散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

三鷹くんだり

2022-07-02 | Weblog

まだ中野に住んでいたころ、三鷹で暮らす先輩から「三鷹くんだりに遊びにこないか」と誘われて家にお邪魔したことがある。それ以来、三鷹といえば「くんだり」と脳に刻み込まれて早20年あまり。

三鷹くんだりの駅南口から、電車庫通りをさらに約500mくんだり歩いたところに三鷹車両基地があって、車両基地の上を歩いて渡れるように跨線橋が掛かっている。昭和4年(1929年)に作られたもので、あと7年すれば100周年だが、それまでに解体されるかもしれない。

晩年、玉川上水で入水自殺するまで三鷹くんだりに住んでいた作家の太宰治は、好んでこの跨線橋をぶらぶら渡ったというので有名だ。短い生涯に入水自殺を繰り返した太宰治だけど、ここから列車に飛び込んだことは一度もない。飛び込んだらどうなるか考えたことはあるかもしれない。

跨線橋は鉄道のレールを再利用して作られているから、よく見るとレールをぶった切って組み合わせ、塗装してある。そんなことも希少なので歴史的価値があるのではないかと保存活動もあったそうだが、結局は解体されることになったと聞く。ただし、その時期までは決まっていないようだ。

跨線橋からは車両基地をこのように見下ろせる。太宰治がぶらぶらした当時、すでに電化工事が終わって電車が行き来していた。汽車が当たり前の時代に電車というだけで珍しかったんだろう。「電車庫通り」という名称にそんな気分の名残がある。

昭和23年(1948年)に太宰治が入水自殺した玉川上水は、跨線橋を渡ってすぐのところを流れている。こんなチョロチョロした流れに入って命を落とすことが果たしてできるだろうか? 死ぬつもりなかったのでは……と思いがちだが、当時は今よりも水量が多くて流れも急だったという。

しかし、玉川上水にたたずむ太宰治の写真と見比べるかぎり、それほど現在より水量も多くはないし流れも急ではないように思われる。流れに沿って歩いていくと、太宰が入水したあたりに写真つきの金属パネルが立ててある。わかりやすい。

故郷の青森県北津軽郡金木町から「玉鹿石」を運んできて、太宰が入水したあたりに据えてある。とてもわかりやすい。後追いしようとする人がいたら目印になるはずだけど、流れがあれでは余程たくさん睡眠薬を飲まなければ後追いなど無理だろう。

そこから下流に900m行くと三鷹の森ジブリ美術館がある。太宰の土左衛門が上がったのは1.2km下流だから、三鷹の森ジブリ美術館の近くだ。わかりやすい。駅のほうへ引き返し、南口の中央通りを突き抜けた先にある禅林寺の墓地へ。

そこに鴎外、森林太郎の墓がある。漱石、夏目金之助の巨大な墳墓に比べると慎ましい。陸軍の人でも作家でもなく、石見の人、一介の私人として葬られたいと希望していたそうだから遺言の通りか。森林太郎と刻んだ墓石が削られているのは、心ない人が記念にかけらを持ち帰ったものか。

斜め向かいに太宰治の墓がある。隣は妻の美知子が眠る津島家之墓だ。太宰は生前、鴎外の墓に参って「私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いもあるかもしれない」と言っていたそうだが、片隅ではなく鴎外の墓のそばに埋められて恐縮しきり、含羞しきりかもしれない。

 

関連記事:  金木 

 

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする