Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

ダスビダーニヤ パルスキー ( さよなら ロシア人 )

2005-10-31 | EURO Football
先週から商用でモスクワに滞在しており、赤の広場近くの旧国営ホテルに投宿している。毎晩赤の広場を横切って マクドナルド や イタリアレストラン に通っているので本当に隔世の思いだ。隔世といえば モスクワ 経済の バブル 振りも異常だ。街は Mercedes, BMW, Audi, Alfa TOYOTA と言った 外車が溢れ運転も携帯を片手に二十歳そこそこの女の子がと言うのも少なくない。レストラン の客単価は US$100 は下らない所が多く、客は二十歳代の若いカップルが大半だ。シャラポワの様な女の子が美味しそうに寿司を頬張っている。その要因は何と言っても原油の輸出。しかもここ数ヶ月の原油価格高騰もあり国益はますます潤っている。かつてG7がこの国が崩壊すれば2億人以上の難民が欧州に流出するので何とか援助せねばという懸念を憶えている人はどれだけいるか? こうなると外交も違ってくる。今は日本の経済援助をカードに北方領土問題を返還させると言う手は使い。その上、エネルギー確保に必死な中国政府がロシアに擦り寄り始めている。70年代は“日本も軍事力を強化して一緒にソ連の侵攻に備えましょう。”と言っていたあの中国政府がだよ?詳しくは知らないがサハリン沖には油田が有り、ここの原油を日本に安く仕入れる為に共同で油田開発を行っていたが、中国がここを狙っている“日本より高く買うから売ってくれ”と。ロシア側もそれを受け入れようとしており、日本政府は自国の国益をどう思っているのか?  だが、ワールドカップでは中露揃っての予選落ちが決まった。ロシアは前回日本に負けており、もう“直接戦えば負かせる日本が弱いアジア地域から出ている”とは言わせない。欧州地区予選第3組はポルトガルがトップで通過し、2位争いはブラチスラバでの スロヴァキア 対 ロシア の直接対決に委ねられた。この対決は アイスホッケー ならメダル争いだが、サッカーではロシアに分があると思われた。予選開幕時はアウェーでポルトガルに 1-7 と歴史的な大敗を喫し エストニア と引分けると前年欧州選手権を指揮した ヤルツェフ 監督は辞任。替わって ロコモティフモスクワ の監督を歴任した ショーミン 氏を監督に迎えた。イグナシェビッチ、双子のヴェレズスキー兄弟,アルドニン,グーセフ,ジルコフ らUEFA CUP を制した CSKA Moscow 所属の選手達や エフセーフ,ロスコフ,ホフロフ,センニコフ,イズマイロフ と言ったLocomotiv Moscow の選手達を中心にチームを再構築。驚いたことに ロシアリーグ 以外で プレー するのは チェルシー の スメルティン 1人だけであった。これも今の経済状態に寄与している。自国の代表クラスは外国に行かずとも国内で十二分に稼げる。それどころか ウクライナ や ウズベキスタン といった他の旧ソ連邦はもとよりブラジルやアフリカ からも選手が集まっている。ここに ショーミン 監督はかつての様な規律と団結を求めたのかも知れない。しかし、スロヴァキアの壁を敗れなかった。彼らも個々の能力は低くなく、FW ミンタル、ビテック(ニュールンベルグ)らブンデスリーガ所属が5名 グレシュコはプレミアシップ ブラックバーンのDF の中心で FW ネメト は ミドルスブラ で サッカールー の エース、ビドゥーカ と共に攻撃の中心だ。また主将のバルガは中村俊輔と同僚の Celtic DF選手。その上共産圏時代の圧制から“MOSCOW には負けたくない”の強い思いが有ったに違いない。“選手達は稼ぎすぎだ。だから勝負弱い。”とは今の ロシアサッカーファン の嘆きだ。だが旧ソ連邦時代からサッカーに関しては欧州でも列強の部類では無かった。個人能力のみに頼れる競技とは異なり、戦術や相手、時間との駆け引きも重要な要素である サッカー では欧州でもトップグループから抜きん出る事は稀であった。五輪でも実績ではハンガリー(64年東京、68年メキシコ)ポーランド(72年ミュンヘン)、東ドイツ(76年モントリオール)チェコスロヴァキア(80年モスクワ)の後塵を拝し続けた。66年イングランドワールドカップベスト4以来、80年代に入ってからワールドカップ(82年、86年連続決勝トーナメント進出)や五輪(ソウル五輪金メダル)欧州選手権(88年準優勝)で実績を残すようになったがそれはディナモキエフを中心としたウクライナや チバーゼ、シェンゲリア らコーカサス地方出身のディナモ=トビリシの選手達が中心であり歴史的に見ても ロシア 共和国の世界的な選手と言えばレフ=ヤシン リナト=ダサエフ と言ったGKくらいか? 戦後間もないころから日ソ間ではスポーツの興隆が盛んで1978年秋には今のウクライナ代表監督のオレグ=ブルゥーヒンのいたソ連代表が来日した。他にも50年代から80年代にスパルタクモスクワ CSKA モスクワ、ディナモらが来日し、日本代表も何度かソ連に遠征をしていた。それは日ソ間で相手チームの滞在費用を持ち、お互いのチームの派遣をしましょうと言うスポーツ文化交流の一環でもあった。バレーボールでも日ソ交流バレーと名を卯って男女の代表チームがよく来日していた。 1978年3月に全ソビエト3部リーグに所属する アムールブラゴベシチェンスク と言うチームが来日した。このチームにさえ日本代表は勝てなかった。またこういった交流をまた復活させられないか?少なくともサッカーでは互角以上の勝負はすると思う。発展した姿を見せ付けてやりたいが、それはもう3年前に稲本のゴールで果たしたか??

アフリカの爆弾

2005-10-31 | FIFA World Cup
“想像してごらん。ドイツ、イタリア、スペイン そして イングランドが ワールドカップ予選で姿を消すなんて。それと全く同様の事が先週末の ワールドカップ 予選 アフリカ 地区で起こった。”これは10月17日付けの英国の有名紙 Times のスポーツ欄のあるコラムの書き出しだ。アフリカ 大陸出場枠5カ国の中で チュニジア 以外の4カ国は全て初出場。4大会連続出場を含めた出場5回を誇りシドニー五輪でも金メダルを勝ち取った カメルーン は悲劇的な ウォメ PK失敗に沈み。前大会 ベスト8 の セネガル 、2大会連続出場中で次々回2010年のホスト国南アフリカも来年の本大会には縁が無くなった。94年、98年と連続して決勝トーナメントに進み 1996年のアトランタ五輪では金メダルに輝いたナイジェリアも次のワールドカップ出場まで5年待たねばならなくなった。 
一体かつてのアフリカの列強に何が起ったのだろう? カメルーン は袖無しユニフォームの着用を巡り FIFA から勝点6を剥奪された(後に特赦で撤回)。エース パトリック=エムボマ は日本で引退したが世代交代は進んでいたはずだ。今予選に出場した代表選手は全て外国クラブに所属していた。それも FCバルセロナ ( エトー ) チェルシー ( ヌジタップ ) PSG ( エムバミ ) トットナム ( アトゥバ ) といったトップクラス のクラブチームだ。中には デシーレ・ジョブ( アル=イテハド:サウジアラビア ) ベルタン=トムー ( 厦門FC ) と活躍の場をアジアに求めた選手もいる。だがこの現状が予選敗退の原因であろう。選手は金持ちだが協会役員はそれ程ではない。代表の強化費用は役員達の私用に消え遠征費等の必要経費は金持ちの選手達の自己負担。選手達が代表での待遇改善を要求すると決まって役員達は“君達は国民よりも稼いでいるじゃないか。”これはカメルーンに限ったことではない多くのアフリカ諸国が抱える問題だ。セネガル も今大会予選に選出された選手のうち国内組は3名のみ、19名がかつての宗主国フランスのクラブチームに所属するなど欧州でプレーする選手ばかりだ。ナイジェリア、南アフリカの両国は残念だがチーム力が低下線を辿る一方だった。南アフリカは次大会のホスト国だが、ナイジェリアは暗黒に時代に入りはしないかが心配だ。人口1億人を超え、豊富な原油資源を元に国の経済がもっと安定しても良い筈なのだが他のアフリカ諸国と変らぬ経済状態が現状。
それでは初出場の4カ国が出場に値しない国であったのか?全てがそうとは思えない。
まずガーナだが、これまでワールドカップ予選を勝ち抜けなかった事が不思議だ。アトランダ輪ベスト8 バルセロナ五輪銅メダル。ナイジェリア、カメルーンが世界の舞台で活躍する前にアフリカサッカー界をリードして来た。
アフリカネーションズ杯でも4度の優勝を誇る(しかし最後の優勝は1982年だが。)中盤の ムンタリ、アッピア、エッセシェン はワールドクラスの中盤と言われている。 DF にはかつて バイエルンミュンヘン に所属したクフォーがいる。欧州クラブに所属する選手が中心だが国内組との融合も潤滑に進みついに悲願を達成した。昨年のアテネ五輪で日本と戦った選手も何人か代表入りしているはずだ。 コートジボワール(コートダジュール 象牙海岸)は代表選手の殆どが欧州でプレーする。アルナ・ディンダーヌ はランスのストライカー。マルク・ゾロはイタリア メッシーナ のDF。ボナフェンチュル・カルー はパリサンジェルマンの中盤選手でチェルシーのストライカー ドログバ。
選手達は欧州に散ってはいても所属先では中心選手で、何よりこの2年間ほぼ同じメンバーで戦ってきたのが大きい。予選ではカメルーンにホーム&アウェーで連敗したが他に取りこぼし無く本大会出場を決めた。 残る2カ国、トーゴとアンゴラはやはりランクが1つ落ちるか?トーゴにはASモナコ所属のアデバヤがいるが他に目立った選手ではユーベントス所属のウィンガー セナヤ がいるが彼のキャリアーはむしろスイスリーグ2部の時代の方が目立っていた。ナイジェリアを抑えて予選を突破したアンゴラのエースはベンフィカリスボンでプレーするマントーラスだが、怪我でこの1シーズン半で1試合しか出場していない。ベテランFWアクゥワは今カタールSCに所属する。 かつての宗主国ポルトガルに7名の選手が所属するが同国のビッグ3(ポルト、ベンフィカ、スポルティング)に所属するのはマントーラスにみだ。 
今大会のアフリカ諸国はチュニジアとガーナ以外は予選突破で満足している雰囲気がある。そうなれば日本も少しチャンスが出て来る。組み分けではアフリカ代表と同組になる事もある。
だが1978年アルゼンチンワールドカップでメキシコ相手にアフリカ代表初勝利を収めたチュニジアは日本へのリベンジに燃えているだろう。勿論返り討ちに葬って欲しいのだが。

あぁ哀愁のアイルランド

2005-10-27 | EURO Football
来月12日と16日に各地で開催されるプレーオフを以ってワールドカップの出場国が出揃う事になる。何度も言うが日本は早々と7月に世界のトップを切って出場権を手に入れそのあまりにも早い予選突破の事実に拍子抜けするのと同時に1年も真剣勝負の期間が開いて大丈夫なのかと負の材料しか見当たらない。今年の日本シリーズ、早々と優勝を決めた阪神タイガースと西武、ダイエーとの厳しいプレーオフを戦った末にシリーズに臨んでいる千葉ロッテマリーンズとの戦いを見れば更に不安が募る。
さて、ワールドカップ予選、今大会も強豪と呼ばれる国々が涙を呑んだ。それがワールドカップ予選だといってしまえばそれまでだが、バーレーン、トリニダードドバコ が アイルランドやギリシアに劣るとは思えない。日本も当て嵌まるのかも知れないが。そのアイルランド共和国。ホームでの最終戦、スイス と引分,激戦のGroup 4 を勝ち抜けなかった。この組はイスラエルが頑張り一時はフランスでさえ予選落ちが現実視された。個人的には1982年大会予選より中東勢との政治的な問題から欧州に押し込まれたイスラエルに頑張って欲しかったが、最終戦をホームで戦うアイルランドが落ちるとは思わなかった。予選終了後、ロイ=キーンが代表からの引退を表明した。前回の直前帰国から3年、1994年以来12年ぶりの本大会出場へ闘志を燃やしていただろうが非情な結果となった。 アイルランドは2004年の欧州選手権の地区予選でも最終戦でもスイスに 0-2 でれ、ロシア、スイスの後塵を拝し本大会には進めなかった。ロイ=キーンの負傷、ナイアル=クインの現役引退が響いた。 今ワールドカップ予選ではロイ=キーンも復帰し、2002年大会の登録メンバー10名(ロイ=キーンもむ)を含んだメンバーで予選に臨んだ。攻撃面では2002年大会でも3得点のトットナムのエース ロビー=キーンに期待が寄せられた。だが彼とコンビを組むもう一人の FW ナイアル=クイン の代役が見つからなかったか?前回は デイミアン=ダフ とのツートップもあった(スペイン戦)しかしダフは元々中盤の選手。中盤も前大会の マッカティア、キンセラ が抜けてその穴が埋まらなかったのかもしれない。
アイルランドがその存在を世界に知らしめたのは 1988年西ドイツで開催された欧州選手権の初戦だ。優勝候補で2年前のワールドカップでの得点王 ゲリー=リネカー 擁するEngland をレイ=ホートン のゴールで 1-0 と破った試合だ。ただ England はブッチャーが怪我で参加出来ずにDFラインの不安を露呈していた。この時のアイルランドには グラスゴーセルティック からGK ボナー DF モリス、トットナム からヒュートン、後に代表監督を務めた ミック=マッカーシー ( グラスゴーレンジャーズ ) モラン、マグラー の マンチェスターユニテッドコンビ。そして当時隆盛を誇ったリバプールからウィーラン、レイ=ホートン そしてジョン=オルドリッジ。中盤にはもう1人渋めの(私好みの)ダービーカウンティー所属のステープルトン。ツートップには ニューカッスルの ジョン=アンダートン とカルビン(シェフィールドウェンズデェー)。所属先を見ただけでもわくわくするメンバーだった。監督は極め付け名将ジャッキー=チャールトン。ラグビーでも勝てないイングランドをサッカーで破ったのだからこの試合を持ち出すと今でもアイリッシュたちの気勢は上がる。本大会ではオランダ、ソ連に次いで1次リーグで終わったが、2年後のワールドカップイタリア大会ではベスト8、6年後のアメリカ大会ではベスト16。この大会の中盤の底にはロイ=キーンがいた。長身のカスカリーノの怪我が無ければ1次リーグの順位も異なりもっと上に行けたかも?また例えオランダ(決勝トーナメントの1回戦で 0-2 で敗れた)が相手でも結果は違ったかもしれない。この予選を終わって大幅な若返りを強いられるであろうアイルランドだが、またいつか2002年大会の様にさわやかな旋風を巻き起こしてくれるに違いない。

ロッテオリオンズかくのごとく優勝せり つづき

2005-10-23 | プロ野球
第4戦 10月20日 後楽園球場
中 日100002000=3 金田  1勝
ロッテ000303000=6 渋谷  1敗
本塁打:高木1号(金田)マーチン1号(金田)弘田2号(渋谷)有藤2号(渋谷)

前日の公式有料入場者数は3万に及ばず興行的な面が危惧されたが、この日は4万3千以上の観衆が集まった。中日は高木守道が初回先頭打者本塁打で先制。これで中日が4戦連続先手を取った。しかしロッテはシリーズ初先発の稲葉から4回先頭打者の得津が歩くと、山崎、弘田の連打で同点し稲葉を降板させた。続く水谷からも有藤、ラフィーバーが連打。都合4連打で 3-1 と逆転。中日は6回、遂に4番マーチンが1号ソロホームランを放ち、大島、木俣の連打で同点に追い付く。尚も好機は続いたが広瀬、代打ウィリアムスの後続が成田に討ち取られ逆転には至らず。すると直後の6回裏替わったばかりの4番手渋谷から弘田、有藤の連続ホームランと1番岩崎のタイムリーで3点を追加する。ロッテは好機に投手に打順が巡りそこで2併殺を喫したが、金田監督はこの試合から岩崎を1番に置き、弘田を5番に据えた。その采配が当りそれぞれの打順で好機が巡り両者で3打点を叩き出した。守っても金田の後を受けた村田が3回を1安打に抑える好投でシリーズを2勝2敗のタイとした。金田留広が勝利投手となり兄である金田監督と兄弟で日本シリーズの勝利投手となった。

第5戦 10月21日 後楽園球場
中 日000000000=0 木樽  1勝
ロッテ100000010=2 鈴木  1勝1敗

これまでとはうって変っての白熱した投手戦。初回ロッテは先発鈴木から先頭の岩崎が出塁。2番飯塚が送った走者を3番得津の適時打で還すと言う中日のお株を奪う攻めで先制。
しかし鈴木孝正も2回以降は快速球でロッテ打線に追加点を許さない。だがそれ以上に好かったのはロッテ先発の木樽。かつての20勝投手の前に凡打の山を築き2安打完封を許す。ロッテは7回に村上の貴重なスクイズで2点目を挙げ王手をかけた。
中日は前日負傷でベンチに下がった高木守道が使えず1番には藤波を入れ、島谷を2塁手に回したが高木の穴は埋められなかった。

第6戦 10月23日 中日球場
ロッテ0100100001=3 村田  1勝1敗
中 日0010000100=2 星野  1勝2敗
本塁打:千田1号(松本)大島1号(村田)

後が無い地元名古屋に戻った中日は高木を1番に復帰させ第4戦で好投した松本に全てを託す。一方のロッテは遂に村田が先発のマウンドに。2回にロッテは山崎が2塁打で出ると弘田が先制打を放つ。一方中日は3回に3本のヒットで1死満塁と先発村田を攻め、木俣の犠打で同点に。尚もチャンスは続き与那嶺監督は早くも島谷に替えて江藤を代打に送るが内野ゴロで逆転はならす。するとロッテは5回に千田の本塁打で追加点を上げ、続く江島、山崎の安打でさらにチャンスを広げる。ここでバッターはシリーズ大当たりの弘田。そして与那嶺監督はこれまで連続KOの星野仙一を3試合の投入。ここは弘田を併殺に討ち取り星野に軍配が。6回には中日大島の本塁打で同点とする。村田は大島までの5打者を連続三振に打ち取っていたのだが。後に星野、村田の緊迫した投手戦が続いたが、10回表1死2塁の好機に巡ってきた弘田が今度は勝ち越しのタイムリーを放ち5回の雪辱を。その裏村田は3人でそして最後の打者を三振に討ち取り、日本一の栄誉を手に入れることとなった。村田は全10インニングに毎回三振を達成。毎回三振は以降81年にジャイアンツの西本が達成したがその試合は9イニングスであった。 
このシリーズロッテは木樽が完封、村田が完投を果たしたが中日投手陣では完投者はいなかった。ペナントレースでもリリーフエース的に使われた星野仙一が同様の使われ方をしたが調子が芳しくなくそれが敗因の一つでもあった。投手コーチの近藤貞雄は完全分業制を敷き8年後に監督として日本シリーズに出た時も完投した投手はいなかった。 MVP は10安打7打点の弘田が選ばれた。弘田は11年後に阪神のユニフォームを着て再び日本シリーズに登場する事になったが、ロッテは以降31年日本シリーズへの出場をまたねばならなかった。胴上げされる金田監督を見て“すぐにでも巨人と金やんロッテが日本シリーズで顔を合わせるだろう”と子供ココロに想像していた。だがまだその願いは叶っていない。

ロッテオリオンズかくのごとき優勝せり

2005-10-23 | プロ野球
今日から始まった日本シリーズ。 結果は地元マリーンズがタイガースを圧倒。前代未聞の濃霧の Called Game となったが、それよりも阪神打線は悪すぎて清水は良過ぎて井川は悪すぎた。 阪神の優勝はパシフィックのプレーオフが間に挟まったせいかセントラル優勝時のフィーバーは昔の様に思われる。実戦間隔の開いた差が初戦の結果に現れたか? ロッテが前回の優勝当時、ミスタージャイアンツと金やんが共演したCFで“ガムはロッテ。野球は巨人”と言ったミスターの名言?は今も耳に残っている。愛する今のジャイアンツは本当にいつになれば日本シリーズに出てこれるかのだろう?子供の時はそんな思いしたことが無かった。ではロッテが最後に経験した日本シリーズでの激闘を紹介しよう。

第1戦 10月16日 中日球場
ロッテ002100001  4 星野仙 1勝
中 日100002002X 5 村田  1敗
本塁打:弘田1号(三沢)

この年のプロ野球界最大の話題は中日が20年ぶりの優勝で巨人のV10 を阻止しミスタージャイアンツ長嶋茂雄が17年間の現役に終止符を打ち1つの時代が終わった事だった。
一方のパシフィック。前年から導入された2シーズン制、そして400勝投手金田正一が ロッテオリオンズ の監督に就任した事から少しずつではあるがスポットが当たる様になった。そして2年目の金やんロッテはプレーオフで阪急を退け4年振りのパリーグ制覇を成し遂げた。
試合は初回の中日がこの年にリリースされた坂東英二の“燃えろドラゴンズ”の歌詞そのものに1番高木守道がヒットで出塁すると2番島谷が送り(歌詞では谷木が2番だったが。)、3番の井上がタイムリーであっさり先制する。歌詞の通りの展開に中日球場は早くもヒートアップ。しかし3回に山崎、ラフィーバーの連続タイムリーで先発松本をKO。4回にも弘田が2番手三沢から本塁打して2点差に。一方2回以降2安打に抑えていたロッテ先発金田留広であったが5回にマーチンのタイムリーと谷沢の投手ゴロの間に井上が還り同点とされた。追いついた中日与那嶺監督はその直後にエース星野仙一を投入。しかし9回、ヒットで出塁した先頭打者、代打飯塚を4番山崎が右翼越え2塁打で還し一旦は勝ち越した。だが中日は9回裏先頭打者の木俣が右翼越の2塁打で出塁、ここで金田監督は村田兆次を投入するが、続く星野仙一の代打谷木を歩かせ“守備固め要因”西田を三振に討ち取った後の高木守道に右中間を破られ2者が還り劇的と言うよりもあまり締まりの無いサヨナラゲームとなった。中日は7安打中5番以下の選手が放ったのは木俣の2塁打1本のみでそれが苦戦を招いた。金田監督は先発金田の後は成田、木樽、村田(もう1人は水谷)と4本の先発柱を惜しげなく次ぎ込んだが成果はドラゴンズファンを喜ばせただけで終わった。

第2戦 10月17日 中日球場
ロッテ001002040=8 成重  1勝
中 日200030000=5 星野  1勝1敗
本塁打:広瀬1号(三沢)山崎1号(竹田)有藤(星野仙)

第二戦の中日も初回は前日と同じに先頭打者の高木が内野安打で出塁したのを広瀬が送り同様に井上が右翼にはじき返し先制。そして谷沢の“クリーンヒット”で2点を挙げた。ロッテは3回、二死から谷沢の連続失策で好機を掴むと3番得津の適時打で1点を返したが5回に8番広瀬がスクイズどころかチームのシリーズ初本塁打を含む4安打で3点を追加し 5-1 と差を広げる。しかしロッテはその直後の6回に山崎の本塁打等で2点を返した。与那嶺監督は8回から前日に続いて星野を投入して逃げ切りに入るが、ロッテ打線は有藤の本塁打で1点差に迫ると弘田のタイムリーでたちまち同点とし前日に続いて星野仙一を連続KO。替わった星野秀からも得津の2点タイムリーで逆転してしまう。9回には弘田の適時打で突き放す。守っても前日KOされた村田が最後の2イニングを四球1に抑えて雪辱。シリーズ史上屈指の逆転劇でロッテがタイとした。 試合中に突然クロネコがグランド内に迷い込み、その直後に逆転劇が演じられたのを記憶してる。

第3戦 10月19日 後楽園球場
中 日000302000=5 松本  1勝
ロッテ000000040=4 成田  1敗
本塁打:谷沢1号(成田)2号(成田)島谷1号(成田)前田1号(松本)

本来はロッテの持ちゲームで地元仙台球場にて行われるべきゲームだったが仙台球場の収容能力を考えて後楽園開催となった。これで後楽園では10年連続日本シリーズが開催される事となった。1,2戦と異なり中日松本、ロッテ成田の静かな投手戦で始まった。 均衡を破ったのは4回の谷沢の先制1号3ラン。6回には島谷、谷沢と2本の本塁打を成田に浴びせて 5-0 と主導権を握る。先発“ミラクル投法”の松本が7回まで3安打無失点の好投。5回1死1,2塁のピンチも後続の土肥を併殺に討ち取る。8回に代打岩崎のタイムリーと再び代打前田の3ランの代打攻勢で1点差に迫るが2番手鈴木孝正の快速球でそのまま逃げ切り中日がシリーズ2勝目を挙げた

続く

東欧遠征その成果は?

2005-10-14 | 日本代表
昨夜行われたウクライナ戦を以って東欧遠征は1分1敗で終了した。 ウクライナは主力選手が何人か抜けており実質1.5軍のメンバー。エース,シェフチェンコの様に1人で状況を打開出来る選手がいないので、チーム力はかなり差が出たはずだ。そのチームに敗れたのは少し不安だ。来年のワールドカップでは前回と異なりシードされないので、少なくとも世界のトップ8の1つが同組になる。(ブラジルやドイツとの同組も有り得る)欧州勢ではウクライナ、ポーランドが比較的戦い易い位置にいるので、昨日のメンバー相手ならアウェーとは言え、引分けて欲しかった。確かに審判の不可解な判定には泣かされた。中田や中村に容赦なく浴びせられるやや後方からのタックルは流され、中田浩二のタックルを一発退場にされた事は納得いかない。この試合は相手の攻撃を受けた時に中田浩二がボールを奪いそこから攻撃の起点になった展開が何度か見られたので、中田浩二の退場は攻守に渡って痛かった。また PK を取られたファウルもあれが日本選手へのものだったらどうだったか? 審判がエストニア人というのも何か?? だが、常に審判の加護がある訳ではなく、こういう判定に泣かされる事も本番のワールドカップではあり得る。
しかし、もっと問題なのはこの絶好の機会にフルメンバーの代表選手が日本にもいなかった事だ。何故この時期にオールスターなのだろう?? 私は兼ねてからサッカーのオールスター戦はボディコンタクトが緩いので一戦の価値があるのか疑問であった。野球のそれとは全く異なるものだと思う。オールスター戦は元々メジャーリーグで始まったもので、サッカー本場の欧州や南米で頻繁に行われるとは聞いたことは無い。せいぜい何かのチャリティマッチ程度だ。 大黒、宮本、中澤らがこの遠征に加わらないのは勿体無いの一言。また選手達の胸中を考えると。オールスターそのものを撤廃支持するのではなく、代表の遠征との日程調整が出来なかったものか?
同様のことが昨年末のドイツ戦にも言える。せっかく世界のトップクラスのドイツ代表が来日するのに何故ベストメンバーが組めなかったのか?はなはだ勿体無い話だ。
11月16日はワールドカップ初出場を決めたコートダジュール ( 象牙海岸 ) との試合が組まれているがどれだけのメンバーが揃うか? 12月には組み分け抽選が行われる。
残された時間、機会は多くは無いと思うのだが。 

南米予選 オーストラリアとの対戦相手は??

2005-10-12 | Football 北米 南米 
本日10月12日、世界各地で開催されるワールドカップ予選で更に3カ国の予選突破国が決まり、11月のプレイオフを経て参加32ヶ国が出揃う。南米予選では前節の予選5試合でパラグアイ、エクアドルが前回に続いての連続出場を決め、あとはオーストラリアとのプレーオフに臨む1ヶ国を巡る争いになった。
最終節を残して5位争いはウルグアイが勝点 22 でコロンビア、チリを1勝点リードしている。最終戦はホームモンテビデオにアルゼンチンを迎える。ここモンテビデオではウルグアイは滅法強くアルゼンチンとてここ50年程勝星を挙げていない。アルゼンチンを破れば、他国の結果に関係なくプレーオフ進出を決められる。前回に続いて2大会連続でオーストラリアとのプレーオフが実現するかもしれない、が今のアルゼンチンとの力の差を鑑みれば勝点3を上げる事は容易ではない。しかも、ここ20年間では3度モンテビデオにアルゼンチンを迎えたが黒星こそ無いが3引分で勝利は無い。最後にアルゼンチンから勝利を挙げたのは 1989 年ブラジルで開催されたコパアメリカ以降16年間10試合無くこの間5敗5分だ。
そうなるとチリ、コロンビアにチャンスが訪れる。チリはホームにエクアドルを迎える。1962年地元開催のワールドカップで3位に入賞以来3大会南米予選を突破したがその間未だ勝利が無い。1974年の前回のドイツでのワールドカップでは1次リーグでオーストラリアと対戦し 0-0 で引分けている。対戦する エクアドル は勝利が期待できるが得失点差で –4 と苦しい。しかも何故か試合開始時間が他の2会場よりの早いのではないか? 
こうなると、アウェィながら既に予選突破を決めているパラグアイとの対戦を残すコロンビアに最も可能性が残るか?チリとの直接対決も 0-0 1-1 で五分。そして得失点差が +7 で(ウルグアイは –6 ) この点では ウルグアイ チリ よりも優位に立てる。
かつて南米はアルゼンチン, ブラジル, ウルグアイの3強時代が続いた。本大会出場国数が拡大された82年以降に入ってもパラグアイ、エクアドルが本大会に進出する事は考えられなく、誰も期待はしていなかった。しかし、結局返上になったがコロンビアは 1986年の地元開催を目指して強化は続けており、パラグアイは1979年のコパアメリカで優勝して以来、ワールドカップにも顔を出すようになった。
その反面70年代に旋風を巻き起こしたペルーは80年代以降、82年スペイン大会に出場した以外は目立った成績は無く、先に行われた地元開催の FIFA U-17 では1次リーグで消えた。

どこが5位になっても個人的には Socceroos を応援するのだが…..

Ukraine Girl realy knock me out

2005-10-12 | EURO Football
日本代表東欧遠征の初戦、エストニア戦は 2-2 の引分けに終わった。2点を先制しながら追いつかれて引分けたという結果にマスコミは不満な様だ。勿論、代表監督も実際に戦った選手も満足はしていないだろう。2点のリードを守れない、格下に勝てないなどの批判の中、それほど悲観、非難する内容とも思えない。 エストニアは来年のワールドカップでは既に欧州予選落ちが決まってはいるが全くの格下であろうか?昨年はトルコを押さえて欧州選手権本大会に出場しており、14人の選手が日本戦にエントリーされた。そして西欧のクラブでプレーする選手も7人含んでいる。そしてゲームはホームのリガで行われた。日本は何故かこの時期にオールスター戦(私はサッカーのオールスターは本当にお祭り以外の何物でも無いと思う)と重なり宮本、大黒といった選手が合流していない。そして小野が怪我で離脱。これだけみてもゲーム自体がそれほど easy なものではなかったと言える。
明日12日に行われるウクライナ代表戦こそ、今の位置を測れる試合となるであろう。既に本大会出場を決めており、ワールドカップでは日本を含めアジアの国と同組になる可能性もあるから、彼らもこの試合には価値観を見出しているはずだ。
大エース、シェフチェンコ そしてブンデスリーガ、レーヴァークーゼンでプレーするボローニン、そして地元 ディナモ=キエフ の正 GK ショフコフスキー と欧州でもトップクラスの選手が揃う。 
ショフコフスキー や以前 シェフチェンコ が所属した ディナモ=キエフ はウクライナと言うよりも旧ソ連邦時代から ソビエトサッカー の中心と言えた。1982年のワールドカップスペイン大会、3大会振りに本戦出場を決めたソ連代表22名の中には8名のディナモ=キエフ所属の選手がいた。当時のソ連のエースは現在ウクライナ代表監督を務める オレグ=ブローヒン。1975年の欧州最優秀選手を受賞。1978年にソ連代表の一員として来日したが、膝を痛めておりその快足は少ししか披露出来なかった。しかしワールドカップでの初戦のブラジル戦では快足を飛ばしてブラジル DF を何度も振り切った。中継をしていた NHKのアナウンサーが “ブローヒン!ブローヒン!俊足ブローヒン!100m10秒台”と連呼していたのを思い出す。だが当時は他にも欧州カップ戦を制した事もある ディナモ=トビリシ からもシェンゲリア、チバーゼ等4選手が選出された事も特筆事項だ。次のメキシコ大会になると、ディナモ=キエフ所属の選手は12名と半分以上を代表に占めるようになる。そこにはベルギー戦でソ連史上初めてワールドカップでハットトリックを演じた 1987年欧州最優秀選手 ベラノフ やラッツ、クズネツォフ, ザバロフ らがいた。そして2年後の1988年欧州選手権。当時のソ連代表こそ史上最強のチームではなかったか?その中心は20名中11名を占める ディナモ=キエフ の選手達。先述の3選手に加えて、プロタソフ、デミヤネンコ、ミハイリチェンコ。そして名将 バレリー=ロバノフスキー 。準決勝のイタリア戦は史上最高のゲームで, ビアリ、マンチーニ, アンチェロッティ らのいた イタリア を気迫と運動量で圧倒。 2-0 と粉砕した。決勝戦こそ フリット、ファンバステン のオランダに敗れたが同年のソウル五輪で金メダルを獲得するなどイタリアワールドカップに期待が寄せられた。この時も ディナモ=キエフ の選手を9名含んでいたが、更に特筆べきはペレストロイカ の波が押し寄せ西側の門戸が開かれ 7名の選手が西欧クラブに所属していた。だがその政変が足を引っ張った。準備不足からソ連特有の鉄の規律がかげりだし、大会直前には中心選手の一員 ミハイリチェンコ が骨折で離脱。初戦のルーマニア戦を落とすと ディナモ=モスクワ所属の世界NO.1 GK リナト=ダサエフ が ウクライナ 偏重の ロバノフスキー監督を批判。以降の試合、ディナモ=キエフ所属の第二GK ウバロフ が登用されるなどチームは崩壊、1次リーグ敗退を余儀なくされた。そしてソ連邦崩壊直後のCIS 独立国家共同体として臨んだ1992年欧州選手権、ディナモ=キエフの選手はアフリク=ツベイバのみであった。しかし、20名中11名が既に西欧クラブ所属で、ディナモ=キエフ のエース であった、アレクセイ=ミハイリチェンコ は イタリア の サンプドリア を経て グラスゴー=レンジャーズ に所属していた。 
この様に1980年代からペレストロイカ時代まで旧ソ連邦サッカーを語るにはウクライナ、ディナモ=キエフを語らずして語れない。私も個人的に12年前商用で ウクライナ を訪問し、早朝に憧れの ディナモ=スタジアム 内をジョギングした事があった。ディナモスタジアム にはモニュメントがあるらしい。第二次大戦中、この地域を占領した ナチス=ドイツ チーム が ディナモ=キエフ と試合を行い、激戦の末 ディナモ が勝利を収めた。だが試合後 ナチス は ディナモ の選手7名を処刑した。その選手達の追悼らしい。映画“勝利への脱出”さながらのストーリーであるが、この試合事態、戦後ソ連共産党の作り出したプロパガンダとも言われている。何しろこの試合を観戦したと言う人が現れていないからだ。 
昨年末はオレンジ革命も起こるなど歴史に翻弄されたウクライナ共和国との一戦。どんな試合になるかが楽しみだ。

千葉ロッテ31年間の略歴

2005-10-10 | プロ野球
金田監督が就任した1973年からパシフィックリーグは前期、後期の2シーズン制、そして指名代打制が導入された。それは人気獲得の為であったが、効果はあまり上がらなかった様だ。 だが金田オリオンズは進撃を開始する。就任初年度は前期、後期共に惜しくも2位に終わったが通年の総勝率は2位であった。そして1974年。前期は阪急との優勝争いに敗れたが、後期は優勝。プレイオフでは阪急を3タテにし、4年ぶりのリーグ優勝を果たした。その原動力は投手陣。木樽、成田、金田(金田監督の実弟)前年完全試合も演じた八木沢そして村田兆次。 打線でも弘田、有藤、得津、山崎そしてラフィーバー。当時の本拠地は今楽天イーグルスの本拠地であるフルキャストスタジアム事、仙台球場だった。だが、日本シリーズでは集客量を考えて後楽園が使われた。その日本シリーズの相手はジャイアンツの V10 を阻止した星野仙一を擁する中日ドラゴンズ。しかし、その星野の調子は今一で特に第二戦は 5-1 とリードしながら終盤打ち込まれて 5-8 と失い、以降金田、木樽、村田の好投でロッテが悲願の日本一を達成した。 MVP には10安打7打点の弘田。胴上げをされる金田監督を見てオリオンズ時代の幕開けか?と思った。しかし、実際はこの年以来31年間現在に至るまでパシフィックのタイトルを勝ち取っていない。優勝した翌年の 1975 以降、成田、木樽が下降線を辿り始め、当時全盛期であった阪急ブレーブスに対抗出来る戦力では無くなって来た。それでも 1977年は村田、三井、八木沢、が投手陣の軸となり仁科、成重が谷間、中継ぎを埋め打線ではこの年から加入したパリーグ史上屈指の外国人選手レロン=リーが本塁打を連発し後期優勝を果たす。しかし、阪急とのプレーオフでは王手をかけながら4戦、5戦に連敗し優勝はならなかった。エース村田が阪急打線に捕らえられた。そして翌年1978年それまで大洋(現横浜ベイスターズ)が本拠地を横浜に移転した事から“空きが出た”川崎球場を本拠地にジプシー球団を返上したが、この年は17連敗の記録を作ってしまい金田監督がユニフォームを脱ぐ。6年間の指揮で日本一1回、半期優勝1回、他にも優勝を争うなどの掲揚すべき成績であったが、全盛期であった当時の阪急ブレーブスに対等に戦える戦力とは言えなかった。翌年からかつてオリオンズに在籍しミサイル打線の一員を担った山内氏が就任した。就任後翌年から1980年、1981 年には連続して前期優勝を果たす。エース村田そして仁科、水谷のローテーションが確立。リリーフエースに倉持が出て来た。打線でも有藤、レロン&レオン の リー兄弟,ジャイアンツ から移籍してきた庄司そして落合が台頭して来た。落合は1981年には首位打者、翌82年には3冠王に輝いた。しかし、プレーオフでは80年(近鉄0勝3敗)81年(日本ハム1勝3敗1分)と後期優勝球団に敗れ日本シリーズには進めず。そして山内氏は辞任。優勝監督の離脱にチームは一気に崩壊。エース村田は一時“優勝を狙うチームに行きたいからトレードに出して欲しい”と公言。結局球団の留意に応じたが、肘の腱を痛め長期離脱。落合以外目だった戦力は見当たらず、一気に最下位に低迷した。そのチームを立て直したのが1984年から監督就任した稲尾和久。彼の人間性から落合を始め“稲尾監督の下にがんばろう”と一致団結。投手陣も仁科、水谷、阪神から移籍の深沢そして外国人投手 シャーリー らを中心に稲尾監督がやりくり。打線も巨人から移籍の山本功児が攻守に光り、前年1983年から通年制に戻ったパシフィックで優勝争いをする様になり84年は阪急にそして85年は西武に次いで2位であった。 しかし1987年にはかつての中心選手有藤通世が監督に就任。有藤が現役時代から確執のあった落合が中日に移籍し目立った戦力は1985年に奇跡のカムバックを果たした村田のみとなってしまい、再び低迷期に入った。1992年には本拠地を幕張に移転し、八木沢新監督を迎え千葉ロッテマリーンズと改名し新たな船出だったが当時は1989年に近鉄が優勝した以外の86年から94年までの9年間で全ての年に優勝するという西武ライオンズの全盛期であった。その全盛期の西武に小宮山が対西武戦2試合連続完封という離れ業を演じた事もあったが戦力差は歴前であった。1995年にはアメリカからGMに広岡達郎を迎えボビー=バレンタインが監督に就任。ゲーム差こそイチロー擁する仰木オリックスに空けられたが初芝、黒木、小宮山らが活躍し2位に躍進。しかしバレンタイン氏この年で更迭。後にコーチ陣との確執が取りざたされた。そして10年後の今年。ペナントを2位で終了し、3位の西武を退け常勝福岡ダイエーホークスと覇権を争う。タイガースと対戦する事が出来るだろうか?

千葉ロッテ31年ぶりの快挙なるか?

2005-10-10 | プロ野球
10月の3連休は絶好のスポーツ日和となるはずであった。特に10月10日の体育の日は
41年前に制定され、その理由が“10月10日が最も降水確率が低い為”でありそれが故に同年に開催された東京五輪の開会式が10月10日となったいきさつがあるが、どうやら今年はそうではなさそうだ。記憶を辿るとこの日に雨が降ったなんて殆ど無い。今年の体育の日は忘れられないか? だがスポーツイベントは真っ盛り。ワールドカップ予選は世界各地で開催され、日本代表は東欧遠征が始まり、メジャーリーグは Division Series で日本選手の一挙手が報道され、天皇杯、ゴルフ の日本女子オープンそしてJリーグオールスターと目白押し。スポーツ新聞もネタに困らなかったであろう。だが、これらのスポーツが子供の時に話題になるものは無かった。サッカーのワールドカップを知るマスコミは専門誌以外には皆無で, 日本代表の欧州遠征がテレビ中継されたり、メジャーで日本人選手が活躍したり、天皇杯が10月からテレビ中継されたり(ただし昔とは大会システムが異なりその上今年のこの時期のテレビ中継は KAZU 効果)する事は考えられず、女子プロゴルフが話題になるのは1977年の全米女子で樋口久子が優勝してから。サッカー日本リーグ時代のオールスターがテレビ中継されるのは 1980年代終盤の Kodak がスポンサーになってから。しかし今でも昔からこの時期に盛り上がるのはプロ野球だ。今とシステムは異なるがパシフィックリーグでプレーオフが始まったのは 1973年から。当時故郷の関西地方では、阪神タイガースは常に我が愛するジャイアンツの後塵を拝し続けていたが、在阪パ球団阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄バファローズらが優勝争いの中心で完全な西高東低であった。(驚くべきことに全て今は存在しない。)だが天邪鬼な私は当時からパシフィックはロッテオリオンズマニアであった。そのロッテが今日、西武ライオンズを破りダイエーとの優勝決定戦に駒を進めた。今は1990年から本拠地を川崎から幕張に移し千葉ロッテマリーンズと名を替え、熱い応援が定着しているが、かつては本拠地が一定しないジプシー球団と言われていた。1970年、圧倒的な強さで南海、近鉄を寄せ付けず濃人渉監督の指揮下、パシフィックのタイトルを獲った時の本拠地は南千住にあった東京球場であった。迎え撃つジャイアンツは阪神、大洋(現横浜)に負け越し1試合をのこしてようやく優勝を決めた。当時のオリオンズの強さは成田、小山、木樽の3本柱に有藤、山崎、池辺、アルトマン、ロペスと5名が20ホーマー以上を放った強力打線。しかし、日本シリーズでは堀内、高橋一三の前に快音は聞かれず、シーズン.269のプロ入り最低打率に終わったミスタージャイアンツ 長嶋がシリーズ記録の4本塁打。第三戦に井石が4打点の活躍で一矢報いたのみであった。10年前の大毎オリオンズ時代に日本シリーズに出場した当時の中心選手、伝説の強打者榎本喜八が途中出場ながらシリーズで3安打し、自身の花道を飾った。その後かつて大毎オリオンズを日本シリーズに導いた名将西本幸雄率いる阪急ブレーブスが再び連続優勝を果たす。そして1973年から400勝投手金田正一がオリオンズを率いることになる。この頃から ジャイアンツ 一辺倒だった マスコミ も微々たるものだったが パシフィック にスポットを当て始めた。これも金やん効果で元400勝投手、元ジャイアンツ選手 ( 在籍時は 36勝であったが。)が パシフィック 入りした英断からであったが、金やんのロッテ入りはロッテグループと彼との深い繫がりからであった。



大詰め Champions League (アジア)

2005-10-07 | Football Asia
12日は AFC Champions League の準決勝第二戦が行われる。UAE の Al AIn はシンセン ( Shengzhen ) とアウェィで、そして釜山アイコンズはサウジアラビアに乗り込み前大会王者の Al Ittihad と対戦するが、中東勢が初戦を大勝( Al Ain は 6-0 AlIttihad は 5-0 しかも釜山で)しているので決勝戦は中東対決になる公算が高い。UAE も サウジアラビア も昨年のアジアカップでは1次リーグ最下位で終わったのだがクラブレベルではやはりアジアを席巻している。ACL Champions League は9月ごろ国内リーグが開幕する中東勢に比べて4月に開幕する東アジア勢には不利だ。もっとも韓国の銀河系軍団と呼ばれる水原三星は予選リーグで敗退したが。
だがそれだけではない。連覇を狙う Al Ittuhad は1次リーグ免除で決勝トーナメントからの登場だがその準備がすごい。8月には山東遠征前にイタリアでキャンプを張りPadova を 4-1 で破った。そしてその後の AC Milan 戦では新加入の Vieriにハットトリックを許し、シャフチェンコにもゴールを喫し 0-4 で敗れた。しかし、地理的にぐっと東側にあるとはいえ日本や韓国が ACL の為にイタリア遠征を行うとは考えがたい。また、9がつ初旬には ミドルスブラ で Yakubu, Viduka そして Hasselbaink に次いで4番手 FW に甘んじていた27歳の カメルーン人 ストライカー Joseph Desire Job と契約。 Job 自身もこの移籍にはワールドカップ予選を控えて自国代表へのアピールと乗り気でありしかも 10番が準備されていた。昨年夏のアジアカップでの サウジアラビア代表選手が9名含まれており、特に DF の Ahmed Dokhi, Redha Tukar, Al Montashari はレギュラーである ( ただし Montashari は未だ ASL に出場していない)。中盤でも Khamis Owairan, Saud Ali Khariri が代表でも中心選手だ。一方,UAE の Al Ain は GK Waleed Salem を始め7名の UAE 代表選手を含む。そしてブラジル人 Edilson, 象牙海岸の Sanogo のツートップが脅威であったが今は Sanogo がブンデスリーガ の カイザースラウテルン に今夏去ってしまい、 Edilson もいない。しかし、新加入のナイジェリア人 FW Onyekachi が 準決勝の Shenzhen 戦ではハットトリックを演じた。また Panama 人striker, Colombian EnvigadoAl Ain から Luis Tejada を獲得し補強も抜かりない。決勝トーナメント前もイタリア、スイス遠征を敢行。ローマ ではあの AS Rome の胸を借りた。( 0-2 で敗れたが ) このチームの監督はあのチェコ人、マチャラ氏だ。
こういう事象を見るとシーズン開幕時期だけでなく、ACL への意気込みが J League とは異なると言わざるを得ない。だが Excuse は認める。中東勢と異なり、アジアの遠征や選手補強にまで資金が回らない。中東地域は文化的な面からアラブ地域以外に選手が出て行く事が日本や韓国ほど容易では無いそのせいか同時期に進行している Arab Champions League があり近隣諸国で切磋琢磨を続けられる機会がある。だがこの地域のクラブのオーナーは裕福な王族なのでそれだけ勝利に投資が出来るのだろう。これでは 2002年の ACL の決勝戦に タイ の BEC テロサーサナ が決勝戦に残ったのは奇跡的なことか?昔、欧州のカップ戦や欧州選手権の存在を知った時、アジアでもこういう大会はないかなぁ?日本のヤンマーディーゼルや三菱重工がアジアのクラブチームと競う大会は無いかなぁ?アジアの大会くらいなら予選が無いから日本代表が他の国家代表と何試合もするのを見れるのになぁと夢見ていた。 アジアカップで3回優勝し代表レベルでの夢は叶えられた。あとはクラブレベルなのだが。

10.8 ウズベキスタン対バーレーン 仕切り直しの行方は?

2005-10-06 | FIFA World Cup
今週末はワールドカップの予選が世界各地で開催される。そして来週の水曜日12日には大方の地域で各大陸代表が決まる。私の注目はタシュケントで行われるアジア地区第5位決定戦、先月物議を醸した再試合、ウズベキスタン 対 バーレーンの一戦だ。主審の誤審から FIFA の裁定で再試合となったが、どうもこの裁定は バーレーン にやや追い風が吹いて来た様だ。昨年中国で開催されたアジア杯で得点王にもなった バーレーン の エースストライカー アラー=フバイル が8日の試合に復帰する見通しがついた様だ。9月28日に行われた所属先のカタール Al Garafaは国内のリーグ戦で Al Ahadi に 1-1で引分けたが、その試合に膝の怪我以来8ヶ月振りに アラー=フバイル が出場を果たした。本人のコメントではまだ8割の仕上がりらしいが、少なくともホームで行う12日の試合には間に合いそうだ。この試合には DFの モハメド=フセイン が内臓疾患で外れる以外は日本戦にも出場した フセイン=アリ,モハメド=フバイル ( アラー=フバイルの実兄) そして自殺点を献上してくれた サルミーン らも健在だ。ただ隣国カタールリーグに所属する10選手のコンディション調整が少し心配だ。
一方のホームのウズベキスタン。今回のメンバーには重鎮カシモフを始め、ディナモ=キエフ 所属のエース シャツキフ, らが合流。そして9月の試合で警告をもらい本来次戦は出場停止であった ドルペド=モスクワ 所属の ゲインリク が出場出来る。メンバー 22 名のうちロシア,ウクライナ で プレー する選手が8名、地元の老舗チーム パフタコール から9名が選出されている。 だが ロシアリーグ ロストフに所属する最も代表キャップの多い DF シルショフ はこの8日の試合には間に合わず12日のマナマでの試合からの合流になりそうだ。
しかし、ロコモティフモスクワ所属の MF マミノフ, DF パシニン(元広島所属)そしてGK ポリャコフらは8月のクウェート戦に合流しなかったので未だに召集して貰えない。もし、ディナモ=キエフが 欧州カップ戦に残っておれば シャツキフ は開放されただろうか?だが経済状態の悪いウズベキスタンでは国の名誉よりも自分の収入に重きを置くことも理解できるが。
個人的にはこの試合は 1-0 以上で ウズベキスタン に勝たせてやりたい。昨年夏のアジアカップでは準々決勝で直接対決。 PK戦でバーレーンが勝利を挙げたが、ウズベク には エース シャツキフはいなかった。 今回は シャツキフ, アラー=フバイル と両国のエースストライカーが揃うので9月の試合以上に均衡したゲームになるかも知れない。 テレビ中継はあるのか?今度こそ録画を忘れないようぬ様にせねば。

西が丘にて横浜 VS コンサドーレ札幌観戦記

2005-10-06 | 京都サンガ J-League
今朝のニュースで我等が KING KAZU のシドニー入りが決まったと報道された。色々賛否両論はあるだろう。気になるのは横浜FCには何ら移籍金の受け取りがなされない事と、その移籍に“外的な政治圧力があった”と球団関係者が語った事だ。前売り券の売れ行きがさっぱりの12月に開催される世界クラブ選手権を興行的に成功させるに彼の力が必要だと言うことは否めない。
ただ、どんな形であれ KING KAZU をこの舞台で見られる機会があるのは楽しみな事だ。
さて、本日楽しみにしていた Week Day の Jリーグマッチデー。お目当ては勤め先の近所西が丘競技場で行われた横浜 FC 対 コンサドーレ札幌のJ2リーグ第35節のゲーム。しかし生憎の天気。午後6時には止んでいた霧雨が再び。西が丘は全く屋根がないので一時は帰宅も考えたが、諦めきれずに競技場に直行。幸い雨足が弱まり9月にFCシドニー戦を観戦した時と比較して全く観戦には支障ない程度に。かつて、日本リーグ時代は幾多のゲームを観戦したこの競技場だが、最後に観戦したのは 1991年のナビスコ杯の日産自動車対古河電工。日産にはまだ木村和司、水沼と言った選手が現役で、この大会にはバルセロナ五輪予選に向けて五輪代表チームが加わっていた。
公式観客数は KAZU 効果?もあって、いや、札幌のサポーターも大変な数でほぼ満員の 4331 人と発表。これが2部リーグの試合とは本当に隔世の思いだ。その次に驚いたのはピッチ状態。 1989年にここでワールドカップ予選が行われた。雨の中の試合は日本代表がインドネシア代表を 5-0 で降したが、ピッチはまるで田んぼの様で、試合後の記者会見では インドネシア 代表監督の モハメド=マスリ 氏が開口一番“ここは本当に FIFA の査察を受けたのか?”と言われたほどであった。それに比べるとこの日は緑の絨毯を敷いた様だ。 試合は既に開始から10分程度が過ぎていた。横浜は城、KAZU 、札幌は相川、清野がツートップであったが、個人能力での打開を見ると横浜の方が可能性を感じさせる。横浜の長身スコットランド人DFツィードが効いており空中戦では分が無い。
そのツィードが終盤に攻撃参加した直後のカウンターを狙うが得点には至らない。一方札幌DFは曽田ががんばり KAZU をマーク。アッタキングエリアで仕事をさせない。しかし、この日は城が調子良い。何度か右から切れ込みシュートを放つが、GK林卓人が好セーブを見せる。
スコアレスのまま前半は終わり、後半に入ると更に主導権を握るのは横浜。得に札幌は右(横浜からみて左)に片寄る傾向が顕著でその空いたサイドをがんがん抉られペナルティーエリア内に攻め込まれる。だが58分の得点は右側から KAZU からの縦パスを受けた攻撃参加した中島が上げたクロスを城が綺麗に合わせてものであった。前節の甲府戦の引分けを挟んで24節目以来の連勝に期待が寄せられるが9分後の 67分に左サイドから相川にスルーパスが通り同点ゴールを決められる。あれだけペナルティーエリアでボールを回されては失点も致し方ないか?
そしてKAZUはベンチに下がっていった。中3日ではフル出場は厳しいか?そして今度は城が池内と交錯して担架で運び出され心配されるがピッチには直ぐに戻ってきた。その直後、札幌は完全にフリーになった選手がシュートを空振りすると言うこの試合両チームを通じて最大の好機を逃す。一方、横浜は35分を過ぎた当たりから北村の攻撃参加からチャンスが生まれるようになり、遂にGKと1対1になるが札幌DFの必至の戻りにゴールを割れない。しかし、このタックルが足に入っていたのを私の OLYMPUS ( デジタルカメラ)は見逃さなかった。更に横浜はツィードを上げて勝利を目指す。札幌もツートップを残し、ツィードが戻る前のカウンター攻撃を狙うが結局4分のロスタイムを過ぎても両チーム2点目を挙げられなかった。
横浜はまたも勝ち切れず、いよいよ昇格争いが遠くなってきた。一方札幌もこの日徳島に快勝した仙台に勝点を抜かれてしまった。我が愛する京都パープルサンガはホームで鳥栖に敗れて昇格は御預け。昇格後の心配がまた募る。しかし、昇格争いのサポーターに比べれば羨まれる悩みか?
そういえばこの日はナビスコ杯の準決勝が行われたが全く眼中に無かった。 
またここで試合を観戦できないか?それは新競技場が完成してからか?それまでこの会社にいるかなぁ?バスの中には元日本代表MF宮内聡が指揮をする成立学園サッカー部員が多くいた。この試合を観戦したのかな?それともここの近くに学校か練習場があるのかな?と臨時増発された赤羽行きのバスの中でふと思った。