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歩くことが唯一の趣味ですから。

養源院の血天井

2021-03-13 | Weblog
あるとき、京都の国立博物館が休館日だったので、しかたなく道を渡り三十三間堂の
すぐ脇にある寺に寄った。以前この寺を訪ねたときはコロナ騒ぎで拝観できなかった
けれども、のぞいてみたら血天井でお客さんを集める気まんまん。



養源院は浅井長政の戒名で、織田信長に滅ぼされた長政の二十一回忌に長女の淀君が
菩提寺として建てさせた。淀は信長の妹の市と長政の間に生まれた娘で、豊臣秀吉の
側室となり、養源院を建てさせたが焼失した。血天井は淀の妹、江が再建させたとき
から生々しく現在まで伝わっている。



案外、奥行きのある寺だ。江は徳川の二代将軍・秀忠と再々婚して三代将軍・家光や
豊臣秀頼の妻・千姫、後水尾天皇との間に明正天皇を設ける和子などを生んだ人だが
豊臣ゆかりの寺を徳川に建てさせるのだから、なかなかすごい。



豊臣秀吉が建てた伏見城を取り壊して、その遺構を利用して建てたのが現在の養源院。
秀吉なき後、家康が伏見城をいわば乗っ取り、二千の兵を囮に残して石田三成に四万の
兵で攻めさせたのが1600年8月初め。関ヶ原で三成を滅ぼす口実づくりのようなもの。
昼夜12日に及ぶ戦の終わりに350の徳川残党が伏見城の廊下で自害した。



9月の終わりに関ヶ原の戦いが決着するまで、伏見城の廊下で自害した徳川兵の亡骸は
そこに放置されたので、板に血が染みた。江が養源院を再建するとき、その板を使って
血天井を作らせた。撮影禁止なので、600円の拝観料を払うともらえるチラシの写真を
掲げてみた。



いくら江の願いでも、豊臣ゆかりの菩提寺を徳川将軍が再建するのは世間体が悪いので
少数で立て篭り自決した徳川残党の供養のために血塗られた廊下の板をそのまま天井に
使って、徳川の菩提所という体裁にした。廊下に入るには、俵屋宗逹が描いた唐獅子の
杉戸を開けて進む。(いまは横から迂回して入る)



すると廊下の奥に白い象の絵が見える。これも俵屋宗達の作。そして天井を見上げると、
自害した徳川兵たちの形に黒々と血の絵が浮かぶ。案内の人が竹の棒の先で示しながら
ここが烏帽子、ここが顔でこれが目玉、ここが肩、このへんが腹で刀をしっかり握った
手がここ、脚がまっすぐ伸びて、逆の脚は正座かあぐらの状態が崩れて膝を曲げたまま
倒れている……などと、説明してくれる。



廊下を出るときは、さっきの杉戸の裏に俵屋宗達が描いた麒麟の絵を動かして出てくる。
(いまは横っちょに迂回して出る) 秀吉が曲者を寄せつけないために床は鶯張りだけど
元々の床板は天井に使われているわけだから、あらためて鶯張りにしたのだろう。



金の地蔵が置いてあるキンキラキンの部屋から、磁器のツボか何か盗んだ石川五右衛門が
捕えられて釜ゆでの刑にされた。そんな伏見城を彷彿とさせる、養源院の建物だった。


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