散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

蝸牛庵から

2020-12-03 | Weblog
かたつむりの遊具がふたつ、珍しいので近づくと、「蝸牛庵物語」と題したパネルが何枚も公園に掲げてあるので
ここが幸田露伴の旧居跡だとわかった。かたつむりの遊具の向こう、パネルの奥に傘がふたつ縛り付けてあって、
どうやらそれは猫の雨避けと思しく、野良猫を猫かわいがりしてブラッシングしてる人が、猫の食器を取り出して
エサを与えた。



かたつむりの家という意味の蝸牛庵。その跡地だから、かたつむりの遊具があるんだろう。猫のエサ場になってる。
ここにあった露伴の旧居は愛知県の博物館明治村に移設展示されているそうだから、見たことがあるかもしれない。
画像を検索してみると見覚えあるような、ないような。(下の写真)



このあたり、明治の文人の旧居跡がひしめいており、森鴎外旧居跡、堀辰雄旧居跡、淡島観月旧居跡、正岡子規の
仮寓の地などが公園の掲示板にびっしり。でたらめに歩いても文人ゆかりの地にぶつかる。そこで本日でたらめに
うろつきまわる。



明治になると文筆で生計を立てる人がわんさか向島界隈にとぐろを巻いていたようだけど、その先鞭をつけたのは
江戸の戯作者。スカイツリーを見ながら歩いて長命寺に入り込むと、『東海道中膝栗毛』の原稿料で生計を立てた
職業作家、十返舎一九の碑があった。



弥次さん喜多さんの珍道中は人気が出たので東海道にとどまらず、讃岐の金毘羅さんを訪ねたり、安芸の宮島や、
木曽、信濃の善光寺、草津、中山道と旅してまわり、享和2年(1802)から文政5年(1822)まで21年もの間
シリーズ全12篇が書き続けられ、読まれ続けたという。1篇ごとに10両あまりの謝礼が出たので、十返舎一九は
副業を持たずに執筆で暮らした。



蜀山人こと太田南畝などは狂歌で有名とはいえ武士だから家禄で暮らして文筆はあくまで趣味であり、版元から
酒肴ぐらいは供せられても謝礼はないか、ごくわずかだったろう。蜀山人が才能を見出したとウワサの山東京伝
が、寛政3年(1791)に洒落本三部作で版元から1両の支払いを受けたのが原稿料の初めといわれているけど、
京伝は寛政の改革で手鎖の処罰を受けているし、文筆だけで暮らすには時期が早かった。



この長命寺は、3代将軍の家光が鷹狩りの途中で急な病を催し、やむをえず休んだ寺の井戸水で薬を服用したら
治ったものだから、井戸水を長命水と名づけたことに因んで長命寺と改称した。インドの水の神である弁財天を
祀っている。



そこに木の実ナナの石碑があり、「風のように踊り、花のように恋し、水のように流れる」とピンク色の文字で
刻んである。これは一体全体どういうつもりだろう。弁財天にあやかろうということかも。



長命寺の入口はどこかと回り込んだとき、裏手の桜もち「山本や」の店の前に立て札があって、正岡子規がその
2階を3か月ほど借りて「月香楼」と名づけて滞在したと書いてあった。大学予備門の学生だったというから、
ネーミングセンスは若気の至り。



花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ

という和歌をそのとき詠んだ。後年、日本新聞社の記者として日清戦争に従軍したときも隅田川と墨堤の桜を
偲んだ和歌を詠んでいる。

から山の 風すさぶなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん



その傍らの地図を見ると、このまえ来たばかりの三囲神社がもう目と鼻の先だった。堀辰雄の旧居跡も近い。
この日は東武スカイツリーラインの曳舟駅から歩いてきて、都バスに飛び乗り浅草雷門で降りてぶらぶらして
帰った。

関連記事:   墨田・向島

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