を見れば選ばれて当然の選手だった。谷口は2006年アジア大会のメンバーでそのシーズンは所属先の川崎フロンターレでフル出場、ベスト11にも選ばれていた。
ただ3連敗で終わった直後には柏木くらいは入れても良くは無かったかなぁ~と思った。
今回は清武、東、山口、扇原らアジア地区予選のレギュラーは選ばれた。宇佐美はその才能はだれもが認めるとこころ。ただチーム戦術、特にコンビネーションがフィットするか心配。 原口、濱田の落選に多くのレッズサポーター達が失望し怒りを露にするが気持ちは良くわかる。 原口は9月のイラク戦を目指し “ホーム”さいたまスタジアムで胸のすくようなゴールを決めて欲しい。 濱田も競争は厳しいがCBのポジション争いに参戦して欲しい。



FW
永井、大津は予想通り。最終予選2試合98分出場の斎藤、1試合7分間の杉本の選出そして大迫雄也の落選は驚きだった。永井、大津よりも大迫の選出の方が可能性高いと思っていたのに。 確かに斎藤は欧州遠征で結果を残し、杉本は高さという選択肢を与えてくれるが大迫が外れるとしたら香川と宮吉が召集されたときと思っていたのに…
( 但し宮吉は代表は1軍、五輪は2軍と発言したので関塚監督は招集しないと予想したけど。) 
永井はスピードを生かすためかスタメン起用は2試合のみだった。大津も招集は3試合のみだったがそれは所属先の Moenchengladbach が使いもしないのに召集を拒否したため。
北京五輪当時でもFWは人材不足で予選に出場した選手で五輪にも選出されたのは岡崎慎司、李忠誠のみ。李忠成こそ4試合スタメンで2得点(アウェーのベトナム戦だけだけど。)を決めたが岡崎の予選でのスタメン出場は最後の2試合、ベトナム戦とサウジアラビア戦のみだった。そして召集暦のない森本貴幸、豊田陽平が選出された。豊田が五輪ではナイジェリア戦で唯一のゴールを決めた。 李、森本、岡崎、惜しいシュートはあったんだけど…
星陵高校時代は本田圭祐の1年先輩だった豊田は北京五輪の翌シーズン愛するサンガに移籍してきた。得点力が大いに期待されたが出場試合数は21に限られ1得点を決めただけで翌シーズンにはJ2だった鳥栖に移っていった。しかしそこで再びゴールを量産、2011シーズンは23ゴールを決め得点王となりJ1昇格の原動力となる。今シーズンも16試合に出場し5得点。更なる飛躍を期待したい。

北京五輪では18人中実に7人がアジア地区予選には出場しなかった選手。今回は Over Age の2選手と宇佐美の3人。正念場だったアジア地区最終予選の後半には出場しなかった選手が更に4選手(酒井高徳、村松、杉本、斎藤)。

4年前は“厳しいアジアの戦いを勝ち抜いた同じ釜の飯を食った選手の団結”を危惧すると“それは日本の体育会の弊害でサッカーには関係ない。”という人もいた。 体育会の弊害って何だ? どんだけスポーツやったことあんのか?って“ジャーナリスト”達一人ひとりに訊きたくなった。 そして3連敗に終わった。 その時はそれ見たことか?と思ったけど、本田圭祐を筆頭に内田、長友、吉田麻也、香川、岡崎、李といった現在の中心選手達は北京五輪経験者という事実を見ればあの五輪は良かったのかもしれないと思う次第だ。ロンドン五輪では1試合でも多く試合が出来ることを願う。



Stuart Pearce 'sorry' for David Beckham over Team GB snub

日本でも話題になっていた64年ぶりに結成された英国サッカー五輪代表チーム Team GB のメンバーが7月2日発表された。そのメンバーは下記の通りだった。

The Great Britain men's football squad for the London 2012 Olympics:
Jack Butland (Birmingham), Jason Steele (Middlesbrough); Ryan Bertrand (Chelsea), Steven Caulker (Tottenham), Craig Dawson (West Brom), Micah Richards (Manchester City), Neil Taylor (Swansea), James Tomkins (West Ham); Joe Allen (Swansea), Tom Cleverley (Manchester United), Jack Cork (Southampton), Ryan Giggs (Manchester United), Aaron Ramsey (Arsenal), Danny Rose (Tottenham), Scott Sinclair (Swansea); Craig Bellamy (Liverpool), Marvin Sordell (Bolton), Daniel Sturridge (Chelsea).


最も焦点となっていた David Beckham は Stuart Pearce五輪チーム監督が3度 Beckham のプレーを生観戦した上で五輪チームにから外される事となった。
“ 私がこのチームの監督の任務を与えられた時には選手達のフォーム、フィットネスそして利用の可能性を見て来た。その点から言うとこの五輪には最高のチーム編成で臨む事だと思う。私は David に対してそして彼が五輪をこの地にもたらす為に行ったことに就いては大変な敬意を払っている。“こういった後に続けてこう付け加えた。 ”私が決める事は football のグランド内に起こりうる事に対してであり、誰が好みか等という個人的な事は関係がない。 これは選考でき得る最強のメンバーである。チケットの売り上げや商品の販売の観点から言えば私は football に関わる人間だ。自分の意見に忠実でなければならない。 David には気の毒な結果となった。これが彼にどういう意味か良くわかっている。私はそれを充分に理解している“ と語った。



Pearce 監督の選んだ18選手の中には5人のウェールズ選手がいた。そして北アイルランド、スコットランドの選手はいなかった。 Pearce 監督は国籍は選考の対象にはなっていないと語った。

Beckham の選考、Gareth Bale の負傷による離脱を経ての最終メンバー18選手の選考は Pearce 監督にとっては“ not been easy task : 辛くて骨の折れる任務”だったとの事で over age 3選手はRyan Giggs, Craig Bellamy そして Micah Richards とした。そして23歳以下の選手の中で所属クラブでのスタメンレギュラー選手はほとんどいなかった。 

Manchester UnitedのTom Cleverley, Chelsea の左SB Ryan Bertrand, Swansea のMF Joe Allen そしてArsenalのAaron Ramsey らは選考から外された。そしてSwansea から3選手が選ばれChelsea の Josh McEachran は昨シーズンローンで Swansea でプレーしたが五輪メンバーからは除外された。

兄の Martin がパラリンピックに出場するScott Sinclair もメンバー入りし兄弟での五輪出場を決めた。
この大会に自分の選手団を決める事は容易な任務では無かった。そしてこの大会のステータスとユニークさは私が行った全ての選択の重要性を強調させている。“とも語った。
チームは7月8日にメキシコと親善試合を行い7月20日にはブラジルと親善試合を行う。

Ryan Giggs wrecks David Beckham's Olympic dream

発表の4日前既に Stuart Pearce 監督は最後の Over Age 枠を Ryan Giggs か Beckham かの選択の結果David Beckham の Team GB 入りの可能性が無い事を決めていた。最後は Manchester United の元チームメイト同士の争いとなったらしい。
その結果を受けてBritish Olympic Association の私の尊敬する Lord Coe こと Sebastian Coe 会長は早速 Beckham にはフィールドの外で五輪の為に色々役立って貰おうとその機会を探る事にしたとの事。
4月に Pearce 監督はアメリカに赴き Beckham と話し合い彼をチームに入れる事は何の保証も無いと話した。“彼は偉大な親善大使であったがチームに入れると言う保証は何もない、フォームやチームに入れるメリットだけを考える。 David Beckham も他の選手と全く同じ様に over-age か若い選手かと選別される選手の一人だ。”と言われていた。

Pearce 監督が Beckham 18人で構成されるチームに入れる余地が無かった理由は攻撃と守備のオプションを考えるとManchester City のMicah Richards とLiverpool のCraig Bellamy の2人を over age として選出し最後の over age 枠を Beckham と Giggs で“争う”事となった為だった。
Lord Coe 会長は Beckham をロンドン五輪の number one サポーターと言っていたそして Beckham の代表漏れに何の警告を発しなかったロンドン五輪委員会はすぐに彼を親善任務に含める、 Beckham を7月27日の開会式に出席して貰うと語っている。
Beckham と Coe は2012年の五輪開催地を決める2005年シンガポールで開催されたOlympic Congress そして2018年のワールドカップ開催国を決めた FIFA の総会で共に開催権利を得る為に共に闘った。
“ David は大変なサポーターだ。恐らくナンバーワンのロンドン五輪サポーターだ。まさに開会直後から最後まで熱狂的にサポートをしてくれるだろう。 彼はロンドン東部の出身だ。そして五輪の重要さと若者にどれだけスポーツが重要かを知っている。彼は偉大な任務のモデルで我々は彼の様な支持者を得られて幸運だ。私は彼と出番に就いて話し合うだろう。



Beckham が Pearce からチームに入れない事を知らされた時は大変失望していた事を認めた。
Pearce 監督は充てにしていたDF選手達が怪我や EURO に選ばれた為にDF選手のカバーが急務であった。
Phil Jones, Martin Kelly, Kyle Walker そして Chris Smalling らが候補選手であった。Richards は長い間 Pearce 監督が欲していた選手だった。Richards は EURO2012 の前のオランダ戦を前に代表から外れたので今回の選出の運びとなったらしい。
また Hodgson 代表監督が Daniel Welbeck を EURO2012に選んだのでストライカーの over age 選手が必要となった。そして Pearce 監督の選手のコンディション具合を重要視するという事から Joe Cole, Adam Johnson そしてFrank Lampardらも対象外となった。Manchester United のWelbeck は EURO ではワントップのレギュラー選手だった。
Spurs のGareth Bale, Chelsea のFW Daniel Sturridge そしてBirmingham City のGK Jack Butlandらはチームの中心選手と予想される。
Everton のMF Jack Rodwell は怪我の為に Team GB には選ばれなかった。
英国五輪代表は開会式の前日の7月26日にOld Trafford でセネガルと初戦を行い29日に UAE を聖地 Wembley に迎える。 
“誰もが祖国の為にどれだけ闘うかが常に私にとってどういう意味かと云う事を皆知っている。だからこのユニークな Team GB に選ばれる事は栄誉であった。勿論私はがっかりしているが恐らく私ほどチームをサポート出来る選手はいないだろう。他の誰もが願う様に私もチームが金メダルを勝ち取る事を願っている。
ロンドン出身者としてオリンピックを祖国に持ってくる事に少し従事出来た事を誇りに思う。そして開幕が待ちきれない。“
以上の様に語った。



London 2012: Chelsea put health of Daniel Sturridge first

EURO2012 が終了し発表された Team GB のメンバーを見て UEFA Champions League のタイトルを勝ち取った Chelsea の Roberto Di Matteo 監督は心配がシーズンを終わらせれくれないといった困惑。
EURO2012 に選出されなかった Chelsea でプレーする21歳のFW Daniel Sturridge が五輪代表に選ばれたが Sturridge はその前の週からシーズンの疲労からか床に伏せていたらしい。

“最も重要なことは健康状態だ。 彼が100%健康状態で Sturridge 自身が五輪チームに合流できるのであればわれわれは Stuart Pearce 監督に全面的に協力したい。Daniel も Ryan Bertrand も召集されている。そして五輪チームに選ばれることは選手達にとって偉大な機会である。チームの監督としてはシーズン開幕前には選手達を手元に置いておきたいが、何人かの選手は五輪にいて選手達もそれを望んでいる。スペイン五輪チームには Oriol Romeu とJuan Mata が召集されると言われている。選手達にとっては逸したくない機会だ。多くのクラブが我々と同じ状況下にある。選手達の所属するチームがどこまで勝ち上がるかによるが常に代表チームとの兼ね合いのジレンマに陥る。そして8月には国際親善試合も組まれている。( England は8月15日にイタリアとスイスのベルンで親善試合が組まれている。”
Oriol Romeu とJuan Mata の召集はワールドカップ、欧州選手権に続く五輪金メダルの“3冠”を狙うスペインにとっては必至であると思われるらしい。

Daniel Sturridge may have to withdraw from Team GB

Team GB はLoughborough で7月6日ごろから合宿に入りその後スペイン合宿に入り7月20日にはMiddlesbrough のRiverside Stadium にブラジル五輪代表を迎えて親善試合を行う。
まだ Sturridge の Team GB からの辞退は決まっておらず Pearce 監督はリザーブメンバーとの入れ替えが可能な7月25日まで最終決定を延ばすつもりだ。
最終メンバー発表のあった翌日の7月3日時点では Sturridge はまだ病に伏せており Chelsea のクラブドクターと専門家が様子を見て経過を報告する事となっていた。 彼の状態は24時間後には回復していると信じられていた。



7月3日時点では公になっていなかったが Standby List に入っている4選手はNorwich City のDF Ryan Bennett, Reading のGK Alex McCarthy, the Huddersfield Town FCのストライカー Jordan Rhodes 、Crystal Palace のウィング Wilfried Zaha と思われた。 Rhodes か Zaha が Sturridge と替わって選ばれる候補と考えられている。
Standby List の候補選手だった Tottenham Hotspurの Gareth Bale は背中の負傷で、また Bale のチームメイトであった Kyle Walker とManchester United のDF Chris Smalling も相次いで負傷で離脱して行った。



Ryan Giggs to captain Team GB's Olympic football team



Pearce 監督は Team GB の主将に38歳の Ryan Giggs を任命した。
ウェールズ国籍のGiggs にとって選手キャリアーの中でもロンドン五輪は最高の国際舞台。
“明らかに五輪チームに選ばれたことは偉大な名誉である。 Stuart Pearce は私にキャプテンを任命してくれた。これは更に私にとって良いことで良い事で、非常に楽しみでもある。 それはユニークな経験で私がこのチームの一員になれればと思った時に考えたことだ。五輪が近づくほどにエキサイトして来て、メンバーの発表があった時に本当にチームの一員になれたことに誇りを持った。我々は金メダルを勝ち取ることを臨む。それは他の選手達が望むことでもある。選手達は勝者になり、好成績を残したいと思う。みんな金メダルを願う。それはタフなことだ。なぜなら他の国も優秀な選手を集めて大会に臨むからだ。タフな大会になると思うけど我々にもチャンスはあると思う。 ”
落選した Beckham については“ Devid には残念なこととなった。友人として彼を気の毒に思う。 選手としてはこの得られた経験とやろうとしたことをただ楽しみたい” と語った。



Chelsea's Juan Mata in Spain's preliminary squad

日本の初戦の対戦相手スペインのメンバーはかなり強烈である。
Juan Mata, Jordi Alba そして Javi Martínez といった EURO20120 優勝メンバーが候補に入っている。
Mata はChelsea のMF, フルバックの Albaは来シーズンから Valencia からBarcelona に移籍金€1,400万 ( 約14億円 ) で移籍が決まっている。共にEURO の決勝戦でゴールを決めている。
Athletic Bilbao でプレーするJavi Martínezも EURO2012 の Ireland 戦に出場しており FIFA World Cup 2010でもメンバー入りし1次リーグのチリ戦で Xabi Alonso に替わって投入され20分間プレーした実績を持つ選手。 
“五輪チームを代表チームと同じ潜在能力があると見積もるのはちょっとフェアーではない。チームはフル代表チームと同じ概念と特徴を持っているが、代表とは異なったチームでまた違ったプレッシャーを受けるだろう。 ”と語るのは Luis Milla スペイン五輪チーム監督。 現在候補選手22名を選抜し18名に絞り込むが、候補選手の中にManchester United のGK  David de Gea, Chelsea の MF Oriol Romeu そしてFC Barcelona 所属の Martín Montoya, Thiago Alcãntara そしてCristian Tello らが入っている。 



所属クラブを見ると名前負けしそうであるが、日本五輪チームには是非健闘を期待したい。
1979年日本でワールドユース大会、今の FIFA U-20 が開催された。初めて自分が見る日本が参加するFIFA 主催の大会を非常に楽しみにしていた。その日本の初戦の相手がスペインだった。個人の技術では圧倒的に差があるのは試合を見ていてすぐにわかった。それでも日本はグラウンドを良く走り回りスペインに決定機を作らせなかった。しかし後半にミドルシュートを決められそれが決勝点となった。 日本は決定機を作れず 0-1 という得点差以上の差を見せられた気がした。
丁度日本のワールドカップデビュー戦、フランス大会のアルゼンチン戦を見終わったときにワールドユースのスペイン戦を思い出した。 その後日本はアルジェリア 0-0 メキシコ 1-1 と引き分け目標だった準々決勝進出はならなかった。 準々決勝にでられたらマラドーナ、ラモン=ディアスらのいたアルゼンチンとの対戦が待っていたのだけど。
7月25日、 Glasgow で日本はスペインと対戦する。スペインの最終メンバーはまだ決まっていないけど出来れば日本も中村俊輔を使えないか? 彼なら Glasgow でばんばん直接FKを決めてくれるぞ??


これぞワールドカップ !!! Ireland 15-6 Australia 17th Sep. 2011

2011-10-11 | Weblog
腕時計のデジタルはもう77分を過ぎていた。Wallabies はもう Ireland ゴールの数メートル手前まで何度も迫っている。スコアーは15-6 で Ireland がリード。ここでWallabies がトライを決めてもまだ追い付けない。すると Cooper のパスがこぼれてそれを拾った⑭ Tommy Bowe が一気に右サイドを駆け上がる。周囲の Irish 達は大歓声を上げる。トライ寸前に何とか追い付いた⑭ James O’Conner がタックルに入り食い止める。競技場内に大きな嘆息が漏れる。もうこの時点でWallabies の勝は無いと多くの人が思っただろう。席を立つ Aussie 達が出て来た。
そしてノーサイドのホイッスルが鳴った。グリーンの一団が狂喜乱舞する。あぁこれが世界のトップクラスの闘いかぁ… と少し羨ましく思った。

前日深夜にハミルトンから帰って翌日はもうチェックアウトせねばならなかった。シティのホテルにはもう空き部屋が無かった。Aussie達に占領された様だった。
でも次の日は早朝のフライトでニュージーランドを脱出せねばならなかった。だから空港近くのホテルに宿泊する事にしていた。
前日All Blacks に 7-83 で大敗したけどこの日も日本代表のレプリカを着て外に出た。例え負けてもレプリカを脱ぐ理由などどこにも見当たらない。負けて脱ぐなら最初から着なければ良い。それが私の信念。ワールドカップ参加国として堂々と着てればいいと思っていた。
中心街のお気に入りの寿司テイクアウェイ店で寿司を買って AIR BUS EXPRESS に乗る為バス停に向かった。ところがバスがなかなか来ない。 中心街の Quay Street が閉鎖されてしまったのでバスルートが大きく変わったらしい。30分近く待ってようやくバスが来た時はほっとした……
初めてチェックインした空港のすぐ前のホテルは完成したばかりのモダンなホテル。値段も City Down Town のホテルより少し安いくらい。これから街中なんか泊らずにここに泊ろうかなぁ…と思った。
ホテルで事務処理をしたけどあまりに快適過ぎてあっという間に時間が経ちここ出たくなくなった。 やっぱり職場環境は大切なんだなぁ…..
試合が行われる Eden Park は今回初めて行く競技場。一旦街まで出ねばならないと AIR BUS EXPRESS の停留所に向かった。バス停には Irish, Aussie そしてSpringboks のユニフォームを着た家族がいた。 男の子に“昨年のサッカーのワールドカップは楽しんだかい?”と訊くと“ Yes “ と言うので、”私は日本人だけど、日本は Last 16まで残ったのを憶えているかい?“と訊くと男の子は2人とも頷いていた。するとお父さんが”1995年のワールドカップの日本戦も憶えているよ…” と話しかけて来た。あの時日本はAll Blacks 戦で 145失点だったけど昨日は失点83で済んだよ。と言うと、今大会日本は良くやっている、と言われた…..
Springboks の初戦 Wales 戦の疑惑のPG に就いては触れなかった。前の日に Wales サポータに話題を向けるとに彼らは、
Fxxxing English Referee と吐き捨てる様に言っていた…..

バスに乗り込むと運転手が Eden Park に行く人は途中で下車して下さい…てなアナウンスを行った。 これはラッキーと思うも初めて行く場所なのでどこで降りるべきか解らない。そして乗客も殆どが外国から来ているので同じ事を考えていたようだ。しかしやがて車窓からそれらしい雰囲気が伝わって来た。



緑の集団が目に付く様になって来た。そしてバスが停車し運転手が“ Eden Park の行く人はここで下車ください…”といった内容のアナウンスをし、殆どの乗客が一斉に運転手の方に向かった。彼は丁寧に競技場の場所まで私達に説明していた。 でも本当にすぐ近くだった…



キックオフまでまだまだ時間があった。多くの Irish 達がバーでビールをあおっている。でも半分以上は Irish 系の Kiwi だろうなぁ…と思った。 腹が減っては….と3軒ほど並んでいた中華料理屋の1軒に入った。客はいなかったけど20分もしないうちに Aussi, Irish そして Kiwi 達で一杯になった。 Kiwi 達はAll Blacksのレプリカを堂々と着ている。ならば自分も日本代表を着ていても恥じる事は無いと本当に思った。 中華料理屋は世界中どこでもある。日本人にとっては有難い事だなぁ…..



外は強い雨が降って来た。自分の席は屋根で覆われているかなぁ… と心配になった。そしてこの雨はどちらに味方するのかなぁ…とも思った。
雨が小振りになって来たので店を出て競技場に向かった。 Eden Park を見てその素晴らしさに驚いた。ここがこの国でのラグビーの聖地なんだろうなぁ…と思った。そして競技場の周囲は民家で囲まれている事も驚いた。
中華料理屋ではお茶しか飲まなかったので喉が渇いてたまらならず席に就く前にコーラを買った。 600ml が NZ$4.50 約288円。
日本の定価のほぼ2倍。近所のロジャースの3倍だ…と思った。
席は Category 2 にも関わらず素晴らしく見通しの良いところ。やっぱりラグビー大国は違うなぁ…でも将来 All Whites が強くなったらここで海外の列強とも試合をするのだろうか…と思った。それとも North Shore か Wellington のCake Tin こと Westpac Stadium を使い続けるのか…と関係の無い思いを巡らしていた。



まだ試合開始まで40分近くあったので着席されているところはまばらだったけど私の隣には御婦人が1人で座っていた。どちらからともなく声を掛け合った。彼女は自分が日本から来た事がわかるとまず、地震と津波のことを案じてくれた。それは彼女自身が Christchurch に住んでいた為であった。幸い被災地からは離れていたので被害は皆無に等しかったらしいが、地震当日はかなり揺れて怖かった事や知人の多くが被災した事を話してくれた。 前の週に Christchurch を訪れたけど中心街が全く復興していない姿を見てショックだった。と話すと、復興対策が遅いと彼女も不満を露わにしていた。そして Christchurch での試合は全てキャンセルになって残念。 日本の Pool Match が本当は Christchurch で行われるはずだったんだけど…てな話をした。
彼女は緑のフラッグを持っていたので訊ねてみるとIrish 系の移民らしく、当然この試合は Ireland が勝つチャンスがある。と言っていた。 今年の Six Nations ではフランス、ウェールズに敗れて3勝2敗であったが最終戦の England 戦では 24-8 と快勝を御収めている。Tri Nations を久々に勝ったとはいえWallabies にとってもけっして Easy な相手では無かったはずだった。
スクリーンに映し出される南アフリカ対フィジー戦を見ながらそんな話をした。



Ireland のスタメンは前のアメリカ戦からメンバーを4人替えて来た。注目は⑮ Rob Kearney。⑥ Stephan Ferris と共に 今年の Six Nations では出場機会が無かった選手だ。 ただ Ferris はアメリカ戦でスタメンだった。アメリカ戦ではスタメンでなかった本来のレギュラー⑨ Eio Reddan も① Cian Healy と共に起用された。SOはこの試合も Ronan O’Gara ではなくJonathan Sexton だった。
一方のWallabiesは James O’Conner が8月13日の南アフリカ戦以来スタメンに戻ったが、当初スタメン予定であった⑦ David Pocock, ② Stephan Moore が怪我の為に離脱し替って ②Tata Polota-Nau ⑦ Ben McClaman が起用された。思えばこれがこの試合の苦戦の始まりだったのだろう。結局Wallabies も前のイタリア戦から4人スタメンが替った事となった。
キックオフ時間が近づくにつれてだんだんと客席が埋まりだした。周囲の席も。ある男性が席を1つ詰めてくれ、と彼女に頼んだ。先ほども我々がある男性に頼まれて席を1つずらしたのだがその彼の連れだった。しかし彼女は今度は譲らない。何度も移動をさせられ我々が席を失ってしまうのを危惧してのことだった。 そして我々2人を含めた周囲10名ほど全員がチケットを差し出し座席を確認しはじめた。すると男性の1人が“あなた達の席は L だからもっと前だ。ここはLLだ。”と私達2人のチケットを指した。
あらら、これは形勢大逆転バツが悪い。慌ててこちらが退散する事に。そこで私は“彼女は Christchurch で私は日本から。共に Big Earthquake の被害にあったので、ここは御好意を。”と言うと他の人達も含め多くの人々に大受けした。彼女も笑っていた..そして私達は“本当の席”に着席した。 そこは更にピッチに近く選手達の動きが手に取る様に解る席。うわぁぁぁ~っと2人で顔を見合わせた。それでいてピッチ全体も良く見渡せる。さすが本場の競技場だと思った。
キックオフが近づくがその前にブラスバンドの素晴らしいドリルが披露された。これは見事。彼女にはこれは地元の軍隊のブラスバンドだと教えてくれた。さすが、節度が違うなぁ…と思った。



そしていよいよ両チームが入場し国歌が斉唱される。 後方の Aussie 達が Advance Australia Fair を合唱し出した。
キックオフ直前になると雨が降り出したがこの席の上は屋根からはみ出しておりもろに雨粒が降り注ぐ。
“ Another problem が起こったわ…” と御婦人が苦笑いを….. 

Wallabies のキックオフで始まったこの一戦。雨のせいかボールもピッチも滑り気味4分には Ireland にノックオンがありWallabies ボールのスクラムとなった。そこから Cooper の早い玉出しからWallabies がボールを繋ぎだそうとするが ⑮ Beale に ⑮ Kearney が入れたタックルがハイタックルに取られWallabies がPGを選択しこの試合ではスタメンだった O’Conner がボールをセットする。隣の御婦人は “ Babe, Baby Baby…” と口ずさむ。これくらいは決めるだろう…と思われたPGを O’Connor はポストに当ててしまい先制のチャンスを逸した。この日も Quade Cooper がボールを持つと Kiwi 達から凄いブーイングが飛ぶ…O’Connor はイタリア戦も最初のキックを外した。



しかし9分に再びスクラムで反則を貰って得たPGは正面と言う事もあり難なく決めてWallabiesが先制した。 後ろの Aussie 達は “ Go!! Wallabies !! “ の歓声を送る。 
だがここから Ireland が優位に試合を進める。 Quade Cooper のキック、パスがうまくチャンスに結びつかない。その度に Irish やKiwi 達から拍手が沸く。 そして13分にはPGを得てSexton が決め、17分にはオーストラリア陣中央で得たマイボールスクラムをのチャンスに早い球だしから Tommy Bowe が DG を鮮やかに決めて逆転した。 このDGは大きかったと思う。

Wallabies は強固な Ireland の守備陣の前になかなか陣地をゲイン出来ない。そして Ireland のカウンターも鋭い。ラグビーはあまり解らないがWallabies は中央へ中央へと突破をはかるのに対し Ireland はよくボールを両サイドに散らしている様に思えた。それでも23分には Tommy Bowe のオフサイドの反則を誘い得たPGをO’Connor が決めて6-6 の同点に追いつく。
そしてラック、モールでWallabiesが押すシーンが続いた。このプレシャーが功を奏したか25分には⑧ Jamie Heaslip がラックの中のボールを手で掻きだしたと反則を取られPGを選択する。これが決まればWallabies の再逆転と言うところであったが O’Connor が外してしまった。今大会は England の Wilkinson しかり、Press Kicker がPGや Conversion Kick を外すのが目立っている。

 

そしてこの時間から Ireland のスクラムを含めたプレッシャーの強さが目立ち始める。33分にはマイボールスクラムから反則を誘いPGを得るチャンスを。しかし今度は Sexton がPGを決められない。さっきの O’Connor のPGと言いあまり難しい位置でも距離でもないと思ったんだけどなぁ…雨もやんで上空はあまり風があるとは言えないんだけど…..
そして終盤のやく7分間はWallabies 陣営で試合が進み前半が終わった。  Irish 達の大歓声が沸き上がった。対照的に Aussie 達はちょっとこんなはずでは….といった表情。しかし後半は何とかなるだろう….とみな思っていただろう….

ハーフタイムの間に隣の御婦人や周囲の Kiwi, Aussie 達と話した。御婦人はルール説明の放送を聴くべくラジオを持っておられた。からりのラグビー通だなぁ…と思っていると御主人がラグビー関係の方らしく一般席でない関係者席で観戦されているとの事。Wallabies はオープンに早くボールを回そうとすると Ireland は上手く展開を遅らせている。この日のWallabies はスクラムが今一なので後半はそれが左右するかも…と教えてくれた。そして後半実際にその通りになったので本当に驚いた…
反対隣の老紳士はブリスベンからやって来たらしい。年齢を聞くと80歳。 Rugby League もけっこう見るらしい。
ブリスベンというと今年は洪水があったり大変だったと思うけどいかがでしたか? 3月に Suncorp Stadium で行われた A-League の Grand Final を観に行ったんですよ…てな話をしたんだけどなかなか通じなかった。だから御婦人が改めて説明してくれたら解った見たいだったけど A-League は御婦人も解らなかったらしく上手く伝わらなかった。
あぁさすが Native. それとも俺の勉強不足か….
御婦人はキックの応酬になると面白くなくなるのでそれを案じていた…

後半の開始早々はWallabies の早い展開が目立った。しかし Cooper のチップキックが相手にダイレクトでキャッチされる等この日の彼の出来は今一つ。隣の御婦人も“彼は好きでない…” と言っていた。




そして48分⑤ J.Horwill がオフサイドをとられ Sexton がPGをきっちり決め遂にというかようやく Ireland が再びリードを奪った。
この時点ではまだ Aussie達も少し余裕があったかもしれないがピッチ上ではなかなか Ireland ゴールが遠い。
Ireland は自陣内でもモール、ラックに持ち込み時間をかける。それはWallabies の焦りを誘う為だったのか….



50分にはIreland の Ronan O’Gara が投入されたが SOには Sexton がそのまま残った。 O’Gara の投入が Ireland の勝利を呼び寄せたのかもしれない。 Six Nations では Sexton とO’Gara が共にピッチに立つ事は無かったが8月21日のフランスとのテストマッチは ⑩ Sexton ⑫ O’Gara が共にスタメン出場していた。
53分には Ireland のマイボールスクラムからPGを得たがここは Sexton が蹴りポストにぶつけてしまった。これが決まっていればWallabies は苦しくなるところだったがAussie サポーター達の安堵の声が良く聞こえた。
そしてWallabies の怒涛のオープン攻撃が始まった。Cooper, O’Connro が起点となりボールを展開するが Ireland もタフな守備を見せる。何度かゴールライン直前でストップするシーンがあったがその度に Irish 達が大歓声を上げる。そして スクラムになる度に Ireland ! Ireland !! の大歓声が競技場にこだました。



58分にWallabies は良い攻撃を展開したが最後は② S. Moore がオフサイドの反則を取られたり焦りは払拭できなかった。
翌日のオーストラリア地元紙ではこの日の地元 Kiwi の Lawrence 主審のジャッジを
 “非常に厳格だけど一定していなかった。それが両チーム主将のフラストレーションを呼んだ。”と書かれていたが試合も終盤に近付くとリードを許していたWallabies の選手達が審判の判定に不服そうな表情を浮かべるシーンが続いた。
62分この試合を大きく左右した次の得点が Ireland に決まった。  Ireland ボールのスクラムを3度やり直した末にとうとう Wallabies 側にScrum Collapse の反則が取られた。そしてこれを途中出場の Ronan O’Gara がPGを決めて Ireland のリードは6点となった。まだ時間は20分近く残っていたけど追い付くには 1TG が必要だった。
それだけにWallabies は容易にボールを蹴りだせなくなった。Ireland はボールキープの時間を長く長く取ろうとしている。
しかし Wallabies はマイボールスクラムになっても Ireland のプレッシャーがきつくてボールが上手く出して繋げない。68分またも スクラムでfront-row crumbles の反則を取られ Ireland にPGを与え O’Gara が難なく決めて 15-6 と決定的な得点差にしてしまった。この時点で勝利を確信したか Irish 達はもう狂喜乱舞していた。 



それでもWallabies は相手22m陣内でプレーし続けた。1トライでも還して負けるにしても7点差以内であればボーナスポイントが入る。前に試合で Ireland はアメリカにてこずり勝つには勝ったがスコアーは 22-10 。ボーナスポイントは入らなかった。Wallabiesはこの後アメリカ、ロシアといった格下との試合が続くので1勝点でも上げたいところだった。しかし74分、抜け出したと思った ⑬Faingaa のミスパスで絶好機を逃し、その直後に Drew Mitchell が投入され Faingaa が退き ⑭ Ashley-Cooper が中央に入る。76分には Ireland ゴール1m手前に迫るが Ireland も必死に押し返す。77分Cooper のパスがこぼれて Tommy Bowe が拾い上げ一気に右タッチライン沿いを駆け上がる。 Irish 達が狂ったように送る歓声に乗って Bowe が疾走した…..



試合が終わって、幸福の笑みを満面に浮かべている隣の御婦人と挨拶をし別れを惜しみながら席を立った。
“地震は大変だったと思うけど good luck !!” と言われた。特に私は被災していないけど….
“ありがとう。 Nice Game でした。 Ireland が決勝まで進撃する事を祈ります。“

競技場の内外でそして街中に向かう電車の中でさらに街の中心街で….緑の Irish 軍団が喜びの宴を Kiwi達と一緒に繰り広げていた。 一方の Aussie サポーター達は、“これで準々決勝戦がSpringboks、準決勝戦がAll Blacks になってしまうだろう..” と消沈していた….



Down Town から空港に向かう Air Bus Express はなかなか来なかった。1時間近く待ってバスが来た時は涙が出そうに嬉しかった。そしてシャワーを浴びてベッドに潜り込んだのは午前1時を過ぎていた….

翌日、 Cairns 行きのフライトの中にはWallabies のレプリカを着た人達が10人程乗っていた。
亜熱帯のCairns は雨の Auckland と異なり過ごしやすく良い仕事も出来た。だけどホテルには何故か FOX Sports Channel 1,2 は入っていいたが3 が入っておらずワールドカップのテレビ観戦は出来なかった。でも疲れのせいか夜は早く寝てしまった。

Eden Park で観戦してから数日後に帰国したが日本はラグビーワールドカップの話題がさっぱり上がっていなかった。日本が出場しているにもかかわらず。まだ日本戦が2試合残っているにも関わらず…あの盛り上がりがものすごく懐かしく感じた…..

Wallabies は準々決勝で南アフリカを破って準決勝進出を決めた。次はAll Blacks 戦。事実上の決勝戦かもしれない。 Ireland は Pool League 最終戦でイタリアを退け首位で準々決勝に進んだものの Wales に 10-22 で敗れた。 
あぁ、本当は準々決勝あたりから見たかったんだよなぁ…..

準決勝戦、決勝戦。どんな試合になるのだろう。その前にテレビ観戦出来るかなぁ…




試合は曇りのち晴れ 天気は雨のち晴れのち雨のち晴れのち… Australia 32-6 Italy 11th Sep.

2011-10-09 | Weblog
ワールドカップもいよいよ今日から準々決勝、所謂決勝トーナメントが始まった。
残った8カ国の顔ぶれを見るとこれといった波乱も無く予想通りの顔ぶれとなった。
しかし Ireland が Australia を破ってグループリーグ1位で勝ち残ったので南北半球4カ国がそれぞれ同じゾーンに入ったので比較的下馬評の高かったAll Blacks 、Springboks そして Wallabies が決勝戦までお互いに消しあう事となった。こうなると Wilkinson の調子があがらず苦戦続きだった England が俄然有利になった、しかし今大会台風の目 Ireland も面白い…これからが真のワールドカップと言える戦いが始まるのだと思っていた…だけど俺の予想はこうも外れるとはなぁ....

日本が健闘を見せた時間があったフランス戦の翌日、同じ North Harbour Stadium でWallabies は今大会初戦になるイタリア戦を迎えた。 
この日私は同じホテルには部屋が取れず移らねばならなかった。しかしチェックアウトの際にその事を話すと、
“そんな事は無い空室はたくさんある。宿泊を延長しますか?”と言われた。
しかし次に取ったホテルは徒歩10分もかからないところでキャンセルが効かないと思ったのでその好意には
“ No Thank you “ と言うしかなかった。彼も残念そうに“それではまたのお越しを。昨日の日本は凄かったですね…” と言われた。
滞在中はずっと日本代表のレプリカを着続けていたので街を歩いていると多くの Aussie 達がWallabies のレプリカを着て闊歩しおており彼らに“昨日はナイスゲームだったなぁ。”と声を掛けられた。 
それだけ彼らにとっては“健闘”だったのかもしれない….
次のホテルにチェックインしても Aussie や Kiwi 達にフランス戦の事で話しかけられた…..

街中から前日乗ったシャトルに乗って Stadium に向かったが車中は殆どが Aussie 達。そこにイタリア人が10人程度混じっており日本人は ( 恐らく ) 私だけだったと思う。 バスは北部に向かうのには欠かせない有名な橋 Harbour Bridge を通るのだけどその橋は日本人技師が設計したらしい。この日の地元紙にもこの地域で日本と言えばここの橋が日本人によって設計された事以外はだれも関心が無かったが前日の試合はそれ以来初めて日本に関心が集まった日だっただろう。 
日本ラグビー史で最も素晴らしかった瞬間であった可能性がある…と書かれていた。でもかつては 1989年に Scotland に勝った事があるし 1983年にはアームズパークで Wales に 24-28 と健闘し、かつては England 相手に 3-6 と大健闘した。
それらはワールドカップが始まる前の事であるが世界の列強からすれば小国日本がかつてどんな興隆を見せたなんて関心は無かったんだろうなぁと思った。 そしてサッカーだったら世界に知られているのになぁ….と関係ない事を思い出した……

スタンドはWallabies のサポーター達、 Gold and Green Army で覆われていた。それでもイタリア国旗を打ち振る人達もちらほら目に付いた。 Five Nations への参戦が認められ Six Nations と改められた大会に出場するもイタリアはこれまで Pool Stage を突破したことがない。今大会もWallabies と Ireland と同じ Pool と同組で苦戦は免れない。初戦のWallabies戦では負けるにしても7点差以内で何とか勝点1は上げたいところだっただろう。 
一方のWallabies。ラグビーでは最大のライバルである隣国開催のワールドカップで優勝を飾りたいところ。Robbie Dean 監督は地元ニュージーランド人。史上初めてWallabies 監督に就任した外国人監督となったらしいが、前大会終了後に当然All Blacks の新監督に迎えられると思われていた。しかしN.Z. Rugby Union 協会は準々決勝止まりだったAll Blacks監督であった Graham Henry の続投を決めた。 この発表に地元の人達は大反論を唱えた。当然次は Christchurch Crusaders で指揮を取る Robbie Dean 氏が就任すると思われていたがこの発表後彼は Wallabies の監督に迎えられた。
この一連の当時、私は Christchurch に出張中で、“ Robbie Dean が監督の間は Wallabies をサポートする。”と地元協会の決定に激怒を示すタクシードライバーに出会った。
その翌年の Tri Nations でWallabiesは ホームゲームでAll Blacks を破り Aussie 達が“ Kiwi からの best gift だ。”と Robbie Dean 監督の事を話していた。
それでも次に Auckland で行われた試合ではAll Blacks が勝利を収め、しばらくAll Blacks がWallabies よりも優位に立っていた。今大会の直前に開催された Tri Nations でも8月6日All Blacks は地元でボール支配率ではリードされながらもWallabiesを 30-14で破った。しかし翌週 Springboks とのアウェー戦で 5-18 で敗れると8月27日、最終戦、ブリスベンで行われた試合でWallabiesがAll Blacks を 25-20で破り久々に Tri Nations 優勝を果たした。
この快挙にオーストラリアのマスコミは大いに沸き3度目のワールドカップ優勝をライバル国ニュージーランドで果たす可能性を連日報道していた。



そしてこのイタリア戦のスタメンはブリスベンでのAll Blacks 戦と同じスタメン。④ Dan Vickerman もスタメンに入り James O’Connor はベンチスタート。⑭ Adam Ashley Cooper  ⑬ Anthony Fainaga’a らがスタメンに入った。
そして⑩ Quade Cooper の名前が紹介されると Kiwi 達から一斉にブーイングが浴びせられた。  Tri Nations 最終戦でAll Blacks のDaniel Carter へのラフプレーは大会前から地元紙にずっと報道されていた。
オーストラリアのテレビ局でも “ The worst public enemy と地元では紹介されている…” と報道されていた。



一方のイタリアは② Ghiraldini ⑤ Van Zyl 以外は8月21日に行われたフランス戦と同じスタメンだった。そしてこの日のスタメンの中で日本戦でスタメン出場したのは⑭ Benvenuti ⑧Parisse 主将、⑥ Zanni ② Ghiraldini そして① Lo Cicero の5人だけだった。やはり日本戦はだいぶメンバー落ちだったのかぁ…と後で思った。

着いた席は前日とほぼ同じ2階の最前列。なかなか観易い席だった。そして左隣りには Kiwi の女性が右隣には 2世になるイタリア系 Kiwi 家族がいた。ご夫婦とも2世とのことで一緒にいた2人の御嬢ちゃん達はイタリアの国旗を顔にペイントしていいた。
“昨年のワールドカップでは All Whites と Azzuri とどちらを応援しましたか?”と訊くとどちらを応援したと言う訳ではないけどまさか引分けに終わるとは思わなかった。大会2連覇は難しいと思ったけど1次リーグを突破出来ないとは思わなかったと言っていた。

この日は朝から結構まとまった雨が降っていたが競技場に着いた時はすっかり上がっていた。しかしオーストラリアのキックオフで試合が始まる頃は雨がまた降り出して来た。



3分42秒。早速Wallabies がPGのチャンスを得る。だけどイタリアの⑫ Garcia が倒れている。リプレーを見るとモールの中で⑧ Parisse のかかとが Garcia の頭に当たっていた。距離はあるけどほぼ正面。 Quade Cooper がボールをセットすると会場からはブーイングの嵐。そしてそのPGが外れると今度は大歓声が上がった。数日後地元紙に彼の母親のコメントが載っていた。
元々はニュージーランド生まれの Quade Cooper だけど今大会中ずっとこういう目に会うのかなぁ…と思った。

立ち上がりはイタリアの出だしが良い様に思えた。 ⑨ Semenzato が良いキックを上げている様にも思えた。
そして17分、④Vickerman がオーバーザトップの反則を取られイタリアがPGを得る。ここで決まれば試合が面白くなると思ったけどBergamosso はPGを外してしまった。 その直後、今度は Quade Cooperに入れたGhiraldini のタックルが Late Tackle にとられWallabies がPGを得ると今度はブーイングの中でも Cooper が決めてWallabies が先制した。



昨日のフランス対日本戦同様、プレースキックは大切だなぁ…と思った。
その後もイタリアは何とかWallabies の攻撃を凌ぎ続けたが32分にオフサイドを取られてPGを献上。それを確実に Cooper が決めてリードを広げた。 それにしてもWallabies はキックが目立つなぁ…と思った。
だけどここからイタリアが反撃に転じる。スクラムでもWallabiesを押し込むシーンが続いた。そして36分モールの中のボールを ④Vickerman が脚で掻きだしたとホイッスルが鳴りイタリアがPGを得る。今度は Bergamo が決めてイタリアが 3-6 と差を縮めた。隣のイタリア系家族がずいぶん喜んでいた。 しかし更に彼らが喜ぶシーンが。
前半終了直前、またもWallabies は反則を犯し Bergamo がPGを狙う。
“決まれば同点だ….” 隣の男性が呟くのが聞こえた。 そのPGが見事に決まりそれと同時に前半が終わった。イタリア系の観客達とハイタッチをかわした。 



“あの11番は誰だ? デルピエロか?トッティか?”と言うと結構受けた。 でも今のイタリアのサッカー代表チームにはかつてほど名前が通ったスーパースターがいなくなったなぁ…..
前半のWallabies はちょっとミスが目立った。そしてイタリアの方がシンプルに前に前に進出しようとしている気がした。そしてターンオーバーを取ると素早くワイドにボールを回している印象があった。

後半、何人か選手を入れ替えて臨むかと思ったけど両軍選手交替は無かった。47分に⑬ Fainga’a に替って James O’Conner が投入された。オージーサポーター達からは大歓声が沸いた。 
そして50分にWallabies はワールドカップ初トライが決まった。 自陣からカウンター攻撃に転じ ⑪Digby Iona を起点に ⑮ Beale, ⑧ Samo と繋ぎ最後は③ Ben Alexsander がトライを決めた。カウンター攻撃を食らってもイタリアDF陣もけっこう踏ん張ったんだけどなぁ….だけどこの Conversion Kick は O’Conner は決められなかった。しかしこれでWallabies は落ち着きを取り戻したか猛攻が始まった。55分には Quade Cooper から⑭ Ashley-Cooper にナイスパスが決まりトライが決まり今度は O’Conner が Conversion kick を決め、その3分後には Cooper, Beale, Ashley Cooper と繋ぎ最後は Samo を経由して O’Conner がトライを決め、Goal Kick も自ら決めてあっという間に 25-6 とスコアーが開いてしまった。 
更に67分にもスクラムからの早いボールだしから Cooper、Ioane と繋ぎイタリアの Bergamasco, McLean が追いすがるもそのままトライを許し、O’Conner が Goal Kick を難なく決め 32-6 となった。これでWallabies はこの試合4個目のトライ。ボーナスポイントも得る事に。
隣の男性と言うか家族はすっかりおとなしくなってしまった。とはいっても元々静かだったけど….



何とか1トライを還したいイタリアは75分に Parisse が素晴らしいインターセプトを見せボールを前線に蹴りだす。 Bergamasco が先にボールに追いつくがすぐに捕まり最後は not releasing ball を取られてしまった。これが後半唯一イタリアサポーター達が沸いたシーンだった。



73分から雨がまた降って来て帰りが心配されたがその雨も試合終了までには止んだ。
その後何度かWallabies はチャンスを作ったが最後は反則で相手ボールになる事がありトライは上げられなかった。
そして 32-6 のままノーサイドの笛が吹かれた。 前半こそ苦戦を強いられたけど後半に本領発揮と言ったとろか。イタリアでさえこれだけやられてしまうのだからその強さを改めて認識した……



バスで City に戻りパブリックビューイングに行ってみた。ずいぶんと立派なパブリックビューイングだった。やはりラグビー大国なんだなぁ…と思った。2019年日本でワールドカップが開催された時はこれだけのパブリックビューイングは作れるだろうか….





そこでしばらく Ireland vs USA の中継を見ていた。開始からアメリカがずいぶん健闘していた。そして何度もアナウンサーは前日日本がフランスに健闘したことを話していた…..



この日宿泊したホテルは価格の割には設備は今一で部屋には Sky Sports が入っていなかった。ホテル内のバーの中と何故かReception の横のテレビでは Sky Sports が見られるようになっていた。宿泊客の一団がこの事を猛烈に抗議していた….
外は強い雨がまた降っていた。近くにあったフードコートで Take Away した中華料理を食べながらさっき見て来た Australia vs Italy の再放送を見た。そして試合終了とともにそのままベッドに雪崩込んで眠ってしまった…….. 翌日は Christchurch だった…


勇敢に最後まで..だったと思う  Japan 7-83 New Zealand 16th September

2011-09-25 | Weblog
今大会の組み分けが発表された時にまず思ったのは、“また All Blacks かよ….何点取られるンやろ…”

初めて New Zealand の地を訪れたのは1999年の4月だった。そしてタクシーの運転手にこう言われた。

“どこから来たんだ?”
“日本から。”
“日本?あぁ前のワールドカップのスコアーを憶えているか?”
“憶えている 17-145 だろ?”
“そうか日本は17点も取ったのか?”

マオリ系の運転手だった。もう前のワールドカップはとっくに終わって次のワールドカップが数カ月後に控えているという時期だったのに…ここで日本はそういう見られ方をしているのかぁ…と思った。今でも同じ質問は受ける…
“145点も取られたのは All Blacks が100%の力を出してくれたから。日本相手では50%の力でも勝てるのにフルパワーを出してくれた事に感謝しているよ。“と答えるのが精一杯だった。 あの時こう答えたらと後悔している。

“ワールドカップだろ?日本はアルゼンチンに 0-1 で惜敗した。ニュージーランドなんて出ていたか?あぁあれはサッカーのワールドカップだった。4年も前のワールドカップは憶えていないなぁ…..”

6日前のフランス戦を観て、世界の列強相手でもある程度戦える事が解った。
そして All Blacks の Graham Henry監督は日本戦は何人かの主力を休ませると言っていた。 更に試合の前日、既にスタメンとベンチ入り選手が発表された後に Richard McCaw が怪我の為に日本戦を欠場するとの“吉報”もあった。
これで16年前の様に145点も取られる事は…何とか100失点未満に…と思った。
しかし日本側も John Kirwan 監督が5日後のトンガ戦を見越して James Alridge ら主力を休ませるとのコメントをオーストラリア紙上に見つけた。 あぁ..これでまた大量失点の懸念がまた大きくなって来た。

Auckland から約100km程度離れた街 Hamilton に取引先のTさんに連れて行って頂いた。 勿論仕事もきちんとして。
前から Hamilton は行ってみたい街であった。人口は15万人程度らしいが日本ではお目にかかれない立派な綺麗なショッピングモールもあった。 
“雨が降らないと良いですがね…” とTさんが言った。そしてもっと寒くなる事も案じた。初戦のフランス戦はものすごく良い天気だったのになぁ…
競技場入りする前に何かを食べに街の中心街に出た。もう完全に黒一色。まさに “All Blacks ”だった。ここはニュージーランド当たり前の事だけど….それでも日本人サポーターの方々も少なくはなくお互いに連帯感が生まれた。そしてこう言いあった。

“頑張りましょうね。” 



まぁ頑張るのは選手達だけど出来ればこの試合で日本の存在感を見せてくれればと思った。フランス戦の様に….
そして Kiwi の子供にはこう尋ねた。

”今日 All Blacks は日本に何トライくれるの?”

競技場であるWaikato Stadium はさすがにワールドカップを開催するだけあって立派な競技場。日本にこれだけの競技場があるのは Hamilton よりももっと大きな都市でないと…さすがラグビー大国。羨ましく思った。
座席はこの試合もカテゴリーAをTさんが準備してくれた。前の方には日本の応援団が陣取るが周囲は Kiwi 達ばかり。
完全アウェーと思った。Kiwi 達も“ Hey Japan !! ”と街中でも声を掛けて来るが様相は余裕100%と言ったとろか?
“余裕ですね…羨ましい。“とその度に Tさんと言い合った。誰も日本に負けるとは思っていなかっただろうなぁ…



この試合もフランス戦同様に和太鼓のデモンストレーションが試合前にピッチで繰り広げられた。
メンバーの中にはTさんの知り合いもおられるらしかった。 



素晴らしい和太鼓のパフォーマンスも終わり、選手達が大歓声に包まれ控室に戻りそしていよいよ試合開始時間が近づく。
両チーム選手達が再び大歓声に包まれて入場し整列しニュージーランドの John Philip Key 首相とラグビーではお馴染みの閣僚森元首相が震災、被災のコメントを述べて1分間の黙祷に入った。 前の週に Christchurch に行った時にまだ被災の爪跡が深くはっきりと残っていたのを見てさすがの私も本当に言葉を失った……

両国国歌が斉唱される。今度はここの地元合唱団の声を聞きながら君が代を口ずさんだ。 
そしていよいよ恒例の HAKA が始まる。ワールドカップで日本相手に行われる HAKA に嬉しさを感じた。そして思った。
試合前の素晴らしい和太鼓の音の様に健闘しれくれるよ… 怯むなよ何点取られても最後まで勇敢に闘ってくれよ…



All Blacks のスタメンは1週間前のトンガ戦から9人メンバーを替えて来た。 Conrad Smith 、Ma’a Noun らは Tri Nations でのレギュラーメンバーはスタメンだったが McCaw, Daniel Carter らはベンチにも入っていなかった。 Tri Nations の最終戦 Wallabies 戦のスタメンだった Tony Woodcock, Keven Mealamu ら9人がこの9人がスタメンだった。
一方の日本代表は初戦のフランス戦からメンバーを10人も入れ替えた。8月13日のイタリア戦に先発した選手は菊谷主将をはじめ宇薄、平、マイケルリーチら4人。ベンチ入りした選手達の中でもイタリア戦に出場したのは半分の11人だった。
All Blacks 相手に大丈夫だろうか…と本当に心配した。



日本のキックオフで始まったゲーム。何とか先制点を挙げられれば…との淡い期待もむなしく開始3分右から左に展開され Colin Slade にトライを決められてしまい conversion kick も Slade が難なく決めてしまった。 大歓声が沸き上がる。日本相手にそんなに喜ばんといてくれよ…と思う。 こりゅあ何点入れられるか…と思った。
更に8分48秒、反則を取られ PG を選択される。 もうPGを狙うのかよ…と思うと観客からもブーイングが沸き起こる。しかし Slade はこのPGを失敗した。あまり難しい位置では無いと思ったのに。 更なるブーイングが地元サポーター達から起こる。
そして10分48秒今度はAll Blacksに反則があった。日本はPGを狙わずタッチラインに蹴りだした。すると観客から大拍手が沸き上がる。本音はPGを狙って無失点を避けて欲しかったんだけど…
この影響か?14分28秒、また日本が反則を取られた時はAll BlacksはPGを狙わすに外にボールを出した。再び観客から拍手が上がった。 日本は先制トライを許してから結構ボールを繋ぐシーンが続き追加点を容易には許さなかった。ボールキープをする時間を長くして失点を防ぎあわよくば…と思った。



しかし16分またも右から左に展開され最後は Richard Kahui にトライを決められた。それにしても早いパス回しだなぁ….とTさんと感心してしまった。 そしてこの後のconversion kickは Slade は失敗してくれた。 日本もボールを繋ぐのであるが22mラインをなかなか突破出来ない。そしてスクラムも押されっぱなしだ。
7月にテレビで観た Tri Nations ではボール支配率は低くてもディフェンスラインを作るのが早いので 南アフリカ、オーストラリアに連勝していたのだ。Springboks、Wallabies でさえ突破出来ないD-Lineを日本が簡単に….と思った。
更に23分 Jerome Kaino、31分 Keven Mealamuにも連続してトライを決められる。 Kaino は Tri Nations 3試合、 Mealamu は2試合出場した選手。日本のディフェンスも最終ラインで必死に粘るのだけど最後は押し切られるといった感じだった。
更に35分にもAndy Ellis にトライを決められ、その後のconversion kickも決まり得点は 0-31 になってしまった。
何とかPGでもDGでも良いから日本の得点シーンが観たかった。 しかし37分に Ma’a Noun の突破から Conrad Smith, Isaia Toeavu に繋がれ最後は Slade に渡りトライを決められた。 さすがにAll Blacksのレギュラークラスのボール展開だった。
そしてconversion kickも決まり前半は 0-38 で終わった。いや済んだ…



両チーム選手交替無くAll Blacks のキックオフで後半に入った。先に点を取ってくれ、長い間オールをキープして失点を少なくしれくれ…と願うのだけど立ち上がりの10分足らずに3トライを喫し 0-59 となってしまった。 後半のAll Blacks は右から左に展開す事が多かったが後半の日本のディフェンスラインの真ん中を突破する様になる。 ボールを受け取りする選手だけでなく“第3選手の動き”が効果的でラインに穴が空いたところを素早く突破されてしまう。 日本も後半は前半よりかは良い動きを見せている様に見えた。そして53分に反則でPGを得ても狙わずに外とに出した事に地元ファンも拍手を送っていた。 46分には負傷した平浩二に替ってトンガ人の Alisi Tupuailai が投入されるのが 116kg のTupuailai が良く攻撃の起点になっていた。53 分にはラインアウトからチャンスを掴むが菊谷が惜しくもボールを奪われてしまった。

そして59分私達日本人達が最も沸き上がるシーンが。 All Blacks 陣の22mラインのやや前、All Blacksボールとなり左から右に展開されたが Colin Slade から Sam Whitelock へのパスがやや浮いたところを小野澤が見事なインターセプトそしてそのまま疾走しAll Blacks からトライを決めた。 これで小野澤は3大会連続トライを決めた事になったらしい。33歳ベテランの素晴らしいインターセプトだった。 このトライが無ければ自分はどうやって Hamiltonから帰っただろう…
そして conversion kick もMurry Williams が決めて 7-59 とした。
Tさんとトライを喜んでいると周囲の人達がハイタッチや握手を求めて来た。 おいおい Kiwi 達余裕だなぁ…と思っていると彼らは Scotland から来た人や Scottish 系の Kiwi 達だった。なんだそれなら最初から良いのに…特に隣の男性には試合前All Blacks の事ばかり質問してしまっていたではないか…それでもしっかりと全て答えてくれたなぁ…



日本ベンチは北川、バツベイが投入される。 何とかもう1トライを決めて存在を見せて欲しいなぁ…と T さんと話しだすが、日本のトライはその後のAll Blacks の猛攻を呼び寄せるものだった。 1987年All Blacks を迎えた時に沖土居が歴史的なトライを決めたその後の様に…..
キックオフ直後には右から左に展開され途中出場の Andrew Hora が、そして62分には 191cm 110kg のCTB Sony Bill Williams が右から左に日本のDF陣3人を跳ね飛ばし疾走し Ma’a Nonu のトライをお膳立て。 76分にはラインアオウトからあっさりと繋がれ Adam Thompson に決められ、78分には左タッチラインで Nonu からボールを受けた Cory Jane が中央に走り込んだ S.B. Williams にキックでパスを送りそのままトライを決められ 7-83となってしまった。 まぁ100失点には届かないから良いかなぁ..と自虐的におもった。ラグビーと言えば巨漢な選手の体力勝負と思っていたけどAll Blacksの猛攻を見ているとスピードと判断の速さが全く違う事が良く解った。更に S.B. Wiiliams の様に110kgもある選手でも手足が長くスピードがある。ちょっとこういう日本人はいないなぁ….とも思った。



けど最後に何とか意地を見せて欲しかった。日本だって猛攻を受けている間チャンスが無かったわけでは無かった。68分には日和佐が大きくゲインしチャンスを作るも今村がノックオン。 その直後にも左に展開し畠山がボールを背後に回して小野澤にパスを送る。完全にフリーになった小野澤がAll Blacks陣の最終ラインを駆け抜けるが惜しくも畠山の技ありのパスがスローフォワードにとられた。

デジタルが80分を示す S.B. Williams がボールを落としたところを大野が詰め寄りボールを奪い Webb 将武に繋ぐ。ウェールズ人の Nigel Owen 主審からのラストプレーとの声が聞こえる。 一旦はAll Blacksにボールを奪われ日本陣内に攻め込まれるがインターセプトで取り返し一気にゲイン。そしてキックパスをAll Blacksゴールラインの裏に蹴り込み大野が走り込むがその前にいた S.B. Williams が外に蹴りだしノーサイドとなった。 観客からはこのプレーにブーイングが沸き上がった…..

あぁ…これが世界のトップクラスとの差か…と思ったけどこの日のAll Blacksはベストメンバーでは無かったんだなぁ….
試合終了前の10分間は隣の Scottish の男性とずっと話していた。1989年に東京で日本は Scotland に勝った事がある。と話すとそれは Football か?と訊かれたので、いや間違いなくラグビーだ。 今なら Football だったら日本は充分に勝つ自信はあるしここ2試合負けていない。と言うと Scotland はもう3大会もワールドカップに出ていない…と首を振っていた。
一体Scotland はどうしてしまったんだ? 1970年代はEngland より強かったんじゃないか? 1974, 78年大会は UKから Scotland だけが地区予選を突破していた… ダルグリッシュは Liverpool でジョーダン、バッカンはManchester United の中心選手だったしあのアーチー=ゲミルもいた。と言うと、スーネスもいた。 Liverpool だった。とサッカー談議に花を咲かせていた。
それから Celtic でプレーしていた Nakamura はまだプレーを続けているか?と訊ねられたので今は日本でプレーしていると答えた。そしてストラカンは選手としても監督としても素晴らしかったと言うと、中村の Manchester United 戦のFKの話をしてきた。少し一矢報いた気がした…. 関係ないか??

この男性とその向こう側の御夫人と握手を交わし、周囲の Kiwi を含んだ人達とも握手を交わし席を立った。
ピッチでは日本選手達がスタンドに歩み寄りサポーター達に挨拶をしている。この試合ベンチ入りをしなかった James Arlidge が丁寧に写真撮影やサインに応じていた。彼としては出場したかったんじゃないかな…



点差がついたけど楽しかったですね…. T さんがこう言った。
そうですね、最後にもう1トライきまっていればなぁ….

帰りもTさんに車で Auckland まで送ってもらった。途中まで凄い渋滞だった。 
これみんなラグビー見た人ですね。こんなの初めてですよ… Tさんも驚いていた。

2時間半のドライブでようやく Auckland に到着。 T さんに何度も礼を言い握手をして車を降りてホテルに向かった。
この日は Public Viewing の前の通りである Quay Street は閉鎖されていた。多くの Kiwi 達が騒いでいた。 Friday Night だからなぁ….. でもこの試合とフランス戦を見る限り次のトンガ戦とカナダ戦には期待できそうだ…とこの時は思っていたんだけど….

ホテルの部屋に戻りAll Blacks 対日本戦の再放送をしていた。 風呂に入って寝ころんで見ていたので知らない間に眠ってしまった… 夢の中でもAll Blacks の猛攻を見ていた様な気がした…



でも我が代表は最後まで勇敢にプレーしてくれたと思った。 




IRB World Cup 開幕…. 高温と雨と寒さとの….

2011-09-17 | Weblog
9月9日、IRB World Cup, ワールドカップラグビーが開幕した。
私の涙を誘ったカナダ戦の大西の同点conversion kick 、Wallabies, All Blacks が相次いで散り潮が引く様にワールドカップ狂想曲が収まった前回のワールドカップからもう4年が経過した。
そして今、私は4年前に続いてここ南半球に居る。今回はニュージーランドがホスト国。当地での開催は第1回大会以来24年振りであるが単独開催は初めて。24年前と異なり最近はラグビーもプロ化が進んでおり第2回大会以降は第3回1995年南アフリカ大会こそ決勝に進出したが優勝は無く Tri Nations のライバル国オーストラリアが1991, 1999 年大会、南アフリカが1995年、2007年大会と2回ずつ優勝しておりこの地元で開催されるワールドカップでは優勝以外に成功は無いと地元の人達は考えていると言っても過言ではないだろう。
同様の事が2014年 FIFA World Cup のホスト国であるブラジルにも言えるだろうがこちらの方はもっと深刻だろう。

大学時代、英会話の授業で討論があった。外国人の教授が五輪種目(丁度ロス五輪が終わって間が無かった。)が議題となり何故ラグビーが五輪種目に無いのか、との話しになった。私はかつてラグビーが五輪種目で有った事は知っていたし、ラグビーの国家代表試合、所謂テストマッチは公式にはニュートラルの地で行わない事が慣例となっていて、何より当時はまだ世界選手権が行われていなかったから今は五輪種目に適用されていないと発言したかったが教授は私を指してくれず、指された学生達は
“競技場が足らないから”( そんなわけないだろ。そんな国は五輪を開催出来ない。)
“時間が掛かるから” ( サッカーの方が前後半5分ずつ長いぞ。)
“人数が多いから”  ( 確かに多いけど人数で採用するか否かは討議しないだろう…)
とか言っていた。
“体力を使うから試合間を開けなければならない。だから大会期間中に日程を終了できない。”
というまともな意見もあったけど、結局教授はプロ化がどうのこうの…と言っていた。ある意味当たっていたかもしれない。

当時学生スポーツの花形は何と言ってもラグビーであった。大学選手権3連覇を果たす等同じ京都の同志社大学が全盛期で当時岩倉にあった練習場では女の子が多く“見学”に来ていた。私の大学からも“見学”に行く女学生がいた。自分の大学にもラグビー部はあったが学生リーグにも参加しない弱小部であった。毎年リーグに参加しない大学同士で“リーグ戦”を行っていた。それでもラグビー部員達の方が私より女学生に人気だった。俺は陸上競技で日本インカレ常連だったのに….
冬になると横縞のラガージャージーがファッション的人気がありラグビー選手でもないのに着ている男性が多かった。中にはおそろいで着ているカップルも目に付いた。女の子か横縞のジャージーを着ると可愛くも見えたなぁ..
ラグビーは大学スポーツとして当時”女性に認められた”競技だった。
でもスポーツもしない男子学生が“早稲田カラー”や“慶応カラー”とか言って着てどういう神経しとんのかいな…と当時スポーツ現役学生だった私は思った。そして当時最高に強かった新日鉄釜石の真っ赤なジャージーを着る学生はいなかったけど...
それだけラグビーは人気がありサッカーなど誰も気に掛けなかった。1983年にはアームズパークでウェールズを相手に日本代表は大健闘をし1989年には秩父宮でスコットランド相手に歴史的勝利を挙げていた。
それが競技戦績も人気もこんなに大逆転するとは夢にも思わなかった……

オーストラリア シドニーでの激務を終えて早朝7時前のタスマニア海峡を越えてニュージーランドの最大都市 Auckland に渡ったのは9月10日。 North Shore で日本代表がフランス戦を行う日であった。 機内は黄色い Wallabies ジャージーを着る人が多かった。翌日 North Shore で行われるイタリア戦が目的だろう。 いつもオーストラリアに出張に来ると All Blacks のヤッケを着ているのだけどこの日ばかりは赤と白の桜のエンブレムの入った日本代表のジャージーを着た。と言っても少し古いデザインだけど。 でもこれが日本代表だとは誰も解らなかっただろうなぁ….
斜め後ろの座席からフランス語が漏れ聞こえて来た。どうやら彼らもワールドカップ観戦が目的であった。次第に彼らは早朝だと言うのに会話の声が大きくなり、途中気流の悪いところを通過しシートベルト着用の機内アナウンスがなされてもお構いなし。 Cabin Attendant がベルト着用を悟に来てもわざと言葉が解らないふりをするがここは経験豊かなスチュワーデス。
“ English is international language !! “ というと周りの乗客に大受けしていた。
Auckland に到着して機内から出る前に私の着ていたジャージーの桜のマークを指して
“ Je suis japonais, please do not give us so much hard time. ”
と言うと彼らに受けて皆と握手を交わした。他の乗客たちも笑っていた。
フランス人達、余裕だなぁ….と少し羨ましく思った。

そしていつもは時間が掛かるパスポートコントロールに向かったがこの日はほぼカウンター全席に係官が座っておりすぐにそこを通る事が出来た。結構待たされることもあるのだけど。そして荷物をピックアップし再び荷物検査もスムースに通り航空機を出てからあっとう云う間に空港の外に出られた。 これもワールドカップ効果なのだろうか…..
更に驚いたのは天気の良さと気温の高さ。 雨のシドニーとは大違いの快晴のポカポカ陽気だった。
市内に向かうバス停に向かったがここでもバスのチケット売り場が設けられていた。 こんなの見るのも初めてだった。
バス停には Wallabies のジャージーやマフラーや帽子を身に付けた人達が10人くらいいてワールドカップの雰囲気を醸し出してくれる。5年前にドイツに行った時と雰囲気がだんだん似て来てワクワクして来た。
バスが市内に近づくにつれて All Blacks の旗のみでなく大会参加国の国旗が見られるようになる。でも日の丸は少なかったなぁ..

 

ホテルでチェックインを済ませ、まず最初の仕事、チケットのピックアップに出掛けた。 競技場でも事前購入したチケットは受け取れるのであるが e-mail で“なるべくチケットはピックアップしてから競技場に…”てなお願が書いてあった。まぁスタジアムで長蛇の列に着くよりましか…と思ったがその判断は間違えであった。 チケットの受け取りが出来るカウンターのある市内の名所 Sky Tower まではホテルから徒歩10分も掛からなかったがカウンターの前は既に長蛇の列。しかもカウンターには係員が2名しかおらずなかなか順番が回って来なかった。私の後ろにいたフランス人カップル(2人とも英語を話しれくれたけどどちらかと言えば彼女の方がよく英語を理解していた。)と“遅いねぇ~”ってな話をして時間を潰したりして30分以上も待ってようやくチケットを手にする事が出来た。
でも実際に手にした時は待ち時間の事も忘れて嬉しかったけど….
競技場に到着した時チケットを受け取る窓口に人は並んでいなかった。 こっちの方が圧倒的に早かった見たいだった….

そしてホテルに戻ったが街行く日本人の姿がチケットを取りに来た時よりもかなり増えていた。それにフランス人も。
いよいよワールドカップ本番(と言っても前日開幕したのだけど…) と気持ちを引き締める事に。(あまり関係なかったか?)
最近ニュージーランドでは中国、韓国からの移民が増え自分が従事するレストラン産業では日本人経営よりも新規参入し店舗の数では今や和食スタイルのレストランでさえ中国、韓国系が圧倒している。
しかしこのワールドカップ期間だけはアジアを代表の常連である日本人として胸を張っていられると嬉しく思った。



チケット受け取りに時間を費やし過ぎたのでホテルに戻ってすぐに競技場までの無料シャトルバス乗り場に行かねばならなかった。でもバス乗り場もホテルのすぐ近くで助かった。 チケットを見せればバスは無料との事だったけどバス停の係員も運転手もチケット等見ずに乗車させていた。
一番後部座席に座ると横の二席が空いたままそこに座る乗客がなかなか来ない。そして出発前に日本人らしき女性が小さな女の子を連れていたので手招きして席が空いている事を教えた。その親子が横に座りずいぶん丁寧にお礼を言われてしまった。
そして女の子を膝の上に座らせるともうひとつ空いている席に今度は Kiwi らしき男性が座った。隣の日本人女性の御主人であった。 あぁまた日本女性が海外に流出していたのか…



競技場に着くまでの約半時間、この日本人御婦人としばし歓談をした。 そしてバスの中を見回すと日本人も全体の3分の1程度はいた。 フランス人らしき集団も多くこの時間から飲んでるのも多かった。
バスが競技場近くに広場に到着し競技場に向かうがその間もフランス人達が何やら歌っている。歌う歌が無い日本人達からは沈黙しか…. ワールドカップドイツ大会の時もクロアチアサポーター達が試合前から電車の中で大声で歌っており何か歌える歌は…とすこし無念に思った事を思い出した。 こんな時は何を歌えばいいのだろう…10分ほど歩くと競技場入り口に。 そして大会プログラムを購入しようとするが販売されているプログラムはこの日の Match Day Program ( とは書いていなかったけど。)のみだった。 毎試合発行してより多く収入を増やそうと言う考えか?? 価格は1冊 NZ$15.00 ( 約960円程度 ) だった。

席は最前列だったけど階席だった。カテゴリー A だったけど…しかしフィールドを一望でき全体のフォーメーションはよく解る席であった。ピッチでは日本代表の選手達がアップをしていた。そして John Kirwan 監督の“雄姿”は遠くからでもすぐに解った。



ピッチの中央には試合前のセレモニーに使われるのだろう太鼓が準備されていた。
その和太鼓を打つのは6人の日本人女性と1人の日本人男性だった。そしていよいよその演奏が始まろうとし会場から拍手が沸いた時にフランス選手団がアップの為にピッチに登場したので更なる大歓声が沸き上がった。観客の数はフランス人達の方が多かったと思う。太鼓の音がかき消される様で残念だったがここはラグビーワールドカップ。選手達の方が優先されるべき場所だった。
それから黄色のレプリカを着た Aussie も多かった。明日のイタリア戦の下見か…



それでも途中からはしっかりと素晴らしい太鼓の音が競技場に鳴り響き、演奏が終わった時は観客席から大きな拍手が送られた。
隣に座っていた Kiwi の老夫婦に和太鼓に着いて質問されたけど知識が無いのでしっかりと教えられなかった。 やっぱり日本の事はしっかりと説明出来ないとだめだなぁ…



両チームアップを終えて控室に戻るとまたも大歓声が起こる。 とにかく“試合”が最後まで続いてくれる事を祈った。
勝てるとは思わなかったけど大差がつかない事を祈った。
そしてマオリの衣装を着た男性が出て来て大きな笛を吹いた。これは人を呼び出す儀式であると隣の男性が教えてくれた。
そして日仏両チームの選手が国旗に続いて大歓声を浴びて入場してくる。先に君が代の斉唱が始まる。私も当然君が代を歌ったが斉唱しているのはピッチ上の地元の合唱団。日本人が歌っているのかと思う程見事な素晴らしい君が代だった。
続いてフランス国歌 La Marseillaise が合唱されるがこれは観客の大合唱にかき消されてしまった。



試合は途中まで“予想外の接戦” だった。
痛かったのは立ち上がり連続トライで 0-14 とされた事。先制のトライは倒れたままの⑨ David Yachivili がこぼれ球をトライした Julien Pierre にパスを出したもので本来なら笛を吹かれるプレー。 その後好位置で得たPGを ⑩ジェームス=アリッジが外してしまいその直後のトライを決められたのだがこれはアレッジが⑬平に出したパスを⑩ Trinh-Doc にインターセプトされ独走のトライを喫したもの。このPGを失敗した後のトライが痛かった。
18分に得たPGを今度はアリッジは決めた 3-14 としたがその後も連続して PG を決められ 3-20 と点差が開いた31分に素晴らしい攻撃からアリッジがトライを決め 8-14 とした。この時は周りにいた Kiwi 達も大きな拍手を送ってくれ、周囲の人達とハイタッチをかわした。しかしこの conversion kick をアリッジが決められなかった。 前半二つのプレースキックが決まらなかったのが痛かった。



それでも後半に入って優勢に試合を進めたのは日本だった。スクラムになる度に“チャチャチャニッポン”の掛け声が沸き上がり Kiwi や Aussie の人達も熱心に“ニッポン!ニッポン!”と応援しれくれた。
50分に素晴らしい突破を見せアリッジがトライを決め更に conversion kick を決め遂に 21-25 と迫った時は場内は何とも言えない雰囲気になった。フランス人サポーター以外の全てが日本に大声援を送ってくれていた見たいだった。
しかし67分にPGを決められ、71分に Lionel Nallet にトライを奪われると更に2トライを喫し試合が終われば 21-47 と“ダブルスコアー”になっていた。 
最後に何とか1トライをと選手達はフランス陣内でプレーする時間が長かったのだけどその分裏を取られた見たいだった。
ノーサードの笛が鳴り日本に健闘をたたえる拍手が送られた。周囲の人々も私に色々声を掛けてくれた。
嬉しかったけどこれが実力差だと思った。



帰りのバス停に向かう時フランス人達がまた合唱しながら歩いていた。 悔しかったので La Marseillaise をわざと彼らの前で口ずさみそれに合わせてフランス人達が歌い出したあと1小節歌わせてから大声で “ All You need is love ! All you need is love ! Love love is all you need is !! “ と続けると彼らに滅茶苦茶受けた。 一矢報いた感じがした。(関係ないか)
バスは比較的早く来て日本人、フランス人、地元 Kiwi そして Aussie と呉越同舟乗り合わせシティーに向かった。
バスの中でも色々会話が弾んだ。 勝利に安心したのかフランス人達は日本の健闘をたたえた。ある女性は “ congratulation “ と日本人に声を掛けていたけど、それは正しい単語とは思えなかった。だけど悪気が無いのは解っていた。
“ nice game ! “ と話しかけるフランス人に ” nice game for France. That all “ と言うと
“ Come on !! Japan was excellent .” と続ける。 “ France 47 Japan 21. France Won, Japan defeated “ と言い、我々には Tri Nations も Six Nations も無い。ワールドカップ以外世界の列強と戦う機会が無い。 経験が不足は否めない。それが今日の試合結果だ。 てな話をすると大きくみな頷いていた。



“しかし日本は football でも大きな躍進を遂げた。だから Rugby でも出来ると思う。”とフランス人男性が言ってくれた。
すると正面のフランス人女性が“ 女子はワールドカップで優勝したね。”と言ってくれたらもう1人の男性がそうなのか?と言っていたので彼女はフランス語で説明していた。
私は隣の男性に“ football なら男子も女子も自信がある。”というと、彼は同意してくれて今の男子サッカーフランス代表に就いて首を振りながら次の欧州選手権を嘆いていた。
そしてバスがシティに到着し、周囲の人達と握手を交わし下車した。皆“ nice game だった。次のゲームも good luck . ところでどこと対戦するんだ?”と訊くので“ All Blacks “ というと。 Oh No…でも本当に good luck を…と言っていた。
少々の good luck ではなぁ…
街はフランス人達の喜びの騒動が繰り広げられていた。そして日本人を見つけると皆握手を求めたり一緒に写真を撮ったり。
中には日仏入り乱れて大騒ぎしている集団も。 土曜日と言う事もあり街には若い人たちも。女の子の集団が私が着ていた日本のジャージを見つけ一斉に大声を挙げながら駆け寄ってきた。 日本は凄かった、惜しかったと言いながら。そして I love Japan と良いながら彼女達の携帯、いやスマートフォンで何枚も一緒に写真を撮られた…..
試合には負けたけど途中までは接戦だったから良かったと思った。恐らくフランス人はみなこの試合に勝つと思っていただろうし日本人も勝てると思った人は少なかっただろうなぁ…でもワールドカップの雰囲気は楽しめたぞ…



現地に在留する日本人の知人とそれから食事に出掛けた。彼も家族で試合を観に行ったらしい。久々に熱く大声援を送ったと言っていた。そしてすぐ近くのテーブルにも日本人がおられそのうちに1人は彼の知人だった。その人達も試合観戦に言っていたらしい。
その中に日本代表のレプリカを着た方がいた。かつて明治大学でラグビーをされていた方との事で試合の事に就いて色々意見を聞いた。開始の連続トライ、特に二つ目のトライが痛かった、そして日本が最初のPGと続いて conversion kick を失敗したのも痛かったとも言っていた。“格下のチームはキックを外してはだめなんですよ。”とも教えてれて色々勉強になった。
明治大学時代はレギュラーになれなかったけど4年間ラグビーを続けて良かった。とも言っていた。そして自分も陸上をやっていた事を話して学生スポーツの話題で大いに盛り上がった。 スポーツを続けていて良かったなぁ…とここでも思った。

翌日から地元新聞は日本の健闘をたたえる記事が多かった。テレビでもそうだったけどこの日最も注目を集めたのは England vs Argentina 戦だった。  England の Wilkinson がPGを2本外した事や England の苦戦が翌日の話題の主役だった。
日本が注目してもらうには….次の All Blacks 戦で…と思ったけど、1995年見たいに145失点もして話題になるのは勘弁してほしいなぁ…と思った…..
( 試合の詳細はまたレポートします。 誰も見ないか…. )  

勝負強さ備えて”アジアのドイツ” に 日本 1-0 北朝鮮 2.Sep. 2011

2011-09-09 | Weblog
88分46秒。交替出場の朴成哲のミドルはGK川島の正面に。そして川島から繋がれたボールは遠藤、長谷部に繋げられ右サイドを上がった内田に。内田が入れたクロスはGK 李明國が飛び込んでパンチで弾き出す。そのこぼれ球を拾った香川がシュート体勢に入るが安英学が必死のクリアー。またそれを今度は遠藤が拾って内田に渡し入れたクロスはDFに当たってCKに。
ここで北朝鮮ベンチは鄭大成を下げてアンチョルヒョクを入れる。後で解ったのだがアンチョルヒョクはFW登録の選手。日本のロングボール対策にセレッソ大阪でプレーする190cmのキムソンギを入れるかと思ったのだけど…それにしても相手CKでよく選手を変えるなぁ…とも思った。
そのCKから内田が放ったシュートは大きくクロスバーを外れた。デジタルは45分を回ったがロスタイム5分と表示された。北朝鮮の選手達は何度も倒れていたしなぁ….
46分7秒、北朝鮮のスローインに駒野と競ったアンチョルヒョクのプレーがファールに取られる。目の前で見ていたユンジョンス北朝鮮監督が主審に抗議するが勿論判定は変わらない。そこで得たFKから繋いでまたも内田が入れたクロスはハーフナーが朴南哲と競りながら落としたところを香川がシュート体勢に入るが肝心のシュートが撃てなくてクリアーされるがここのこぼれ球も駒野が拾って右サイドから中に入れるとハーフナーを越えて清武に渡りそして中の香川に送られるが香川のシュートはDFに当たってCKに。CKから今度は今野が狙いすまして放ったショットはクロスバーを叩いてしまう。この日のさいたまスタジアムのゴールポスト、クロスバーは完全に北朝鮮の味方をしていたようだった。だがそのこぼれ球はジョンイルガンがゴーラインの方にクリアーしたのでまたもCKを得る。そのCKを受けた長谷部が入れたクロスにまたも香川がワンタッチで素晴らしいシュートを放つがここはGKリミョングックの超ファインセーブに阻まれる。李明國は朴南哲とハイタッチをかわしていいた。この試合もこれで運が尽きたか…と思うもデジタルは47分50秒。まだ時間は残されていた。遠藤のCKを受けた長谷部が清武に渡し中に放り込むと今度は内田が飛び込む。だがここもジョンイルガンに当たってCKに。この4分間で4本目のCKだった。ここさいたまスタジアムでは2005年に行われたワールドカップ予選の北朝鮮戦でもロスタイムに大黒の決勝ゴールが決まり劇的な勝利を収めた事がずっと頭にあったのでこの試合でも…と希望は捨てていなかったが、もうこれが最後のチャンスかも…とも思ったCK、長谷部が右サイドでキープしまたも清武に渡す。清武がクロスを入れると次に私の目に飛び込んだのは北朝鮮ゴールネット中央にシュートが突き刺さるシーンだった。ブルーのユニフォームの選手達がピッチ上で狂喜乱舞している。 競技場を埋め尽くした大観衆から割れんばかりの歓声が上がり、私の周囲の人達が誰彼となくお互いにハイタッチをかわし始めた。



決めたの誰ですかねぇ~…

吉田…みたいですよ….

スクリーンのリプレーを見るとCB 李光川と朴南哲の間に挟まれながらの高い打点で放たれた吉田のヘッドが映し出された…
嬉しさもそうだけどむしろ安堵感が沸き上がった。あぁ良かった~。おもわず小声で呟いた。
北朝鮮のサポーター席を見ると対照的に全く動きが無かった…..スクリーンには鄭大成の表情が映し出された。



そして50分54秒。主審のホイッスルが鳴り響き、再び大歓声が沸き上がった。 GKリミョンクックが座り込んでしまった。
何度も倒れて起き上るのに時間を掛けていたのは時間稼ぎでは無く、前半36分に駒野のCKを直接キャッチし着地した時に本当に脚を痛めた為であった事は試合後のユンジョンス監督のコメントで知った。
それにしても日本は何度ロスタイムで貴重なゴールを決めたのだろう….かつてはドーハのイラク戦に象徴される様に終了直前に痛い失点を喫していたのに…それだけ激戦を積み重ねて来た日本代表に勝負強さが備わりつつある証拠だろうか….ドイツ代表がそうで有る様に…..

http://www.youtube.com/watch?v=ZzjW62PBxUI&feature=related


南アフリカ大会で大いに期待されていたオーストラリア Socceroos が初戦のドイツ戦で完敗を喫し、ニュージーランドがイタリアの猛攻を凌いで引分けに持ち込み、日本がデンマークに完勝し、次に激戦の末にパラグアイにPK戦で敗れ、ドイツがイングランド、アルゼンチンを連続して粉砕し、ブラジルがオランダの速攻の前に沈みそしてスペインが欧州選手権に続いてビッグタイトルを勝ち取ったワールドカップが終了してから1年2カ月程度しか経っていないのにもう次のワールドカップに向けての長い戦いが始まった。
3次予選のホームゲームが関東地区で開催されるのは最初の北朝鮮戦のみであった。
8月10日の日韓戦も関東地区以外の開催だったのでこの試合は是非現場で観戦したかった。 
何とか入手したチケットはカテゴリー3。しかも2枚バラバラだった。高校1年になった息子に。

席が離れているけどもうかまへんやろ? と訊くと、あっさりと

いいよ。その方が…. と言われてしまった。

高校生くらいになるともう親とはスポーツ観戦等したがらないか??とすこし“不安”であったがワールドカップ予選という事としばらくさいたまスタジアムで代表の試合がなさそうという事もあり、昨年5月の韓国戦以来の親子観戦となった。
私が高校生の時は親父に野球観戦を含めたスポーツ観戦等誘われなかったし、誘われても断っていたとだろうなぁ…

北朝鮮戦と言えば6年前ワールドカップドイツ大会出場を目指すジーコジャパンが同じさいたまスタジアムで対戦してるが、あの時はミサイル実験をするとかしないとかでまた拉致家族の問題もあり結構な話題となっていた。試合前に中国で合宿する北朝鮮チームの模様も伝えられたが今回はそこまで加熱した報道は無かった。
懸念されるのは拉致問題に今の民主党政権が関心を示していないと言う事。 遂に首相も替ったけど野田新首相はどれだけ拉致問題に取り組むのだろう…元日教組の親玉を執行部に入れている事が大変心配だ….まさか日本側から“拉致問題は既に解決済みです。昔は日本の方が連れて行っていましたから….”なんて言い出さないだろうか….



心配された台風12号(だったっけ??)も関東地方にはまだ上陸せず試合は予定通り行われる事に。だけど雨が降って重馬場になるとパス回しをする日本には不利な条件と思った。
観客席はかなり上段の方。テレビと違って全体のフォーメーションの動きはじっくりと見れるが最近は目が悪くなったので背番号が見づらい。特に北朝鮮の選手達は鄭大成ら在日の選手以外は顔の区別がつかないので最後まで誰がどうしたかは解らなかった。でもGK以外はこの試合印象に残るパフォーマンスをした選手はいなかった。



本田と長友が怪我で不在の日本代表は左SBに韓国戦に続いて駒野がそしてワントップの李忠成の後ろのトップ下には地元浦和レッズの柏木が入った。こうして見ると昨年のワールドカップの主力メンバーはGK川島をはじめ5人しかピッチにいなかった。
一方の北朝鮮は世代交代が報道されていたがスタメンを見ると左SBの全光益2列目右の Jong Il Guan そして仙台でプレーする梁勇基以外は全て昨年のワールドカップメンバーだった。ただ全光益は2005年FIFA U-17, 2007年 U-20 を経験した23歳の選手で Jong Il Guan は昨年の AFC U-19 決勝戦のオーストラリア戦で3ゴールを叩きこんだ選手と共に若い選手。
北朝鮮のユンジョンス監督は一旦代表監督を退いてユースレベルの指導をして再びこのワールドカップ予選から代表監督に返り咲いた監督。このチームの中にも五輪世代が5人含まれている。そして梁勇基は本当に良く頑張って代表に戻ってきたと思った。
息子のもっとも警戒する選手は梁勇基であった。



そして鄭大成、安英学の在日選手もスタメンに名を連ねた。
6月に貴陽で行われた中国戦出場のメンバーから7人の選手( GK 李明國、DF全光益、CB朴南哲、李光川、ボランチ李哲民、FWJong Il Guan そして梁勇基)がこの試合のスタメンに起用された。

日本のワントップ李忠成も韓国戦に続いて存在感を見せたかっただろう。
鄭大成らがスクリーンに映るとブーイングが発せられたがさすがに李忠成の時は北朝鮮側から声は上がらなかった。



選手の入場に続いてまず北朝鮮の国歌が演奏された。北朝鮮サポーター席から国歌が少し漏れ聞こえて来た。1989年ワールドカップイタリア大会予選の時は国立競技場で在日でものすごい応援団が形成され、人文字や試合中ずっと吹奏楽器で応援歌が流されていた。あれから22年も経ったのか….と成長の無い自分を改めて感じた。



続いて君が代は秋川雅史の独唱。前にも聴いた事あるなぁ…と思っているとこれでサッカーの試合の国歌独唱は4回目との事だった。

北朝鮮のキックオフで始まった試合。 開始1分、全光益が遠藤を倒してFKを得てそのFKを地元でプレーする柏木がゴール前に入れるが惜しくも走り込んだ吉田に合わない。これは幸先のいいスタートと思うもその直後にJong Il Guan が右サイドを突破し至近距離でシュートを放つがサイドネット直撃するがその前に駒野が倒された時点で線審が旗を上げていた。しかしJong Il Guan のスピードを見せられた気がした。
日本は立ち上がり柏木がよく攻撃にからんている様だったが息子に言わすと“柏木 REDS ではあのポジションをやっていないから良いパフォーマンスは出来なかった。 REDS でもあのポジションをやらせれば良いのに….” と試合後言っていた。年々子供に教えられる事が多くなって来る…
10分を過ぎると強い雨が降り出して席からも雨粒が解る様になった。この時屋根で完全に覆われているカテゴリー3の席で良かったと思った。



しかしこの豪雨の中でもボールを支配するのは日本の方だった。こういう時直接FKを得られればなぁ…と思った。2001年FIFA Confederations Cup のオーストラリア戦の様に。
日本はボールは完全に支配しているのだが北朝鮮は日本ボールになると2列目の3人、Jong Il Guan 、朴南哲、梁勇基がボランチの位置に下がり鄭大成を残して 5-5-1 の布陣になるのでゴール前でパスがなかなか通らない。 
李忠成が裏に入ったり、ゴール前に空いた位置に入り込みそこに香川からボールが入り走り込んだ柏木に落とす等揺さぶりをかけるが簡単に決定機を作らせてはくれなかった。 



北朝鮮は鄭大成とJong Il Guan または朴南哲が2トップを組むと思ったけど鄭大成の1トップ。守勢に入るのは早かったけどカウンター時は鄭大成へのサポートが遅く日本ゴール前に迫られるシーンは少なかった。恐らくアウェーゲームでまずは勝点1と考えたのだろう。20分に内田が全光益をかわして上げたクロスを李忠成が車正赫と競りながら落としたところに柏木、香川が寄るがシュートを撃てず李光川にクリアーされた。 21分には駒野がFKを逆サイドに入れ岡崎が全光益と競りながら落とし柏木が狙うが岡崎のプレーがファールに取られた。北朝鮮のDFラインは左SBの全光益だけが170cmと上背が無いので右からのクロスが目に付いた。
25分を過ぎると北朝鮮にファールが増えて来た。そして雨も完全に止んだ。攻勢にうちに先制ゴールが欲しいと思ったが足元へのパスが多く遠藤、長谷部にしっかりと密着マーク着かれておりその後31分カウンターから柏木の素晴らしいロビングに裏に走り込んだ李忠成がフリーでヘッドで狙うも決まらず32分に香川が素晴らしいドリブルシュートを見せたがポストの右に外れる等前半を無得点で終えた。
北朝鮮も左サイドの梁勇基、全光益の2人は完全に岡崎の動きに抑えられており日本ゴールを脅かすシーンは見られなかった。しかし前半の結果だけを見ると北朝鮮の思惑通りと思った。



両チームともにメンバー交代なく始まった後半。46分に岡崎からボールを受けた長谷部がミドルシュートを放ち、49分40秒には駒野とのパス交換で左サイドをJong Il Guan のマークを振り払い抜け出した香川が入れたクロスに岡崎がダイビングヘッドを試みるが僅かに合わない。クリアーボールを拾われ更に劣勢続きの北朝鮮ベンチは56分FW朴南哲に替えてスイス Basel でプレーする186cm 長身FW18歳のパククァンリョンを投入した。これで2トップにするかパククァンリョンの1トップにするかと思ったけど交替直後は鄭大世の1トップでパククァンリョンは2列目のトップ下に入った。 FC Basel には韓国人左SBの朴柱昊がいるけど2人は会話をする事があるのだろうか?今度スイス行った時に訊いてみよう….(答えてくれないか??)

攻めあぐねる日本は59分に柏木を下げて清武を投入し2列目右に入り香川をトップ下に入った。地元でプレーする柏木、ちょっと存在を示せなかったか…原口元気が出て来る事を息子は試合前祈っていた。




60分パククァンリョンとJong Il Guan のコンビでボールを繋がれ最後は李哲民からボールを受けた梁勇基が正面からシュートを撃たれるがここは吉田に当たってCK。梁勇基が上げたCKに逆サイドから飛び込んできたパククァンリョンが迫力のある飛び込みを見せるがここは吉田が遅れながらも身体を寄せてジャストミートを防いだ。この試合最も危ないシーンだった。
その直後からも日本は攻撃に転じ清武が連続シュートを見せるが車正赫に当たる等してゴールネットに至らない。このシュートを導き出したのはトップ下に入った香川の動きから。
北朝鮮も鄭大成が強引なミドルを放ったり69分にはカウンターからパククァンリョンに渡り後ろに戻したJong Il Guan がシュート体勢に入ったが距離があったか前線に出したスルーパスはそのまま川島の手中に収まった。
残り20分となり日本ベンチは2人目の交替選手李忠成に替えて何とハーフナーマイクを投入した。ハーフナーと言えば父親ティド=ハーフナーが日本リーグ時代に来日しマツダに入団し当時のサッカーファンで話題となった。子を持つ親としては選手よりもティドの心境の方が良く理解できる。もし本田の怪我が無ければ召集されただろうか…彼も何か持っているのかもしれない。



そのハーフナーにいきなりボールが入り北朝鮮ゴール前に迫り最後は長谷部が李哲民に倒されゴール正面絶好の位置でFKを得る。遠藤が狙うが惜しくもポストの左上に外れた。 72分42秒には内田のクロスを朴南哲を跳ね飛ばしてハーフナーがヘッドを放つがクリスバーを越えた。73分33秒には長谷部がドリブルで上がり相手DFを引きつけハーフナーに送り強烈なミドルを放つが今度はクルスバーを直撃する。そしてセーブに飛んだGK李明國がなかなか起き上れずUAE人の Ali Hawad Al Badwawi 主審はイエローカードを提示した。

北朝鮮ベンチは77分にボランチの李哲民を下げて20歳のFW朴成哲を入れる。 FIFA U-20 に出場した選手だけどどうしてボランチを下げたのだろう。これで日本の中盤が更にスペースが出来ると思った。
北朝鮮は鄭大世のワントップからパククァンリョンと2トップになったり鄭大成が2列目に入ったりするようになった。そしてJong Il Guan が前に出て来た。勝点3を取りに来るのだろうか。DFラインも80分を過ぎてから最終ラインを少し上げて来た。
ハーフナー対策だろうか….
80分に長谷部が右サイドをドリブルで粘りCKを得る。そこから繋いで香川が上げたところに岡崎がヘッドを放つがまたも李明國がファインセーブで弾き出す。82分15秒には遠藤のFKからファーサイドのハーフナーが放ったヘッドは李明國の正面に。
83分パククァンリョンが遠藤に入れたスライディングに一発レッドが出される。完全にスパイクの底面を向けてのスライディングだった。
パククァンリョンはなかなかピッチを去らない。スタンドからはブーイングが沸き起こる。劣勢の北朝鮮は1人少なくなってしまったがこれで完全に専守体制に入ると思った。そして得点は更に厳しくなるかもと思った。
88分清武の右からのクロスを香川が落とすがクリアーされ、続いて駒野のアーリークロスは李明國の正面に。 残り時間が1分半を切った。ロスタイムは何分あるのかなぁ….
でも日本はここ数年ロスタイムに何度もゴールを決めている。自分の中では得点の予感はあった。 朴成哲が強引にロングを放つが川島の正面に。しかし北朝鮮は勝つ必要はないこのままの状態で終われば良いのだ。北朝鮮ベンチは交替選手を準備する。あぁ明らかに時間稼ぎだなぁ…




競技場から駐車場に向かう道、土壇場でのドラマに酔いしれた青いレプリカを着る人達の幸福感が手に取る様に解った。
本当に良かったぁ~と言うのが本音だった。
“女の人殆ど背番号6のユニフォーム着てたよ。”
“6番、誰やった…”
“内田。“
“そうかぁ…原口は出番なかったなぁ。”
“次はいつさいスタで試合あんの?”
“最終予選まで無いぞ。”
“来年かぁ….”
“勝ち抜けるかわからんぞ。“
“そんなことないよ。”

こんな会話を息子としながら帰った。 本当に幸せな時代だ。代表は強くなった、女の子もサッカーやスポーツに興味持つ様になったし。 雨にたたられなかったし…

そして翌日私は商用で南半球に飛び立った。 なでしこの五輪予選突破とウズベキスタン戦のドローを知った。こういう結果もリアルタイムで解る様になった。 でもやっぱり試合はライブで見たいなぁ…。よし息子よ次は平壌に遠征だ....


沖縄 興南高校 春夏連続制覇 ……

2010-08-22 | Weblog

今年の全国高校野球選手権大会、注目されていた興南高校が史上6校目となる春夏制覇を達成した。両校とも打線は充実している一方で共に好投手を擁する高校の対戦なので一二三投手 ( 東海大相模高校 ) 島袋投手 ( 興南高校 ) の投手戦となるので打撃戦になるが投手戦になるか…と思った。

思い出の東海大相模…

私が初めて見た ( といってもテレビだけど ) 高校野球は40年前の決勝戦だった。
地元大阪代表のPL学園が決勝まで進出したので、と云う事でこの試合を途中から最後まで見たのだけど、その時の対戦相手が東海大相模だった。 
試合は東海大相模が先制し、PLがすぐに追い付いたけど打線に勝る東海大相模が追加点を重ねテレビを点けた時は 1-1 だったスコアーは 2-8 と点差がつき、PLが2点返して 4-8 となるが更に2点を追加され 4-10 とされ、最後はPLも頑張ったけど 6-10 で敗れた事を覚えている。東海大相模が優勝したというよりも子供心に大阪代表のPLが負けた….と云う印象がしばらく残った。
この時の東海大相模の監督が今の巨人軍の原辰徳監督の父親、原貢氏であった事はだいぶ後になって知った。そしてPL学園の投手は後に日拓ホームフライヤーズに入団し新人王も獲得した新美投手だった。(事も後で知った。)

小学校6年生の時に東海大相模が優勝した時以来甲子園に登場し、ガンガン打ちまくっていたのを覚えている。そして準々決勝で後にジャイアンツで活躍した定岡正二投手擁する鹿児島実業と対戦し延長15回の末惜敗するのだけど、この時に1年生でレギュラーで出場していたのが今の巨人軍原辰徳監督だった。監督は引き続き原貢氏でマスコミは“親子鷹”と紹介していた。 
この鹿児島実業戦もテレビでみていたのでけど、中継枠内に収まらず試合結果は翌日の朝刊で知った。この年の東海大相模は1回戦でも後に阪神タイガースで中心投手となった好投手工藤を擁する土浦日大と死闘を演じ延長戦の末勝利を収めた。今から考えたら後にプロで活躍する選手が何人もいた大会だった。
翌年から原辰徳人気がものすごくヒートアップし、クラスの(私も中学生になっていた)女の子達がキャーキャー言っていたのを思い出す。その人気を横眼で見て、ものすごく羨ましく、妬ましく思い、東海大相模なんて負けてしまえ…と友人達と言っていた。その怨念が通じたのか?東海大相模はこの間、選抜大会を含めて1度も優勝できなかった。今から考えればあれだけ強打者と好投手が揃っていても勝てなかったのが不思議なくらいだった。
しかし1980年のドラフトで愛するジャイアンツに原辰徳の入団が決まった時はものすごく嬉しかった…. 恐らく私と同世代は “東海大相模=原辰徳” と云うイメージがあると思う……

でもそんな東海大相模でさえ、2000年の選抜で優勝こそ果たしたが、夏の大会は33年も甲子園から遠ざかる時もあったんだなぁ……、俺が中学生の時以来の出場だったのかぁ….

判官贔屓は沖縄代表を応援する…..

まだ沖縄が日本に返還される前から沖縄県の代表校は甲子園に出場していた。 物心が付いて沖縄が返還される前、数度テレビ中継で見た高校野球の試合で沖縄代表を一生懸命応援した事を覚えている。確か普天間高校と名護高校と云う名前を記憶している。 
昭和43年の大会で沖縄代表の興南高校がベスト4に進出した事を後で知ったが(準決勝で優勝した大阪代表の興国高校に敗れた。決勝戦は後にジャイアンツのエースになった新浦を擁した静岡商業が相手だった。) 

私が初めて“見た”強い沖縄県代表校“ は昭和50年選抜大会の豊見城高校だった。エース投手は卒業後ジャイアンツに入団した当時2年生の赤嶺投手だった。 
当時、広島カープに入団後、阪神でローテーション投手だった安仁屋宗八投手以来の沖縄出身の逸材投手と言われていたのを思いだす。 沖縄で海洋博が開催された年でもあったので非常に注目されていた事も覚えている。
その豊見城高校が準々決勝で原辰徳打者らのいた東海大相模高校と当たった。エース赤嶺投手は強打者を寄せ付けない快投を披露。9回表を終わって豊見城高校が 1-0 でリードしていた。 そして最終回の攻撃も先頭打者を投手ゴロに打ち取り続く原辰徳を何と三振に打ち取り勝利まであと1人と云うところまで漕ぎ着けた。 
しかし続く津末(後に大洋、巨人)に当たりは良くなかったが2塁打を打たれ、更に3連打浴び東海大相模が逆転サヨナラで勝ってしまった。
子供心にものすごく悲しくなったのを覚えている…
翌年の夏の大会3年生になった赤嶺投手はチームをベスト8に導くが準々決勝で後に中日のエースとなった当時2年生だった小松辰雄投手と投げ合い 0-1 で惜敗した。この試合、甲子園で実際に観戦をした…
だが豊見城高校の躍進以降、沖縄県代表校は比較的強いとの印象が持たれるようになり、高校野球で全国優勝をと云うのが沖縄県民の願いとなったと記憶している。 35年前の話だ……

両チーム好投手を擁し打線も準決勝戦まで東海大相模が4試合51安打34得点打率 .357 興南が5試合64安打37得点打率 .379 の強打を見せつけて来た。 
打撃戦になるか、投手戦になるかも見どころの一つ。ただ準決勝戦は興南・島袋君が報徳学園相手に2回までに5失点。東海大相模一二三君も3点の先制点を貰いながら中盤に打ちこまれ一旦は 3-6 のリードを背負った。 両チームともリードを許しても打線が爆発し決勝戦進出を決めた。 島袋、一二三両投手が完投していたので、やっぱり打撃戦になるかなぁ…と思った。

試合は序盤の3回まで共に無得点。東海大相模の方が初回と3回にチャンスを掴んでいた。均衡が破れたのは4回裏1死2,3塁から伊礼君がセンター前にタイムリーを放ったのだが、先頭打者の真栄平君が歩いた後に銘苅君のバント失敗の後を受けた山川君がヒットエンドランを決めて伊礼君に回したのが大きかった。更に続く島袋君の打席、スクイズを見破りながら、悪送球で2点目を許してしまった。
そして島袋君を打ち取った時にはこのまま2失点で済むかなぁ…と思ったけど、やはり連戦の疲れが残っていたんだろうなぁ…..自慢のストレートのスピードが 140km を割っていた。この回の先頭打者の真栄平君は4番だけどそれまで打率1割台だった。それでも四球を選んで出塁するあたりはさすがだとも思った。
いきなり7点のビハインドを背負った東海大相模だが以降も一二三君が打ちこまれてしまい6回までに13点差に広がっていた。 6回には準決勝の報徳戦で4安打の我如古君が試合を決定付ける3ラン本塁打を放ったが、一二三君をここまで引っ張るとはわなぁ…と少し気可哀そうに思ったけどここで降板させる方がもっと可哀そうだったかもしれない、いやそう思う事が失礼なのだと反省した。

   
 

だが7回から登板した3年生の江川君は3安打を打たれたが2回を無失点に抑えた。 きっと良い思い出になっただろうなぁ….

それにしても興南打線はこの日も良く打ちまくった。 特に1番国吉陸君、2番慶田城君そして3番我如古君の3人で9安打6打点。 準決勝の報徳戦も8安打4打点。 更に言えば彼ら3人と5番の銘苅君の4人が今大会10安打以上を放った。下位打線でも7番伊礼君が6打点、8番島袋君が4打点、9番大城君が5打点とどこからでもガンガン打ってくる打線だった。
そして決勝戦でも完投勝利を収めた先発の島袋君はこの試合は4奪三振に終わったが今大会は6試合に登板し51回を投げて53の三振を奪った。左投手で脚も早いのできっとプロが目をつける逸材だろうと思う。 

    


7回表、東海大相模の9番打者伊知地君が島袋君の低めの球をレフト前に運び1点を還す。 もちろん勝敗には直接関係する打点では無かったが、一矢報いた快打にスタンドからは拍手が送られる。 例え10点以上の点差が付いてもリードされている方は必死に次の1点を取りに行き、観客はその懸命なプレーに拍手を惜しまない。高校野球決勝戦だけでなく地区大会の試合でもそれは一緒だろう…

自分は最後は挫折して競技を辞めたのでどうしても敗者に目が言ってしまうなぁ…..

だがその拍手が沖縄代表校でなく東海大相模に送られた事が時代の流れを感じる。そしてこんな展開になると予想した人は殆どいないのではないかなぁ…

そして9回表の東海大相模の攻撃も2死。3年生の宮崎大将君が代打に送られるが三振に打ち取られる。 それでも3年生になって最後に甲子園で打席に立てた事は後で良い思い出になると思う…

優勝旗が遂に沖縄県に渡る事になった。沖縄県民の喜ぶ姿が連日伝えられる、優勝した興南高校も準優勝となった東海大相模も本当におめでとうだ。 
甲子園の夏は終わったけど、まだまだ猛暑の日は終わってくれない。  
息子は来年から高校生だ。 自分が中学から高校になった時、高校野球の見方がはっきりと変わった。 

今度は親として自分の子供が高校生になった時にどんな見方になるんだろう…

それが今は楽しみなのである。  

    


12.June 2010 England の初戦はアメリカ

2010-01-03 | Weblog
上の写真を観て今多くの England サポーター達は苦笑を浮かべる事だろう。
ワールドカップ史上最大の番狂わせと言われた1950年ワールドカップブラジル大会の England 対 USA の試合後の有名な写真だ。担がれているのは殊勲の決勝ゴールを決めた“アメリカ代表選手”の Joe Gaetjens 。
England が最も気にする初戦のアメリカはワールドカップではこの試合以来の対戦となるが 60 年前の試合はどういう試合だったのだろう…

1950年ワールドカップブラジル大会 England 対 USA

第二次世界大戦が終わって初めてワールドカップに出場した England は当時でも世界最強 “ King of Football “ と言われていた。世界最高の選手 Stanley Matthews らを擁しての戦後5年間の戦績は23勝4敗3分。そして対する米国は選手全員がとてもサッカーでは生計を立てられないセミプロと云うよりもアマチュア選手。学校の先生。街馬車の騎手、郵便配達そしてレストランの皿洗い等を生計の足しやむしろ生業としていた。2年前のロンドン五輪ではイタリアに 0-9 で惨敗したがその時のメンバーは1人も入っていなかった。当時の五輪では週に20ドル程度を“稼ぐ”選手でも“アマチュア”とは認められず五輪には出場できなかった。誰がどう考えても England が負ける相手では無かった。
England は初戦のChile を 2-0 で破り、米国はスペインに 1-3 で敗れた後の第二戦だった。米国はスペイン戦から選手を2人替えて、England は初戦と同じメンバーで第二戦を迎えたが England は Matthews を初戦に続いてベンチに温存した。それでも後に England をワールドカップ優勝に導いた Alf Ramsey ら世界屈指のタレントが揃っていた。試合前米国のBill Jeffrey 監督は報道陣には“ We have no chance “ とコメントしていたらしい。

前半37分アメリカ先制 !!

コイントスで勝った England がキックオフを取った。開始90秒Stanley Mortensen の左サイドから Roy Bentley にクロスが送られ最初のシュートが放たれたが GK Frank Borghi が弾き出した。そして以降予想通りにEngland の猛攻で試合が進み最初の12分で6本のシュートが飛んだがそのうちの2本はポストを叩き Borghi のセーブもあり得点は許さなかった。25分にアメリカはようやく最初のシュートを放つがこれは England GK Bert Williams に防がれた。
その後も England の猛攻は続き30,31,32分に立て続けにシュートに持ち込むが Stan Mortensen が放った2本のシュートがクロスバーを越え、Tom Finney が放ったヘッドはまたも Borghi に弾き出される等ゴールを割れなかった。
そして37分。 Walter Bahr がゴール前約20mのところから England ゴール前にボールを入れると そのボールを受けようとGK Williams が右に動くが長身の Joe Gaetjens が間に割ってヘッドを放つとそのまま England ゴールネットを揺らし劣勢であったアメリカが初戦のスペイン戦に続いて先制ゴールを挙げた。
England は終了間際に Tom Finney がシュートに持ち込もうとするも撃つ前に前半終了のホイッスルが鳴った。

England 猛攻及ばず アメリカが歴史的勝利 !!
後半も England の猛攻で試合が再開し54分、59分には決定機を掴んだが59分の Mortensen の直接FKが GK Borghi のセーブに防がれる等得点に至らない。 アメリカが後半に最初のシュートを放った時間は74分でそれだけだった。
そして82分、Mortensen がPA付近で Charlie Colombo に倒されホイッスルが鳴る。 England の全選手がペナルティーキックと思ったがイタリア人の Generoso Dattilo 主審はFKを与えた。 そのFKから Jimmy Mullen がヘッドでゴールを狙うがまたも Borghi が指先で弾き出し決定機を防いだ。そしてそのまま England はゴールを奪えずアメリカに歴史的な完封負けを喫した。 
“判官贔屓”の地元ブラジル人観客はグランドに雪崩込み殊勲の Joe Gaetjens を担ぎあげた。 地元での初優勝を願うブラジル人は England の敗戦を祈ったとも言われている。
この試合の結果報道を見た England の多くの人々が新聞社に “ 1-0 でアメリカの勝ではなく 10-0 で England の勝利のタイプミスだろう“ と抗議した事は有名な逸話だが、この時の Top News は 同日 England の Cricket チームは初めて West Indies チームに敗れた事であった。 
またアメリカではこの大会にジャーナリストを1人しか送らず、しかもその St. Louis Post-Dispatch 紙の Dent McSkimming 氏は有給を取って自腹でブラジルに来ていたらしい。そして彼の報道を掲載するメジャーな地元紙は1社だけだった。

敗れた England は1次リーグ最終戦のスペイン戦に Stanley Matthews を起用するなど選手4人を入れ替えて臨んだ。この試合に2点差で勝てば Final Round 進出 ( この大会はグループ首位のみが Final Round に進出 ) の可能性もあったがアメリカ戦敗戦のショックのせいか 0-1 で敗れてしまい1次リーグで大会を後にした。 
そしてアメリカは続くEngland 戦と同じメンバーで最終戦のチリ戦に臨んだ。前半に2点を失ったアメリカは後半開始早々に Frank Wallace, John Souza の連続ゴールで追いつくもその後3連続失点を喫し大会を終えた。 
この時のアメリカ代表の出場メンバーは8人がアメリカ国籍の選手であったがゴールを決めた Gaetjens , Ed Mcllvenny, そして Joe Maca の3人はアメリカ国籍では無かったが市民権を得る意思を持っていた事からメンバーに入れたとアメリカ連盟は説明し同年12月2日にこの選考は(当時は)間違いが無かったという事を FIFA のヒアリングで明らかにした。

当時1940年代後半から50年代初旬にかけて、アメリカ合衆国にとって Soccer とは今にも壊れそうなものだった。全国土をカバーする “ 全国リーグ “ は存在せず東海岸地区と西地区では移民の影響の強い Chicago と St.Louis のみで行われていた。 選手達はセミプロで週40時間働いて日曜日に開催される試合に臨んでいた。 Walter Bahr は体育の教師として週にUS$50稼いで週末の試合でUS$25 を得ていた。Gino Pariani は週に2回近所の空き地で練習しており暗くなると車のライトのもとでボールを追いかけていた。
当時の”ハイライト“は各リーグの勝者が集って行われる “ National Challenge Cup “ と欧州のオフシーズンの夏季に渡米する欧州のクラブチームとの Exhibition Match であった。1946年と 1948年には Liverpool 、1949年には Newcastle, Scotland 代表、 Inter Milan , Manchester United と Besiktas は1950年に渡米しそれぞれ全米選抜チームと対戦した。 そして Joe Gaetjens は1950年5月に渡米した Besiktas との試合に全米メンバーとして出場し 3-5 と敗れたが3ゴール全てを決めた事が評価されワールドカップメンバー入りとなった。(ただある文献によればこの試合は 0-5 で敗れ、彼は出場しなかったとされている。)
当時の選考は”公平を期す“為に東西両海岸のチームから8名ずつ選ばれた、とメンバーの Walter Bahr は語った。  

Capello 自身、優勝候補として臨んだ1974年ワールドカップ西ドイツ大会でイタリア代表が予選を含めて2年間ゴールを許さなかったがワールドカップ初戦、格下のハイチに Emmanuel Sanon に先制ゴールを許すなどいいところなく1次リーグで敗退したがその苦い思い出を“お粗末な体調の結果”と帰結している。
そして アメリカは今や世界ランク14位( England は9位)で1950年とは比べ物にならないくらい躍進をしている。最近のワールドカップでの実績も2002年大会ではポルトガルを相手に開始35分の間に3連続ゴールを挙げ決勝トーナメント進出を収め、2006年大会ではイタリアと激戦の末勝点1を得ている。
2008年 Capello の指揮の下 England は Wembley にアメリカ代表チームを迎え John Terry, Steven Gerrard のゴールで2-0 で勝利を収めたが油断は大いに禁物と常に Capello は警鐘を鳴らしている。昨年の FIFA Confederations Cup では北中米地区代表で出場しスペインを破り決勝戦ではブラジルを大いに慌てさせた実績を持つ。そしてそれが南アフリカで行われたという事が彼らの自信を深めている。

ワールドカップブラジル大会以降 England はアメリカと親善試合8試合を行っており7回勝っているが、1993年6月9日、地元ワールドカップ開催を翌年に控えた名将 Bora Miltinovic 率いるアメリカ代表は Boston 近郊に England を迎え 2-0 で43年振りの勝利を収めた。そして England は欧州地区予選を突破できなかった。

“私は常にもし決勝に進出したいのならば全てのチームを破らねばならないと言っている。まず最初の3試合をこなせねばならない。そして全てのゲームが容易ではないそれはワールドカップはプレッシャーの中で行われる特異なものであるからだ。 私はアメリカチームを尊敬しているそしてここでのスペイン戦を観戦した。彼らはどうプレーすべきかを知っているなぜなら既にここ南アフリカで試合を行っているからだ。 しかしスペインがここに来た時はトップコンディションではなかったことも頭に留めておかねばならない。我々は全ての対戦相手を敬うが全ての試合に恐れを持って試合をする事はない。” Capello はこう手綱を締める。
そして50年前の試合を述懐した England の Tom Finney は”我々は素晴らしいチームだった。当時は世界最高のチームと言う人もいた。弁解は出来ない。当然のことだった。我々はただ自分達の自己満足に敗れたのだ。“ という言葉を残している。

Landon Donovan は David Beckham の表情をよく見たかった。カメラは女優の Charlize Theron を捕えていたので Donovan はEngland がアメリカとの対戦が決まった瞬間の Beckham の表情をよく見られなかった。
ワールドカップの組み分け抽選の時、Donovan はアメリカでテレビ中継をそして Beckham は Cape Town のステージの上にいた。そしてその瞬間はカメラは Beckham を捕えてはいなかった。
“その瞬間 Beckham がどんな表情をしていたか見られたらなぁ…と思ったがこれは面白い事になる、と私が考えた事と同じ事を彼も思っていただろう。”
Donovan は語っている。今は Beckham と Donovan はいい関係を築いているが、かつての事をご存じの方も多いだろう。
”メディアがこのゲームを面白おかしく取り上げるのは確実だ。しかし私は大変楽しみにしている。明らかに我々の任務はそういう事を遮断してチームの事を按ずるだけだ。 しかし England との最初の試合は大変エキサイトなものだ。“

Bob Bradley アメリカ代表監督は組み分け抽選後こう述べた。
“アメリカが England と対戦する事は両国間にとっては大変な興味で偉大な TV イベントとなるだろう。 米国選手が多くプレーする Premiership は米国でも人気となっている。偉大なチームと試合をするときは常にハードでタフな試合になる。Wayne Rooney の様な選手がピッチに現れる時は注意を払わねばならない。 そしてそういう選手と争う準備をせねばならない。大変なバトルとなり大変な対戦相手となる。England はハードにタフにプレーするので我々はそれに備えねばならない。こういうトップチームを観た時、最初の試合で England と試合をするという事はビッグなチャレンジでエキサイトなチャレンジだ。 我々はハードワークをするチームで、フィールドで必要なメンタルを兼ね備えている。 攻撃と守備とのバランスを常に取り続けて来た。 我々は4年間で進化を続けて来たチームだ。 Confederations Cup では我々の必要な準備の全てを手助けてくれた。”

中心選手のFW Charlie Davis が自動車事故で大会出場が危ぶまれるが Confederations Cup で準優勝を収めた事は自信になっている。そして現在の中心選手達の所属先は下記の通りだ。

Howard (Everton), Guzan (Aston Villa), Hahnemann (Wolves), Spector (West Ham), DeMerit (Watford), Beasley (Rangers), Dempsey (Fulham), Johnson (Fulham), Altidore (Hull City) Starting XI: Howard, Spector, Bocanegra (Rennes), Onyewu (AC Milan), Bornstein (Chivas USA), Bradley (Borussia Monchengladbach), Holden (Houston Dynamo), Donovan (LA Galaxy), Clark (Houston Dynamo), Casey (Colarado Rapids), Davies (Sochaux)

多くの選手がPremierを始め欧州でプレーする。そして MLS 全日程を終了したDonovan も今年から ワールドカップ前まで Everton でプレーする。 

  


最後に60年前アメリカに奇跡の勝利をもたらした1人、 Joe Gaetjens の事を調べてみた。彼はアメリカ国籍を持っておらずハイチ国籍の選手だった。 1947年ハイチ政府から奨学金を得て New York の Colombia University に会計学の勉強の為に留学をしていた。父親はベルギー国籍をもっており母親はハイチ人だった。しかしそれほど裕福でなかったので政府奨学金を得ての留学だった。そして滞在費を稼ぐ為にドイツレストランで皿洗いのアルバイトをしていた。
前年メキシコで開催された北中米地域の予選時にはメンバー入りしておらず最終的にメンバー入りしたのは上述した Besiktasa 戦、またはチームがブラジルに出発する数週間前に F.A. 選抜チーム ( Stanley Matthews, Nat Lofthouse らがいた)と非公式に試合を行い、その時のパフォーマンスが認められたとも言われている。 

大会後 Gaetjens はアメリカ国籍を取得せず England 戦の次の Chile 戦を最後にアメリカ代表としてプレーする事はなかった。 ワールドカップ後は渡仏しフランスの名門Racing Club de Paris そして Troyes でプレーし、故郷ハイチに帰った。 
そして次のワールドカップスイス大会の北中米地区予選のハイチ代表メンバーに選ばれた。そして Port au Prince でのメキシコ戦に出場し 4-0 で敗れている。そして引退しドライクリーニング屋を経営するようになった。

しかし1964年7月8日、悲劇が彼を襲う。当時ハイチは 1957 年に大統領に就任した Papa Doc Francois Duvalier が前年から憲法を停止し、終身大統領を宣言したまさに独裁恐怖政治に入ったばかり。 市民を恐怖のどん底に陥れた秘密警察 Tonton Macoutes は片っ端から反体制者を逮捕し死刑を敢行してきたが Gaetjens にもTonton Macoutes の手が伸びて来た。彼自身は政治色の無い人間であったが彼の両親がDuvalier の政敵だったLouis Dejoie の支持者だった。そのおかげで Gaetjens は政府奨学金が得られたらしい。Duvalier が大統領になるや否や母親と兄弟は逮捕され国外追放となっていた。 そして投獄2日目に Gaetjens の姿が確認されたがそれが最後の姿だったらしい。彼が収容された Fort Dimanche 刑務所は投獄された何千人もの無実の人達が処刑されていた。
Duvalier の独裁政治は彼が心臓病を患い1971年4月に死亡する3か月前に当時まだ19歳だった息子の Jean-Claude Duvalier が大統領職を世襲して1986年失脚するまで続いた。そして Gaetjens の兄弟がようやく帰国出来るようになり彼を探したが、” Fort Dimanche 刑務所に収監されたものは全て処刑された。“と伝えられた。 Haiti 政府は 2000年に Gaetjens の功績を称え彼の記念切手を発行した。しかし遺族たちは Gaetjens の死にを明らかにするようにキャンペーンを行っているが未だ政府から正式な回答はないらしい。  

         

2006年4月(ちょっと古いか)現在、当時のアメリカ代表メンバーの中で Walter Bahr, Gino Pariani, Harry Keough, John Souza そしてファインセーブを連発した GK Frank Borghi が存命とのことだった。

歴史を掘り返してみるのもワールドカップの醍醐味だと思う。

今年6月どの試合後でもいいから、誰でもいいから日本選手の誰かがこういう風に担がれて、後世に語り継がれるような試合が演じられることを心から願う......


夢の対決 Bledisloe Cup 観戦記

2009-11-07 | Weblog

10月31日。関東地方は晴天に恵まれた。おそらく全国的にそうであったと思う。
この好天気は翌日11月1日まで続き11年振りに11月に夏日を記録したらしい。
2か月以上も前から楽しみにしていた Bledisloe Cup 。心配だったのは天候。折角の Big Game なので雨だけは降ってほしくなかっただけにこの天候は本当に嬉しかった。
その日の朝は土曜日にも関わらず New Zealand 、Australia の取引先から携帯に電話がかかって来た。Kiwi の電話主は自信に満ち溢れた口調で、 Aussie の友人はやや不安げな….対 All Blacks 戦6連敗中と云う事実が二人にそうさせた事は想像できた。

All Blacks は1987年来日した事があった。その時対戦した日本代表から100点以上の得点を重ねた。もっとも観客が沸いたのは確か日本代表、沖土居稔がトライを挙げた瞬間だった事を覚えている。
そして日本遠征の最終戦、雨の中で行われた世界選抜チーム President 招待 Fifteen を相手に勝利を収め同年に行われた第一回 Rugby World Cup 覇者の強さを、そして日本との差をしっかりと見せ付けた。
1995年南アフリカで開催された第3回 のワールドカップでもグループリーグで日本を 145-17 で粉砕した事を覚えている方も多いだろう。その3年後からニュージーランドを商用で訪れることとなったが初めて訪れたその地で何人ものタクシードライバーにその事を言われた。

一方のオーストラリア代表 Wallabies は私の記憶では1978年に来日したことがあるはずだが(記憶違いかもしれない。)日本代表との試合後の会見で日豪の選手達との体格差を埋めるにはどうすればいいかと云う質問を受けた当時の監督が真顔で “オーストラリアからもっと牛肉を輸入したらいいと思う。”と答えたと報道された事を覚えている。 

   
   

この両国が日本で対戦する事を知った時、すぐさま前売り券の購入に走った。
売り出しと同時に即完売になると想像していたからだ。しかしチケットは即完売にはならず当日券も残っていたらしい。理由は簡単。チケット代の高さだろう。 
会場となった国立競技場の陸上競技トラック上に特設された Premium Pitch Seat が何と7万円。Category 1 で2万円。一番安い一般自由席 Category 4 で大人7000円。子供3000 円だった。私は家内に内緒で Category 1 を購入したがあとでばれてしまった……

競技場が近づくにつれて電車内にはGold 色(と言っても黄土色に近いけど)の Wallabies のレプリカを着た Aussie 達が目につくようになった。私は All Blacks のジャケットを着ていたのでよく彼ら、彼女らに声を掛けられた。“All Blacks のユニフォームを着ている日本人が何故多いのか?”とも訊かれた。
“日本では All Blacks が一つのブランドの様になっている。黒色はCasual でも着られる。それに日本でも購入可能だ。私のは円高の時に New Zealand で買った。残念ながら Wallabies のは日本ではよほどのラグビーファンでないと知られていない。” と答えた。
そして読んでいた New Zealand と Australia の地元紙の電子版 のコピーを見せた。二日前の練習中に S.O. の Berrick Barnes が怪我をしてこの試合に出られそうにない事を知るとみな頭を抱えていた。これでWallabies は Rob Horn , Stirling Mortlock に続いて中心選手の離脱となり、ただでさえ Bledisloe Cup 3連敗を含む対 All Blacks 戦6連敗中の Wallabies のこの試合の結果を暗示しているようだった。

千駄ヶ谷の駅からは多くの Gold and Green のユニフォームを着たAussie 達が目に付いた。そして黒色のユニフォームを着るのは日本人が多かった。競技場内に入り Official Goods Shop を探し出すもその前は多くの人々が記念 Goods を求めている。日本人ならではの光景。(俺もその一人だけど。)3年前ワールドカップ観戦にドイツに行った時も日本戦とそうでない時の競技場周辺の Souvenir Shop の周りはかなり違った。席に就いたが Category 1 にしては少しピッチが遠い。 それでも全体が良く見えていいか….と思ったけど5,000 円は還元してほしいなぁ….と思った。

私の後ろには南アフリカ人、そしてKiwiに交じってアジア系の人達合わせて4人が座っていた。アジア系の二人も Native な英語を話していたので訊けばみなシンガポールに住んでおりこの試合の為に来日したそうだ。 “南アフリカにはまだ行った事は無い。来年のワールドカップ観戦に行きたいけど、ちょっと遠い。3年前にはドイツにいったんだけど…..” “日本はもう予選をとっぱしたのか?距離の問題だけなら、来るべきだ。“とは言われたけど距離だけの問題でもないしなぁ…. 
Kiwi とは11月14日のワールドカップ予選のバーレーン戦の話になった。こんなところでサッカー談議になるとはなぁ……

私の席はバックスタンドの後列の方で、前列はほとんどGold and Green で埋め尽くされていた。後で知ったがそこはAustralia , New Zealand からのツアー客にあてがわれた席であった。Aussie 達が多かったのは今の為替レートが大きく関係しているに違いない。Australian Dollar は@AS$=約80円だが New Zeland の為替レートは2割近く安くなっている。

   
  
選手達がピッチに現れアップを始める。一流選手はアップ一つ観てもやはり金を払う価値はある。そして試合開始時間が近づき日本が2019年のラグビーワールドカップの開催国に決まった事等も報じられた。10年後、その時はどうなっているだろうなぁ…
お偉方のスピーチで最も印象に残ったのが元内閣総理大臣の森喜郎日本ラグビーフットボール協会会長のスピーチ。マイクが回ってくると開口一番 “大変なことになりました。” と一言。一瞬 “自民党が選挙で負けて野党になったことか?”と思ったが、こういう試合を日本で開催される事となった…云々であった。
後ろの4人に“彼は8年前まで日本の Prim Minister だったけど。在任期間は1年だけだった。”と説明した。
2005年にはワールドカップ 2011 年大会の開催地を巡ってニュージーランドとの対決となったがニュージーランドは現職の首相 Helen Elizabeth Clark 女史までが最終ロビー活動に参加し24年振りのワールドカップ誘致に成功した。その時の日本側の団長は森喜朗氏だった。欧州のメディアはこの時 “世界に振興させる必要のあるラグビー競技を考えると開催国は日本であるべきだが、この決定は2003年大会がオーストラリア単独開催であったことによる consolation だ。”と報道していた。
森喜朗氏は自民党総裁選挙無しに首相に就任し“蜃気楼内閣”とか“支持率消費税(5%)並み”とか言われ、数々の失言やゴルフ中に発生した“えひめ丸事件”後もプレーを続けた等失態が相次いだが、心臓病治療目的で来日ビザを申請していた台湾の李燈輝元総統に河野洋平や福田康夫ら親中国売国奴らの抵抗にも屈せずビザ発給を決めた時はさすが日本の首相と思った.

    


両国選手達が入場し国歌が斉唱され、そしてAll Blacks のメンバーが隊を組み Wallabies のメンバーが一列に肩を組んで並ぶ。 この時ばかりは44,000 人いた場内が水を打ったように静まりかえり All Blacks の HAKA を待つ。私も彼らの HAKA が生で観られるのが本当に楽しみだった。そしてしっかりと動画を撮った。




HAKA が終わり大歓声が上がり、そしてキックオフとなった。 試合は主力の故障続出の上に Hooker の Polota-Nau まで故障が完治せずベンチスタートとなりかなりの劣勢が予想された Wallabies が最初の6分と10分に得た PG 2本を Matt Giteau が決めるスタート。All Blacks は最初の10分間で南アフリカ人の Mark Lawrence 主審に5つのオフサイド等の Penalty を取られた。 Wallabies のスタメンは Polota-Nau が49分に投入されるまでは Stephan Moore が起用され、2日前に離脱した Barnes のポジションには Adam Ashley Cooper が入り full back には19歳の James O’Connor が入った。 

しかし14分に All Blacks は Daniel Carter のPGが決まり 3-6 とすると21分には Loose Forward の Ricie McCaw からボールを受けた Wing の Sitiveni Sivivatu がトライを左隅に決め、Conversion Goal もCarter が難なく決めて(結構難しいと思ったけど。)あっさりと10-6 と逆転してしまった。隣に座っていた人が言うには Wallabies はラインが深すぎてマイボールになった時に球離れが少し遅くなってきたらしい。 

29分に Giteau が22mrラインのそぐ外の右タッチライン付近で得たPG を32分には Carter が22mラインの少し後ろの真正面からのPGをそれぞれ決めてスコアーが 13-9 となった34分 Sivivatu が Adam Ashley Cooper の肩と首にタックルを入れたのが dangerous tackle に取られイエローカードが出されて10分間の退場となった。

そしてその直後 Wallabies halfback の Will Genia が右サイドの Peter Hynes にボールを出し、Hynes はそのまま右隅に飛びこむ。 トライを阻止しようとは Half Back の Jimmy Cowan ら3人の All Blacks がタックルに入る。ビデオ判定となり審判団が約4分間協議をした結果 Hynes のトライが認められ、Conversion Goal もGiteau が決めてWallabies が16-13 と再びリードを奪った。 Hynes のトライはWallabies の対 All Blacks 戦270分振りのトライだったらしい。Wallabies の右サイドはSivivatu が退場になったので空いた位置でもあった。

更に前半終了直前、All Blacks ゴール前のスクラムから Number 8 のWycliff Palu が飛び込みゴールラインを越える。またもジュリー会議となったが今度は最後にタックルに入った Cowan がしっかりと阻止していたとの判定。そしてホイッスルが鳴り Wallabies リードのまま前半が終わったが最後のプレーがトライになっていれば試合の流れは大きく変わっていたと思う。   



ハーフタイム中におおくの人が席を立ち売店などに行ったと思うが、この日の国立競技場は満員となり多くの人が後半開始のキックオフには間に合わなかった様だ。ここに来るまでにおにぎり等買いこんでいたのが本当に正解だった。ハーフタイム中に隣に座っていた初老の方と話した。ラグビー経験者らしくルール等解り易く教えてくれて有難かった。“ここが満員になるなんて早明戦くらいじゃないですか?”と言っておられたので、そうですね。私が学生の時はラグビーの方がサッカーよりも人気ありましたね。と答えた。

後半に入っても人数の1人多い Wallabies がやや優勢に試合を進める。しかしなかなトライのチャンスが訪れない。それにラインアウトでも劣勢だ。44分には Sivivatu が戻って来て人数が揃ってしまった。そしてその直後にショートパスを何本も繋がれ最後は TB Conrad Smith に中央にトライを決められてしまい更にconversion kick もCarter があっさりと決め All Blacks が再び 20-16 とリードを奪った。 
49分にWallabies ベンチは Stephan Moore と Mark Chishlom を下げて Dean Mumm そして Tatafu Polota-Nau を投入する 196cm の Mumm を投入したのはラインアウトを挽回する為か?彼のポジションは Lock か L.F. そのポジションがラインアウトと関係あるかはまだ勉強不足でしらないけど……



人数が揃いリードを奪い返した All Blacks は完全に試合の主導権を握り返してしまった。それでも No.8 のWycliff Palu, フランカーのDavid Pocock の二人が特に必死のディフェンスを見せ追加点を許さない。しかし60分、66分に連続して Carter にPGを決められ 26-16 と10点差が付いてしまった。60分のPGは角度的に少しきついかと思われたがそれでも難なく決める Carter もさすがだった。それでも29分 All Blacks 陣内深い位置で相手の反則を誘いペナルティーを得る。スクラムを選ばずPG を選択しそれを Giteau が決めて 19-26 とした。

“まずは7点差、1トライ、1ゴール差と云う事ですね。” 隣の初老の方とそう話をした。しかしその2分後またもPGを与え Cater が決めて10点差に。 更にその3分後にも Carter がこの日6つ目の PG を決めて 32-19 と All Blacks が Wallabies を突き放す。 そして87分には Carter が御役目ごめんと Steven Donald と交代で大歓声を浴びながらベンチに下がった。こうなるとどちらでも良いのでもう一度トライシーンを観たいと思った。

     

終了直前に All Blacks が Wallabies のゴールラインを割りトライ !! と思われたがその前に FW Adam Thompson がノックオンをしてトライには至らなかった。タイムアップ直前に All Blacks の Tony Woodcock と Conrad Smith が小競り合いを始め両軍入り乱れての乱闘とまではならなかったが試合が少しの間中断したが試合終了を告げるホルンが再会直後に鳴り響き、80数分間における世界最高峰の真剣勝負が文字通りノーサードとなった。

   

優勝カップがこの試合のMVPとなった Richie McCaw に手渡されたけど手渡した森喜郎氏の方が興奮気味に見えた。

    

帰りは久々に千駄ヶ谷迄混雑に見舞われた。車中で旦那さんが Kiwi 、奥さんが日本人そして御子さんが二人という家族連れに遭遇した。旦那さんは Wellington 出身で仕事の都合で日本に来る事になり奥さんと知り合われたらしく、今は流暢な日本語を話せるようになったとか…でも子供にはラグビーをやらせるかどうかはわからない(二人とも男の子)とのことだった。うちも息子にはさせられるかなぁ…..ってな話をしながら、そして日本シリーズの初戦を気にしながら帰った…..

そしてこういうビッグマッチを日本で観戦できる事を感謝しながら…..


ある国の ”売春婦” 問題 

2009-01-24 | Weblog

Ex-Prostitutes Say South Korea and U.S. Enabled Sex Trade Near Bases
(元売春婦は語る韓国とアメリカは基地周辺の性産業を可能にした。)

  

氏(写真女性)は韓国のアメリカ軍基地の近くで売春婦として働いていた。その行為はアメリカと韓国の当局には認められていた。

韓国は何年にもわたって戦争中の最も醜い出来事に対してどれほど責任を負うのかどっちつかずの態度をしている日本政府に対して抗議を続けてきた。それは韓国人女性が日本帝国軍隊に仕える為に売春宿で働くために奴隷にされた事だ。

 

29歳の時の 氏。80歳になる今は福祉施設で酸素マスクを使用して生活している


今、韓国の元売春婦グループが自国の元指導者達のある職権乱用を告訴している。それは彼女達を北朝鮮から韓国を守る米軍の兵士と SEX をする事を促し続けた事だ。 彼女達はまた1960年代から80年代にかけて性産業を手掛けた韓国政府と米軍が共同で過去に売春婦達が原因で米軍大隊が性病にかかる事が確実に起こらない様に検査や治療をする施設を建てていた事も告訴した。
その期間中、米軍当局や韓国政府が彼女達を力づくで売春婦にした事は取り上げず、韓国自身の歴史を重視する事を拒みながら日本に補償を求める韓国政府も偽善にも非難を浴びせた。
“私達の政府は米軍の為の巨大なポン引き組織だった。” 元売春婦の一人58歳の Kim Ae Ran は最近のインタビューでこう答えた。

この問題の専門家達は、韓国政府はアメリカ軍が撤退してしまうのではと言う恐怖にかられ、とにかく引き留めようとしていたと言う部分もあったのではないかと見ている。
しかし売春婦達は、政府も彼女達を経済的にあえいでいた朝鮮動乱後10年間の韓国経済を輝かせる“商品”として見ていたのではないかとほのめかす。
元売春婦達は、政府は彼女達自身を “売り込む”事が容易に出来る様に英会話とエチケット教室のスポンサーになったりしたばかりか、官僚を派遣し当時の韓国では欲しくてたまらなかったアメリカドルを稼いでいると称賛してまわったと語った。
“政府の官僚達は出来るだけたくさん私達を G.I. 達に売らせようとしていた。私達を”ドルを稼ぐ愛国者“と称賛していた。”  Ms. Kim はこう語った。
専門家たちはアメリカ軍もまた共にいわゆる“ Camp Town ”の周辺の性商売の管理に加担していたと言っている。なぜならそれは性病の蔓延を危惧したからだ。ある女性達は、最も過激だった事は60年代から80年代の間、米軍憲兵達と韓国政府の役人が病気を蔓延させている原因と考えられた女性を探しに定期的にクラブに踏み込んできた事だと語っている。彼らはそういった女性達を番号札を使って選び兵士達により安心して自分たちのセックスパートナーを選べるようにされていた、と彼女達は語っている。
韓国の役人達は感染の疑いのある女性達を連れ出し窓に鉄格子のはめられたモンキーハウスと呼ばれていた監視付きの小屋に押し込めていた、とも彼女達は言った。そして彼女達は病気が治るまでそこで治療を受けさせられていた。
補償と謝罪を求める元売春婦達は自分自身を第二次世界大戦中に日本人によって売春行為を強いられた事に同情を得ている、いわゆる “慰安婦” と自分自身を比較している。 売春行為が自発的なことか強制されたことかどちらであれ、自分達は政府の政策の犠牲者だと彼女達は言っている。

” もしこの議論は政府が共謀してこの様な基地の街の売春婦を支持していたのかとどうかなると、そのとおりだ、韓国政府とアメリカ軍が共にかかわっていたと言える。“ 
こう語るのは1997年にこの様な女性達の事を描いた Sex Among Allies ( 同盟間のSex ) の著者Katharine H.S. Moon である。
韓国の女性問題を取り扱っている男女平等省 (Ministry of Gender Equality )は元売春婦達の告訴についてのコメントを避けている。 この件に就いて非合法な人権侵害や売春を支持したり容赦をしたりしない“と公式声明を出しているソウルの在韓米軍当局も同じだ。
New York Times は米軍基地付近の売春宿で働いていた元売春婦8名にインタビューをした、そして韓国とアメリカの書類資料を再び調べてみた。 その文書にはまさに、スナップ写真が多かったが当時の売春婦達を支持する何かの証拠が記されていた。彼女達は何十年にも渡ってその起こった事をふと思い出す。
別の考え方をすれば彼女達の申し立ては驚きではない。 何十年にもの間韓国も米軍も基地周辺での売春行為を黙示を続けていた、たとえ売春行為が韓国では非合法であっても。 バーや売春宿が世界中の基地周辺がそうである様に、米軍基地の近くに軒を連ねている。しかし元売春婦達は一般市民の彼女の支持者達のほとんどはどれだけ深く政府が基地周辺街での商売に深くかかわって来たかを知らないと語っている。
元売春婦達は前の政府役員から彼女達の要求に就いて支持を受けている。 テレビのインタビューで政府の役人でアメリカ陸軍の高官と連絡窓口と認められているKim Kee Joe 氏は “ 例え我々が積極的に売春に従事していなくても、我々は特に政府高官達からそれが国にとってそんなに悪いことでは無いと何度も強く彼女達に教えて来た。” 
議会の記録謄本によると同様に少なくとも韓国女性の何人かは売春行為をある程度必要だった行為と見ていたとほのめかしている。
1960年代のあるやり取りの中で売春婦を送る事を養成するのは同盟の兵士達が“自然に必要なもの” に応じるためで彼らの米ドルを韓国で無く日本で使われる事を防ぐことになると二人の国会議員が政府に促している。 
当時の内務相役人の Lee Sung Woo 氏は、政府は “売春婦の供給”そして “娯楽施設 ” の改善をアメリカ大隊の為に施してきたと答えている。
キム氏と Ms. Moon は性病の管理は二つの政府の管理するところであったと言う元売春婦達の主張に帰還する。  
彼らはアメリカ政府の発表は特に韓国にとって脅威に聞こえた。それは1969年に当時のニクソン大統領が在韓米軍の撤退政策の発表によって駐留者が減らされると言われた時であった。
“ある発案が作られたが、それは基地周辺を駐留者達の周辺は住み心地良くさせて、そこを離れたがらない環境を作ると言う事であった” Mr.Kim はテレビインタビューで答えた。 
Welleseley 大学教授の Ms.Moon は1970年代の韓国高官とアメリカ軍将校との間で性病が広がらない様にする為にお互いの役割の範囲が話し合われた。 
その話し合いでは病気にかかった売春婦を隔離し治療を受けた事を確実にし政府は売春婦達を登録し医療受領の証明書を持たせようとした。そして1976年のある報告では登録されていなかったり医療検査でひっかかった売春婦達を共同で急襲し逮捕していたとの事であった。

今日基地の街はまだ存在するが韓国経済も発展しフィリピンから来た女性達がいまはとって替っている。多くの元売春婦達が基地周辺街の中心から離れた所で人里を避けて暮らしている。 その多くは貧しく、そして何人かは自分の産んだ混血児を海外に養子に出し、その思い出にさいなまれている。
自分の姓だけを名乗る事を条件に話に応じてくれた71歳の Jeon 氏は1956年に18歳で戦争孤児となり空腹が北朝鮮との国境付近の基地の街 Dongduchon にこさせたと語った。 彼女は1960年代に息子を出産したが息子はアメリカに渡った方がましな生活を送れると確信し息子が13歳の時に養子に出した。約10年後に今は米軍の兵士になった彼女の息子が母親を訪ねてやって来たが、彼女は息子に自分の事は忘れる様に言った。 
“私は母親失格です。” Jeon 氏は語った。 “私は彼に頼る資格は無い。自分の人生を考えれば考えるほど、私の様な女性達は我が国とアメリカとの間の同盟の最悪の被害者だと思う様になる。 
振り返れば私の身体は私のものでなく、政府か米軍のものであった。”

  

顔を覆っているのは米軍基地の近くで元売春婦であった 氏韓国の Pyoengtaek と言う街の部屋の一室で。

以上の記事は今年1月7日付の New York Times に掲載されていた記事だ。
最近仕事が忙しくてようやくアップできた........

記事はいきなりありもしない”従軍慰安婦”が存在していると言う前提で始まっているのが気に入らない。 職場の先輩が ” New York Times は朝日とつるんでいるからこういう事書かねばならないんでしょう?” と教えてくれた。また
 
” 
2006年12月 「北朝鮮による日本人拉致問題について、本来の拉致問題解決に焦点を絞らず、北朝鮮中国に対する日本国民の嫌悪感をあおり、そうした世論を憲法改正問題などの政治的問題にも利用しようとしている」とする記事を掲載、後日、日本政府はこの報道を問題視し、中山恭子首相補佐官(拉致問題担当)の反論文を同紙と、記事を転載した国際紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンに投稿、後者へは26日付で掲載されたが、ニューヨーク・タイムズ紙は拒否している。”

以上の様に wikipedia に説明されていた。

”従軍慰安婦”問題はさておき、この記事が出たあとに朝鮮日報や中央日報のサイトを見たけど同様の記事は見当たらなかった。いつもは New York Times に韓国の事が掲載されたらすぐに紹介するのに。 日本語版には載らないのかな?

第二次大戦中確かに日本陸軍は”慰安所”の女性達から兵士が性病を貰わない様に ”定期診断” を施していたらしいがこれを”日本軍の関与”とか”日本政府の関与”と解釈されると、上述した韓国の”元売春婦”達も同じ様に韓国政府に”抗議する権利” はあるという事になるだろう。 
You Tube で元日本兵が ”大隊が移動する時に慰安婦達も一緒に移動させた。”と語ったシーンを抜粋し,
あたかも日本軍が彼女達を ”連れまわした。従軍させた。” 動かぬ証拠の一つとしていた??
一緒に移動したのは彼女達を敵から保護するため、置いて行って、敵に捕えられることを危惧したと思えないのかね??

今から10年以上も前にあるドキュメンタリー番組を見た。それはソウルと釜山を結ぶ高速道路上で
 ”ベトナム戦争” に従軍した元韓国兵達が韓国政府に対して”補償”を求めるデモを行っていた。
なぜここでデモが起きているかも説明された。 外貨が無く、また外貨を得る為の輸出産業も乏しかった韓国はベトナム戦争に韓国兵士を派遣し彼らがアメリカ政府から貰う米ドルベースの給料を強制的に韓国ウォンに両替させて得た外貨がこの高速道路建設にも使われたらしい。 
この高速道路は元兵士たちが命がけで稼いだ米ドルで建設された、なのに政府からは恩給どころか補償も何もなかったらしい。
ベトナム戦争と言えば、韓国政府が派兵をした見返りの一つに韓国から多くの移民をアメリカ政府は受けることともしたらしい。
また西ドイツに炭坑夫や看護婦が派遣され彼(または彼女)らの給料も貴重な外貨だったらしい。 

朴正煕氏が大統領になり1965年に日韓交渉を妥結させ総額8億ドルの日本による供与及び貸付けを受けることとなった。当時の韓国の国家予算は3.5億ドルだったらしい。この供与、貸付けにより1961年には国民一人当たりの所得が80ドルで最貧国のひとつにすぎなかった韓国経済が発展していくのだが、その以前には上述の売春婦やベトナム軍従軍兵士、さらに炭坑夫、看護婦が ”貴重な外貨” を稼いでいたのだ。
朴正煕時代に青春を過ごした韓国の人達からは当時の貧困ぶりを聞いたことがあった。 日本もこういう時代があったのかもしれない。

でも元売春婦が言うように”慰安婦”よりも自国の”元売春婦”の事を政府は考えてあげた方がいいのではないかなぁ...... でもそれは内政干渉になるか.......